まえがきと第1章(完成!)



《まえがき》一番かがやいた日
ステージには魔物がいる。だが彼らの場合、幕が上がった瞬間にその魔物を呑みこんでしまった。客席に手を振り、最初から愛嬌をふりまくステージングは、私の演出ノートにはなかった。こんなにも早く、自分たちのそれぞれの色でステージをモノにしてしまうなんて。ホールいっぱいの空気を全部引き寄せて味方にしてしまう彼らの術は、天から与えられたもの。私がいくら羨ましがっても、手にすることができないもの。

2004年12月10日。文化会館のステージ。ミュージシャンでもない、音楽の先生でもない私が、なぜここにいるのだろう。なぜ今彼らと同じステージで踊っているのだろう。しり込みしていた日の私も、有頂天になった日の私も、絶望の中にいた私も、いえ、生まれ落ちた日からこれまでの人生のすべてが、このステージに向かっていたのだ。今までのどれ一つ欠けたとしても今日のステージは成立していない。ほら、見て見て、私の自慢の仲間たち。額から流れる汗をふこうともせず、はちきれんばかりの笑顔で堂々とステージを作り上げている。ほら、私を見て。今日の私は最高にうれしい。彼らと一緒に大きな花を咲かせている。

カーニバル。メンバーの多くは知的障害者と言われる人たちだ。障害と同時に素晴らしい才能を持って生まれた。そのことを私は知っているはずだった。彼らの才能を見せたくて、このステージを作ってきたのだから。だが、予想をはるかに越えた彼らの大きさ。私は彼らの何を知っていたと言えるのか。思い上がりに頬を打たれる。ステージの上で何度もその衝撃を味わいながらも、私は存分に楽しんだ。そして、どういうわけだろう。共に歌いながら、躍りながら、心の中で「ありがとう」しか思いつく言葉がないのだ。そう、ステージの私はまるで失語症。彼らにやっとのことで付いていっている自分を感じた。

まばゆい光の向こうから聞こえる手拍子。会場いっぱいのお客さま。あなた方がいなければ、今日の奇跡はないのだ。あなた方をお迎えする日を夢見てきた。人に見られることの喜びだけを想像して。あなた方が見たかったものと、彼らが見せているもの、そして私が見せたかったもの。拍手はそれが一つとなった確実なしるし。うれしいね。好きなことがあるって。素敵だね。ひとりひとりが輝いているって。生まれてきた意味を観客のすべてが共有した今、会場全体がこの奇跡的な瞬間に立ち会えたという共通の喜びで一つになっている。そう、それは大きなエネルギーとなって、ステージを大きく支えていた。

 結成からたった1年半で自主コンサートをやり遂げたカーニバル。もはやカーニバルを語るのに、1時間や2時間では足りない。ここに膨大な記録の山がある。関わる人すべてが笑顔になった珍しい活動の記録。そのエピソードのひとつひとつを手にとって味わっていただきたい。顔がついほころんでしまうおいしさだ。しかも、元気が出るミネラルがいっぱいときている。本物で新鮮、産地直送だから、というばかりではない。挑戦する彼らを応援しようと手繰り寄せられた、たくさんの糸。新たに人と人とがつながっていく不思議さ。そこに、とてつもなく大きな可能性を感じるからかもしれない。

誰でも、どんな職業の人でも、どの地域でも、どんな状況でも、カーニバルのメッセージは波及していく。 


第一章 カーニバル誕生
■一本の電話

 2003年4月のある日の昼下がり。私は仕事場にいた。宮崎県三股町の公文式の教室。学校の通学路に面している私の教室では、下校する子どもたちの声が教室の始まりを知らせる合図。学校帰りに教室に駆け込む生徒がたいてい一番乗りだからだ。しかしまだ静かな表通り。生徒たちが学習のために入室するには、あと小一時間ほどある。私はもう一人のスタッフと共に、今日の学習の準備をしていた。教材棚の前で一人一人の教材をセッティングしていく作業。

春といっても九州南部の4月は、もう初夏。ふつうに事務仕事をしていても汗ばむほどだ。でも冷房するには少し早い。窓を開けているだけで充分に心地よい。時折、爽やかな風が机の上を撫でていった。小さい幼児さんも高校生も一緒に机を並べて学習する公文の教室は、完全な個人別プログラム学習。ひとりひとりに合わせた教材準備が命でもある。私はこの地で、この仕事を二十年近く続けてきた。傍目には手馴れた作業に見えるかもしれない。が、学年も進度も性格も異なる子どもたちには、それぞれ異なる今日の学習課題がある。それをひとつひとつ頭に叩き込みながら教材を選択する。こちらの意識ひとつでその日の子どもが変わるから、非常に神経を使う仕事。でも、それが醍醐味でもある。

南側の窓に掛けたカーテンの隙間から、急に強い光線が差し込んできた。
「眩しい」
顔を上げた。その時、一本の電話が入った。三股町社会福祉協議会(社協)に勤務している堂領さんからだった。彼女は十数年来の友人でもある。いつも単刀直入に切り出してくる彼女。
「ねえ。相談があるの。知的障害者に歌の指導をしてくれる人を探しているの」
「えっ。どういうこと。歌の指導って」
「あのね。これって母親からの相談なの。娘さんが今、養護学校高等部の3年生なの。来年は卒業でしょ。卒業したら作業所とかへ行くじゃない。でもそれって仕事よね。母親が言うには、他の兄弟たちは仕事の他に習い事や楽しみがあるけれど、知的障害があるこの子は歌が好きでも習いにいくところがない」

確かにそうだろう。この地域にはたくさんのコーラスやバンドがある。だが、どのグループにも個性がある。美しく声をそろえたり、ハモったり、元気なパフォーマンスをしたり。一応のまとまりがあるところへ知的障害者が入っていくのは、どうなのだろう。障害の程度にもよると思うが、受け入れる方も、また入っていく側にとっても厳しいものがあるだろう。親はなおさら気を遣う。
「カラオケマイクで歌を練習していくうちに言葉も出るようになったくらいだから、好きなことをするってすごいことだと思う、だから歌う楽しみをずっと続けさせてあげたいって言うのよ。誰かいないかなあ、一緒に歌ってくれるだけでもいいのよ」
彼女の話を聞きながら、つい2ヶ月程前のことを思い出していた。

2月の寒い日曜日だった。いつ建てられたのだろうか、古い社協の建物。その二階の和室を彼女に誘われて訪れたのだった。彼女は社協に勤務するずっと前からボランティア活動をしていた。それぞれの活動で常に中心的な存在。企画力と行動力に長けた人である。その人が社協に入った。機動力が買われての抜擢だろうと私は推測していた。ボランティアを必要としている人と何か役に立ちたいという人の橋渡しとしての役割を、社協が本格的にしていこうとしている。ボランティア・コーディネーターとして動き始めた彼女がとても眩しく感じられた。私がこの日行くことで何か彼女の役に立てば、くらいの気持ちだった。

広い部屋に円筒形のストーブが一つ、ポカポカしていた。そこには高校生や主婦が十数人集まっていた。みんなボランティアをしている人、もしくはこれからやりたいと思っている人たちらしい。何せ、今日はこれからボランティア活動を立ち上げるための発足会なのだから。
「それでは始めましょうか。わたしの言うとおりに動いてください」
彼女のリードでゲームが始まった。初めて会う面々だったが堅苦しい場面はなかった。古い陰気な部屋なのに、なぜか明るい。進行が斬新で楽しいものだったからだろう。笑い声が響いた。ゲームをしているうちに、互いに自己アピールをし合っていた。よくありがちな自己紹介らしきものはなかったのに、時が進むにつれて、メンバーのことがわかってきた。驚いた。こんなにうまくコミュニケーションをとる方法があるとは。

「なぜ私に」
その言葉を私はぐっと飲み込んだ。会も終わりに近づき、終始ゲーム感覚で進んだ気軽さも手伝ったのだろう、最後にはボランティア登録をしていた。
「自分が得意なこと、できることで役に立てば。例えば音楽」
そう書いた。確かにそう書いたのだ。

堂領さんと初めて会ったのは、三股町の「ぶどうの会」という本の読み聞かせグループだ。もともとは、子どもを読書好きにすることを目的とした母親の読書会だった。立ち上げのメンバーの中に私がいた。読書の大切さや楽しさを学習したり、啓蒙したりする活動から始まった。今でこそ、読み聞かせはそれぞれの地域で盛んに行なわれている。学校や幼稚園へ母親が交代で読み聞かせのボランティアに行くこともシステム化している。だが発足当時、町内にそのような活動はなかった。堂領さんは三年めに活動メンバーとなった。彼女が入ってから会報を作成したり、幼稚園児を招待しての読み聞かせや人形劇、公民館で小さい幼児への読み聞かせの活動が始まった。まさに動く会へと発展したのだ。彼女が関われば、きっとうまくいく。そう思った。

堂領さんの話は続いた。
「母親は、知的障害のある娘さんを小さいころから外へ連れ出して、人に会うのがあなたの仕事よ、と言い続けてきたそうよ」
その話。どこかで聞いた。
「あなたも知っていると思うけど、ほらあの時」
「あっ、あの」
そのボランティア発足会に出席していた娘さんとお母さん。あの日の母娘を思い出した。はきはきと明るいお母さんと、輪をかけて場を明るくするお嬢さん。この親子は会が中盤を過ぎてから登場した。
「こんなに遅くなっちゃって、ごめんなさ~い」
大きな声で挨拶をする二人。笑いがまた広がる。気後れすることなく、すぐ打ち解けていく二人の強烈なキャラクターに羨ましささえ感じた。その場に来ている初対面の高校生たちにも、どんどん話しかけていく母親。その話の輪の中に一生懸命に入って行こうとするお嬢さん。みんなと笑い合いながら、確かそんな内容の話をしていた。「人に会うのがあなたの仕事よって、ずっと一緒に連れて歩いている」って。

「そうなの。朝倉さんていう人。すごいよね。子どもに障害があると、昔は隠したり、外へ出さなかったっていうじゃない。今もそういうことがあるのよ。でも、朝倉さんはその逆。どんどん出していこうって考え。だって隠していたら、親が死んだ後、その子は生きていくのに困るでしょ」

私は少なからず障害者に関して知識があった。大学時代に障害児教育を専攻していたからだ。それなのに障害児教育に携わることはなかった。障害者のために何か運動を起こしたこともない。公文の教室を始めた時、公文式教育が障害児の教育に大変効果があることに興味を持った。だが実際に、障害児が私の教室を訪れることはあまりなかった。過去に2回機会があったが、いずれも教室中に鳴った大きな雷の恐怖で、翌日から来られなくなってしまった。
昨年京都から転入した自閉症の男の子を受け入れ、やっと拙い指導が始まったばかり。何もしてこなかった自分にどうしても後ろめたさを抱いてしまう。後ろめたいことはだれだって話したがらない。だから堂領さんは私が障害児の教育を学んだことなど全く知らない。だが、天はお見通しだ。こうやって話が私のところへ来た。しかも、どんぴしゃり、一番に私のもとに。

「習いたい人はその娘さん一人なの」
と私は尋ねた。
「そう。今のところはね。でも誰か教えてくれる人が見つかったら、朝倉さんは他に習いたい人を探していくと思うわ」
「何人か集まるわけね」
グループの立ち上げだ。堂領さんの敷いたレールの上に私はいる。あの日、登録用紙に書き込みながら考えていた。「登録するだけはしよう。でも今は無理。山ほどもある仕事や趣味を整理しなければ、ボランティアなんてできるはずはない」と。まさかこんなにも早くその機会がやってくるなんて、予想もしていなかった。

「来年には養護学校も終わり、家と作業所との往復。作業所以外、社会に出る機会がなくなってしまう」
彼女は私にそれをどうしてくれと言っているのではない。単に相談するという形である。だが、私がするか、適任者を探すか。私はそのどちらかを選ぶ羽目になったのだ。
「来年を待っていたら遅い。今年中に準備をしてボランティアグループを立ち上げなくては。来年からはきちんと活動できるようにしたい。誰か紹介して欲しい」
堂領さんは次第に熱っぽくなり、きびきびとした口調に変わった。来年ではなぜ遅いのか、真意を訊くのも野暮な気がした。仕事の領域を越えた思いが伝わってきたからだ。
「いつまでなの」
こう訊くだけが精一杯だった。
「なるべく早く」
と予想通りの答え。訊かなければよかったと一瞬思った。

■迷い

電話を切って、窓辺へと向かった。カーテンの隙間から見える青い空には、雲がゆったり動いていた。カーテンを引きなおして、もとの仕事を続行しようとした。眩しさはなくなったものの、私は落ち着きを取り戻すことができずにいた。さっき飲み込んだ言葉を何度も繰り返していた。「なぜ私に。堂領さんはなぜ私に電話してきたのだろうか」ボランティア登録した人は他にもいたはずだ。他の人に電話していれば、もうその人が引き受けたかもしれないのに、音楽の先生でもないのに。一体誰にこの話を持っていけばいいのだろう。彼女は私にどこまでを期待しているのだろう。

「好きな音楽で役に立てば」と確かに思っている。いくら社会的に意義のあることでも、「好きでもないことを無理してやっても長続きするはずがない」とも。実にわがままな願望だ。好きなことをやったうえに、ありがとうと言ってもらえることを望んでいる。しかし、だからといって私にどんなことができるのだろう、好きな音楽で役に立つなんて。具体的なイメージは湧いてこない。

歌は好きだ、確かに。子どもの頃から人前で歌うのが好きだった。私の生まれは静岡市。実家は袋物の製造業を営んでいた。居住スペースの他に、ハンドバッグや財布を作る作業場があった。そこは、牛革だけでなく豚やワニや蜥蜴や蛇や亀の皮でいつもごった返し、独特の匂いが充満していた。父や職人さんたちの仕事を見たり会話を聞いたりするのが好きだったから、幼少の私は作業場にいることが多かった。朝から晩までラジオが流れ、音楽やドラマや落語はそのラジオから私に入ってきた。夜になると、父から作業台の上に乗せられ、よく歌わされた。80センチ程の高さでも子どもにとっては十分高く感じた。作業台の上で歌うといつもの世界ががらりと変わった。注目されることの快感があった。

物真似も大好き。美空ひばりや島倉千代子、犬、猫、はたまた楽器の音にいたるまで、声で真似してテープレコーダーに吹き込んで遊んでいた小学生時代。中学・高校・大学と混声合唱を楽しんだ。大学時代はフォーク全盛期。友だちから手ほどきを受けたギターで、弾き語りなんかを暇さえあればしていた。浅川マキ・加川良・五つの赤い風船・井上陽水。当時これが愛唱歌だった。自分で楽しむだけという程度の音楽のレベル。ギターの弾き語りなんて聞こえはいいが、数個のコードを知っているだけだ。とても一人でコンサートを開くような力量は持ち合わせていない。この程度でできることなんてたかが知れている。とても音楽を教える立場の人間ではないのだ。

教えることができるような人と親しく付き合っているわけでもない。わが子が小中学校時代にお世話になった音楽の先生の顔が浮かぶ。今どこで何をしていらっしゃるのだろう。連絡が取れたとしても、私の話に果たして耳を傾けてくださるだろうか。では他にだれが。音楽関係の知り合いの顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。頭の中で、その人たちに相談に行くシミュレーションをする。すると、一人がこう言う。「私にはできない」もう一人が言う。「いいよ。でも、あなたが手伝ってくれたらね」。想像の中でさえ、誰一人、「私に任せなさい」とは言ってくれない。その人たちも私と同様に、たくさんの仕事を抱えているからだ。軽率にボランティア登録をしてしまったことを、私は後悔し始めていた。

引き受ければいいではないか。いや、だめだ。私の指導がでたらめだったら、その子が楽しんでくれなかったら、伸びなかったら、私のせいになる。指導の違いで雲泥の差がつくと言われる芸術教育の世界だ。ちょっと関わってダメだった時、「ごめんなさい、できません」では、却って迷惑がかかる。次に引き受けてくれる人が簡単に見つかるだろうか。もし見つかったとしても、その人はやりにくくなるかもしれない。後任は難しいのものと聞く。悪い指導によって付着してしまった癖を取り除くところから始めないといけないから。

それにもし自分が引き受けたとしたら、自分の時間のどこかを削らなくてはならない。先ずは私の仕事。月曜日と木曜日の週二日は仕事の日だ。教室日以外にも教室経営のための雑多な仕事がある。水曜日には公文の研修も入る。最低限、仕事の時間は確保しなければならない。それに私の趣味。自慢する必要は無いのだが、多趣味の私。数年前から始めた油絵、この教室が月に2回、水曜日の夜にある。その他、市の美術展に出品する大きな作品を年に一枚仕上げることを自分に課している。それから音楽だ。カラオケでは、他人が歌えるのに自分が歌えないのが口惜しい、かなりの負けず嫌い。若ぶっているとどんなに非難されても、女子高生が歌うような歌を歌いたい。こだわりがエスカレートした結果、カラオケでは満足できなくなり、オリジナル曲作りをしている。そのための作詞、CD作り。どれも削りたくないものだ。パソコンもやりだすと夢中になってしまうから、気がつくと朝だったなんてこともざらにある。一日が二十四時間しかないことに不満を抱えて生きている。こんな生活のどこをどう調整したらいいのだろうか。

断ればいいではないか。何も無理をしてやることではない。嫌々やることでは絶対にない。だが、堂領さんの力にはなりたい。それにあの朝倉親子だ。天真爛漫にそして健気に生きている。あの親子の切実な願いに比べて、私はどうだろうか。趣味を通り越した道楽の領域。音楽三昧の、実に贅沢な暮らしを謳歌している。この世は不公平だ。知的障害者は安心して歌うところもないというのに。せっかく私のところへ来た話。断れば、障害者のために何もしてこなかった後ろめたさを、またずっと引きずらなくてはならない。ああ、せめて適任者を探すことができれば、私は無罪放免なのに。こんなことを考えることもないのに。

私のマイナス思考は果てしなく続くように思えた。引き受けた時の失敗だけしか想像できなかった。想像の世界の私は暗く、もうこれ以上のダメージはないというほど疲れきっていた。

ああ、もう考えまい。仕事に集中するのだ。運よく子どもたちの声が玄関に響いた。私は急に背負わされた重荷を忘れるために、仕事の中へと没頭していった。


■決意
数日間考えつづけた。それでも音楽関係の知り合いに声を掛けることはしなかった。「あなたはどうなの」と言われることもつらかった。その人はどう思うだろう。自分にできないことをたらい回しにされた気がするのではないだろうか。「あなたが手伝ってくれたらね」と言われたらどうしよう。手伝う内容が自分に向いていないことだったらやりたくないのだ。実にわがままな自分が頭をもたげる。私はどうしようもなくわがままで嫌な人間だ。電話をかける勇気すらないのだ。

もう断ろうと思った。断ろうと思うと今度は胸が苦しくなった。なぜこんなに後を引くのだろう。何が私を支配してしまったのだろう。すべてのマイナス面をあげ尽くしてしまうと、正反対の意見が心の中にふつふつと沸いてくるのだ。そう、それは今まで楽しく生きてきた原動力ともいえる、私の中のプラス思考クン。今までの人生を共に歩いてきた大親友。あれほどマイナスの材料しかなかった私の中に、彼はどこをどう探すのか、プラスの材料を見つけてきて私の鼻先につきつけるのだ。

君はボイス・トレーニングができるじゃないか。これは大学の合唱団で身につけたよね。あの子の発声にきっと役に立つよ。それに君はカラオケで若い子が好きな歌をたくさん歌えるじゃないか。若い子が相手だよ。これは絶対に武器になる。それに通信カラオケ器だって持っている。何かの時に役に立つさ。
そうだ、君の公文の教室。ここを練習場にすればいい。別な所を借りれば、鍵を取りに行くだけでも大変だよ。これなら楽勝だね。ただ待っていればいいのだから。
今、君がハマっている趣味があるね。オリジナル曲作りさ。もし人数が増えてさ、歌う曲に困ったらオリジナルを作ればいいよ。君が作った歌が世に出るんだよ。そうなったら君は作詞家デビューだね。そうだよ、たくさんの趣味を活かす絶好のチャンスだよ。音楽だってパソコンだって、生きた使い方がこれからできるじゃないか。
一番大事なこと。君は障害児の指導について知識があるよね。誰よりも適しているのかもしれないよ。だって前から君は出会いを待っていたんじゃないかね。
ついでに言うとね、若くない。おっと失礼。でもそんなに年じゃない。これもプラスの要因だよ。今までの経験やネットワークを十分に活用できる年代だってこと。ベストエイジさ。
音楽の肩書きがないことを気にしているね。でも君がプロでなくてよかったよ。プロだったら失敗を恐れて余計に悩んだかもしれないよ。君はそれだけでも気が楽だよ。肩の力を抜いてやればいいさ。
それにさ、音楽に自信がないってのも謙虚でいいよ。君にはカラオケや歌を作ることを通して知り合った人たちがいるじゃないか。その人たちがきっと力を貸してくれるはずさ。君は今まで、その人たちといい関係を結んできたはずだよ。

プラスの材料がこうも並ぶと、やってみたい気持ちが起こってきた。頑なに拒んでいたものが自然にほどけていくような感覚。自信というのは、自分を信じること。だから自分をほめることが自信につながる。プラス思考クンは私をここまで褒めちぎってくれた。

だが、私をいくらおだてあげても、とても一人で全部を抱え込むなんてできないことは確かだ。だったら、障害児について少しでも知識のある私が引き受けて、できない部分を誰かにサポートしてもらう形が一番いいのではないかと思うようになった。だが、それでも即答はできない。母娘の切実な思いを考えたら、いったん引き受ければ、後戻りはできないからだ。

何度も考えを洗いなおしては、組みなおした。「できる」と思った。だが最後に一つだけどうしても引っかかるものがあった。それは「売名行為」という言葉。ああ、なんと嫌な言葉だろう。一生懸命やっているのに「あの人は商売目的でやっているのよ」とか「自分が世間に良く思われたいだけよ」なんて言われたら。今までに私はそんなことを誰かから面と向かって言われたことなどない。でもなぜかそれを感じてしまう時がある。もしかしたらボランティアを一生懸命にやっている誰かに対して、私自身がそう思っているのだろうか。いや、そんな筈はない。でもなぜか、営利目的と思われるのではないかという不安が、時々私の言動を狭めてきた。やりたいこと、言いたいことを言う前につい周囲を見てしまうことだってあった。そんな卑屈な私といつも向き合ってきた。悪いことをするわけでもないのに、なぜ私はそんなふうに考えてしまうのだろう。
それは誰のせいでもない。自分のやましさの裏返し。何処かやましいところがあるから、そう感じてしまうのだ。人は霞を食べて生きているのではない。商売をやっていればお客様に来てほしい。自分の商材が売れるように願う。神様仏様でないかぎり、生きて生活している以上、どうしてもつきまとうやましさ。実際は、一生懸命やれば誰もそんなことを言う人はいない。自分のやってきた内容や、やり方によって売名行為かどうかは判断される。とにかく全身全霊で誠意を持って当たればいいのだ。やましさなんて消えていくだろう。やましさは自分の中に自分で作った敵なのだから。
警戒していた最後の砦が音もなく崩れて、残骸さえ消えていった。それはものの見事に。

数日後、意を決して堂領さんに了解の電話を入れた。その夜、朝倉さんから電話があった。怖る怖るかけてこられたのだろう、緊張で声が震えていた。「本当にいいのですか」「ありがとうございます」を何度も繰り返していた。こちらが胸が詰まるほどの感動の声、電話に向かって頭を下げている姿が私には見えた。こんな自己中心的な考えで決心をしたいきさつを、この人は知る由もない。只々障害のあるわが子に歌を教えてくれるというボランティア精神にあふれた電話の相手に向かって感謝しているのだ。私は、この人の想像とは全く別の人間だと心で叫んでいた。そしてこの時、サポートする側に立っている自分を感じていた。

しかし、後でこれは大きな間違いであったことに気づかされる。朝倉啓子さんと、お嬢さんの緑さん。この母娘との出会いは、私に大きな恵を与えてくれることになったのだ。

《準備》
6月から歌の会は始まる。会の名称は?場所は?時間は?何の歌を?どのようにして?
やると決めたら、次から次へと決めていくことだらけだ。何をやってもいい代わりに、全てを私一人に任されている。1ヶ月の間に準備を整えなければならない。
会の名称をどうするか、イメージさえ浮かばない。これは後回し。場所は、もちろん私の教室だ。月に2回、第2・第4水曜日の夜7時半から2時間程度。月2回のペースなら、今までの私の活動の何かを犠牲にすることもない。ただ新しいことにチャレンジするには始動エネルギーが必要だ。

初めてのたった一人の歌の生徒となる緑さんと母親は、きっと不安を抱えて来るだろう。指導する人はどんな人だろう。楽しく続くような内容だろうか、と。初日は絶対にこの親子の心を掴まなくてはならない。一組の親子と私だけでは、煮詰まってしまう日が遠からず来る。それを回避するためにも新たなメンバーを呼び込みたい。だが、そのためには最初の一人が楽しくなければならない。
アイデアを捻り出す作業が続く。寝ても醒めても続く。

一番の重要課題は選曲だ。何の歌でも良いという訳にはいかない。緑さんも私も一緒に楽しめる歌を探す。緑さん、確か「SPEEDが好きだ」って言ってた。SPEEDを歌うことにしようかなあ。
そうしているうちに、男性2名、女性2名が集まるという連絡が入ってきた。朝倉親子と私だけではないのだ。最初から仲間がいるといないでは、会の雰囲気が全く違ってくる。よかった。そうなると、曲探しのアンテナが急に忙しく動き始めた。男性も女性も楽しめる歌を選ばなければならない。う~ん。彼らはいつもどんな曲を聴いているのだろう?

6月の声を聞くと、持っているCDを片っ端からかける日が続いた。なかなか これは!と思える曲がない。それでもとりあえず4曲をチョイス。
.さねよしいさこ「マルコじいさん」
.たま「ロシアのパン」
.りんけんばんど「チェリン」
.THE BOOM「風になりたい」
これらを聴いてもらって反応を見よう。何の歌が歌いたいか訊くのもいいかもしれないし、オリジナルを作るという手もある。

あとは、オープニングで身体を動かす曲。これは迷わず、平松愛理の「マイ・セレナーデ」を選んだ。文句なしに受け入れられる自信があった。華やかで躍動感に満ちていて、ついつい身体を動かさずにはいられなくなる。しかも、何度聴いても飽きがこない曲だからだ。
発声練習の方法やメニューは、慣れるまではなるべく同じ内容を繰り返すようにしたい。そして、その日に気づかせたいテーマを持とう。少しずつスキルアップするためだ。同じメニューだが毎回テーマを変えて練習に臨みたい。日替わりのテーマ。私はいくつ見つけることができるだろうか。まだ見ぬ彼らを想像しながら、わかりやすいキーワードを探っていく。楽しいような苦しいような作業だ。
しかし、しかし…初日に一番大切なのは、「また来たい!」と思ってもらえるかどうかだ。

「一度走り出したら絶対に後ろは見ない。目の前にある、やらなければならないことを一つずつ解決していくだけ。それが多ければ多いほど、落ち着いて行け。平常心を保て」と自分に言い聞かせる。自分を見失わないためにも、私の心、活動の様子、思ったことを全部拾って記録として残していこう。小さいことを一つずつ解決していくことが重要なのだ。



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