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スイスは鉄道王国で、かなりの山岳地帯まで鉄道で観光できる素敵な国である。ところが、ニュースによると 昨日2010/7/23 正午(日本時間17時)に氷河急行(Glacier Express )は脱線し、死傷者も出たという。被害に合われた方には、ご冥福と 軽いおケガでご回復されることをお祈りいたします。この列車は、早く走るのでなく、のんびりゆっくり景色を眺めながら、スイスの東はずれのサンモリッツから、南西部のツェルマットまでを結ぶ人気列車である。ほぼ1等車のみで、1日数本走っていて、天井両側までガラスのパノラマ窓になっていて、景色はとてもいい。特にツェルマットまでは自動車もモータープールに駐車して鉄道に乗られないと行かれない。海外旅行も安全第一でいろいろ考えて行動しないといけませんね。自戒!自戒!以下は参照させていただいた 毎日jp. 新聞ニュースです。http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100724k0000m040166000c.htmlスイス:日本人多数乗車の「氷河特急」が脱線 1人死亡 23日、事故現場で損傷した氷河特急の車両を調べる消防士=AP スイス南部で23日正午(日本時間午後7時)過ぎ、多数の日本人観光客を乗せた山岳観光列車「氷河特急」(乗客約210人)が脱線し、地元州警察によると、1人が死亡、42人が重軽傷を負った。うち38人が日本人だという。在スイス日本大使館は現地に職員を派遣し、安否確認を急いでいる。 氷河特急は、スイス南西部のツェルマットと東部のクール、サンモリッツを結び、標高約2000メートルの峠を越える。事故はフィーシュ-ラックス間にある水道橋付近で発生。地元警察によると、1両目と2両目が脱線し、3両目が転覆したという。 乗車していたガイドは地元メディアに対し、「負傷者の多くは日本人だった」と語った。また、地元メディアによると、この時期の氷河特急は常に満席だったという。 JTBによると、脱線した列車には、同社が募集したスイス国内を周遊するツアーに参加した日本人客21人と添乗員1人が乗っていた。全員が脱線した車両に乗っていたといい、約10人が病院に運ばれた模様という。添乗員の女性も軽傷を負った。 このツアーはスイス国内を8日間で周遊する予定で、20日に成田空港を出発し、27日に帰国する予定だった。参加していたのは関東地方の人が中心で、多くは50~80代という。 また、これと別に全日空のグループ会社「ANAセールス」のツアー客も乗車していた。全日空によると、日本人のツアー客14人と男性添乗員1人が事故に巻き込まれた模様。このうち何人かがけがをしているとみられるという。ツアーは20日に成田空港から出国。モンブランやマッターホルンなどを巡るツアーで、27日に帰国予定だった。【ジュネーブ支局、北村和巳、伊藤一郎】
2010年07月24日
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何の気なしに、ルフトハンザのページを覗いたら、なんと、エアバスA380を 6/10から月水土の週3便ながらフランクフルトへ定期運行。その後2機目が8/4就航すると、毎日A380が定期運行するそうです。 シンガポール航空は2008年5月から導入しているものの、ヨーロッパへA380で行かれる って言うのは、ちょっとニュースじゃないですか!乗ってみたいなあ。ルフトハンザ、A380を成田-フランクフルト路線に導入。第一号機が6月12日に成田へ初飛行ルフトハンザ ドイツ航空(以下、ルフトハンザ)は、「フランクフルト・アム・マイン」と命名されたエアバスA380第一号機を成田-フランクフルト路線へ導入することをお知らせいたします。ルフトハンザ・ホームページ 2010/04/30.よりhttp://www.lufthansa.com/online/portal/lh/jp/nonav/local?nodeid=3007337&l=ja&cid=1000276&blt_p=JP&blt_l=ja&blt_t=Homepage&blt_e=Homepage%20-%20Hero&blt_n=6%E6%9C%88%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%81%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%B9A380%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E5%B0%B1%E8%88%AA%E3%81%97&blt_z=%C2%A0&blt_c=JP%7Cja%7CHomepage%7CHomepage%20-%20Hero%7C6%E6%9C%88%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%81%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%B9A380%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E5%B0%B1%E8%88%AA%E3%81%97%7C%C2%A0これにより、ルフトハンザは日本-ヨーロッパ路線にA380を導入する初の欧州系航空会社となり、 成田はルフトハンザがA380を定期運航する最初の目的地となります。当面、A380による成田-フランクフルト路線の日本発便は毎週月曜日、水曜日、土曜日の週3回となりますが、8月4日に予定されている第二号機「ミュンヘン」の納入後、成田-フランクフルト路線は毎日A380での運航となります。なお、成田-ミュンヘン路線(毎日運航)、関西-フランクフルト路線(毎日運航)、中部-フランクフルト路線(週5便運航)の運航スケジュール、使用機材に変更はございません。「ルフトハンザがA380第一号機を日本路線へ導入することは、日本市場への強いコミットメントを示しています。日本-ヨーロッパ間の長距離路線において、ルフトハンザのお客様は一足早く、A380の傑出した高級感及び快適性をご体感いただけます。」と、ルフトハンザ日本支社長のオットー F.ベンツは述べています。ルフトハンザは、環境保護、地域・社会への様々な貢献に注力しており、燃料消費が低減されCO2排出量も少ないA380導入もその一環です。また、新世代エンジンと先進設計の主翼を搭載し、着陸装置にも最新設計を用いたA380の導入により、低騒音を実現し、空港近隣の環境改善にも貢献いたします。なお、ルフトハンザ仕様のA380はアッパーデッキ(二階)にファーストクラス8席及びビジネスクラス98席、メインデッキ(一階)にエコノミークラス420席、計526席を有します。高い機能性とデザイン性を兼ね備えたファーストクラスには、快適さを追求した新型シートが設置されています。また、防音床材により静寂性を確保し、贅沢でプライベートな空間をお楽しみ頂けます。エアバスA380専用サイト(lufthansa.com/A380)では、ルフトハンザ仕様のA380 、ルフトハンザ単独による商業運航検証飛行、部品受入試験、ヨーロッパ各地からトゥールーズにある最終組立工場への部品輸送等についての情報をご覧いただけます。また、画像や動画もご提供しています。
2010年05月25日
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アメリカでアライアンス変更のニュースが入ってきた。ANAが加盟するスターアライアンスが、コンチネンタル航空を加えた。こんな大きな会社が、ダイナミックなチェンジを行った。JALをめぐる争奪戦には、こんな事情があったのですね。日本は、やはりスピード感がかけてるね。ヨーロッパ好きのボクにとっては、コンチネンタルは メリットがそれほどあるわけではない。でも、南米路線や、アジアのネットワークがマイレージで可能性が広がるのには興味がある。JAL問題に、スターアライアンスが入ってこなかったのは、自陣営にANAが入っていることもあるが、こんな事情があったんだ、と妙に納得できた。 以下は、朝日新聞のホームページから、ニュース抜粋しました。コンチネンタルの航空連合移籍2009年10月29日1時45分http://www.asahi.com/business/topics/economy/TKY200910280440.html 【ニューヨーク=丸石伸一】米コンチネンタル航空は27日、国際航空連合「スカイチーム」から同「スターアライアンス」に移籍した。世界の大手では初のくら替えで、航空連合間の競争は激化する見通しだ。苦境の業界の生き残り策として、航空連合の重要性が増していることが浮き彫りになった。 ■規模誇示するスター陣営 「苦闘する日本航空をめぐる(国際的な提携に関する)議論を見ていると、提携の重要性について改めて気づかされる。コンチネンタルの加盟でスターアライアンスの価値はさらに高まった」 ノースウエストを統合したデルタ航空に次いで日本関連の路線を多く持つだけに、日航をめぐる米競合他社の綱引きに、大きな関心を持っているようだ。スカイチームのデルタとワンワールドのアメリカン航空が出資を申し出た「日航争奪戦」は、コンチネンタルの移籍で航空連合の力関係が変わったことも一因だ。 1日約2500便を運航するコンチネンタルの加盟で、スターアライアンスは三つの航空連合の中で群を抜く規模になり、逆に、コンチネンタルが抜けたスカイチームは大きな差をつけられた。スカイチームがワンワールド加盟の日航に秋波を送るのは当然ともいえ、それを阻止しようとワンワールドも必死だ。 他社の力を借りて路線網を広げる航空連合の重要性が高まっているともいえる。合併よりも提携強化を選んだコンチネンタルの戦略がその証しだ。 航空連合の加盟社は、空港施設の利用や燃料の購入を共同で行ってコストを削減できるほか、共同運航による路線網の拡大で顧客増が期待できる。コンチネンタルの移籍で提携が実現した全日本空輸の顧客にとっては、新たにコンチネンタルの中南米などへの運航便への乗り継ぎが便利になり、ためていたマイレージポイントを両社で使うこともできるようになる。 コンチネンタルは全日空との関係強化を「日本やアジアでの提携効果を拡大する大きなチャンス」としており、日本の航空自由化を視野に入れた航空大手の動きも活発化している。 ■日航再建の道筋を左右 経営再建を目指す日本航空にとっては、どの国際航空連合に所属するかで再建の道筋が変わる。 デルタ航空は日航に最大5億ドル(約455億円)程度の出資を申し出て、システム変更などスカイチームへの移籍に必要なコストをすべて提供するとしている。一方、ワンワールドのアメリカン航空も、デルタと同規模の資金支援を申し出ている。 スカイチームには太平洋路線に強いノースウエスト航空があり、日航が同陣営に移籍すれば、共同運航などによるコスト削減が可能になる。一方、ワンワールドに残れば、太平洋路線の中核を担い続けるため、将来の成長の余地が大きいとの見方もある。 前原誠司国土交通相が9月に日航の再建計画の練り直しを命じて以降、米航空2社との交渉はほぼ止まっている。ただ、前原氏が選任した専門家チーム「JAL再生タスクフォース」も外資との提携は排除していない。日航は来春までに3千億円の資本増強が必要とされ、アメリカンかデルタから資本を受け入れる可能性がある。(山川一基)
2009年11月01日
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先日の続きだが、今朝9/14の日経で、アメリカン航空も提携拡大交渉名乗り出たと載っている。そりゃそうだ!全日空がスターアライアンスに属したあとも、日本航空は、永らく旗印をはっきりさせず、最近になって、ようやく、アメリカン航空・英国航空のワンワールドに属したところだった。デルタ航空に出資されると、ワンワールドにとって、日本の航空会社を獲られた格好になる。国土交通省としては、デルタの日米間のネットワークを使って、コードシェア便を多用して、日本航空のリストラを進めようとしていた。デルタ航空も、エールフランスKLMなどとスカイチームを構成している。JALも 出資を受け入れることで、日米や、日欧 の ネットワークに組み込まれる。ただ、両航空会社とも、500億円程度の出資で収めたいようだ。JALは 日本政府からもたびたびの出資を受け入れているようだが、まだまだ資金が不足なようだ。7組合を擁し、賃金水準、年金問題、ジャンボを多数所有するなど、まだまだ JALの再建は多難なようだ。ヨーロッパ好きな ボクとしてはどっちのアライアンスに属してもらいたいだろうか?一昨年、JALでヨーロッパへ行ったときは、JALの総合力を使わせてもらった。JALは エールフランスとも、アリタリア航空ともネットワークを持っていて、成田-パリ、パリ-ベネチア、(この間はオープンジョー)ローマ-成田 と移動が楽だった。スターアライアンスもネットワークはあるのだが、乗り継ぎが意外と高額だったり、うまくいきにくかった。ヨーロッパへのネットワークなら、エールフランスKLMとの方が、深夜便もあったりして、便利になりそうだ。日本人として、JALもANAも 切磋琢磨して生き残っていただきたい。解決策も示さずここまで引っ張って申し訳ない。フレーフレー JAL!
2009年09月14日
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昨年夏から導入された 貸し自転車制度「 Velib' バリプ」、 パリの町歩きしたのに気がつきませんでした。 パリ市内は、モンマルトルの丘あたりを除くと、ほとんど平地なので、自転車はいいかもしれない。パリは見るものみんな楽しいので、つい、長く歩かされてしまう。ほんの少し歩いただけで、違う風景を見せてくれる すてきな町だ。メトロにばかり頼らず、自転車に乗れればきっと楽しいだろう。実は、数年前にお邪魔したデンマークのコペンハーゲンでは無料貸自転車「シティーバイク」が、1996年に始まっていました。この制度は、ホントに全部無料なのだ。運営は広告費でまかなっているという。他の自転車から切り離すときに、最初に1コインが必要だが、他の自転車とつなぎ、返せばお金も戻ってくるのだ。 ボクの泊まったペンションのオーナーは親切で、この存在を教えてくれた。残念なのは、デンマーク人サイズで、ちょっとサドルが高すぎるのと、ブレーキがないことだった。ブレーキがないって!そう、ブレーキは、ペダルを逆回転させるのだ。このペンションでも数台を保管していて、「乗るならいつでもどうぞ!」と ちょっと練習させてくれたが、ボクにはちょっと難しかった。というわけで、デンマークでは 貸し自転車は乗れなかった。 スイスの マイリンゲン の町では、自転車の成功体験がある。貸し自転車で、さわやか気分で楽しめた。15段変速のすばらしい自転車を借りて、アーレシュルフトにも行かれた。ホームズ最後の戦いのライヘンバッハの滝にはケーブルカーが休業で、ホームズ博物館も10月だったので、営業時間が短く入れなかったのではあるが。さて、パリ市の導入した貸自転車制度「Velib'」は完全無料ではない。が、基本料金は、1日(1€)、1週間(5€)、1年(29€)と非常に安い。追加料金が高いだろう? て。ノン、ノン、ノン。使用料については、最初の30分は無料。30分超60分以下返却で1€、60分超90分以下で2€。90分以降は30分ごとに4€。デポジットは別にかかるが、ちゃんと返せば、問題なし。支払いはクレジットカードのみ。http://www.clairparis.org/media/1/quoideneuf/Velib.pdf"Vélib' "とはVélo(自転車)とLiberté(自由)を合わせた造語である。 従来の貸自転車と違い、「いつでも好きな時に好きな場所で」借りて返せることがポイント。 年末にかけて無人貸出スタンドは市内にほぼ300メートルに1か所設置され、その総数は最終的に地下鉄の駅(297)の約5倍の1451か所に上る。というわけで、次の貸し出しスタンドを30分以内に発見して30分ごとに返していれば全部無料となってしまうのだ。これによって地球温暖化への対応もOKだし、日本のように、あちこちに自転車預かり所を設置する必要も少ない。日本も見習って欲しいものだ。
2008年09月02日
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いつもご来訪ありがとうございます。8万アクセスしました。80003 2008-04-17 07:18:58 hmv203さん79991 2008-04-16 23:08:33 seoulmikiさん79985 2008-04-16 21:16:35 jiyma21さん80168 2008-04-20 23:21:37 虚空2さん80206 2008-04-22 00:35:53 haihaihaihaiさん80211 2008-04-22 06:46:23 ブルゴニッシモさん いつものみなさん、その他のみなさん、ありがとうございます。 さてさて、 パリ脱出作戦は、ある出会いで楽しくできました。■ 翌日は、パーティーに参加して若い市長さんと握手したりしたけど、何よりビックリしたのは、中国パワー!中国人のもてはやされ方は日本がアジアの代表でないことを思い知らされる思いでした。 ディナーパーティー自体は楽しかったけど。■翌々日午後、早めにイベント会場を出た。最寄りの駅まで送ってもらったのはいいけれど、またも切符の自販機で困ってしまった。シャルルドゴール空港だから、C だろうと押してみても、ダメ。高校生くらいに見える女性が来たので、助けてもらう。空港は、アエロポール で、A だった!1人11.5EURO。高いものだ。クレジットカードでなく、細かくお金を出している間に彼女は消えた。お礼も言わないうちに、、、さてと、時刻表は? と、進むと、彼女はホームから降りてきた。手に路線図を持って、ボクらのために時刻も見てくれていた。もうすぐ来るRERに乗ればいい って。とっても親切だ。お礼に持ってきた 根付け (今年の子年の) を、あげた。ラッキー・ゾディアックだ と言うと、 喜んでくれた。一緒の4人掛けの席に座ってくれて、お話が始まった。彼女は、英語は苦手だと言った。実は、彼女は 高校生でなくて 大学3年生 !そして彼女は メキシコ人だった。とてもかわいらしい女性で、 大学の専門は? と聞くと、その辺の英語は 思い出せないらしく、 フランス語になった。美術学科だろうか? と話を合わせた。すると、日本人にはすばらしい人がいる と言うのだ。誰?それは、タダオ・アンドウ と言う。話がようやくわかってきた。彼女は、アーキテクチャー 建築学科だったのだ。1年間の短期交換留学だという。メキシコはスペイン語の国だし、フランス語で授業を受けるというのもボクには想像もできない。そんなこんなで、楽しく話をしていると、そろそろ乗り換えの駅だ と彼女は行った。楽しい時間はあっという間に経つ。先に立って、シャルルドゴール空港 への RERのホームまで話は続いた。そこで時刻表を見て、 次のRERに乗ればいい と言うと、さよなら ありがとう と お互いに言ったが早いか、さきほどの階段を上がっていった。なんともさわやかな風が通りすぎていったような感じ。ボクも恩返しのため、東京のメトロなので困ってる外人がいたら、お手伝いするようにしている。彼女のおかげでストレスもなく、空港へスムーズに到着した。本日の目的地ベネチアまでは エールフランスだ。まだ日が暮れる前だが、ベネチアに着く頃には日が暮れている感じだ。ざんねん!
2008年04月22日
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朝早くから歩き回り、遅いランチも食べた。ギリシャ・ファーストフード店には、フランスの若者たち数人がどかどか入ってきて、 同じようにケバブを注文して食べて出ていった。彼らはコーラなどを持ち込んで店の中で飲んでいたが、なにも言われていなかった。結局、近くまで来たのにノートルダム寺院を見に行く時間がなかった。実は、夕刻にはホテルで友人と会う約束になっていたのだ。まずは遠回りだが、ホテルに預けていた荷物を取りに 北駅(ガル・ド・ノー)へ。北駅のRER駅は、多重構造になっていて、改札口もいっぱいあってわかりにくい。とにかく地上へ。地上へ出たら、国鉄駅裏手バスターミナル。遠い方の出口から出てしまった。 駅から数分のホテルへ。ホテルでは、顔を覚えていてくれて、荷物室の鍵をすぐ開けてくれた。コインロッカーを使わずにすんだので、その分チップを出した。小さなホテルだったが、気持ちいいサービスをしてくれた。北駅からまたRER。乗り換えて、パリ郊外のホテルへ向かう。 RERは、いくつもの線に枝分かれしているし、列車によって停まる駅が異なる。終点と、そのRERが目的の駅に停まるかを注意深く確認しなくてはいけない。幸いなことに2本目のRERに乗れた。こんな半端な時間なのに混んでいて大荷物と自分の立つ場所の確保が大変。凱旋門のエトワール駅を過ぎると、ほどなくRERはセーヌ川の橋を渡る。ここからはパリの市外になる。ここは、新しい町ラ・デファンスだ。この町は人間のみ歩ける空間となっていて、グランアルシュがでかくそびえる。車も鉄道も地下に追いやられていて、理想の都市設計かもしれないが、コンクリートジャングルでいくら彫刻があちこちに配されていても、ボクには好きになれない。(ここなら、ローマのEURの方が素敵な町だ。) ラ・デファンスを抜けると、RERは地上を走る。蛇行するセーヌ川を何度渡るのだろうか。ここまで来ると、通勤圏だが、結構田舎っぽくなる。 ■メゾン・ラフィットウィユの町を抜けて、ほどなくメゾン・ラフィット駅に着いた。とても簡易な橋上駅だったが、隣にインフォメーションがあった。すぐに飛び込んで、ホテルの場所を聞いた。ネットで調べた限りでは駅の近くかと思ったが、実際は住宅街の奥まった場所で、歩いて約10分くらいのところか。明日のイベント会場についても聞いたが、ここではわからなかった。荷物をごろごろ押して歩く。メゾン・ラフィットの町は、何となくセンスがいい。ちょっと大きなレストランには牡蠣が山積みになっていた。センスの良さそうなレストランで、あとで友人に聞いたらおいしかったそうだ。ここは高級住宅街みたいだ。メゾンというのはどんなお城があるのだろうか? でも、今は、ホテルへ行くのが一番大事な仕事だ。もらった地図を見て、横の道に行ったら、目印もなく、よくわからない。通りかかる人に片っ端から聞いたが、イービスホテルのことを地元民でもわからない人の方が多かった。少し不安になる。 イービスホテルと言ったら、フランスにいっぱいあるホテルチェーンなのに。わざわざ車道を渡って、教えに来てくれた人が居て、ようやくホテルに着いた。駐車場と芝生に囲まれたホテルは2階建てで、ちょっと見、ホテルらしくない雰囲気であった。チェックインして、友人の部屋を聞いた。なかなか見つからず、フロントで粘っていると、本人が部屋から出てきた。まずは再会を祝った。 荷物を部屋に入れてから数分後、友人は訪ねてきた。そこでおみやげの交換。「早朝から歩き回って、疲れた」と言うと、「じゃあ、夜にまた会おう」 と言って、彼は出ていった。昼寝しようとベッドに入ると、夕食もせず夜中までぐっすり眠ってしまった。彼とこの日は会えなかった。翌日にイベントで会うので問題はなかった。翌日はパーティーもあって、あっという間。翌々日パリを出ることとなった。結局、メゾン・ラフィットの町を歩く暇はなかった。
2008年04月16日
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ベルサイユ宮殿の見学も滞りなく終わり、計算違いは、朝早くから歩き回ったのに、さらっと流すはずだった宮殿内をじっくり見てしまったので、庭の散歩がカットになったこと。ベルサイユ・リブ・ゴーシュ駅まで、またも駐車場内を突っ切って戻る。 1日乗車券を持っているので、窓口に並ぶ必要もない。サンジェルマン・ノートルダムは乗換駅なので、たぶんすべてのRERは停まるはず。なので時刻表は見る必要はない!と思っていたが小心日本人のボクは時刻表を念のため確認。あと7-8分で出発。その次は少し時間があいていた。 RERは行き先表示板に、その列車のニックネームが表示されている。そんなに混んでない列車で、ささっと2階の4人がけ席を2人で占領。 あとは出発を待つのみ。 、、、、なにかアナウンスがあって、多くの人がぞろぞろ降りていく。 んん? フランス語がわからない数人が、ドアのところまで来て悩んでいる。 聞く相手がいない。でも雰囲気的にこの列車は走らないようだ。 向かいの列車に乗り移る。たぶん20分後の出発。2列車分の客が乗ると、席はほぼ満杯になった。 サンジェルマン・ノートルダム駅まで約30分の道のり。この駅で降りる人は多かった。 サンジェルマン・ノートルダム駅から即座に表へ出る。セーヌ川沿いの古本屋・絵はがき店は冬のせいかまばらに開いているのみ。 ボクらは遅い昼食を食べたかった。3時をすぎると、多くのレストランはコックさんが外に出ているくらいで、お昼休みになっていた。でも、この地区は、旅行者用のレストランが多いはず。今回の旅では、EUROの値上がりのせいで、どこへ行ってもメニューが高い。こんな中途半端な時間に高い料理も食べたくもない。以前に行ってまあまあだったお店を探して、ずんずん進む。ノートルダム寺院はセーヌ川の手前からチラッと写す。ずいぶん行ったけど、以前のお店は見あたらなかった。またも戻って、1本裏の路地を歩く。このあたりだ!その店はなくなっていて、2軒のレストランがあったところを大きな1つのレストランができていた。すぐに食べたかったし、お金も払いたくない。 結局のところ、ギリシャのファーストフード店を選んだ。名前は違うが、トルコのケバブと同じ料理だ。あの、羊肉を鉄棒にぐるぐる巻きにして焼いたものをそぎ落としてパンに挟むもの。サンドイッチ型と、クレープみたいなのに包んだを1つずつ頼んだが、大して中身は変わらなかった。
2008年04月11日
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ベルサイユ宮殿今回は、幅広階段を上って、なんかの企画展をやってるところから見学コースが始まりました。礼拝堂の脇なのに、以前には公開されていなかったような、、、。以前には礼拝堂を2階からのぞく人なんか少ししかいなかったのが、企画展が、あまりよくわからない展示だったせいか、それとも、ガイドツアーの人たちがいたせいか、礼拝堂をのぞける場所がないほどの人だかりだった。それほどのものだろうか。まあ、見なくても問題はないけど。今回は、ヘッドホンのおかげで、かなり詳しい説明を聞かされて、ホントはさっさと切り上げようと思っていたのが、これは誰の贈り物 とかいう知る必要もない情報まで聞かされた。まずは、2階の部屋を一つずつ、以前には、カーテンも開いていて、写真撮り放題だったところも、今回は展示物を貴重な調度品にしたせいなのか、カーテンが閉まって、ストロボ禁止の部屋が多かった。メインの鏡の間も昨年には工事が終わって、公開再開。鏡の間のシャンデリアの多さは圧巻だ!KBも大喜びだった。マリーアントワネットの部屋は、以前とは内装全部入れ替わってるみたいで、内装の色が全然違っていた。以前はとてもでかいタペストリーが日光に焼けるのを避けるため暗くなっていた。以前のはいつの時代で今度はいつの時代のものなのか気になった。その辺のかゆいところには手が届かない。今回は、ボクの好きなナティエの人物画があちこちに飾られ、ビックリした。ただ、ナティエの特徴である女性を神話の女神になぞらえた絵とか、天使のいる絵は少なく、(注:ジャックマール・アンドレ美術館へ行けば見られます)普通の人物画が多く、彼が宮廷画家としてこんなに成功していたと知らされビックリだった。2階を見て回ったあとに1階も公開されていた。2階のそでの方の大型の絵画が並んでいた部屋は今回は公開されていないのが残念!1階は、ささっと回った。ヘッドホンの順番が逆順だったのは鏡の間非公開の時の名残だなとひとり合点していた。でも、庭への出口がない。庭がそれぞれの部屋から見えるのに!朝から歩き回っていたので、庭に少しだけ出て、休みたかった。それと、昼食も食べずに歩き回っていたので、噴水脇で、非常食用のクラッカーとかも食べたかったし。結局1階を2周回らせられて、警備員とか、関係者らしい人に会うたびに庭への道を聞いて、思いっきり工事の搬入口みたいなところを通ってようやく庭に出られた、ベルサイユ宮殿は 庭を見るだけで、1日かかってしまうほど広大だ。今回は、KBには初めての訪問なのだが、今回は庭はあきらめてもらうことにした。次に来るときには、またゆっくり庭を回ってみたい。しばし、噴水の見える階段に座り込んだ。ホントは今日の計画になかった ベルサイユ宮殿 まで来られて、 KBは ご機嫌だった。ボクは もう、帰りのRERで座って足の疲れを取ることを考えていた。
2008年04月07日
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RERの終点、ベルサイユ・リブ・ゴーシュ駅で降りる。ベルサイユ・リブ・ゴーシュ駅から ベルサイユ宮殿までの道は頭に入っている。右手の方へ行って直角に曲がるのが正しい行き方だと思う。そちらの方が、長いアプローチが、ベルサイユ宮殿のすばらしさを期待させながら近づく、という点で、いいと思うんだけど、この日は、少しでも早く行きたいので、左正面の道へ。こちらだと、駐車場の中を斜めに突っ切って数分早く着く。駐車場の中から、ベルサイユ宮殿の門と、前庭が見える。門まで来ると、前庭のあちこちが工事で掘り返されているし、左手の建物も工事中だ。何年にも渡り、工事は続いているようだ。入場口はかって知ったる右手の建物2つの間、、、と思ったら、手前の建物。入口でぐずぐずしてるグループがいたので、先にボディチェックを受けて入った。最近はどこでもボディチェックがあるが、どのくらい効果あるのだろうか?ヘッドホン貸し出しコーナーがあるけど、入場券売り場はどこ?ヘッドホン貸し出しコーナーに行って聞くと、「入場券なしで、どうやって入ったの?」と、あきれられた。「じゃあ、この裏の団体用の入場券売り場があるから、そこで買いなさい。」と言われ、そちらへ。そこは、インフォメーションコーナーと、木製枠の古めかしい入場券売り場がいくつか並ぶ、昔の入場券売り場で、今はほとんど機能していないように思われるところで、いかにも官僚的に仕事しているふりの女性たちに しばし待たされた。いろいろな入場料金があるはずなのだが、1人15EURO と、一番高いのしか知らせてくれなかった。入場券なしで入った我々が悪いので、渋々払った。約2200円! ずいぶん高くなったものだ。「この切符を持って、ヘッドホン貸し出しコーナーへ行きなさい。」とそっけなく、追い出して、また彼女たちは無駄話の続きを始めた。ヘッドホンを借りて、いすに座った女性が1人いる入口へ。工事中とはいえ、変なところが見学コースの入口だった。
2008年04月07日
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エッフェル塔見学が終わって、ボクの計画では、セーヌ川の水上バス・バトービュースで、シテ島まで下る予定だった。先ほど橋を渡ったときに、バトービュースのライバルらしき水上バス会社の観光船の切符売り場をのぞいたけど、売り子はどこかへ行って留守だった。船の時刻を知りたかったんだけど、ライバル会社だからまあいいか!と思っていた。エッフェル塔から降りて、その場所へ向かうと、 切符売りの女性はブースの中にいた。次の船は? と聞くと、 45分後! と答えた。「え~、45分後じゃあ待てないね。」 とその場を離れる。バトービュースのブースは見あたらなかったので、護岸を降りてみると、そこに バトービュースの丸い看板があった。が、切符売り場は開く気配もない。冬場のせいなのか、運行している様子はない。この船着き場はお休み?そのあたりには、ディナークルーズの船の乗り場が続く。 どこからともなく、若い観光客がワラワラと現れ、とある乗り場へ向かう。実は、その場にはボクたちが先にいたのだが、どこへ行く船の乗り場だろうかと、眺めていたのが、邪魔と見られて、「そこに居てはいけない」と言われてしまった。ようやく聞く相手ができて 「この船はどこ行くの?」と聞くと、シテ島あたりまで行って戻ってくる船のようだった。シテ島では降りられないのか?と聞くと、めんどくさそうに それはダメだ と答えられた。乗る? と、KBに聞くと、「ベネチアへ行ったら、いっぱい乗れるから船はいいや」と答えられた。 あきらめて、メトロで移動することにした。エッフェル塔脇にあるはずの高速地下鉄・RERの駅は地図で見たよりも少し離れていた。 護岸の上の細長い公園を歩くと、そこから上流にある橋は2階建てになっていて、銀座線渋谷駅のようにメトロ3号線が一番上を走っている。次のメトロを待ち伏せて、写真をパチリ。 RERの駅に着くと、ノートルダム方面行きの時刻表を眺める。何番線かな?んん? ありゃ、あと1分で、ベルサイユ行きが来るではないか!しかも、ここから一番近いホームだ。 走れ!ベルサイユ・リブ・ゴーシュまで 乗れば20分くらい。わざわざ行くのと比べると 時間的に得した感じだ。実は、この日、パリ郊外のメゾン・ラフィットに宿をとっていたので、1日乗車券はゾーン4だった。ベルサイユリブ・ゴーシュ駅も、ゾーン4だったので、交通費も只というおまけ付き。勝手知ったる ベルサイユ宮殿は終点駅からわずかの距離だ。
2008年03月11日
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本日、アクセス77777 に達しました。応援ありがとうございました。このところ更新できていなかったので、楽天の人ではなかったみたいです。残念!ではでは、 ※ ※ ※ エレベーターは斜めに上る。しかも2階建て。お客があまり乗らないと出発しないのかな?と思っていたら、すいているまま、2階に乗せないで出発した。真下の池が見える。 第1展望台で降りるのはほんの数人。みんな金持ちだ。切符の1つ目の角をちぎられる。降りたところに、雪のエッフェル塔が建っていた。南極特集らしく、人工雪をこのフロアで作って片側は雪が敷き詰められていた。 シャイヨー宮が見える。なんだ!金網日かずけば、網なしで写せた。360度ぐるっと回ってみた。真ん中のおみやげ売り場の上の階で、ミレニアム2000年の花火の写真が公開されていた。美しい!係員に聞いてみたら、パリ祭の日には花火が打ち上げられるそうだ。今度来てみたいなあ。しばらく第1展望台でゆっくりしていたが、帰りは歩いて降りたい。歩きの人用のところは、一方通行マークがあった。エレベーターで登った人は降りてはいけないのかな?ちょうど、フウフウ言いながら日本人らしい女性が登ってきた。「時々降りる人とすれ違った」そうだ。じゃあ、降りてもいいのかな。切符の違いを聞いてみたら、ハンドバックからなかなか出てこない。値段を聞いてみたら、4EUROだって。わずか80円の違いなら、エレベーターの方がいい。彼女、帰りはエレベーターで帰りたがっていたけど、許されるのかしら。 係員に確認して、階段を歩いて地上へ降りることにした。
2008年02月20日
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シャイヨー宮から エッフェル塔へ向かう。セーヌ川の手前には、大通りがあった。あとで見たら、アベニュー・ド・プレジダン・ケネディ だった。メトロの駅に フランクリン・D・ルーズベルト とか 意外とアメリカが身近だ。橋は イエナ橋 逆光でうまく写らない。シャイヨー宮 は離れるほどきれいに見えてくる。大きすぎるんだ!セーヌを渡りながら写す。通りを渡って、やっと エッフェル塔 の 足下に来た。4本の足の真ん中下は 大きな広場になっている。4本の足それぞれにエレベーターがあるようだが、、、切符売り場はどこかな?乗り場は、団体用と、個人用と、レストラン客用と、あと歩いて登る人用。歩いて登るなんてやなこった。第1展望台まで 4.5EURO、 第2展望台まで 9EUROくらい、第3展望台までとなると 11.5EURO。貧乏日本人としては悩んだ。第3展望台までとなると、160X11.5= えっ、1800円!第1展望台で 720円。見上げてみて、コストパーフォーマンスの高い階を選ぼう。第1でいいか。 切符を買う前に、荷物検査と ボディチェックがある。まだ朝早めだったので比較的早く切符が買えて、エレベーターへ向かう。
2008年02月17日
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エトワール駅から エッフェル塔 へ向かう。エッフェル塔最寄り駅が工事で閉鎖中だった。遠くから歩くのはいやなので、セーヌ川対岸の シャイヨー宮殿から向かうことにした。シャイヨー宮殿の駅は 一つ手前の TROCADERO駅だ。2つの建物が大きくつばさを広げたような配置で並ぶ。シャイヨー宮殿は、1937年のパリ万博で造られた立派な建物だ。内部にはいくつもの博物館が入っているようだが、お上りさんとしては、そんなことには目もくれない。駅を出て、 この2つの建物の真ん中へ向かうと、朝日がまぶしい!思いっきり逆光で、その先には、 エッフェル塔 が見えるのだ!まさか、こんなにすぐに 夢が叶うと思っていなかったkbは早速カメラを向けるが、こんな逆光では うまく写真が撮れない。まった をかけて 右手へずれながら、ゆっくり近づく。眼でならまぶしいながらも見えるが、カメラのレンズはそうはいかない。 ゆっくり、回り込みながら、太陽に向かって近づいて、見事に 太陽を背にした エッフェル塔 が捕らえられました。シャイヨー宮殿の庭の部分。おっと、こんなところに遺跡が!小規模だけど、 なんの遺跡でしょうか? ここから、セーヌ川を渡って、エッフェル塔 へ行きます。
2008年02月15日
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初めてパリに来たkbにとって パリといえば 凱旋門 というイメージであったらしい。大きさと 道路のロータリーの真ん中にあることにいたく気に入ったようで、夜と朝と2度も来てしまった。ここは メトロの駅では 凱旋門と言わない。シャルル・ド・ゴール・エトワール駅。エトワールとは星だそうです。できた当時は、パリのはずれの森だったそうで、誰も行かないような場所だったようです。この凱旋門の名前は、 アルク ド トリーヨンフ が正式です。この前夜には、夜の 凱旋門を見ました。携帯で写したのですが、パソコンに取り込めていません。シャンゼリゼで、 マクドナルドに入りました。結構学生たちが集っていました。食の国フランスでも若者はハンバーグを食べるのですね。マックも、ユーロ高のおかげで結構高いです。
2008年02月14日
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モンマルトルの丘へは 裏側の 墓地の辺りから登ったことがあった。その時偶然見つけた 「壁から出てきた男」。もう1度会ってみたくて、テルトル広場から裏の道へ。途中、ダリの美術館 エスパスなんとか 前回の時お引っ越し中だったが、今回も見かけた。朝8時半頃なので、当然ながらまだ開館していない。なだらかな坂を下って、そろそろこの辺にないかな?と、人待ち顔の マドモアゼルに聞いてみた。ホントのフランス語の言葉は知らないので、ウエアー イズ ザ マン フー フラム ザ ウオール?と聞いてみた。ちょっとした間があいて、すぐ笑顔になった。さらっと、英語で、すぐそこ! と目の前の空間を指さした。メルシーブクー! なんと目の前で聞いてしまった!彼は健在だった。イメージとしては反対側にあったような気がしていたのだが、記憶とは当てにならない。 (追記) 日本語では 壁抜け男 でした。 ミュージカル壁抜け男 は 劇団四季でもやっていたそうです。 テルトル広場もまだ始めたばかりの閑散とした状態。それでも朝8時からもう絵描きさんたちご出勤とはご苦労様。同じ道を戻るのも芸がないので、違う階段を下りて、パリの裏道散歩を楽しむ。次の写真 なんだと思います?この古い建物 たぶん、靴屋さん。元教会? モンマルトルの丘 サクレクレール寺院最寄りの ANVERS駅。アールヌーボーです。芸術の都ですね。この路地をまっすぐ上がれば サクレクレール寺院です。
2008年02月13日
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何度目のパリであろうか。今回は、初めてのkbと一緒の旅だったので、思いっきりお上りさんツアーです。モンマルトルの朝日を見ようと思っていたのだけど、朝食をゆっくりしていたら、朝8時過ぎ太陽は昇り始めていた。カップルにシャッターを頼まれた。まだ観光客のたくさん来る時間ではない。太陽はこの左手。やっぱ太陽写すのは難しい。ムムム
2008年02月12日
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ご無沙汰です。パリ・ベネチア・バーリ・ナポリ・ローマと半周してきました。通常の1月2月だと普通東京より寒いのですが、今回はとても運がよく、パリはとても暖かく、イタリアも東京よりは寒くなかったようです。コロッセオは、夜景を見に行って、翌日もう1度行きました。カンピドリオの丘とフォロロマーノでゆっくりしている間にコロッセオの入場の列が長くなってしまっていたので、中には入りませんでした。各都市で プラスα の旅をしてきました。暖かかったと書きましたが、実はしっかり冬支度で行ったので、却って汗をかいてしまって、おかげで旅先で初めて風邪を引いてしまいました。なので、旅の最後がちょっとしんどかったです。はじめて、海外旅行保険のお世話になりました。イタリアの英語の話せるお医者さんに診ていただいたのですが、薬屋さんがタッチの差で閉まった時間だったので、翌朝まで薬無しでした。熱冷ましは効果絶大だったのですが、薬効が切れると逆に悪寒がしてとても辛かったです。それを除けば天候にも恵まれいい旅でした。ではでは
2008年02月07日
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長きに引き延ばしていたポルトガル旅行記 そろそろ終わりにしますか。ケーブルカーに乗ったあとに、ファドクラブの場所を下見していったんホテルへ帰りました。前日より宿の主人に勧められていたファドクラブの予約を頼んで、夜20時の開店早々に地下鉄で入りました。ファドは、悲しいメロディーのポルトガル独特の音楽だそうですが、遠い昔に聞きに行ったとき、あまり感動しませんでした。今回はリベンジできるか。宿の主人はこの店が最高にいい店だ! と力説してました。店の前に黒服が立ち、うやうやしく迎えてくれます。すでにいくつものテーブルで、会食が始まっていました。気がかりなのは、一人客はボク一人だけというところ。テーブルに案内されると、早速に、海鮮のどっさり載ったワゴンがボクのテーブルに横付けされました。「いかが?」ワゴンには、カニ・車エビ、バトリョ、、、アサリ。断ればよかったのに、アサリなら安いかな?と注文してしまいました。お飲み物のメニューや料理メニューはそのあとです。場違いでした。よく見れば、周りはカップルばかり。しかも金持ちそうな。最終日だし、お金は50EUROと クレジットカードだけを持っていました。白ワインを頼んで、料理メニューには悩みました。今日の昼は安いレストランながらおいしいものを食べてしまっていました。メニューはショーチャージが含まれることもあって、高め。オムレツとか安いものもあったんだけど、高い魚介類は避けて、ステーキにしました。 楽しいファドクラブ、、、、のはずだったのですが、結果は惨敗。敗因は、早く行き過ぎたのと、アサリのワイン蒸しを注文したこと。早々に帰って、カザ・ダス・ビファーナ へ寄りました。終わり (翌朝リスボン空港から帰国の途につきました)
2007年08月29日
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リスボン名物だとボクが勝手に思っている ケーブルカーが、今回の旅では、ここで初めて動いてるのを見た。ちょうど下から来たケーブルカーが、終点でお客を降ろしている。写真を撮って、すぐに乗り込む。乗客はおばあちゃん。あと、運転手らしきおじさんも客席にデンと座る。数分たっただろうか? おじいちゃんが乗ってきた。全く動く気配がない。何分間隔なのであろうか?ボクは決断した。上から下へ乗っても、また上がるのが歩きでは大変だ。ケーブルカーの階段を歩いて下る。ケーブルカーが出発しないことを祈りながら。ケーブルカー乗り場は下の方だけ駅舎になっていた。(レールは6本、2つの車両がそれぞれ3本ずつ使っているが、 中央のすれ違い部分以外では交わらない)少し建物を迂回して、 駅舎に飛び込む。改札のような感じで、スイカの読み取り機がある。ピッと1日乗車券をかざして、ケーブルカーに乗り込む。作戦成功!もし上で待っていたらまだ上にいたままだった。まもなく、ケーブルカーは上の駅に向かって出発した。中間点で先ほどの上からのケーブルカーとすれ違って、上の駅に着いた。ほんとに、何分間隔なのであろうか?10分間隔?日本人のエレベーターの閉まるボタンをすぐに押す感覚と比べると、こののんびりした感覚はなんとも言えない。
2007年08月03日
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お腹もいっぱいになって、バイシャ地区へ歩こうと思ったが、目の前に市電が停まったので乗ってしまった。きっと2-3電停くらいだろうけど。リスボン 市電28番古い市電は混雑していた。観光客は市電に乗りに来ているようだ。2-3電停で目的地にはずなので車窓を眺める。あった!ケーブルカー乗り場だ。降ります!降ります! という気持ちで、イクスキューズミーと小さい声で言いながら 運転席側出口へ進む。ヨーロッパでは、日本と違って、ラッシュ時でも体と体がくっつくことはまずない。そんな場合は、相手の方からも イクスキューズミー と言う声が必ず来る。ところがこの時は違った。ボクの前の降りるはずの男がデッキのところで立ち止まった!降りるのか降りないのか?気が付いた。ボクの周りだけ不自然に混んでいる。ボクの右手の男が、週刊誌のような本を不自然に水平にしている。周り4人グルのようだった。スリだ!本の上から、ノーと言いながら、ボクは叩いた。 すると、彼はなんと言ったと思います?「イクスキューズミー」 と 悪びれもせずにニヤッとしてボクの顔をのぞき込むように言った。さっきまでボクの前を塞いでいた男も、スッと引いて、 わずかにボクの降りるスペースを空けた。そして何事もなかったかのようにボクは市電を降りた。 それで事件終了。ガイドブックに載っていた スリの事例そのままだった。リスボンは、こんなに平和で、のんびりした所なんだけど、こんな事もあるのだ。実はボクはパリでもどこでもラッキーなことにスリにあったことがなかった。損害もなく、こんな経験は 今となっては、むしろ一つの思い出だ。
2007年07月26日
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リスボン熱帯植物園の次は 国会議事堂。町中に普通にあるんだから平和な国なんだろうなあ、 と思ってしまう。さて、そろそろ猥雑な雰囲気の細道に市電の道は入っていく。バイシャ地区だ。レストランの厨房が大きなガラスで外から見えるようになっている。バカリョウ という魚 この国では一番人気なんだけど、ボクには、大きな太刀魚のような魚がとてもうまそうに見えた。う~ん、今日はリスボン最後のひだから最後のディナーを楽しみたいと思っていたけど、 今も大事だ。ランチも豪勢に行くか。高級ではないけど、市民に人気らしいそのレストランに入った。席に着く前に、ウエイターに あの、あの魚が食べたいんだ と指さして教える。そして、メニューをうやうやしく持ってきてくれる。やっぱポルトガルなら、野菜のスープは欠かせない。そして、あの大きな太刀魚。今日はポルトガルご自慢のデザートも付き合ってやるか!前菜は今日も ノンオブリガード。うま~い。満足満足。窓際には素敵なお嬢様2人で遅いランチとおしゃべりを楽しんでいる。盗み撮り。隣の席にご夫婦とお母さんといった3人組が座った。食事を終えて、ボクがデザートを注文すると、「きっと全部食べられないよ。ボクが保証する。」と、英語で話しかけてきた。えっ!ポルトガルへきて、一般の人から話しかけられたのは初めてだった。「そう言うあなたは食べられるの?」と、逆質問してみた。「いや、ボクも食べられない。」甘党でないポルトガル人もここにいた。いや実際、バターたっぷりのこのデザート、日本人の男ならギブアップだろう。ボクももちろん半分も食べないうちにギブアップ。彼は、日本食に興味を持っているというのだ。通称ガリと呼ばれる、生姜を どっかの市場で買ってきて、家族の中では彼一人食べているんだそうだ。みそ汁も作るって。今 リスボンでも 寿司レストランがあって、人気だそうだ。でもとても高いので、めったに行かれないって。寿司もこんなはずれのポルトガルまで人気になっているのだ。ただビジネスから行くと、寿司種は、韓国資本に握られているそうだ。日本人の職人のいる寿司屋さんもめったにないそうだ。日本人よ!もっとガンバレ!柔道みたいにフランスのお家芸になっちゃったり寿司も韓国製の寿司に席巻されてしまうぞ!ともあれ、彼はとてもいいヤツで、写真も撮らせてもらった。「日本に来れば、もっと安い値段ですしでも日本料理でも食べられるから」「是非2-3年のうちに日本へ行ってみたい」 と意気投合した。思いもかけず、レストランでの会話は楽しかった。
2007年07月25日
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リスボンリスボンは、7つの丘の町。ゆっくり歩きが似合う町なので、全ての丘の制覇は無理だ。サン・ジョルジュ城から町中へ降りてきて、今日も市電の旅。市内まで降りてきて、28番の市電に乗った。このルートも乗ってると、車窓からの風景も楽しい。坂を登って、バイシャ地区。なかなか素敵な繁華街だ。この辺に、もう一つのケーブルカーがあるはず! あった! 帰りに乗らなくっちゃ!あの白い建物はなんだ?国会議事堂だ!熱帯植物園風の公園、教会、教会!そして終点は、花のあふれる公園墓地だ。ここが終点。なんとも魅力的な風景が続いたので、市電で戻るのが惜しくなった。なので、帰りは市電道を 結局全部歩いてしまった。白亜の教会 広い通りに出て、エストレラ大聖堂その向かいの公園は、熱帯植物園的な公園。さすがリスボン こんな公園があるくらいに1年中暖かいのだ。無料で入れる、市民憩いの公園みたいだ。ボクもベンチで一休み。公園1周はしませんでした。変なところに変な市電が停まっていた。(写真は場所が違いますが)なにかと思ったら、サイトシーイングトラムだった。多くの観光客が、カゴの鳥みたいに市電に押し込められて、公園も教会もゆっくり歩けない かわいそうに! なんて思ってしまいました。(自分だってそんなコトしてることもあるのに)メモリーが足りなくて、何気ない町の風景が写したけど消してしまい残念!(つづく)
2007年07月21日
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リスボンは7つの丘と7つの坂の町と呼ばれている。人々は、坂の多い町で、たくましく生活している。ケーブルカーや坂も問題としない市電、自分の足で、坂がある生活を楽しんでいる。サン・ジョルジュ城の周りにも、多くの人が生活している。サン・ジョルジュ城 (2)幼稚園くらいのこどもたちが、社会見学しながら、追いかけっこしたり、歌を歌ったり、ほほえましい風景が見られた。いつの時代からこんな立派なお城になったかわからないが、古くはローマ時代にすでにお城として使われていた。その後、イスラム教徒(ムーア人?)に永く占領され、レコンキスタによってポルトガルに回復されたそうだ。笛吹のおじさんの 音楽を上から聴かせてもらいながら、ゆっくり景色を楽しんだ。いつものごとく、ゆっくりしてしまった。が、まだ午前中だ。これはお城のすぐ前で行われていた工事。1時間半くらいはお城の中にいたと思うが、どのくらい工事が進んだか見てみた。石畳の石は1辺8cmくらいの立方体であろうか、さっき見たときと、1列くらいしか敷き詰められていない。工事している人2人と、眺めている、いや監督(?)1人。のんびりしたものだ。帰りは自分の足で坂道を降りる。
2007年07月09日
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朝食を済ますと、まずは、このリスボンの町の丘の上の サン・ジョルジュ城 に、行きたかった。バスが連絡しているのを地図で確認した。バスの時刻を待たず自力で登ることにして、歩き出した。狭い石畳の坂を登っていると、同じ番号のミニバスが下ってくるのを見た。この坂道は、駐車車両を避けながら上下の車がゆっくり行き交う。ふと見ると、後方にバスが見えた。さあ、大変! 先ほどまでの決意はどこへやら、バス停を探してバスと競争だ。ひいこら登って、バスに抜かれずになんとかバスをキャッチ。細い道をバスは登る。観光客だけでなく地元の人も乗るバス路線だった。お城の少し手前で、バスの終点となった。おみやげ屋さんなどの連なる道を進むと、お城の入口に着いた。門を入ると、回転式のバーを押してはいる改札が。切符売り場は、門の手前のおみやげ売り場のような建物。ここのチケットも、バーコードをSUICAのような読み取り機に読ませてから、回転式のバーを手で押してはいるタイプだ。やはり、ガードマンが横で見ている。お城は、丘の上の公園のような広場になっていた。驚いたことに、日本人客がそちこちにいた。ここは有名な観光地でないし、ボクのようなお城ファンくらいしか来ないはずなのに。 なぜかと思ったが、すぐに理由がわかった。ここは、リスボンの町を見下ろす素敵な展望台なのだ。 日本人観光客の年配カップルが近くにいたのでこんにちは と 話しかけたら、変な顔されてしまった。ツアーの仲間以外と話して、なにか問題があったらと思ったのかもしれない。まあ、気にしないで、お城を楽しむことにした。 (サン・ジョルジュ城 つづく)
2007年07月08日
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翌朝も カザ・ダス・ビファーナ に行きました。お勧めがいくつもあったのに、お腹いっぱいで何も食べられなかったから。カザ・ダス・ビファーナこれが、ビファーナ うっかり写す前にかぶりついてしまいました。おいしいです。ポルトガルのハンバーガーまたはケバブってとこでしょうか?もう一つ、このお店のお勧め。アップルパイです。写真加工差し替えしましたが、おいしそうになりましたでしょうか?すみません。食べたら、丘の上の お城へ向かいます。
2007年07月07日
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リスボン、市電博物館を見て、雨の断続的に降る中をホテルに戻って休んでいた。リスボンの普通の夜雨が軽くなってきたので、夜遊びに。 いや、夕食に行きます です。ロッシオ広場裏手あたりのレストラン街をのぞいてみる。大衆的なお店ではグループ客だけで楽しんでいるし、高級そうなお店は入りたくないし、一人でレストランに行くのはあまり楽しくない。あちこちさまよっている割には、どこも気が乗らない。お得意のバーでの立ち食いかな? と、 気に入ったバーも、なぜか見あたらない。スーパーで買って、部屋で食べる?帰国まであと2晩しかないのに、 そんなこと考えたくない。困ったときのケバブ屋さん。あった!缶ビールもあったので、ここで立ち飲み食い。陽気なトルコの若者たちのお店だった。ここの隣は、小さなおみやげ風の瀬戸物を売っている。キリストと13人の使徒の 瀬戸物は、 真面目なものに混じって、よく見ると、 飲んだくれて、おどけたものも飾ってあった。こんなはしゃいだ最後の晩餐でもいいのかしら?ケバブは安くておいしいのはいいが、 今度はお腹いっぱいで、困ってしまった。このままでは帰れない。 いいバーはないか? と探し回るが、なかなか見あたらない。強い酒をクイッと飲むようなお店があったが、ボクには合いそうにない。フィゲイラ広場の裏通りをぐるっと回ったら、 立ちんぼのお姉さんに寄ってこられた。ごめんなさい。そういう気分でないもので。この辺にも、歩き方に書かれた安ホテルがあったけど、環境の点も考えて載せない方がいいのではないでしょうか?スーパーで、ミネラルウオーターとか、おみやげになりそうなチョコとかを買う。日本の情報が見たいけど、ネットカフェもこの町にはないみたいだ。※あきらめて、ホテルのあるフィゲイラ広場 に戻る。広場に面して、カフェっぽいお店が、ホテルの2-3軒隣にあった。広場にテーブル席、お店の中もテーブル席を勧められたが、ボクは、カウンターでの立ち飲みを選んだ。 「白ワインを!」お金は商品と交換で支払う。 「いてんご」 ? ??? いてんご 、、、、、※ ここでちょっとポルトガル語講座 1 ウ ンノ UM 2 ド イス DOIS 3 ト レ イス TRES 4 ク ワ トロ QUATRO 5 シィ ンコ CINCO 6 セ イス SEIS 7 セ ッチ SETE 8 オ イト OITO 9 ノ ービ NOVE 10 デーイス DEZ スペイン語やイタリア語に似た数字の数え方。 「イテンゴ」 なんてないぞ? 彼はにこにこして、 「 日本人ですか? 」 と聞いてきた。YES! と答えながら、ボクも 「ブラジル人ですか?」と聞くと SI! だったかな、 「はいそうです」 だったかな。 ちょっと待て、 いてんご って、 1.50EURO のこと?「日本語わかりません。」 とか言いながら、日本語と英語とポルトガル語の奇妙なコミュニケーションが始まった。店員が何人もいる中で、 彼は結構人気者だった。彼の受け答えの合間合間に声をかける。彼は、 大泉村にいた。 と言う。彼は、埼玉にも居た。日本にいた5ヶ月間でいろんな事をしたそうだ。たぶん、日本語にうまく適応できなくて、日本を去ったのだろう。このカフェに来て、まだ半年。ポルトガル語 は 上手だ。ブラジル人だから、当たり前か。楽しい夜になった。「彼は英語がしゃべれる」 と 紹介してくれたウエイター。でも、彼は、ボクの相手するより、さっさと、掃除に入ってしまった。近寄ったら、少しは相手してくれたが、 「掃除の邪魔するな」 と怒られてしまった。彼はオーナーだった。彼も英語はしゃべれるじゃないか! ※ ※青い鳥はすぐ近くにいた。この晩と、次の晩もファドからの帰り、 ここで飲んだ。実際は、翌朝も 朝食とコーヒーを飲みに寄ったが、彼らは居なかった。 「カザ・ダス・ビファーナ」 というのがこのお店の名前。オーナーが教えてくれた この名前の由来は ビファーナ のお店。ビファーナ って、何? 実は、煮豚のサンドイッチ なんです。店頭でぐつぐつ煮てるスープ、なんだろうか と思っていたらこれでした。この日は食べられなかったけど、翌朝食べに行きました。すごく親しくなったわけではないけど、この写真は翌晩のもの。最初は彼らは写真をいやがっていたが、オーナーが許してくれて写真に入ってくれた。オーナーの写真ピンボケで、ごめんなさい。ポルトガル人とは、もっと早く、積極的に話せばよかったな! (反省でしゅ)
2007年07月06日
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話は前後するが、エヴォラやシントラへ行く前の日に、バイシャ地区で、夕食を食べました。(写真が見つかったので、再掲します)そこにある店舗が、歩道のど真ん中にテント小屋を出店しているのです。ビールは 2.30 EUROブロセット(肉の串焼き)6.00 EURO追加でワイン 2.50 EUROポテトチップは、ナオンオブリガードだったかな? ※これは、なんだと思います?過去にはバイシャ地区と、バイオ・アルト地区を結ぶ重要な交通機関であった 、、、、 「エレベーター」です。実は、これも機能していないのです。エレベーターから、丘の上のバイオ・アルト地区を結んでいる通路が危険なので通行止めになっているのです。でも、今も運行しています。市電・バスを運行しているのと同じ会社です。この エレベーター は、観光施設として、今も観光客を楽しませてくれています。 (不思議の国、ポルトガル です)
2007年07月04日
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市電博物館 見学終了。帰り道は、時間制限もなく気楽なものだ。リスボン ホテルまでの気楽な旅ポツリ 雨が落ちてきた、ほんの少し。傘を差すほどでもない。今朝起きたときのザンザン降りを思えば、今日は信じられないほどの青空だった。まっすぐ帰らず、ちょっとだけ冒険。違う番号の 連結バスで、反対方向(ベルン地区)へ行ってみた。連結バス の 乗り心地は意外とすばらしい。新型LTRトラムと ほとんど乗った感じが変わらない。ジェロニモ修道院の近くで、 おっと、曲がって行きそうだ。あわてて降りた。そろそろ少し暗くなってきた。そろそろ戻ろう。路線地図によると、ほとんどはカイスドソドレ駅を経由している と にらんだ。番号も見ずに飛び乗った。 小さな ミステリーツアーだ。市電博物館の前を通って、「しめしめ、このバスも中心街行きだ」と思ったら、「4月25日橋」の下の交差点で、左へ曲がっていく。ありゃりゃ、そのまま北へ向かうようだ。 次のバス停、小さなバスターミナルで、あわてて降りる。多くの人と一緒に降りると、そこは、郊外電車の始発駅だった。日も暮れて暗くなったので、暗い駅舎は、うらぶれた感じだったが、リスボンの鉄道びは、お客さんはいっぱいいるのだ。軌道修正、市電の通りへ戻って、今度はちゃんと15番の市電を待つ。路線図を見たら地下鉄に乗り換えずとも、ホテルのあるフィゲイラ広場にもこのまま行かれそうだ。15番は、古いタイプの市電が来た。「こりゃ、おあつらえ向き」 と思ったが、退社時間のラッシュにはちょっと小さすぎだ。つり革にぶら下がりながら、車窓の外へ。そのまままっすぐかと思ったら、市電は、路地を直角に曲がって坂をぐんぐん登っていく。丘の上は、バイオ・アルト地区 というリスボンのもう1つの繁華街だった。雨は断続的に降り窓も少し曇って、狭い市電の中は決して快適ではない。時々曲がって、こんどは 坂を下って、またも路地を走る。広場は見あたらないけど、この辺は、ロッシオあたりかな(?)と見当を付ける。やがて、広い広場に出た。こんどこそロッシオかなと思った。ここまで来れば、たぶん歩いて帰れる。そこで飛び降りた。その広い広場は、ロッシオでなくフィゲイラ広場でもなく、 コメルコ広場だった。5階建てよりも大きい、すばらしい門のような建物がある。この素晴らしさは、なかなか写真ではあらわせそうにない。夜景の風景はうまく撮れない。また次の日に行こうと思いながら時間が取れなかった。残念!雨が大粒になってきた。コメルコ広場だとわかれば、この後ろは、碁盤の目のような有名な ショッピング地域、バイシャ地区だ。たしか、この バイシャ地区を 突き抜ければフィゲイラ広場にたどり着く。ボクは、お店の軒先を 駆け走った。傘を差していても、石畳からの跳ね上がる雨粒。(傘を持っていなかった、頭だけパンフレットで濡れないようにして)よく見ると、ボク以外にあせって走る人はいない。みんな雨宿りしている。ボクも走るのをやめて、ウィンドウショッピング。雨の中、傘差して歩いている人も少ない。お店に入ったりしているうちに雨は小粒になった。今のうちにホテルへ戻ろう。フィゲイラ広場では、大音響と大きな液晶スクリーンが。大型トラックに、大型スクリーンが載ったデモンストレーションだが、意味は わからなかった。ホテルへ3日ぶりに戻った。フロントには、先日の若い男でなく、おじいちゃんがいた。「3日前に、予約していた者だ」 というと、ノートを開いて確認してくれた。 「荷物も預けてある」 と言ったが、預かり証だけでなく、用心して、どこへ預けたか? とちゃんと確認してくれた。部屋は、前回の広場側でなく、裏通り側でちょっと残念。
2007年07月02日
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リスボン市電博物館 (3) (Museu da Carris)「どうぞ降りて、あちらへどうぞ!」赤い市電から降りて、歩いて、車庫へ向かう。振り返ると、運転手さんは、市電のポールを、ひもで引っ張って、架線からはずし、ポールの向きを変えていた。車庫の中は展示スペースだ。2階建てバスと市電でいっぱい。片っ端から写真を撮る。年代物の市電ばっか。惜しむらくは近くにぎっしり置かれているので、1台1台を写しにくいこと。運転手さんは、いつのまにか車庫の入口のイスに腰掛けていた。ボクは気にせずに1台ずつ写真に収める。まあ、だいたい撮ったかな?出口は?運転手さんの居るところかな?運転手さんはおもむろに立ち上がると、ボクの前を歩き出す。先ほどの赤い市電の前で立ち止まり、「どうぞ!」なんと、赤い市電で、帰りも送ってくれるんだって!ボク一人のために、なんとも手厚いおもてなしだ。赤い市電は、大回りして古いバスの前を通って、守衛所の前まで、どうぞ!ビックリするくらいのおもてなし。(今も使われている市電の車庫まで、もっと乗っていたかったけど、)オブリガード! ※ 実は、この市電送り迎えは、ボクだけの特別サービスでなく、通常のサービスのようだ。もらったパンフレットを後で読むと、 1切符売り場 2展示場 3トラムツアー 4展示場 と地図の所で 紹介されていたのだ。閉館ぎりぎりとか人が多すぎなければ、全員この古いトラムに乗れます。もし、リスボンに行ったら、是非寄ってみてください。
2007年06月27日
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リスボン市電博物館 (2) (Museu da Carris)屋内展示の狭いスペースをゆっくりみていると、黒人の女性係員が、近くまで来てボクを眺めている。「閉館時間? それとも写真を撮ってはいけないの?」 と、いぶかしく思った。後ろからジッと見られることほど気持ちの悪いものはない。まだ16時前のはずだが、ボクしか居ないから早じまいの準備なのだろうか?と、不承不承、出口へ。すると、女性は、ドアを開けてくれようとしながら、 「ちょっとここで止まって!」 ???ドアを出たところで制止する。1分くらいしたであろうか? 赤い電車が近づいてくる。一本ポールの相当古い市電だ。 と、 我々の数m先に停車。よく見ると運転手は、 あの、 駅長さん風のおじさん。「どうぞ、乗って!」 と手招き。女性も今頃になって、笑顔を見せ、 乗った乗った! て感じだ。この車両の座席は、京急の2100系のように 座席の背がぱたんと倒れて進行方向に向いて座れるタイプ。(自動式ではなく、手動、簡単に倒れてしまう)乗客はボク一人。早速走り出す。ボク一人のために、1台の市電が走ってくれているのだ。感激!座ってなんかいられない。前行ったり後ろ行ったり。少し走ったところで停車。運転手さんが手に鉄の棒を持って、市電から降りる。線路に引っかけて、 「あっ! ポイント切り替えだ!」そこは線路の分岐点だった。ポイントを切り替えて、市電はもう少し違う方向へ走り出す。 そろそろ終点? 降りようとしたらまたも制止される。目の前に溝があって、そこには、直角に線路が敷いてある。 溝の先は、車庫のようだ。すると、右手の方から、市電が、横腹を見せながら横に移動してくる。鉄道ファンなら知ってるとは思うけど、コレは何て言うのかな? 転車台でもないし、、あっちの線路からこっちの線路に移動させるもの。目の前近くまで、もう1台のベネトンデザインの市電が移動して停まった。そこでショーはおしまい。「どうぞ降りてあちらへどうぞ!」(てっきり、この赤い市電も横移動してくれるものと思ってましたよ!)ボクは、そこから車庫へ向かい、振り返ると、運転手さんは?なんと、市電のポールを、ひもで引っ張って架線からはずして、ぐるっと引っ張ってポールの向きを変えていた。古い市電の楽しさを余すことなく見せてくれたのだ。 (市電博物館 車庫内へ 続く)
2007年06月26日
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リスボン・セッテリオスから、おいしく昼食をとって、地下鉄の駅プラサデ・イスパンニャから、再スタート。市電博物館 (Museu da Carris)行き先は?初日に見つけた 市電博物館 (Museu da Carris)急がないと入場時間が終わってしまう。地下鉄でカイスド・ソドレへ、そして市電の15番で、「4月25日橋」まで。下見をしてあるので、問題なく到着。ホントに、「4月25日橋」の真下だ。広い門があって、中央に守衛所、右手に博物館だ。さらに右手に市電の車庫。守衛さんが居るのに、勝手に入ってはいけないだろう。守衛さんに声をかける。「博物館に行きたい」と言うと、「左のオフィスに行け」と言う。(博物館は右手に見えるのに!)(写真は4月25日橋と、その真下の左手にあるオフィス)まずは、オフィスへ。そこは、オフィスに見える。長方形の部屋に、大きなデスクが2つ、それぞれに1人ずつがなにか業務をやっている。 定期券売り場? なんだか、場違いの所に来てしまったような気がしたが、「博物館の切符が欲しい」 と言うと、おもむろに、手を休めて、 次の瞬間、コンピューターを打ち出し、レシートをよこして、「2.50EUROだ」 と言う。2.50EURO支払って、レシートと、しおりをもらった。なんともお役所仕事だ。場所も念のため確認。 やはり右手の建物だった。守衛さんに会釈して、博物館へ。入口に、邪魔に仕事用のデスクを置いて、黒人女性がレシートを確認。その脇に駅長さん風の でぶった男が立っていた。(失礼!)どうぞ! と通してくれたが、展示室は、わずかなスペースだ。切符とか写真とかをゆっくり眺める。実写展示は見られるにしてもこれは貧弱かな?と思いつつ、ゆっくり古い切符などを眺めていると、駅長さん風の男が、後ろを通り過ぎて、裏のドアから出ていった。少しして、今度は、黒人の女性がボクの所を遠目に眺めている。「閉館時間なのだろうか? それとも写真を撮ろうとしたら注意しようとしているのか?」といぶかしく思った。ところがこれはとんでもない誤解で、むしろ歓迎の準備だった。
2007年06月25日
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楽しかったシントラ観光を終えて、電車でリスボン・セッテリオス駅到着。セッテリオスに近い地下鉄駅を聞く。なかなか親切なポルトガル人に出会わない。午後2時半、ボクには急がなくてはいけない理由があった。見当付けた出口方向に進みながら、道を聞く。ホントに知らないのか、英語はいやなのか?都会人は嫌いだ!駅の出口を出て聞くと、「その先だ!」 といつもの親切なポルトガル人に出会った。 地下鉄と他の鉄道との乗換は意外に考えられていない。少し先まで歩いて、地下鉄の入口を見つけた。その前に、バーがあった。飲み物、いや、なにか食べ物を買いたい。考えてみれば、朝は菓子パン、お昼はお菓子しか食べていない。店に入ると、小柄なおばちゃんがガラスのカウンターの上のお皿で、立ったままおいしそうなものを食べている。冷蔵庫からコーラのびんを取り出してから、そのお皿を指さして、「それが食べたい」と言った。「パンは?」「ナオン・オブリガード」「どこで食べる?」 とポルトガル語とジェスチャーで聞いてくる。軟弱もののボクは、そこのテーブルを指して座った。ちゃんと温めて出してくれた。ポークの野菜たっぷりシチューはおいしかった。食べ終わって、会計しようとすると、まあ待て! の制止。やはり、コーヒーとデザートのお勧めだ。ボクには時間がない。いつもなら飲むおいしいエスプレッソもお断りして会計完了。
2007年06月24日
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ムーア人の城壁、に長く居座ったが、そろそろ降りる。このまま、「ムーア人の泉」を経由してシントラ・ヴィラまで歩いて降りられそうだ。(ムーア人の城壁から シントラ・ヴィラの夏の離宮を見下ろす(大ズーム)) ※ 世界遺産 シントラ (6)実は、ペナ宮殿でもらった地図では、この辺の山々を歩く、いくつものハイキングコースがあった。時間と元気のある白人なら、そんなハイキングを楽しむのだろう。城壁の階段を下りる途中で、日本人家族と出会った。左右の階段で迷っていたが、ボクは 左の階段をお勧めした。お父さんは少しへばっていたが、喜んでいただけていればいいが、と思う。 もちろん、「ペナ宮殿も是非に!」 とお勧めした。山道は、途中から階段まじりの坂になっていた。白人の親子を抜いてどんどん降りた。住宅街と一方通行の道路。こんな狭い道を、意外にスピードを出す乗用車。ムーア人の泉に寄る。2台の車が停まっていて、それぞれの家族が5リットルとか10リットルのポリタンクをいっぱいトランクから降ろして、水をためている。わき出し口は2つしかない。しばし眺めていた。一口くらい飲みたかったが、時間がかかりそうのであきらめた。シントラ・ヴィラへ向けて歩き出す。商店街の階段を下る。 王宮が見えた。シントラ・ヴィラの王宮前に着いた。14世紀にジョアン1世によって建てられた夏の離宮だそうです。2本の三角錐の煙突に特徴があります。王宮の見学はどうするか?さきほど、ムーア人の城壁の上で考えていたように、パス!(実はリスボンでいきたいところがあった)(きっと外装からは考えられないようなすばらしい王宮だろうが、次回に来たときにはきっと見に行きます。)ここにも、ミニトレインが走っていた。駅からここまでの運行のようだ。王宮前で、アジア顔に、「ヨボセヨ!」 と声をかけられる。ボクは、「イルボン!」 と言いながら、話をはじめた。若い韓国人たちは、同胞から情報を得て旅を合理的に進めている。「ペナ宮殿はすばらしいよ。もし時間があるなら、まずはペナ宮殿・ムーア人の城壁 の順に回ったら」と勧めた。彼らも1日乗車券だったので、早速バスの時刻を調べにいった。さらば、シントラ!途中に、もう1つ ムーア人の泉(?) らしき湧き水があった。たっぷり飲んで、たっぷり手足、顔にも水をかけた。ボクは、バスに乗らずに、このまま駅まで歩いた。シントラ駅まで、たいした距離ではなかった。シントラの駅の近くは、小さな町だった。シントラ駅で、自販機でリスボンまでの切符を買う。なんと、リスボンまで 1.60EURO。安いもんだ。シントラしか回らない人は、みんなぼられてるなあ。電車の窓ガラスは銀色に貼られていて景色は楽しめなかった。 (シントラ編終わり、永いお付き合いありがとうございます。)
2007年06月23日
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ペナ宮殿をたっぷり観光して、門から出た。バスが苦戦した道を反対向きに、下り、上る。 シントラ (5) ムーア人の城壁 バス停の前に、小さな広場。ここがムーア人の城壁の入口という場所という雰囲気はまるっきりない。入口はどこ?広場は崖に近く、左手に小さな石積み、右手も小さめのガラス張りの建物。ガラスの建物が、切符売り場だった。(下と上と2カ所のうちの上側)とりあえず切符を買うと、入口を教えてくれる。広場の端っこの草がぼうぼうになった小さな石造りのところ。石造りの所へ行くと、中に入れるようになっていて、バーを押して入る。そこはなんの変哲もない、ハイキングコースのような小径。?猫ちゃんが居た。三毛猫だ。小径に沿って、ボクの少し前を走っては止まる。「付いて来いって? 」10mくらいずつ進むと立ち止まって、様子を見る。案内猫なの? それともたまたま?山をなだらかに下る。日が当たっているところは白くまぶしい。影はより深い。案内してくれる猫ちゃんを写そうと思うけど、うまくいかない。結局メモリーの関係で消してしまった。追いかけっこをしていると、ムーア人の城壁 らしいところへ着いた。石造りの入口、建物は土台くらいしかなくて、お城らしくさがない。ムーア人の城壁 ? こんなものなの? これじゃ単なるハイキングコースじゃないの? というのが第一感 そして、その奥まで進むと、石垣があって、それに沿って、左右に登る階段が。切符売り場で、「左側の階段がお勧めだ」 と言われていた。ここがその、左右の階段なのか!こちらは右側。左の方の階段は、高い上の方まで延びている。右の方は、左より低い頂上みたいだ。ここは、万里の長城 のミニ版のような所。いや、万里の長城と比べるのは申し訳ない。韓国の水原華城の一部くらいか。言われたとおり、左側の階段 を登る。左右分かれ道のところで、どっちに行こうか悩んでいる2人組。ボクは、「左手がお勧めだ、と言ってたよ」とアドバイスしたが、彼らは、まだまだ悩んだ末、右手へ登っていった。登っていると、下界の風景がどんどん変わってくる。ムーア人の城壁は それはそれは眺めのよいところでした。(ペナ宮殿がこちらより高いところに見える。)稜線に沿ってのさほど高くはない石垣だが、ここでの攻防があったとすればそれなりの効果はありそうだ。実は、ムーア人(Moors) とは 何者か 今わかっていないそうなのだ。 彼らが黒人だったのか、白人だったかもわからないようだ。ムーア人は、北西アフリカから来たイスラム教徒のことだそうだ。8世紀頃に、スペインとポルトガルの広い地域を支配して、12世紀頃にキリスト教のレコンキスタ運動によって、 追いやられた人々であるのは確か。コーカサスから北アフリカに移り住んだイスラム教徒だという説もある。wikなどでは、「ベルベル人のうち、イスラム教の人々」とか、「異教徒」となっているけど、詳しい人はあまりいないようだ。一番高いところまで登ると、アメリカ人ぽいカップルが居たが、入れ替わりに降りていった。ボクは、階段のあちこちからの踊り場からも下界の景色を眺めながら登ったが、 やはり1番高いところの眺望はすばらしい。ここでのんびりすることにした。水とカバンに入っていたお菓子を食べながら、下界を見下ろす。後からの人々は、みんな右へ登っていく。日和見主義者め!人は楽な方に登りたがるのだ。もっとも、バスではなく、「ムーア人の城壁・下の切符売り場」からヒイヒイ言いながら山登りした人は、ここで手抜きしたいのはわかる。「どうせ、同じような景色だろう」と、甘く考えたのだろうが、 それは違う。こちらの方が、何でも見える。「ちょっとの努力を避けたおかげで君たち損してるよ!」 と叫びたかった。森の中のお城(別荘?)、シントラ・ヴィラの宮殿、遠くの町並み、そして、裏手にある ペナ宮殿 も よく見える。この風景独り占めだ!ここは広い場所ではないから、もしみんなが登ってきたら、こんなにのんびりはできないかも。森の中に いくつかの貴族のお城も見える。「こんな時間があったら、シントラ・ヴィラの宮殿を見たらいいのに!」と言われるかもしれないけど、長い時間ここに居座った。 (右側の城壁)ムーア人の時代にはペナ宮殿はなかったが、なぜ、このペナ宮殿より低い稜線に防波堤を築いたのであろうか?現在残っているのはほんの一部だという。万里の長城みたいに長い城壁でなさそうだが、どのくらいの長さで、どこを守るお城だったのだろうか?と、思いをはせる。
2007年06月22日
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引き続きペナ宮殿の風景をお楽しみ下さい。ペナ宮殿 2城内は、インド風の間、アラブ風の間など、こった広間が続く。残念ながら、撮影は禁止だ。監視員は、コツコツと足音で牽制する。いくつかの広間を通り抜けて、次の監視員は、にこやかに話しかけてきた。「ここから写真は撮ってもよい」大昔の望遠鏡の間、そして、お城のほぼ1番上の広いベランダへ出た。韓国人3人組といっしょに、景色についてレクチャーを受ける。ムーア人の城壁、ロカ岬・大西洋の方向、シントラヴィラの方向。彼ら3人に話しかけようかと思ったが、彼らも 交代に監視員に話しかけるので、タイミングを失った。 ムーア人の城壁(遠くに大西洋が、、)彼らもボクに対しても興味はあった様子だが、韓国語でしゃべれるグループ行動にはかなわない。最後の建物に、キッチンがあって、また別の監視員が居た。 「オブリガード」 と言うと、「ナーダナーダ」 と ちょっぴり恥ずかしそうな表情で答えてくれる。「どういたしまして」 とか、「このくらい当然のことをしたまでのことで」みたいなニュアンスに感じた。ヨーロッパに来て、日本人に近い感覚が素敵だ。シャッターを押してあげましょうか? というジェスチャーをしたので、 お言葉に甘えた。またも、「オブリガード」 というと、「ナーダナーダ」 が返ってきた。お城の裏側も、立ち入り禁止になっていないので、写真撮り放題! いくらでも撮りたい!残念なのはメモリー不足。先ほどのゲートの所のおじさんは今も、門を守っていた。オブリガード と言うと、 彼も ナーダナーダ と答えてくれた。坂道の下りは、バスに乗りたくもない。ゆっくり歩いて降りた。門まで戻ると、おみやげ売り場でガイドブックを探したが、そんなものは用意されていない。門を出る前に、念のため、「ムーア人の城壁の方向」を聞いてから歩き出す。バスが苦戦した道を反対向きに、下る。 (次は ムーア人の城壁 へ)
2007年06月21日
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シントラ (3) ペナ宮殿 ペナ宮殿の全貌が姿を現した。部分によって、黄色っぽい塔、藤色レンガの部分、うす赤の部分とカラフルだ。作られた時代が違うのか、それぞれの部分の建築様式も異なる。まるでおとぎのお城みたいな外観を惜しげもなく見せてくれる。フェルディナンド2世の命により1856年に完成したものだそうです。フェルディナンド2世は知らないけど、あのルートヴィヒ2世のいとこだそうです。(実はノイシュヴァンシュタイン城の) やっぱり対抗心があったのでしょうか?ゲートの所に、おじさんが立っていた。みんな通らないで待っている。みんな何を待っているのだろうか?おじさんに聞くと、「通っていい」 というジェスチャー。 城内は立ち入り禁止、かと思ったら、上の方で、入城を許された。中身はたいしたことないのかな? と思っていたら、インド風の間、アラブ風の間など、こった広間が続く。残念ながら、撮影は禁止だ。監視員は、黙って、ボクのそばをコツコツといった足音で牽制する。 (ペナ宮殿画像いっぱいあります。 つづく)
2007年06月20日
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※ 実は、「シントラは日帰りできるけど、泊まった方がいいよ」と、アヴェイロ郊外のイアンさんに教えていただいていたので、シントラ泊まるのは、ボクの中では、かなり目的化されていました。シントラ て、申し遅れましたが、世界遺産の街なんです。そして、イアンさんに言われなくても、ポルトガルに行ったら、絶対に寄りたい と望んでいたところでした。※ シントラ (2)朝8時半頃、ヴィラ・マルケスをチェックアウトした。雨はまだ降っていたが、今度は傘を貸してくれなかった。オーバーの下にザックを入れ、頭はフードで濡れないようにした。昨晩のバーは、黒人が掃除をしていたが、お店へ入れてもらえなかった。おみやげを買おうと思っていたのに、マスター!指導はどうなってるんだろうか?路地を進んで、おみやげ屋さん兼用のカフェで、コーヒーとお菓子パンを頼んで食べた。(写真はインフォメーション)インフォメーションは9時から開く と先に見ていたので、開館と同時に入って、シントラの地図とバスの時刻表をもらった。ペナ宮殿までは、434のバス・バス停も 教えてもらう。雨は、まだシトシト降っていて、インフォメーション前のバス停で、おばちゃんとボクとでバスを待った。反対側のお店の軒下で、20人弱の幼稚園生たちが雨宿りをしていた。9時45発の始発のバスは、ついに来なかった。次のバスは10時5分発。※ 晴れた!10時頃、雨がやんだ。そして、バスが来た。向かい側で待っていた幼稚園のこどもたちもこちらへ来た。一緒に待っていたおばちゃんも引率の保母さんだったのだ。バス代は、運転手に払うのだが、4EURO?高い! 「片道はないのか?」と聞くが、「これしかない」と、1日乗車券をよこす。なんだか詐欺みたいだ。このバスも電車も、儲け最優先だ。(ボクは片道しか使用できなかった)雨がやんだかと思ったら、どんどん青空が出てくる。たった今まで降っていた雨がウソのようだ。すれ違えそうもない山道で、一方通行のようだ。かなりの急坂でカーブを曲がるときについにタイヤが空回りして、エンジンも焼けるような臭いが。降りて、押さないとダメか? または 歩かないとダメか?と思ったら、動いた。「ムーア人の城壁」バス停で、数人が降りた。そこからほんのちょっとで「終点だ」と運転手は言った。こどもたちの行き先も、ボクと同じペナ宮殿でした。そこには門があった。若造が何人かで、検問みたいなかっこうしている。お城がどこにあるのか、この時点ではわからない。そこに切符売り場があった。若造たちは威張っているだけで、なんの役にも立っていない。「切符を買ってからもまだ距離がある」 と昨日の韓国青年に聞いていた。ボクではここを歩いて登るという根性は持ち合わせていない。少し先に緑色に塗られたポンコツっぽい雰囲気のバスが停まっていて、幼稚園生たちが先に乗っていく。乗車券が必要なのかどうかわからない。さっきの1日乗車券は有効なのか?運転手の女性は、園児と一緒に乗っても、なんとも言わない。遅れてきて、運転手に聞いた人はお金を取られていた。降りるときに集金するのかな? と思っていたが、降車の際も何も言われなかった。園児たちは、ボクに興味があるようだったが、おっかなびっくりだった。言葉は通じないけど、ハポネス! とスペイン語で言うと、保母さんが口添えして、日本人だということがわかったみたいで、かわいらしい反応を示していた。おんぼろバスは、車幅ぎりぎりの細い山道を登って、5分もしないうちに停まった。降りてから見上げると、さらに坂の上にペナ宮殿はあるのだ。まあ、このくらいなら歩いてもたいしたことはない。もし戦いのさなかなら、坂の途中で、上から落とされれば逃げ場はない。ペナ宮殿は、ここから見てもかなりカラフルなお城だ。すでにこの辺で記念写真を撮ってるグループも居た。城門のあたりで、みんな立ち止まっている。ゲートの所に、衛兵のようにおじさんが立っている。ガイドツアーなのだろうか?おじさんに聞くと、「通っていい」 というジェスチャー。ペナ宮殿の全貌が姿を現してきた。(ペナ宮殿 つづく)
2007年06月19日
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カスカイスから、雨のシントラへロカ岬からのバスは、カスカイスのバスターミナルに着いた。カスカイスの海岸線や奇岩の景勝地も見たかったが、雨が降り続くので、行く気がなくなった。乗り継ぎのシントラ行きのバスの時刻まではまだあと少しあった。彼のリスボン行きの鉄道駅まで行ってお別れした。バスターミナルの上は、池袋のサンシャインシティみたいな近代的なファッションビルだった。地下にシネマコンプレックスもあって、意外に都会で驚いた。カスカイス・バスターミナルは、半地下でうす暗いが、人であふれていた。シントラ行きのバスが到着し、多くの人が乗降した。車窓からのカスカイスの街も、かなり住宅地を抱える都会だった。カスカイスからはもっと近いのかと思ったが、なかなかシントラ駅に着かなかった。バスは、シントラに入ってもあちこちの住宅街をめぐり、どこが駅か見当も付かない。 近くの乗客に、駅に着いたら教えてもらうことにして ようやく安心した。 ※ シントラシントラ駅に着くと、いよいよ雨はひどく、もう土砂降りになっていた。ここからシントラ・ヴィラまで、バスを乗り継ぐ気はしなかったので、今夜の宿を早めに確保していたことを幸いに思い、近くに停まっていたタクシーに乗り込んだ。インフォメーションでもらった民宿の名刺を見せた。シントラ・ヴィラの宮殿を回り込むと、裏の坂道を少しくだって停まった。バスで来ていたら、すぐには見つからなかったかもしれない。「ヴィラ・マルケス(VILLA Marques)」という民宿は、ピンク色に白い縁取りをした こぢんまりとした建物だが、民宿というより小さなお金持ちのお宅といった感じだった。 値段も食事なしで35EUROと いくらか高めだが、観光地の真ん中に泊まれるので決して悪い値段ではない。おじいちゃんとおばあちゃん2人のお宅で、英語も通じない。階段や壁の装飾も素敵だ。 ※ シントラの夜夕食を食べに行こうとしたら、おばあちゃんが傘を貸してくれた。宮殿前広場に、レストランとバーがあったが、路地の商店街の方のレストランはほとんど閉まり気味だった。シーズンオフのシントラの夜は、人通りも少なく静かなものだった。ぐるっと回ったが、ほとんどお店は開いていないので、 宮殿前に戻って、最初のバーに入る。「食事なら奥へどうぞ」 と奥に案内された。奥には、アメリカ人夫婦が先に食事していて、サッカーがテレビに映っていた。フランスとアルゼンチンの親善試合だったようだ。 ワインとスープと料理も軽めにすました。やはり、デザートを勧められたが、お断りして、(いつものようにデザートを断って変な顔されました)アメリカ人夫婦は、ちょっと会話したけど、食事が終わって出ていった。レストランに一人で居てもなんにも面白くない。バーコーナーに移ってビールを注文した。一人ビールを飲んでいると、気のいいウエイターが、おつまみをサービスしてくれたり、気にしてくれる。片言の英語で、日本のことを聞かれたり、ちょっぴり楽しい。バーの入口まで、お菓子を買いに来る人がいる。シントラには2種類のご自慢のお菓子があるそうだ。マスターは、銀紙に包まれたものをわざわざ崩して試食させてくれた。有名なお菓子「ケイジャーダ」だったが、チーズを使っているのに、材料がチーズだと思わせない上品な甘さの味わいだった。「この町にしかない独特なもの。1週間くらいは持つ。」「おみやげにいいかもしれない。」ポルトガル人は、女性だけでなく男性も甘いお菓子が好きなのだが、このお菓子は甘すぎずボクでも食べられる。「朝は8時から開店している」と言っていた。客が少ないものだから早じまいの様子で残念ながら長居はできなかった。宿へは少し早いご帰還となった。※※ シントラ 翌朝翌朝起きると、 まだ雨の音が大きかった。朝の散歩をかねて朝食に出ようと思っていたが、 雨では、とてもそんな気になれない。廊下側の窓を開けて外を見ると、なかなか素敵な風景が見え、1階の外のテラスもなかなかおしゃれだ。雨が降っていなかったら、そのお庭でのんびりするのもよさそうだった。階段のあたりの装飾を眺めていたら、おばあちゃんが手招きをして、たった今開けた窓を開いて見せてくれた。やっぱりこのお宅のご自慢の景観だったのだ。オブリガード!
2007年06月19日
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シントラ駅で、バス待ちの時間で、本日の宿を予約し、駅前のバス停に戻って、一緒にロカ岬行きのバスに乗った。若いがなかなかいい男だった。「本日シントラの町を見学した。雨の中歩いての山道は相当大変だった。ペナ宮殿はすばらしかったが、景色は霧に包まれていた」 と語った。ロカ岬までのバスは、またも村々に寄りながら思ったより時間も掛かる。雨脚は、先ほどより強くなって、やみそうな雰囲気はない。実は、このバスの中にもう1人アジア人が乗っていた。「彼は何国人だろう?」という話題になった。二人の意見は「台湾人だろう。きっと、兵役あけの」と一致した。乗客も減って、山道を下りはじめて、ようやく海が見え、ロカ岬へ。バス停は、インフォメーション兼休憩所のところ。雨も強めだったし、まずは、ここからのバスが何分に来るかが一番の問題だった。我々はインフォメーションでバスの時刻を確認。ボクは、シントラへ直接戻るのでなく、予定通り、カスカイスまで行ってから戻ることを考えていた。カスカイスにも興味があったが、それより彼と話し続けていたい気持ちだった。カスカイスからシントラへのバスの時刻もインフォメーションで教えてもらった。崖の方に、「ここに地果て、海はじまる」の碑、そして少し離れて灯台が見える。雨はまだまだ弱くはなりそうになかったが、有名な碑まで行くことにした。ここは、ヨーロッパ最西端であり、ユーラシア大陸の最西端なのだ(同じか?)この大西洋の先になにか見えるだろうか と目をこらしたが、アトランティス大陸が見えるはずもない。ポルトガルの詩人カモンシスの「ここに地果て、海はじまる」の歌碑のそばで、交代にシャッターを押し合った。雨の中10分くらいは外にいたであろうか。ツアーの日本人団体のバスが来たが、あっという間に出発していった。インフォメーションに戻ると、彼は、ヨーロッパ最西端からの電話をしたり、ロカ岬到達証明書の交付を依頼したりで忙しい。ボクは証明書は買わなかった。ボクは先ほどバスの中で見かけたアジア風の男に声をかけた。彼は座り込んでいた。「今日は疲れてしまったのでゆっくりしている」のだそうだ。どこの国の人か聞くと、彼は「ブラジル人だ」と言った。今はポルトガルのコインブラ大学に短期留学中で、その前に彼は日本の大学院に在学中だという。小柄なアジア顔のルーツは日本のようだ。日本とブラジル・ポルトガルの深い繋がりについて研究中だという。なので、「2日前にリスボンにモラエスさんの生家を見てきた」と伝えると、彼は目を輝かせた。モラエスさんについては興味深いそうで、日本にいたときにわざわざ彼の住んでいた徳島のお宅まで行ったそうです。モラエスさんは、軍士官として来日したが、徳島に住み、阿波踊りとか徳島の情景などの日本を紹介する作家になり、日本で没したという、彼の本も読んだことがあるそうだった。「モラエスの文字の瀬戸物のプレートがアパートの壁に貼ってあっただけですよ」 と言ったが、そんなことは問題ではないようだ。 彼は、コインブラから大学の休暇を利用して、ここへ来ているが、今回はリスボンでの時間が取れないが、次回には彼の生家へ行ってみたいと目を輝かせた。ブラジルから日本に留学し、ポルトガルの大学の彼としばし話し込んだ。 1時間近くして、カスカイス行きバスがようやく来た。3人では座れないので、韓国人の彼と並んで座り、いろいろ話した。この後、カスカイスからリスボンに戻り、セビージャへの夜行バスに乗り、その後は、北アフリカに行く予定だそうだ。彼は兵役あけの旅行だった。カスカイスまで30分以上掛かる。
2007年06月18日
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ポルタレグレから四時間のバス旅の末、リスボン・セッテリオスバスターミナル に到着した。が、リスボンは通過。すぐに、シントラ方向へ移動する予定だ。幸いなことに、この脇にシントラ方向への私鉄の駅があるはずだ。なんだ、目の前にあるじゃないか!まずは切符を切符売り場のカウンターから呼び込みの声をかけられる。 鉄道駅でこんな経験、ポルトガルで初めてだ(ヨーロッパで初めて)。「シントラもロカ岬もカスカイスも周遊できる1日乗車券が12EUROだ。これが得だから買いなさい!」この1日乗車券のことは、歩き方で知っていた。でも、もう13時近くて、半日しかないし、お得かどうか決めかねていた。リスボンからすぐ近くの宮殿の街クエルズ・ベラスも、ちょっと寄ってみたい。聞くと、「ああ、そこもこの1日乗車券で行かれる」 と調子がいい。そうじゃなくて時間が足りないし、元取れるかどうかって事!一旦はそこを離れて、ガイドブックと相談。う~ん、12EUROだと手前で時間かけると元取れそうにない。今日の宿はシントラかカスカイスか、という基本的な問題にもなる。考えても時間の無駄と 1日乗車券を買うことにした。時間がないので、手前のクエルズ宮殿は途中下車の時間はない。やっぱ、乗るたびに切符を買った方がよかったかな? と、まだまだ後悔が頭をもたげた。電車は意外と本数が多かったし、行き先もいくつもあった。1日乗車券と一緒にもらった路線図で見ると、シントラは終点だった。「なんとかシントラ」行きの電車が停まっていた。これでいいのかな? それに乗る。ポルトガル国鉄(CP)より長大編成 なんと10両編成だ。私鉄の方が乗客が多いのは驚きだ。窓ガラスには銀色の幕が貼られている車両が多い。外が見えないじゃないか!ほとんどの車両が銀色の窓。終点の手前の駅で、ほとんどの乗客が降りる。終点まで乗る人は、ボクとわずかの乗客のみ。??終点に着くと、そこは近代的な雰囲気の住宅街!ここ、シントラ?駅名は 「なんとかシントラ」車内の路線図を見ると、シントラはもう1つあった。車掌さんに聞くと、「さっきの駅まで戻ってシントラ行きに乗りなさい。」と、別に驚いた様子でもなく、こともなげに言って立ち去った。やはり分岐線だったのか。時間がないのに、時間をロスしてしまった。鉄道ファンとしてはこんな分岐線も乗れて面白いのだが(ホントは1日乗車券の範囲でない)、観光客としては大失敗だ。リスボンも大きな街だが、シントラも多くの住民を抱えている都市だ ということが知れたのがうれしい。今回の旅では、ポルトガルの経済の進展がかいま見られたのが興味深い。ボクも観光客として一元的でない見方ができて一段進歩したかなとほくそ笑む。次の折り返し電車で、分岐駅に戻り、無事、シントラへ。実は、別の困ったことが発生していた。それは 、、、、 雨観光には雨は大敵だ。ボクは晴れ男の方で、曇りにはなってもめったに雨に見舞われない。今回の旅でも傘は日本から持ってきたのだが、見つからない。1度も使わなかったので、リスボンの宿に置いてきてしまっていた。ばかばか!シントラは、やはり晴れたときに歩きたい。ロカ岬は?やはり晴れたときに行きたいのだが、、、1日乗車券が 重くのしかかる。決断は早かった。シントラは雨の中を歩かなければいけないので明日へ回して、天気は悪いが、ほとんどバスに乗っているだけの、ロカ岬からカスカイスも周ってシントラまで戻ってこよう!(そうでないと1日乗車券が泣いてしまう。)シントラ駅は長い編成が入るが小さな駅だった。バス停が駅前にいくつか並ぶ。ロカ岬方向のバスは?たぶんこれだろうと、1番前のバス停へ。日本人ぽい人がいたので、聞いてみると、これで正しいのだそうだ。しかし彼は韓国人だった。彼と話すとおもしろそうだ。「シントラのインフォメーションはどこか」聞くと、「その小さな駅舎にある。まだバスは来ないから行ってきたら」 と勧めてくれた。シントラ駅構内のインフォメーションに行って、 地図と、ペンションの案内を聞く。ホテルのリストと、プライベートハウス(?)のリストをくれた。「宮殿のなるべく近くのお勧めは?」 と聞くと、「今日泊まるなら予約を取ってあげましょうか?」 と言うので、お言葉に甘えた。ラッキーにも本日の宿が、バスの待ち時間のうちに確保できた。
2007年06月17日
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ポルタレグレ バスターミナル定刻5分前になってようやく乗車を許可され、運転席のすぐ後ろの席に陣取った。定刻になっても運転手さんは、あっちふらふらこっちふらふらでなかなか乗車しなかった。(運転手が一番えらいので仕方がないが)ようやく出発さらば、ポルタレグレ! 次回にはリベンジしに行くぞ!ポルタレグレを出ると、 すぐに次の村で引っかかる。すれ違えないような村道で、大型トラックからのんびり荷物を降ろしているのだ。バスの運ちゃんものんきなもので、そのまま停まっている。荷下ろしの人々も、バスが待っているからといって、スピードアップするような素振りもない。国民性というか、ヨーロッパ人気質というか、、、。しばらくそのまま停車。乗客も誰も騒ぎたてない。だいぶ経ったと思えた頃、運ちゃん ようやっと1回だけ警笛を鳴らす。それでもスピードアップする気配はなかったが、その中の一人が動いた。少しだけスピードアップ! そして、車を移動させ始めた。たぶん、ぐるっと回って、また同じ所へ戻ってくるんだろうけど、マイペースマイペースですな、これは。この村は、乗降客0であった。村を出ると、少しだけ有料道路風(無料だが)の道を進み、またも村へ。乗降0の村が多いが、1人2人乗る場合もあるから、寄らないわけにも行かない。きれいな村々が多い。ある村では、多くの人がいたので、こりゃいっぱい乗ってくるなと思ったら、乗るのは若者一人、おじいちゃんおばあちゃんから親戚一同で見送っているのだ。兵役にでも出るのか、はたまたリスボンへの出稼ぎなのか、はわからず終いですが。道路の両脇は、牧草地が多いのだが、木々も同じ種類がまとまって生えている。松があるところは松だけ とか、、。ということは、松も栽培しているのだろうか? 時々見かける とても大きな竹とんぼみたいなもの?なんだい、ありゃ?片翼 少なくとも10mはある。写真? うまく撮れないのです。バスが走ってる上に、線が細いものなので、まるっきり被写体にならないのです。ごめんなさい、次回まで(いつの話だ?)宿題です。リスボンまで4時間の旅は、ほとんど変わらない風景の繰り返しで、昨晩の丘の上の世界遺産車窓の旅とはえらい違いでした。1回バスターミナルで5分ほどの休憩がありましたが、なんという街かわからず終い。もうそろそろリスボンかなという時間になってくると、バスは大きな大きな橋の上を進みます。大きな高速道路みたいです。横浜ベイブリッジみたいな、、、それも長くて長くて、 この橋の先が見えません。この橋は バスコダガマ橋だそうでした。もうリスボンの街か、と思ったら、首都高速のような所を通って、リスボン国際空港へ着きました。まあ、帰国日の下見ができていいけど、、。またも首都高速にのって、動物園とかいう標識のそばでようやっと終点に着きました。ここはリスボンにいくつかあるバスターミナルの一つ セッテリオス です。とても大きなバスターミナルです。
2007年06月12日
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ヨーロッパの新幹線網、ドイツICEとTGVが相互乗り入れ今日はまたもヨーロッパの高速鉄道網のニュース。フランスは、タリスとかユーロスターとかTGVの派生車種のみ国内乗り入れしていた。が、ついにドイツの高速鉄道ICEが、2007/6/10よりフランクフルト・パリ間に乗り入れすることになった。反対にTGVは パリ・シュツットガルト間に乗り入れる。これによって、それぞれ4時間少々掛かるが、国境線がどんどん消えていく気がする。ヨーロッパの鉄道は、それぞれの国によって、電圧が異なったり、右側通行だったり左だったり、システムが異なっているのだが、TGVタリスが最初にこの問題を乗り越えた。 AVEも線路幅を、スペイン式の広軌でなく、乗り入れを考えたTGVと同じ幅にして、将来の乗り入れに備えている。イタリアへもTGVはミラノまで乗り入れてはいるのだが、以前ボクも、トリノからパリへ乗車したが、山越え単線区間を走るTGVは、とろとろ走っていて、とても特急とは思えないスピードだった。2国間に話し合いはしたものの当分工事が始まる見込みはないそうだ。web上の記事では書かれていなかったが、日経新聞夕刊2007/6/9付けでは、ICEが近くロンドンにも乗り入れるとの観測記事も書かれていた。TGVを多用する旅はあまり好きではないが、航空機よりは鉄道の旅の方が好きだ。うまい利用方法を考えて、旅のバリエーションを広げるために利用したい。便利になることは、ヨーロッパ人のように長い休みが取れない日本人にはかなりの朗報だ。これからは貧乏人の方が航空機を利用する時代になるのであろうか。 ※ 下記の記事(産経新聞)と写真(AP)を参照しました。 仏TGVと独ICE、相互乗り入れで「敵」は航空機http://www.sankei.co.jp/kokusai/europe/070526/erp070526002.htm25日、パリ東駅にそろって到着する独ICE(左)と仏TGVの列車(AP) 仏独両国の誇る「新幹線」が相互乗り入れ-。フランスの首都パリとドイツのフランクフルト、シュツットガルトを結ぶ高速鉄道、仏TGVと独ICEの一番列車が25日、ドイツの各都市を出発した。 パリ-フランクフルトはICE、パリ-シュツットガルトはTGVがそれぞれ最高時速320キロで走る。これまで鉄道での所要時間は両路線とも6時間程度だったが、4時間前後に大幅短縮される。本格運行は6月10日から開始する。 今回の相互乗り入れにより、航空機との競争が一段と激化する。独メディアによると、初日の25日は停車駅での写真撮影などの影響で約30分遅れてパリ東駅に到着したという。(フランクフルト 時事)(産経web 2007/05/26 17:35)
2007年06月09日
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※ EVORAから、あらかじめ行き先を決めない旅 に挑戦しました。ホントは、エルヴァス という世界遺産の町に行きたかったのですが、バスターミナルの場所を見つけるのに手間取って、乗り遅れました。ほぼ5-10分おきにバスは発車しているのですが、土地勘がないので、それぞれの行き先はどの辺なのかほとんど見当が付きません。地球の歩き方と見比べて、ポルタレグレ行き バスに飛び乗りました。バス代6EUROで、近いのかと思いきや2時間以上乗車しました。※※ポルタレグレ 到着20:30 思ったより遠かった。冬なのですでに真っ暗。バスは、うす暗いビルの地下へのスロープに突っ込み、前方を低くして停まった。とりつくしまもなく、バスはドアも開けたまま、暗闇の地下へ降りていった。ホテルの名前が、レジデンシャル・ロッシオ なので、少し先のロッシオ広場まで行って、商店街を回ったが、ホテルらしきはない。バスターミナルの、元の場所へ戻り、バーの人々に聞く。バーの中から一人の男が出てきて、スーパーマーケットの隣の暗くなったビルのあたりを指さす。オブリガード!実は、この時点でも半信半疑。その指の先にホテルなんてあったっけ?そのビルは、ドアの所にインターホンのボタンがまとめて付いている!?上の方を見上げると、「レジデンシアル・ロッシオ 1andar」という看板があった。 ホテルと書いてないので 気が付かなかった。このビルでよかったという安堵!しかし、この日営業しているかどうかの不安。1andar とは1階(日本では2階)のことらしい。ちいさく、ロッシオ と書かれたボタンを押すと、ポルトガル語での短い返事と共に、玄関のドアの鍵が自動で開く音がした。1階(2階)へ駆け上がると、アパートのような廊下。1番奥の部屋から、人のよさそうなご夫婦が出てきた。が、すぐに引っ込んで、中学生か高校生くらいの少女が代わりに出てきた。たどたどしい英語で、「今日はシングルの部屋が空いていないので、3ベッドの30EUROの部屋だけどいいか? 」と聞いてきた。すぐにOK。言葉がうまく言えなくて、もどかしそうに説明する少女。部屋を下見するか? と聞きたいみたい。かまわないと言ったのだが、ご両親の所へ行って鍵を持ってきた。「パスポートを預かって、明日の支払いと、今の現金とどっちがいい?」もちろん、パスポートを預けるより現金の方がいい。部屋とレジデンスの部分の鍵と、玄関の3つの鍵を受け取った。それで完了。翌朝もこのご家族とは顔も会わなかった。持ってきたミネラルウオーターと食料でガマンしようかと思ったが、気を取り直して目の前のお店へ行くことにした。目の前にはバーと2軒のレストランが並んでいる。明るいけど客が少ないレストランと、少し小汚いがお客がいっぱいのレストラン。やっぱ人気の方がいいでしょう。きたない方に入った。働き者のウエイトレスが、これだけの客をテキパキとこなしている。1つのテーブルが空くと次の客が入って、かなり忙しい。野菜のスープと、お肉料理と赤ワインを注文した。男同士のグループも多いが、このお店で一人客はボクだけ。一人淋しく食べながら、他のテーブルの様子を眺める。ワインの客は必ずしも多くないが、どの客もエスプレッソと大きなデザートを食べてから出ていく。 お酒よりもデザートってか?ボクは、この夜もデザートは食べなかった。ウエイトレスは不思議そうな顔をしていた。 (ストロボなしで撮ったので画像悪いですが追加します。)商店街の坂道を登れば、世界遺産の鷹巣村があるのだろうが、途中まで登ったが、その先はあきらめた。いつもならバーにも寄るところだが、この夜はもう部屋へ戻った。このバーとレストラン以外にどこもお店が開いていなかった。翌朝、7時頃目が覚めたが、8時前くらいに部屋を出た。まずはバスの時刻表を眺める。各社それぞれや、行き先によっても異なる時刻表が張り出されている。リスボン行きは?むむっ、早朝の便を除くと、午前は8:30発、午後は15時過ぎと、夕刻。(※ リスボンに行きたいのでなく、リスボンは経由地のつもり)せめてお昼頃のバスがあったらベストだったんだけど、、ポルタレグレの旧市街地区を見に行くか、この町をあきらめて、次の目的地 シントラを目指すか 究極の選択を迫られた。 (朝焼けのポルタレグレ)出発まであと40分、ジタバタしたが、この町をあきらめざるを得なかった。 (将来また来たときには攻略も簡単だろう)朝からのバス旅行に期待を繋げる。ポルタレグレ発8:30 リスボン着12:30、結構長い道のりだ。バス代は12EURO(約1800円)切符を手に入れてから、バスがどこに来るのかあっちこっち歩き回ったが、自分の乗るバス以外に詳しい人もなく、10分前くらいまでわからなかった。暗がりのバスの車庫のような所に何台もバスが停まるが、プラットホームのようなものでなく、いい加減に停まっている。結局、バスの運転手らしい人に何人も聞いて、ようやくリスボン行きを見つけた。10分前だというのに、運転手らしい人は、なかなか乗車許可してくれずのらりくらり。 いらいら。5分前くらいからようやく乗車開始。ボクと見知らぬおばあちゃんは、それぞれ真っ先に運転席のすぐ後ろの席を確保した。
2007年06月07日
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世界遺産の町・エヴォラ は 郊外の巨石群遺跡は除けばほぼ見終えたので、次の町へ移動することにした。インフォメーションに寄って、事前にバスの時刻表を書き写していた。17:05発の エルヴァス(ここも世界遺産)行きに乗りたい。※※エヴォラ脱出作戦ジラルド広場から坂を下って、城壁の外へ。エヴォラらしい城壁なので、パチリ!何本もの道が放射状に分かれたロータリーがある。正面が墓地で、左手の道の次の次の路地裏にバスターミナルはあるはずだ。さて、急ぐか!2つめの道 ん! ホテル、この裏手かな?おかしい、バスターミナルはない。ホテル近くで ゆったりしていた長身の白人に聞く。バスターミナルって、なんて言ったっけ?パラ オートブスだっけか? (違うな、バスターミナルと言っとくか)英語は苦手そうだが、一生懸命教えてくれる。もう1つか2つ先の道にあるみたいだ。オブリガード!次の放射状の道を、 小さめのリュックをしょった若者たちが 三々五々 と、歩いていく。「ははあ、若者は、安上がりにバス旅行するんだな」と勝手に納得して、大きな駐車場脇を 彼らの後追いで歩く。今日は、男より、若くかわいらしい女の子比率が多いなあ。と、ぼんやり思っていた。う~ん?門に入っていくぞ?バスターミナルではなさそうだ。若者が 続々入っていく。「バスターミナルは どこですか?」道も聞かないでここまで付いてきた自分を悔いながら。ここは大学のようだ。 17時に登校するの?聞くと、 駐車場の裏手の通りにある って。もう足も限界近かった。 早足があとで効いてくる。ロータリーまで戻ってから、いく方がいいのだが、時間もない、少しでも速く歩けば間に合うかもしれない。駐車場の出口がなかったらどうしよう? と考えながらも最後の望みに賭ける。バスの出発が多少遅れているかもしれない、、、。幸い次の通り側に出口があって、目の前にバスターミナルが見えた。続々バスが出発していく。プラットホームが10以上ある大きなバスターミナル。正しい入口まで行く余裕もなく、バスの出発口から飛び込む。17:10 電光板からは、世界遺産・エルヴァス 行きの時刻が消えていた。ああ、時刻通り出発してしまったのだ。ガッカリもしていられない。他にも世界遺産ポルタレグレや、もっともポルトガルらしい村・モンセラーシュ などもある。ただ、夕刻からの移動なので、ホテルがない町だと宿無しになってしまう。地球の歩き方を見ながら町の名前が 電光板 のタイムテーブルにあるかの確認。次のバス ポルタレグレ行き がいいんじゃないか?あと1-2分しかない。あわてて、窓口に飛び込んで、「パラ ポルタレグレ!」と叫んだ。ぎりぎりセーフで、発券してくれた。料金は6EURO!日本円にして900円、この値段なら意外と近いのか?17:15発のポルタレグレ行きのバスに駆け込んだ。バスはすぐ出発して、夕焼けの山あいの村々に寄りながら進む。ほお、これなら明るい時間のバスに乗ったら、観光バスの旅のようだ。日が沈みかけた時間帯にこのすばらしい風景はちょっと惜しい。小さな村の小さなロータリーに入り込んでは、また郊外の道に進む。あっちの村こっちの村で、乗ったり降りたり。観光バス型の車で、快適だが、小学生から、おじいちゃんおばあちゃんまで、 結構利用客は多い。もう1時間も乗ってるけど、そろそろ着かないのか?しばらくして闇の中を走るが、各地の村々を縫って走るのは変わらない。20時になるけど、まだ終点のポルタレグレには着かないようだ。「こんな村で降ろされたら、今夜は野宿しなければならないのか?」という不安が涌く。地球の歩き方には、ポルタレグレ には バスターミナルの隣に、レジデンス があると書かれている。20:30 町の灯りはさほど明るくないが、少しだけ大きな町に入った。ここ? アナウンスもない。バスは、うす暗いビルの地下へのスロープに突っ込んだ。バスは前方を低くして停まった。「降りろ!」 と言っているように聞こえた。「ポルタレグレ ? 」 と聞くと、そっけなく返事。一瞬でも早く降りるようにうながされる。ホテルはどこか、聞こうとしたのだが、とりつくしまもない。降りたとたんに、ドアも開けたまま、バスは、暗闇の地下へ降りていった。この暗い地下が、バスターミナルのようだ。隣にスーパーマーケットがあって、道路の向かいにバーとレストランが並んでいる。暗いと思ったら、この町は街灯がないのだ。開いているお店と、ショーウィンドウの明かりが頼りだ。ホテルの名前が、レジデンシャル・ロッシオ なので、少し先のロッシオ広場まで行って、商店街を回ったが、ホテルらしきはない。バスターミナルの、元の場所へ戻るが、わからない。歩行者の姿もない。困った!バーの軒先で立ち話をしている人に聞く。が、2人とも知らないらしく、奥に入って、バーの中のみんなに声をかけて聞いてくれる。一人の男が出てきて、スーパーマーケットの隣の暗くなったビルのあたりを指さす。オブリガード!
2007年06月06日
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エヴォラ EVORA (3)※ EVORAの町の城壁が低くて不思議と書きましたが、wikによると、二重の城壁に守られていたこと。ローマ帝国時代以前からの交通の要衝で、シーザーからも、「肥沃なるジュリア」(ジュリアとはシーザーのこと)と呼ばれたほどの栄えた土地だそうです。その後のイスラム教徒のムーア人に占領統治されたり、その後のレコンキスタによって解放された、長い歴史が認められて、世界遺産に指定されているとのことでした。 ※水道橋 については もう少し勉強を要しますね。なんとか上に登って、どこまでフタがされてるか見たり、通行人が来るまで待って、実際に使われているか聞けばよかったですね。反省! さて、水道橋 を追いかけて、小さな町だからすぐにわかるだろうと思ったのに、探していた ディアナ神殿 と、大聖堂 Se が見つからなくなってしまいました。ぐるぐる回って、現在地がわからなくなってしまい、インフォメーションのあるジラルド広場 まで戻って、ようやく地図と道が確認できました。これが、ディアナ神殿 です。ギリシャ・コリント様式だそうですが、ローマ時代の西暦1世紀のものだそうです。思ったより小さく、この写真を撮るには、背景を入れないようにするのに苦労しました。博物館や、ボウサダがあり、バスコダガマのお宅は気が付きませんでした。ここの前の公園のへりから公園下の芝生や町の外の風景を眺めました。 時間もなくなってきて、 大聖堂 Se へ。この大聖堂 は 天正少年使節団が寄ったところの一つだそうです。大きな建物で、写真1枚に入りきれません。さて、17時過ぎの長距離バスに乗らないと、、、実は、事前に、インフォメーションで、バスターミナルの場所と、各地へのバスの時刻表は確認しています。バスターミナルまで、いくらか早足で駆けつければいいはずです、、
2007年06月04日
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エヴォラ EVORA 2この先、アーケードになっていて、その先の広場にインフォメーションがあります。この広場が この町のへそのようです。そのまま進むと、あちこちの路地にアーチが見えます。かわいらしい商店街が切れたところに修道院が。写したけど、メモリー不足で削除してしまった。残念!そして、そこが旧市街の終点。城壁が途切れて、その外側に車の道。見たかったものの一つ、水道橋が。残念だけどローマ時代のものではなく、16世紀のもの。それだって立派なものだけど、、、水道橋も世界遺産のようだ。城壁内の 水道橋 はどうなっているか辿ってみた。水道橋の柱の隙間に家が建っている。だんだん細く、低くなってきた。ついにこの右手の家のところで終点になっていた。どうなっているんだろう????わからず終いで、申し訳ありません。
2007年06月03日
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エヴォラ EVORA 1(※ エヴォラ というと、エボラ出血熱と間違える人が多いようですが、 エヴォラはポルトガル、エボラ出血熱はアフリカの話です。 ※ )駅から石畳を進むと、高級ぽいホテルがあって、その先には ガイドブックにも載ってないけど結構立派な教会。そして、なにかのモニュメント、駐車場、国道のような道路があって、その先に、あまり高くないが城壁がある。どうやら、この城壁の中が旧市街であり、世界遺産のようだ。ただ不思議に思うのは、この城壁のあまり背が高くないことだ。こんなもので、敵からこの町を守れるのだろうか? と。※※世界遺産・エヴォラ (1)町にはいるとすぐに、左手に サンフランシスコ教会 が。ガイドブックにも載ってるから、とりあえず訪問。ここで有名なものは、この別棟の 骸骨礼拝堂。ここの奥が、骸骨礼拝堂。骸骨礼拝堂 なんて、おどろおどろしいもの あまり入りたくない。でも、1.50EURO 。お参りしてみるか。拝観券は、 若い2人が簡易な窓口で売っていた。その切符は、SUICAの読み取り装置みたいな所に、バーコードを読み取らせると、バーが下がって入れる仕組み。なに、これ! 2人もいるんだから、こんなゲート要らないんじゃない?予算消化が目的?骸骨礼拝堂(修行堂)修行のために約5000体の骸骨をあらゆる壁柱に貼り付けたもの。白人の年配夫婦は、ストロボ炊いて、バチバチ写している。えっ、こんなとこ写すの?と、次に入ってきた白人の若い女性、ビデオカメラで端から撮影を始めた。なんだか、気持ちがわからない。これを作った修行僧たちも、写してる人たちも。思ったより恐ろしくはなかった。足の骨は足の骨だけ、頭の骨は頭だけと、まとまって埋め込まれている。こんな風に整理されていると恐ろしく見えない。といっても、いくら修行僧でも、この中に長時間ここで修行するのはちょっとね。それとは別に、大人とこどもの骸骨が1体ずつだけ別に吊されている。なんでも、悪いことをしたので、骸骨になってもさらされてるとか。あまり納得のいかないまま、礼拝堂を出る。出るところに、またも バーコード読み取り機で、アクリルみたいな腰下サイズのドアが開く。(こんなの必要?) サンフランシスコ教会 は、さっさと忘れて、旧市街を進む。
2007年06月02日
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カザ・ブランカ駅 (2)3番線に 緑色の1両編成 なんだか長い車両だ。多くの人 15人くらいが降りて2番線の列車を待つ。時間よりだいぶ早いし、たぶん2番線にくるとなぜか思っていた。緑色の車両は、車内も緑青のかなりすごい配色。3+2の座席。みんな横向いていたのでパッと写真を撮った。来た来た! 待ちに待った列車が。写真を撮ってから、ドアへ駆けつける。乗る前に念のため、「パラ エヴォラ?」 と、エヴォラ行きかどうか確認。 「違う!」 えっ! 駅員の所へ走る。「パラ エヴォラ? 」 「エヴォラ行きはあっち」なんとさっきから停まっていた 緑の1両編成がエヴォラ行きだった。(危ないところで、乗り間違えるところだった。) カザ・ブランカからエヴォラの切符はないけど、とりあえず乗車。大男の車掌が乗り込んできて、走り出したら、結構こまめに回ってくる。ポルトガルでは車掌が切符を売ったり、降りる人をチェックしたり、なんとも のんびりムードだ。エヴォラ駅は 終点。駅前は工場の塀と駐車場。あまりムードはない。駅のそばには NATOの自動車修理工場があった。ここが世界遺産の町 エヴォラ とは とうてい思えなかった。
2007年06月02日
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リスボンの宿に荷物を預けて、2泊3日の世界遺産めぐりを企てました。ポルトガルの世界遺産は狭い国なのに結構あって、それも、多くは山の中のスペインとの国境近くの鷹巣村が多いのです。たいていはバスの便しかないのですが、鉄道で行きたくて、世界遺産の町エヴォラへの行き方を インフォメーションに聞きに行った。「そんなことは、駅で聞きなさい」 と、あえなく撃沈。始発駅ロッシオは工事中で、まだがらんどうで駅として営業していなかった。やむなく、地下鉄で、臨時始発駅のオリエンテ駅へ向かいました。乗換標示が見あたらなかったので、近くにいた美人の婦人警官に、国鉄駅を聞くと、「わたしに付いてきて」 と、切符売り場まで案内してくれました。オブリガード!ここで、問題発生!「9:21発の切符が欲しい」と言うと、「9:21発はない。次の列車は13:51だ」と言われました。トーマスクックの時刻表コピーを見せて食い下がるが、「時刻表が変わって、9:21発のその列車はエヴォラに行かない」と小さな時刻表をくれた。 ガ~ン「次のエヴォラ行きは13:51発」、、、て言うと、4時間半後です。そんなに待てないので、行かれるところまで行ってその先はバスでもと考え、「分岐駅の カザ・ブランカ まで」 と言うと、「ホントに行くのか?」 と何度も念を押されて、YESと言って、ようやく切符を売ってくれました。 (9.50EURO) 牧草地のような風景の中、乗ってから約1時間半くらい。 (上) インターシティの車内 (下) 乗ってきたインターシティカザ・ブランカ駅10:55到着。カザ・ブランカ駅 意外と大きな駅じゃないか!この駅で降りた人はほんの数人。車窓からは牧草地のような風景が続いていました。ここまで来れば、バスでもタクシーでもなんとかエヴォラまで行かれるだろう!と高をくくっていました。 駅前広場は全部ほじくり返していて、全面工事中。工事人は、一人二人三人。のんびりムードで工事しています。 バス停はどこだろうか?聞こうにも、そばに人がいません。まずは、町に入っていきました。白い家並みが 左右に2列、50軒位ずつ、約200軒くらいありました。集落が途切れると、その先は、どこまでも牧草地だけです。(下) 廃棄されたトラックかと思ったら、村人が運転席へ乗り、耕作を始めた。バス停はありません。タクシーもいません。「ホントに行くのか」 と聞かれたのはこういう事だったのですか!ホントにエヴォラへ行く手段がありません。白い家、白い家、白い家 まさに カザ・ブランカ です。おじいちゃんたちが 日向ぼっこをしています。バーに入ってエスプレッソコーヒーを飲みました。ここの主人は怪しがっていました。外のベンチで、のんびりすることにしました。ボケ~っとしてると、たまには他の町から来たバイクや車も来ます。おじいちゃんが一人戻ってきて、隣に座ったので、おしゃべりしました。ポルトガル語なので、ほとんど通じませんが。わかりそうな単語をガイドブックからひろって、エヴォラへ行くこと、約4時間後15:30まで列車がない と言うと、なんだか数字を言ってくれています。 2時?ひょっとして と時刻表をひっくり返してみると、反対方向から14:10発のエヴォラ行きの列車がありました。オブリガード!しばらく通じないながらのおしゃべりをしていたら、まだ列車まで時間があるからそこのバーへ行ってみたらどうか?と言われている気がしました。お礼を言って、バーへ。おばあちゃん一人で切り盛りしていて、テーブル席でテレビを見ながら時間を潰している人がいたりして、居心地がよさそうです。白ワインと、たぶん鰯のようなフライ2匹を頼みました。この魚のフライがおいしいのです。お代わりしてしまいました。(ワインも(昼間っから))かわいらしいお孫さんが出てきて、退屈させません。1時間以上長居して、このなんにもない町で、の~んびりしました。駅に戻ると、この間列車は1本も来ていないはずなのに、なぜか先客が2人も居ました。ずっと待っていたのでしょうか?列車が来るまであと少しです。(待ち時間4時間半の予定がおじいちゃんのおかげで1時間短くすみました。)
2007年06月01日
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