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『橋の下の彼女』(34)
1999年7月18日(日)
フィリピン・アレン~サンホセ
透き通る薄青色の海。
白く柔らかい砂浜。
大音量で鳴り響くラジカセも、人工的なココナッツオイルのにおいもない。波打ち際ではしゃぐ子供たちの笑い声が、そこで聞こえる一番大きな音だ。
日差しはいつにも増して強烈だった。風は吹いていないが、サンホセのビーチに立つ東屋で感じる蒸し暑さは、加工場のそれとはまるで違う、すがすがしいものだった。
「――もう止めたほうがいいよ」
くぐもったジョエルの声が聞こえる。
その声を無視して、将人はクリスに、もういっぱい、と顎をしゃくった。彼は少しためらってから、クーラーボックスの中の氷をグラスに継ぎ足すと、アレンで手に入る蒸留酒の中では最高級の〈ジョニードラム〉というバーボンの太いボトルを持ち上げ、勢いよく注いだ。
「そんなに飲んだら体がおかしく――」
「うるさいんだよ!」
ビーチに着いてから栓を開けたジョニードラムのボトルはもう空になりかけている。辰三は一杯しか飲まなかった。あとは全部将人が飲んだのだ。
辰三はといえば、もう何時間も前から、アマリアとビーチコテージにこもったきりだ。
クリスがバーボンを八分目までいだグラスに、アルマンがあふれるまでソーダ水を継ぎ足した。できるだけ薄めようとしているらしい。
グラスを受け取ると、将人は人差し指を根元まで突っ込んで、テーブルに撒き散らしながら乱暴にかき回した。液体の回転が止まらないうちに、一気にあおる。
もともと蒸留酒が苦手な将人の視界は、一段と激しく揺れ始めた。強烈な吐き気に襲われて、慌てて立ち上がる。
東屋にいたジョエル、アルマン、クリス、ノノイも、一緒になって立ち上がった。
「僕には――かまわないでくれ」
言いながら、将人は波打ち際に向かって駆け出した。地面が右に左に大きく揺れる。揺れはしだいに激しさを増していき、やがて地面が垂直にまで傾いた――と思った途端、頭に殴られたような衝撃を感じた。
傾いていたのは地面ではなく、将人の方だった。
地面にめり込んだ頭を引き抜いて、口の中いっぱいに入った砂を吐き出した。波打ち際で遊んでいる子供たちが、将人を指差して大笑いしている。
耳に詰まった砂を掻き出しながら体を起こしかけたとき、胃が内側にめり込むように縮み、茶褐色の液体がポンプのように口から噴き出した。その勢いがあまりに激しくて、将人は四つんばいのまま、月に向かって吠える狼のように顔を上にそらしながら、吐瀉物を空中にぶちまけた。
子供たちが手をたたいて歓声をあげている。砂浜で吐く大人を見たのはこれが初めてなのかもしれないな、と将人は思った。治安が良いゆえにだらしない酔っ払いが多い日本でも、そうそうお目にかかれる光景ではない。
ノノイが駆け寄ってきて、ミネラルウォーターのボトルを差し出した。
「ショウ、きもちはわかるけど、もうそのへんでやめたほうがいい。まだ、ふられたときまったわけじゃないんだ。とにかく、これをのんで」
渡されたボトルの水を含み、口の中に残っている苦い液体と砂をまとめて吐き出した。
「彼女、僕の気持ちを受け入れてくれたと思ってた。フィリピンに来てまで、勘違いして、恥かいて――」
ノノイが柔らかい笑みを浮かべた。
「きっと、きゅうようができたんだ。こどもがかぜをひいたのかもしれない。いいかい、サマールにはでんわがない。こんな〈いきちがい〉は、しょっちゅうおこるんだ。そのたびによいつぶれていたら、きりがないよ」
「わかってる、わかってるんだけど、例えそうだとしても――」頭の中で言ったつもりが、口に出して言っていた。「――僕はずっとサマールにいられるわけじゃない。今日を逃したら、もうこんな日は二度と来なのいかもしれない」
ノノイの肩を借りて立ち上がった途端、目が回って平衡感覚を失った。幸い、ノノイの太い腕に支えられたおかげで転ばずには済んだが、彼の前腕が将人の胃に深く食い込んだ。
将人は再び嘔吐した。
――昨晩、将人は繰り返し、同じ夢を見た。
ティサイの、小ぶりだが形の良い乳房をやさしく撫でながら、彼女の唇に、深く強くキスして――。
だが、その先に進もうとすると夢は必ず中断してしまった。ティサイの体を切望する肉体がいきり立ち、心臓の脈が全速力で走ったあとのように速くなって、眠りを浅くしてしまうのだ。
何度目かの夢のあと、将人はすっかり目が覚めてしまった。まだ朝五時を少し過ぎたあたりだった。
それから、みなが起きてくる六時ころまで、その日に起こり得る、あらゆる出来事を妄想して過ごした。ティサイと自分のこと、辰三とアマリアのこと、ライアンとバネッサのこと――。
どれもこれも、卑猥な妄想になってしまった。
時間はあっという間に過ぎた。
彼女を愛している気持ちに偽りがないのなら、そしてお互いが望むなら、結ばれたっていいじゃないか――。
決して肉体の欲求に屈したわけではないが、いつしか将人は、そんな風に思うようになっていた――。
――朝食を取ると、辰三が数日ぶりにシャワーを浴びた。緩んだパンチパーマも、トトの散髪のおかげできれいにまとまっている。ライアンは糊の効いたポロシャツに紺色のショートパンツだったが、アルマンはビーチに行くというのに、白いシャツとジーンズに革靴といういでたちだった。将人は、ナイキのTシャツに水着兼用のショートパンツだ。二つとも、仕事では着たことがない、貴重な衣類だった。普段仕事で着ているものは、魚の血や泥水を吸い込んで、洗っても落ちない染みだらけになっていた。Gショックですら、乾いたうろこが固着していて、爪でこすっても剥がれないのだ。
出かける直前になって、シャイメリーの店で買ったベースボールキャップのことを思い出し、将人は部屋に駆け戻って、つばをうしろにして浅くかぶった。アレンではかなりのおしゃれ着だろうと思ってひとりほくそ笑んだ。
社宅を出て見上げた空は、飲み込まれそうなほど深い青色だった。ブエナスエルテ社に向かう車中では、ラジオから流れる軽快な音楽に合わせて、運転席のクリスが歌い、助手席の将人は手拍子しながら足でリズムを取った。
全ては順調だった――ティサイが出発の時間を過ぎても現れなかったことを除いては――。
ノノイに支えられて、這うようにして東屋に戻る間にも、将人はさらに数回吐いた。真っ直ぐ歩けないほど酔ったのは、大学の部活の新入生歓迎会以来だった。
日陰に入ると、まるで冷房が効いているかのような涼しさを感じた。自分の着ていたナイキのTシャツが、汗と砂と酒と吐瀉物にまみれて、異様な臭いを放っている。
アルマンが気遣うような視線を将人に向けてから、クリスに聞いた。
「なあクリス、リンドンは本当に、ティサイは来なかったって言ったのか? 何だか腑に落ちないんだよな、彼女がショウとの約束を破るなんてさ」
言いながら、アルマンはグラスに注いだソーダ水を将人に差し出した。本当なら一緒に来るはずだったリンドンは、会社で片付けなければならない仕事がたくさんある、という理由でビーチには同行しなかった。
クリスは将人とアルマンの交互に視線を向けながら答えた。
「リンドンだけじゃなく、トトとイボンも、ティサイは来なかったと言ってたから、本当だと思う」
辰三が輝くような笑みを浮かべながらアマリアの肩を抱いてビーチコテージの中へ消えていくと、ライアンはさっそく、バネッサに会うためにアレンに戻っていった。ライアンをアレンまで送り届けたあと、クリスはブエナスエルテ社に立ち寄った。将人がリンドンに、ティサイがもし遅れて来たら、会社で引き止めておくよう頼んだからだ。ライアンがアレンに戻るのは最初から計画のうちだったから、もし彼女が会社に来ていれば、アレンからサンホセまで戻るときに、一緒に連れてくることができる。
だが、ティサイは結局、現れなかったのだ。
将人は、ジョニードラムのボトルをつかみ上げると、まわりの制止を振り切ってラッパ飲みした。
「だからもうやめなって――」
「頭の中では笑ってんだろ、娼婦相手に本気になってる僕を」
将人の言葉に、ジョエルの顔が引きつった。
「笑ってなんかいない、心配してるんだよ」
「わかってんだ、日本ではみんな、頭の中では僕のことをバカにしてたからね。定職にもつかないで夢ばっかり追いかけて、どうせかなうわけないのにってさ。人材派遣の面接に行ったって『正社員になって、落ち着いて働こうとは思わないのかね』なんて説教される始末で―」喉もとまで上がってきた苦い液体を、将人はぐっと飲み下した。「――夢を追いかけちゃ悪いか? 仕事だって恋愛だって、自分を信じて突き進むのが、そんなに悪いことかよ?」
「そうはいっても、どっちも相手があってこそ成り立つことだからね」アルマンがやや強い口調で答えた。「結果を気にせず突き進む、それは個人の自由さ。好きなだけやればいい。でも今のショウは、その結果に打ちのめされてるだろ。結果を受け入れる覚悟がないなら、最初から突き進むべきじゃないよ」
他の面々に緊張が走るのが、空気で感じ取れた。
アルマンの言葉に、将人は岩の塊で頭を思い切り殴られたような衝撃を覚えた。
「ごめん――」空になったジョニードラムのボトルを後ろの砂浜に放り投げながら、将人は言った。「こんなつもりじゃなかった。大切な友人にやつあたりするようなマネをしするなんて――」
なんて大馬鹿野郎なんだ――ぐるぐるまわる頭で、将人は自分を罵った。
こわばっていた彼らの顔が、哀れむような表情に変わった。
「ショウは悪くない」
ジョエルが言った。
ふと、ひとみの顔が頭に浮かんだ――思えば、マルチまがいの商売に手を出しているからとか、スナックで働いているからとかいう理由で、将人は彼女を蔑んだ目で見ていた。階級意識ではないにしろ、それも立派な偏見のひとつだ。
それなのに、なぜ今、自分は娼婦のティサイに対して、ここまで寛容になれるんだろう――なぜ自分は、ひとみに対しては寛容になれなかったんだろう――
気付くと、涙が頬を伝っていた。
「おいショウ――」ノノイが驚いた顔で言った。「だから、こんなことはしょっちゅうあることで、なくようなことじゃない――」
「ちがうんだよ」声が裏返る。将人は、もはやあふれ出す涙を止めることができなかった。声が裏返る。
将人の頭の中で、様々な思いが激しく駆け巡った――職安で見つけた、あの緑の薄っぺらなファイル――支度金で祝ったひとみの誕生日――初めてミナモト水産を訪れたときのこと――採用されたとわかったときの感激――壮行会の帰り道での久保山の言葉――泣いて車を飛び出していったひとみの後姿――途中で切れた成田空港での電話――無能扱いされ続けたサンパブロ――ニタやラウルやカルロやエミリー――料理のできない料理長の高橋――大成功だったTTCでの日本食試験販売――レックスやライアンたちとの出会い――十人十色のブエナスエルテ社の従業員たち――ムーンライトのセシル――クリスティ、イザベラ、ティナ、アマリア――。
そして、ハルディンでのティサイとの出会い――。
ひどく酔ったせいか、感情がうまく制御できず、どんな場面を思い出しても、涙がとめどなくあふれてくる。
みな、何か言葉を返そうとして口を開きかけてはいるが、返す言葉が見つからないのか、黙ったままだった。
胃がひくついたと思った途端、食道を駆け上ってきた胃液に喉を焼かれた。将人はとっさに振り返り、長椅子の背もたれに身を預けながら、砂浜に向けて思い切り嘔吐した。
誰かが背中をさすってくれた。黄色い胃液と鼻水と涙が混ざり合った液体が、顎から糸を引いて地面に落ちていく。
首のうしろに氷が当てられた。続いて頭から冷たい水がかけられ、誰かが将人の汚れた口まわりを手で洗い流した。吐くものがなくなって嘔吐が止まると、抱きかかえられるようにして、長椅子に寝かされた。
微笑んだクリスとノノイの顔が、仰向けの視界に入る。
鼓膜の奥深くで、心臓が脈を打つ低く重い音だけが、聞こえる音の全てになった。
なんていいやつらなんだろう――そう思って数秒後、将人は眠りに落ちた。
――てっきりアマリアもティサイと一緒にブエナスエルテ社から乗っていくと思っていたが、彼女はすでにサンホセのビーチで待機している、とライアンから聞かされた。クリスが朝一番で彼女を送っていったそうだ。なるほど、それなら辰三が彼女を追い返すことはもはや不可能になるな、と将人はライアンの巧妙さにつくづく感心した。
アマリアがすでにビーチにいると聞くなり、辰三は「だったら八時まで待つことはねぇ、今すぐ出発だ」と息巻いた。
「あともう一人、来るんですよ」
将人が言うと、辰三が訝しげに首を傾げた。
「ティナを誘ったのか?」
その質問には、ライアンが代わりに答えた。
「タツミさん、ショウはアレンに〈彼女〉がいるんです」
辰三はそれを通訳なしで理解しすると、このやろう、と将人の脇腹を突きながら、いつどこでどうやって知り合って、どんなふうに口説いたのかなどと、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。将人は、あらかじめ考えておいた答えを言った。
「クリスティに友達を紹介してもらったんです」
辰三は、その嘘を見破ってやる、といわんばかりに、尋問まがいの質問をいくつも浴びせてきたが、将人があいまいにごまかし続けると、やがてぷっと吹き出して「よかったじゃねぇか」と将人の尻をにこやかに何度もたたいた。
しかしティサイは、待ち合わせの八時まで五分を切っても現れなかった。将人は焦りを感じながら、アジアンハイウェイの道端に進み出て、こちらに向かって歩いてくる、華奢な体に細く長くきれいな脚をした彼女の姿が見えないかと、道路のはるか南の先に目を凝らした。数キロの道のりを徒歩でやってくる彼女だから、待ち合わせ時間にぴったりというわけにいかないのはわかっているが、それにしても、見通しの良い直線道路に、それらしい姿がいっこうに見えてこない。
「寝坊したのかな」八時を十分ほど過ぎて、ライアンが言った。「どうする? もう少し待ってみる?」
もう少しといわず、何時間でも将人は待ちたかったが、そんな勝手が許される状況ではなかった。アマリアがビーチで辰三の到着を待っているのだ。
「あと五分だけ、いい?」
もちろんさ、とライアンは微笑んだが、将人はその声の中に、きっと彼女は来ないよ、という響きを聞き取った。
ヤシの実をドリブルしながら、辰三が将人の立つ道路端までやってきた。脇に立ち、同じように道路のはるか南に目を細める。
「残念だが、お前はフラれたんだな。男だったら、素直に認めろって」
将人は力なく微笑んだ。
「たぶんそうでしょう。でもあとちょっとだけ、三分でもいいんです、待ってもらえませんか?」
「俺の〈彼女〉がビーチで待ってんだ、きっちり三分だけだぞ」
言って、辰三は余裕ともとれる笑みを残し、見張り小屋の前でエンジンをかけたまま待機しているパジェロに乗り込んだ。
三分はあっという間に過ぎてしまった。すでに八時十五分を過ぎていた。
決断しなければならないのはわかっていたが、道路から目を離した数秒後にティサイが姿を現すのではないかと思うと、なかなか動くことが出来なかった。
ライアンが将人の肩に手を置いた。
「何ならタツミさんだけ先に送っていこうか? 僕は昼前にはアレンに戻ってくるつもりだから、それまでショウはここでティサイを待っていればいい。彼女が来ても来なくても、僕と入れ替えにパジェロに乗ってサンホセに向かうことができるから」
それは将人も考えたことだったが、やはり英語のわからない辰三を、自分の都合で先に一人で行かせるというのは無責任に過ぎると感じた。
「ありがとう。でも、もういいよ、出発しよう」
パジェロに向って歩きながら、これは彼女なりの答えなのだろうか、と将人は考えた。いずれにしても、朝から晩まで彼女と一緒に甘いときを過ごす、という夢は、夢のままで終わることになりそうだった。
もしティサイが遅れて来るようなことがあったら、会社に引き止めておいてくれ、とリンドンに頼むと、彼はしぶしぶながら了解して言った。
「娼婦やってる女なんて所詮こんなもんだよ。みんないい加減さ」
将人が言い返そうとすると、辰三がパジェロの窓から首を突き出して声を張り上げた。
「おいショウ、いつまでもくよくよ待ってたって仕方ねぇだろ。なあ、ビーチでよ、思い切り飲んだらいいじゃねぇか、そんでゲロと一緒に、何もかも吐き出しちまえって――」
そして実際、そのとおりになったのだ――。
頭蓋骨が割れるような痛みで目が覚めた。額から流れ落ちた汗が耳の中に溜まっている。重い頭を何とかテーブルの高さまで持ち上げた。
東屋にいるのはアルマンひとりだけだった。
「いま、何時?」
「ああショウ、やっと起きたか。もう四時になるよ」
酔いつぶれたのが午前中だから、五、六時間は寝ていたことになる。
「みんなは?」
「ノノイは泳いでる。ジョエルはジープニーをつかまえて帰った」
「辰三さんはまだコテージにいるの?」
「いや、タツミさんもアマリアと一緒に帰った」
サンホセのビーチにいるのは、アルマンとノノイ、そして将人の三人だけだった。
「辰三さん、僕のこと、怒ってなかった?」
将人が聞くと、アルマンは苦笑いを返した。
「むしろショウのこと、とても心配してたよ。単語を並べたような英語だったけど、『目が覚めるまで、寝かせておいてやれ』みたいなことを、何度も言ってた」
通訳もろくにせず酔いつぶれたというのに、怒るどころか気遣いまでしてくれた辰三に、将人は頭が上がらない思いだった。
アルマンの言うところでは、ついにアマリアと結ばれた辰三はこの上なく上機嫌で、コテージを出てから車に乗り込むまで、ずっと彼女と手をつないでいたという。
そう聞かされて、将人はほっと胸をなでおろす思いだった。辰三は今ごろ、フィリピンに来て以来、最高の気分を味わっているに違いない。
アルマンから冷えたソーダ水をもらうと、将人はぐいぐいと飲み干した。
――サンホセのビーチに到着したのは九時半過ぎだった。一行がビーチに並ぶ東屋の一つで荷解きを始めると、そのすぐ後ろにある三つ並びのコテージのひとつから、水着姿のアマリア――想像以上に大きな乳房と形のいい尻に将人は驚かされた――が現れ、当然のように辰三の隣に座って身を寄せ、さすが元ホステスらしいごく自然なしぐさで彼の上腕に手をからめた。そのときこそ緊張して身をこわばらせていた辰三だったが、立て続けにサンミゲルを五本飲み干したあたりから、彼女の肩に腕をまわし、今にも唇が重なり合うのではないかと思うほど顔を近づけながら、「妖精のようにきれいだ」「アレンで一番の美人だ」、それから「これは俺たちの運命だ」とまで言うようになった。
そんな辰三の言葉を、将人とアルマンが、英語とタガログ語の三点通訳でアマリアに伝えた。甘い言葉が投げかけられるたびに、彼女は、加工場で見せるさわやかな笑みとは違う、艶かしい笑みを返しながら、辰三の手を握り締め、肩に頬をすりつけた。
まさかアマリアが金で雇われているとは知る由もない辰三が、彼女に完全にのぼせ上がってしまったのは、誰の目にも明らかだった。
将人がカメラを向けると――本当は自分がティサイとこういう写真を撮るつもりで持ってきたのだが――辰三はアマリアをさらに強く抱き寄せて、にんまりとピースサインをして見せた。
ビーチに到着してから一時間ほどして、辰三とアマリアは、硬く手をつなぎ合ったまま、みなに見送られながらビーチコテージの中へ消えていった。
将人とティサイのために予約していた、その隣のコテージは、ジョエルが昼寝に使っただけだった――。
将人はアルマンに介抱してもらった礼を言って、まだ痛む頭と揺れる視界を無視して立ち上がった。波打ち際で子供たちと戯れているノノイの方へ、右に左によろけながら歩いていく。そのあいだに、ほとんど透明の液体を三回、吐き出した。
「おっと、ミスター・ブロークンハートのおめざめだ」
言って、ノノイは水面に反射した光でそのハンサムな笑みを下から輝かせた。
子供たちが、将人を指差しながら、おえっ、と吐くまねをし、大笑いした。そんなふうに白目になって吐いていたとは知らず、将人も一緒になって大笑いしたが、その途端、吐き気をもよおして、再び吐いていた。子供たちは将人が冗談でやっていると思ったらしく、手を叩いて大喜びしている。
将人は口を拭いながら、ノノイに微笑んだ。
「何とか生き返ったよ。でも、いま車に乗ったら間違いなく戻すと思う。もう少し時間が欲しい」
「タツミさんとアマリアをおくっていったクリスがもどるまで、まだいちじかんはあるさ。それにしても、ティサイのことは、ほんとうに、ざんねんだった」
ノノイは、心からそう思っている、と感じさせる顔で言った。
「やっぱり僕には魅力がないのかな」
将人は自嘲気味に苦笑いしながら、ふと、ノノイが相手だったらティサイは来たんじゃないか、と思った。やさしくて、ハンサムで、腕っ節も強い。男としての魅力でいえば、将人はノノイに到底及ばない。勝っているのは背丈だけだ。
「だいじょうぶだって。かのじょは、ねぼうしただけさ。ぼくがほしょうする」
「そうだといいけどね」
今月末までに、ほぼ確実にサンパブロに戻ることになる将人にとって、サマールで過ごせる休日は、今日を除けば次の日曜日が最後になる。しかし、来週はレックスがアレンに戻ってくるし、祭りも始まる。今日のような休日を過ごすことは、まずできないだろうと思えた。
クリスが戻ってきたのは、日がだいぶ傾いた五時過ぎだった。彼が戻ってきたときも、将人はまだ頭痛が治まらず、少し歩けば目がまわって胃が痙攣したので、とても車に乗れる状態ではなかった。具合が良くなるまでのんびりとくつろげばいい、とクリスが言うので、将人はそれからもしばらく横になっていた。
しばらくして、何やら難しい顔をしていたクリスが、おもむろに口を開いた。
「実はね、タツミさんを送り届けたついでに、もう一度会社に寄ったんだけど、どうもティサイは、午前中にブエナスエルテ社に来ていたらしいんだよ」
「なんだって?」
将人は飛び上がった。視界がぐらぐらと揺れたが、それが酒のせいなのか、たった今、聞いた言葉のせいなのかわからなかった。
「リンドンの目があったから、詳しいことまでは聞けなかったけど、ブノンがこっそり教えてくれたんだ。どうも、トトとイボンの二人は、リンドンに口止めされてたらしいよ。『ティサイは見なかったことにしろ』ってね。ブノンはティサイが来たのを直接見たわけじゃないけど、チェーンソーで板を切ってるとき、エンジン音でまわりに話が聞こえないのをねらってか、トトとイボンが近づいてきて、不満そうに『なんでティサイが来たのを内緒にしなきゃならないんだ』って、二人して愚痴ってたんだって」
将人は立ち上がった。食道を駆け上がってくる胃液ももはや気にならなかった。
「今すぐアレンに戻ろう。もしそれが本当なら、僕はティサイをとんでもない目に合わせてしまったかもしれない」
なぜリンドンは彼女を引きとめず、また、彼女が来たことを隠そうとしたのか、その真意を確かめなければならない。いずれにしても、追い返すも同然のことをしたのだから、リンドンが彼女に何か余計なことを言ったのは確実だと思えた。
将人は大急ぎで荷物をまとめると、パジェロに向って駆け出した。
アレンの北側の町外れにある〈アレンへようこそ〉と書かれたアーチをパジェロがくぐったのは、あたりもすっかり暗くなった、七時近くになってからだった。吐き気も忘れて、将人はフロントガラスの先にブエナスエルテ社が見えてくるのをじっと待った。
将人の頭は怒りで沸騰していた。ティサイは確かに、約束の集合時間の八時には遅れたが、クリスが言っていたブノンの話を信じる限り、本当ならば彼女は、ライアンをアレンまで送り届けたパジェロに入れ替えで乗って、昼にはサンホセに来ることができたはずなのだ。それをどううわけか、リンドンが台無しにしてしまった。
アジアンハイウェイとメインストリートの交わる、バス停のある三叉路を左に折れる。庭に黒豚を飼っているニッパハウスの横を過ぎると、ブエナスエルテ社の見張り小屋が見えてきた。裸電球の灯った加工場で、リンドンとライアンがテーブルに座り、ビール片手に話しているのが見える。
パジェロが加工場の前に乗り入れるなり、将人はドアを開けて飛び降りた。リンドンを睨みつけながら、つかつかと歩み寄る。
「やあ、お帰り、楽しかったかい?」
リンドンは、笑みを浮かべながら平然とそう言った。
怒りに任せて声を荒げようとした瞬間、将人ははっと気付いた――もしここでリンドンを問い詰めれば、トトとイボン、それにブノンやクリスまで、告げ口した疑いをかけられる。のちのちリンドンからこっぴどく絞られるかもしれない。
ふと見ると、クリスが将人に向けて、ほどほどに、というように、小さく頷きかけている。
将人は、わかってる、というように小さく頷き返した。彼らを巻き込むことなく、自然な会話の流れでリンドン自身に認めさせるしかない。
「僕が『ああ、とっても楽しかったよ』なんて答えるとでも思って聞いてるのか?」
将人は唸るように言った。リンドンが動揺したのが、その表情からはっきりと見て取れた。
「あ、えっと、もちろん、本気じゃない。楽しいわけがないよね」
めずらしく、リンドンがへつらうような笑みを浮かべた。傍らに座るライアンも引きつった笑みを浮かべているところを見ると、どうやら本当の事情は聞き及んでいるようだ。
「ティサイは本当に来なかったのか?」
将人が聞くと、加工場とその周辺にいた従業員たち全員が、しんと静まり返った。
「来たよ」
意外にもリンドンは、開き直るかのようにあっさりと答えると、将人に向けて、それがどうかしたのか、といわんばかりに首をかしげて見せた。
白状するまでとことん問い詰めるつもりだった将人は拍子抜けした。
「来たって、どういうことだよ?」
「いや、その――」リンドンの口元がひくついた。「来たんだよ、とても遅れてね。だから、帰ってもらったんだ」
「帰ってもらった、だって?」将人はかぶりを振った。「彼女が来たのは何時だ?」
「えっと、十時くらいだったかな」言って、リンドンは周囲を見渡したが、誰も頷くものがいなかった。「ああ、それよりもう少し早くて、九時半くらいだったな?」
リンドンは、今度はライアンだけに同意を求めるような視線を向けたが、彼も口を閉じてうつむいたままだった。
「正確な時間を覚えていないとは、時間にシビアな君らしくないね」
「仕事じゃないと、僕はけっこういいかげんなんだ。そうそう、いま思い出したけど、もしかすると、彼女が来たのは、君たちが出発したすぐあとだったかもしれないな。いずれにしても、〈とても遅れて〉来たことだけは確かだよ」
ティサイが来たのが九時でも十時でもたいした違いはなかった。午前中に来ていたのなら、彼女はライアンをアレンに送り届けたパジェロで昼にはサンホセに来ることができたのだ。
「僕は君に頼んだよな、彼女をここで待たせておいてくれって」
「いや、その――」さっきと同じ言葉で、リンドンは答えに詰まった。「そうそう、彼女は寝坊したって言ったんだ、ひどい話だとは思わないかい? ショウのような身分の男に誘ってもらいながら、約束の時間に遅刻したんだよ」
そう言ったリンドンが突き出した唇が、娼婦の分際で、と付け加えたがっているように見えた。
「僕が知りたいのは、寝坊したとか身分がどうとかじゃない。君は彼女にここで待つように言ったのか、言わなかったのか。それに答えてくれ」
「言わなかった」
即答すると、リンドンはせせら笑いを浮かべた。
「なぜ?」
「なぜって? だって、起きぬけに慌てて駆けつけてきたようで、汚いTシャツに穴だらけのショートパンツ、それに顔や髪には土ぼこりがついていて、目やにもごっそり。あんな汚い女をブエナスエルテ社で待たせるわけにはいかなかった。ショウだって、あれを見たら間違いなく僕と同じ気持ちになる――」
「リンドン!」
ライアンがいきなり大声を上げた。少し距離を置いて立ち聞きしていた従業員たちも、リンドンと一緒に飛び上がった。
「いやその、言い訳するつもりじゃないんだよ。僕が言いたいのは、別にわざわざうちの会社のパジェロに乗せて行かなくても、その気になれば、彼女はジープニーでもトライシクルでも使ってサンホセに行けるじゃないか。そうしなかったのは彼女の選択だよ、ショウから金をたんまりもらってるにも関わらず――」
「リンドン!」
再び、ライアンが大声で怒鳴った。
リンドンが押し黙る。
「とにかく、遅れながらも彼女が来てくれたとわかって、僕は救われる思いだよ」
将人は、ひとりごとのようにぼそりと言った。
断片的な話をつき合わせると、どうやらティサイは将人たちが出発したすぐあとにやってきたと考えて良さそうだった。なぜ、あと十分待ってください、と辰三に土下座してでも頼まなかったのかと、将人は自分を責めた。それができていたら、この散々だった日曜は、期待通りの素晴らしい休日になっていたはずだ。
昔から夜型の生活で、もしかすると目覚まし時計すら持っていない彼女は、待ち合わせの時間に寝坊したとわかって、身づくろいもせずに家を飛び出してきてくれた――にもかかわらず、恐らくリンドンにひどい言葉をかけられて追い返されたのだ。
今すぐにでも彼女に会わなければならない。会って、謝らなければならない。
「クリス、ティサイの家にいって、彼女がいるか見てきてくれないか?」将人の心のうちを察したかように、ライアンが言った。「ショウ、君は社宅に戻って、少し休んだ方がいい。もしティサイが見つかったら、呼びに行くから」
「僕も一緒に乗っていくよ。とても休むような気分じゃない」
「気持ちはわかるけど、実はね、タツミさんが社宅で、ずっとショウの帰りを待ってるんだ。知っての通り、今日一日、いろんなことがあっただろ。タツミさんもいろいろと話したいことがあるみたいなんだ。帰りの車の中でも、クリスに片言の英語でいろいろ聞いてたらしいけど、何を言いたいのか、詳しい部分までは理解できなかったんだって。だから、まずはタツミさんのところへ行って、何か問題でもあったのか確かめて欲しいんだよ」
辰三が話し相手を必要としていることは明らかだった。酔いつぶれたせいで、その日一日、辰三を放置したも同然だった将人だけに、それでもティサイに会いに行く、とは言い通せなかった。
「わかった、社宅に戻るよ。でももしティサイが見つかったら、すぐに知らせて欲しい。今から辰三さんの話を聞くとなると、今夜会うのは難しいかもしれないけど、少なくとも、僕が謝っていたこと、それから、できれば明日にでも会いたいと伝えて欲しい」
わかった、とライアンが力強く頷いた。
リンドンが何か言いかけたが、将人は彼を無視して、アルマンと共にパジェロに乗り込んだ。
「それにしても、ショウのあんな恐い顔、初めて見たよ」メインストリートの窪みに車輪が落ちてパジェロが大きく揺れたのを合図にするかのように、それまで黙っていたクリスが微笑みながら言った。「さすがのリンドンもすっかりひるんで、嘘を言う余裕もなかったね」
リンドンがあんなにあっさり口を割ったのは、自分の顔のせいだったのか、と将人は今更ながらに気付いた。
「なぜリンドンはティサイをあそこまで毛嫌いするの?」
「彼は思ったことを口や行動に出してしまう性格だってだけだよ。リンドンに限らず、ライアンもジョエルも、いくらショウが好きになった女だからって、ワライ人の娼婦を友達だなんて本気で思ったりしないよ。アルマンは別だろうけどね」
「そのとおり。美しい女性は美しい、それだけさ。民族にこだわるなんてばかげてる。そんなことを気にするのは、料理の皿を運ぶのが誰かで味が変わると本気で信じるような連中だけさ」
アルマンがかぶりを振りながら言った。
娼婦を友達だなんて思わない――そう言ったクリスの言葉は、将人の頭の中に、返しのついた釣り針のように深く食い込んだ。もしここが日本で、相手の娼婦が日本人だとしたら、果たして自分は今と同じ行動をとるだろうか――昼間、泥酔した頭に何度も浮かんだのが、その疑問だった。
答えはわかっていた。〈とらない〉だ。将人もライアンやリンドンやジョエルのように、娼婦を蔑んだ目で見ることだろう。
「なんだか自分がご都合人間みたいに思えてきた」」
将人がそうつぶやくと、クリスが微笑みながら首を傾げた。
社宅に帰ると、辰三は話し相手を待つどころか、すでに部屋で大いびきをかいて眠っていた。だったら社宅にいる必要はない、一緒にティサイを探しに行こうと、将人は慌てて玄関を飛び出したが、パジェロはもう走り去ってしまっていた。
九時ころになって戻ってきたライアンに、ティサイは結局見つからなかったと聞かされた。念のため、ハルディンものぞいてみたが、いなかったという。
釈然としない気分のまま、部屋に戻った。ビーチで波と戯れる美しいティサイを撮るはずだったカメラは、アマリアの肩に腕をまわす辰三を一枚だけ撮っただけだった。
ティサイの写真が欲しい――。
将人は心の底から、そう感じた。
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