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『橋の下の彼女』(25)-2
タタイ・アナックを出ると、アルマンに続いて、将人は二番手でパジェロに乗り込んだ。彼は後部座席でなく荷物スペースに座り、まるでアルバートのように小さく膝を抱えている。
「アルマン、気持ちはわかるが、態度に出すのはよくないよ」
クリスが、バックミラー越しにアルマンに言った。
「言われなくたってわかってるよ、〈これ〉が会社のために必要だってことくらい」
言って、アルマンは膝のあいだに顔を埋めた。
どうやら、クリスも〈秘密の計画〉の内容を知っているようだ。クリスなら教えてくれるだろうと将人が口を開きかけたとき、タタイ・アナックから遅れて出てきた辰三とライアンが、パジェロのすぐうしろまで来ているのが見えた。
「タツミさん、今夜は最高だろうな。まったくうらやましい。私だって、あんな美人と一晩中、〈ファック〉してみたいですよ」
クリスがつぶやくように言った。
「〈ファック〉だって?」将人は目を見開いた。「ちょっと待ってよ、辰三さんが〈ファック〉って、いったいどういうこと――」
そのとき、パジェロのドアが勢いよく開いて、辰三、ライアン、ジョエル、リンドン、さらにイボンまでが、なだれ込むように乗り込んできた。
「さあ、いよいよパーティー本番の始まりですよ」
ライアンが辰三に微笑みかけた。辰三は苦笑いしながら、何事か、というように首をかしげている。
クリスは将人に肩をすくめて見せると、定員オーバーの車をゆっくりと発進させた。
車が走り出した途端、ライアンたちが急に静かになった。車内にぎこちない沈黙が漂う。ときおり、仕事の打ち合わせかのような事務的な口調で話すライアンとジョエルの低い声が響くだけだ。
何とも尋常でない空気を感じ取ったのか、辰三が助手席の将人へ身を乗り出してきた。
「おいショウ、もしライアンたちが、どこかに女を買いに行くとか、俺に女を用意するとか、そんな相談してんなら、俺は遠慮するから、先に社宅に降ろすように言えよ。そういうのはお前らだけで遊んでくりゃいい」
「彼らはタガログ語でしゃべってますから、何を言ってるのかわかりません。でももしそんな話があったら、そのとおり伝えますよ」
もはやアマリアを巻き込んだ何かが進行しているのは間違いないと将人は感じた。
パジェロが先日訪れたビーチに到着した。イボンとクリスを除いた全員が、そそくさと車を降りる。
夜風はべたつくほど湿っていて生暖かい。将人は思い切り伸びをして、その空気を肺いっぱいに吸い込んだ。普段なら、社宅のリビングで日記を書いている時間だが、今夜はこうして満天の星空の下、踏み込むたびに、ギュッ、と音を立てる白砂のビーチを、ほろ酔い気分で歩いている。すっかり生き返ったような気分だった。
星明りを反射してきらりと光る波頭。沖に向かって孤を描くヤシの木。風に漂う熱帯植物独特の香り――。
フィリピンにいるんだなと、あらためて感じさせられる。
ジョエルと辰三が、砂浜でかけっこを始めた。三十メートルほど先の東屋まで、砂浜を全速力で駆けていく。
辰三が勝った。息を切らしながら追いついたジョエルと手をたたき合わせている。
そんな光景を微笑みながら見ていたライアンが、将人の隣に並んで唐突に言った。
「実はね、もうアマリアを待たせてあるんだよ」
やっぱりそうだったのか、と思って将人はあたりを見回したが、薄暗いビーチのどこにも彼女の姿は見えない。
「待たせてるって、どこに?」
「タタイ・アナックで飲んでるあいだにね、クリスが彼女を迎えに行ったんだ」微笑んだライアンの頬が、星明りを反射して暗闇に浮かび上がった。「今、町外れのモーテルにいるよ」
将人はあんぐりと口を開けた。
「ちょっと待ってくれ。君たちがアマリアを巻き込んで何か計画しているらしいのは気づいたけど、なんで彼女をモーテルなんかに――」そこで将人は、はっとクリスの言葉を思い出した。「まさか本気で辰三さんとアマリアをそういうことに――」
ライアンが将人の口に手をあてがって、にんまりと笑った。
「昨日の晩、ジョエルは社宅を出たあと、アマリアに会いに行ったんだ」
「会社で寝るから、って帰ったはずじゃ――」
「もちろん、会社で寝たさ。嘘は言ってないよ」
「そういう意味じゃなくて――」将人は動揺した。彼らの〈秘密の計画〉というのは、せいぜい、アマリアに辰三の酒の相手をさせる程度だと思っていたのだ。「もしかして、彼女はすべてを了解してるってこと?」
ライアンが、当然だよ、と頷いた。
「アマリアはこっちの地方の人間じゃないってこと、気付いていたでしょ?」
「サマールの住民でない、って意味? 確かに、僕も辰三さんも、彼女は他の従業員たちとは雰囲気が違うね、なんて話したけど、そんな詳しいことまではわからないよ」
「僕らには最初からわかってたよ、彼女がサマールの人間じゃないってね。加工場の従業員たちはみんな、ワライ語で話してる。ワライってのは、主にサマール島とその周辺に住んでる民族のことで、彼らの言葉がワライ語なんだ。タガログ語とはかなり違うんだよ。アマリアはワライ語が上手くないんだ。それに、彼女のタガログ語のアクセントからして、マニラ近郊の出身だってこともわかった。そんな彼女が子供と二人でアレンに暮らしてる。これは何かしらの事情があるなって踏んだのさ」
将人は唾を飲み込んだ。
「何かしらの事情?」
ジョエルと辰三が、こんどは波打ち際に向ってかけっこを始めた。
「アマリアはマニラでホステスをやっていたのさ。フィリピンのホステスってのはね、要は売春婦、つまりセシルと同じさ。彼女たちは必ずマフィアとつながっている。いろいろ危ない橋を渡るのとひきかえに高収入を得るわけ。いったん足を踏み入れたら、女の方から関係を断ち切るのはなかなか難しい。でもね、いつまでもそんな仕事を続けるのは、子供の将来のために良くないって、アマリアはある日、財産の全部を置き去りにして、マニラから逃げ出す決心をしたのさ。しばらく各地を転々としてたけど、最近、アレンに落ち着いたってわけ。ジョエルが聞き出した話さ」
「つまり、君たちはそんな彼女の事情に付け入って無理やり――」
ライアンは将人にかまわず続ける。
「『二千ペソでどうか』ってジョエルが持ちかけた。もちろん強制じゃないし、断っても、今までどおりブエナスエルテ社で働ける。すると彼女は自分から『ぜひやらせてほしい』って答えたんだ」
加工場の従業員の月給が四千五百ペソだから、二千ペソというのがかなりの額であるというのは将人にもわかる。
要は、ライアンたちはアマリアを辰三の〈夜の相手〉として金で雇ったわけだ。
「僕は、辰三さんがすんなり彼女を抱くとは思えない。本心はどうであれ、辰三さんが今夜この状況で彼女を受け入れる可能性はほとんどないよ」
ライアンがしばらく考えてから言った。
「モーテルのまえに連れて行くまで、タツミさんには何も言わないことにしよう。到着してから『中でアマリアが待っています』って告げるんだ。さすがにその状況で引き返せとは言わないだろ?」
レックスがいないと、ライアンはずいぶん大胆になるんだな、と将人は感じた。
「かなり強引な方法だとは思うけど、モーテルの中でアマリアのような美人が待っていると言われて、普通でいられる男は多くないね」
不安がないわけではないが、将人はとりあえずライアンの言うとおりにしてみようと思った。もしこの計画がうまくいけば、確かにそれはブエナスエルテ社のためになる。
「わかった、協力する。辰三さんとアマリア双方が合意の上でそういう行為に及ぶなら、そもそも雇われ通訳の僕が口を出すようなことじゃないしね」
ライアンは将人の肩をたたき、「これが片付いたら次は君の番だよ」と言った。
イボンが両手いっぱいに抱えて持ってきたサンミゲルを東屋で飲みながら、ライアンたちは辰三のご機嫌取りに精を出していた。
ライアンが、「タツミさんは従業員の女の子たちから大人気なんですよ」と言えば、「あんな包丁さばきは見たことがない、教え方もやさしくて、惚れてしまいそうって騒いでます」とジョエル。堅物のリンドンまで、「僕も気付いてましたよ、梱包係の女の子たちが、始業から終業まで、暇さえあればタツミさんを見つめてますから、梱包作業に遅れが出るんじゃないかと心配してるほどです」と、大きな目玉をさらに大きくして、媚びるように微笑んでいる。
最初の方こそ、辰三は疑うような顔で、「大人をからかうんじゃねぇぞ」などと言って取り合わなかったが、サンミゲルを飲み進めるうちに、「俺のことを見てる女って誰だ?」などと聞いてくるようになった。
「梱包係の全員がタツミさんを見つめていますけど、とりわけアマリアは熱心ですね」
いくらなんでも嘘が過ぎる、辰三がいよいよ怒り出すのではないか、と将人は心配になった。
辰三が難しい顔で首を傾げる。
「アマリアって、どのアマリアだ? もしかして、あの梱包をやってる、あの色が白い、あのアマリアか?」
「そうですよタツミさん。あのアマリアですよ、ブエナスエルテ社ナンバーワン美女のね」
ジョエルが満面の笑みで答えた。
「タツミさんと彼女なら、とてもお似合いだと思います」
リンドンが続く。
アルマンですら、しぶしぶといった様子だが、ライアンたちのお世辞に「そのとおりです」と頷いている。
「ってことは、俺とアマリアは両思いってことか?」
おどけるように言って、辰三が破顔一笑した。本人は気づいていないようだが、辰三はアマリアのことを好きだとライアンたちの前で認めてしまったのだ。
「そうですよタツミさん、お二人は愛し合っているのです」
ライアンたちが一斉に頷いた。
「そいつはいい、サマールまで来た甲斐があったってもんだ。土下座した斉藤や山本に、この話、帰ったらたっぷり聞かせてやるぞ」
有頂天になってサンミゲルをすすり上げている辰三を横目に、ライアンたちは、うまくいったぞ、というようにお互い頷き合っていた。
パジェロは社宅とは逆の方向に進んでいたが、上機嫌の辰三はそれに気づく様子もなく、「失恋させちまってすまねぇな」などとアルマンをからかっている。アルマンはそのたび、「彼女が幸せならそれでいいんだ」と苦々しい顔でつぶやいている。
とっくに社宅に到着してもおかしくない距離を走っているのに車がなお走り続けていることにようやく気付いた辰三は、酔ってとろんとしている目をぱちくりさせながら、助手席の将人へ身を乗り出してきた。
「おい、なんか違う道走ってねぇか? あ、わかったぞ、お前、こいつらとグルになって、俺を誘拐するつもりだな?」
辰三は本気とも取れる口調で言って、将人の頭をぱちりとたたいた。
「バカなこと言わないでくださいよ」
「バカとは何だ、バカとは」辰三は声をすごませた。「ミナモト水産は俺の身代金なんてはらわねぇぞ! 俺を裏切るなってあれほど言ったのに――」
「誘拐なんてしませんから安心してくださいって」
将人が何度なだめても納得しない辰三がいよいよ本気で怒りかけたとき、クリスが割って入ってきた。
「タツミサン、スミマセン、ゴメンナサイ」
助手席に身を乗り出している辰三の体がシフトレバーの操作を邪魔しているのだ。
クリスの日本語を聞くなり、辰三はバネで引っ張られたかのように後部座席に体を引っ込めた。辰三は今でも、クリスをジョニ黒泥棒だと思い込んでいる。
薄暗い後部座席で、リンドンとジョエルにはさまれておびえるように身を縮めている辰三は、まるで本物の人質のように見えた。
荷物スペースからイボンがサル顔を突き出して微笑むと、辰三は「来るな!」と彼を両手で押し戻した。
「おい、俺をとっとと社宅に帰せ、今すぐ帰せ!」
将人は「そろそろ辰三さんに本当のことを言った方がいい」と警告したが、ジョエルは「ダイジョウブ、タツミサン、ダイジョウブ」と日本語で返すだけだった。
「大丈夫なことなんか何もねぇだろうが、このやろう!」
誘拐されたと半ば本気で思い込んでいる辰三はもはやパニックを起こす寸前で、口元をぶるぶると痙攣させている。
もうここまでだと、将人は後部座席に身をひねり、ライアンに向かって声を荒げた。
「もうこれ以上ごまかすのは無理だ。すべてを話して計画を続けるか、黙って社宅に帰るか、今ここで決めてくれ」
将人がライアン相手に強く出たことで安心したのか、辰三の表情がわずかに緩んだ。
ライアンは答えようとして言いよどみ、ジョエルとタガログ語で話し始めた。
「時間稼ぎなんてしないことだよ。その分、ブエナスエルテ社の寿命を縮めているかもしれないんだから」
将人が言うと、ライアンとジョエルがぱたりと話を止めた。
「もう良いじゃないか、タツミさんに話せよ。アマリアがファックされるためにモーテルで待ってるって」
荷物スペースで小さくなっていたアルマンが大声で言い放った。
パジェロがわずかに速度を落とした。車内が静まり返る。
「スミマセン、ゴメンナサイ」ライアンは、辰三に向けて日本語で言いながら、へつらうように頭を何度も下げた。「実は、アマリアのことでお願いがあるんです――」
ライアンがいよいよ話し出そうとしたとき、クリスが左に大きくハンドルを切った。その遠心力で会話が中断する。
パジェロが乗り入れた先は、裸電球の明かりでオレンジ色に染まったモーテルの駐車場だった。
ライアンが続ける。
「ビーチで『アマリアがタツミさんに特別な感情を抱いている』って話をしましたよね。数日前から、僕たちは彼女から相談を持ちかけられていました。『タツミさんを本気で好きになってしまったけど、この思いをどうしていいかわからない』といった具合に」
辰三は口をあんぐりと開けると、ジョエル、リンドン、ライアンの顔を順に見つめた。
彼らは、そういうことなんです、というように、辰三の視線に頷き返す。
ここにきてまだ芝居を打つのか、と将人はあきれながら通訳を続けた。
「僕たちはどうするべきか悩みました。ご存知かもしれませんが、アマリアは離婚して子供を一人で育てています。『こんな私じゃ、とてもタツミさんとはつりあわない』と悲観的になっている彼女を見て、僕たちの心は痛みました。励ましてあげたい気持ちはありましたが、彼女のことを思えば、うわべだけの言葉より、もっと現実的な助言をするべきだと思ったんです」
通訳しながら、こんな作り話をライアンはいつ用意したんだろう、と将人は考えずにはいられなかった。
ライアンがさらに続ける。
「アマリアはブエナスエルテ社の従業員です。タツミさんのような紳士が、部下の女を相手にするとはとても思えない。だから僕は彼女に言いました。『タツミさんに思いを告げたければ、会社を辞めてくれ』と――」
辰三は目を見開き、ライアンに向けて指を突き出した。
「辞めろとまで言うことはねぇだろ、人を好きになるとか嫌いになるとかってのはよ、頭で考えてどうこうできるもんじゃねぇんだから」
ライアンとジョエル、それにリンドンまでもが、感銘を受けたかのように目をむいて「その通りですね」と大きく頷いた。明らかに芝居がかっていたが、辰三はそれに気づいていない。
ふと将人は、関内の晩酌での長くつまならい話に、本気で聞き入っているかのうように、にこやかに頷いていて関内を上機嫌にさせていた彼らを思い出した。彼らは芝居の名人なのかもしれない――。
「このモーテル――これが、彼女の出した結論なんですよ、タツミさん。アマリアは、仕事を辞める覚悟で、今、あの部屋であなたを待っています」
ライアンが、目の前の二階建てのモーテルの、一階の角部屋を指差した。
「ここから先はタツミさんのご判断にお任せします」
あまりに洗練された作り話で、将人は呆れるを通り越して感心すらしていた。裏事情を知っていなければすっかり騙されたことだろう。目の前にあるモーテルで、抱かれるのを待っている女がいるのだ。この状況で、ノー、と言える男はまずいない。
「アマリアが? あのアマリアが、あの部屋の中にいるってのか? だって、ここはどうみてもラブホテルじゃねぇか」
「タツミさん、彼女はすべてを承知しています」
ライアンが断言すると、辰三の顔に、驚きと喜びと戸惑いと怒りを練り混ぜたような、複雑な表情が浮かんだ。
「そんなこと言われてもよ、コンドームは社宅のスーツケースの中だし――」
あれだけ仕事第一、と繰り返していた辰三が、スーツケースに避妊具をしのばせていたと知って、将人は呆気に取られた。
「ダイジョウブ、アマリアは、『いらない』と言っていました」
言って、ジョエルが辰三に向け卑猥な笑みを浮かべた。そんな話まで、昨日のうちに済ませたのだろうか。
「いらないって、何を? ゴムをか?」
ジョエルはにやりとして、大きく頷いた。
辰三の口元にわずかに笑みが浮かんだ。
ライアンがイボンに何か告げた。彼はハッチを開けて車から飛び出して行くと、モーテルの周囲を見てまわってから、アマリアのいる角部屋の前に立って大きく手招きした。
「外はイボンが見張っています。クリスが、明日の朝六時に迎えに来ます。どうか、アマリアの気持ちを受け止めてあげてください」
リンドンが降り、辰三のために後部座席のドアを開いたまま手で支えた。
辰三は腰を浮かしかけたが、また座りなおすと、しばらく腕組みして考え込んだ。
「おいショウ、お前はどうするんだ? まさか別の部屋にクリスティを待たせてるとか言わねぇだろうな?」
「確かにライアンたちからそんな誘いは受けましたけど、僕はきっぱり断りましたよ。だって彼女は既婚者ですから」
「じゃあ何か、悪者になるのは俺だけってことか?」
「そういう意味じゃありません。クリスティがアマリアのように独身だったら僕だって喜んで誘いに乗ったことでしょう。でも僕のことはかまわないでください。ライアンたちがどこか女の子がいる店に連れて行ってくれると言っていますから。ここから先は辰三さんの個人的な問題ですから、ご自身のご判断でお願い――」
「このバカ野郎が!」辰三が突然、怒鳴り声を上げた。「俺をアホ扱いするのもいいかげんにしやがれってんだ!」
将人だけでなくライアンたちまで、一斉にびくりと跳びあがった。
みな、いったい何が起こったんだ、という驚きのまなざしを将人に向けてきた。
辰三が怒っているは、将人の受け答えに対してなのか、それとも芝居が嘘だと気づかれたからなのか、将人は判断ができず、だからとにかく「すみません」と謝った。
辰三が将人の胸倉をつかんで顔を引き寄せてきた。
「おいショウ、今から言うことをライアンたちにしっかり通訳しろよ」微動だにしないライアンたちに向けて、辰三はわずかに表情を緩めた。「アマリアのために、ひと肌脱いでやろうというお前らの心意気はたいしたもんだ。俺だって、出来れば彼女を受け入れてやりてぇよ、良い女だしな。けどな、俺はブエナスエルテ社をいっぱしの会社として動かすために、サンパブロのくだらねぇ調理指導や、関内さんの晩酌にも耐えて、ようやくサマールまでやってきたんだ。源社長や、清新設備や、斉藤食材の連中みてぇに遊び半分じゃねぇ。今の俺にはな、仕事しかねぇんだよ。〈ミツオカブロジェクト〉と、ブエナスエルテ社だけしかねぇんだ」
つまり辰三はライアンたちの作り話を信じきっているのだと将人は悟った。
「ありがとうございます、タツミさん!」
ライアンが今にも泣き出しそうな顔で頭を下げた。ジョエルとリンドンも続いて頭を下げる。
辰三は続けた。
「だからな、俺は今は〈そういうこと〉はできねぇし、そういう気分にもなれねぇ。お前らは若いからどうか知らねぇけど、俺はよ、自分を好いてくれる女を、こんな感じで、いきなりモーテルに押し込むようなやり方はしたくねぇんだ。まずはな、飲みにいって、いろいろ話して、お互い気が合って、『それじゃそういうことをしましょうか』って雰囲気になって初めてだな、その――」辰三が、こんもりと膨れ上がった髪を、ゴリゴリと掻いた。「――そういうことになるかもしれねぇけどさ。まあ、これから先、仕事が落ち着いたあとで、アマリアと飲みに行く機会があったら、そんときはそんときだけどよ。それが今夜じゃねぇことだけは確かだ」
ライアンたちはうつむいて黙りこんだ。ぎこちない苦笑いを浮かべながら、辰三は続けた。
「女と男はよ、こんなふうに簡単に、そんなことをしたらダメなんだよ。昔ながらの日本の男ってのは、そういうんじゃねぇんだ、体が先じゃねぇ、心が先でさ」
辰三は、体が先じゃねぇ、という部分を五回ほど繰り返した。
ライアンが辰三に深々と頭を下げた。
「本当にすみませんでした。僕たちは、アマリアのためにと思って行動するあまり、タツミさんのお気持ちを軽んじて考えていたかもしれません」
ライアンに続いて、まだドアを開いたまま立っているリンドンが頭を下げた。
「二度とこのようなことが起きないよう気を付けます。そしてどうか明日から、また今までどおり、加工場のご指導をお願いします」
続いて、ジョエル、アルマン、それにクリスまで、短い言葉で謝罪した。
平謝りする彼らを前に、辰三は困惑した顔になった。
「もういい、もういいから。とにかく、今すぐ俺を社宅まで送り届けてくれ。それから、若いお前たちはまだ遊び足りねぇだろうから、ほれ――」辰三は、財布から千ペソ札を二枚抜き出した。「この金で、さっきの船の店で飲みなおしてこい」
辰三がそう言っても、二枚の千ペソ札が将人の手に渡されても、車内は静まり返ったままだ。
将人が口を開いた。
「辰三さんが飲みなおせと言ってくれているから、ひとまず君たちを〈タタイ・アナック〉に送っていくよ。僕は辰三さんを社宅まで送り届けたあとで合流する」
ライアンがかぶりを振った。
「ショウ、タツミさんの心遣いはありがたいんだけど、僕たちはもう、とても飲む気分じゃないよ」
「とにかく、今は僕のことを信じて、言うとおりにしてくれないか。辰三さんは君たちが思ってるほど怒ってないと思う。むしろ今夜起きたことを、内心では喜んでいるんじゃないかな。詳しいことはあとで説明するから、とにかく、タタイ・アナックで待っていてくれ」
そういうことなら、とライアンは頷いた。
パジェロはモーテルの駐車場でUターンし、社宅に向けて走り出した。
サイドミラーに、呆気に取られた顔でこちらを見つめているイボンが映っていた。
ライアンたちを〈タタイ・アナック〉で降ろし、車内は将人と辰三、それにクリスの三人だけになった。
パジェロはアレンの悪路を歩くような速度で進む。
将人は、ライアンたちの企みがどんなものか途中で何となく気付きながらも黙っていたことを、辰三に改めて詫びた。
「あれほど裏切るんじゃねぇって言っておいたのによ」しかし辰三は微笑みながら言った。「まあ、もう済んだことだから気にするな。それから、ライアンたちに伝えてくれ、『俺を楽しませるとかじゃなくて、毎日の仕事を順調にこなすことを一番に考えろ、それが俺への最高の接待になる』ってな」
後部座席の背もたれに広げた両腕を乗せている辰三は、すがすがしい顔でそう言った。
「こんなこと言うとまた怒られるかもしれませんけど――さっきの辰三さん、格好よかったです」
将人は、お世辞でなく言った。
「スケベ野郎のお前は黙ってろ」
辰三が小さく笑った。
社宅の玄関先まで辰三を送り届け、車に戻ろうとしたとき、辰三が将人の腕をぐっとつかんだ。
「あのさ、アマリアのことでちょっと考えたんだけどよ。あの子、相当な覚悟でモーテルまでやってきて、ずっと俺を待っててくれたわけだろ。あのまま帰すのも悪いから――」辰三は再び財布から二枚の千ペソ札を引き抜いた。「これを、ライアンでも誰でも使って、アマリアに渡してやってくれねぇか」
アマリアはすでにライアンたちから二千ペソもらっているのだが、彼女が純粋に自分を好きでモーテルに来たと信じ切っている辰三にそう告げるわけにもいかず、将人は「わかりました」と二枚の紙幣を受け取った。
辰三は、頼んだぞ、と言い残して社宅の中に入っていった。
パジェロに戻ると、クリスが言った。
「タツミさん、モーテルではあんなに怒ってたのに、社宅につくころには、すっかり機嫌がなおってましたね。アマリアほどの女を抱かないで帰ってきたというのに、なんであんなに嬉しそうなのか、私にはまったく理解できませんよ」
「わからない方がまともかもしれないよ」
将人はクリスに微笑んだ。
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