前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

水を吸うスポンジの如く




 皇太子殿下が、誕生日の会見で愛子様の養育への思いを語った。また、感銘を受けたというアメリカの教育学者の詩を紹介した。
「批判ばかりされた子どもは非難することをおぼえる
殴られて大きくなった子どもは力にたよることをおぼえる
しかし、激励を受けた子どもは自信をおぼえる
寛容に出会った子どもは忍耐をおぼえる
賞賛を受けた子どもは評価することをおぼえる」

 生まれたばかりの赤ちゃんの頭は、白紙のページであると例えられる。幼い子どもは知識欲に燃えている。全身を目や耳にしてよく観察している。親がそれに気づいていなくても、せっせと情報を取り入れて整理収集し、結論を下している。メソメソした愚痴、爆発的な怒りなど、子どもが耳にする声や目にする態度が苛立ちを表すものであれば、それは子どもの心に刻み込まれて消えがたいものになる。

 小姐を褒めて育てたい。しかし、つい声を荒らげて叱ってしまい、反省ばかりである。またやってしまった…。反省だけなら猿でもできるっちゅうねん!よくない叱り方をしていると、小姐に悪影響を及ぼしてしまう。そう思うと、余計に焦る。

 例えば、お茶をこぼすのは大人でもあり得ることで、自分がこぼした場合は、あーあと言いながら拭くだけである。それなのに小姐がこぼすと叱るのは、自分の仕事が増える苛立ちからで、小姐を思ってのことではない。感情から発したもの、つまり母親である私の「ムカつき」が一気に爆発しているだけなのではないだろうか。小姐にとって瞬間的な怯えにはなるが、継続的な躾にはならない。親子ともども、時間がたつと忘れてしまい、また同じことを繰り返すという悪循環に陥る。

 母親だって人の子、ついカッとなる場合もある。しかし、子どもを叱るということは諭すことであり、前後を忘れて怒鳴りつけたり叩いたりするといった、母親のいきり立った感情をぶちまけるだけのものとなってはならない。私がカッとなって怒るなら、小姐は自制することではなく自制を失うことを学ぶだろう。おもしろくないときに癇癪をおこす危険性だってある。これではまったくもって本末転倒である。

 できるだけ感情的にならないように努力することはできる。一つ、叱るときは一呼吸おく。感情のままに叱ると声も大きくなり、とめどなく叱り続けることになりかねない。一呼吸おいて小姐の目線と同じ高さになり、小姐の手を握って話し始めると、小姐も聞く体勢になるし、何より、私自身の気持ちが落ち着くであろう。もう一つ、「何やってるの、アホ!」など、小姐の人格を否定する言葉を使わない。悪いのは、小姐がやった行為であって、小姐自身ではない。なぜそれが悪いことなのかをきちんと伝えなければならないのだ。躾は厳しいくらいでちょうどよいと思っているが、やたらガミガミ言えばよいというものではない。

 私は、小姐にどんな子どもになって欲しいのだろうか。私自身はその標準にかなっているだろうか。小姐に対してどんな手本になっているだろうか。不平を言ったり、あら捜しをしたり、消極的なことをくよくよ考えたりしていないだろうか。親が、すべての人に親切で思いやりがあり、高い道徳基準をもっているなら、子どもはその点で親に見倣うようになる。親は、子どもに望むとおりに自らが振る舞わなくてはならないのだ。

 幼いうちは順応性が高く、人格の大部分は就学前に確立されると言われている。好ましくない行動パターンは改めることができる。しかし、その指導が遅れたら遅れただけ、子どもの境遇を急に変えなければならないことになる。しかも、変化させられる可能性は年を経るごとに小さくなっていくだろう。生まれてからの数年を無為に過ごしてはならないのだ。親子がともに過ごせる大切な時期にこそ、真の道徳基準をもたせるために…。

 素直で愛らしく行儀のよい子どもは、偶然の所産ではない。手本と訓練によって作り上げられるのである。



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