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レイの忘年会で食べたカニ鍋が美味かった 27日に行ったバンドの忘年会で食べたカニ鍋が美味しかったので昨日我が家でもカニ鍋を作って家内と2人で食べた。大したものは入ってないがやはりカニは良い出しが出て美味しかった。
2023.12.30
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ハワイ旅行は頻繁に行く事に 勤続30年の際、会社から休みとお金を貰って行ったのを皮切りに20回くらいは行ったが、想い出に残ってるのは2007年6月に行った際にはパスポートや現金の入ったポーチをワイキキバニヤンホテルの中庭に忘れてきた事や、この時マリオットホテルのプールサイドで演奏させてもらった事なども思い出されるが2008年9月にワイキキサンドビラで宿泊した際にはウクレレ教室の生徒さんが(チキリさん)が「ハワイで結婚式を挙げるから演奏して欲しい」との要望で何人かがウクレレで(Kazはギターだった)”HawaiianWedding sonng"を演奏し、森さんの奥様がHulaを踊って花を添えたのが想い出。2009年11月には大ちゃんと2人で行き、ワイキキオハナウエストに宿泊した際には「ビショップミュージアム」で行われたハワイアン航空の80周年家族慰安会に”マカハサンズ”や、”ライアティア・ヘレム”が出演するショーを家族にまぎれて入り込みショーを無料で(弁当つき)見た事や、この年”俺たちハワイアン”を作曲したのがいい思い出。2011年11月には大ちゃんや森さん、柴田さん、前さん、大前さんらとハワイ島のヒロベイホテルに宿泊し、ハワイ島のドライブで黒砂海岸でウミガメを初めて見たり、コハラでは道を間違えた事などあったが、アカカの滝などを観たがこの年初めて”コッキーフログ”の鳴き声を聴くことに。 この年に森さんらと”コーナーキッチン”と言うライブハウスでデュオのコーラスグループ”Kuupaoa"を知った。 柴田さんもゴルフをすることから、大ちゃん、森さんの4人で”マカハバレー”でゴルフを楽しむ。2012年5月に一人で行った際は初めてハワイ島に渡り”ヒロベイホテル”に宿泊(今はない) マウナケアに車(レンタカー)で登ったりハワイ島1周したり、ダウンタウンの市場を訪れマンゴーを幾つか買い込みモーニングを食べながら、何曲か作曲した、いわば作曲旅行であった。”ヒロベイホテル”や”ワイキキビーチにて”などを作った。2001年1月 アンバサダーホテル宿泊 * コオリナでゴルフ * ダイアモンドヘッド登山 * ソニーオープン見学(ワイアラエ) 丸山茂樹 9位 * マカハサンズコンサート(シアターセンター) 34ドル2002年 1月 清水さん、落合さんと サンドビラ宿泊 * ハレクラニホテルでアカカさんサニーカマヘレなど * 瀬古留美子さんと出会いキャラさんを紹介してもらう。 * タイ料理店”テャイズアイランド”でカジメロショー” * コーリナでゴルフ * 真珠湾でミズリー号見学 * ソニーオープン見学 田中秀道や宮里優作、丸山秀樹など見る2003年10月 大木、落合、樋口の3人でサンドビラ宿泊 * カピオラニ公園でキャラさんや瀬古さんと会って演奏 * 帰り飛行機がWブッキングし、1日遅れで帰国、違約金30000円 が戻ってくる。 2004年5月 大木、落合、樋口に加え瀬古るみ、渡辺なっち、鈴木 の6名でサンドビラ宿泊 * キャラさん交通事故でドライブ中止 * ニューイリカイホテルで”マカハサンズショー”を見に行く40ドル で食事つきは安い。 2005年6月 ひとりで行く(飛行機はコンチネンタル) * パールカントリクラブでゴルフ * カラカウア通りでホモ、ゲイのパレード * キングカメハメハフラコンテスト(ブライジデルセンター) * マカハイーストでゴルフ2006年2月 瀬古るみHulaグループと樋口しんちゃん同行 * ビーチサイドでウクレレ弾いてるとロドリゲスと知り合い共演 * ザ・バスに乗って女子ゴルフの開幕戦(アメリカツアー)見学 場所はタートルベイゴルフクラブ(宮里藍ちゃんのプロデビュー 戦) 諸見里しのぶ、東尾理子も出てた。 大相撲の高見盛も見に来てた。 * この年に酒井信代さんと知り合う(ハレクラニで踊ってた) メリーモナークは2回見た 2016年と2018年の2回現地でメリーモナーク観戦。 2016年にはデジカメ盗難にあう。
2020.09.15
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”アロハよこはま”は大桟橋で2009年に開催 横浜港開港150周年を記念して全国からハワイアンバンドを公募したもので、これに応募したわがレイハワイアンズは10組くらいと共に採用され、前日から機材を積んで3組に分かれて横浜へ。2009年7月25日(土)の午後20分くらいの演奏だったが楽しく演奏することが出来た。わざわざ三重からも応援に来て頂いた仲間を入れて大桟橋に隣接するレストランで打ち上げの乾杯したのを憶えている。 記念ポスターには小錦やライアティも 草野さんやNaoちゃんも見に来てくれました。 ステージ上での記念撮影
2020.09.14
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56歳で役職定年になりジャスト物流(株)へ出向 2年間の予定で”人材派遣会社”の「ジャスト物流」と言う会社へ出向したKazは鈴鹿市広瀬町まで毎日通勤。 社長の加藤保行さんは大らかな人で、Kazには仕事はすべてお任せ。よくゴルフに行っていたが、ゴルフは凄くよく飛び上手で”タートルエース”のメンバーさんでよくゴルフも連れて行っていただいた。 今は息子さんの”弘樹君”が社長の跡を継いでいる。58歳になったころ四日市工場総務課へ戻り、60歳まで四日市工場の厚生担当で、よく菰野社宅の管理や日の本寮の庭園管理などをやっていた。 そうして60歳の9月30日、42年間務めた「日本板硝子四日市工場」を無事定年退職する。 この頃はバンド活動の他に皐月盆栽もやっていたが48歳くらいから始めたゴルフにも夢中で、仕事が終わるとすぐに”四日市インターゴルフ”にほぼ連日の練習で”双鈴ゴルフクラブ”のメンバーにもなって、クラブ競技などにも積極的に参加していて、理事長杯で銀メダルを貰ったことも。定年記念パーティーはバンドを呼んでやった 60歳になってKazの退職記念パーティーをやったが、勿論ハワイアンバンドを呼んでHulaも呼んで行ったものだが、”プラトンホテル”でやったのは覚えているんだが、もうこの頃にはレイハワイアンズが来てもらったと記憶している。こうして仕事を終えたKazは62歳まで2年間は「四日市郵便局」に郵便配達員として”三重団地”を配達する事に。 これは5階建ての市営住宅が幾つもあって、階段上りが足腰を鍛えるのに充分な機会になると思って自ら選択した。その理由はゴルフのドライバーショットの飛距離を伸ばすには足腰を鍛えたかったからで、夜には”オリンピアスポーツ”と言うスポーツジムに入会して足腰を鍛錬し、62歳にはゴルフはハンディ9(シングル)になった。オリンピアではHulaもあった オリンピアでは主に水泳は筋トレなどをやっていたが、Hulaダンスもあって”イポレイマリコさん”が名古屋からやって来て凡そ1時間Hulaを教えに来ていた。 最初の内は外から眺めているだけだったが、Kazの好きな”マカハサンズ”の曲が流れ、その曲を踊りたくてHulaも始めた。 マリ先生は元宝塚出身の”タカラジェンヌ”で厳しい先生であった。彼女はバッキー白片さんとこにいたボーカリストの「久保内成幸」と結婚していて、彼がアロハハワイアンズを辞めてから、プロダクションをやっていて、名古屋でオッパチさんや、バッキーさんを呼んでショーをやってる時にHulaを踊っていたから”久美マリ”として知ってた。ある年のクリスマスの時期にオリンピアのスタジオでレイが演奏してHulaを踊ってもらったこともあった。これが縁で横浜の大桟橋で演奏する機会に恵まれた
2020.09.13
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大した事もしてないうちから仲人の依頼が 職長になってから50歳ごろには前の職場の竹田君(現在のNSG労組の委員長)から依頼され、引き受けた。 奥様は南勢町のほうの方で美穂さんと言う名の美人妻でおっとりした性格の女性だった。 知り合ったのはボランテァ活動か青年団活動で知り合ったらしく、Kazはまえの職場での先輩にあたる関係だった。今もまだ定年せずに労組の委員長として頑張っているらしい。11月26日の”ちとせ会”と言う工場のOB会では毎年顔を出してくれる。次に仲人をやったのは服部君と言って、こちらはKazの部下であったが奥さんの名前は忘れてしまったが、こちらは結婚式はKazらのやった”千寿会館”であった。次いで引き受けたのは水谷君の依頼。 彼は勿論部下の一人だったが、年頃になっても彼女のいない派で、ある時Kazの元にやってきて「大木さん誰かいい人いたら紹介して欲しい」と言ってきた。 その頃、パート社員として入社してきた20歳くらいの2人組がいて名前は山本さんと森若さん。 「森若さんはぽっちゃりしてるけど可愛いんだが、彼女はどうかなぁ」と水谷君に打診しておいて・・・・「若ちゃん、水谷君が君に好意をもってるらしいけど、会って見ないか?」 こちらにも球を投げておいた。 水谷君は3交代のため、大勢いるパートさんは全く会う機会もないので、ある日水谷君に用事を言いつけ、ガラスを持たせて、「この欠点はアウトか?セーフか?聞いて来てくれ」と仕事を言いつけ、顔だけは面通ししておいた。 そうして会う機会を作り、2人の交際がはじまり結婚する事になった。もう1人は渡辺君。 彼にはインターゴルフの受付嬢で言葉使いがいいみどりちゃんを紹介した。 まだまだあります。 名前は忘れたが背の高い好青年だったがこちらは奥様になった人は美人妻。 次に頼まれたのは坂田君。こちらも部下の青年で同じ板硝子の女子社員であったが、こちらの方はもう役職降りてからだったし、家内が嫌がった。「お父さんはみんな知ってる人ばかりだけど、私は知らない人ばかりでその度に着物着るためにパーマ屋さん行ってこんならん、もうやめて欲しいわ!」 坂田君には気の毒だったけど断ってしまった。自分が惚れてしまった女性もいるが鈴木保奈美に似た美女でパート社員だったが途中で辞めていった。
2020.09.10
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Kazは本社表彰と事業部には金一封が テレパネ(無反射ガラス)で大きな成果を上げ会社の利益を大きく伸ばした事により、Kazは職場代表として東京本社で社長表彰を受け表彰状に加え金一封を受け取ったが、この時にはダブルの背広を買って臨んだことを昨日の事のようにはっきりと思いだす。 一方KaZの所属するファイン硝子事業部にも大きなお金が出たらしくて四日市都ホテルの藤の間でFC職場が課長以下全員100数十名でパーティーを開いてもらったが、ここでKazの所属するハワイアンバンド「アロハエコーズ」とHulaグループNanihulaが出演して演奏した事も大きな想い出であった。 この時Kazは55歳くらいだった。初めてのハワイ旅行はこの頃 55歳を迎えたころ会社から10日間のお休みと50万円が出た。これは旧定年が55歳であったのを60歳に段階的に伸ばした名残りとして組合が勝ち取ったもので、おいしい制度であった。 Kazはこの制度を利用して息子夫婦らとハワイへ家内共々出かけた。泊まったホテルは”モアナサーフライダー”で食事もホテルのテラスでハワイアンバンドやHulaを見ながら食べたのが忘れられない。10日間の休みを貰ってもみんながまだ勤めてる現役だったので1週間くらいで帰国したものであった。55歳は役職定年でKazは人材派遣会社の”ジャスト物流”へ総務部長として出向し、鈴鹿市広瀬町に通う事になる。 後になって藤巻課長から聞いた話だが、出向先が他にもあって、場内の別会社の”セラミック工場”の工場長にと言う話もあったらしいが、かつて所属していた試験室でKazは労働組合の執行委員もやってて、工場側の委員ともガンガンやりあってた事をそのセラミック会社(名前忘れた)の社長がKazの出向を拒否したらしい。 ”ジャスト物流”からは多くの派遣社員を受け入れていたので、そちらの方はすんなり決まったものだ。 この頃のバンド活動は 四日市文化会館の前にあるヤマハホール(ムーシケ)でNanihulaグループと合同のコンサートを1995年くらいに開催したが、この時のメンバーは11人もバンドメンバーがいて、渡辺、大井、清水、Kaz、鈴木、辻、桂、矢田、前川、橋本とその妻があの狭い(舞台の上にハモンドオルガンがある)ステージにこれだけの人数が並んで演奏するのは見てくれは圧巻だが、音楽的にはイマイチ。 Nanihulaの竹内さんが東京から”土橋節子さん”を呼んで彼女には多くのソロを踊ってもらったが中でも「島は常夏」を踊ってもらったのが最も印象に残っている。 土橋先生はハワイのKumu オブライエンに習っていたものでこの後には「日本フラ協会」の理事にもなっていて彼女の師はあのフラガールの振付を教えた人だったと記憶している。
2020.09.09
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ゴルフの練習場で清水さん(故人)と再会 清水さんはエデン時代に一緒にハワイアンバンド”渡辺俊幸とリリーアイランダース”で一緒に唄ってたバンド仲間で彼の結婚式にも出席させてもらってハワイアン婚をやったが、その彼がゴルフを始めたとかで「四日市インターゴルフ」に来てた。「久しぶりやなぁ」「まだバンドやっとんのか?」「今はギターでフォークソングを楽しんでるよ」「また一緒にやりたいなぁ」こんな会話から清水さんのお世話で日本合成ゴムの千代崎にある海の家に昔のバンド仲間が集まったが、その大半が日本合成ゴムのバンド仲間ばかりで、エデン時代の仲間は渡辺さんとKazだけ。 古川秀彦とサウシーエコーズの連中は、古川さん、朱雀井さん、清水さん鈴木さんらがいたが、随分豪勢な海の幸がズラリと並んで宴会が始まった。宴もたけなわになって、バンドをやろうと、持ち寄った楽器で演奏が始まった。 スチールギターは渡辺さん、Kazはギターを持って行ってたのでFカットのジャズギターを演奏。ウクレレは清水、鈴木の両氏。 これが20年ぶりに集まったバンドか?と思えるほどの見事な演奏でこれをきっかけに再びハワイアンバンドに取り組むことに。こうしてまたハワイアンバンドをやる事に まだみんなが現役で、日曜日に合成ゴムの社宅(森ケ山町)の集会所が練習場所でハワイアンのスタンダードやオッパチもの、マヒナ、バッキーなど昔やってた曲を中心に7~8人でやってた。バンドの名前は清水さんが考え「アロハエコーズ」と名乗った。 ある日、Kazの知り合いの市会議員の世話で四日市スポーツガーデン(ボーリング場だが、今はない)の裏にある老人施設「ユートピアハウス」で施設慰問を行うことが新聞記事になる。 その記事をみたという女性から電話があり「私たち5人でフラダンスをやってるんだけどユートピアハウスで踊らせてほしい」との内容のものであった。 当日になって、山口嘉子さん、大川さん? もう1人の4人が踊ってくれた。 このHulaグループはフイフラ名古屋で習ってたが独立して自分たちでやってると言ってたが、踊ってもらった曲は”月の夜は、バリバリの浜辺南国の夜など4~5曲であったと思う。この時初めて日本人のHulaをみて、「日本にもHulaが入ってきたんだ」と思った。 Hulaと言えば、労音と言う音楽組織があって(今で言うと音楽のプロダクション)ハワイからHulaを招いてバッキーさんと組んで全国を回っていたが我が町の四日市の市民会館に演奏に来たとき初めてHulaをみて感動したのが最初であった。 その時には”バッキー白片とアロハハワイアンズ”はスチールギターがバッキーさん、ベースに石巻宗一郎、ウクレレボーカル司会には久保内成幸、ギターはバッキーさんの長男與(あたえ)さんの4人でKazはマーチンのウクレレを持って楽屋を訪ねてサインしてもらったのを憶えている。 そののちこのグループは東京から「土橋節子さん」を招き教えを乞う事になるのだが、HulaHalauはNanihulaだったと記憶している。
2020.09.07
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ゴルフを勧めてくれて仕事もカバーしてもらった ゴルフ道具一式を買ってスクールに通うようになったが、そのゴルフの先生は「昼川三津男プロ」で菰野町は大羽園に住んでた。現役の頃ツアープロで活躍してたが、レギュラーツアーでは最高が10位までだったらしいが、シニアツアーでは2~3回勝っているが、もうお年寄りになって、髪の白い好々爺だった。優しい教え方で、女性に人気があったが、1年も居なかった。他の練習場から引き抜かれたらしい。 ゴルフにのめり込むようになり、仕事も課長から色々な面でフォローしてもらった。 Ex 設備故障で夜中に呼び出しがあって”超音波洗浄機”が不調でガラスの洗浄ができなくなった時があった。 Kazも要領が得ず、取説などをみてもわからなくて途方に暮れ、課長に電話すると、電機関係のスタッフを呼び出して一緒に対策を考えて解決してもらった(この時はフロンを冷やす冷凍機のチラーが凍結防止が働いて停止) 雪の降る夜に屋上にあがって、チラーにお湯をかけてもらったりして解決に導いてくれた。他にも多々助けてもらってこの人の為なら仕事を頑張ろう!と決意。藤巻課長に勧められたゴルフもだんだん上手くなって来ると仕事も順調に進み、ソニーさんに収める無反射ガラスはほぼ独占状態で真空蒸着機も2号機が導入され、すぐに3号機も買い、最後は5号機まで増えてモニター用無反射ガラスは月産4万枚は製造するようになってた。 作業するスタッフはKazの部下だけでも社員30人、派遣が男女合わせて40人、女性パートさん40人くらいの大所帯になってた。 この頃になるとKazも仕事も楽しいが、如何にしてスタッフのチームワークをよくするか?も考えるようになってくる。ある冬のさなか。 Kazは職場の慰安旅行はふつう11月に行われるが生産が忙しくて土日も出勤してたので冬には多少暇になる時期があって乗用車3台くらいで野沢温泉にスキーにでかけた。 これも課長に掛け合い、長期の休みを貰って(課長は当然総務課にも了解を取り付け)野沢の民宿に(もうこの頃は中島やは会社の指定が外れてた)宿泊して遊んだのを憶えている。ここには藤巻課長も加わっていた。もうひとつのエピソード それは会社の芝生地帯に相撲の土俵くらいの大きさの「グリーンを作りたいから総務に掛け合ってくれ」と課長に意見具申しOKをもらって芝刈り機(手押し式)やパターを3~4本、カップを2本(ボールを沈める)などを買ってもらって(これは職場の経費で)昼休みに職場ぐるみで楽しんだ。 当然FCコンペなるものも計画し島杯(しま部長の寄付)をもらってコンペが始まり、これがきっかけで11月23日(創立記念日)には四日市工場コンペが始まって今も続いていると言う。藤巻課長は大学は千葉大学で水泳部であったらしいが、人間関係をよくわかってて最も大切にされた方で、最後は本社の副社長にまで上り詰めたものだが、定年になられて色んな会社の経営コンサルタントをやってるらしい。Kazは最後の10年くらいはFC職場で楽しく働いたことは筆舌には表せないほど。
2020.09.06
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坂田課長との確執は結構長く続く Dコートの時代から続いていた坂田課長との確執は2~3年は続き、テレパネも引き続き彼の配下で、そのころのスタッフには藤巻係長、野村、井上両係員に女性スタッフには大浦さんがいて、現場ではKazを筆頭に早川、松野両職長補、渡辺、工場採用の女性パートさん7~8名に加え、ジャスト物流から派遣社員、プロス興業からの派遣社員、が7~8名はいた。 職長を辞退すると聞いたスタッフたちもKazのところへ来て「大木さん、もうちょっと我慢してくれ。我々も今、坂田課長を追い出しにかかっているんだ」 「本社の部長にいろいろ話していて、大木さんのところにも実情を聴きにくるはずだから」と慰留され、人事課長の松尾さんや、労組の田中支部長も慰留をしてくれた。ついに、坂田課長は相模原工場に転勤に 暫くして本社からファインガラス事業部長がやって来て、事務所に呼ばれそれまでの事情を話す事になった。 それから2か月くらいして、坂田課長が「相模原工場」に転勤になり、藤巻係長が課長になってKazの上司になると、Kazの身体の事をしんぱいしてくれて、「その症状はノイローゼだ、暫く残業もしなくていいから僕についてきてくれ」と言われた。 その時のKazは病院は「四日市市民病院」に通っていて胃潰瘍、十二指腸潰瘍を発症し、おまけに円形脱毛ものトリプルパンチに見舞われ、昼休みにま人と話したくないから、誰も居ない組合会議室の長イスに横たわっていたり、日曜日でも盆栽の手入れ中にハサミのチョキチョキの音が嫌で座敷に寝転んでいたり、と気力は全くない状態であった。 行った先は湯の山街道の菰野あたりにあるゴルフの練習場だった。彼の指導で初めてゴルフのクラブを振り、ボールを打つが、全く当たらない。 でも100球も打つ頃になるとたまには”ナイスショット”も時々出る。これがまた気持ちいい! 毎日残業せず、ゴルフの練習に付き合ってくれた藤巻課長は今では命の恩人だと思っている。 Kazも6月のボーナスでクラブを買って、四日市インターゴルフに仕事が終わってからそこのスクールに入校し、週2回のレッスンに通う事に。
2020.09.06
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30代になってそれなりに仕事も順調に 製板から始まり技術課~試験室~を渡り歩き新規事業のFC職場に配属されて、そこの現場責任者になるのが30代半ば?FC職場(ファインコーティングの略)はガラスを超音波洗浄したものに液体コーティングし、ガラスの反射を抑える技術を中央研究所(尼崎)で開発されたので、これを生産に移行するために立ち上げた新規の職場で、男性従業員4~5人と女性従業員(パート社員)7-8人でシャープへ納めるガラスを生産するものだった。 パソコンの液晶の原板である。5~6年経った頃シャープは自社でやるようになってこのコーティング職場は次の技術に代わっていく事になり、またKazはその職場の現場責任者として新規の職場を立ち上げる事になった。Kazが46歳のころであったガラスに金属を真空蒸着し無反射ガラスを作る職場なのだが職場名は変わらずFCであった。 これはまた大掛かりな職場で超音波洗浄したガラスをクリーンルームに自動で入れて、円形ドラムにガラスを30枚くらい取り付け、ドラムを回転させながら金属を蒸着させるもので 簡単に言えば金属のペレットに電子銃のようなもので高温のビームで金属を溶かしその湯気を金属の種類をかえて4~5層に乗せ高温で乾燥させて製品にする、いわば反射しないガラスで納入先はソニー稲沢工場であったが、用途は製図設計用のディスプレイでキャドであった。 超音波洗浄機も真空蒸着器も新規技術でよく故障もしたし、Kazにとってはわからない事ばかりで夜中には呼び出しを受け駆けつけることしばしば。 そのうえ上司は研究所からやって来た坂田と言う東大出身のエリート。この上司とは全くうまく行かず、ずいぶん虐められた。 ある日この坂田課長と事務所で大げんかし、ついにKazがプッツンし辞表を出す事になる。「職長を辞めさせてくれ」と人事課へ申告することに。
2020.09.05
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日本板硝子四日市工場は高齢者が多く活気はなかった Kazらが入社する1年前、すなわち昭和34年に新卒4人が入り、35年は10人の入社、1年置いて37年に6人くらいが新卒として入社しているが1000人以上いる工場ではほとんどが40歳以上のおっさんばかりで、社内では盆栽ブームで多くのおっさんが盆栽の話で盛り上がっていたのでKazも皐月盆栽を始める。Kazの皐月盆栽のあゆみは 工場の敷地の外には社宅があって、その一角に理髪店があったが、その主、金津さんが盆栽好きで工場のおっさんたちは金津さんの指導で”さつき盆栽”が大きなブームになっていた。 Kazの職場(試験室)でも多くの愛好者がいて苗を分けてもらったのが始まりで、挿し木をしながら増やしていった。 やがてKazも「四日市さつき同好会」に入り、展示会などの出品するほどになっていった。日本中がこの時期は盆栽ブームだったのだろう。県内でも皐月交換会(セリ市)があちこち開催していたが四日市市内にもいくつか交換会があったが、Kazは笹川に会った”美濃さん”の市や、鈴鹿市内の早川宅へ出入りし、買ったり売ったりを月に2~3回はやるようになる。それでも物足りなくなり、新潟県新津市まで新品種を買いに行くようになった。 会社内の平野さんと言うおっさんやら、隣に住む米川さんらと年に2~3回は行っていた。 会社の仕事を終えてからひと眠りし、22時くらいに四日市を出て名古屋を抜け21号線や19号線を深夜に走り翌朝新津市内に到着し、皐月農家を廻るのだが、主に行ってた??金蔵さん宅では新米の”こしひかり”を朝ごはんに頂くようになるのだが、これがめっちゃ美味く、帰りにはおにぎりにして弁当をもたせてくれたのが思い出される。 皐月盆栽はKazが30歳くらいから50歳くらいまで20年間続くことになるのだが、仕事の合間に趣味としてやって来たが、ゴルフを始めるようになって皐月盆栽はいったんはゼロになる。 なぜなら現役をやりながら盆栽にゴルフにの二刀流は無理で、ゴルフは上司に勧められて始めたものだが、これが面白くてのめりこむことになっていく。
2020.09.04
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5年くらい経った頃急にお客さんが減ってきた 会社の仕事は技術課分析係で大気中のNoxなど公害関係の仕事をやってた頃、バブルがはじけて会社もリストラをはじめた。 サンゴ会の10人入った仲間も長谷川くん、岸くんらが退職していった頃喫茶エデンは別の波がきていた。 ビートルズやベンチャーズが流行り、日本では吉田拓郎、オフコース、5つの赤い風船など新しいジャンルの音楽が一辺に押し寄せ、ハワイアンは淘汰されていった。 ハワイアン喫茶のエデンには人の入りが激減し、ハワイアンバンドのメンバーは全員首になった。 Kazが28歳の頃であった。これを契機にKazも人並みに結婚を考えるようになる。28歳で結婚し子育て期間に スキーで野沢温泉に行った際、社内の女性グループも3~4人連れ、男性もスキー部を中心に4~5人が一緒に行ったと思うが、その中に現在の家内も行ってた。 当時、家内もハワイアンバンドに入っていて、あまり目立つ存在ではなく、同期の女性2人の方が存在感があり、どちらかと言えば地味な存在だった。 スキーに行ったことでそれまでにない彼女の良いところが見えてきて付き合いが始まった。28歳になったばかりの頃である。 およそ半年の付き合いを経て翌年の2月22日に結婚したのだが、結婚式は”千寿会館”で式終了後に東京で1泊し、23日に羽田空港から北海道へスキーに行った。 東京のホテルは”ホテルニューオータニ”であったが、銀座へ出てハワイアンの殿堂”Tact"に行きバッキー白片とアロハハワイアンズ”のショーを見て近くの中華料理屋さんで中華を食べてホテルへ入った覚えがある。 札幌オリンピックの前年の事で、”手稲オリンピアスキー場”で3泊くらいしたと思う。 手稲オリンピアのスキー場ではそばに新しく建てられたオリンピアンのホテルだったと思うが、温水プールもあってスキーと水泳の両方をやったのが思い出される。
2020.09.02
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「渡辺俊幸とリリーアイランダース」に加入する 1965年くらいだったと思うが、連日音楽喫茶「エデン」に出入りするようになってリクエストなど繰り返すようになり、メンバーとも知り合いになった。 当時のリリーアイランダースはリーダーの渡辺さん(当時富士電機勤務)のほか、佐々木(ウクレレ・合成ゴム)岩本(ウクレレ・東芝)森下(ギター・東芝)佐藤(ベース・???)らが在籍してたが「岩本が来なくなったから大木君ステージに上がって来てくれ」と渡辺さんに誘われステージに立つようになった。 初めて唄ったのが「Mahina O Hoku」でFのキーだった。それからほぼ毎日エデンに通いステージに立った。 日本板硝子四日市工場技術課は8:00~16:00 仕事が終わるとゆっくり風呂に入って(会社の風呂) エデンの近くの飯屋で魚と豚汁にサラダなどを食べ、楽屋入りするのが17:30頃。 プログラムもなにもない。リーダーの渡辺さんが思いついた曲をタイトルとキーを言ってスチールギターのイントロを弾きだす。 最初のうちは3コードもままならないが、「握りきんだまでええから・・・・」と言われ徐々に覚えて行った。 リクエストも連日多く貰ってた。メンバーもこの頃になるとキャバレーやナイトクラブから”ひきずり”があって次々に代わって行ったが、中にはプロになるから、と東京へいく輩も出てくる。 日本合成ゴムからは佐々木さん、加納さんが”ミノルフォンレコード”に専属していった。 あとから後からメンバーも変わって行きKazも2年もすると最も古株になり、後輩がどんどん入ってくる。 合成ゴムからは清水至くん、鈴木郁夫くん、杉原くん、東芝からは山口俊哉くん、富士電機からは須藤くん(ちゃぶやん)、板硝子からも後藤君、あと自営業の寺本、安田(東芝)らが一緒にやったメンバーであった。 この頃は会社も”おうよう”で黙認してくれていた。今なら兼業禁止で夜の町での音楽家などやってられない事だろう!リクエストが多く入った曲はハワイアンではブルーハワイ、メカナニアオカウポ、フラオマキなど。ハワイアン歌謡では、幸せはここに、俺はお前に弱いんだ、泣かないでなど。歌謡曲では”骨まで愛して”黒い花びら””誰よりも君を愛す”時には時代を反映してか軍歌なども多く唄った。まだ近鉄四日市付近には白いコートを着た傷痍軍人が松葉杖をついてカンパを募っていた姿が目に浮かぶ。女性にもモテモテだった? それは清水さんや鈴木君。彼らはイケメンで歌が上手く、いつもファンがいて、休憩時間にはそのテーブルに行き恋バナをしてたんだろう!たまにはデートのバッティングをKazに頼んでくるのは清水君。彼とは仲が良く結婚式にも招かれてハワイアン婚を合成ゴムの社宅(森ケ山)にある迎賓館であった。メンバーが多くなってくるとステージにはそんなに乗れないので週に2~3回は休みが貰えるようになった。 エデンの休日には厨房の責任者の村山君(Kazと同じ年)と魚釣りにも行ったし、冬になると板硝子の仲間とスキーなどにも行けるようになった。 金銭的にも余裕のある頃だった。ある時思い切って高級ウクレレ”マーチン”を買いに東京の銀座にある「山野楽器」まで新幹線に乗って行きトンボ返りで戻ってエデンのステージに間に合わせたが、この年が新幹線の開通した年だったと思う。 まだ1ドル360円の固定為替だったが、10万円以上はしたが、今の金額にしたら50~60万以上したんじゃないか? ハワイアン音楽は終焉を迎えるが、それは明日。
2020.09.02
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1960年~1980年代は企業も良き時代 ご多分に漏れず、日本板硝子も福祉活動に力を入れていて、クラブ活動が盛んな時代であった。 四日市工場でも、野球部、テニス部、卓球部、バレー部、柔道部、読書部スキー部などなど多くのクラブが活動をしていて、ハワイアンバンドも日の本会(四日市工場の福祉活動をまとめる会)にクラブ設立を申請し認可された。 早速活動が開始され、クリスマスパーティーや納涼祭、演芸会などへの出演が主な舞台であった。 Kazは柔道部にも属していて、南起の社宅の集会所で週2回くらいの練習があったが都市対抗など大きな試合はなかったが、近隣の企業などと練習試合があった。 特筆すべきは味の素に入社した大ちゃんがKazの親友の杉岡くんと対戦した事だろう。 勿論、大ちゃんが勝ったのだが、杉岡君が大ちゃんに「できるだけ長く持たせてくれ」と言ったとか・・・・他のクラブにも頼まれて出場した。それは「中部日本スキー選手権大会」が御在所スキー場であった年にスキー部の部長、辻さんに頼まれ大回転の部に出場した事を憶えている。 もう一つあった。それは、”日本板硝子店部対抗”が野球部やテニス部、バレー部など各クラブが兵庫県にあった宝塚グランドや近郊の会場で行われていた。 これは2~3年に一度行われていたものだが、四日市工場の陸上部は人数が不足していたので、リレーなどの人員が組めない。 400メートルリレーのメンバーに駆り出され100メートルを走ったがエキストラメンバーはビリで走ってたような記憶がある。 これらは企業のバブルの時代で1980年代の後半から1900年には次々とクラブは消えて行ったのは言うまでもない。ハワイアンバンドはどんな活動してた?1964年くらいから活動をはじめた。練習場所は会社の前に会った「日の本寮」の小講堂が練習場所で週2~3回やっていた。 ”日の本会”の主催する「日本板硝子四日市工場演芸会」というのがあってプロの歌手を呼んで四日市文化会館で”水前寺清子”や”三波春夫”などの唄を聴くものだが、この前座に15~20分演奏させてもらったりクリスマスパーティー、納涼ビールまつりなどが主なステージであった。 喫茶エデンに出入りして渡辺さんと知り合いになってスチールギターの森口重弘くんに教えてもらったりしていた。
2020.09.01
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保守職場(メンテナンス)から製造職場に 20歳を迎えたころKazはガラスを製造するマシン職場になり3交代職場に移動する事になった。 水あめ状のガラスをBR(ベンディングロール)で引き上げ90度に曲げて徐冷する職場である。 設備や製造法など色んな勉強をした。これらを基に同期の仲間10名が集まって勉強会を呼びかけひとつのグループを作った。昭和35年に入社したので”サンゴ会”と名付けそれぞれの職場の仕事内容や仕組みなどを発表会などを行った。 杉岡君、畑くんは・・・・製品職場に配属され荷積み、荷卸し、出荷など フォークリフトの運転などや製品の種類など 田中くん、宇坂くん、長谷川くん・・・・包装職場に配属され木箱に荷造りの 説明など。 Kazの3交代職場は 朝出→中出→夜出を1週間交代で勤務するもので朝出は7:00~15:00 中出は15:00~22:00 夜出は22:00~7:00これを1年間やったが入社した時68キロあった体重は54キロにまで痩せた。 これは病気ではなく夏の猛暑で睡眠不足やら食生活もままならず痩せて行ったと思われる。 21歳になったころ3交代職場を離れ、技術課へ配置転換になった。新しい職場ではKazは模型実験を担当し、ガラスで作った模型窯にグリセリンを入れてガラスが溶けた素地に見立て温度によって素地の流れがどうなるのか?比重の同じ物質をトレーサーにし、素地に入れ写真撮影したり絵を書いたりしたが、この職場では化学の勉強を多くやった。比重、粘性、分子などの他電気の勉強もやった。徳増さんと言う静岡大の学卒のアシスタントとして働いた。この徳増さん今で言うイケメンで独身の28歳。仕事が終われば”ボンソワール”と言うスナックに入りびたりでママさんとは恋仲だったらしい。凡そ5年くらいを実験室で過ごしたあと分析室に配置転換となったがこれは模型実験がなくなって技術課内部での新技術「自動紙入れ器」の実験やら、風洞実験などを先輩の山路さん、永井さんらとすごした。この頃にはハワイアン音楽に取り組む Kazが22歳の暮れのクリスマスパーティーで当時の日本合成ゴム(今のJSR)からバンドを招いて生音楽でのパーティーだった。 そのバンドがハワイアンバンドでKazと中学が同じで近所に住んでた加納くん(1年先輩)がベースを弾いてた。 この頃の日本合成ゴムは会社が設立されて間もなくの頃でヤングボーイが多く、活気に満ちてた。 加納さん、朱雀井さん、古川さん、佐々木さんらがハワイアンメンバーで唄も上手く演奏もプロ並みに上手だった。 Kazはそれまで社交ダンスをやってたが、このハワイアンバンドを聴いて「やりたいなあ」と思うようになった。同じころ先輩の女性社員に伊藤さんと言う28歳くらいの女性がいて、みっちゃんと言う娘さんだったが、家が諏訪神社の近くでカーテン屋をやってたのでかなり裕福なお家だったのだろう。 「うちに遊びにおいで、今度ステレオを買ったから聴きにおいで」と誘われるようになった。 そこで聞いた音楽が”ハワイアン音楽”でバッキーさんのLPだった。またまたこのハワイアン音楽を聴いてハワイアンバンドを作ろうと決心し、仲間を募ることからはじめた。 親友の杉岡君や宇坂君らは野球部に入ってて「野球が忙しいからやりたいけど、掛け持ちは無理!」と断られる。同期の田中くん、畑くん、稲垣くんらが賛同してくれ、床屋の息子森口くんが「スチールギターをやりたい」と言うから彼も誘って「森口重弘とレイハワイアンズ」が結成された。 Kazが22歳の頃だった。
2020.08.31
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成人式には四日市文化会館で 20歳の成人式は日本板硝子に入社して2年目の1月15日で、Kazも出席さいたが地区別に分かれての式典だったが、尾平町に引っ越して間もなくだったので、知り合いもなくてあまり印象に残ってない。冬はスキーで長野県のスキー場へ このころには会社の仲間に沢山スキー仲間もいて会社の保養所が長野県野沢温泉や志賀高原などにあったし、新潟県赤倉にも保養所があったことから夜行列車に乗って各地にスキーに行くようになり、有給休暇もこのスキーで多くを消費してしまうほどであった。 古市さん(神戸高校先輩)や北口さん(青婦部長)佐藤さん(現ゴルフ仲間)伊藤正男(後輩)や親友の杉岡君らとともに 仕事を終えて名古屋駅から夜行列車が沢山出ていて”木曽1号”木曽2号””信濃1号”などでスキー列車が19時頃から21時くらいまで1時間に一本くらいが運行されていた。 これらの列車、塩尻へ着くとしばしの休憩が入る。時間にして10分ほどなのだが、降車して”信州そば”を食べるのが楽しみのひとつであった。 長野駅から信濃電鉄に乗り換え中野で降りてバスに乗り換えるのだがこの頃になると夜明けを迎えるが、今と違って早朝の信州は寒かった記憶があり、最低気温-13度だったのを憶えている。 バスで野沢温泉に着くと会社の指定旅館(保養所契約)”中島屋”へ入り身支度してゲレンデへ出るが、当時はリフト代が結構高くて回数券を買ってもスキーをはいたままハの字登山で40~50メートルを登って滑り降りる事をやっていた。 中島やさんには親切な番頭さんがいてよくスキーを教えてもらって毎年出かけるようになっていた。名前は千春さんだった。 この中島やさんには娘さんがいて、よく美空ひばりの歌を唄っていたのが思い出される。Kazが定年になって久しぶりにこの中島やを訪れたら、娘さんが養子をもらって、跡を継いでいたが今も御尊命らしい。 千春さんも独立して近くで民宿を営んでおられたそうだが、もう亡くなられたとか。 結婚するまで毎年この中島屋さんに行ってたが、多い時には年に3~4回は行ったと思う。時には女性たちも連れていく事もあった。その中の一人に家内もいて、新しく発見したことがあってそれから付き合うようになり、新婚旅行はスキーで北海道の手稲スキー場へ行くことになるが、それはまた後述しよう。
2020.08.30
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4月には「日本板硝子4四日市工場」に勤務 3月1日が卒業式で、その後早い時期だったと思うが敏子さんと「湯の山温泉」に行きまだ残雪の残る川べりを散歩してたら、工事現場のおじさんに口笛をピーピー鳴らされて冷やかされた。 このころの学生の男女交際はまだ世間では好奇な目でみられていたので少し離れて歩いたような記憶があるが、初めての二人きりのデートであったが、何事もなくお昼は土産物屋で親子丼かなんかを食べたかも。そして日本板硝子の入社式には四日市工場の事務所2階の応接室で10名が望んだが、いわゆる同期入社は 杉岡守樹、宇坂雅夫、田中孝志、畑満、岡本毅、稲垣勝、柿川了一岸覚本、長谷川光一郎、の各氏にKazが入っての10名であった。 Kazと岡本君は第一製造課製板係に配属された。この製板係ではガラスを製造する現場で、当時コルバーン製法で20メートルくらいの正方形の煉瓦作りの窯に深さ1メートルくらいの窯層(水あめ状態のガラス層)からベンディングロールと言う長さ5メートルくらい、太さ25センチくらいの円形の金属丸太で水あめ状態のガラスを90度に曲げて長さ50メートルくらいの徐冷窯(レヤーと言う)で冷却する、と言う職場であった。 がKazはその職場で保守(メンテナンス)を担当させてもらってたが時には熱い現場でロール替えもやった。敏子さんとはどうなった? 5月1日のメーデーの日に卒業後の初デート。午前中はメーデーに参加して午後いちに近鉄四日市駅で待ち合わせし喫茶”エデン”に入った。 2階のロマンスシートはまだなく、うす暗いほのかな明かりが赤いのを憶えている。 そこで切り出されたのは「結婚してくれるの?もし結婚出来ないのなら別れて欲しい」と言うものでお母さんからきつく言われてきたのだそうな。その当時の若い娘さんらは親の言う通り行動してたのだろう!その時のKazは18歳で結婚のケも考えておらず、彼女のいう事に従うしかなかった。 その時初めて別れのキスを交わしたのであった。これが最初で最後の敏子さんとのキスになってしまった。初めて童貞を捨てたのは”たまや” それから間もなくしてKazは男になったのは6月の梅雨前くらいだったと 思われるが、会社の先輩に聞き弥生館のむかえにあった”たまや”と言う 旅館が売春防止法後も秘密営業してて、そこで浴衣を着た30過ぎの お姉さんに教えてもらって無事男になれたが、あっという間の快感だった のが忘れられない。その年の夏キャンプに行き これは親友の杉岡君の企画で高校の同級生の男女4人づつが朝明ヒュッテにキャンプに行き、ここには敏子さんはいなかったが、白子高校の女性もいたが男子は杉岡君の他、森川君や神戸高校の友人(名前が出てこない)らでバンガローを借り雑魚寝してたら水泳部にいたIさんがKazの手を取って招きいれるではないかこれらも楽しかった思い出であろう。同じようなことが冬のスキー旅行でも行われたがこの時は女性は白子高校の女性が4人。 男性は杉岡、中村、林くんだったと思う。スキー場は志賀高原の発哺スキー場だったが、ここではKazは酒を飲んでて意識もうろうで寝こけてた。やって来たのは社交ダンス 11月になると「青年婦人部」が主催するダンスパーティーのレッスンが始まる。 会社の前に会った千歳寮の行動で、北口さんと言う青年婦人部の部長がレコードをかけて社交ダンスを教えてくれるのだ。 毎週水曜日と土曜日にレッスンが行われるが、19歳になった最初の年には全く歯が立たず、この年のクリスマスパーティーには壁の花ならず壁にはりつくゴキブリだったような気がする。 4月からはJRの踏切の東にある「大宗ビル」の2階で当時海星高校の教諭をしてた植村先生と奥様がやってるカルチャーセンターで社交ダンスを1年間習って、2年目からはクリスマスパーティー荒らしで各企業のクリスマスパーティーを廻ってた。
2020.08.29
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高校時代の想い出は多々あるが 3年生になると柔道部にも強力な個性のある子が入部してきた。杉野君や岡田君、それに北川君など印田先生に目をつけられしごかれていたのを思い出す。 その甲斐あって、杉野君は佐野一美君に代わって正選手に抜擢され技の切れでよく勝っていた。足払いは強力な武器であった。 柔道部の練習に、野球部の親友”杉岡守樹君”が練習しに来るようになった。 野球部は夏の高校野球が終わるのが8月なのだが、神戸高校は1~2回戦で敗退するものだから3年生は7月末で引退する。 顧問の印田先生や、柔道教官で三重県警の前川先生も理解を示し、初段を受けろとけしかける。Kazや田中勝利君らは3年生早々に2段を取っていて3年生後半には3段を受験するようになっていたが、我々もまだ試合が残っているためあまり乱取りすることはなかったが、杉岡君は初段を取った。 Kazも東海大会が静岡県であった時には就活試験の真っ最中で三重マツダ、近鉄百貨店、昭和石油、本田技研、日本板硝子などを受験していたが、本田技研の最終面接と東海大会の試合が同日にあり面接試験をやめて柔道の試合に行き、父親に叱られたのが思い出される。 卒業式前の寒い頃の想い出作りに、男子4人、女子4人のグループで道伯池にハイキングに行ったが、それをセットしたのが杉岡君で、勿論敏子さんも来てて一緒に写真を撮ったのだが今はない。修学旅行は北九州へ 3年生の春だったと思うが大阪まで電車で行き、船に乗って別府に着き、血の池地獄など温泉めぐりをし、別府で一泊したのだが杉岡君や森川君らと同じ部屋で語り合ったことと、杉岡君に夜中にいたずらされ、寝てる間に股間や顔にガムテープを貼られたのを思い出す。 翌日は阿蘇方面に行き荒城の月の滝廉太郎の生家をバスの中から眺めた事や、バスの中でKazはハーモニカを吹いたり、当時流行ったポップスな曲でニールセダカの”恋の片道切符”を「チューチュートゥレイン」と英語で唄って拍手喝采だったのを憶えている。
2020.08.28
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柔道部の様子はどうだったか? わが神戸高校には1年生の時には20人ほどいた新入部員は多くの仲間たちが厳しい練習に耐えられない者や勉学に勤しむものが次々と辞めて2年生になると半分以下に減ってしまった。 同学年で強かったのは田中勝利、技がよく切れ背負い投げが得意。岸田行雄・・・・背は低いが足技が上手く先鋒として活躍した。神山定一・・・・体重90キロ以上で寝技が持ち味の引き分け要員佐野一美・・・・補欠要員だが足腰が強く色白で、女性にもてた。 (上記4名はもう故人になってしまった)山本千秋・・・・2年生で辞めたが鈴鹿英数学園の創始者で現理事長岩田耕一・・・・主に副将として活躍したが、勉学は商業科1番で高卒で 三菱重工に入り同社で定年を迎え現在もゴルフなどで 交流がある。大木一男・・・・小技から大技への連携が得意で足腰の強さで主に中堅で ポイントゲッターだったように思う。柔道の練習が終わると神戸の駅前にあった”みつや”と言ううどん屋さんにほぼ毎日立ち寄り神山定一君のおごりでかき氷を食べてから電車に乗るのが日課だったように思う。 メンバーはKazに田中勝利、時にはバスケ部の森川君もいた。1年生部員には塩浜中学の後輩、中居大ちゃんも入って来て柔道部は活気に満ちていた。 他には洪谷くん、魚見くん、井上篤彦くん(奥さんがHulaやってる)井上??(校長先生)あとは覚えてない。Kazは2年生で初段を取って黒帯になったが取りたての頃にはこれが自慢で電車の中でも柔道着をカバンに入れずにむき出しで人目にさらしていた。 3年生になると色んな大会に出たが、最も大きな大会は三重県で3位になり東海大会で静岡や岐阜にも行ったが他県に出るとほぼ1回戦負けであったが、Kazが自慢できるのは国体予選で個人でベスト8に入り、新潟県の新発田市で行われる国体に出場(補欠)するはずが、伊勢湾台風で三重県は不参加になってしまった事。 もう一つ、今はもうなくなったようだが三重県柔道連盟主催の南北大会に出場した事だ。 これは四日市の公会堂であった試合だが、この試合に初めての両親が見に来てくれた。 この試合は高校生5人くらい、大学生と社会人5人くらいが選ばれて三重県の北勢軍として津市から南の南勢軍と試合をするのだが、Kazは四日市の講武館で初めて北勢軍の選手らと顔合わせした。 この中には今、焼肉の幸の主(市会議員)の父親、川村幸善氏と会って練習をさせてもらったが、その当時の川村さんは25歳くらいだったと思うが三重県ではナンバーワン。 めっちゃ強かったのを覚えている。 Kazは初戦で勝って引き続き2人目とも戦うのだがこれはもうスタミナ不足で敗退したが、やはり川幸さんが強く最後に3人くらいを倒して北軍が勝利したのを覚えている。敏子さんとはどうなった? 順調に文通は続いていたが2人キリで会うことはなく、柔道の試合が神戸高校であった時には見に来てくれていたし、体育祭の時には短いブルマを履いて綺麗なおみ足に目がくらんだのを覚えているが、この文通は親友杉岡君が3年の終わるまで渡し役、受け役でキューピットをやってくれた。
2020.08.27
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高校生になって親友もできた 高校は神戸高校商業科に入ったのは初恋の人”敏子さん”が商業科だったから、Kazも商業科を受験したのだが、驚いた事には受験番号が続いていて、Kazの前の席が彼女だったので、「何としても合格したい」と言う思いで集中できて、優秀な成績で入った。 残念な事に敏子さんとはクラスが違い、3年間一度も同じクラスにはならなかった。クラブ活動は、入学してすぐバスケ部に入ったが、このバスケ部は結構な強豪で1年生に入学前から優秀な選手をスカウトしていて、春休みから練習に参加していたのでKazには劣等感を感じていたのと、練習時間が長すぎて夜遅くまで練習し、芦間珠算教室へは通えなかった。 珠算学校へ行きたかったのは敏子さんも通っていたからだったが間もなく珠算学校は辞めることになる。 それはバスケ部を1ケ月で辞めて”柔道部”に入ったことだ。何故柔道部を選んだか? Kazは小学校の頃や、中学生になっても、休憩時間には校庭に○を書いて土俵を作り、仲間たちと相撲を取っていた。 Kazは吉葉山(横綱で高島部屋の創始者)が好きでそれぞれ好きな関取の名前をつけて15日間の星取表を書いて楽しんでいたが、その成績が結構優秀で常に10勝以上は勝ってたから足腰には自信があった。 それに柔道部は終わる時間が早く、まだ明るいうちには終わって珠算学校に通えたからという事もあって柔道部に入部することになった。柔道部は三重県でもレベルが高く、3年生にも2年生にも猛者がいて伊藤さん、西村さん、三林さんなど3年生は個人でも県内ベスト10には入っていたし、顧問の印田先生も個性のある指導をしていたし、前川先生は三重県警察の柔道の指導者で神戸高校にも指導のために派遣されていた。 Kazはこの柔道にのめりこみ芦間珠算学校を辞めて柔道が好きになっていくのだが、3年生には全く歯がたたなかったが1年もすると上級生の2年生にも勝てるようになってくる。勉強の方はあまり力が入らなかった もともと不埒な考えで神戸高校に入学したものだから、あまり勉強はしなく、 優秀な成績で入学した(後でわかったが7番くらいで入学したらしい)が段々と成績は下降していったのは言うまでもない。 でも好きな科目があって”人文地理”は印田先生(柔道部顧問)のユニークな指導で好きになって行った。親友も出来た それは杉岡君(故人)や森川君であった。杉岡君は野球部であったが、いろいろ話するようになり”敏子さん”が好きな女性だと打ち明けると彼が”ちょうちん持ち”をしてくれて文通を始めることになる。 3年間この杉岡君が手紙の仲介役で100通以上は交換した。その当時の男女交際には周りも厳しい中で中々話す機会もなくこの文通が唯一の女性との意思疎通の機会であった。 杉岡君はお兄さんが柔道部にいて、このお兄さん(守登さん)背が高くてかっこいいし優しい人であったが、柔道は強かった。 内股が得意でよく投げられたが、背が高いから2階から落とされるような感じで、たまに息が出来なくなって気絶することも。 電車通学で、塩浜駅から乗って伊勢若松で乗換え神戸駅(かんべ)から徒歩10分くらいで学校に着くが、この途中にまだ赤線があって格子戸の2階から「大木!」と呼ぶ声がする。 上をみると柔道部の3年の猛者たちが朝からエッチしてるのだ。まだ売春防止法が法制化されず、売春が行われていた時代。Kazも3年生になったら上がってみようと思ってた矢先の昭和34年に法制化されて結局は利用できずであった。
2020.08.26
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自宅から「塩浜中学校」までは徒歩15分 1年生では岡田先生と言う理学の教師が担任で優しい好々爺と言う感じの先生。2年生は米川先生で英語の教師だったが、これがまた怖い先生だった。 陸上部の顧問をしてて、女子中学生の太ももをしきりに揉んでいたのを子供心に”えらいスケベな先生だ”と言う印象。 3年生になると宮崎阿屋子先生と言う国語の担当の教師が担任になってKazのしばしの勉学年が始まった。 敏子さんと言う初恋の女性が出来た事も勉学に励む大きな要因になっているが、この宮崎先生はKazが遊んでいるのを度々とがめてくれて「大木君はそんなに遊んでいると高校受験に受からないよ」 国語の時間にはよく宮崎先生には質問を受けたり答えさせられたりして国語が好きになった。 この宮崎先生、その当時30歳を超えていたと思われるが母親のような存在に思え、よく先生のいう事を聞いた覚えがある。バスケ部でも活躍した 3年生になるとレギュラーとして藤沢君(後に医師になり大平正芳総理大臣の孫と結婚)がキャプテンで小出武がセンター、長野信夫がフォワードKazと鎌田がガードで四日市地区でベスト8が最高成績であったが、この頃にはチームワークの大切さを河西先生に教えられた。そろばん塾にも通うように 中学生になってからであったと思うがそろばん塾”芦間珠算教室”にも拍車がかかった。これには敏子さんも習ってたこともあって元々小学校の頃にも平和町の”坂珠算塾”に行っていたが3級までで、やはり遊びが優先で行ったりいかなかったりであったが、中学になって1級を習得している。 そして高校受験に合格 結構な競争でKazは神戸高校の他に海星高校も受験している。結果は両方とも合格しているのだが、滑り止めで海星高校も受けたのだがこの時期、我が家は弟が5歳下、妹が7歳下にいて、父親が石原産業に勤めていたが安月給で生活は苦しかったらしい。 海星高校の入学金をねん出するのが苦しかったと後になって母親から聞かされた。 初恋の敏子さんも無事合格した。
2020.08.25
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勉強は嫌いで遊びが好きだった 小学生時代は背が小さくガキ大将で、石原町の社宅の同級生や下級生らを集めて鬼ごっこや帽子あそび、めんこ、独楽まわしなどをよくやった。 社宅は木造平屋で6畳と4.5畳のふた間で6軒長屋だったので隣でも話声が聞こえるほどの簡易住宅であったが、夏休みになると魚釣り(主にフナ)や水泳が毎日の日課だった。 高学年になると自転車で水沢村の従兄弟たちと遊びに行き1週間~10日くらいはカブト虫やドジョウ掬いなど自然の中で遊ぶことが好きだった。 と言うのも、平屋の家の中では暑くて居られないからだった。まだクーラーや扇風機など電化製品はなく、うちわがせいぜいの涼しさ。 このころには将棋を覚え、夜になるとうちわで仰ぎながらの縁台将棋を覚え、近隣の少年たちと楽しんだ。 小学6年生くらいには台風13号があって石原町の社宅は高波で全戸360棟が床上浸水し、中里町に新しい鉄筋2階建ての社宅が完成し中学1年生の春に塩浜地区へ引っ越した。 中学生になると・・・・ クラブ活動がはじまり、Kazは背が低くかったのと石原町の親友たちがバスケ部に入るのでKazもバスケ部に入りクラブ活動に勤しんだ。 2年生の頃には密かに一人の女性を思うようになった。 鈴鹿市からの転校生で”木村敏子”と言う女性であったが、これがKazの初恋であった。 中学3年生になって担任の”宮崎阿屋子”先生に呼ばれて「大木君、鉄棒ばかりしてないで、高校へ行くんならもっと勉強をしないと」「どこの高校にも行けないよ」と注意された。1学期の終わりごろであったと思う。 それから神戸高校へ向けての受験勉強がはじまった。なぜ神戸高校を選んだ? それは初恋の”敏子”さんが3年生で同じクラスになり、彼女が希望してたのを知った事と電車通学が出来るから・・・・ 11月の3日には中学の文化祭があり、敏子さんと初めて話ができた。このときの胸のよきめきは忘れられない。 それは初めての”ラブレター”を書いて鞄の中に忍ばせていたのだが渡すチャンスが中々来なくて文化祭がいいチャンスであったのだろう。 鞄から出して「これ読んでおいて」と言って渡したが、彼女から返事が来て「神戸高校への受験前なので、受かってから考える」と言うものであった。
2020.08.24
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ここからは自分史 1941年(昭和16年)5月20日 名古屋市東区古出来町に生まれたが この時期は第2次世界大戦の真っ只中。 父、光輝は菓子職人だったらしいが、母、ますのと結婚し一男がこの世に長男として生をなしたのである。 戦時中であって古出来町の長屋に暮らしていたが、近くには三菱重工があって、軍需工場であったためKazが5歳のころB29の空襲を受けるようになる。 前の道路には穴が掘られ”警戒警報”のサイレンが鳴ると長屋を離れ防空壕に逃げ込む毎日だった。 空襲で近くに爆弾が落ちるとその衝撃で防空壕の穴ぐらは土が崩れ生き埋めにならないか、と心配してたのを今でも鮮明に思い出される。 長屋は焼夷弾で丸やけになり、母の実家の三重郡水沢村に疎開することになり、母の父(Kazのおじいちゃん)が牛車で母の兄の優さんが大八車で夜中に迎えにきて荷物を引き取りにきてくれた。 5歳のなった夏の頃だったと思われるが、武久と言う弟が3歳の頃で、弟は戦時中の食糧難のころで腎臓を悪くして水沢で亡くなった。きっとこれは栄養失調症だったのだろう。 Kazも同じように顔がむくんでいたらしいがまだ抵抗力があったらしい。父親も疎開していたのだが21年8月に終戦を迎えたころは職探しに奔走していたらしい。 ほどなくして「石原産業四日市工場」に入社する事になって石原町の社宅に移り住み弟の一三が生まれ、妹の朝子もこの石原町で生まれる。Kazが6歳の4月には「塩浜小学校」に入学するのだが、まだ学校の校庭には防空壕の跡や、空襲で校舎も襲われ割れたガラス片などが散らばっていたのを思い出す。学校の前が”海軍燃料要衝”(今の昭和石油)だったから空爆を受けたのだろう。 1年い組で小野寺先生、2年も3年も持ってもらったが4年になって初めて男の先生、小林栄介先生であったが、この頃には終戦後の食糧難がさらにひどくなり、いろんな物を食べた。 イナゴ、食用カエル、イモのツル、フナやドジョウなどタンパク質のものなら何でも食べた。 うなぎやエビが通学路の途中の運河で面白いように捕れた。うなぎは竹筒に糠団子を入れて捕ったしエビは藻エビがいっぱいいて通学の途中で傘ですくって捕獲したし、フナはミミズの餌でバケツ一杯になるほど釣れた。
2020.08.23
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