Locker's Style

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『橋の下の彼女』(44)-2





 チェーンソーの音が響いた。将人が目を覚ましたのは加工場に広げた簡易ベッドの上だ。あたりはまだ薄暗い。ブノンはこんな時間からもう大工仕事を始めたようだ。
 顔を上げると、ブエナスエルテ社の前の道路にティサイが立っていた。こんな早朝にどうしたんだろう、リンドンに見つかったら大変だぞ、と慌てて彼女の方へ駆け出す。
 すると彼女は突然背を向けて走り出した。将人はあとを追ったが、あっという間に彼女の姿は道の先に見えなくなった。将人は彼女の消えた方へ走り続けた。タタイ・アナックを過ぎ、気付くとハルディンの前に来ていた。門番が「ティサイは中だよ」とにこやかに言う。
 店に入ると、他には誰もいない店内に、ティサイがぽつりと一人で座っていた。彼女に近づこうとすると、整った顔立ちの男がひとり、どこからともなく現れて、彼女の隣に座り――二人は口づけを交わす。
 アルフォンソだ――将人は直感した。細面の口元に整えた髭をたくわえた、ノノイにも負けず劣らずのハンサムな男だ。
 彼の腕に抱かれながら、ティサイは右手に刻まれた〈A&J〉の刺青を将人に向け、蔑むように言った。
「本気でわたしの人生を変えられるとでも思っているの? 日本に帰れば無職も同然のあなたに? 残念だけど、わたしはアルフォンソを愛してるの、いまも、これからもずっとね。だから私はハルディンで働くわ、彼に麻薬を買ってあげたいから。たくさんの汚い男たちに抱かれても平気よ、アルフォンソがきれいにしてくれるもの。サリサリなんてめんどうな商売、悪いけどやりたくないのよ」

 ちょっとまってくれ――そう叫びかけて、将人ははっと目を覚ました。
 チェーンソーだと思っていた音は、辰三のいびきだった。
 窓の外は、道端の家々がはっきり見えるほど明るくなっていた。時計を見る。もう五時を過ぎていた。
 パジェロは長い直線道路を走っている。
「ほら、あれがカルバヨグ空港だよ」
 将人が目を覚ましたのに気づいたレックスが、窓の外を指差して小声で言った。道路の右手に広がった草原の向こう側に、一本の長い滑走路が延びている。
 空港を過ぎると、道の両側に建物が増え始めた。すれ違うジープニーやトライシクルの数も多くなる。
 やがて道幅が広くなり、サンパブロの繁華街と似た、町らしい町になった。商店街のような通りを過ぎると、見覚えのあるガソリンスタンドと、その先の大きな交差点が見えてきた。
 交差点を過ぎ、カルバヨグ川にかけられた橋を渡る。右に曲がり、川沿いの道をゆっくりと進んだ。階段状の岸壁から伸びた艀にたくさんの小船が並んで係留されている、カルバヨグらしい景色が広がる。
「船はもうだいぶ戻ってきてるな」
 眠そうな目をこすりながら、辰三が言った。
 やがて、左手に魚市場が見えてきた。
「あ、リンドンがいた」
 ライアンが言った。汚れた服装の漁師がひしめく市場の中で、白いワイシャツにジーンズといういでたちのリンドンは、場違いに目立っている。
「おお、けっこう揚がってるじゃねぇか」
 言って、辰三は窓に顔を貼り付け、市場に並ぶ魚で満たされたバケツやスチロール箱を指差した。
 そのまま市場を通り過ぎ、先へと進んだ。
 百メートルほど進むと、薄汚れた建物が並ぶ陰気な一角に出る。
 パジェロがムーンライトの手前で止まった。
 将人は先に降り、セシルためにドアを開いたまま支えた。辰三は降りず、車の中に留まったまま「またな」と彼女に頷きかける。
「きょう、にほんに、かえる?」
 ドアを閉めると、セシルが言った。
「そうだったらどれだけいいか」将人は微笑んだ。「あと一週間ほどサンパブロに留まるんだ。本当はずっとサマールにいたんだけどね」
 彼女も微笑んで、手を差し出した。
「きをつけてね」
 ありがとう、と将人はその手を握った。五百ペソを握らせたときと同じ、小さい手だった。
「ミルクのおかね、ありがとう」
 言って、彼女はジャンプするように背伸びして、将人の頬に軽く口づけした。
「元気でね、セシル」
 将人はもう一度微笑んだ。
 彼女は頷くなり、くるりと背を向けて、ムーンライトへ足早に進んでいった。
 セシルも人生を変えたいと思っているんだろうか――。
 白いワンピースを着た小さな背中を見送りながら、そんな考えが、将人の頭によぎる。
 彼女は、ムーンライトの中へ消えていくまで、一度も振り返らなかった。
 将人が車に乗り込むと、辰三がぐっと目を閉じて、まるで自分に言い聞かせるように語りだした。
「そんな悲しそうな顔すんなよ、俺だって我慢してんだから。たしかに、めったにねぇくれぇ、いい子だったよ。でもな、しょせんは商売、それ以上を求めちゃいけねぇんだ。それが、こういう世界のルールってもんだろ」
「そうですね、その通りだと思います」
 ふと将人は、辰三もセシルの人生を変えてあげたいと思ったのではないか、と感じた。
 パジェロはUターンして、市場へ向けて走り出した。
「もしあの子が気にいったんなら、次に来たとき、お前が三日でも四日でも買ってやりゃいいよ」辰三がにんまりと笑った。「俺はな、情が移っちまうと困るから、別の子にさせてもらうけどよ」
 将人は苦笑いしながらリアウィンドウを振り返った。
 ムーンライトは、他の建物の影に隠れてもう見えなかった。

 魚市場に着いた。リンドンはすでにかなりの量を買い付けていた。ブエナスエルテ社の買った魚の入ったバケツやスチロール箱が、魚市場の隅の一角を誇らしげに占領している。荷抜き泥棒の見張り番を買って出たらしい漁業組合長が、その前でにこやかに立っていた。
 辰三は、組合長が浴びせてくる中身のないお世辞を軽く頷いて受け流しながら、買い付けた魚の吟味を始めた。
「リンドンも目が利くようになったもんだ。鮮度のいいもんばかり選んでいやがる。たいしたもんだ」
 満足そうに頷くと、辰三は少し離れた場所で漁師と交渉しているリンドンに向って、腕で大きく丸を作って見せた。
「今日は口をださねぇで、このまま任せておいても良さそうだな」
 言って、辰三は市場の脇の道端でタバコに火をつけ、美味そうに煙を吸い込んだ。

 七時を少しまわったところでリンドンは買い付けを終えた。概算で千二百キロほどもあった。カルバヨグ魚市場の買い付け最高額の記録を今回も更新した。
 すべての競りが終わると、漁業組合長は揉み手をしながら、市場で片づけしている漁師や従業員たちに、片っ端からレックスを紹介してまわった。新規参入にもかかわらず、あっというまにカルバヨグ魚市場に多大な影響力を及ぼす存在になったブエナスエルテ社――その立ち上げに、自分が少しでも関われたことを、将人は心から誇らしく思った。

 それから九時ころまで、組合長の家で過ごした。ライアンとアルマンは、二階のベランダのベンチでいびきをかいて寝ていた。辰三は三階のベンチに座り、下の魚市場を見下ろしながら、感慨深げな表情でずっとタバコをふかし続けた。将人はその隣に座り、アレンの町がある北の空を見つめ、そこにティサイの姿を思い描いていた。
 リンドンだけが、一トンを越える魚を積めるトラックの手配で、ひとり市場のまわりを忙しそうに駆けまわっていた。

 将人と辰三は、積み込みの手配で空港には来られないリンドンと別れの抱擁――実にあっさりしたものだった――を交わし、再会を約束した。それからレックスに引導されてカルバヨグ街中を進み、ひときわ大きなビルの二階の中華レストランに入った。百人は入れそうな広い店内には、大きな丸テーブルが十脚ほど並んでいたが、開店間際ということもあり他に客はいなかった。
 タタイ・アナックを高級店だと思えるようになっていた将人にとって、蛍光灯の照明と白いタイル張りの床、ニス塗りの木製テーブルに清潔なナプキンが用意されているこの店は、落ち着いて座っていられないほど仰々しいものに感じられた。テーブルの真ん中に据えられたキャンドルスタンドには本物のキャンドルが立っており、何を祝うわけでもないのに中華系のウェイトレスがそこに火をともした。
「タツミさんのご指導のおかげで、ブエナスエルテ社がようやく本格的な生産を開始することができました。本当にありがとうございました」
 レックスに続いて、ライアンとアルマンも辰三に頭を下げた。
 辰三は照れくさそうに鼻の下をこすってから言った。
「日本を発つまえはよ、俺は、あんたたちとこんなふうに仲良くなれるとは想像もしなかったよ。フィリピン人てのはみんな、頭が悪くて、怠け者で、言うこと聞かなくて、いいかげんなやつばかりだから、絶対にわかりあえることなんてねぇって思ってた。でもな、そんなことはねぇんだって、つくづく思い知らされたよ。俺からも礼を言わせてくれ、ありがとう」
 みな黙ったまま、何度も頷いた。
 しんみりとした沈黙が漂ったところで、レックスがぱちりと手を打ち鳴らした。
「次は十月に来てくださるんですよね。そのときまでには、あの車庫を、冷房付きの見事な宿舎に改造しておきますよ」
「そりゃうれしいニュースだけど――」辰三がにやりと笑った。「――小部屋も作っといてくれよ、女連れ込むからさ」
 テーブルに漂っていた湿っぽい空気が笑い声で吹き飛ばされた。
「わかりました、ではブノンに、タツミさん専用の宿舎を別に作らせますよ」
「こりゃ十月が待ちきれねぇな」
 辰三が親指を立てると、レックスたちの笑い声はさらに大きくなった。辰三専用に別の宿舎を作れと言われたらブノンはどんな顔をするだろうな、と考えて将人はひとり微笑んだ。
 そのとき、何週間かぶりに久保山のあの言葉がよみがえった――将来的には、うちの会社で働いてもらおうという考えが、社長や関内さんにあってのことだと、僕は思うね――。
 このプロジェクトにこれからも関われるのなら――そして、またあの仲間たちと一緒に働けるのなら――通訳になる夢はあきらめて、ミナモト水産の正社員としてやっていきたいと感じて――ライアンたちと一緒になって笑い声を上げる、ミナモト水産常務取締役の横顔をじっと見つめながら――この人の下で働きたい、という強烈な思いに駆られた。
「何だ、俺の顔に見とれてんのか?」
 将人の視線に気付いた辰三が、おどけた口調で言った。
「いや、そんなことはなくて――」
「そんなことはねぇってどういう意味だよ」
 辰三が笑った。
「実は、ずっと言おうと思ってたんですけど――」
 僕はミナモト水産の正社員にしてもらえるんでしょうか、と続けようとして、将人は言葉を飲み込んだ。関内の資金不正流用疑惑の告発と、ミナモト水産の正社員登用は、それぞれ天秤ばかりの反対の皿に乗っているようなものだ。どちらかを取れば、どちらかが沈む。レックスやブエナスエルテ社の仲間たちを裏切るような真似はできない。
「なにを口ごもってんだ、お前らしくねぇな」
「いえ、あの――十月って、通関士の試験があるんですよ」
 代わりに将人はそう言って無理やり笑みを繕った。
「ああ、お前、通関士の勉強もしてんだったな。何なら、試験日とかぶらねぇように日程を調整してやってもいいぞ」
 辰三は本気で、自分をこれからも通訳として使おうとしてくれている――そう痛感して、胸が熱くなった。
「十月はエアコン付きの宿舎で寝泊りですね」
「バカ野郎、宿舎は俺と女が使うから、お前は外で寝ろよ。そうだ、加工場の隅にあった、あのジープニーでいいじゃねぇか、屋根もついてるしよ」
 言って、辰三が大笑いした。
「屋根なんて関係ないでしょう、もともと加工場の屋根の下に置いてあるんですから」
 答えて、将人も笑った。
「でもな、考えてみればよ、ミナモト水産が投資した金と、アレンの物価を考えりゃ、ブエナスエルテ社には立派な宿舎が建ってもおかしくねぇんだぜ。レックスがどこへどう金を使ってんのか、俺は知らねぇけどさ」
 辰三は言って、冗談ぽくレックスの方に目配せして見せた。レックスはきょとんとした顔で、「何の話だね?」と将人に微笑んできた。
「辰三さんが使う新しい宿舎には、防音加工を施したほうがいい、って話です」
 将人はそう言って通訳をあいまいにした。
 レックスは手をたたいて笑いながら、ライアンとアルマンにもそれを伝えた。二人も大笑した。辰三は何がおかしいのかわからないという顔で首を傾げたが、それでもみなに合わせて笑った。
 将人は、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、ほっと息を吐き出した。

 朝食にしては油っこすぎる中華料理をおおかた片付けると、みな口数も少なくなり、そのうち、辰三とアルマンが椅子に座ったままうたた寝を始めた。ライアンはリンドンの買い付けた魚の支払伝票とノートを取り出し、何やら計算を始めた。
 市街から二十分ほどの距離にあるカルバヨグ空港へは、十一時に到着できるよう街を出発する予定になっている。
 時計は十時を数分過ぎていた。将人はためらいがちに、隣に座るレックスを揺り起こした。
「レックスさん、例の件なんですけど、時間も時間ですし、そろそろお願いできますか?」
 ライアンに悟られないよう、少し遠まわしな言い方をしたが、眠気眼のレックスは「何のことだね?」と首を傾げた。
「メトロバンクの件です」
 将人は言った。
 ライアンがはっとペンを置いて顔を上げた。
「ああ、そうだったそうだった、すっかり忘れていたよ」レックスが腕時計を見た。「あまり時間がないな、さっそく向かおう」
「僕も行くよ」
 レックスが立ち上がりかけると、途端にライアンが言った。
「お前はここでタツミさんに付き添っていなさい」
 レックスに言われ、ライアンは上げかけた腰をしぶしぶ下ろした。
 将人は辰三を揺り起こし「銀行へ行って口座を開いてきます」と告げた。
「日本から送らなきゃならねぇほどの金を、お前はいったい何に使うつもりだ」
 辰三はそうぼそっと言ったが将人が答える前に居眠りに戻った。
「キャッシュカードは日本に送ってくれないでしょ、父さん?」
 ライアンが聞いた。
「わからないが、そうできるように頼んでみるつもりだ」
 ライアンが目を見開いて将人を見つめた。というより、将人を通過してどこか別のものを見ているような、奇妙な視線だった。
「ブエナスエルテ社に送ってもらえばいいよ、僕を受取人にしてさ。ショウが十月にやってくるまで、他の誰にも触らせずに、しっかり保管しておくから」
 将人は全身が総毛立つのを感じた。いきなりキャッシュカードの話を持ち出したことからして、ティサイ援助計画の一部が関係者の誰かから彼に漏れたと考えて間違いなさそうだ。
 こうなると、サンパブロもしくは日本からアルマン宛てに送ることになるキャッシュカードの入った封筒も、ライアンに検閲される可能性が出てくる。
「それは良い考えかもしれない。どうだね、ショウ?」
 将人はためらいがちに首を横に振った。
「お気持ちはありがたいですが、やはりサンパブロに送ってもらいますよ。できれば日本に帰る前に受け取りたいんです。キャッシュカードがあった方が、日本からの送金手続きも楽になるでしょうしね」
「キャッシュカードを当日発行してもらえるよう、支店長にかけあってみよう」
 レックスが言うと、ライアンの顔が真っ赤になった。微笑んではいるが、歯を思い切り食いしばっているようにも見える。
「さあ、早く行かないと飛行機に遅れてしまうぞ。君はサンパブロに戻りたくないだろうがね、私もセキウチさんには怒られたくないんだ」
 レックスは微笑みながら、そそくさと出口に向って歩き出した。
 将人もそのあとに続いた。
 階段を下り、ビルの外に出て、すっかりにぎやかになったカルバヨグの街中に繰り出した。太陽はすでに耐え難いほどの熱で地面を焦がしている。埃の舞う道路を行き来する自動車から吐き出される黒煙が、鼻の粘膜を突いた。
 歩きながら将人は考えていた――もはやバネッサの妊娠のことで頭が一杯で、将人とティサイの仲を裂くことに関心を失ったように見えたライアンが、なぜあれほどまでに口座開設の話に首を突っ込んできたのだろうか――まさか将人のティサイへの仕送りを接収して、バネッサとの駆け落ち資金に当てるつもりだったのだろうか――。
 足早に進むレックスの背中を見つめながら、将人は彼に、ライアンとバネッサのことを告げるべきだろうかと考えた。このままでは、ライアンはレックスと正面向き合って話し合うこともせず、ある日突然、ブエナスエルテ社から姿を消してしまうかもしれない。バネッサとの階級を超えた結婚と、それをレックスに受け入れてもらうことは不可能に近く難しいだろうが、少なくとも可能はゼロではないはずだ。レックスとて、次期社長のライアンが、子供を宿したワライの娘と外国へ駆け落ちしてしまったら、なぜそんなことをする前に正直に話してくれなかったのか、と悔やむに違いない。
 すべてを話す必要はない。ただ、ライアンが悩みを抱えているようだ、と告げるだけでも、何かしらの助けにはなるはずだ。
 将人は意を決して、通りの角で立ち止まったレックスに近づいた。
「レックスさん、実はお話しておきたいことが――」
「ここだよ、ここ」
 だがレックスは、将人が言い終わる前に、正面のビルを見上げて誇らしげに言った。
「メトロバンク、カルバヨグ支店にようこそ」
 カルバヨグに立ち並ぶ、薄汚れたビルのどれとも似つかないほど、清潔で端整な建物だった。
 レックスはそそくさと入り口ドアまで続くレンガ造りの階段を上がっていった。将人も慌てて続く。ガラス扉はさすがに自動ドアではなかったが、エアコンの冷気を逃がさないよう二重扉になっていた。
 中に入ると、レックスは受付の女性に、ここの支店長は誰か、と聞いた。なぜか彼らはタガログ語ではなく英語で会話した。
「ああ、サミュエルか。これはいいニュースだぞショウ、ここの支店長は、UP時代の後輩だ」
 五分も待たずに、そのサミュエルという支店長が現れた。痩身に濃紺のスーツ、浅黒い顔に長い髪をジェルでうしろに硬く撫で付けている、服装もしぐさも話し方もどこか気取ったような男だった。Tシャツにハーフパンツ、ベースボールキャップといういでたちで飾り気なく話すレックスとはまるで対照的な人物という印象だ。
 サミュエルは、レックスと笑顔で抱擁を交わし、続いて将人に向けて手を差し出した。将人は手を握り返しながら簡単に自己紹介した。
 フロアの隅にある、パーティションで仕切られた応接室に通された。腰が沈むほど柔らかいソファーに腰掛けるなり、レックスとサミュエルは、最近の仕事の状況や家族のことなどについて語り始めた。レックスとサミュエルも英語で話している。サミュエルはレックスの養殖業や水産物加工業のことについていくつか質問したが、その口調には、銀行を辞めて独立したレックスの決断を、どこか見下しているような響きが感じ取れた。
 話が一段落しないうちに、レックスは手を振って会話を止めた。
「もっといろいろ話したいところだが、実はあまり時間がない。今日ここに寄ったのは、ショウが口座を開設したいと言うからなんだ。私たちの会社に出資した、日本人投資家のひとりなんだよ」
 言って、レックスは将人にウィンクした。
「カルバヨグ支店で日本人の顧客を得るとは嬉しい話ですよ。パスポートと、いくらか口座に預金するお金をお持ちですか、ミスター・ショウ? 外国人ということで、普通よりも手続きに時間がかかるところですが、特別に急がせて、明日には開設できるよう手配させていただきます」
 やはり即日発行は無理か、と将人がうなだれたとき、レックスが口を開いた。
「言い忘れたが、彼はあと一時間ほどで、サンパブロに戻らなければならない。できれば、今すぐに開設してもらいたいんだ」
「今すぐ?」
 サミュエルが目を瞬いた。
「ああ、今すぐだ。私だってメトロバンクに勤めていた人間だ、簡単でないことはわかるが、不可能でないこともわかっている。彼は私の大事なゲストなんだよ、どうか頼む」
「それならば、サンパブロのメトロバンクに行ってもらった方が早いと思うのですが」
 サミュエルの慇懃な表情と口調が、面倒はごめんだ、と言っているように聞こえた。
「いや、それがだね――」レックスが隣に座る将人に苦笑いして見せた。「彼のサンパブロの上司がちょっと変わった人でね、彼を幽閉状態にして、個人的な外出を許さないんだ」
「幽閉状態?」
「ああ、彼だけでなく、私も訪れるたびに幽閉されるんだよ。詳しい話は省くが、とにかく、サンパブロ支店のことは忘れて欲しい」
 サミュエルは訝しげな視線を将人に何度か向け、少し考えたあと、腕組みしたまま立ち上がった。
「わかりました、何とかしてみましょう。あなたの頼みなら聞かないわけにはいきませんからね」
「すまない、恩に着るよ」
 サミュエルが応接室から足早に出て行くと、レックスが将人の肩をたたいた。
「ほら、言ったとおりだろう?」
「はい、ありがとうございます。感謝の言葉が見つかりません」
「今回の滞在中、君は本当に良くやってくれた。これはせめてもの恩返しだと思ってくれ」
 将人は微笑んだ。
「しかしサミュエルのやつ、すっかり元気になったな。以前、君に話しただろ、私の部下で自殺未遂を犯したのが何人もいたって。彼もそのうちの一人だったんだ」
「サミュエルさんがですか?」
「彼は今でこそあんなに自信に満ち溢れているが、当時は人間の抜け殻のようだった。私は彼の話を聞き、励まし、一緒に考えた。長い時間がかかったが、彼は復帰した。そして今では支店長を勤めるまでに出生した。下手をすれば、彼はとっくに自殺して、もうこの世にいなかったかもしれない人間なんだ。いつ誰と出会うかで、人生は大きく変わる。人と人とのつながりがいかに大切かということを、こういうときに、私自身、つくづく感じるよ」
 そういう目でライアンを見てあげてくれませんか、という言葉が将人の喉の辺りまで出かかった。
 サミュエルが戻ってきた。
「お待たせしました。ミスター・ショウ、十分ほどで口座が開けます。さっそく、パスポートと、いくらか現金をお渡しいただけますか?」
 将人は財布も兼ねているパスポートケースを取り出し、パスポートを取り出しながら札入れの中を見た。
 五百ペソしか残っていなかった。
「あの――口座開設当初は、最低どのくらい預け入れるものなんですか?」
「そうですね、だいたい三千ペソから五千ペソほどかと」
「実は、手持ちが五百ペソしかないんです」
 サミュエルだけでなく、レックスも目を瞬いた。
「日本円の一万円札が二枚あるんですが、ここで両替は無理ですよね?」
 サミュエルが肩をすくめながら首を振った。
「五百ペソでもかまいませんよ。ただし、残高が少ない口座は整理解約の対象になることもありますから、日本に帰国された際は、なるべく早く入金して、残高を上げてくださいね」
 言って、サミュエルはメトロバンクの東京支店の住所と電話番号をメモして将人に手渡した。
「ありがとうございます。ちなみに、キャッシュカードは二枚発行していただくことができますか?」
 なぜ二枚も、とレックスが聞いたので、将人は、一枚はフィリピンで引き出しのために携行し、もう一枚は日本から送金するために自宅に保管しておくため、と説明した。
「残念ですが、キャッシュカードは一つの口座に一枚限りとなっております」
 やっぱりな、と将人は肩を落としながら続けた。
「あと、キャッシュカードを今日この場でいただくことはできませんか?」
 レックスが、できるだろ、という視線をサミュエルに投げかけた。だが、サミュエルは首を大きく横に振った。
「申し訳ございませんが、こればかりは昔と手続きが変わりまして、即日発行はどうやっても無理なのです。キャッシュカードはフィリピン国内の住所に郵送されるのですが、どちらに送付いたしましょう?」
 将人は、関内の名刺を取り出して、「こちらにお願いします」とサミュエルに手渡した。
「サンパブロでしたら、間違いなく一週間以内にお届けできると思います」
 彼は答えた。
 口座開設申込書に記入を済ませると、将人は運ばれてきた甘いコーヒーを飲みながら待った。暗証番号は予定通り〈四四一〇〉にした。
 即日にキャッシュカードを受け取り、クリスに手渡すという最良の筋書きにはならなかったが、それでも、口座は開設することができたし、キャッシュカードもGFCサンパブロ工場宛に送付するよう手配できた。それにメトロバンクの支店が東京にあるというのは良い驚きだった。フィリピンへの送金手数料も、メトロバンク同士なら安く上がるだろう。三津丘から東京までの電車賃をどう工面するかはまた別の話だが――。
「レックスさんは、いつマカティに戻るんですか?」
 コーヒーが空になったところで、将人は聞いた。
「タツミさんがいなくても、加工場がしっかりと稼動すると確かめたら、すぐにでも戻るよ。向こうでも仕事がたまっているんだ。もし君たちが帰国するまえに戻ることができたら、また食事にでも行こう」
 ぜひお願いします、と将人は頷きながら、さきほど言えなかったことを言った。
「近いうちに、ライアンとゆっくり話す時間を作っていただけませんか?」
 レックスがきょとんとした顔で将人を見返した。
「それはかまわないが、またどうしてだね?」
「彼、何か悩みがあるみたいです。彼の言動を見ていると、精神的にまいってるなって、ときどき感じることがあるんです。生意気なことを言うようですが、親子だからこそ、見えないものってあると思うんですよ。どうか、お願いします」
 わかった、とレックスは微笑んだ。そして、「確かに息子だから、友人や部下のように客観的に見ることができない部分があるかもしれないな」と独り言のように言った。
 ライアンがレックスに真実を告げる勇気を持てますように、と将人は願った。
 サミュエルが、口座開設申込書のカーボンコピーと、小さな黄色い紙を持って戻ってきた。
「さあ、手続きが完了しましたよ。私が支店長に就任して以来――だけでなく、この支店ができて以来、最速の口座開設だそうです、ミスター〈ショウト・カシワバ〉」
 黄色の紙には、口座番号と名義人、そして残高の〈五百〉という数字が、青いボールペンで、手書きで書かれていた。もしキャッシュカードが届かなかった場合でも、その紙に書いてある情報を東京支店に伝えれば、振込みは可能だという。
 キャッシュカードはフィリピンに置いていくつもりだから、その紙で振込みができるというのは良いニュースだった。将人は黄色い紙をパスポートに丁寧に挟んで、パスポートケースに納めた。
「これからカルバヨグに来ることが増えると思うから、また顔を出すよ」
 そう言ってレックスは立ち上がり、サミュエルと握手を交わした。
 将人も握手を交わそうとすると、サミュエルが耳もとまで顔を寄せ「さては女だね」とささやいた。将人はそれには答えず、ありがとうございました、と礼だけ言って微笑んだ。
 レックスはすでにビルを出て歩き始めていた。Gショックを見ると、すでに十時四十分を過ぎていた。
 将人は銀行を出ると、走るような速さで歩くレックスを追った。

 中華料理店でライアンが会計を済ませている間、将人はアルマンに、口座が無事開設できたこと、キャッシュカードは予定通り彼宛てでブエナスエルテ社へ送ることを伝えた。そして、ライアンの検閲にはくれぐれも気をつけて欲しい、とも付け加えた。
 カルバヨグでやるべきことはやった。次は、サンパブロだ――。
「そんなに早く口座が開けるんなら、俺も一行けばよかった」
 パジェロが空港に向けて走り出してから、辰三がぼそりと言った。


 空港には三十分もかからず到着した。約一ヶ月前に関内を見送った小さなターミナルビルが見えてくる。パジェロはその未舗装の駐車場に乗り入れた。
 辰三のスーツケースをクリスが運んだ。将人のスーツケースは、アルマンが「僕が運ぶ」と言って譲らなかった。たった二十メートルほどの距離だが、甘えるのも友情の証だと思って、将人は彼に任せることにした。
 クリスの横を通り過ぎるとき「全ては予定通りにいったよ」と耳元でささやいた。クリスは頷き、にかっと微笑んだ。
 ターミナルビルの向こう側に広がる滑走路には、アジアンスピリットの派手なマーキングが施されたYS11がすでに待機していた。
 チェックインカウンターで、レックスが将人たちの搭乗手続きを済ませ、アルマンとクリスが荷物を預け入れた。
 将人と辰三は、搭乗ゲートの前で歩みを止めた。レックス、ライアン、アルマン、そして少しあいだを開けて、クリスが横並びで立っている。
「さようなら、とは言いません。別れではないですからね」レックスが、辰三と握手を交わしながら言った。「十月にまた会いましょう、兄弟よ」
 辰三の顔がしわくちゃになった。口元がなわなわと震え、今にも泣き出しそうだった。
「バカ野朗、シャレたこと言いやがって。当たりまえだ、さよならなんて言うもんか、兄弟なんだから」
 言って、辰三はレックスに抱きついた。ライアンもアルマンも、目頭を押さえている。
「待ってますよ、十月に」
 ライアンが言った。
「一緒にサンパブロに行けないのが残念です」
 アルマンが言って、けらけらと笑った。
 辰三は大きく頷きながら、二人と硬い握手を交わした。それから、離れて立っていたクリスのところまで行って、持っていたバッグからタバコのカートンを取り出すと、彼の胸元に押し付けた。
「これ、いろいろ運んでもらった礼だ」
 本当はジョエルに渡そうと思って買ったやつなんだけどな、と辰三はぼそっと言って苦笑いした。
 クリスは文字通り飛び上がって喜んだ。
 将人の番になった。レックスの前に立つ。
「僕は今までの人生で、心から尊敬できる人にほとんど出会いませんでした。でも、僕はレックスさんを本当に尊敬しています。そして日本に帰っても、祈り続けます――ブエナスエルテに幸運あれ、と」
 レックスは頷きながら、将人の両肩に手を置いた。将人もレックスに頷き返しながら、「書類のことは任せてください」とつぶやいた。
 ライアンの前に立った。
「言いたいことはたくさんあるけど、そのうちで一番、言いたいことを言うよ。最初からあきらめないで、心を開いて、レックスと話し合ってくれ。君自身と、君を心から愛してくれる人と、君の未来の家族の幸せために。それから、早まったことをしそうになったら、くれぐれも思い出してくれ、君のうしろには、君を頼りにしている、ブエナスエルテ社の、あの陽気で気さくで友達思いの、多くの従業員たちがいるってことをね」
 ライアンは、将人のその言葉に、弱々しい握手と苦笑いで答えた。
 アルマンの前に立った。
「早く結婚しろよ」
 開口一番、将人が言うと、数秒して、一同が一斉に笑い出した。
「余計なお世話だって」
 アルマンが将人を小突いた。そして、拳を開いて、握手に変えた。
「〈あとのこと〉は、僕に任せておいてくれ」
「わかってるさ、プラスとマイナスの配線を逆につなぐほど信頼できるエンジニアだからな」
 将人は手を握り返しながら笑った。
 クリスに歩み寄った。将人にとって、そこにいる誰よりも、クリスと別れる事が辛かった。
 将人は手を差し出した。クリスがその手を握った。
「君と会えて本当に良かった。鶏を何羽もひき殺したときは、絶対に仲良くなれないと思ってたけどね」
 クリスが頭をかいて苦笑いした。
「もうひくのはやめたんだよ」
「わかってる」
 将人は笑った。
 しばらく無言で見つめ合ったあと、将人は、つぶやくように言った。
「彼女を、ティサイを、どうか僕の代わりに――」
 そこまで言って、声が出なくなった。自分でも戸惑うほど、とめどなく涙が流れ出す。
「わかってる。彼女は私が守る、約束するよ」
 クリスの目からも、大粒の涙があふれ出した。
 彼のうしろに、ティサイの姿が見えた。
 将人はクリスを思い切り抱きしめた。
 クリスも、将人を硬く抱き返した。
「頼んだよ、彼女を、頼んだよ――」
 将人は、何度も何度も、そう繰り返した。

 搭乗ゲートをくぐり、先に進むと、見送っていたレックスたちの姿が壁の向こうに見えなくなった。
 出発待機所の椅子に辰三と隣りあわせで座った。涙はまだ止まらなかった。
「誰かと別れるとき、こんなに涙が出たのは、生まれて初めてです」
 将人は言った。
「たった二ヵ月じゃねぇか、どうせまた戻ってくるんだ。安心しろ、関内さんやうちの社長に何と言われようが、俺は次もお前を通訳として連れて行くからよ」
 ありがとうございます、と言ったつもりだったが、口から出たのはかすれるような音だけだった。

 十二時になり、搭乗が開始された。太陽の熱を吸収して燃え上がりそうな熱気を放っている滑走路を徒歩で進む。
 タラップに乗る一歩手前で、将人は足を止めた。
 怪訝な顔で見つめる係員や後続の乗客をよそに、将人はもう一度、サマールの空を見上げ、その空気を肺一杯に吸い込んだ。
 滑走路から、足を片方ずつゆっくりと持ち上げ、金属製のタラップの上に移す。
 ティサイが今も踏みしめているだろう、サマールの地から、将人の両足が離れた。

 まるで観光バスのような内装のYS11の座席に座った。辰三は今度も将人に窓際の席を譲った。
「なあショウ、日本に帰ったら、スシ食いに連れてってやっからよ。いい店、知ってんだ」
 ひじ掛けに頬づえをつきながら、辰三がつぶやくように言った。
「楽しみにしてます」
 将人は頷いた。
「好きなだけ、食っていいからよ、好きなだけ」
 辰三はうつむいて鼻をすすりながら、そう何度も繰り返した。

 三十分ほどして、プロペラ機は離陸した。高度が上がると、人も、道路も、建物も、うすくかすんでいく。
 やがてサマールは、青い海に浮かぶ緑一色の島になった。飛行機がぐるりと旋回すると、アレンがどの方向かすらわからなくなった。
 もしかしたら、アレンの橋の上で、ティサイがこの飛行機を見上げているかもしれない――。
 だから、将人はサマール島を見つめ続けた。
 白く厚い雲の下に島がすっかり見えなくなまるまで、ずっと――。


 二時間もかからずに、飛行機はマニラ空港に着陸した。タラップを降り、小型バスで巨大なターミナルビルに向う。
 スーツケースを受け取り、国内線到着ロビーを出ると、すぐに「辰三さん!」と呼ぶ大声が聞こえた。
 通路のど真ん中に関内が立っていた。にこやかな笑みを浮かべ、大きく手を振っている。ゴルフに通い詰めたせいか、以前にも増して深く日焼けしていた。脇には、長身のラウルが従えている。
「お疲れだったね。どうだい、サマールのジャングルから、ようやく文明社会に帰って来た感想は?」
「あまり良くないですね」辰三は愛想笑いを浮かべながら答えた。「早く日本に帰りたいですよ」
「まあまあそう言わずに。サンパブロでも、辰三さんの帰りを待ってる人がたくさんいるんだから」
 辰三はうんざりしたような顔に無理やり繕ったような笑みを浮かべた。
 関内は今度も将人の存在をまったく無視して、辰三と横並びで歩き出した。
 しかしそんな関内の態度など、将人はもう気にならなくなっていた。むしろ、関内には見えないフィリピンを見てきたんだ、という優越感のようなものすら感じる。
 将人が自分のスーツケースを転がしながら二人の背中を追いかけていると、辰三のスーツケースを転がしているラウルが歩調を緩め、将人の横に並んだ。
「お帰りなさい、ショウ。向こうは楽しかったですか?」
 将人は、ラウルと笑顔で握手を交わした。
「戻りたくないと感じるほどにね」
「サマールが大丈夫なら、フィリピンのほかのどんな場所にも住めるでしょう」
 清潔なYシャツにグレーのネクタイを締めたラウルは、そう言って将人の肩をたたいた。
 彼の子供が、日本人の運転手という彼の仕事を学校で自慢すると言っていたが、その気持ちが、今ならわかる気がした。
 ブエナスエルテ社の加工場では、今日も加工係たちが、魚のあらやうろこで汚れまみれになりながら、元気に働いていることだろう――。

 一ヶ月前、マニラ空港からサンパブロに向う道のりは真っ暗だった。今回はまだ日没前で、ハイウェイの両側の景色を見渡すことが出来る。団地やビルや、小さなみすぼらしい家々が寄り集まった町が、草木が生い茂るだだっ広い平地に点在している。
 作りかけの国――。
 ふと、将人の頭にそんな言葉が浮かんだ。
 この国の誰もが、何かが完成することを、本当は望んでいないのではないだろうか――全てが未完成でいることに、むしろ安堵しているような気さえする。
 政治も、法律も、社会も、経済も、会社も、建設物も――階級社会や賃金格差の是正も。
 もしこれが日本の景色なら、きっと十年も経てば、点在する町と町は鉄道や太い道路で結ばれ、それに沿って家々が建ち並び、増殖し、二つの町はつながって一つの大きな町になり、それがまた別の大きな町を吸収して、やがて大都市を形成することだろう。
 将人の住む三津丘市もそうだった。十年前なら、市街地を抜ければ、隣の藤浦市の中心部にたどり着くまで、国道の両側には一面に水田が広がり、そのさらに向こう側には、茶畑で覆われた丘が見えていた。だが今では、その水田は埋め立てられ、丘は削り取られて、道沿いだけでなくそのずっと先までも、途切れることなく家やビルが建ち並んでいる。途中にJRの新しい駅が二つもできて、今や三津丘市と藤浦市を隔てるものは、地図の上に引かれた線だけになった。
 そこで、ふと将人は思い出した――三ヶ月ほど前、まだ付き合っているのかいないのか微妙だったころ、ひとみを誘って近くの丘まで夜景を見に行ったことがあった。太平洋を背にして、さまざまな色の光点で覆われた街は美しく輝いていた。だが、車内で初めて手を握り、そしてキスを交わすに至り――そのまま日の出まで丘の上に留まることになったのだが、そのとき朝日に浮かんだ建物の群れは、まるで緑色のじゅうたんの上に、灰色の凹凸を作って広がる醜いカビのように見えた。
 ちょうど、ムーンライトの建物が昼と夜でまったく別物のように姿が変わって見えるのと同じように――。
 この国が未完成なのではなく、日本があまりにも作り込まれすぎているだけのかもしれない。
 将人がそんなことを考えながら窓の外の景色に見入っている間も、関内は辰三相手に、日商赤丸時代の話を延々と語っていた。もう何十回も聞いた話だった。
 そのうち、辰三は話を続ける関内にかまわず居眠りを始めた。
 サンパブロに着くまで、将人は一度も口を開かず、ただ、窓の外を見つめていた。

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