気持ち良くながれる

気持ち良くながれる

lumiができるまで




ある日母が言った。
 「今日は外国からお客さまがいらっしゃるから早く帰るのよ」
えっ。それってテレビとか映画とかに出てる見たく金髪の人のこと?幼い私は頭の中が???でいっぱいになった。外国人って言葉はどうなんだろう?なぜかしら期待でワクワクした。その晩のお客さまは父の取引先の方々で、もちろん日本語なんて話さなかった。私の子供時代ですよ。ものすごい昔(笑)です!それほど田舎ではなかったけれど、見学しに
来る人もいるくらい、外国の人を見かける機会は少なかったです。なぜかしら私は言葉も通じないおじちゃん達になついた。お帰りになる時はとても悲しかった。言葉はつうじないけれど、心が通じたのかもしれない。なあんだ。外人さんって恐くないし、でんでん平気じゃん?!私の外国の方との遭遇はとても順調に終了した。

ある日母が言った。
 「パパのいる国にお引っ越しすることになったわよ」
えっ!それってものすごく遠くに行くんでないの???
幼い私はまたまた???でいっぱいになった。父は少し前に外国へ転勤していた。どうやらそこに行くらしい。私はあまりに幼く、空港で見送るじいじがなぜあんなに悲しそうにしているのかわからなかった。
 「じいちゃんもうlumiにはあえないかも…」
(別バージョン 「じいちゃんもう来年の桜は見れないかも…」 を20年以上繰り返した末、90過ぎに大往生したじいじ なみだあああ)
と涙をながしていた。母も悲壮な覚悟を決めたように人に見えた。なんだかわからないけれど劇的なシーンの数々の末、私たち母子は飛行機に乗った。
乱気流でげろげろになった末、外国とやらに着いた。飛行機を降りると外国人の中に父が迎えに来ていた。私は幼いなりになんだかすごいことになっているんだなあと思った。今でもテンポが遅い私は、意気込みを持つ事も、反発を感じる事もなく、そういうものだろうと考え、外国で暮らし始めた。

「日本に帰るのよー」
またまたある日親が言う。この時すっかりプチ外国人になってしまい、日本語も怪しくなってしまった私は少し抵抗した。でも、子供になにができるであろう。私たち一家は日本に帰国した。ついでに邪魔な兄弟までできていた。

本当は怪しい?だけで日本語を話せる私はしばらくの間、親戚相手に日本語を忘れてしまった娘のふりをして楽しんだが、ある日問いかけにうっかり日本語で返事をしてしまいこの遊びは終了した。みなさん言葉には出さなかったけれど、とても心配をしていたらしく、ちょっと悪いことをしたなあと思った。でもこの遊びを最初に思い付いたのはうちの両親だし!、すぐに乗ったのはじいじである!おちゃめが過ぎましたね。絶対見てないとは思うけれど、親戚一同さま、その節はご心配をおかけしてしまいました。ごめんなさい。

私がプチ外国人になってしまうにはいろいろな経緯があった。異文化の中で幼いなりに苦労もしたし、人種差別にもあった。言葉が母国語よりも上達するにつれ、愛着する物や人も増えた生活を離れなければならないことは寂しかった。しかし今度は自分の国に帰るのだ。きっとみんなに(誰?!)親切にしてもらえる(爆)なんてあまーい夢を胸にいだいていた。

うっかり者ぞろいで、一家まとめてちょっとだけ世間的にずれてしまった私は 「外 国 人」 なんていじめにあってみたりした。
母曰く ヒラメのような、典型的日本人顔(あ でもちょっとはかわいいから 爆)の私相手によくそんなことをいってくれたものだ。
日本って変なのー。

私のながーい異文化間コミュニケーション問題/含夫婦受難の物語は始まった (笑


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: