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madamkaseのトルコ行進曲
Yaprak dokumu(落葉) その8
第66話
「誰もうちを訪ねては来なかったけど、あっ、そう言えば・・・」
ハイリエは目を見開いた。昨日、そういえば通りがかり、と言いながら門を入った女を思い出した。女は嘘を言ったのである。通りがかりではなく、はっきりとアリ・ルーザの家を訪ねてきたのだった。
「ねえ、アリ・ルーザ、あなた、その人のこと知ってるの?」
「どんな人だ」
アフメットがハイリエの代わりに言った。
「背が高くて、長い髪で、あ、この辺が白くて・・・」と、アフメットが頭頂部の左側に手を置いた。
ハイリエと話をした女に間違いなかった。
「アリ・ルーザ、あなた知っているのね、その人を」 ハイリエの語気が荒くなった。
「セヴダ・ハヌムだろう」
それを聞くとハイリエはむっとして、アフメットとの挨拶もそこそこにその場を立ち去った。アリ・ルーザも後を追った。家の中に誰もいないと思い、ハイリエは鍵を出して玄関を開けようとするがいらいらしているのでうまく回せない。アリ・ルーザが代わって鍵を開けようと手を出したが、怒っているハイリエは鍵を渡そうとしないので扉ががたがたと音を立てた。
フェルフンデが急いで玄関を開けると、ハイリエは無言で眉を吊り上げて荒々しく中に入った。そのあとからこれも苦虫を噛み潰したようなアリ・ルーザが来る。
「どうしたんですか!?」 問いかけるフェルフンデに、アリ・ルーザは「いや、何でもないよ」と答え、2階の部屋に駆け上ったハイリエのあとを追った。フェルフンデも抜き足差し足で2階に上がり、夫婦の寝室の前で立ち聞きを始めた。
「誰なの、セヴダって。あなた、その人をうちに呼んだの?」
「いや、この前パザールで出会っただけだよ。彼女とは40年も前の話で、大学時代に知り合ったんだ。同じ頃に、私はサズ(柄の長い三絃楽器)を習っていて、彼女は歌手志望だった・・・」
「あっ、そう。大学ね、私は大学なんか行ってないもの、あなたと大学で知り合えるわけもないわよね。高校だって、中学校だって知り合えたわけもないわよね!」
「ハイリエ・・・」
「どうせ、私は彼女ほど長いお付き合いじゃないわよ。歌も歌えないしサズも弾けないわよ」
「ハイリエ、おまえ~、なにを考えているんだ」
ハイリエはこぶしを握り締めて口惜しがった。
「う~~~。口惜しい、こんな目に合わされるなんて・・・」
さて、その頃ネイイルが外出しようとすると、アフメットがせっせと彼女のアパルトマンの花壇に花を植えているところだった。
「ネイイル・ハヌム、ちょっとお願いが・・・この花のためにバケツ1杯のお水を所望出来ますかね」
「無理、無理、今凄く急いでるの。アリ・ルーザ・ベイのうちで貰ってくれない?」
「いやあ、アリ・ルーザご夫妻はいま険悪なんでちょっとお邪魔できないですよ」
「え、どうしたの、どうしたの」
「実は昨日、1人のご婦人がアリ・ルーザ家への道を尋ねたんで、教えてあげたんですがこれがまた紛争の種で。いや、私が口を滑らしたのが原因かもしれません。アリ・ルーザ・ベイの昔の彼女だったらしいんですよ、どうも」
「え、じゃもしかしたら私も見たわ、その人」
「し、ここだけの話ですよ。それでいまごたごたしてるんですよ」
「わかったわ、水はあとでね」とネイイルが門を出ようとしたとき、「あ、これ、落ちましたよ」とアフメットが紙切れを手渡した。
「え、何も落さないけど!」
「いや、落ちました、落ちました!」 アフメットが無理に渡すのでネイイルはポケットにねじ込んだ。
通りに出ると彼女は紙切れを開けてみた。手紙である。あとで読むことにしたが、まんざらでもなかった。ネイイルのくちもとがちょっとほころんだ。
フェルフンデは夫婦のいさかいをドアの外でじっと立ち聞きしていたが、電話のベルがなった。慌てて階下に降りて電話を取ると、フィクレットからだった。ハイリエがプンプンしながら降りてきた。
「フィクレットが来るそうですよ」
「あ、そう」とハイリエは相変わらずふくれっつらのまま答え、電話に出た。
「クズム、待ってるから早く来て!」
ハイリエは受話器を置いてフェルフンデを睨んだ。
「あんた、また盗み聞きしてたでしょう。まったく!」
その頃アダパザールではジェヴリエが友人のヌーリニサの連れてきたまじない師の女から、夫婦仲を悪くするビュウ(呪い)を教わっているところだった。まじない師があらかじめ呪いをかけた2本のスプーンを背中合わせにしばり、それを持ってまじないの言葉を毎日何度も唱えると、どんな仲のいい夫婦でも3日後には仲が悪くなりだすという。
その上、このまじない師が呪いをかけた縫い針を、追い出したい人間の持ち物などにこっそり打ち込んでおくと、いずれ必ず出て行くことになる、というまじないも教わった。まじない師を連れてきた友人ヌーリニサですら、余りに異常なジェヴリエの嫁いじめには眉をひそめて
「こんなこと、やめておきなよ。タフシンにとってはせっかくのいい嫁じゃないか」と忠告した。
だがジェヴリエは聞かばこそ。呆れるヌーリニサを尻目にこの二品をまじない師から300YTLも出して買い、こっそりと寝室に入り、まず縫い針をフィクレットの寝ている側のベッドのヘリに、彼女の肩掛けに、そしてカーディガンの襟にと打ち、何食わぬ顔をしてサロンに戻ってきた。
そのフィクレットはなかなか来ないバスを待ちながら気を揉んでいた。母はどうしたのだろう。フェルフンデの思わせぶりな話し方、母の短い対応を思い出すと心配になった。
ハイリエはまだ憤懣やるかたなく、書斎に入りこみ、アリ・ルーザが止める暇もなく、大事にしてきた若き日のセヴダのレコードをバリバリとへし折った。「なによ、こんなもの」と言いながら。
「アリ・ルーザ、もう私達の結婚生活を清算することもありうるわけ?」
「シッ、馬鹿なことを・・・」
アリ・ルーザは、どうにも止まらないハイリエの怒りをなだめようとしても無駄なのを知り、嫌気がさしてどこへ行くとも言わずふらりと家を出た。フェルフンデがハイリエを慰めようとしたが、火の玉のように怒り狂っていて取り付く島もなかった。
銀行ではシェヴケットが周囲の様子を見てトイレに立ち、いずこかに電話をかけた。
「もしもし、アーデム・ベイですか。シェヴケットです。今日お振込みいたしましたのでお確かめください。では失礼します・・・」
ギュルシェンが書類を持って支店長室に行くと、「いまちょっと取り込んでいるのであとにしてくれないか」と支店長が難しい顔を向けて言った。監査官も一様に難しい顔をしている。
「あ、もちろんです。失礼します」 ギュルシェンは慌てて戸を閉めた。何か大きな問題が発覚したらしいのを彼女は感じたのだった。
同じ頃ヤマンの会社ではジャンとヤマンがシェヴケットについて話をしている。
「いやあ、フェルフンデも困り果てている。私はカードに誘ったことを後悔しているんだ。多少稼がせてやりたいと思ったのが裏目に出た。あんなにのめり込んで自分をコントロール出来ない人間だとは思わなかったんだ。最後が考えられない大負けで、15万YTL無くしたらしい。ところがこれをシェヴケットは払ったというんだな。ついさっき、アーデムから知らせがあったよ。どう処理をしたのか、見ものだよ。あ、ジャン、今夜エスラと一緒に3人で夕食を食べないか」
レイラもヤマンから聞いてシェヴケットが15万YTLの借金を全額払ったことを知った。フェルフンデに電話してこのことを知らせたが、フェルフンデにしてもレイラにしても、払えたことのほうが不気味であった。
ハイリエはネイイルに電話して家に呼んだ。彼女は家を出るとき花壇の花を嬉しそうに眺めてからアリ・ルーザの家の門を入った。するとすぐ後ろからフィクレットが現れた。ハイリエは玄関でフィクレットを見るなりその肩に抱きついて、おいおいと悔し泣きに泣き出した。
アリ・ルーザはその頃、シェヴケットを訪ねて銀行に顔を出した。昼を一緒に食べようと外に連れ出した。海辺のレストランで親子はキョフテ(肉団子)を食べながら、語り合う。家ではハイリエがネイイル、フィクレット、フェルフンデを相手に泣き泣き話をしていた。
フィクレット「もう過ぎたことでしょ。全部終わったことだって!」
ハイリエ「クズム(私の娘)、何言うの。本人がここに来たのよ。家に来たのよ。いまに部屋にも入るわ、ベッドにだって、入ってくるかも・・・」
ネイイル「まっさか~。そりゃあもう、とっくにないでしょう!」
ハイリエ「笑いごとじゃないのよ~っ」
その午後、アリ・ルーザは久々にアイシェの学校に迎えに行った。廊下で偶然にも孫を迎えに来たセヴダと出会う。
「アリッシュ、あなたの子もここの学校だったの? 出会ったの、初めてね」
「ああ、私は滅多に来ないから」
「実は、昨日あなたの家まで行ったのよ。あなた、留守だったのね、多分」
「そうだね、留守だったよ」
「奥さんと話したわ。私、つい自分のこと言えなくて失礼してしまったのよ」
「ああ、聞いてる」
セヴダの孫の男の子とアイシェは学年が違うが、子供達はすぐに仲良くなった。校門で別れ、家に戻るとフィクレットを迎えにタフシンも来ていた。
一方、ネジュラは大学で親友イペッキと話をしている。そこにハンデがやってきた。彼女は2人を見るとイペッキに「ちょっと離れてて」といい、ネジュラに食って掛かった。
「みっともない真似はしないことね。何をしたってジェムと私の仲は裂けないわ。」
「私、そんなつもりでジェムに会いに行ったんじゃないわ。それにあなた方の邪魔をしようなんてこれっぽちも思っていないのよ。ただ写真を送ったのが私でないことをわかってほしかったのよ」
ハンデの剣幕に驚いたイペッキは級友のジェムに急いで電話をかけた。
「ジェム、私イペッキよ。いまハンデがネジュラを捕まえて喧嘩になりそうよ。早くハンデを止めてちょうだい!」
ジェムはすぐにハンデに電話して、その件に関しては自分が片付けたので、もうこれ以上長引かせるな、ネジュラを放せ、と言った。その言葉はハンデを怒らせた。
家に戻ったアリ・ルーザは、大勢の味方で脇を固めたハイリエの圧倒的な優勢の前にひどく不利な立場であることを感じた。その上、子供の口は塞げなかった。
「あのね、今日ね、学校でお父さんの昔のお友達のおばちゃんと出会ったよ。お父さんのこと、アリッシュって呼んでたわ。えへへ、アリッシュだよ~!」
ハイリエは怒りが頂点に達して、わなわなと震えながら「お母さんは今日お前と一緒にアダパザールに行くわ、フィクレット」と今にも泣き出しそうな顔で言った。タフシンが「もしよかったら、お父さんもご一緒に」と言い出したのでフィクレットはアリ・ルーザに問うた。
「いや、今日はお母さんだけ連れて行ってやってくれ。気分転換に少し変わった空気を吸わせてやってほしい」
「エエエ、私のいない間に好きにするつもりね。もう、口惜しい!」
ハイリエは娘夫婦の車でアダパザールに行った。夕食後ジェヴリエはどうして急にハイリエが来たのかをいろいろ聞き出そうとしたが、ハイリエはなかなか口を開かなかった。ジェヴリエはなおも食い下がる。
「せっかく来たんだから、胸の苦しみを思い切り語ったらいいのに、ハイリエ・ハヌム」
「まあ、ジェヴリエ・ハヌム。誰の胸の苦しみを語るんですか」
「あんたのだわよ、ハイリエ・ハヌム。何でも打ち明けておくれな。私達は親同士じゃないの」
「ありがとう、私はちょっと顔を洗ってきますわ」
しつこいジェヴリエを避けてハイリエは洗面所に立った。戻ってきた彼女にジェヴリエは聞く。
「どう、気分は?」
「いいですとも。婿殿と娘の家でご馳走になっているんですから、悪いはずがありませんわ」
ハイリエはにこやかに笑った。ジェヴリエは眉をしかめて「まあ、役者だねエ」と呟いた。
さて、こちらはイスタンブールの刑務所。明日の公判を控えてオウスが髭を剃っている。タラットは法廷で落ち着き、裁判官の印象をよくする秘訣を授けている。それを少し離れたところからもとの第一の腹心が不服顔で見ながら、自分の取り巻き連中に、オウスの悪口を漏らしている。
明日の法廷ではどんなことが待っているのだろうか。
アダパザール。夫婦の寝室を今日は母と娘が心置きなく話し合えるよう、タフシンが明け渡してくれたので、ハイリエは娘のベッドに腰掛けた。
「アイタタタ、なにこれ、あああ、縫い針が出てきたわ、フィクレット!」
「まあ、昨日は何でもなかったのよ。大丈夫だった、お母さん?」
「うん、平気よ。でも気をつけなさいよ」
「はい。せっかく天気がいいから庭で少しお喋りしましょうか」 フィクレットが母親を庭に誘った。
「そうね、じゃ、ちょっと上に羽織る何かを貸して」
フィクレットの渡す肩掛けをすっぽり巻いた途端、ハイリエは再び声を上げて顔をしかめた。
「アイタタタ、また針よ。フィクレット、ちゃんと針山に刺してるの?」
「ええ、針の始末はいつもちゃんとしてるわ。あら、私のカーディガンにも針が刺さってる!」
不審に思いながらもまさか、ジェヴリエがビュウ(呪い)をかけたとは知らない2人が庭でしばらく話し込んでいると、ジェヴリエは窓を開いて立ち聞きしようと骨を折っていた。それに気づいたタフシンにたしなめられてしぶしぶ寝ることに・・・
その晩、イスタンブールの高級レストランで、ヤマンとエスラとジャンは夕食をリザーブしてあった。席に着くと、斜め向かいの席に先に来ていた若いカップルが何か言い争いをしている。
「あれは有名な建築家の娘のハンデよ。男性のほうはジェムと言って、2人とも将来を嘱望されている新進建築家として頭角を現してきているの。でも、なんだかあの2人、穏やかでない話をしているようね」とエスラが言った。
ジェムとハンデは小競り合いを続けていたが、やがてハンデはむっとした顔で指輪を外してジェムの前に置いた。
「これでお終いよ、ジェム。私達はもういいなずけでも何でもないわ!」
「何を言い出すんだ。馬鹿なことを・・・」
「いいえ、もうおしまいなの、いい? 私は帰るわ」 ハンデは席を立つとさっさと出て行ってしまった。(別にラーデス・ゲームをしていたわけではなさそうデス)
「あらあら、たいへんなところを見ちゃったわ。明日はマスコミが大騒ぎね。たった今、私達の目の前で別れちゃったわ、あの2人」 再びエスラが揶揄するように言った。
料理が運ばれてきたが、ちょうどそこへヤマンに電話がかかってきた。
「ハイ、ヤマンです。どうぞ」
「私は銀行の支店長です。ヤマン・ベイ。夜分にお邪魔します。実はお尋ねしたいことがありまして、よろしいでしょうか」
「ええ、何でしょう?」
「まだ今月の決済日にはかなり間があるのに、本日多額の送金をしておられますが、何かお急ぎの支払いがあったのでしょうか。一度シェヴケットの口座に振り替えられています。金額は15万YTL(3月初旬のレートで約1,500万円)です。お申し付けになった覚えがありますか?」
「いや、知らない。どういうわけです?」
ヤマンは青ざめて立ち上がった。重大な犯罪だ。彼はすぐにシェヴケットに電話しようとしたが、ジャンが押しとどめた。容疑者を逃がしてしまう恐れがあるからだ。
ハイリエのいないアリ・ルーザ家の夕食ははずまない。食後の散歩に出た父アリ・ルーザを心配してシェヴケットが庭に出てみると、父は庭の一隅にあるテーブルに座って考え事をしていた。寒くなったからと家の中に連れ帰り、サロンに落ち着いたときだった。
1台の車がアリ・ルーザ家に乗りつけ、支店長と監査官達が降りてきた。門はまだ開いている。男達は庭に入っていった。2階からこれを見たネジュラが、
「お兄さんの銀行の支店長さん達がうちに来たわ」と言いながら降りてきた。ただ事ではないようだ。アリ・ルーザ以下、家族はみな玄関に走った。
「あ、支店長さん、ようこそ」とアリ・ルーザは玄関を開けて言った。
「やあ、こんばんわ、アリ・ルーザ・ベイ。ちょっとシェヴケットに聞きたいことがあるのです。どこにいますか」
「はい、いますぐ呼びます。シェヴケット、シェヴケット!」
そしてみんなは開け放たれた裏口のドアを見た。シェヴケットは裸足のまま逃走したのだった。庭を抜け、塀を乗り越えて暗い海岸のほうに走るシェヴケット。
アリ・ルーザは目の前が真っ暗になり、息もつけなくなって椅子に崩れ落ちた・・・
第67話
銀行の支店長や監査官がアリ・ルーザ家を訪ねてきた夜、シェヴケットは庭伝いに逃亡し、姿を消してしまった。一体何が起こったのかをアリ・ルーザは初めて知ることになったのだった。シェヴケットが背任横領罪で告発されることは明らかだった。彼の使い込みの総額は27万5千YTL(2千750万円くらい)にも上るのだった。
アダパザールの夜。母ハイリエは客間のソファーを広げたベッドに腰掛けたまま、いろいろ考えてしまい眠れずにいた。これをみたジェヴリエはわざとらしくどうして横にならないのかとなおもしつこく聞こうとするのだった。
支店長達が帰ったあと、アリ・ルーザはフェルフンデを責めた。
「なぜ私を責めるの。シェヴケットはバッグから私のクレジット・カードすら盗んで、とんでもない額の買い物をして、それも売り飛ばしてしまったのよ。私のカードは大きな負債を背負い込んでしまったのよ。レイラが証人よ!」
フェルフンデも負けずに言い返した。アリ・ルーザはレイラを見た。彼女は無念そうに頷いた。玄関のチャイムが鳴った。ギュルシェンが訪ねてきたのだ。シェヴケットの姿がないのでギュルシェンはフェルフンデに尋ねた。
「あの人達がシェヴケットを連れて行ったの?」
「違うの、逃げたのよ」
「でもシェヴケットはヤマン・ベイがすべて支払ったとか言ってたわ」
「そんなことはないのよ、ギュルシェン!」 フェルフンデは涙をいっぱいに溜めていた。
アダパザールでは眠れないハイリエのそばに来たジェヴリエが、自分の若い頃の苦しみを語り始めた。真剣に聞いているハイリエ。2人を見たフィクレットは首をひねり、あの2人にも共通の話題があったのかと苦笑しながら寝室に戻った。
「それではぼちぼち・・・」とギュルシェンが席を立った。
「ありがとう、来てくれて」とフェルフンデも立って見送りに。2人は門口で話し合う。
アリ・ルーザは書斎にこもり、1人になりたいと言って誰も中に入るのを許さなかった。何年前だろう、シェヴケットの就職が決まり、15億TL(今日の1,500YTL)の初任給を貰えることになったお祝いに、七面鳥を1羽奮発し、家中で大喜びしたことを。
アリ・ルーザはいつも座っていた自分の席を息子に譲り、シェヴケットも照れながらも「いつか自分はシェヴケット・ババ(父・ここでは一家の長)とみんなに呼ばれるようになって、妹達の面倒は自分が見る」と誓ったときのことを思い出していた。
幸せだったあの頃・・・アリ・ルーザはさめざめと男泣きに泣いてしまった。
フェルフンデは遅い時刻だったがヤマンに電話して詫びた。
「こんなことになって、深く恥じています。お世話になったあなたのお金を横領するなんて・・・・」
「フェルフンデ、君が謝ることはない。それよりもいい解決法を見つけようじゃないか、ね」
居合わせた弁護士ジャンが電話を替わった。オウスとの裁判の公判が明日に迫っていたのだ。
「ジャン・ベイ。私が公判に出ないとまずいでしょうか」とフェルフンデ。
「いや、大丈夫だよ。今回は私に任せなさい、フェルフンデ」とジャンは優しく答えた。
朝になった。食事のあとアリ・ルーザは、シェヴケットを非難したフェルフンデに厳しく迫った。
「何もかも、君のせいだ、フェルフンデ。君が来てからこの方、わが家が平安だったことがあるか!? 私の息子は正直な働き者だった。それがこんな始末になったのは全部君のせいだ!」
「何を言うの。ほんとに私のせいですか。考えてみて、レイラのやったことは何? ネジュラのやったことは正しいの? 賭博にはまったのはシェヴケット自身よ。私は何度もやめるように諌めてきたわ。それなのに自分の子達は許せてどうして私だけがあなたにとって悪者なの!?」
フェルフンデはアリ・ルーザに精一杯の抵抗を示しながら訴え続けた。余りに感情が高ぶったので憎しみに満ちた目が一瞬反転し、フェルフンデはその場に気を失って倒れてしまった。慌てて駆け寄るアリ・ルーザや義妹達。
アダパザールではオトガルまで娘夫婦に送られてハイリエがイスタンブール行きのバスに乗り込んだ。フィクレットは母が出発したあと、父に電話を入れたが、どうも声や話し方が気もそぞろなのを不審に思った。
「お父さん、何かあったの?」と思わず聞いた。
「チョック・キョトゥ」 (非常に悪い状態だ)
その一言で十分だった。賢い長女は父がひどい苦境に立っていることを一瞬にして悟った。
「お父さん、すぐ行くわ。待っていてね」フィクレットが言うと、タフシンもすぐに何か別の事件が妻の実家に起きていることを察した。彼は妻を車に乗せそのままイスタンブールに向かった。
義妹達の介抱で我に返ったフェルフンデは、アリ・ルーザに食って掛かったことを詫びたが、アリ・ルーザは彼女が謝るのを無視して1人家を出た。
「こんな風になるのを望んだわけじゃないわ、私・・・」フェルフンデが言うと、レイラは
「何を望んだかより、何を言ったかが問題でしょ、フェルフンデ姉さん」と突き放すように答えた。
外に出たアリ・ルーザは心ここにあらず、セデフとすれ違ってもぼうっとして返事もせずに坂を下っていくのだった。
セデフは花壇の花に水をやっているネイイルのそばに来て「アリ・ルーザおじさん、どうかしたのかしら、心配だわ」と母に告げた。
その頃、刑務所ではオウスが公判を控えて髭を剃ったり身だしなみを整えている。ボスのタラットはすっかり自分に従順になったオウスを、一日も早く釈放に漕ぎ付けさせようと、あちらこちらに手を回していた。オウスのために仲間内から金も集めているとのこと。
タラットにとって、シャバに心強い手下がいることは大いなるメリットなのだった。オウスが外に出た暁には彼に何か大きな使命を与えようとしているらしい。
坂道を歩くアリ・ルーザ、海岸を行くアリ・ルーザ、思いはすべて孝行息子だったシェヴケットのこと。賭博に手を染めていることを知ったとき、なぜもっとよく説得しなかったか。すべてが遅すぎた。
アダパザールからのバスにハイリエが乗っている。途中そのバスを追い抜いたタフシンはフィクレットに聞いた。
「適当なところでバスを止めてお母さんをこちらの車に乗せようか?」
「いえ、そんなことをすると却って心配させるわ。家に着くまでせめて何も知らないほうがいいわ」
ジェヴリエからしばしば電話がかかってきた。
「お袋、急な仕事が出来たんでイスタンブールに行ってくるって言ってるじゃないか」
それだけ言うとタフシンは電話を切ってしまった。
裁判所。原告のフェルフンデが出られないので公判はあまり時間もかからずに終わった。ジェイダがオウスの息子カーンを連れて来ている。オウスは手錠のまま、もう首も据わって可愛い瞳を向けるカーンを抱き上げ、出所の決意も新たにしたのだった。
アリ・ルーザは支店長を訪ねていった。支店長はアリ・ルーザを犯罪者の父としては見ず、丁寧に親切に応対した。
「なんとか、この損害をお返しするために、家を売ることも考えています。或いは家を抵当にしてどのくらい貸付を受けられるかも知りたいと思います」と息子を全身全霊で守りたい父親は言った。
「承知しました。私もお父さんのご意向を尊重して、いい条件で貸付が実行出来るように考えましょう。あなた同様、私どもも非常に苦しい立場です。しかし、シェヴケットを警察に検挙させないために出来るだけのことをいたしましょう」
支店長はアリ・ルーザの人柄を知るだけに、役職を超えた理解を示すのだった。
ネイイルはベランダからアリ・ルーザの家にタフシンとフィクレットが車で駆けつけてきたのを見た。家には女達しかいなかった。フェルフンデはヤマンに面会に出て行き、フィクレットはレイラとネジュラから詳しい事情を聞いたのだった。レイラはヤマンの秘書をしているが、シェヴケットがこんな事件を起こしたので会社に顔が出せないでいたのだ。
タフシンは気を利かせてネイイルの家で話し込みながら待っていたが、娘のセデフはいつもフェルフンデがシェヴケットを悲しませていたのだ、とそれとなくフェルフンデを非難した。
ハイリエが家に戻ってきた。アダパザールで別れてきたフィクレットが自分より先に家に来ているのを見て、アリ・ルーザに何か悪いことでも起こったのかと驚く。シェヴケットの起こした件を聞くと、ハイリエは驚き、にわかに気を失いそうになった。
一方ネイイルはセデフを台所に呼んで食事の支度をしながら娘にいろいろ問いただす。そのときセデフの携帯に電話がかかってきた。それはシェヴケットからだった。
「わけがあって何も持たずに家を出たので少し援助してほしい」ということだった。セデフは承知し、急用が出来たといって家を出る。
ジャンは公判の結果をフェルフンデに報告するためアリ・ルーザの家に向かっていたが、海岸通りを歩いているアリ・ルーザを見て車に乗せた。
その頃フェルフンデはヤマンのオフィスに顔を出した。シェヴケットの最大の危機を助けてほしいと懇願する。
「フェルフンデ、私もトランプに誘ったのを後悔しているよ。しかし、これまで何度援助して来たと思う? もうたくさんだ」
フェルフンデはヤマンがもうこれ以上シェヴケットのために動いてくれないと感じ、奥の手を使い始めた。
「もちろん悪いのはシェヴケットです。でもそもそも彼が初めて不正をしたのは、あなたの会社のためにですよ。シェヴケットのサインがなければ、あなたは銀行から大きな融資をして貰えなかったはずでしょう。特別融資を受けるだけの条件を満たしていない会社が、シェヴケットのお陰でこんな大企業になれたんだわ。そのシェヴケットを見捨てるつもりですか」
「私を脅そうというのかい? 君のいつもの手で、私を脅迫してもビクともしないぞ。フェルフンデ、私はいつも君の言うとおりの金を出していたが、君ごときが怖くて出したわけじゃない。本当の友情から援助してきたんだよ。私をそこらの連中と同じ、脅しに弱い人間と見て貰っては困る。私を脅迫するなんて馬鹿な真似は止めろ。きっと後悔することになるぞ、フェルフンデ」
ヤマンの言葉を聞いていたフェルフンデはなおも何か言おうとしたが、急に椅子から崩れ落ちた。「フェルフンデ、どうしたんだ、フェルフンデ!」ヤマンは驚いて駆け寄った。
家では、ハイリエがシェヴケットの転落をすべてフェルフンデのせいにして泣いていた。フィクレットは母親を「誰のせいでもないのよ、シェヴケットが自分でやったことでしょう」と諌めていた。
「だって、お前。あの女さえいなければこんなことにはならなかったのよ、かわいそうなシェヴケット、おお、息子よ」とハイリエはなおも肩を震わせて泣くのだった。
そこにジャンの車でアリ・ルーザが送られてきた。
刑務所ではタラットとオウスが乾杯をしている。ベッドに寝ていた元の腹心の男は苦々しい思いで彼らの声を聞いていた。一方フェルフンデの運び込まれた病院へ、ヤマンがやってきた。
フェルフンデは涙を浮かべてヤマンに無礼を詫びるのだった。
家ではハイリエがまだフェルフンデを許せないでいた。しかし、事態はそんなものではなかった。アリ・ルーザは娘達を席に座らせ、重い口を開いた。
「子供達よ。私はいまだかつて、自分に権利のないロクマは一切れたりとも口にしたことはなかった(どんな小さな不正もしたことはなかった)。だが、いま、これ以上ないほどの苦境に陥っている。どうか、みんな、今こそお父さんを助けておくれ。力になっておくれ。銀行に大きな借金が出来た。場合によっては家を売らなくてはならないかもしれない」
「お父さん、私もどこか別の仕事を見つけて働くわ」とレイラ。
「私もよ、お父さん。もっと働いて必ずお手伝いするわ」ネジュラも涙ながらに言った。
「私も何かお手伝いできるわ、お父さん」とフィクレット。3人の娘の真剣さにアリ・ルーザは目を潤ませた。
「それにしても、この大事なときにあの女はどこをほっつき歩いているのかしら、もう」とハイリエはフェルフンデへの怒りを新たにしていた。
その頃、フェルフンデは病院で女医に診察結果を知らされていた。
「血圧、脈拍とも正常です。血糖値も異常はありません。おめでとう。妊娠2ヵ月です」
フェルフンデは言いようのない感情に襲われて絶句した。
人生で一番待ち望んでいたことが、よりによってこの出口のない暗闇に迷い込んでしまったときに現実となったからである。
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