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『橋の下の彼女』(16)
1999年7月1日(木)
フィリピン・アレン
耳元に置いたGショックのアラームで飛び起きた。五時三十分。窓の外は薄明るい。体を起こすと、床板がギシギシと音を立てる。
詰まったパイプが水を吸い込むときのようないびきをかいている辰三を起こさないように、将人は洗面用具を持って忍び足で部屋を出た。階段を下りると、リビングに広げた簡易ベッドの上でジョエルが寝息を立てていた。
二つあるトイレのどちらも、ドアノブの代わりに穴が空いているだけだった。だからドアには鍵がかからず、押さえていなければ半開きになってしまう。
サンパブロで話に聞いていた通り、トイレには水を貯めるタンクがなかった。壁には蛇口が一つあり、床に小さい桶がある。用を足したら、その桶を水で満たして便器に注ぎ込むわけだ。
ぱんぱんに張っていた膀胱を空にすると、将人は桶の水を便器にそっと流した。勢いが足りず、小水を含んだ水位が上昇してしまう。今度は勢いよく注ぎ込んでみたが、たまも失敗して汚水は便器のふちにまで迫ってしまった。
将人は破れかぶれで桶をふちいっぱいまで満たし、投げ入れるように便器に注ぎ込んだ。
ガボっという音と共に、汚水が吸い込まれるように流れた。ほっとため息をついてから、将人はシャワーのノブをひねった。壁の高いところから突き出ているノズルから、青臭い水が勢いよく噴き出してくる。ためらいながらも、その水で歯を磨き、全身を洗った。井戸水と小水、それに石鹸と歯磨き粉のにおいが混った複雑な臭気がトイレを満たした。
タオルで体を拭き終えたあとも、井戸水のぬめりは肌に残ったままだった。
静かにダイニングを進んでいると、二階の関内の部屋の扉がいきなり開いた。子供が着るような、派手な原色模様のパジャマを着た関内が飛び出してくる。いつものように、隣の部屋で寝る辰三を起こす気だ、と思ったがそうはせず、関内は視線を宙に漂わせながら無表情で階段を下りると、「おはようございます」と挨拶した将人を無視してトイレに入り、なぜか用も足さずに出てきて、再び階段を上がって自分の部屋に戻った。
、将人は何かいけないものを見てしまったかのような気分で落ち着かなくなった。時間は五時五十分。サンパブロなら関内がゲストハウスに飛び込んでくるのとほぼ同じ時刻だ。辰三を起こすつもりだったが、リビングに将人がいるのに気付いて、後ろめたくなって止めたのだろうかと将人は勘ぐった。そうとでも考えなければ、たった今目にした関内の行動はとてもまともな人間のものとは思えない。
将人はかぶりを振って、静かに部屋に戻ると、ノートを携えてリビングに戻り、昨日書き残した日記の続きを書いた。
少しして、小便に起きたジョエルが将人に微笑みかけてきた。
「セキウチさん、夜中に何度も何度も、さっきみたいにうろうろしていたよ。何だったんだろうね」
ちょっと怖いね、と将人はジョエルと苦笑いした。
六時三十分には、辰三を除く全員が起きて代わる代わるシャワーを浴びた。それから朝食までのあいだ、ライアンとジョエル、レックスは、リビングでテレビを見ながらくつろいでいた。
ひときわ長いシャワーから出てきた関内は、彼らに加わると、さっそく仕事の話を始めた。
ライアンが、ダイニングにひとり座っていた将人に歩み寄ってきた。
「タツミさん、そろそろ起こしたほうがいいんじゃない?」
見れば、時計は七時を指そうとしている。
「辰三さんはこっちに来てから、毎日とても早い時間に関内さんに起こされてたから――」将人はちらりとリビングの関内に目配せして、声をひそめた。「こういうときくらい、ゆっくり寝かせてあげたいと思ってさ」
「君が何を言いたいのか、わかる気がする」とライアンは笑顔で頷いた。「何なら、僕が辰三さんを起してこようか?」
ぜひ頼むよ、と将人は微笑んだ。
ライアンは、二階に上がっていってから一分もしないうちに、まぶたがほとんど開いていない辰三を連れて一階に降りてきた。
辰三は、自分以外の全員がもう身支度を済ませているのに気付くと、ばつが悪そうな顔で「グッドモーニング」と苦笑いした。
全員が揃ってダイニングの円卓に着くと、ライアンとジョエルがキッチンから次々と料理を運んできた。パンやフルーツの他に、ピラフや豚肉の煮物といった、朝食には似つかわしくないものもある。
「朝からこんなもの食ったら、胃がもたれてしまうね」
関内が辰三にぼそっとこぼした。
格子で仕切られたキッチンの奥に、アルバートや運転手と同じくらい色黒の、ふくよかなメイドの姿が見え隠れしている。テーブルまで直接料理を運ぶことを許されていないのか、調理が終わるたびに、彼女はキッチンから腕だけを突き出して、ダイニングテーブルから離れた小さなテーブルに料理を置く。ライアンとジョエルがそれを円卓まで運んでいるのだ。
関内は、ブエナスエルテ社に行くのが待ち切れないと言わんばかりに、がつがつと朝食を掻き込むと、他の面々がまだ半分も食べ終わらないうちから、そわそわとリビングを歩き回り、玄関を出たり入ったしている。
七時半ちょうどに運転手が現れると、関内がは彼に向っていきなり「君は遅刻だ」と言い放ち、そそくさと表に出て行った。
運転手が困惑した顔でレックスに弁明した。
「明日からは七時に迎えに来なさい」
レックスがなだめるように言った。おそらく、運転手は言われた時間よりも余裕をもって来たのだろう。
そんな会話を聞きながら、明日からは七時には社宅を出るのかと将人はうんざりした。
関内がすでにパジェロに乗り込んでしまったおかげで、レックスもライアンもジョエルも、朝食を途中で止めて立ち上がった。辰三はフォークをテーブルの上に乱暴に放り投げて、「まったくたまったもんじゃねぇ」と舌打ちした。
社宅からの道のりを歩くような速度で進み、途中から舗装路に出て、バス停のある三叉路を右へ曲がる。ブエナスエルテ社の周囲を囲む杭の列と、見張り小屋、その後ろにそびえる二台の巨大なコンテナーが見えてくる。
パジェロがブエナスエルテ社の敷地に入ると、リンドンと、すでに起きていた数人の従業員たちが、手を振って駆け寄ってきた。他の従業員たちは、昨日将人たちが夕食をとった加工場や、ほかにいくつかある小屋の中に広げた簡易ベッドの上で、上に何もかけずに眠っている。
パジェロの音で目を覚ましたそのうちの何人かが、ベッドからむっくりと起き上がり、しぶしぶといった様子でベッドを片付け始めた。だが中にはパジェロに一瞥くれただけで、再び眠り込む者もいる。
「みんなずいぶんとのんびりしてるんだね。こんな年寄りでも5時には目が覚めるというのに」
関内が蔑むように言った。
それはむしろ年寄りだからだろ、と言いたい気持ちを将人はぐっとこらえる。
「彼らには八時始業だと言ってあります。まだ寝ていて当然ですよ」
レックスが責めるような口調で返した。
関内と辰三が話し合い、今日はリーファーコンテナ二台の試運転を行うことになった。緑のコンテナは製品の保存用に冷凍庫として使う。白い方のコンテナは、内部が二つのコンパートメントに分けられていて、奥側が加工した魚を急速冷凍するための急速冷凍庫、手前が加工前の鮮魚保存用の冷蔵庫として使う予定だという。しかし試運転では両機とも出力を最大にして、このサマールの気温でも最大冷凍能力が仕様どおり発揮できるかを試すらしい。
仕様書には、環境にもよるが最大出力でマイナス三十度を維持できると記載されていた。以前、清新設備の山本が試運転したときには、マイナス二十度までしか下がらなかったようだが、ここの気温を考えればそれくらいが限界だというが辰三の見解だった。とはいっても、急速冷凍庫でマイナス二十度、冷凍保存庫でマイナス十度、冷蔵保存庫でマイナス五度の庫内温度が確保できれば、業務遂行には差し支えないということだ。
試運転では、発電機の燃費計測と、冷凍装置の冷気送風ファンの霜取り間隔設定、各コンパートメントの温度差などの測定・調整も合わせて行われる。
燃費計測は、AMPミナモトがブエナスエルテ社から加工品を買い上げる卸売価格を算出するための重要な要素の一つだと、関内が辰三に強調した。
リーファーコンテナの取扱説明書をぶつぶつ言いながら読んでいる関内のあとに続いて、将人と辰三はコンテナのハッチがある面とは逆側にある冷凍装置まで歩いていった。関内は、アルマンとリンドンを呼び寄せると、取扱説明書と冷凍装置の操作パネルを見比べながら、霜取り間隔の設定をする際のコツを説明する辰三の言葉を通訳して聞かせた。
霜取りとは、数分から数十分間、冷凍装置を一時的に停止して、ファンに詰まった霜を溶かすことだ。外気を冷却して庫内に送り込むため、長時間の運転ではファンがどうしても霜付きを起こす。ファンが霜で詰まってしまうと冷気が庫内に届かず、庫内温度が上昇してしまうため、それを溶かす必要があるのだ。湿度の高いアレンで、おまけに繰り返し扉の開閉が頻繁に行われることになるから、霜取りは頻繁に行う必要があるが、かといって回数を増やす過ぎれば庫内温度が冷凍や冷蔵に適する下限を超えてしまい、鮮魚や製品を痛めてしまうことになる。山本の試運転では、ハッチを完全に締め切った状態で温度測定したため、霜取りは日本の標準的な頻度で行われたようだが、今回の試運転では、実際に何度か扉を開け閉めして、ブエナスエルテ社の通常業務での使用環境を再現する。
霜取りのコツの説明を終えると、辰三はリーファーコンテナーが乗っているトレーラーシャシーの下回りから、タイヤの空気圧、ハッチのパッキン、さび付いたネジまでくまなく調べてまわった。レックス、ライアン、アルマン、リンドンの四人は、辰三の一挙一動を緊張した面持ちで見守っていた。
そんな検分を三十分ほど続けたあと、辰三がようやくタバコに火をつけながら、大きく「よし」と頷いた。
「何か、問題がありましたか?」
リンドンが恐る恐る辰三に聞いた。
「実際に動かしてみるまでは、なーんもわからねぇな」
言って、辰三は大笑いした。
しかし関内は間髪いれず、その言葉を「全く問題ないそうです」とレックスたちに通訳した。
試運転がすぐにでも始まるのだと、将人は思っていたが、関内は加工場に戻って満足そうに椅子にふんぞり返り、レックスに勧められるまま、サンミゲルを二本、立て続けに飲み干した。レックス、ライアン、アルマンにリンドンがあとを追ってテーブルに着くと、あろうことか、関内が再び日商赤丸時代の逸話を始めてしまった。
辰三が、また始まったよ、とかぶりを振った。
小一時間ほどを無駄話に費やしてようやく気の済んだ関内は満足げにアルマンに言った。
「そろそろ始めようかね。試運転はリンドンでなく君が指揮を取りなさい。燃費計算は、あのドラム缶の中に入っているガソリンがいくらだったかではなく、アレンで買える相場の最安値をもとに計算しなさい」
レックスは眉間に皺を寄せながら、ライアンやリンドンに目配せして頭を振っている。
関内と関わってかぶりを振らない人間はいないのではないか、と将人はふと思った。
アルマンとリンドンが試運転の準備のために加工場から出て行くと、レックスと関内が燃費計算について激しい口論を始めた。関内は数字がびっしり書き込まれたノートをレックスの前に突き出し「計算上はやってできない数字じゃない」と言えば、レックスは「こんなのは机上の空論です」と声を荒げる。ライアンは自分のノートを取り出して、関内の数字を静かに書き写している。
「この数字(価格)でなければ、AMPミナモトはブエナスエルテ社から製品を買い取らないよ」
関内がそう言うと、レックスはむすっと黙り込んでしまった。
将人が資料を読んだ限りでは、ブエナスエルテ社の製品は独占的にAMPミナモトが全て買い上げることになっていた。〈ミツオカプロジェクト〉の出資で立ち上げられたブエナスエルテ社だから、「それなら他の業者に買ってもらうまでだ」というわけにはいかないのだろう。
関内は本当に〈ミツオカプロジェクト〉でやりたい放題なんだな、と将人は改めて感じだ。
辰三がテーブルから離れ、加工場の隅でタバコを吸い始めた。将人は辰三について席を離れ、聞き取れる限り、関内とレックスの会話を通訳した。
「加工品をいくらで買うかなんて話はよ、冷凍装置が動いてからにすりゃいいのにさ」辰三がむっとした顔で言った。「つまらねぇ話で試運転遅らせてよ、結果がわかる前に日が暮れちまうじゃねぇか。もう十時だぞ、日商赤丸の話をいくら聞いたって、製品は一個もできやしねぇんだ」
現地人の従業員を雇い、魚のおろし方から梱包、冷凍保存のやり方までを指導して、三週間以内にブエナスエルテが稼動できる状態にするという任務を請けている辰三が焦る気持ちは、将人にも理解できた。
そのとき、関内がレックスとの会話を中断して、辰三に向けて声を張り上げた。
「辰三さん、私はまだレックスとの話し合いに時間がかかりそうですから、適当なところで試運転を始めていてもらえますか?」
辰三は「やっとだよ。どれ、すぐにでも始めるか」と言いながらも、笑顔になって将人の背中をバチリとたたき、アルマンとリンドンの待つ発電機の方へ足早に向かった。
発電機の脇では、すっかり待ちくたびれたといった様子のリンドンとアルマンが座り込んで談笑していた。彼らは辰三に気付くと、跳ねるように立ち上がり、「始めますか?」と声を揃えて聞いた。
「おう、すぐに動かせ」
辰三が指をくるくる回して合図すると、アルマンがスイッチを入れた。
発電機が唸りを上げて始動した。発電機と向かい合っている冷凍装置のパネルが一斉に点灯する。
「マイナス二十度になるまで、たぶん三時間から四時間はかかるから、それまでは待つしかねぇな。冷えてから、開け閉めを繰り返して、霜の具合を調べるんだ」
辰三が白い方のリーファーコンテナに入った。将人も続く。コンテナはタイヤのついたシャシーに載せられているので、出入り口の扉は、地面から一メートル五十センチほどの高さにある。扉の前には、ヤシの木で作られた、階段付きのプラットホームが設置されていた。プラットホームは二台並んだコンテナの出入り口(ハッチ)をつなぐ通路になっていて、端で折れてL字を描いてさらに三メートルほど伸びている。
「魚を積んだトラックが、L字型部分に横付けすれば、積荷を一度地面に降ろすことなく、荷台から直接コンテナの中に搬入できるんだ」とリンドンが教えてくれた。
コンテナの中には、すでに冷風が勢い良く流れていて、クーラーの効いた部屋にいるような心地よさだった。だがそれも最初だけで、背中を滴り落ちていた汗がすっかり冷えると、ひりひりするような痛みすら伴う寒さを感じるようになった。
コンテナの中の、二つのコンパートメントを仕切っているぶ厚い透明のビニールカーテンをめくり、、辰三は最深部にある送風ファンから噴き出す冷気とファンの具合を調べた。急速冷凍庫として使われることになるそのコンパートメントの床は、すっかり白い霜で覆われていた。
将人とリンドンが辰三に続いて進もうとしたとき、辰三が飛んできて乱暴に両腕で押し返された。
「お前らサンダルだろ、素足で床を踏んだら足の皮膚が床にはりついて取れなくなるぞ! まかり間違って転んだら、顔や手の平もはりついちまう。そうなったら、皮膚をベリっと剥がすか、冷凍庫を止めて溶けるのを待つしかねぇ。どのみち凍傷は確実だぞ。いいか、くれぐれも素足で冷凍庫に入るんじゃねぇぞ」
将人は慌てて急速冷凍庫から飛びのくと、訝しげな顔のリンドンとアルマンに辰三の言葉を通訳して聞かせた。二人も、めくりかけたビニールカーテンから慌てて飛びのいた。
外に出ると、辰三がリンドンたちに改善すべき点を二つ告げた。一つ目は、プラットホームが木製なので、鮮魚と水の入ったバケツの積み下ろしが頻繁に行われるようになると、こぼれた水で腐る可能性があるため、タールかペンキで前面塗装すること、二つ目は、リーファーコンテナがタイヤのついたトレーラーシャシーに載ったままなので、ゴムが劣化してパンクするのは時間の問題、パンクしてしまったら大事になるため、タイヤなしでシャシーが自立するよう早急な対策をすること。
リンドンは、小さな手帳を取り出して、辰三の言葉を逐一メモした。
とりあえずあとは庫内温度が下がるのを待つだけになり、将人と辰三は加工場に戻った。
「関内さん、試運転を始めました。マイナス二十度までは、あと三、四時間かかります」
辰三が誇らしげに言ったが、レックスと相変わらず口論を続けている関内は、すばらしい、と感情のこもっていない声でぶっきらぼうに答えた。
「ひとつ、提案があるんですけど」辰三が遠慮がちに言った。「試運転とはいっても、ただ冷やすだけじゃもったいないでしょ。せっかくだから、ミナモト水産から持ってきたあの大きなバケツに水を入れて氷をつくりましょうよ。製氷機で作れるのは、カキ氷みたいなフレークアイスでしょ。冷蔵庫で加工前の魚の鮮度を保つには、ブロックを砕いたような氷の塊が必要なんです。いい機会だから、バケツ氷が何時間で作れるかも、試してみたいんです」
関内が通訳すると、レックスが声を上げた。
「それはすばらしい考えですね。出来上がった氷は、地元の漁業組合が喜んで買い取るでしょう。そうでなくても、アレンには氷をほしがっている人がたくさんいますからね、買い手には困りませんよ」
話を脇で聞いていたライアンやジョエル、その他の従業員たちまでも、氷を売るという話が出た途端、興奮気味にざわめきだした。
関内は急に笑顔になったかと思うと、テーブルからさっと立ち上がり、従業員たちに向けてこれ見よがしに言った。
「このような素晴らしいアイデアを思いつく辰三さんをサマールに呼んだ〈私の〉考えは、やはり正解だったな」続いて関内は辰三に向って「だから地元に詳しいレックスを〈私が〉ビジネスに誘ったのは正解だでしょ」と日本語で言った。
ライアンが拍手を始めた。従業員たちも後に続く。将人の目にはちょっとした茶番劇にすら見えた。
「さあ諸君、がんばって精一杯金を稼いでくれよ。全てが〈ミツオカプロジェクト〉のため、そしてやがては君たちの懐に入る金になるんだからね」
言って、関内は声高に笑った。
レックスはそんなやり取りにはいっさい付き合わず、アルバートのほか数人の従業員を呼び集めて氷を作る手順を指示する。〈ミナモト水産〉と筆文字のロゴが印刷された風呂桶のように大きなバケツが次々と運ばれてきて、出の悪い蛇口から水が注がれていく。いっぱいになると、従業員たちは二人一組になって、見るからに重そうなそのバケツをリーファーコンテナの中に運び込んでいった。
今日の昼食も昨日と似たり寄ったりの豪勢なものだった。こんな食事を毎日続けていたら日本に帰る頃には肥満体になってしまうのではないかと将人は不安になる。しかし食事を楽しむ以外に、コンテナが設定温度に達するのを待つあいだ、やることがないのも事実だ。
リンドンとアルマンは、発電機の燃料と冷蔵庫の温度をチェックしてまわり、ひたすらノートに書きとめていた。関内は午前中に語ったのと同じ逸話をまた語り、気が済むと、ライアンが気を利かせて持ってきた簡易ベッドに寝転がったかと思うと、あっという間に寝息を立て始めた。
関内が眠ってしまうと、他の面々はほっとした顔で加工場から出て行った。
テーブルには辰三と将人だけになっる。
そのうち、辰三が椅子に座ったまま居眠りを始めると、アルバートがどこからか簡易ベッドを持ってきた。広げられた簡易ベッドに寝転ぶと、辰三は関内も顔負けの早さでいびきをかき始めた。
将人は書類カバンからノートを取り出して、さっそく今日の日記を書くことにした。
試験運転開始から四時間経過した午後二時になっても、庫内温度はマイナス五度前後からなかなか下がらなかった。アルマンとリンドンは、霜取りの頻度を低くして冷凍装置が動いている時間が長くなるよう調整していた。
三時を過ぎたころ、関内と辰三がようやく目を覚ました。
アルマンはさっそく、寝ぼけ眼の関内に燃料消費量とコンテナ内の温度変化の経過を報告した。予想より燃費効率が悪かったのか、関内は「本当に計算は合っているのか」とか、「なぜ庫内温度がこんなに下がらないのか」などと文句ばかり言っている。
辰三が半開きの目をこすりながら、リーファーコンテナの方へ歩いていった。簡易ベッドに頭を押し付けて寝ていたせいか、パンチパーマの後頭部が見事に潰れている。
辰三は冷凍装置の操作パネルに表示された庫内温度と、霜取り間隔の設定を見比べて首を傾げた。アルマンの記録によると、庫内の温度はここ一時間ほどでむしろ上昇しているらしい。
「いくら外が暑くても、四時間ありゃ、真夏でも十分に冷えるんだけどな」
辰三はコンテナの中に入り、ファンの霜付き具合をじっくりと調べた。出てくると、納得したように頷きながら言った。
「霜取りの間隔をもっと短くしろって、リンドンとアルマンに言ってくれ。湿気がすげぇのと、水の入ったバケツを何十個って入れたせいで、送風ファンが霜でフタされたみてぇに凍りついまってんだ」
リンドンたちに霜取りの感覚を短くするよう伝えると、辰三の寝ている間に逆の設定に変更していた彼らは、一目散に操作パネルの方へ駆けていった。
太陽が沈むと、また大量の蚊が膝下を襲ってきた。
六時ころになって、アルマンが「冷凍庫の温度がマイナス十度まで下がりました」と報告にやってきた。
「順調に温度は下がっているが、マイナス二十度に達するには、あと二、三時間はかかるな」
辰三が答える。
「続きはまた明日にして、社宅に戻って晩酌でも始めましょうかね」
言って、関内はパジェロの方に歩き出したが、その途中、ブエナスエルテ社に新設されたというバスルームを見つけて立ち止まった。
「なんだこれは? こんな豪華なシャワー室を作って、建設費用はどこから捻出したんだ?」
「新設とは言っても、もともとあったブロック積みの倉庫にタイルを敷き詰めて、中古で買ってきたトイレとシャワーの部品を取り付けただけですよ」
レックスが答える。バスルーム小屋には小部屋が二つあり、片方がトイレで、もう片方がシャワー室になっていた。レックスの言うとおり、豪華でもなんでもなく、壁のブロックも部品も古臭い。新しいのは床のタイルだけだった。
「社宅のやつよりよっぽどきれいじゃないか。よし、これからは毎晩、私はここを使うことにする」関内は口を尖らせて言った。「辰三さんも柏葉くんも、今夜からここを使うようにね。従業員たちが私たちより上等なシャワー室を使っているとは、まったくとんでもない話だ」
ブエナスエルテ社でシャワーを浴びなければならなくなったので、将人たちは社宅までわざわざ着替えを取りにいった。
当然のように関内が最初にシャワーを使った。将人と辰三はレックスに勧められ、見張り小屋の中で待つことにした。将人たちが入っていくと、小屋の中で談笑していたフィリピン人たちが一斉に立ち上り、緊張した面持ちで、二脚の椅子をさっと差し出してくる。
続いてレックスが入ってくると、見張り小屋にいた従業員たちはおののく様にみな外に出てしまった。
小屋の中で三人だけになっても、レックスは関内との口論の後味を引きずっているのか、難しい顔で腕組みをしたまま、ひと言も話そうとはしなかった。そのせいか、辰三はもじもじと居心地悪そうにしている。
小屋の隅に置かれた、錆びた室内アンテナのついた小さなカラーテレビからは、笑い声の止まないコメディ番組が流れていたが、電波が悪く画面がゆがみ、音も割れていて、とても見られた代物ではなかった。
将人が手持ち無沙汰で小屋の中を見まわしていると、ふと奥の柱につり下げられている、太い鎖でつながった二本の短い金属棒が目に入った。まさかとは思ったが、小学校の低学年から高校を卒業するまで空手道場に通っていた将人には、それがヌンチャクにしか見えなかった。
「レックスさん――」
恐る恐るレックスに声をかけてみる。眉間に皺を寄せながら物思いにふけっていたレックスがはっと顔を上げた。思わず、何でもありません、と言いそうになる。
「あそこにかかっているものですが、もしかしてヌンチャクでは――」
将人が言い終わらないうちに、レックスが答えた。
「あれはうちのボディガード、ノノイの武器だ。空手四段なんだよ」
レックスが見張り小屋の外に向って「ノノイ!」と声を張り上げた。
数秒もせず、身長百七十五センチほどの、短髪で目鼻立ちのくっきりした、ハンサムなフィリピン人が見張り小屋に入ってきた。白いよれよれのタンクトップは盛り上がった大胸筋でせり出すように持ち上がり、わきの下の隙間からのぞく腹筋はバスルームの床のタイルのようにくっきりと割れている。
「こいつがノノイだよ」
レックスが言った。
ノノイと呼ばれた男は、物怖じしない、落ち着きのある笑みを――本当に強い空手の選手はよくそういう笑みをした――将人に向けた。
「あのヌンチャクは君の?」
将人はノノイという名の用心棒に聞いた。彼は歯を見せて大きくうなずいた。レックスがタガログ語で何か言うと、ノノイは「オーケー、サー」と言って、つるしてあったヌンチャクを手際よく柱から取り外した。
「そとへいきましょう」
ノノイは訛りの強い英語で言った。
ノノイのあとに続いて、将人は見張り小屋を出た。外はすっかり暗くなっていたが、発電機の余剰電力を使って、二台の移動式水銀灯がコンテナ周辺を昼間のような明るさで照らしている。その二つの明かりが交差する中央で、ノノイは立ち止まった。手の平を向け、将人に、「すこしはなれてください」と告げる。
将人が数歩うしろに下がった途端、ノノイは何の前ぶりもなく、信じられないような速さでヌンチャクを回し始めた。ステンレス製の重いパイプが、まるで練習用のウレタン製ヌンチャクのように軽々と高速で回転を続ける。パイプはぶれることなく同じ軌道を描き、ビュンビュンと空気を裂く音を発しながら、ノノイの体のあらゆる部分に巻き付いては跳ね返り、回転方向をめまぐるしく変えていく。今まで目にしてきた、形ばかりの演舞とはまるで次元の違うヌンチャクさばきに、将人は完全に魅了された。感動と同時に恐怖を覚えるのは、達人の技を見たとき特有のものだ。
まだ本気じゃないよ、といわんばかりに、ノノイはヌンチャクの残影の向こう側から、将人に余裕の笑みを投げかけてくる。彼は回転に合わせて、おどけるように軽いステップすら踏み始めた。右に左に方向を変え、ときに百八十度くるりと回転して、全方位に対して隙がないことを証明している。
三分ほど経っただろうか、シャキン、という音を立てて、金属製のヌンチャクが、ノノイの脇の下にぴたりと挟まって回転を止めた。
将人は、自分がずっと口を空けて見とれていたことにはっと気付いた。
「こんなヌンチャクさばき、今まで見たことないよ」
将人は自然と拍手をしていた。
「これくらい、みんな、できますよ」
ノノイは肩をすくめ、照れくさそうに笑った。
見張り小屋に戻ると、将人は興奮しながら「ノノイのヌンチャクさばきがすごいんです」と辰三に言った。
その途端、辰三がいきなり怒鳴りだした。
「さっきレックスが何か話しかけてきたのによ、通訳のお前が表でふらふらしてるから答えられなかったじゃねぇか! 遊びに来たんじゃねぇんだぞ! 関内さんのいねぇときはな、俺の隣を離れんじゃねぇよ、わかったか!」
将人は驚いて、すみません、と何度も謝った。確かに辰三をひとりにするべきではなかったが、レックスもレックスで、辰三が英語を理解できないのはわかっているのだから、何か話があるのなら、自分が戻ってくるまで、少しのあいだ待っていてくれればよかったのに、と将人は内心、不満に思った。
レックスが「何か問題でもあるのかね?」と将人に聞いてきた。「何でもありません」と将人は答えたが、レックスは難しい顔をしている辰三に向けて首を傾げた。辰三は急に表情を緩め、「ノープロブレム」と言った。
関内がシャワーを終えて見張り小屋に入ってきた。すぐにレックスの隣に座って、燃料費や人件費がどうのこうのと金の話を始める。まだコンテナの試運転が終わってもいないうちから具体的な数字が出せるわけがないのは将人でもわかることなのに、関内はノートに計算式をつらつらと書き込んでは、レックスの目の前にかざし、「これくらいは可能だよな?」などと言っている。そんな式を見せられるたびに、レックスはうんざりしたように首を横に振る、ということを繰り返した。
二人がそうしたやりとりをしているあいだ、辰三と将人がシャワーを浴びた。
将人がシャワーを終えて見張り小屋に戻ったときも、関内はレックスと議論を続けていた。いつもなら「今私が話しているのはですね――」と、実際に話している英語の何倍も高度な日本語訳を自慢げに辰三に語って聞かせる関内だが、なぜかそのときだけは通訳をまったくせず、ひたすらレックスと話し続けていた。
レックスの訛りの強い英語と、関内の不可解な英語で交わされる会話は、将人の耳では二割も理解できれば良い方だった。初めのうちは、それでも聞き取れた範囲で辰三に通訳していたが、辰三は不機嫌な顔で頷きもしないので、途中から将人は通訳を止めた。
しばらくして、突然、関内が辰三に大声で聞いた。
「――とまあ、そういう話なんですけど、辰三さんはどう思います?」
ぼおっと退屈そうに宙を眺めていた辰三は、関内にいきなり話しかけられて、ビクリと飛び上がった。
「そういう話って、何の話です?」
だが関内は、いつものように辰三に話の内容を説明しようとはせず、代わりに、ああそうだった、通訳していなかったな、と言わんばかりの芝居がかった驚きの顔で、老眼鏡の奥から将人を責めるような目で見据えてきた。
「もしかして柏葉君は私たちの会話を通訳していなかったのですか?」言いながら、関内は口元をにやりと上げた。「まあいいですけどね、ブエナスエルテ社の経営に関わることだから、〈重要な話〉じゃないですし」
やられた――将人は歯を食いしばった。昼間は何とか逃れた関内のワナに、ここにきて油断した途端に、見事に引っかけられてしまったのだ。
だが、ときすでに遅し、辰三の顔がみるみる赤らみ、鬼の形相に変わっていく。
「この野郎、だから言っただろうが!」辰三は立ち上がり、隣で座っていた将人の胸ぐらをひねり上げた。「お前の仕事は通訳だろうがよ! 黙ってる通訳が何の役に立つってんだ、このドアホが!」
言い返したい言葉が次から次へと頭の中にあふれ出てきたが、そんなことを口に出せるはずもなく、とにかく謝らなくては、と将人は立ち上がった。
とにかくこの場は治まってくれ――そう一心に願いながら、将人は辰三に何度も何度も頭を下げた。やっとの思いで手に入れた通訳の仕事、夢への第一歩――そのためにこれくらい耐えなくてどうする――永遠に続くわけじゃない、たかが一ヶ月じゃないか――ここに来るために、せっかくできた彼女とも別れてきたんだぞ――。
将人は辰三の罵声にひたすら頭を下げ続けた。
しかし、ふと顔を上げたとき、唖然とした表情で見つめているレックスの隣で、関内がにたにたと笑っているのが目に入った――その瞬間、将人の中で何かが音を立てて弾け飛んだ。
胸倉をつかむ辰三の手を乱暴に払いのけ、将人は大声で言い返した。
「関内さんは、いつも自分で自分の言ってること通訳してるじゃないですか! たまに僕が通訳を始めれば、途端に遮るように通訳を始める。ところがどっこい、僕が黙ればまた通訳しなくなる! どっちかにしてもらえませんか? 気分で決められちゃ困るんですよ!」言い過ぎている、と思いながらも、将人は最後の一言を、どうしても止めることができなかった。「ただし、僕は〈英語〉の通訳ですからね、〈英語〉で話してくれないと通訳できませんよ。当然じゃないですか?」
終わった――言い終わった途端に、情けない気持ちが全身を駆け巡った。通訳が「通訳しろ」と当然のことを言われたのに、それに楯突いたのだ。普通の社会人なら、当たり前に我慢するべきことだろう。日本に帰って、再び人材派遣会社や職安をまわる仕事探しを一から始めることになると思うとうんざりしたが、不思議と、同時に妙な開放感も感じていた――関内のような人間に我慢してひざまずかなくとも、きっとかなえられる夢はある、それこそが、自分の求めるものなんだ――と。
辰三にひねり上げられたせいで、首周りが破けてしまったTシャツを一瞥してから、将人は見張り小屋にいる全員に向けて声を大にした。
「僕だって人間です。サンパブロからサマールにやってきて、汗まみれで働いて、ようやくシャワーが浴びられたんです。少しくらい休憩してもいいでしょう? それに関内さん、いっつも同じ話ばかりしてるから、通訳の必要もないでしょう――」
辰三は将人の胸元を両手の平でぐいと押すと、「表に出ろ!」と凄んだ。
将人の手足が武者震いを始めた。いくら仕事とはいえ、この仕打ちは許されるものではない――自分は十万で雇われた奴隷ではないのだ――手を出されたら、殴り返そう――。
将人は、自分で自分が制御できなくなる、数センチ手前にいるのを自覚した。
そのとき、含み笑いをした関内が、将人と辰三のあいだに割って入った。
「ほらほら、辰三さんも柏葉君も落ち着きなさいって。血の気の多いってのはいいことじゃないか。若い証拠だよ、レックス、君もそう思うだろ?」
日本語で聞かれたレックスは、目をぱちくりさせてから「何が起きているのか私にはわからない」と答えた。
関内の横顔を、眼鏡ごと殴りつけてやろうかと将人が握り拳を持ち上げたとき――うしろから、レックスがその腕をぐっとつかんだ。
「プリーズ」レックスは将人に小さく首を振ってから、逆の手を辰三の肩にかけた。「タツミさんも、プリーズ、カーム(落ち着いて)」
レックスがおどけた笑みを浮かべて、クスクスと笑った。まるで、「今のは私を驚かそうとした冗談なんでしょう?」という言い訳を与えてくれているかのようだった。
「しっかり仕事しろ、このボケが」
言って、辰三は椅子にどさりと腰を下ろした。
レックスに誘われるように、将人も椅子に座った。歯を食い縛りながら、関内の顔を思い切りにらみつける。
気付けば、見張り小屋の周囲には、心配そうな顔をした従業員たちが集まっていた。
関内は苦笑いを浮かべると、エミリーたちと話すときのような、穏やかな口調で将人に言った。
「まあまあ、巻き戻して、もう一回最初からやり直せばいいだけのことだ。さっきまで私とレックスが何を話していたか、今から辰三さんに通訳するから、柏葉君は勉強のつもりで聞いていてください。難しくてわらかない部分があっても、そのうち理解できるようになるからね」
関内はまるで生徒に人気者の先生のような口調で将人にそう言ってから、辰三にレックスとの会話の内容を説明し始めた。こんなことがあったあとだけに、退屈な話でも辰三は聞き流すわけにもいかず、眉間に皺を寄せながら、小さく相づちを打って聞いてはいたが、その困ったような顔からして、話の内容をほとんど理解できていないのは明らかだった。
関内は続いて、その日本語で辰三に説明したことを、今度はレックスに通訳して聞かせるという、冗談のようなことを本気で始めた。
七時過ぎに社宅に帰り、ブエナスエルテ社に残ったリンドンを除く七人で夕食の円卓を取り囲んだ。関内は食事を済ませてからも、九時近くまで日商赤丸時代の逸話とミツオカプロジェクトの話を、息継ぎも惜しむように続けた。
話し疲れた関内が部屋に退くと、レックスはうんざりした表情で、ライアンたちと短く言葉を交わしてから、「おやすみ」と部屋に戻っていった。
ダイニングテーブルからみなが去ったあとも、将人はひとりそこに残った。テーブルの片付けを始めた、太ったメイドがコーヒーを持ってきてくれた。
「お話しするのは初めてですね。私はメイドのサンと申します」
メイドが自己紹介した。将人も自己紹介を返しながら、自分はただのアルバイトだから、ライアンたちと同じように友達みたいに接してくれればいい、と言った。サンは頷きはせず、肩をすくめてにこりと微笑んだ。
そうだ、日記を書こう、と将人は書類カバンからノートを取り出してはみたが、関内に対する怒りはまったく静まっておらず、そのせいで筆がまるで進まなかった。今日起こったことは、書き残すより、忘れたい、というのが本音なのだ。
「ちょっと話せるかな?」顔をあげると、さっきまでリビングでアルマンとジョエルと笑い声を上げていたライアンが隣に立っていた。「父さんから聞いたよ。タツミさんと喧嘩したらしいね。父さんは日本語がわからないから、何が原因なのかはわからないけど、ショウは、タツミさんと殴り合いを始めそうなほど怒っていたって」
原因は関内さんだよ、と言う代わりに、将人は苦笑いしながら「レックスさんには助けられたよ」と頷いた。
「でもショウはすごいね」ライアンは本気で感心している、と言うような笑みを浮かべた。「日本人というのは、上司には絶対に逆らわないって思ってたから」
「普通はそうだよ。僕が間抜けなんだ」将人は何とか微笑んで見せた。「君にこれを言うのは失礼にあたるだろうけど、正直、僕はこっちに来てからというもの、フィリピン人特有のアクセントには本当に苦労している。聞き取れないわけじゃないけど、聞き取りやすいわけでもない。おまけに関内さんの英語ときたら――僕はあれを英語とは思わない。フィリピン英語に関内語、その二つにどう対応していいか、まるでわからないんだ」
ライアンが笑った。
「無理もないよ、フィリピンの英語も〈シングリッシュ〉同様、〈タガリッシュ〉って呼ばれて外国人にバカにされることがよくあるんだ。ところで、僕の英語も、やっぱりわかりにくいかな?」
ライアンの発音も、レックスと同じでかなり独特だったが、関内と違って文法が完璧なので、普通の会話で理解できないようなことはなかった。
「君の発音もフィリピン人らしいけど、たぶん、僕が今まで会ったフィリピン人の中ではずば抜けてわかりやすいよ。君が話しやすい人だから、という心理的なものもあるとは思うけど」いつしか、将人はリラックスした笑みを浮かべている自分に気づいた。ライアンと話したことで、さっきまでの関内に対する怒りがだいぶ落ち着いたのだ。「正直なところ、僕はこの通訳の仕事を最後までやり遂げる自信がないんだ。問題は、フィリピン人の英語じゃなくて、関内さんの人間性だよ。僕はあの人の下では働きたくない」
意外にもライアンは大きく相づちを打った。何だか彼が昔からの親友のように思えてきて、将人はそれから、フィリピン到着からサンパブロ、アレンに至るまでに関内から受けた理不尽な仕打ちについて洗いざらい語った。
ライアンはひと言も挟まず、じっと相槌を打ちながら、将人の愚痴を最後まで聞いてくれた。
「僕はね、生まれも育ちもダバオなんだ。フィリピン第二の都市ってとこかな。大学を卒業したら、ダバオの外資系企業か、マニラの一流企業で働こうと思ってた。でも父さんがこのビジネスを始めるって決めて。だから僕はアレンにやってきた。そして、これから何年も、ここアレンに留まり、ブエナスエルテ社を運営していく。僕はね、ショウがサンパブロでセキウチジェイル(監獄)に閉じ込められたように、この田舎町に閉じ込められたも同然なんだ。出たくても出られない。仮にGFCのゲストハウスで一生暮らさなければならないと想像すれば、きっと僕の今の気持ちもわかってもらえるんじゃないかな? つまり、僕たちは似たような境遇にいるんだ。ただし、ショウは数週間後には必ず開放されるけどね」
将人はなんだか自分が恥ずかしくなった。
「ライアンもGFCのゲストハウスに泊まったことがあるの?」
「一度だけね。アレン監獄のほうがずっとマシだと思ったのは、あのときが始めてかな」ライアンがウィンクした。「いいかいショウ、セキウチさんは今週土曜日にサンパブロに戻るんだ、もう飛行機のチケットも手配してある。だから、あと数日の辛抱じゃないか」
ライアンがリビングのジョエルに向けて親指を立てた。
「金曜の夜、カルバーヨグという港町へ鮮魚の買い付けに行くんだ。泊まりでね。あの町はジョエルのお得意なんだ。君を楽しい場所に連れていくんだって、今から張り切ってるんだよ」
「楽しい場所?」
将人が首をかしげると、「それは行ってのお楽しみ」とライアンとジョエルがくすくすと笑った。
それから、将人はリビングのジョエルとアルマンに加わり、仕事の愚痴や女性の好み、バスケットや夜遊びのことなどを、馬鹿笑いしながら語り合った。意外だったが、ライアンだけでなく、ジョエルやアルマンも、関内の英語はわかりにくいよ、とあっけらかんと認めた。
そんな話を続けるうちに、将人は彼らに強い友情を感じ始めた。
十一時に近づこうかというころ、原色のパジャマ姿の関内が小便に起きてきた。将人たちは慌てて話題を変えた。
小便を済ませた関内は、「若者の笑い声がうるさくて目が覚めてしまったじゃないか」と日本語でこぼしながら階段を上がっていった。
関内には人一倍気を使わなければならない立場だからか、アルマンが「そろそろ寝ようか」と言った。
みなが頷いた。
「ところで、ショウはあの部屋でタツミさんと二人だけど、どうやって寝てるんだい?」
ライアンが、笑いをかみ殺して言った。
「君が割り振っておいてよく言うよね」将人は関内などかまわず大笑いした。「まさか一緒のベッドに寝るわけにもいかないから、昨日は床の上に寝たんだよ。顔の上をゴキブリが歩いていくけど、詰まったパイプのようないびきをかく辰三さんと一緒のベッドに寝るよりはいくぶんマシかな」
ライアンとジョエルが大笑いした。アルマンだけは関内の部屋の方を気にして笑いをこらえていたが、そのうち耐え切れず噴き出した。
笑いがおさまると、ライアンがジョエルの使っていた簡易ベッドを指差した。
「あれを使うといいよ。ジョエルは今夜、ブエナスエルテ社で寝るんだってさ。あそこの方が涼しいからね」
「今夜は君たちのおかげでずいぶん元気になれた、本当にありがとう」
将人はライアン、続いてアルマンとジョエルとも握手を交わした。
「早くタツミさんと仲直りしてね。ブエナスエルテ社のためになると思って」
ライアンの言葉に、将人は大きく頷いた。そう、彼らのため、そしてブエナスエルテ社のためなら、この仕事をやり遂げられる気がしてきたぞ――。
部屋のドアをそっと開け、けたたましいいびきをかいている辰三を起こさないように、将人は静かに簡易ベッドを広げた。ベッドの上で薄い毛布に包まりながら、今夜、眠りを妨げるのは辰三のいびきだけだ、とほっとする思いで目を閉じた。
だがその夜も、足の長いゴキブリは将人の顔の上を数回、往復した。
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