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去年の今頃は高熱で苦しんだなぁ 今日はあまり書くことがない。そこで去年の今ごるのブログを振り返って見てみた。お正月明けの今ごろは毎日38度くらいの高熱が出て苦しんでた時期だった。胃の外側に出来た”Jist”があることは”市立病院”の検査で分かってはいたが、年末年始とコロナ禍の影響でなかなか手術してもらえずに”解熱剤”で抑えていたが1日に2~3回は高熱が出てたのが去年の今頃だった。 今日は音楽ができる喜びを感じながら22日のマンスリーライブの練習やNaoちゃんに頼まれた曲の採譜をしよう。 今日も慣れるために動画をアップしたい
2023.01.09
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この年になっても贅沢ざんまいだぁ! 今、我々高齢者が生きていけるのはここまでの蓄積があったからでしょう。まだまだ敗戦の真っただ中の1940年代から順調に経済も発展し、政治も与野党伯仲し様々な議論の中からよい方向に進んできた。 企業も社会のニーズのなかから次々とヒット商品を生み出してきた。 * ヤマハメイト、スーパーカブ、ミゼットなどから 自動車へ。 * 三種の神器と呼ばれる白黒テレビ、手動洗濯機 がカラーになり、オール自動になった。 * カメラ、時計など精密機器の発展 ヤシカ、コニカ、ミノルタなどことほど左様にニーズがあり、企業が次々とそれらを作って来た。 俺たちの人生はこれら発展と共に生きてきた。いわば 企業の発展と共に歩んできた蓄積がある。 Kazも音楽に目覚めギターを覚え、バンドを作り、Hulaのお姉さま方にも巡り合え、ハワイにも行くようになった。ゴルフと言う遊びも覚え、それなりに上手くなりたくて練習もし、楽しんできた。バンドやゴルフは頭や体を動かすが、心の癒しとして花を愛し、その姿形を楽しむ”皐月盆栽”を趣味として長年やってきた。 これらはお金では買えない「最高の贅沢」なのだ。幾つもの最高の贅沢を楽しんできたKazは 我が人生に悔いはない あとは付録の人生でおまけの人生だ!
2022.10.02
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前回までのあらすじは 神戸高校を卒業して、就職した「日本板硝子四日市工場」時代が高度経済成長の真っただ中で会社は8時~16時までで残業無し。 仲間は10人が同期入社。うち半分は野球部に入り、Kazは音楽部を結成しハワイアンバンドをやりだす。 そのうちにある程度上手くなると「喫茶・エデン」で演奏を始める。 いわゆる”バイト活動”である。およそ6年が経ったころ、ビートルズやベンチャーズなどに押され、音楽喫茶「エデン」は首になる。この辺りまで書いたが・・・・Kazが28歳になったころ結婚する。ハワイアンばんどが下火になって、企業バンドも多くが解散。 そのころ彼女が出来て(今の家内)と結婚。 昭和45年2月22日のことである。 結婚式は「千寿会館」仲人はおじさんに頼んだ。 ここから 千寿会館での結婚写真も色あせてきてる。 内掛けを着て実家を出る紀子さん 三々九度で固めの杯を交わす夫婦 披露宴にはKazはギターを弾いて唄いました。 披露宴も終わりこれから新婚旅行へ。 新婦は家族に見守られながら近鉄四日市駅で 北海道へスキーに行ったのだが 初夜は東京のホテルでの宿泊。 今日はここまで
2022.07.31
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エデン時代は4年くらい続いたが Kazがエデンに行くようになったのは昭和38年の頃にはハワイアン全盛の時代で、四日市にはハワイアン音楽を生バンドで聴かす店はなくて”ビアーガーデン”で近鉄百貨店屋上や”岡田屋”の屋上などでハワイアンバンドをやっていた。 喫茶「エデン」では毎日満席でKazは日本板硝子で16時まで働き、18時にはエデンのステージに立っていた。 このころはプログラムもなく、渡辺さん(コージ渡辺とリリーアイランダースのリーダー)が思いついた曲をキーだけ言われて演奏する、と言うスタイルなので楽譜はなしが殆んど。 リクエストがあればそれを優先して演奏するのだが和製ハワイアンのリクエストが多かった。 オッパチさんの曲(大橋節夫とハニーアイランダース)では「ふるさとハワイ」「幸せはここに」「グッバイホノルル」など。 バッキー白片の曲では「俺はお前に弱いんだ」「アロハヌイロアイアオエ」 マヒナスターズでは「泣かないで」などのリクエストが毎日来てた。 喫茶「エデン」は1階にあったが地下では「アルサロ」もあってコンボ編成のバンドが入っていたが、リリーアイランダースもたまには演奏することがあった。 バンド仲間からトラを頼まれるとビアーガーデンにもよく演奏をたのまれた。 良き時代であった。 ここから 喫茶「エデン」でのステージで唄うKaz メンバーは左から 渡辺俊幸、安田、須藤、清水、杉原、?? エデンの地下の「アルサロ」デ演奏するリリーアイランダース このころはセンターマイク1本であった。 スチールギター渡辺は富士電、Kazは板硝子、清水はJSR、山口は東芝 地下1階のアルサロでは歌謡曲やラテンが多くお客さんはダンスをハワイアン音楽は間もなく衰退し「エデン」でのステージはKazが28歳まで5~6年間で終わった。 その原因はビートルズや、ベンチャーズが来日しハワイアンは見向きもされなくなり、連日満席だったエデンの客席もガラガラでメンバーはみんな首になった。 時間が取れるようになったKazは今の家内とよくデートをするようになり、昭和45年2月22日に結婚式を挙げ、北海道に新婚旅行に・・・・・・・・ 良き時代であった。
2022.06.22
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入社した昭和35年頃は8時~16時 勤務時間は8時~16時で実労8時間だった。冬にはすぐ日が暮れるが夏季には夕方4時に会社を離れてもする事がない。 同期の岡本毅君などは終業後、三重短期大学に通って勉強に充てるものも居ればクラブ活動に頑張る者も。 親友の杉岡君や宇坂君、田中君は野球部に入り練習に励む毎日。Kazは憧球したりしていたが、畑満君や田中君、稲垣君らを誘ってハワイアンクラブを結成し、練習する傍ら音楽喫茶”エデン”に通ってハワイアンバンド「コージ渡辺と??アイランダース」のハワイアンを聴きに。 当時コーヒー一杯が150円位だったと思う。Kazは当時はウクレレ&ボーカルで畑君がベース、スチールギターは森口重弘君、ギターは田中孝志君らで、練習を重ね、聖アンデレセンターでダンスパーティーをやったのが最初で、クリスマスパーティーなども出演したのを覚えている。 クリスマスパーティーはどこの企業も行っていて当時の「青年婦人部」が中心で12月になるとレッスン会があって、踊ろうとするものはみんな練習会に参加したものだ。 昭和30年代はハワイアンバンドの全盛期で「バッキー白片とアロハハワイアンズ」を筆頭に「大橋節夫とハニーアイランダース」「和田弘とマヒナスターズ」らが活躍してた。 Kazはこのころ四日市のハワイアン喫茶「エデン」で演奏することになる。 ここから レイハワイアンズの結成は左から稲垣勝、森口重弘、Kaz 田中孝志、畑満 ゲスト出演は坂浩子さんも加わっての発表会 田中君が辞めて後藤栄樹君が加入 昭和49年には会社の慰安会で演奏しました。このころにはKazは スチールギターもやってました。 喫茶「エデン」ではもうレギュラーとして出演してました。 暫くしてこのことが会社に知れる事になり、上司に呼ばれ「目立たんようにやってくれ」と黙認されました。 良き時代でした。今日はバンド練習、少しは予習をして 26日の日曜日には楠町の「ふれあいホール」でマンスリーライブがある。 少しは今日の練習の前に予習をして行こう。
2022.06.21
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今日は会社の運動会を書こう! 日本板硝子には当時工場は”四日市工場””舞鶴工場””若松工場””千葉工場”の4か所。 本社は大阪で支店が名古屋、札幌、大阪、小倉などにあり、それぞれのクラブが集まって「店部対抗”が行われてた。 野球、テニス、バレーなどの他陸上部などもあってKazも陸上部のメンバーが足りなくてリレーメンバーに駆り出されたことがあった。 800メートルリレーで100メートルづつ8人が走ったと思うが8人も揃わなかったんだろう。他にもボール運びや綱引きなど、まるで運動会であったがこれら費用は親睦会から出されていた。 兵庫県の芦屋のグランドだったと思うが、出張扱いで弁当、日当もついてて大阪の旅館に宿泊して運動会など行われてた。 良き時代であった。 テニス部など当時の有名選手を大学から引き抜き都市対抗などにも出場してたらしい。 写真は四日市工場の出場選手で左後列から川北、畑満、Kaz ボール運びで走るKaz 選手村はテントの下。四日市工場の選手村 選手村でバーべキュウを頂くKaz ビールがとてもうまかった!昨日のFORESTAはレコード大賞曲 昨日はKazの好きな三宅里菜ちゃんは欠席だった。ちょっと残念 演奏曲はレコード大賞のなかから次の11曲 1. いいじゃないの幸せならば 2. また逢う日まで 3. 喝采 4. 夜空 5. 襟裳岬 6. シクラメンのかほり 7. 北の宿から 8. 勝手にしやがれ 9. 魅せられて 10. ルビーの指輪 11. 北酒場
2022.06.20
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日本板硝子は住友系で保養所も多くて 親友の杉岡君らとはよく遊んだが、中でも冬になるとスキーによく出かけた。 野沢温泉には「中島屋」さんと言う宿には毎年行き板硝子の健康保険組合の指定保養所にしてもらい(元々は民宿だった)スキーを楽しんだ。 歌のうまいおかみさんや番頭さんの”千春さん”には良くしてもらったのを覚えている。 他にも赤倉温泉や発哺温泉、志賀高原などの保養所を毎年スキーで訪れていた。 写真は野沢温泉の日影ゲレンデ 昭和39年ごろ 左の壁はシュナイダーコース 野沢温泉スキー場の日影ゲレンデで滑るKaz 同じく日影ゲレンデで写真左から佐藤さん Kaz、杉岡さん こちらは赤倉スキー場でKazと森川君 昭和40年ごろ
2022.06.20
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良き時代の「日本板硝子四日市工場」 昭和35年4月1日に「日本板硝子四日市工場」に入社したのは10名。 Kazを筆頭に 杉岡守樹、宇坂雅夫、田中孝志、畑満、稲垣勝 長谷川光一郎、岡本毅、柿川了一、??前年には3名が入っていたが10名もの大量入社でこのころにはバブルの始まりだったかも? 10名は中もよく”さんご会”を作って社内で会議室を借りて勉強会など月に2~3回は集まっていた。勉強会と言っても算数や英語などではなく、配属先の仕事内容や人間関係などを話し合っていた。 それらが社内に知れて”さんご会”は有名になっていった。社内報などでもよく取り上げられ知名度を増して行った。 このころはクラブ活動も盛んで、野球部、バレー部卓球部、テニス部、陸上部などがあって社内の親睦組織「日本会」(ひのもとかい) から補助金が出てた。他にも華道部、茶道部、謡曲部、読書部などがあり工場の傍には”ひのもと寮”があって図書室や”憧球台”も2台あってKazはよく憧球で遊んで帰ったものだ。 昭和37年4月にはKazが中心になって「ハワイアン倶楽部」を結成し「レイハワイアンズ」としてダンスパーティーやコンサートなどを開催していた。 さんご会もKazが言い出しっぺで「35年の入社だから珊瑚のように固く仲良くして行こう」として勉強会ばかりでなく、魚釣り大会やハイキングなど娯楽も行い、10年くらいは続いた。 この続きはまた明日・・・・ハワイアンで一世を風靡した和田弘とマヒナスターズの松平直樹が亡くなった。 今日のスポーツ紙から
2022.06.19
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高校3年間は柔道に明け暮れた 高校1年の4月にはバスケ部に入った。その理由は、憧れのマドンナの”敏子さん”が塩浜の駅にほど近い”芦間珠算学院”で珠算を習うってんでKazもそこに行きたくて、早く終わるバスケ部に入った。これはもう既に「白鳥中学」から背の高い連中が入っててとても165㎝のKazには正選手になれる見込みがなく、柔道部なら小学校~中学校の頃から相撲がそこそこ強く腕力に自信もあったので”柔道部”に入った。それから3年間は柔道に打ち込む事になるが、1年生のKazは3年生には全く歯が立たず、まるで子ども扱い。 3年生たちは当時の通学路には赤線(パンパン屋)が軒を並べててそこに朝から上がり込んで居たのでKazも3年生になったら上がろうと思ってたが昭和34年には”売春防止法”で赤線はなくなってしまった。 Kazは未経験のまま卒業する事に・・・・初体験は四日市の弥生館の前の裏通りに”玉屋”という置き屋でやったのを覚えている。 3年生の高校総体が終わると”就活”に入るが、柔道が好きで12月まで道場に入ってた。 その就活は、昭石、近鉄百貨店、三重マツダ、本田技研、日本板硝子などを受けたが受かったのは、本田技研、三重マツダ、日本板硝子であった。 当時は沢山の就活が出来たよき時代であった。 昭和35年4月1日に親友の杉岡守樹君ら10人が四日市工場に入社した。 会社時代はまた明日以降に。昨日のゴルフは最悪じゃ! 昨日は”三重割”を使ってのプライベートゴルフだったがスコアは最悪 お天気は良くても気温や湿度が高く、汗ばむ陽気でいつもの仲間と楽しんだ。 何が悪かったか? 少しずつ飛距離も出るようになってきたので以前の 場所まで飛ばそうとリキムから右や左に曲がる。セカンドでも長いクラブを振り回すからグリーンオンしない。3打目も寄らず入らず。 前半は49打も叩いた。 後半になってもやはり距離を出そうとリキム 47打で前半と大差なく 49:47=96 風呂上がりにレストランで”村長さん” メンバーのスコアカード
2022.06.18
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高校時代は楽しかったぜ! 初恋の敏子さんが神戸高校を受験するのを人伝てに訊いてKazも神戸高校を受験した。 上手く合格を果たしたKazは成績上位で入学したが勉強は元来あまり好きでなくやはり運動好きだったので柔道部に入った。 高校時代は柔道に明け暮れてたが、杉岡君と言う親友が1年生で出来て彼の家に(鈴鹿市箕田町)よく遊びにも行った。 敏子さんとは文通で学校であったことなどを書いてたが、これも杉岡君の提灯持ちのお蔭で出来た事だった。 柔道では2段まで上がって高校総体で東海大会にも行った。岐阜県や静岡県であった大会だった。 修学旅行では九州へ行ったが敏子さんとは写真も撮れずに遠くから眺めているだけだった。 修学旅行の船のデッキで、敏子さんは3人並んでる右側。 高校1年の体育祭での仮装行列でKazは 森の石松に扮した。写真前列左から 杉岡君、Kaz、後列左から岩田君、瀬木君 岩田君は柔道部で仲良しだった。 神戸高校のグランドで柔道部と野球部が記念撮影。 Kazは左端。 杉岡君は右から2人目 高校3年生の頃。 こちらは仮装行列の写真。 敏子さんは後列左から4人目。今日は金曜ゴルフでトーシンプリンスビル いつものレギュラーメンバーとハチゴロウスタートで津市美里町にある「トーシンプリンスビルゴルフコース」へ。 今週はよく練習もしたから80台中盤が欲しい。
2022.06.16
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先ずは幼少期をどうしてたか 昭和16年と言えば太平洋戦争の始まった年。5月に生まれたKaz君は名古屋市古出来町で生まれ3~4歳の頃には家の前の防空壕に逃げ込んだ記憶がある。その後敗戦になり、母親の実家のその当時の三重郡水沢村に疎開をした。その当時牛が引く荷車に乗って引き揚げてきたのを覚えてる。昭和20年の夏ごろだった。 従兄弟たちが大勢いて”ドジョウ掬い”やカブトムシ獲りを彼らと楽しんだものだ。 1945年(昭和20年)8月15日に終戦になり疎開生活は1年くらいで終わった。 父親が昭和20年9月に石原産業四日市工場に入社し会社から社宅を提供され引っ越し。間もなく「塩浜小学校」に入学。 小学校の想い出・・・・・・・・ * 防空壕がまだあった。 * 1年の担任は”小野寺洋子”先生でまだ国防服を 着ていた。 * 3~4年生になって”ラグビー”を教えて貰う。 * 1歳年下の”鈴木さよ”ちゃんが気になってた。 * 学校の行き返りに海軍燃料廠(今の昭石)の 堀川でうなぎやフナを採って遊んだ。 * 夏休みには社宅の南の”石原海岸”でよく泳いで いた。 * 校庭で相撲を取って遊んでいた。 中学校の想い出・・・・・・・・ * クラブ活動はバスケットボール部でその頃は 篭球部と言ってた。 ガードのポジション。 * 担任は1年が岡田先生 2年は米川先生 3年には宮崎阿屋子先生 * 仲良しはクラブの藤沢洋三君や小出武君 * 勉強はあまりしなかったが体育は得意で鉄棒が 好きで”大車輪”も出来た。 * 3年の担任の宮崎先生に注意された。「大木君 ただし君は家業の大工さんになるんだか 勉強はしなくていいけど、高校へは行った方が いいから少しは勉強をしなさい」と。 * このころ同級生に初恋(木村敏子さん) 高校生の頃・・・・・・・・
2022.06.16
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