第4章-2 (完成!)


■衣装デザイン

平松愛理と言えば、「部屋とYシャツとわたし」という大ヒット曲がある。カーニバルのエクササイズで第1回からずっと使っている「マイ・セレナーデ」という彼女の曲も、何度聞いても飽きが来ない私の大好きな曲だ。だから練習も楽しい。曲の躍動感にも驚くが、歌詞を注意して聴くと、「えっ?そういう歌だったの」と二度びっくりする。今まで散々遊びの恋をしてきた女性が、不器用で純粋な青年と出会って、初めて本当の恋をする。とても大人びた歌詞で、彼らとのミス・マッチがまたユーモラス。

第3ステージのオープニングはこの曲に合わせて踊って登場する予定だ。第2ステージの静けさから、一転して華やかなステージにしたい。しかし、コンサートを決めた2月から、私はこの曲の振り付けにずっと困っていた。一人で踊るのではない。サポートメンバー合わせて15人。見ていても飽きないように振り付けしたいからだ。もう5月。ダンスの得意な友人に相談した。踊りっぱなしというのは、4分53秒のこの曲ではつらい。二人で話したり、実際に動いたりして、グループに分けること、ストーリーを入れることを考えついた。

初めは、女性が二人ずつ出会って握手して客席に向かって礼をする。次は男性、そして全員で前に行ったり後ろに行ったりして、フィナーレで中央に集まる。こんな簡単な振り付けだ。彼らがやってみると、実に個性が出る。同じ握手、同じ礼の動作でもひとりひとり違うのだ。速さやタイミングのズレがとても面白い。毎回少しずつ振り付けを完成させていったので、長くかかったが秋にはやっとみんなが覚えてくれた…ように見えた。

長くかかったことでよかったこともある。そのころになると、ミニ・コンサートで貞雄君や広大君がダンスを披露することが多くなり、彼らのダンス・ソロを取り入れる案が浮かんだこと。これは見せ場になる。ソロは彼らのまったくのオリジナル・ダンス。私が考えたものとは比べ物にならない自然な躍動感に満ちている。彼らのダンスはみんなから大喝采で褒められることで、回を重ねる毎に上達していった。一番頭の痛かった演目が、自信作へと変化していった。あとは、このダンスからの第3ステージでの衣装。誰にどうやって作ってもらうか。

浩臣さんがカーニバルに参加を始めた3月下旬から、浩臣さんのお父さんが練習風景をDVDで撮影してくれるようになった。記録を残すことは大切だからと、自主的に取り組んでくださった。三股町で歯科医院を開業している板谷麻生さん。撮っていただいた映像は練習の後、その都度見せていただき、板谷さん宅で観る大画面いっぱいあふれる笑顔に元気をもらった。それに、これから作ろうとしているデータの素材は、ほとんど板谷さんの撮影によるもの。これがなかったら、素材そのものが貧弱なものになっていただろう。
もともと、板谷さんと私は知り合いだった。数年前CAP(子どもへの虐待防止プログラム)の活動を一緒にしていた。板谷さんは、これまで権利に関する活動を経験されてきたこともあり、カーニバルの活動にどういうものが必要なのかをよく心得ている方。企業や団体の助成金情報を初めとして、常に新しい情報をカーニバルに提供してくれる。
この父子だけでもスゴイのに、浩臣さんのお母さん、板谷なおみさんが、またスゴイ。この三股町に「なおみコレクション」というデザインソースがある。デザインを見たら、ああこの和柄!とよく見るその柄。その絵柄を描かれるデザイナーさんなのだ。デザイナーというと、こちらが気構えてしまいがちだが、なおみさんはとても気さくな人。パソコンの音楽ソフトやフォトショップの達人でもある。曲作りのため板谷家を毎日のように訪れていた頃、第3ステージの衣装の布地をなおみさんが提供してくださることになった。家族みんなで応援してくれる何とも頼れる一家である。だが、うれしい反面、この世界的に有名な布地を無駄にはできないプレッシャーが、だんだん私に襲いかかってきていた。この布地を衣装にしてくれる人が見つからないのだ。

「うまく行ってる?」
行きつけの美容室JOYのママ、紘子さんとの話題もいつもカーニバルだ。紘子さんはカーニバルが発足した時から今までの経緯をすべて知っている。
「ステージ衣装がまだ出来てないのよ」
「あら、縫う人なんていくらでもいるでしょう?」
「デザインから考えないといけないから、ちょっと縫えるくらいじゃダメなのよ。いろんな人に聞いたけれど、この人にという名前はまだあがってこないのよ」

私は「心に描いた夢は必ず実現する」という言葉が好きで、教室にも貼紙がしてある。実際にそんな経験をたくさんしてきた。特に、カーニバルの活動ではほとんど描いた通りに、ちょうどの助けをもらいながら、夢を叶えてきている。だからステージ衣装を作る人も、もうすぐそこにいるような気がしてならなかった。
「あら、いるわよ。私のカラオケの先生のスタイリストさんがデザイナーよ。聞いてみてあげる。今モンゴルじゃないかしら。忙しい人だから、やってくれるかどうかはわからないけど」
そんな世界を飛び回っている方なんて、忙し過ぎて無理じゃないかしらとその時思った。

それから1週間後の夜。自宅にいた私の携帯が鳴った。紘子さんだ。
「今すぐ来て。デザイナーの先生が話を聞きますって」
「やった!」夜の十時を過ぎていた。「広報みまた」とプログラムの原稿をバッグに突っ込んで車を走らせた。デザイナーさんの家は、都城市の有名なカラオケ教室の隣の家だというからすぐにわかった。白いガラス格子のドアを開けると、紘子さんとデザイナーの笠野寿子さんがにこやかな顔で迎えてくれた。そこは工房だった。色とりどりの華やかなドレスが出来上がって掛かっていた。
いただいた名刺には、「オーダーメードKASANO」とある。紘子さんが大体の説明をしてくれていたので、笠野さんは会うなり
「すごいことですねえ」
と言ってくださった。早速衣装の話に。黒のTシャツに、なおみコレクションさんの布地をデザインして貼り付けたいということをお話したら、
「いいでしょう。ただ、色が問題です。彼らには黄色か黄緑色が似合うと思います」
ときっぱり言われた。
「布とTシャツの用意ができたらすぐ持ってきてください。デザインしましょう。仮止めはしますが、縫うのはお母さんたちにしてもらってください」
そのうえ、一人ずつに合わせないと意味がないので、ひとりひとりの体型や性格、顔、ビデオや使う音楽、参考になるものを持ってくるようにと。これはすごいことになった。プロはいつでも本気の構えなのだ。話をしているうちに、笠野さんはなんとディズニー・シーのコスチュームを半数以上手がけたというすごい経歴の方だということがわかった。ステージ衣装のプロ!私はまたもや何にも知らずに、こんな方に巡り会ってしまったのだ。これは東京や大阪での出来事ではない。九州の片田舎の町。こういう人がいるなんて、誰が想像できただろうか。なおみコレクションの布地と笠野さんのデザイン。二人のプロのコラボレーション。夢のような展開に何度もほっぺたを叩いてみた。


■ 演劇との出会い

司会進行及び第2ステージのナレーションは、同じ人にお願いしたい。私はコンサートをすることを決めた時から、この司会兼ナレーションの人を探していた。音楽が好きで、カーニバルのイメージと合う人。声のよくとおる人。若い女性がいい。イメージ通りの人はなかなか候補に上がってこなかった。
6月。図書館に向かおうとしていた私は、エントランスホール中央にある大きな垂れ幕状の文化会館催事案内に目がとまった。「青春、とか」…とか?このタイトルに惹かれた。「劇団こふく劇場」という都城市の劇団が演じる演劇らしい。えっ?今日じゃないか。そのまま家に帰った。夕刻になって、やはり気になるタイトル。それで文化会館に電話した。
「まだチケットありますか」

その1時間後、私は文化会館のステージに並べられたパイプ椅子にすわっていた。そう、ステージ。なんと、ステージが客席で、どうやら客席側につくられた台がステージらしい。ひょっとして観客が何かやらされるのでは。薄暗いステージの向こう。レコード・プレイヤーにスポットが当たっている。これが主役なのかしら。昔聴いた歌が懐かしい音色で流れている。後方の座席には昭和40年代だろうか。時代の雰囲気を醸し出す衣服やLPのジャケットなどが置かれていた。会場に入った時からすでに芝居へのアプローチが始まっているのだ。なにが起こるのだろうという期待感が急速に高まる。
いきなり、最上階の手すりの向こうに女子高校生姿の数人が走る。そして元気のいい声で「インモー!」と叫ぶ。いきなりそう来た。これは詩なのか語りなのか。それにしても、あの最上階がファーストステージになるなんて。こうして私は演出家永山智行さんの仕掛けにまんまと引っ掛かり、こふく劇場の独特の雰囲気に呑まれていった。照明づかい、音楽づかい、ステージのプロの技を見せてもらい、知らないでは損するなあ、とステージの奥の深さをほんの少し覗いた気がした。それだけではなかった。耳に残る役者さんたちの元気な声。言葉のひとつひとつに魂を込めたせりふ。役者さんの手にかかると、言葉は力を持って私の胸に迫ってくる。それは芝居の空間から出てもしばらく続いた。そうだ。私が求めているのは、司会に馴れた人ではなく、こういう言葉を大切に伝えようとする人だ、と気づかされた。

その後、私はこふく劇場の稽古場や文化会館でのリハーサルを見学させていただきながら、ステージのイメージをふくらませていった。目の前の劇はカルチャーショックを感じるほど、カーニバルのものとは掛け離れていた。だが、何かを表現する、ということでは寸分も違いは無い。私はこういうプロにならなければならないのだ、と自分に言い聞かせていた。そして9月からは、実際に芝居のせりふを書くための戯曲講座にも参加。永山さんから直接指導を受けることになった。その間に首尾よく団員の上元千春さんをゲット。カーニバルのコンサートの司会と第2ステージ映像の中でのナレーションをお願いした。

千春さんに初めて会ったのは、前出の芝居「青春、とか」。この中で、千春さんは岩崎宏美の「思秋期」を歌っていた。あの思秋期には魅了された。確かに歌には違いないが、芝居が半分入っていた。言葉を大切に大切にした、語りのような歌。2度目は、稽古場を初めて見学した時のこと。私を笑顔で迎えてくださった。
「お待ちしていました。どうぞ」
はきはきと、それでいて優しい印象。その日の稽古場は、8月の「少女仮面」(唐十郎/作)の公演を控え、緊張感のある空間となっていた。合図一つで千春さんは芝居の中に入っていく。今回は少女カエの役に取り組んでいるほか、挿入歌の作曲なども担当されている。カーニバルとの共通点は音楽が好きなこと。そして何より笑顔が素敵な役者さんだ。ステージの端に千春さんが笑顔で立っている姿が想像できた。

レコーディングが終わると、歌が急にまとまりだした。声も大きくなったような気がする。歌手だって、レコーディングを経て上達する。カーニバルのメンバーだって同じこと。このまま楽しさだけを追求していけば、ステージは間違いなく楽しくなる。それはデビューの時、実証済みだ。そして、その声がパワフルになっていれば、もっとすごい。
コンサートに向かって練習しているのは事実なのだが、それほどプレッシャーがないのも事実。練習日に集まること、みんなが楽しく会話すること、好きな歌が歌えること。それだけでもメンバーは喜んでいるように見える。だが、発表をするという目的があったからこそ、どんどん曲ができたのだ。もし、コンサートをすると決めなかったら、曲ができる喜び、みんなが関わる喜びがなかったかもしれない。それを考えると、笑顔を守ることは簡単なことではないと思ったりもする。
「あなたが教えてくれたもの」を練習する時には、感受性の強い広大君が感極まって必ず泣く。抱きつく相手はいつも違うのだが、その度にいい仲間だなあと感じる。拓也君は自分の出番を忘れることはない。いつも成功する。康子さんの「雪の降る町を」のソロも童謡まつりの時よりずっと進歩している。もう音を外さないのだ。私が何の心配もしていないのが証拠。そして、弘樹君。他のみんなが練習中も本に没頭していたり、うろうろと探索していたりする弘樹君も。自分の曲である「サイクリング」のイントロがかかると、マイクを受け取りにどこからでもすっ飛んで来るようになった。準備に忙しい中で、変化を楽しむ余裕が私にあるのは、きっと彼ら独特のユッタリズムのせいなのだろうと思う。練習で一度もカリカリしたことはない。私にとって彼らは、強烈な個性を持った役者のように見えてきた。「やってください、演じてください。あなたはあなたという役を」

第2ステージの構成ができたのが9月。カーニバル側の録音が済んで、すぐの10月。ナレーションの録音に入った。浩臣さんが編集作業をいつでもできるように、レコーディング器材は浩臣さんの自宅に置いてあった。だから千春さんにも板谷家に来ていただいた。練習と確認の後すぐに録音が始まった。千春さんは疑問が起こるとすぐにイントネーション辞典で調べて、万全を期してくださった。こうしてナレーションの吹込みが終了し、データが全部録り揃った。このデータはもちろん、映像編集の関先生に手渡すものだ。
全体の司会のナレーション原稿を少しずつ考えては練習に取り入れながら、コンサートの雰囲気を出していった。それをまた、フィードバックしてナレーションが固まるように。ダンス曲にした「マイ・セレナーデ」もずいぶん楽しく動きがしっかりしてきた。朝倉さんから「ステージでの練習が楽しみ~!」と言われるまでになった。もう10月末。11月からは文化会館でのリハーサルが3回入る。そして本番を迎えるのだ。


■データ準備

 すべてのデザインの中で一番早くしなくてはいけないのがチラシだ。チラシに入れる情報データを土井さんに送ると、おおすじのデザインはすぐに出来上がった。色をふんだんに使い、楽しいカーニバルらしいデザインだ。その頃になると、お母さんたちの働きかけで、コンサートを後援していただく団体が34団体も集まった。その団体名をすべて掲載する。協力をもらいながらコンサートをアピールしていくことが大切なのだということを、活動しながら学んでいくお母さんたち。一枚のチラシの中に見えない努力がぎっしり詰まっている。
土井さんは予算内でやりくりすることに燃える人でもある。カーニバルにとっては救世主。安く上げるための印刷業者もインターネットで探してくれた。チラシは1000枚で1万円という大阪の業者に依頼することになった。デザインはこちらで全部すませてあるからこの値段でできるのだ。紙の選び方や発注の仕方などもさすがプロだ。彼女のこの技術がカーニバルを力強く支えている。

チラシは1週間で届いた。さっそく包装紙をとりのぞいた。「うわ~!」私は声を上げた。デザイン原稿は確かに素敵なものだった。だが、この完成品はもっとすごい。色がより鮮明になり、ひとつひとつの絵柄がいきいきと飛び出してくる。このチラシをもらってわくわくしない人などいないだろう。捨てる人もいないだろう。チラシの出来上がりにはみんなが喜んだ。土井さんは天才だと。この1枚を見ただけで、私たちの思い、力の入れようが伝わってくる。これは1枚たりとも無駄にはできない。一つずつのデータはデザイナーの手にかかると、このような力を持った作品となるのだ。
ポスターまでは予算がなかった。すると、なおみさんが仕事専用の大きな印刷機でこのチラシを拡大してポスターにしてくださった。ポスター状のものを印刷するためには、拡大した時に出る汚れを取り去る細かい作業が数時間も必要だったと聞く。いいデザインだからやりがいがあると言って大量に作ってくださった。大きくするとまた素晴らしい。みんながこのデザインを気に入って、あちこちに貼るために喜んで走り回った。

すべての録音と編集の作業が浩臣さんの手で完了し、CDを作る業者への発注が土井さんの手で完了すると、第2ステージの映像を編集してくださる関先生へデータを手渡すための準備にとりかかった。こちらは今、音のデータが集まっただけ。これから視覚的なデータを整理する。
関先生はアニメーションもできるとのこと。最初の画面はメンバーの顔写真に手足をつけたかわいいイラストを土井さんに描いてもらい、それを関先生に動かしてもらう。考えただけでもワクワクする。土井さんは、またもやあっという間に仕上げてしまった。すべてのメンバーに担当の楽器を持たせるという、力の入れようだ。これはプログラムの表紙を飾ることにもなった。緑さんの「カーニバルの仲間たち」の絵も、広大君の「力いっぱいがんばります」の文字もできた。

映像をどうするか。映像は、毎回練習日の板谷さんの撮影でたくさんの量にふくれあがっている。この中からどのような映像を選ぶのか、メンバーを知らない関先生がすぐに取り出せる状態にしたい。一番よくわかっている私がチェックするだけでも、途方もない時間がかかるように思えた。このまま関先生に渡したら先生が大変なことになる。かといって、どうしたらいいのか。
ある時ダビングしたVTRを板谷さんから受け取った。板谷さんはその時、映像をチェックしたものを付けてくれた。VTRの内容が時系列でくわしくつかめるようになっていた。「これだ!」それから毎日少しの時間を見つけては映像チェック表を作っていった。これは便利だ。どこにどの映像があるか、表さえ見ればすぐに取り出せる。始めてしまえば難なく事は運んだ。

次に絵コンテの順にデータ準備表を作った。音、絵、テロップ……。本当に細かい作業だが、関先生の助手にでもなったような気分で楽しく進んだ。関先生は一人で作業されるのだ。私が付いているわけにはいかない。「はい、そのデータはこちらにございます。CD-RのX番目に入っているデータです。ここは映像だけで、音は入りません。そこはデザインお任せします」順番どおりに組み立てると、私の頭の中で、第2ステージが鮮明な画像と音声で動いていた。もう少し、あと少しだ。いつしかひんやりする季節へと移っていた。パソコンの前で毛布にくるまりながらの半徹夜が続いた。そして、CD-R・DVD・VTRその他、雑多なデータにチェック表と準備表を添えて関先生に託した。土井さんも同行してくれた。横殴りの大雨の日だったが、晴れ晴れとした気分だった。

■団体・企業・マスコミの応援

コンサートに関係機関や団体から後援をもらうということを、私たちは今回初めて取り組むことになった。カーニバルは知名度も何もない団体。後援取りをすることによる宣伝効果は大きいと考えた。これは朝倉さんの決断と実行力が発揮された。コンサートがまだ見えていない6月の段階からその準備は始まった。
文書を持ってお願いに行くために、先ずは文書作り。こういうことも全くはじめてのこと。役場の方に手取り足取り教えていただいて、というかほとんど作っていただいて、完成。都城市と北諸県郡の各町の首長宛、各教育委員会、各社会福祉協議会、知的障害者の各育成会や報道関係にお願いに回る段取りが朝倉さんたち保護者の会で進められた。
この名義後援をとっていく中でお母さんたちが気づいたことは、担当者や窓口の方の対応の仕方で、障害者に対する関心度が大体わかること。そして回ることで、もうすでに広告宣伝の効果が出ていること。しかも、たくさんの後援をとりつけたことで、さらに宣伝に相乗効果をもたらしたこと。たくさんの方々に会ってお願いをしていく。この行為自体が、障害者の明日を切り開いていくことにつながる、ということだった。頭で動くのではなく、動いてから考える。動きながら考える。これは私もお母さんたちも、やり方は一緒だったようだ。動くということは頭を活性化する。どうやって行く、誰と組む、連絡の仕方、集合、そういうひとつひとつのことをやっていく中で、団結が強くなっていった。それに、早い時期から始めたことは正解だった。たくさんの機関や団体に申請書を出したために、返事をもらい、全部が集約できるまでに思いのほか時間がかかったからだ。

何かを人に頼む、お願いする、ということはとてもいやなものだ。それがお金を出してもらうのであれば、なおさらだ。コンサートをするにあたって足りない資金を、プログラムに掲載する企業の広告料でまかなうことにした。保護者にとって頭の痛い仕事が増えた。「障害のある子がいることで、ただでさえ頭を下げることも多いのに、また協力をお願いするなんて」という声もあったという。朝倉さんがすべて取り仕切ってくれている。30件ほどの広告が取れれば、不足分ちょうどの十万円を集めることができる。実際に動いてみると、気持ちよく協力してくれる企業や店舗も多く、すぐに広告は集まった。それには、動いたお母さんたちがびっくりした。「案ずるより産むが易しだね~」と。ただ、掲載するデザインのために、広告主のところへ何度も足を運ぶ必要があった。1文字でも間違えたら、「失礼」ではすまされない。だから何度もデザインを見直し、土井さんが手を加え、更新したデザインをチェックしと気をつかう作業が繰り返された。そのうえ広告主に、お礼にと差し上げるチケットもない。予算ぎりぎりなのだ。失礼も詫びなくてはならない。

カーニバルの最初の取材は三股町の広報だった。丁寧な取材と記事内容であったことから、丁寧でない取材はもちろんのこと、扱われ方を考えずに闇雲に取材を受け入れるのはやめようと思っていた。自主コンサートでカーニバルを表現する前に、変な色づけをしてもらいたくないのだ。報道記事のようにただ事実だけを記述したものであっても、文章は書く人の考え方や感じ方をそのまま伝える。どんなに取材を丁寧にして作り上げたテレビ番組でも、総合司会者の余計なひと言でぶち壊しになることだってある。カーニバルが他人の言葉でどのように伝わってしまうか、私は非常に過敏になっていた。だが、自主コンサートに向けて宣伝はしてほしい。非常にわがままな私がいる。仕方がない。私は何としてでも、彼らの笑顔を守るのだ。

都城ケーブルテレビは、「ピッキーちゃんねる」という番組表(冊子)を毎月発行している。8月号で自主コンサートの情報を大きく掲載してくれた。この時も
「簡単に済みますから取材させてください」
と言われるのを、
「簡単に済ませられる活動内容ではないので、時間を取ってくださるなら話してもいいです」
と私は言った。取材の棚田さんは、びっくりされたそうだが、2時間ほど私の話を聞いて納得され、記事枠を通常の2倍に拡大してくれた。

8月に宮崎日日新聞社の足立さんの取材を受け入れることにした。足立さんは、これが単なる新聞記事なのだろうかと思うほど、丁寧な取材をされた。2回の見学取材プラス聞き取り取材。その上、こちらのコンサート日に合わせてタイムリーに記事を掲載してくれた。記事内容やニュアンスにも全く違和感が感じられなかった。掲載される前にはもう一度、カーニバルの練習を見に来てくださった。次から次へと仕事を回転させていかなくてはならない忙しい業界なのに、心ある方だなあと感心した。「どこの社」であるか、「何の媒体」なのかも大切だけれど、結局は取材する「人」だなあと私は思う。

■お母さんたちの底力

秋口からお母さんたちの動きが一気に加速した。チラシはすでに各学校に回っていた。11月からチケットを販売する予定だったが、それでは遅いのではという心配もあり、10月初めにチケットの印刷を早めた。薄いピンク地に一色刷り、これも土井さんの手作りだ。そしていよいよチケット販売が始まった。チラシでの予告やポスター貼りながらの宣伝効果で、販売が始まって1週間というところで、もうチケットがなくなった。私が預かっていたチケットも回収されてしまった。400席よりも多めに売ることは常識だ。だが、450席売れたところで文化会館から販売にストップが掛かった。カーニバルの場合、天候云々で来ない人が少ないはずだから、多く売ると座れない人が出てくる、という理由からだ。立ち見は絶対に避けてほしいという意向が告げられた。

招待席なども準備していない。純粋に400席が完売してしまった。買ってもらうのが気の毒だとしり込みしていた保護者も初めはいたという。でも、学校回り、店舗回り。保護者のすばらしい動きによってこんなにうれしい結果となったのだ。これで本番、みんなが喜んでくれなかったら……。しかし、そんなことは絶対にありえない。ここまで出来上がっている。このチラシ、ポスター、プログラムの原稿、そしてステージの一つ一つ。どれひとつとっても、これまで本当に無から作り上げたものばかり。もうすでに感動の物語が見えている。私は自信過剰だろうか。

そんな中、
「ウォーク・バナーという広告形態がある」
この情報を土井さんが教えてくれた。15枚分を作る金額を企業に出してもらい、スタッフTシャツを作るときに、グループのデザインと共にその企業のロゴも一部に入れて制作する。企業側のイメージアップを図るという新しい広告形態。これに賛同してくれる企業が見つかれば、コンサート会場でスタッフが着るTシャツが揃えられる。
朝倉さんの決断はすごかった。
「これ、やりましょう!」
2社ほど見当をつけてすぐに走り出した。行った2社ともOKがもらえた。「ミートショップながやま」と「岡崎鶏卵」である。共に、養護学校の卒業生の就職を応援する地元企業だ。2社のすばやい決断に私たちは驚いた。早速デザインを決めた。地のTシャツの色は黒。胸にカーニバルのロゴが黄色で描かれる。袖か身頃の下に企業のロゴデザインが付く。地元企業が応援してくれることをアピールでき、私たちにとっても好都合なのだ。両社の勇断のおかげですぐに発注することができ、あっと言う間に30枚が揃った。このお揃いのTシャツを着たボランティアさんや保護者たちによって会場の雰囲気はアップする。土井さんの情報を活かした朝倉さんのパワー。カーニバルは本当に逞しくなっている。

あのレコーディングの成果の1枚のCDは、土井さんによってコピーしてくれる業者に発注していた。カーニバルのオリジナル曲4曲入ったファースト・ミニアルバムを400枚販売するつもり。業者は土井さんがインターネットで探してくれた。もちろん、格安。ジャケットのデザインやレーベルのデザインも土井さんが早く仕上げてくれていた。ジャケット印刷については、チラシを頼んだ業者にデザインデータを送って依頼した。それが教室に届いた11月。ケースへのはめ込み作業が保護者の手で行なわれた。歌詞カードは手作り、絶妙なタイミングで間に合った。手仕事をしながらレコーディングの思い出話、家族の話、各作業所の話、いろいろな話題が飛び交う。お母さんたちにメンバーの家での様子を聞いたりする時間など、これまでほとんど取れなかった。だから本当に楽しい貴重な時間。やっと仕事の要領がつかめた頃、作業は終わった。カーニバルの夢のCDが本当にこの手の中にある。そして、ジャケットには大きくカーニバル・ロゴの太陽が笑っている。「わたしの歌を聞け」と。

CDが出来上がって数日後、今度はデザイナーの笠野さんから、ステージ衣装ができたとの連絡が入る。私は嬉しさですっ飛んでいった。笠野さんは作業の最中だった。
「もう、今終わりますよ」
その仕事ぶりを見てびっくりした。速いこと速いこと。なおみさんの布地がフリルに変化して、一人ずつ違ったデザインでTシャツに待ち針で止められている。最後の一枚がすごいスピードで立体的にデザインされ、まさに今、私の目の前で終了した。プロは忙しいが、凡人の何倍もの仕事をあっという間に仕上げてしまう。だからプロなのだ。喜んでいただけたらうれしい、とまで言っていただいた。
「ひとりひとり本当に違うっちゃねえ」
「まこちね」
「やっぱウチん子はふとっちょるからやね、ここにポイントの花があいがよ」
縫い付け作業もお母さんたちの手で楽しく進んだ。ひとりひとりが違うこと、それがどんなに素晴らしいことなのか。デザインが、お母さんたちを優しく癒していた。

抱えていた沢山の仕事の山は、あちこちに分散され、ずいぶん見晴らしがよくなった。こうなると、あとはプログラムの最終確認、そして印刷。ステージの日に向かって、当日のボランティアさんや当日のタイム・スケジュールや持ち物など、後回しにしてきたことに目を向けられる。たくさんの細かいことが決定を待っている。

■ステージが引き出すもの

「世界に一つだけの歌」は、一度は発表をあきらめた曲だ。今度は第3ステージの山場となる。会場の観客と一緒になって歌うのは良しとしても、どのようにしたら他の曲に劣ることなく、盛り上がるだろうか。
ミニ・コンサートの盛り上がりは絶好調だった。この歌は、特に緑さんが歌いたがった。なんとあの長い歌詞を全部間違えずに歌っている。私にはとてもできない芸当だ。発音も以前に比べてずいぶんはっきりしてきている。緑さんは本当に歌が好きだ。家での練習を欠かさない。朝から晩まで歌っている。だからテープもCDも傷だらけだ。この情熱を何とか生ステージで見せられないか。そして、この頃になると貞雄君がカッコいい振りつけのダンスを入れるようになった。もちろんオリジナルダンスだ。広大君も手話を交えた踊りで私たちを楽しませてくれるようになっていた。そうだ。このままをステージに持っていこう。緑さんのボーカル。貞雄君のダンスソロ。広大君の手話&ボーカル。他のメンバーはバックダンサーになればいい。バックダンサーの踊りは控えめに、簡単な振り付けをする。これは楽しくなってきた。他の歌では見られない光景だ。みんなちがってみんないい。カーニバルのコンサートはこうでなくては。リハーサルの前に、私はナレーション原稿をこう書いた。
「この日を夢見て一生懸命練習してきた二人を紹介します。緑さんと広大君です。そしてメインダンサーは貞雄君!」

リハーサルは3回準備した。1回目のリハーサルの時、バックダンサーをまとめようとしていたら、純子さんが機嫌が悪くなった。私は隣の人と体が触れ合う動きがいやなのかと思っていた。それは勘違いだった。お母さんが教えてくれた。
「純子はマイクで歌いたいみたいです」
なあんだ。じゃあ緑さんと一緒にマイクを持って歌えばいい。え?ちょっと待って。あの純子さんだ。いつも練習でまともに歌おうとしない純子さんだ。ミニ・コンサートでも、まだ歌ったことがないのだ。その純子さんが400人の前でマイクを持って歌いたいと言っている!こんなことが実現するなんて、考えもしなかった。土壇場になって純子さんに火がついた。カーニバルは何が起こるかわからないなあ、とつくづく感じた。次の練習から
「この日を夢見て一生懸命練習してきた3人を紹介します。緑さん、広大君、そして純子さんです」
と言うと、純子さんが
「はあい!」
と満面の笑みを浮かべて前に出てくる光景が見られるようになった。一番いい展開だ。この曲は純子さんが言い出したのだから。


さて、ソロで一番安定していないゆかりさん。思ったとおり、彼女は緊張していた。文化会館のホールの中に入るのも、お母さんに連れられておそるおそる周囲を見ながら。ゆかりさんの手はガチガチに固まっていた。歌う時になると、緊張が解ける。以前はマイクの足が怖かった。多人数でマイクを囲んで歌うと、意外にもスタンドマイクの足が気になり歌いにくい。私は彼女とそれを共感していた。今度はたくさんのマイクを準備した。ゆかりさんは今回は専用のマイク。もとより歌が大好きで自信がある。だからのびのびと歌っている。
ここで問題はゆかりさんのキーボード演奏だ。大好きな「さとうきび畑」のメロディを弾くことになっている。だが、今まで調を時々変更して弾いていたために、混乱している。もうすでにアンサンブルを諦めて、ソロ演奏に切り替えていた。どこの調でも弾けることは素晴らしいことだが、混乱するのは困る。出だしの音にシールを貼ってなんとかリハーサルに備えた。1回目のリハーサルでは上手く弾けない、というより少しも楽しそうでない。これは困ったことになった。確かに挑戦することは美しい。実際、キーボード演奏をやると決めた時から、ゆかりさんはステージでの発表を目標に、張りのある生活をしてきた。でも彼女の頑張りが、今ステージで表現できない。次回のリハーサルでは、付き添いの二川さんも教育実習で不在となる。ピンチだ。
急遽、小山さんにコード進行を工夫してもらい、伴奏をつけてもらうことにした。アンサンブルへの切り替えだ。ゆかりさんが弾くメロディーに合わせて、小山さんに連弾のようにして伴奏してもらう。予想通り、小山さんの考えた美しいコード進行に上手くメロディが乗っている。キーボードに組み込まれたリズムマシーンでは、とうてい表現できないゆかりさんの息づかいさえ伝わってくる。よし、プログラム変更だ。キーボードアンサンブル!彼女の顔に笑みが戻った。身体の大きい小山さんに
「きゅうくつでいや」
などと笑って冗談を言うようになった。一人のステージと二人ではずいぶん緊張も違うのだろう。彼女には独唱のステージもある。彼女が生き生きと挑戦するのでなければ意味がない。

ステージで成長する。これはデビューの時、それから童謡まつりに参加した時、私は実感した。ステージは広い。それにマイクがある。お世話くださるスタッフがたくさんいる。その中で一生懸命に演奏する。それだけでずいぶん声や音がはっきりしてくるのだ。純子さんやゆかりさん初め、みんなが自分なりに自分の居場所をステージで確認している。声が観客に届くこと。これがそれぞれの大きな喜びになっている。確実に。そして、この人も。
知毅君だ。知毅君は歌ったことがない。知毅君が入ったことでカーニバルはバンドになった。その知毅君が2回目のリハーサルの時、歌った。スルドやボンゴが担当の彼は、キーボードの二川さん、ボンゴやコンガの貞雄君と共に、ずっと後ろの壇上にいる。私は前列にいるので、ふだんは彼の声を聞いたことがない。叫びも笑い声も聞いたことがない。お母さんの話では「家では声を出しますよ」とのこと。いつ、その声が聞けるのだろうと思っていた。
それは、アンコールの練習をしていた時だった。一列に並んで、会場のお客さまに礼をする。幕がおりて、もう一度幕があく。アンコール曲は「夢大きくなあれ」。一列になるため、彼は壇から降りて、偶然私の隣に来た。この曲はレコーディング以来歌っていなかったので、久し振りだ。みんなが張り切っていた。これが歌いたかったのだ、という気持ちがみんなに満ち溢れていた。サビのところを、私の隣で低い大きな声で歌う人がいる。聞きなれない声。誰だ?と思ったら、なんと知毅君だった。彼が歌っているのだ。
知毅君は静かに見えて一気に感情が昂じることがある。怒ったり、他人に手荒いことをしたりなどではない。そんなことは全くしない。大喜びの表現をするのだ。今、彼はつい歌ってしまったのかもしれない。いつもは心の中で、楽器と一緒に歌っていたのだ。もしかしたら、歌えないと思い込んでいたのかもしれない。歌わないと決めていたのかもしれない。でも今、彼は歌っている。これからもっと歌うようになる、絶対に。歌うようになったら、きっと大きな声で、話だってするようになる。だって今、彼は間違いなく、歌っている。大きな声で。

■当日ボランティア

「近づいてきたわね」
私にデザイナーの笠野先生を紹介してくれた美容室の紘子さんは、コンサートのことをずっと気にかけてくれている。チラシもチケットも預かってくれ、男性スタッフの秋永さんも、お客様一人一人にチラシを見せてコンサートのお知らせをしてくださる。まさに至れり尽くせりの有難い場所。しかも紘子さんはこの日こんなことを申し出てくれた。
「うちのスタッフをヘアーやメイクに行かせるわ」
何ということだ。プロが当日彼らのヘアーやメイクをしてくださるのだ。心強いこと、このうえない。

コンサート当日のスタッフ数がどのくらい必要で、何名足りないのか?当日のタイムスケジュールを作って初めて把握できた。もぎり、CD販売、会場整理・駐車場の整理などの仕事がある。これはメンバー家族でない方がいい。メンバーの家族には会場で絶対に観てもらいたい。私にとっては、家族に一番に喜んでもらうためのコンサートなのだ。だから家族のスタッフは初めからあてにできない。駐車場はプロにお願いすることにし、あとはボランティアを探すことにした。
 元公文の生徒、そして文化会館の近くに住んでいる人を中心に声をかけた。学生なので家族の了解も取る。広報を読んで感動のメールをくれた高校生の原田真衣さんに先ず声をかけた。すぐに「やりたい」と返事が来た。そして仲間を募ってくれた。前田いずみさん、大村志保美さん。そして、原田さんと同じ時期に学習をしていた中原祐亮君、細川浩功君、短大生の堂領梓さん、みんな快く引き受けてくれた。家族の方ともお話したところ、ボランティア経験ができることを喜んでくださり、かえって励ましの言葉をいただいた。これで、その日初めて会うのではない、初めから結束力のあるスタッフがすぐに揃った。
広告を取り、各店舗や企業のデザイン広告が決定すると、いよいよプログラム作り。町長からのコメント、オリジナル曲の紹介文など、沢山の仕事の合間に少しずつ進み、思いのこもった原稿に仕上がった。これを土井さんに託す。それをもとにパソコンでバランスよく配置したり、絵や文字をデザインしたりする細かい作業。土井さんは深夜にしてくださった。デザインを見せに来てくれたり、また変更。何度も土井さんは往復し、カーニバルのみんなが知らない間に重要な仕事をしてくれた。プログラムの表紙を飾るのは、みんなの笑顔の写真をもとに、土井さんがデザインしてくれた全員のキャラクター。第2ステージの映像では、これがアニメとして動き出す。

当日ぎりぎりまでプログラムができないのには理由がある。プログラムに掲載する名前の確認だ。これまで関わってくれた方々、そして当日のボランティアまで名前を掲載すること…これが重要だと考えたから。初めてのコンサートだ。どういう人が関わっているのか、何の見返りも求めずにお手伝いくださった方々だ。せめて名前だけでも掲載することでお礼の心を形にしたい。スタッフが確定した時点で、プログラムの印刷に入ってもらった。もうこれで最後のリハーサルを残すのみとなった。



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