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【1月31日・日曜日】 数日前、オズギュル先生からわが家にかかってきた電話は、とても嬉しい知らせだった。「加瀬ハヌム、やっとお知らせできることになりました。来る30日、朝10時から夕方5時まで、ご都合のよい時刻に、私のクリニックのオープニングにぜひおいでいただきたいと存じます」「先生、それはおめでとうございます。この日を首を長くして待っていました(トルコ語では、4つの目で待つ、と表現する)。何があっても行かせていただきます」「場所はこれこれしかじかです。心からお待ちしていますよ、加瀬ハヌム」 30日の朝は、頭痛を押してパソコンを開き、アマスィヤのガイドブックの校正を昼過ぎまでかかって完成し、送信した。 3時少し前、家を出てタキシム広場まで歩き、大きな花束を拵えてもらい、そのあとタクシーを拾って、エティレル地区にある先生の新しいクリニックに急いだ。 アク・メルケズ・ショッピングセンターの向かい側の、わかりやすい通りに面したビルの1階、窓の内側にすでにたくさんの植木鉢や花束が並んでいるのですぐにわかった。 上にかかっている不動産屋の看板が邪魔ですね~ 1階なので入りやすいのがよい。 入り口でどこかのファストフード店から出張しているらしい青年2人が、ジュースとホットドッグのサービスをしている。 30日間、寝食を忘れて駆けずり回ってついに開業に漕ぎ付けたオズギュル先生の、大勢の患者の飼い主達が集まっていた。 先生のガールフレンドのディーデムさんがホステスとして一生懸命みんなに挨拶をし、ジュースやケーキを振舞っていた。 彼女に花束を渡し、私は先着のお客さんを診療室に案内しているオズギュル先生の手が空くのを待った。「やあ、加瀬ハヌム、いらっしゃい! 来てくださってありがとう、ありがとう」 先生は私を見ると大きく手を広げて満面に笑みを浮かべ、「スィズィ・オズレディム(お会いしたかったですよ~)」と言いながら頬ずりし抱きしめてくれた。 先生はすっかり頬がそげて痩せが目立ったが、その目はすっきりと明るかった。「先生、今日はショコラさんもご一緒に伺うつもりだったんですが、加減が悪くて外出出来ませんのでくれぐれもよろしくと、言付かっています」「ありがとう、ゲチミッシュ・オルスン。私からもよろしくお伝えください」 治療や手術を行う処置室もちょうどいい広さ 清潔な入院施設、カフェス(檻) 最初の入院患者は尻尾を切られた猫 入院施設の前には、トリミング室 待合室の壁にはたくさんのキャットフードや缶詰。反対側のコーナーには散歩用の綱や食器、おもちゃの類もたくさん 「それから大阪のたまえさんがどれほど喜びますか。先生、ブログ用に施設の写真と先生のお席に着いた写真を写させてください。で、たまえさん用にちょっとポーズの違う1枚を」「ああー、遠くから心配してくれていたんですね。たまえさんにどうかよろしく。写真はのちほど撮りましょう。その前にどうぞ軽く腹ごしらえしてください。ジュースもどうぞ」 待合室は紳士淑女で溢れていたので、私は先生の「ムアイネ・オダス(診察室)」で、ホットドッグやあんずのジュースをご馳走になりながら、ある書類を広げた。 それは日本のさるテレビ局の番組用の企画書である。今受け持っている撮影とは別もので、完全なるドキュメンタリー番組だった。 去年の夏から企画を相談されて人探しをした結果、オズギュル先生が書類審査を通り、番組として取り上げられる可能性が高まったところで、あいにくオルタキョイの診療所を飛び出してしまったため、それきりお預けになっていたものだった。 プロデューサー氏が「この人の企画を流すのはもったいない。もし自分のクリニックを開いたとしたら、それはそれで素晴らしい展開になります。私は待ちましょう。いい知らせを待っていますよ」と言ったので、企画書はまだ有効だったのである。 1ヵ月の苦闘を克服、先生の晴れ晴れとした笑顔 ポストニシン様かオズギュル先生か。笑いが止まりません。 4時半頃になってさすがに訪問客の数も少なくなり、先生はテレビの企画書と質問書をトルコ語に直したものに目を通し、自席でポーズを取ってくれた。 ドキュメンタリー番組としてオズギュル先生のような名獣医もいることを日本に紹介出来たら素晴らしいな、と私は張り切っている。 あああ、その前にこのどうしようもない猫ひっかき病を治しておかないと・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月31日
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【1月30日・土曜日】 29日もまた雨で非常に寒かった。28日の午後、注文で撮影してきたすべての写真を早朝パソコンに取り込み、送信用に縮小してとにかくプロダクションに送る準備をしたが、質問事項への返事を書くのが辛く、半日休もうと思った。 抗生物質を飲むために空腹であってはいけないので、朝はお粥を作って食べた。薬も飲み、同時に胃薬も飲んで寝床に潜り込んだ。夕方まで寝ようと寝床に潜り込んだら間もなく、レイラから電話が来た。「カセー、予定が早まって今夜からツアーに出なけりゃいけないんで、お昼を食べに行くからなんか作っておいて! 手の込んだもの、作らなくていいからさ。何か欲しいものある?」 私はマッシュルームを少し頼んだ。肉も魚も材料が何もないので、寝床を抜けだし、大急ぎで焼きそば用に麺を拵えた。キャベツ、にんじん、玉ねぎなどの野菜も刻んでおいた。これで、マッシュルームがあれば上出来である。 するとそこにアンカラのアジャンス(エージェンシー)から電話が来て、アマスィヤの日本語と韓国語のパンフレットに1行足して貰いたいので、メールで送ったのを見てください、とのことだった。 メールは2通あって、もう1通は、アマスィヤのシティ・ガイドの日本語版を最終校正してほしい、とのことだった。 私はアジャンスに電話して担当のイサさんに30日の昼まで校正する、と約束した。 レイラがほどなくマッシュルームを持ってやってきたので、作った麺を寝かせる時間が足りなかったが、まあまあの出来、延ばして細切りにして茹でた。 手打ち麺、野菜たっぷり焼きそば、ほうれん草のお浸し「カセー、なんで腰を曲げてる?」「伸ばせないの。くたびれてるんだ、熱があるし・・・」「ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃん。私は食べ終わったらすぐうちに帰ってその韓国語の1行、翻訳してから出かけるから、あんたはそれが終わったら、もう誰が何を頼んで来ても断りな!」 レイラが出て行った後、私はまた寝床に入った。また電話。日本のプロダクションからである。 コードレスの電話でない悲しさ、家の固定電話にかかってくると、どうしても起きて行き、そこで話をしなくてはならない。「もう準備はしています。まだ文章が出来ていないので、あとで書いて、今夜のうちに送りますね」 電話が切れるとほっとしてまた寝床に潜り込む。 うとうとしているとチャイムが鳴った。カプジュの御用聞きはもう済んでいるし、誰か分からないので寝たふりをしようと思った。 ところがチャイムを鳴らしている人間は全然諦めずに馴らし続けるのだった。いくら名曲「エリーゼのために」でも、こうなるとやかましいだけ。でも、もしかして郵便屋さんだったら、とも考えた。 ついに意を決して起きて行き「キム・オ(どなた)?」と言うと、「マダム、ベン、ベン!」「ベン、キム・ヤ(私って、誰よ)?」「ユスフだよ、マダム。あんたが懐かしくてやってきたんだ。マダム、元気かい?」 私がドアを細めに開けると187~8センチの大男がガバッと外からドアを押し開けた。「あっ、猫が逃げるから開けちゃ駄目!」 ユスフはドアの隙間から中に押し入ろうとしたので私は押し返した。「いま不都合なのよ。それに私は病気で寝ているんだから、今日は帰ってよ」 ユスフというのは1999年頃から1年間、ジハンギルのかせレストランに皿洗いとして入った男で、アラブ語やクルド語はぺらぺらだったが、読み書きが全然出来ないので、買い物に出すときは紙ににんじんだの、ピーマンだの、ハムシだの、いちいち絵に書いて送り出したものだった。 私は店の暇な時刻を利用して、彼に読み書きを教えようと、アルファベット練習帳を作り、教え込んだ甲斐があり、たどたどしい口調ながら新聞が音読出来るようになった。 3つ目のレストランを最後に私は料理屋から足を洗ったので、その後彼がどこでどうしているかあまり気にしたことはなかった。 だが、ときどき突然やってきては電話を貸してくれ、カメラを貸してくれ、金を貸してくれと頼みごとばかりなので、あまり見たくない奴の1人なのだった。「マダム、俺、結婚して子供が出来たの知ってるよね。男の子だけど1歳になったばかりなのに、先天性腎不全で、片方の腎臓を摘出したんだ。手術代をやっと払って、退院するのにまだ残りが100リラ、どうしても貸してくれる人がいなくて、マダムなら貸してくれるだろうと・・・」 嘘かもしれない。本当かもしれない。私は少し迷った。熱で気分が悪いのに一層悪くなって、寒気がしてきた。「ユスフ、お前がお父さんなら、自分の着ている皮コートを売り払っても子供を何とかしてやるのが本当だよ。 私だってレストランはないし、もうこの歳だし、30代の男に金を貸してやるほど楽じゃないよ。 ただ、子供が腎不全だと聞いては気の毒だ。100は無理だけど50、私が出してやるからあと50は自分で何とかしな」「そのお金は返さなくてもいいよ、その代わりもう2度とお金を借りに来ないでね。子供の回復を私も祈ってるからこれで帰って。私は病気で寝ているんだから」 奴が50リラを握って「必ず返しに来る」と言いながら喜び勇んで帰って行くのを見送り、私は外猫達の餌のマカロニを煮始めた。 煮ている間にパソコンを開けて、去年8月と11月にどちらも腎不全で逝ってしまった私の可愛いアントンとアトムの写真を繰り返し大きくして眺めた。 ふかふかアントン 泥んこアトム 病気でも寝ていられない自分に苦笑しながら、やっぱりアントンやアトムを腎不全から助けてやれなかったことを考えると、ユスフの男の子が手術で助かったことは何よりだと思った。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月30日
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【1月29日・金曜日】 ミディエに爪を立てられて出来た傷は幾日かのちに痛みやリンパ腺の腫れが出て、全身倦怠感、胃の不快感なども伴い、昨日今日はついに38度を越す熱まで出てしまった。 正月にいくら掃除をしようと頑張っても何しろ何もやりたくない気分で、みすみす5日間を棒に振ったのも、このせいだったに違いない。 その後テレビの仕事が入ってきて出歩くようになったが、歩くのに体が重く、坂道を登るときは息切れすらするのだった。 傷は赤く膿んで、その周囲がかさぶたになって盛り上がったりまたそれが取れて平らになったりしながら、ほぼ1ヵ月になろうとしているのである。 病院で用が済んだあと調査に回れるような支度をして、9時過ぎに家を出た。 番号取りの長い列に並び、番号を貰って初診料を払い込み、一般外科の外来の廊下で自分の番が来るのを待った。 小一時間待って、ようやく前の人々の診察が終わり、診察室に入ると、3人のドクトルが並んでいて、そのうちの1人が「シキャーエッティニズ・ネ?(あなたの訴えは何ですか)」と聞く。「はい、約1ヵ月前、猫に爪を立てられ、最近目立って腫れたり痛んだりします」「何、猫に爪を? いやあ、そんなのはうちの管轄ではないですよ。ここは深刻な怪我や病気に対処するところです。さあ、さあ、次の人に代わって!」「え、じゃあ、先生、私はどこで診察してもらえばいいんですか?」「エンフェクション・ハスタルックラル(感染症)の部門のある病院に行きなさい。受付で聞くように。ハイ、次の方!」 けっ、剣もほろろとはこのことである。私は初診料の納入窓口に行き、診てもらえなかったのだから料金を返してくれと言ったら、「じゃあ、これについてパソコンで申請書を書き3枚刷り出して、病院長、会計部長、外科部長のサインを貰って、パスポートのコピーを添えて、提出しなさい」 いや~、千円そこそこの初診料を返してくれと言ったらそういう手続きを踏めと言う。面倒くさくなって「ええい、お宅のお金にしなさい」と言ったら、会計の人は、「けしからん、私が着服するとでも思っているのかね。これは国庫に入金されるんだ」とムッとしてしまった。 感染症の患者を受け付けている病院はイスタンブールでも1軒か2軒で、シシリー地区にある総合病院に感染症科があるという。 銀行に寄って少し降ろさないといけないかと思い、入ったガランティ銀行ジハンギル支店で待つ間、何気なく道路の向かい側に目をやったら、すごくいいものが目に入った。 途方にくれていたとき、目に入った国民診療所の看板 トルコ保健省の庶民向け診療機関で、「サールック・オジャウ」という、簡易診療所が目の前にあったのだ。 15年もベイオールに住んでいて、今までその存在は知ってはいたが、さて、身近にはどこにあるかも知らずにいたのである。 銀行を出ると向かい側のヤプクレディ銀行の2階の階段を私はちょっと希望に燃えて昇って行った。 地元の顔なじみの老人や親子連れがいた。居住許可証を出して番号札を貰い、私は2~3番先の私の順番を待った。 程なく招き入れられて、担当の医師はまだ比較的若い男性だったが、「どうしました?」と優しく聞いてくれた。「あの、左の首筋に1ヵ月ほど前猫が爪を立てて、それからが頭痛や熱、傷口の周辺が痛んで・・・・」と私は詳しく説明した。 先生は若き日の森田健作千葉県知事みたいにニコニコしながら、照射灯を当てて私の首筋を診てくれた。「心配しなくていいですよ。すぐに消毒に来ればよかったんですが、忙しかったんですか」 優しいものの言い方に私はホッとした。カルテに抗生物質や消毒効果のあるクリームの名前を書き込んでくれているとき、先生の机の上に小さな猫の粘土人形がおいてあるのに気がついた。「先生も猫がお好きですか」「うん、まあ特に猫好きって言うわけじゃないですが、この猫の置物は先月まで勤務していた女医さんが置いていってくれたんですよ。あなたは何匹飼っているんです?」 家に6匹、外に15~6匹。先生はとても楽しそうに笑い、「自分の面倒も見てくださいよ。このくらいなら抗生物質で散らせると思いますけどね」と言った。「先生、診察料をお支払いしたら、すぐに薬局に行って薬を買いますよ。おいくらでしょうか」「いえいえ、ここは国の機関ですから、料金はいただきません。何か問題があったらすぐに来てくださいね。遠慮は要りませんよ」 へえ~~~っ、ただ! と私は驚き、嬉しさいっぱいで先生に礼を述べて外に出た。ただで診て貰ったからではなく、猫の話を聞いてくれる先生だったからである。 抗生物質の大きな錠剤と、傷用クリーム両方で35TL(2,200円程度) 薬局で薬を買い、ジハンギルで幾つか撮影に関しての用事を済ませ、悪天候にもかかわらずそのあとまた幾つかの場所に出かけて行った。 身体はだるくて重かったが、訪問した先のさる軍事施設ではどの将校さんからもものすごく親切にして貰い、いい日だと思った。 しかし、家に戻ったら38度3分の熱、レイラのために昨日作っておいたコロッケを揚げたり、かねて煮ておいた海苔の佃煮などを出して、やっと夕食の支度をした。 それでも、こんな風に体調の悪いとき、1人ぽつねんと食べるより、一緒に食べる相手がいることは嬉しいことだった。 久々に作ったコロッケにレイラは大喜び 友人黒ネコさんが送ってくれたURLを見ると、私の罹った病気は「猫ひっかき病」であることもほぼ間違いないと思った。 猫を飼っている皆様、飼っていなくても、野良猫ちゃんを見るとすぐ撫でてしまう皆様、どうぞくれぐれもご注意を。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月29日
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【1月28日・木曜日】 夕べツアーから戻ったレイラが、またまたウムット・オジャックバシュでご馳走してくれるというので、出掛けていったが夕方からみぞれが降りだし、非常に寒くなった。 昼間、降らないうちに動いておいてよかった、と思いながらレイラに会いに行った。レイラは最初に私が連れて行ったこのオジャックバシュ(炉辺焼き)が大好きなのである。 8時半過ぎにみぞれの降り方はますますひどくなり、私はレイラに傘を持たせて自分はタクシーで戻ってきた。 連続ドラマ「ヤプラック・ドキュムュ」で、いよいよ悪女フェルフンデが逮捕されるクライマックスがあるのに、みぞれのせいで途中から映らなくなり、全部のチャンネルが消えてしまった。 仕方なくテレビは消して、日本のプロダクションに送るリポートや写真の整理に取り掛かった。 先方からの長い質問状にも返事を書き、送信するとまた12時近く。たまには早く寝ようと、パソコンを閉じようとしたら、ちょうどスクリーンセーバーの働きで、パソコン画面に懐かしいコンヤのメヴラーナ文化センターの写真が出てきた。 先月の17日に、セマーを見終わってショコラさん達と文化センターを後にしたとき、ふと振り返ると、夕霧の中、薄暮の空の下に幻想的な姿で浮かび上がる建物が見えたのである。急にコンヤが恋しくなった。 コンヤ訪問記で載せる機会がなかったので、ここでご覧いただきたい。 霧の中に浮かぶ幻想的なメヴラーナ文化センター 今日はこれから病院に行き、午後からやはりテレビ関係で動くことになる。今にも泣き出しそうな空模様が気になるところであるが・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月28日
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【1月27日・水曜日】 イスタンブール市民を震え上がらせた雪はどうやら止んで、凍結した道路での車や人の事故が増えている。台所にいるとき、タクタキ坂を見てみるとボール紙を敷いて滑っている子供達はいいとして、坂を下ってくる老夫婦が転ぶのが見えたりする。 出前の品を運ぶ食堂の従業員が転んで中味が散乱する、などという気の毒な光景も目撃してしまう。雪の禍はあとあと尾を引くようである。 私にも雪ではなく、ちょっと猫の禍があって、今日は午後から調査で出歩くので、明日にでも外科の医者に見て貰わなくてはならない傷がある。 パソコンを占領するミディエ。気まぐれでヒステリーで、ときどき急にグワッと噛み付いたり、引っ掻いたりする、怖~い猫 12月の末、私のパソコンの上を占領するミディエを抱え降ろそうとしたとき、引っ掻かれた首筋に深い爪のあとが残った。 最初はヒリヒリしていただけなのでそのうち治るとたかをくくっていたら、3~4週間も経とうとする今になって、周辺に腫れが出て、鈍痛が治まらないのである。 私の手足、肩、胸、いたるところにコンテスや歴代の猫の引っ掻き傷があって、もう何年もそれらはごく自然に治癒していた。 私の体内には猫の毒の免疫があると思い込んでいたので、引っかかれた傷に薬をつけたこともないが、ミディエの爪は深く刺さって、外でも駆けずり回る猫だけに、ばい菌がついていたらしい。 ここしばらく左首筋、肩など傷の周辺の痛みと、言いようのない不快感が続くので、さすがに心配になった。このまま我慢していてもっと悪くなっては困るので、明日はタキシム応急病院に診察を受けに行ってこようと決めた。 神様、どうぞ治してくださいませ。今度こそはちゃんと医者に行きますから。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月27日
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【1月26日・火曜日】 夕べ寝床に就いたのが1時。カーテンを持ち上げてベランダから覗くと雪が止んでいて、半月が西空に大きく傾いているのが見えた。 明日は晴れかな、ちょっと安堵しながら横になった。 そして今朝、雲もたくさん出てはいるが、とにかく日が射して寒さも緩んできた。外暮らしの猫達にも厳しい数日だったが、どうやら全員元気のようである。隣の家の庇から長いツララが下がっているのが見えた。 例年の光景、柿の木の枝に積もった雪 ツララはトルコ語でサチャックと言います。 坂上の方角。白い建物はオスマン朝時代のチェシュメ(泉亭) 少し青空も見えて穏やかな天気 昨日やりかけた掃除は、テレテレやっているので進まず、今朝風呂に入っている間に、テーブルに上げておいた書類の山を、これ、この通り3匹のバトルトライアルでやられてしまった。 どうしたら風呂に入っている間にこんなに散らかせるワケ? あああ・・・・・涙がいくらあっても足りはしない。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月26日
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【1月25日・月曜日】 チュクルジュマ通りの街灯 ツララがレースの縁取りのように まる3日半降り続ける雪は、坂道で滑るのを楽しむ子供達を喜ばせているが、猫達は餌を求めて裏庭を往来している。 特に、シェビィとアルスの母親ニケは、獣医は出産の際、避妊手術もほどこした、と言っていたのに、目下ハミレ(身重)で大きなお腹を抱えて雪の中でぼんやり座っていたりする。 今度はちゃんと自力で出産出来るのか心配になるが、また仏ごころを出して家の中に連れてきてしまいそうな自分を叱咤して、そうはならないよう気をつけているところである。 24日の猫達 雪の中、夕食に集まった猫達 ロクムと後は母猫ママ スイーツ3きょうだい マッシモがロックとビリーを威嚇している。 寒さに震えながら餌を待っているニケ 25日のタクタキ坂と猫達 タクタキ坂で滑って遊ぶ子供達 雪を掻いて新聞紙を敷いて食べさせる この子にも新聞紙を敷いて 真っ白なチュクルジュマ通りと階下のシモン少年madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月25日
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【1月24日・日曜日】 雪はうずたかく降り積もるわけでもなく、さりとて止むでもなく、日曜いっぱい降り続き、明日も雪の予報である。 レイラは先週の水曜日にツアーに出たが、飛行機やバスが予定通り動いていないかもしれないので、たいへんだろうな、と思う。まだ家で仕事をしている分には楽なものだ。 3匹の大人猫は静かなものだが、タマオとシェビィとアルスが思春期の真っ盛りとなり、この天気では去勢、避妊手術にも連れて行かれず、ものすごい勢いで家中を駆け回るのをどうにも止められない。 本棚、机の上、テレビの棚、台所の棚、とにかくものが乗っているところというところは、アルスの逃走路になり、ザザザーッ、ドスドスッ、バッサ~ン、物が落ちる音を聞かない時間帯はないくらい。 タマオは仕方ないにしても、ミニ猫シェビィまでそんな気になるなよ~ 毎日植木鉢をひっくり返す。とうとう観葉植物はオシャカに。 猫達が昼寝タイムに入るとホッとする。クライアントのプロダクションから、日曜日だというのにたくさんの質問事項が届いたので、午後3時過ぎからはその対応でまたまた寝たのが夜中の1時過ぎ。 朝食、夕食はお好み焼きで済ませてしまった。ちゃんとした食事を作るだけの余裕がなかった。サロンの半分は掃除が遣り掛けでそのままになっており、猫にとっては跳んだり撥ねたりする場所がなお沢山あって大喜びである。 先週19日(火曜日)にアジア側に渡った帰り、バルック・パザール(魚市場)で、内臓を抜いたハムシと魚卵を買ってきたので、ハムシは半分を刺身に、半分は三杯酢にし、魚卵はなすと甘辛仕立てで煮込んだ。 レイラが大喜びで、翌日の夜ツアーに出る前も食事に来た。残してあったハムシの中骨をカリカリに揚げておつまみにし、チキンのから揚げ、赤ピーマンのマリネなどで、レイラの無事の旅を祈った。 ハムシの刺身、奥は三杯酢、左は魚卵とナスの甘辛煮 チキンのから揚げ、骨煎餅、赤ピーマンのマリネ 骨煎餅を醤油とマヨネーズで味わう。ウマイッ あれから5日、レイラに電話してみたら、やっぱりこの悪天候で飛行機が欠航、帰宅が25日にずれ込むとのこと。25日からは休む暇もなく2泊3日の旅が待っているのだそうだ。 ご苦労さん。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月24日
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【1月23日・土曜日】 昨日の22日はまた朝から小雨模様だったが、昼から再び調査に出かけ、3ヵ所を訪問して必要な写真、アポイント、資料などを貰い集め、激しくなった雨の中を帰宅したのは夕方6時過ぎだった。 3軒目は地元のジハンギルでの調べものだったので、帰りにちょっと肉を買い、レイラがツアーに出ているので、お茶漬けでもいいのだが、やっぱり体力維持のためにきちんと食事の支度をした。 22日の夕食 肉じゃが、赤カブとマッシュルームのサラダ、手製海苔の佃煮 肉じゃがには緑豆春雨もたっぷりと入っている。 おそらくメールでリポートを書き終わるのが深夜になると思われた。ネットで調べて補足したりしながら、貰ってきた資料を日本語に直し、写真を添えて送信するのはけっこう時間のかかる仕事なのである。 0時45分、長時間かけて書き上げたメールがあと少し、というところで突然の停電、それまでに書いたもののすべてが消えてしまったのでがっくりしてしまった。 このところ私の住んでいる地区だけなのか、ほかもそうなのか、やたらに停電が多い。 暖房も消えてだんだん寒くなる中で起きていても仕方ないので寝床に潜り込んだ。窓の外に粉雪が散っているのが見えた。 リポートは、日本時間で午後一番の番組制作会議の開始に間に合わせなくてはならないので、時差を考えると朝になってからでは遅いのである。真っ暗なのに眠ってしまうわけには行かないのが辛いところだ。 電気が戻ってきたのは3時05分。私は眠気を振り払ってまたパソコンの前に座った。どうやら元通りに書き直し、総計数十枚の写真も添付して何通かに分けてやっと送信に漕ぎ付けたのが朝の6時過ぎ。何とか間に合った~。 さすがに疲れて、ふと娘の声が聞きたくなり電話してみると家にいて、向こうから掛けなおしてくれた。相撲やら猫やらのととりとめのない話で1時間あまり。その間にも雪は次第に積もる様子を見せてきた。「お母さん、いくら丈夫でもその歳で徹夜はやっぱり無理だよ。もう、あとはすぐに寝なさいね」とV子は私を気遣った。 娘と話し終わったあと、送ったメールに間違いはないか確認しようと、もう一度パソコンに向かったら、5分もしないうちになんとまたまた停電になってしまった! どうした、イスタンブール。2010年欧州文化首都が、こんなに停電していいのか! 今日はそういうわけで布団に潜り込むしかなく、昼過ぎに目覚めてからも電気は来ていたが私は働く気になれず、立ったり座ったりしているだけで、何もまとまったことは出来なかった。 何でもかんでも停電のせいにしてしまったが、実は何をか言わんや、これはやっぱり寄る年波のせいかも。 まあ、あの悪天候の中を方向違いの3つもの地区に出かけてうろつき、夜は徹夜でリポートを書き送る、なんて無茶をすれば、次の日すっきりとするわけもない、年寄りの冷や水もいいところだ、とつくづく思った。 タクタキ坂の雪の積もり具合 23日朝、タクタキ坂に降り出した雪 たった30分後には真っ白に チュクルジュマ通りの雪 滑りやすいチュクルジュマの坂道 あまりに滑るので止まってしまったタクシー ベランダのシクラメン ベランダからの眺め。シクラメンも凍えている。ケシケ、ベランダの壁際においてやればよかった・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月23日
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【1月22日・金曜日】 今週、月曜日から雨が降らなかったのはただの1日、昨日だけだった。天気の崩れないうちに動こうと、1周忌を迎えたジャックの思い出に浸る余裕もなく、昼少し前家を出た。 いま関わっているテレビ番組のために必要な数枚の写真を撮りに行くためだ。薄日が射してはいるが風が冷たいのでタクシーを頼んだ。 火曜日にカドゥキョイの帰りがけ、靴が滑って足首を捻ってしまったので、前日は大事をとって家から出なかったが、では掃除でもしよう、とすると停電になって掃除機が使えない。お湯も出ないのである。 先日の日曜はなんと長時間断水で掃除が出来なかったし、どうも私はその方面がついていないようだ。 用事を済ませたあと、友人のひとみさんと会い、朝のうちに頼んでおいて、焼きあがったばかりのシフォン・ケーキを受け取った。 先月、彼女にご馳走になったケーキがふかふかであまりにも美味しかったので、特にお願いしてお土産用に作って貰ったのである。 再びタクシーを頼み、ガラタ橋を渡って新市街テシヴィキエへと急いだ。しばらく会えなかった姫子さんを訪ねたのである。 すると嬉しいことに、「トルコにおける日本年」の行事で打ち合わせに来ていた若葉先生とも3年ぶりで会うことが出来た。 18年前に知り合った若葉先生は長年日本語教育に貢献し、姫子さんは通訳やコーディネーターとして活躍、私がまだおぼつかないトルコ語でやっと和食レストランを開いた頃から、ずっと応援してくれた人達である。 ひとみさんの焼いたケーキは私達3人をこの上もなく喜ばせた。姫子さんに紅茶を入れて貰い、最高のティータイムを過ごした。 オレンジの皮やレモンの汁が入った香り高いケーキ 日本年の行事で折り紙の展示会、実演などがあるらしく、2人がいろいろレパートリーを増やそうと奮闘していた。 私も折鶴しか折れないのだが、1つだけ取って置きのテクニックがあったので、それを2人に伝えるために折り紙を手に取った。 十何年も前に、レストランでウエイトレスを務めてくれた日本の娘さんに教わったもので、12枚の正方形のパーツを組み合わせてキューブ状の手鞠を作るのである。 和紙で作った手鞠と折鶴 和紙でなくても、多少厚手のカラフルな紙があれば大小いろいろ作れるのだが、12枚を所定の形に折り、それを嵌め込んでいくときが難しい。 しかしながら、このところの多忙な日々の中で、思いがけなく楽しいひとときだった。ひとみさんのケーキはそれにしても美味しくて、私は料理が好きなのに、そういうものを作ったことがなく、自分にはテンから出来ないのだ、と決めているフシがある。 ひとみさんに弟子入りしたいものだ、私にも出来るようであれば・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月22日
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【1月21日・木曜日】 2007年9月5日、樹木をつたって無人のビルの屋上に上り、降りられなくなったマッシモの救出に励んでいたとき、おなかを空かしたよちよち歩きの赤ん坊猫を拾った。 まだ手の平に乗るようなチビだったその猫をジャックと名づけ、近所の子供達の懇願もあって、大きくなるまで家で育てることにしたが、ジャックはろくに吸えなかった母猫の乳房を慕ったのか、1日に何度も私の肩に飛びつき、左の耳にチュッチュと吸い付くようになった。 おととしの3月裏庭に出した直後に、悪鬼のような何者かに、おそらく棒で腰を叩かれそのあと踏み潰されて骨盤がバラバラになり、両足が外れてしまうという重傷を負わされたのだった。 多分、隣家の塀の穴から、内側に捨てられていたダンボールの中に這って逃げ込み、一緒に育ったグミちゃんが暖め続けてくれていたお陰で、2日後、私が発見したときにはまだ息があった。 急遽オルタキョイに持ち込み、オズギュル先生の4時間に渡る大手術のお陰でジャックは奇跡的に蘇生し、両足も繋がったのである。 連日見舞いに通った私の耳に、檻の中から吸い付く、退院間近のジャック 1ヵ月近い入院闘病生活の末、歩けるようになってわが家に帰ってきたのに、その年、2008年の暮れには廊下に脱走したところをカプジュに捕まって捨てられ、1週間後に痩せこけよれよれになっていずこからともなく帰ってきた。 またまたオルタキョイの動物診療所へ、点滴を受けたり栄養剤を注射して貰うために連日通ってどうやら回復したのだが、それからいくばくもなく、2009年1月21日の夕方、私が台所に立っている間に、ベランダから転落してあえなく流れ星になってしまったのだった。 そして1年、ジャックに似たタマオの目を見るたびに、切ない思いになるのだが、ちょうどいい具合にこのところ、やることが多すぎて感傷に浸っている暇がない。 あんなにいい子だったのだからきっと神様に召されて、ほかにも流れ星になったたくさんの猫達と天国で仲良く暮らしているだろう。 アントン、コマちゃん、アトムも追いかけていったことだし・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月21日
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【1月20日・水曜日】 ちょうど1週間前の14日夕方、イスタンブールのさる国際コングレス会場で、長年伝統芸能に貢献してきた7人のウスタ(職人・師匠)が、UNESCO人間国宝に認定されたことを記念し、その表彰式が行われた。 キュタヒヤの陶芸家ストゥク・ウスタもその1人として、晴れの舞台に私を招待してくれた。 私はコンヤで手に入れた気に入りの赤いフェルトの帽子を被って出かけていった。 入り口でコートと帽子をクロークに預け、プログラムを貰って会場に入ると、テレビ局のカメラが放列を敷く、というほどではないが何台も並んでいた。 端のほうの席に座ってプログラムを開くと、カラギョズの影絵を操るウスタが3人、サズを奏でながら諸国を回り、伝説や叙事詩を語る吟遊詩人、松の枝を細工した細い笛を吹く吟遊詩人が各1人、陶芸家が1人、そしてコンヤから「ケチェジ・メフメット」というニックネームで知られたフェルト職人、メフメットさんも選ばれているのがわかった。 各人間国宝の表彰の前に7~8分にまとめられた紹介フィルムがあり、影絵のウスタから順に会場の招待客達に紹介された。 ストゥク・ウスタは4人目、メフメットさんはその次に表彰された。 陶芸家ストゥク・ウスタ(上段)とフェルト製作者メフメット・ウスタ(下段) 人間国宝勢揃い。文化観光省の人達も一緒に。 全部の表彰が終わると、全員揃っての記念撮影タイムがあり、そのあとはカクテル・パーティになる。 私はストゥク・ウスタと記念撮影したあと、メフメットさんにお祝いを述べに行った。メフメットさんのアトリエでは、メヴラーナのセマーゼン達の植木鉢を長くしたような帽子(スィッケ)を一手に作っている。 ストゥク・ウスタと私 メフメット・ウスタと私 帽子と共布の花のアクセサリー 1メートル90センチはあろうかという長身のメフメットさんは、2003年にコンヤのその店に取材に訪れたとき、海外に出ていて留守だったのを皮切りに、4~5回訪れているのにいつも店にいなかった。 年間に約3ヵ月ほど、海外の国々へフェルトの製造技術を指導に行っているのだそうである。 私が2009年のメヴラーナ祭典に訪れたときも、彼は不在で、奥さんが1人で店を切り盛りしていた。 挨拶をしたあと、私がクロークから帽子を受け取りそれを被って戻ると、メフメットさんはたいそう喜んで、フェルトの切れ端で作ったアクセサリーをプレゼントしてくれた。 去年の後半、イスタンブールにも支店を開き、コンヤのアトリエと同じ規模で製作を始めたという。 月曜日の夕方、県庁などの用事を済ませたあと、私はスルタンアフメットの少し先のほうにあるクチュック・アヤ・ソフィア・モスクの向かい側にあるアトリエを訪れた。 するとたまたまコンヤから手伝いに来ていた奥さんとも再会することが出来た。今月末にはストゥク・ウスタがまたイスタンブールにやってくるので、このメフメットさんのアトリエに連れてきてあげようと思った。 メフメット・ウスタとシルビアさん ストゥク・ウスタは夏以外は常にワイシャツの上に茶色のフェルト製のチョッキを着ていて、人間国宝の表彰式ですらチョッキ姿だった。 キリギスあたりに注文している特別品らしいが、今後はコンヤのフェルト・チョッキをお勧めしようかと思うのである。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月20日
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【1月19日・火曜日】 いま、日本からテレビの仕事が1つ入っているので、出歩いたり電話を掛けまくって事前調査の真っ最中である。ブログが更新できなかったのは、多忙のせいではなく、この2~3日何度も停電してしまったせい。 月曜日はあいにくの悪天候だったがグランド・バザールや県庁やらに用事があって出かけ、途中エミニョニュで長らくスペアを切らしてしまっていた、掃除機の紙製ゴミ袋を買った。 家に戻って掃除機を開いてみると、いつもゴミ袋の口が、掃除機の口と合っていないので、ゴミ袋はぺちゃんこで、その周囲に山のように汚い綿ごみが張り付いている。 掃除機の機種に合う純正品を買ってきたので、今度こそぴったり行くかな、と思って合わせてみるとやっぱり合わないので、はさみを持ち出し、袋の口の丈夫なボール紙の縁を切り落とし、何度も切り切りやっと取り付けることが出来た。 ところが、掃除機のホースの差込口と袋の丸い穴がやっぱり一致していないのだ。では掃除するとまた同じように袋の外にごみが溜まることになる。 何でこんな厄介なものを、純正品として売っているのか、理解に苦しんだ。 2002年に日本から戻ってきたとき、掃除機もすっかり小型軽量になっているのを知り、こちらで家電の店を覗いてみると、日本のものと似たようなのがあったので、思い切って買い換えた。 小さくても強力な吸引力で、誰よりもお掃除のギュレルさんが大喜びだった。今までのは持ち上げるにも重たいデカ物だったのである。 サービスについてきた3枚のゴミ袋を使い切り、たまたまエミニョニュあたりで袋を買って取り付けようとしたら、機種は合っているのに、取り付けのボール紙部分が入らないので、仕方なくはさみで切った。 分厚く丈夫なボール紙は切るのに骨が折れて、けっこうやっかいな作業となった。私はそれがため、掃除機を使うのが何となく億劫で、しばらくはギュレルさんとか、カプジュの妻のZとか、毎週掃除に来る人に任せ切りで、ただ1つ、袋を取り替えるときだけ私がいちいち切って渡すのだった。 彼女達もこんな面倒くさい作業は嫌がるからである。7年過ぎた。去年の5月入居した上の階の掃除機の音が、夜中の1時でも唸りだすことがあって、掃除好きはいいけど時間を考えてよね、と口の中でつぶやきながら我慢している日が多くなった。 この秋、もうごみ袋が最後になっていたのに、ついつい買うのを忘れ、ずっと箒で掃除していたが、猫達が余りに毎日植木鉢をひっくり返すので、とうとう掃除機を使うことにしたのである。 久しぶりに買ってきたごみ袋も合わないとなると、これはまた掃除が億劫になりそうだなあ、と悪い予感を覚えつつ、どうしたら合うのか、何気なくもう1枚の袋を取り出した。 ボール紙部分を切ったものと並べてよくよく見ると、私がいつも切るのと反対方向はもともとボール紙の幅が狭く出来ている。 厚いボール紙をいちいち切って嵌め込んでいた。 (ボール紙の幅にご注目) 7年ぶりに正しい方向を向けて掃除機に取り付けたところ。 何気なくそちらから取り付けてみたら、するっと収まり、蓋をしてみると袋の穴と掃除機のホースを繋ぐ穴がぴぃ~~~~~ったり合っているではないか。 要するに、説明するのも憚り多い、おばかな私の思い違いだったのである。それも7年もの長きに渡り・・・・ で、今朝は早めに掃除を始めようと思ったらいきなり停電。本日はアジア側にわたって調査する件があるので、掃除はまたまた後回しとなった。 実はこれを書いているのが21日朝。アジア側に渡った19日は雨がみぞれや吹雪に変わり、苦労してしまった。 そのあと連日、掃除しよう、と思い立つと停電し、掃除機はいまだに全然ごみを吸えずにおなかを空かしている。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月19日
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【1月18日・月曜日】 6日間は長いと思っていたのに、たちまち最後の日になってしまった。私は旅に出ている間はたいへん身じまいがよく、5分か10分あれば帰り支度完了というくらい、いつも荷物がまとまっていた。 今回もさっさと荷造りして最後の日に出会うことになっている人々に電話した。ユジェル君は土曜日から、ウルグン郡の温泉に出かけ、昼に戻ってくるというので最後の昼食を例の「メヴレヴィー・ソフラス」で一緒に食べることにした。 11時少し前、アヌ・ホテルの泊り客で画家のニルギュンさんと、ケチェ(フェルト)の店に行ったことは、12月28日付のブログで書いたとおり。 12時半頃、ユジェル君と出会って6日のうちに4回も通ったレストランに行くと、もう上得意さんにでもなったかのように、ガルソン達が下へも置かぬ扱い。最後だからとやっぱりコンヤ・エトゥリ・エクメッキを注文した。 ディシュ・キラスも貰って大満足 食後、ユジェル君とは一旦別れ、ホテルに戻った。コンヤ在住の作家、メラーハット・ウルクメズ女史とは、午後2時から30分、コンヤ・日本文化センターのメフメット・アリさんとは2時半から30分の約束で、アヌ・ホテルで会うことになっていたのである。 3時半にはエルドアン博士に別れを告げにキリム問屋カラヴァンに行き、そこで再びユジェル君と合流して、またホテルに戻った。 ちょうどこの外出した間にヌレッティン先生がお別れに来てくれたのだそうだが、あいにく会うことが出来なかった。 いつも来た日にイスタンブールへの土産を買っておく私だが、今回はあまりに会う人が多すぎて、土産が最後の最後になった。土産を買っていたので、ヌ先生の顔を見逃してしまったのである。電話で別れを告げ、再会を約束した。 さて、4時半にはもう1人のメフメット・アリさん、つまりケリメのお父さんの家に顔を出すことにしたので、メフメット・アリさんとエミネさんはホテルから私とユジェル君をピックアップしてくれた。 荷物も積み込み、前回7月にはコンテスの負傷で慌ててイスタンブールに戻ったので、顔出しが出来なかったことを詫びると、エミネさんが、「なんのなんの。その分、今日は2倍嬉しいですよ」と言うのだった。 エミネさんは3ヵ月ほど前に、急に持ち込まれた食堂開業ばなしが順調に行って、アラーエッディンの丘に近い、「コンヤ銀座」のザッフェルという地区で、小さなボレッキ屋を開いたのだそうだ。彼女の焼いたボレッキの美味しさは格別だとユジェル君に言うと、彼も友人を誘って近々行くと約束していた。 コンヤではもう古い付き合いになったケリメの両親も、ほんとうに私を大事にしてくれる一家なので、私もまったく気兼ねなしに、いつも最後に訪ねる。よその家に泊まるのは気を使うので苦手な私も、2度くらい泊めて貰ったこともあった。 エミネさんとメフメット・アリさんは以前にもユジェル君に出会っていて、彼をたいそう好感の持てる青年だと気に入っていた。息子のハッサンさんや婿のオルハン君とユジェル君も、若者同士でたちまち打ち解けた。 女性陣:手前からエミネさん、そのお母さん、ハッサンの妻エリフ、アリ坊や、私とエミネ・スちゃん、ケリメ 手前からハッサンさん、ユジェル君、お父さん、オルハン君 左:ケリメ 右:兄嫁のエリフ (1月1日の予定が12月29日に男子を出産した。) 左:エミネさんとアリ坊や 右:アリ坊やとエミネ・スちゃん(いとこ同士)「キャーセ・ハヌム、お話が急だったんで夕飯を作るのが間に合わなくて、近くの食堂にコンヤ・エトゥリ・エクメッキを頼みましたから、それを食べて行ってください。5時の約束でもう出来ているというんで、いま私が取りに行ってきますから」 ウッシッシ、また! メフメット・アリさんが立ち上がった。 かくて夕飯にもコンヤ・エトゥリ・エクメッキをご馳走になり、7時少し過ぎにはせかせかとメフメット・アリさん宅を後にした。 可愛いエミネ・スちゃんも祖母に抱かれて一緒に来たが、イスタンブールからの飛行機が一向に来る気配がないので、私はメフメット・アリさん夫妻やユジェル君に帰って貰った。 そして飛行機が1時間半も遅れて離陸、コンヤは満天の星空だったのに、イスタンブール、サビハ・ギョクチェン空港に降り立ったら嵐のような吹き降りだったのである。 0時発のシャトルバスに乗って家に帰り着いたらもう日付が変わってしまって、21日の朝1時半になっていた。 1ヵ月遅れのコンヤ訪問記、やっとここで完結です。コンヤの皆様、いろいろありがとうございました。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月18日
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【1月17日・日曜日】 12月19日夕方5時、ホテルの前に白い車に乗ったポストニシン様が迎えに来て、私はファフリさん一家の客となった。 7月に訪問したときと違って、ファフリさんの一家は街中の冬用の家に暮らしている。夏の別荘はあんずの実がたわわに実った広い庭園のある一軒家だったが、冬の家は10階建て、1階に4軒が入居している広いマンションの5階にあった。 入り口にファフリさん一家が勢揃いして出迎えてくれた。最後尾に初対面のもう1人のおばあちゃんがいた。奥さんのミヤセさんの母親ベシレさんだった。 程なくミヤセさんの妹キャズミエさんと夫君アフメットさん、息子のフィクレット君、娘のベシレちゃんが到着した。夏はあんず屋敷を訪ねた後、このキャズミエさん宅で子羊の煮込みをご馳走になったのだった。 メンバーが揃ったところで、私はファフリさん宅へのお土産を取り出した。折り紙はベシレちゃんに、クッキー類は男の子達に、そして最後にちょっともったいをつけて私は40センチ×30センチほどの額縁に入ったA4版大の写真を袋から出して手渡した。「由美子ハヌム、いやー、これは・・・・」 ファフリさんは絶句した。 それは22年前の1987年、日本を訪問したコンヤのセマーゼン達の、舞台上に並んだ記念写真の複製で、その中にファフリさんの父、メフメットさんもいる筈なのである。コンヤで写真を拡大し、額縁に入れて貰っておいたのだった。 「由美子ハヌム、ご覧下さい。これが父です」 ファフリさんはちょっと涙ぐみながら白い口髭をたくわえた上品な顔立ちのやせぎすなセマーゼンの1人を指差した。 「当時のポストニシンは、真ん中のセルマン・デデというお方です。そしてここにいる人が私の先輩のポストニシン、ムスタファ・ホラットさん、まだお若いですね。それから右端のこの人はフュセイン・トプ氏、お名前をご存知かと思いますが、現在はメヴラーナ研究家として有名な方ですよ」 一人ひとりを私に説明しながらファフリさんが感慨深げに言った。 「22年は長い年月です。この中の半分以上の方々が既に鬼籍に入っておられます・・・」 母のナズミエさんも一緒に覗き込んで目頭を押さえた。 この家族にとって初めて見た、東京公演での集合写真のプレゼントは、思ったとおり、たいそう喜んで貰えた。ファフリさんは居間のみんなが見える場所に明日にでも掲げたい、と嬉しそうに言った。 ほどなくミヤセさんと娘のナズミエさんが準備した料理が出来上がり、私達は揃って食堂のテーブルに着いた。来客があると小さな子供は床の上にシートを広げて食べる。 メインディッシュは私の大好物だということで、再びクズ(子羊)の肉。ナスを大量に柔らかく煮込んだ上に、これも時間をかけて煮込んだ肉をのせ、オーブンで一緒に焼き上げたものである。味が濃いのでパンと一緒に食べる。 左から奥さんの母ベシレさん、母ナズミエさん、ファフリさん 左からファフリさん、妻のミヤセさん、娘のナズミエさん、甥のフィクレット君 左からキャズミエさん、私、アフメットさん、ミタット君、ベシレさん 左からベシレちゃん、メフメット君 コンヤの郷土料理「パトルジャン・オルタ」 ほうれん草入りのボレッキ そのあと、分厚いボレッキ。デザートの果物の盛り合わせときたら、1人分がりんご1個、オレンジ1個、バナナ1本、葡萄1房。果物ナイフとともに渡される。いくらなんでも多すぎ・・・ 私は日本人としては年齢の割りに胃袋健啖なのだが、それでもトルコ人の食べる量からするとひどく少食に見られる。さすがに果物には全然手も出せず辞退した。 ファフリさんも長身でたくましい体格だが、メヴレヴィー(かつての教団の教えを守っている人)なので、トルコ人としては少食の部類に入るだろう。 再び居間に移り、女性達が片付けとお茶の準備をしている間に、私はベシレちゃんとの約束で折り紙を教えることになった。 ベシレちゃんに説明しながら1羽完成させると、見ていたファフリさんが千代紙に手を伸ばした。「どれ、私にも教えていただけますか?」と。 かくて私が、「ポストニシンさま~」と押しかけファンにならなかったら、生涯あり得なかったであろう、「折鶴を折るポストニシン」の出現となった。 はい、まずは紙を三角に折りましょうね。 次にもう一度三角に~。 それを四角に折りなおしま~す。 じゃあ、この続きはベシレちゃんがやってね。 はい、そこで頭と尾の部分を反対に折り曲げま~す。 羽をゆっくりと広げてくださいね~。 さあ~、これで完成かな? 私達のショールも出来上がったわよ~。 ところがファフリさんは非常に熱心で、一度教わりながら完成させるとあとあと続け、3つ目になるともう全然迷わずに仕上げることが出来た。 ベシレちゃんもじきに覚え、「由美子テイゼ(おばさん)、もっと違うものも教えて!」と言った。 ところがあいにく寄る年波には勝てず、私は折鶴以外には何も思い出せなかった。 「これこれ、ベシレ、お客様をくたびれさせてはいかん」と父親のアフメットさんが言ってくれたので助かった。 そこにナズミエ嬢のいれたお茶も出てきて、女性達はお茶を飲みながらもせっせと編み針を動かしている。 ほらほら、私のも出来たわよ~! 皆さん、ご苦労様。チャイにしましょうねえ。 アフメットさん、 その息子フィクレット君、 ファフリさんの長男ミタット君と祖母ナズミエさん ミヤセ夫人とナズミエ嬢 右はセマーに行ったメフメット君(画像は7月撮影のもの) 典型的なトルコの地方都市に暮らす中産階級の仲のいい家族・親戚同士。人々はあくまでも寛容で、隣人や来客を大切にする。 コンヤに来ると身体は忙しいのだが、気分は非常にリラックスできる理由がわかった。 先ごろ翻訳したメヴラーナ語録の、息子への忠言、まさにそれであろう。メヴラーナの、息子への忠言“バハーエッディン! もしもそなたが常に天国にいたいと思うなら、すべての人と良い友になれ、誰一人にも悪意を抱いてはならぬ。過ぎたことを望むな、そして誰に対しても過ぎたことをしてはならぬ。膏薬か、ろうそくのようになれ、針の如くあってはならぬ。もしもそなたが、誰一人からも悪さをされたくなかったら、悪いことを言う人間、悪いことを教える人間、悪いことを考える人間にはなるな。なぜなら、誰かをいい友として思い出すなら、そなたは常に喜びの中で生きられるだろう。そしてその喜びこそ、そなたの天国そのものである。もしも、誰かを仇のように思い出すなら、そなたは常に悲しみの中で生きなければならぬ。そしてこの嘆きこそ、そなたの地獄そのものである。良い友達を思い出すとき、そなたの心の苑に花々や、バラや香草が満ち満ちるであろう。仇を思い出すとき、そなたの心にはとげや蛇が溢れ、心はすくみ、胸に惨めな思いが湧くであろう。すべての預言者達そして聖人達はこのように心がけてきたのだ。あの方々は心の中の人格が外に現われたにほかならぬ。民びとはあの方々の、素晴らしい心栄えにひれ伏して虜となり、すべての人々が歓喜の心であの方々の信徒、門弟となったのだよ。 (アフメッド・エフラーキー著「聖者列伝2」より) 語られた日から今日まで700年あまりのときが過ぎていても、この忠言はいまだに私達すべてに通じるものであろう。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月17日
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【1月16日・土曜日】 736回目のシェビィ・アルース(メヴラーナの命日の祭典)は、17日の夜フィナーレを迎え、前年に引き続き新旧2人のポストニシンが一緒に登場、私はホテルの部屋で、画面がときどき斜めに流れる古いテレビを騙し騙し観賞したのだった。 18日の朝は、友人のメフタップさんの家でブランチをする約束だった。朝10時、ショコラさんやミントさんも一緒に、迎えに来てくれたメフタップさんの頼んだタクシーで彼女の家に行った。 早朝からボレッキ(パイ)やヤプラック・サルマス(ピラフを葡萄の葉で巻いて煮たもの)やパウンド・ケーキを用意してくれたとのこと。 隣のメレッキさんも手伝ってくれたのだそうで、私達は心づくしをたいそう美味しく賞味させて貰った。 メフタップさん(左の縞模様のセーター)と隣家のメレッキさん 焼いてくれたケーキと心のこもったご馳走 食後のチャイを飲んでいるところに、ポストニシンのファフリさんから電話がかかってきた。私が友人のメフタップさん宅で朝食をご馳走になったところです、と言うと、ファフリさんは笑顔らしい声で提案した。「アーフィエット・オルスン! よろしければイスタンブールから来られたお友達もご一緒に、そのあと私どもにいらっしゃいませんか。そちらへお迎えに上がりますが・・・」「たいへんありがたいお言葉ですが、友人達は今夜、イスタンブールに戻らなければなりませんので、カラタイなど、博物館を案内する予定にしております」「そうですか。それでは無理は言わないようにいたしましょう。メフタップ・ハヌムにも、イスタンブールのお友達にもよろしくお伝えください。また別な機会に、お揃いで私どもにお出かけください。家内からもよろしく申しておりますよ。由美子ハヌム、明日また電話をいたします」 メフタップさんがトラムワイの駅まで送ってきてくれた。乗車券を買ってくれようとしたが、売り場には2枚しか残っておらず、職員がこれから隣の駅に取りに行ってくるという。 出た! これぞ、無くなってから初めて補給しなくては、と気づくトルコ流。 すると脇に立っていた5年生か6年生(トルコでは中1)くらいの少年が、これを聞いて、「僕の乗車カードを押してあげますから大丈夫ですよ」とメフタップさんに言った。 メフタップさんが喜んで1枚分の料金を渡そうとすると、彼はチッと舌打ち(ノーの表示)して受け取らなかった。お陰で3人揃ってトラムワイに乗ることが出来た。 降りる少し前に私は、手提げの中にチョコレートがあるのを思い出し彼に差し出した。「あなたのしてくれた善行へのお礼だからこれは受け取ってね」と言うと、お金では受け取らなかった少年もにっこりして受け取った。 ショコラさんもミントさんも感心し、「日本だったら、切符のない人の分を払ってあげる、なんて子供がいるかしら」「やっぱり、トルコはこういうところがいいのよね~」としきりに褒めちぎった。 この少年の好意に、気分よく目的のカラタイ博物館に行くことが出来た。 セルジューク時代の神学校だった博物館には、主にベイシェヒール湖のほとりにあった、クバドアバド宮殿の壁の装飾に使われていた絵柄タイルが展示されている。 タイルに描かれた蟇目鉤鼻、下膨れの女性の顔立ちは、高松塚古墳や源氏物語絵巻に見られる日本の古い女性像と似通っている。現代のトルコ人とはまったく違う中央アジアの顔である。 外:カラタイ博物館の正門のムカルナス(鍾乳石飾り) 内部:青緑系統のタイルに覆われた丸天井 タイルに描かれた女人像。 彩色された女人像(部分) 棟方志功画伯の描く豊満な美女を髣髴させる。 次にアラーエッディンの丘に登り、セルジュク王朝時代の城壁の名残や、アラーエッディン・ジャーミイ(モスク)を見たあと、インジェ・ミナーレ博物館にと移動した。 小雨がぱらついて寒い日だったが、カラタイ博物館もインジェ・ミナーレ博物館も、アラーエッディンの丘の周辺にあって徒歩で回れる範囲なので、あまり濡れずに済んだ。 夕方はショコラさんとミントさんがイスタンブールに戻るため、ホテルに近い小さなロカンタで早めの夕食を済ませた。 2人は最後に「何から何までお世話になって、お礼のしようがありませんので、これはどうか、猫ちゃんのお役に立ててください」と私に過分なものを包んでくれた。 ありがたく頂戴し、ホテルに戻って荷物を受け取り、6時半過ぎアブデュラーさんのタクシーを呼んだ。私も空港まで見送りのためにお供した。 2人を見送ったあと、私はそのままアブデュラーさん宅に連れて行って貰った。その晩は北風が強く吹き、まだ薪や石炭を焚く人々が多いコンヤのスモッグを吹き払い、丘の上にあるアブデュラーさんの家の窓からは、きらきらと輝く夜のコンヤが足元に見えた。 アブデュラーさん一家のみんなが泊まっていけと勧めてくれたが、泊まる支度をしてきていないので、私は無理を言って真夜中にアブデュラーさんにホテルまで送って貰い、コンヤでの4日目が終わった。 19日は土曜日である。晴れて暖かだった。ホテルの泊り客はほとんどが18日でチェックアウトしてしまい、朝食に出ていたスープもソーセージもその日を最後に姿を消した。 軽くキュウリ・トマト、ゆで卵を食べて、紗希子さんと昼食を食べる約束のババジャン食堂のコンヤ・エトゥリ・エクメッキに備えた。 この日はエルドアン博士、ヌレッティン先生、紗希子さんと11時にホテルで出会った。ヌ先生は若い頃一時期エルドアン博士のアシスタントをしていた時代があったという。 長らく会っていなかったという2人は、相まみえるとたちまち昔に帰って話に熱中し、私はお陰で紗希子さんとじっくり話すことが出来た。 12時過ぎにエルドアン博士が帰ったあと、ヌ先生と紗希子さんと3人で昼を食べに出た。入り組んだチャルシュ(商店街)の中ほどにあるババジャン食堂は、もともとヌ先生に連れて行って貰った店である。 先生は元新聞記者で考古学者、民俗学者、メヴラーナ研究家であるが、雑学の大家でもあり、世間の話題もこれ知らぬものはないというくらい博識の人である。 私にとって先生と名のつく人で、大事でない人は1人もいないが、晩年になってからまだ器量不足の身で、メヴラーナ本の翻訳という仕事に挑戦出来たのも、ヌ先生のお陰だった。 紗希子さんとも7月以来なので、話が弾んだ。胸襟を開いて語り合うことの出来る人々がたくさんいるコンヤは、やっぱり自分にとって格別な町である。 昼は紗希子さんにご馳走になり、私は彼女と別れたあとホテルに引き返した。 ファフリさん宅の訪問は、夕方好きな時刻に電話すれば迎えに来てくれることになっている。今回は出発前に余裕がなくて、ギュッルオールのバクラバを買うどころではなく、訪問先への土産はコンヤに来てから拵えた。 ただ1つ、かねてから準備していたファフリさん一家への土産があった。これも仕上げはコンヤに来てから完成させたのだった。それはファフリさんにとって予期せぬサプライズになるはず、バクラバみたいにどこにでもあるという品ではなかった。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月16日
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【1月15日・金曜日】 次の朝(2009年12月17日)は祈りが通じたか好天で、9時過ぎ、ショコラさんから部屋にいる私に電話がかかってきた。 無事到着、地下1階の朝食サロンでお待ちしてます、というので、私もすぐに降りて行き、初対面のミントさんに紹介して貰った。 この時期いつもうろついている私はともかく、突然日本人の気品ある淑女2人が登場したので、ほぼ満員の朝食サロンの目がこちらに集まった。 アヌ・ホテルの朝食はまあ、月並みなのだが、まかないのヌルさんが作るヌードル入りのエゾ・ゲリン・チョルバスというスープがとろりとしていて美味しく、2人もご満悦でまずは私も安堵した。 メヴラーナの命日を記念するシェビィ・アルースは、2009年で736回目となる。トルコが共和国になったあとの一時期、うぞうむぞうの宗教団体が解散させられたあおりで、メヴラーナを始祖とするメヴレヴィー教団も解散の憂き目に遭ったが、その後重要文化財として国の保護下に入り、今日の隆盛を見ている。 ショコラさんもミントさんもコンヤには初めてなので、午後セマーの儀式を見たあと、メヴラーナ博物館、翌日にはカラタイ博物館、アラーエッディン・モスク、インジェ・ミナーレ博物館などを私が案内する約束だった。 小春日和と言ってもいいくらいの陽気に恵まれ、私達は街に出た。 東にあるアラーエッディンの丘と西のメヴラーナ博物館を結ぶ大通り沿いには県庁もあるが、その付近はイスタンブールのスルタンアフメットと同じように旧市街ともいえる一画で、チャルシュ(商店街)は入り組んだ小路に小売店が軒を連ね常に賑わっている。 しかし、大コンヤ市の中心は確実に北部に移動している。イスタンブールのように起伏の激しい地形ではなく、トルコ語で言う「デュンデュズ(真っ平ら)」で、とてつもない広さの大平原、それを大きなお盆のように周囲を小高い山々が取り囲んでいる、というところなのである。市の北部の、ただの荒地だったところに、高層マンションが林立、開発・近代化が猛スピードで進行している。 私達は旧市街、メヴラーナ大通り沿いの店々のウィンドーを覗きながら歩き、エルドアン・エロル博士との待ち合わせ場所にもしているキリム問屋カラヴァンの前に差し掛かった。 ちょうど博士も、タクシーのアブデュラーさんもそこにいたので寄り込み、社長のアスムさんとも談笑、そのあとキリムを見せて貰って目を肥やし、2人もぜひ食べたかったというコンヤ・エトゥリ・エクメッキをご馳走になった。 ラッキー! どこから取り寄せるのか、とびきり美味しいコンヤ・エトゥリ・エクメッキ。(失礼、美女2人にマスクをかけてしまったので食べられませんね) やがて時刻は午後1時を回り、腹ごなしに歩いてセマーの会場に行った。男女別々にセキュリティ・ゲートを通す、というのが分からない。銭湯じゃあるまいし、中に入ればどうせ一緒になるのに、しかも昼間は女性の数が圧倒的に多いので片方は押すな押すなで揉み合っているのに、もう一方の男性側はめったに通る人もいないので、ガードマンが暇そうだ。「これでは列の後ろのほうは開幕時間になっても入れない人が続出しますよ。私達はこちらのゲートをくぐります」と職員に言って幾人かが男性用をくぐった。私達もそれに続いて男性用から・・・でも、どこが違うんじゃい。 毎年毎回、このセキュリティ・ゲートから入場するにはひと悶着あるのだった。 2009年は12月7日からメヴラーナ週間が始まったが、セマー会場のメヴラーナ文化センターが完成した2003年以降6年間は、12月1日から17日のフィナーレまで毎日公開されてきた。しかし期間が長すぎて観客が動員できず短縮されたのだそうだ。 予約したとき、こちらから円形の観客席の場所を指定したので、いつものように楽団を正面に見、ポストニシン様が座る後ろ側にあたるブロックだった。 開幕の少し前に席に着き、両脇の2人にセマーやその前の独唱、ネイ(葦笛)独奏について簡単に説明し、場内が暗くなり、いよいよ式典が始まった。 学者がメヴラーナについて一くさり語ったあと、例年通りメヴラーナ歌手といわれるアフメット・オズハンのコンサートがあり、最後に厳粛な雰囲気のうちにセマーが始まった。 赤い毛皮(メヴラーナの地位を象徴する)を抱えて若い修行者が指定の位置におき、セマーゼンが7~8人入場、最後にポストニシン様が登場する。 赤い毛皮が運ばれ、うやうやしく中央に置かれる。静々とポストニシン様が登場する。 無限の天空・星空を表す天井 そしてポストニシン様が着座する 神と預言者ムハンメッドとメヴラーナを讃える歌を独唱するアリ・カライジャさんの、耳や胸のみならず血管にまで浸み込んでくるような美声、ネイのものぐるおしい悲壮な音色、そして10人ほどで3回繰り返されるスルタン・ヴェレドの旋回。 厳粛な雰囲気の中、スルタン・ヴェレドの旋回、といわれる儀式。 やがて20人ほどのセマーゼンがさらに加わり、あの限りなく神秘的な旋回舞踏が楽にのって4節に分けて繰り返された。 黒衣を脱ぎ捨て、舞踏を始めるためにポストニシンの許しを得るところ 全員揃って回り始めたセマーゼン達 セマーの終盤、4回目の旋回ではポストニシン、セマーゼン・バシュも懐を広げ、一緒に回りつつセマーゼン達のために神の加護を願う ショコラさんもミントさんもデジカメを動画モードにして追い続ける。2人にとって初めて見るセマーは大きな感動だったようである。 興奮が覚めやらぬうちに、私達はメヴラーナ博物館に向かった。途中のインフォメーションに立ち寄り、日本語版のパンフレット類やCDを貰った。 ユジェル君はまた別な国のVIPの案内に出ているとのことで2人に紹介することは出来なかった。 メヴラーナ博物館では期間中入場無料の大盤振る舞い、私達はショールやスカーフを被って中に入り、メヴラーナに祈りを捧げた。 聞きかじりの知識で2人に大まかに説明し外に出たとき、私の目は出口の脇にいた1匹の白黒猫に釘付けになってしまった。「あらやだ、ショコラさん、見て見て。こんなところに猫の剥製が置いてあるわ」 見れば見るほどその猫は剥製に似ていた。「加瀬さん、その猫、生きてますよ」「うそ! だって動かないじゃない」「上に何かいるのかしら。それを見ているんじゃないですか?」 私はしまいこんであったカメラを慌ててまた取り出した。もどかしい思いで袋から出し、眼鏡もかけ直した。それでも猫はまったく動かず虚空の一点を見つめているように見える。 うちのアルスのような顔つきのもう少し大きな猫だった。そばによって写真を2、3枚写しても凍ったように動かない。それは上手な剥製のように見えたが、考えてみるとなんでこんなところに猫の剥製が? いくらメヴラーナが猫を好きだったらしいとしても、関連性がまるでない。「上に鳥がいるみたいですよ」とショコラさんが言った。 と、次の瞬間、猫は目にも留まらぬ速さで脇にあったベンチに飛び乗り、そこから窓の鉄格子に横っ飛びに大ジャンプして、するすると音もなく登り始めたのである。 「ひぃ~っ、生きてた~っ」と私は思わず口走った。 写真右上の黒い横桟の隅に鳩が1羽留まっていた! アルスによく似た猫は、じいっと鳩を狙っていたのだった。それにしても私の、かつては2.0の視力を誇った目も、老眼もいいところで、目の前にいる生きた猫を剥製だと思い込むなんて、すっかりとぼけてしまったらしい・・・ 猫の突然の大ジャンプがどうにも信じられない思いで首をひねりながら、私はメヴラーナ博物館を離れ、2人を隣の敷地にあるレストランに案内した。もちろん、ディシュ・キラスつきの、あの店に。 まあ、驚くにはあたらない。コンヤから戻った私は、わが家のシェビィとアルスの大ジャンプやカーテン登りを毎日見て暮らすことになったからである。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月15日
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【1月14日・木曜日】 早いものでもう、コンヤに出発してから1ヵ月が経とうとしている。 12月15日、コンヤ空港から、新設のシャトルバスに乗る。 いい具合に天気もよし、アヌ・ホテルに歩いて2分足らずの県庁前で降ろして貰い、広場を横切ってホテルに入ると、そう広くもないロビーには既に人が溢れていた。 毎年出会う見慣れた顔ぶれがあり、どちらからともなく挨拶を交わし、部屋の清掃が終わるまで知り合いと喋りながらロビーで待つうちに、ボーイが迎えに来て私は部屋に入った。 3時間余り眠ったのち、最初に元メヴラーナ博物館の館長エルドアン・エロル博士を訪問した。ときに4時。1時間ほど雑談して薄暗くなる頃、ツーリスト・インフォメーションの、引っ越したばかりのオフィスにユジェル君を訪ねた。 メヴラーナの祭典を控えたコンヤには、トルコ中から、中東から、ロシアから、ヨーロッパから、言わば世界中からたくさんの観光客、メヴラーナ・ドストラル(友人達、ここでは信奉者達)が集まってきて、賑わいを見せていた。 普段は6時までが勤務時間のインフォメーションも、8時9時まで外来客を受け入れている。ユジェル君の助手としてナーズム君とエルハン君という2人の青年が、上手な英語を操りながら応対していた。 この時期、ユジェル君は、英語、日本語、アラビア語が話せる貴重な人材なので、各国のVIPのガイドとして、オフィスにいるより、メヴラーナ博物館やセマーの儀式の案内役として留守になることが多いのである。 幸いユジェル君は夕方オフィスに戻ってきていたので、8時頃まで勤務したあと、一緒に外に出た。昼間は暖かかったコンヤだが、さすがに高原の夜寒は一入に感じられた。 ユジェル君の案内してくれたのが、メヴレヴィー・ソフラスというレストラン。そこで貰ったディシュ・キラスという食後のプレゼントがおおいに気に入ったことは、昨日のブログに書いたとおりである。 初日は旧知の人々と出会うだけで終わったが、2日目の朝、私はホテルのオーナー、勝新ことベキルさんの愛娘デルヤさんの、秋に生まれた女の子のお祝いに行った。もちろん赤ちゃんとは初対面である。 目鼻立ちのくっきりした女の子は婿殿チャーダシュ君によく似ていた。名前はデニズちゃん。母親のデルヤさんもデニズちゃんも「海」という意味の名前である。 生後2ヵ月半のデニズちゃん。むちむちな女の子。 結婚式(2005年)のデルヤさんとチャーダシュ君 ホテルに戻り、パソコンを抱えて私はまたツーリスト・インフォメーションに向かった。カブロスズ(ワイヤレス)でネットに接続するとすぐに過熱してシャットダウンしてしまうので、パソコンに詳しいナーズム君が見てくれることになっていたのだ。 コンヤ県文化観光局が引っ越した先は、メヴラーナ博物館のすぐ後ろ側、カラタイ区役所の敷地内にある、木造の建物だった。 門を入ったところでタクシーを降りると、ちょうど観光局の管理棟から出てきたポストニシン様・ファフリさんとばったり出会った。「おおー、由美子ハヌム。ホシュゲルディニス(ようこそいらっしゃいました)!」 一瞬くらっとした私に微笑みかけながらファフリさんは言った。「入場券は取れましたか?」「はい、昨日申込書と引き替えに昼の部を手に入れました。明日、昼の部でセマーを拝見します」「そうでしたか。それはよかった。もし、夜の部もご覧になりたければ、いまご一緒に行って私が担当者と掛け合ってみますが・・・」「ありがとうございます。フィナーレはホテルでテレビ鑑賞するつもりでおります。ご親切にどうも・・・」「いつ、私どもにおいでくださいますか?」「フィナーレの翌日はファフリさんもお疲れのことと存じますので、土曜日に伺わせていただきたいのですが」「家内も子供達もあなたとお会い出来るのを楽しみにしていますよ。それではあさって、私から電話をおかけしますので、土曜日にお迎えに上がる時刻を打ち合わせいたしましょう」 さすがポストニシン様、この上なく丁寧な話し方は、気品に溢れていて日本語に訳すとこんな調子である。 ツーリスト・インフォメーションのオフィスに入ると、ユジェル君はエジプトの賓客の案内に駆り出されたとかで席にいなかった。 オフィスのワイヤレスのキーワードを使ってナーズム君が接続してくれたが、数分も経たないうちに過熱したパソコンを見て言った。「これは放熱装置に問題がある可能性が高いので、専門の技術者に内部を見て貰ってください」 もしかすると、猫の毛を吸い込んでいるのかもしれない。私はコンヤでネットをするのは諦めた。 夕方、ユジェル君は一度戻ってきたが、セマーの夜の部で再び来賓のお供をするとのことで、ほどなく出て行ってしまった。 ちょうどユジェル君が戻ってきたときに、一人旅の日本の女子大生がオフィスを訪れたので、彼女を夕食に案内することになった。 世界一周一人旅の女子大生と記念撮影のユジェル君と私 ついまた同じ店に行った。彼女は休学し1年かけて世界旅行をしている途中だという。「あの・・・私はこんな素敵なレストランには一度も入ったことがありません。だいたい2~3リラでドネルケバブの立ち食いとかばかりで・・・」「コンヤに来た人にはいいことがあるのよ。心配しないで」 とても素直な話しぶりに好感が持てた。私は前日ユジェル君にご馳走になってしまったことだし、初めて出会った女の子であろうと、今日は自分が振舞う気になっていた。 ガイドブックに乗っているコンヤ・エトゥリ・エクメッキを食べたいと言う。私は美味しいチョルバ(スープ)も取り寄せた。 別れ際、とても嬉しそうに彼女は私に一礼すると飛ぶような足取りで、セマーの儀式が行われるメヴラーナ文化センターに向かっていった。 彼女の今後の無事を祈りつつ、小雨の降り出したメヴラーナ大通りを、私も急ぎ足でホテルへと向かったのだった。 明日はイスタンブールからショコラさんが友人とやってくる。朝までに晴れてくれればいいのだが・・・(つづく)madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月14日
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【1月13日・水曜日】 コンヤで楽しいひとときを過ごしたことを早く書きたいのに、今年に入ってからまたさらに忙しくなり、なかなかまとめられないでいる。 でも、こんな面白い風習を初めて知り、ちょっと嬉しくさせられた話をしよう。 コンヤの「メヴレヴィー・ソフラス」というレストランはメヴラーナ博物館のすぐ後ろ側、バラの庭園を見下ろすテラスのある上品なところだった。 ユジェル君が案内してくれたのだが、そこで食べ終わる頃に可愛いものを貰った。 中味の飴も、袋もお洒落でかわいいレストランの「ディシュ・キラス」 コンヤの飴が2~3個小さな洒落た袋に入って、コロンヤル・メンディル(濡れナプキン)とともに、客の数だけ出してくれるのである。 袋にはディシュ・キラスと書いてあり、袋の中にもこの由来が書かれた紙片が入っている。それによると、イスラームの古くからの風習で、客を迎えた家の主は馳走を供し、客にお礼の意味で何がしかの小さな贈り物をするのだそうである。 それが「ディシュ(歯)・キラス(レンタル料)」つまり、歯のお借り賃。 何とも奥ゆかしい風習と言いたいが、出てきたものがまた歯を借りるものなのでちょっと笑ってしまった。 でも、こんな言葉を聞いたのも初めてだったので、やっぱり嬉しくて、同じ店に4回も通ってしまった。もちろん、味もよく、ガルソン達もアットホームな感じでよかったのであり、決してディシュ・キラスだけが目当てでいったわけではない。 最近、物の本で読んだ話によれば、イスラーム教徒達にとって重大な年中行事であるラマザン(断食月)には、夕方の断食明けに知人、友人、親戚、近所の人々を招いて、賑やかにイフタル・ソフラス(断食明けの食事)を提供するが、そのとき、足を運んでくれた人々に対し、 1.招待を受けてくれてありがとう。 2.時間を割いてくれてありがとう。 3.わが家に来てくれてありがとう。 4.疲れさせてしまい、ごめんなさい。 5.私共の積善にご協力ありがとう。 そういった意味合いをこめて、ちょっとした小物をビロードの袋に入れて、食後ラマザンのお祈りに行くときに「ディシュ・キラス」としてプレゼントしたものだという。どんな品物があったか、というと、銀のお皿、パイプ、琥珀の数珠、銀の指輪など。 また、貧しい人々には、これも小さなビロードの袋に、金貨や銀貨を入れて持たせてやったのだそうだ。麗しい風習だが、15年もトルコにいて初めて知ったとなると、もうあまり一般的には行われなくなってしまっているのかもしれない。 ご馳走した上にお土産まで用意するのは、ラマザンが1ヵ月も続くことを考えると大変な出費となるので、次第に廃れてしまったのだろうか。昔は奥ゆかしく麗しい風習がきっと、もっとたくさんあったのであろう。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月13日
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【1月12日・火曜日】 私の最愛の猫アトムが残した子供達。たぶんあちこちにいるに違いないが、分かっているのはこの3匹。 しばらくぶりに裏庭3きょうだいの登場です。母猫のママはたぶん、この子達のすぐあとに身ごもって産んだはずの子猫達をすべて失ってしまったらしい。 いままた身重で2月には産まれそう。 と、今朝はこんな風に、とんでもないガセネタを書いてしまった。 朝のうち、ブログを書いたあと、台所の窓を開けて外に吊るしてあるキャベツを取ろうとしたら、裏庭の向かいのアパルトマンの地下室から、3匹の兄弟にそっくりな毛並みをした、でももう、それはそれは小さな丸っこい子猫がよちよちと出て来るのが見えた。 写真を撮れる状況ではなかったので、また後日写してお伝えしたいが、顔が兄にあたるストゥラッチによく似ているようだ。1匹だけなのか、もっといるのか分からないが、ママは上手に子猫達を隠しながら育てていたらしい。 2階の画家のアイシェギュルさんも、産まれたはずの子猫はどうしてしまったのだろうといつも心配していたので、早速知らせてあげたい。 生後1ヵ月半くらいのその子は、毛並みや顔が兄や姉にそっくりだから、もしかするとやはりアトムの、最後の子供という可能性もある。とても嬉しくなって、早とちりも顧みず、こうして書き足した。夕方、早めに餌をやりに行って探ってみよう。 (青字の部分、追記) 母猫 ママ ママは目下妊娠中。もうじき3度目の出産か? 一番体の大きいストゥラッチ。オス。 イスタブリットによく似た男の子。私によく慣れている。 両足とも白いバクラバ。オス。 この頃私に慣れて指先に鼻をつけるが最後は逃げる。 小さくて美人猫のロクム。メス。 私に慣れたが愛嬌も薄く決して手を触れさせない。 ママのほうは、11月の始め頃から姿を消したヨスンに変わっていまや裏庭の女王様。気に入らないほかの猫は全部噛み付いて追い払う。 アトムは流れ星になってしまったが、こうして子猫達が健在。 しかし毛色がみんなアトムの父、ギャースにそっくりである。アトムの子で白黒の猫がどこかにいないだろうか。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月12日
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【1月11日・月曜日】 コンテスは今年18歳。この頃はいつも台所でうずくまっている。落ちて脳震盪を起こすといけないので、ソファや椅子などにはもう乗せられない。 サロンに大きな座布団を敷いて座らせても、台所のタイルの床のほうがいいとみえて、せっかくの座布団をすぐに放棄してまた台所に行ってしまう。 自動シャッターで10秒待つ間に猫の機嫌が変わる。 仕方がないのでタイルの床にタオルを二つ折り、または大きいのは三つ折にしてその上に座らせる。 たまには抱っこしてやろうと思わないではないが、膝からずり落ちて怪我でもしては困る。なんだか目の見えない年寄り猫を台所で暮らさせているのは、差別待遇しているようで気がさすが、本人、いや、猫の好みだから仕方ない。 ミディエはたまに私の膝に自ら乗ってくる。概ね静かにしているが、背中を撫でてやったりすると、急にヒステリーを起こして噛み付いたり引っ掻いたりするので油断が出来ない。(メス、2008年2月22日生まれ、もうじき2歳) ミディエはモデルのようにいつもカメラ目線 キウイは朝早くベランダに来て待っている。家の中でもおとなしい。缶詰肉を食べ終わるとソファか、腰掛の上で顔を洗ったり毛づくろいをしたあとは、静かに寝ているので、まったく邪魔にはならないが、全部を家の中で飼うわけにはいかないので、適当な頃を見計らってミディエとともに外に出す。 外暮らしが長いので抱かれて写真を撮るのは初めて!いくらカメラを見るように教えてもうわの空 全身茶トラなので、これといった特徴がないが、母親の今は亡きミーコちゃんに似てぼっちゃりした顔が可愛い。(メス、2007年7月3日生まれ、2歳半) キウイの母ミーコちゃんは三毛でたいそうな美猫だった。 とりあえずこれらがわが家の大人猫達である。 なお、アルスが思春期を迎えているので、男盛りのマッシモはもうわが家には入れられない(猫の世界は大人になると親子関係は消滅、男女オスメス関係のみが残る)。 シェビィとアルスの母親ニケも、1ヵ月余り我が家で暮らしたので建物に入りたがるが、心を鬼にして締め出している。 マッシモとニケ(シェビィとアルスの両親) madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月11日
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【1月10日・日曜日】 2~3日前、度肝を抜かれるような場面に遭遇した。バリバリバリ、と爪音を立てながらカーテンを登って行ったアルスが、埋め込み式のスポットライトに、しきりに猫パンチを繰り出しているのだった。「アルース!」と怒鳴ったが一向にやめないので、パチリと1枚写してからカーテンにしがみつくのを棒で払い落とした。 おととし、風呂で感電したことのある私は、アルスのやっていることを見ただけでも、全身にビリビリと電気が走るような気がした。くわばら、くわばら。 スポットライトに猫パンチを繰り出すアルス シェビィとアルスきょうだいは、顔立ちからしてもいかにも貧民層の猫っぽいが、タマオはおっとりしていて、やることがおとなしく、毛足も長いので優雅に見える。 輪ゴムで遊ぶのが大好きで、これなら危険もないし、ものが壊れる心配もないので安心だ。輪ゴムを2~3本預けておくと、飽きずに20分でも30分でも1人遊びをしているのがいじらしい。 真ん中:ねじれた輪ゴムを立てて得意げなタマオ ただ1つ、困ったことがある。私の机の上にある、輪ゴムで束ねた名刺や、CDケースの類を見ると、片っ端から輪ゴムを咥えて外してしまうのである。 食欲旺盛なシェビィは、私とレイラが食事をしている最中、追い払っても追い払っても懲りずにテーブルに飛び乗ってくるので、このところずっと、食事中はキャリーに閉じ込めておく。 食いしん坊の2匹。特にシェビィがすさまじい。 出してくれ~と騒ぐシェビィ 以前はアルスも一緒に閉じ込めたのだが、さすがお姉ちゃん、最近は一度追い払うとテーブルに上ってこなくなったので、懲りない男、シェビィだけが檻に入る。 やかましく鳴き立てるがそのうちくたびれてキャリーの中で眠ってしまい、レイラが帰ったあと思い出してキャリーをのぞくと無心に眠っている。 やっぱりどの猫も可愛い。 夕べの食事はトルコ風カルヌ・ヤルック、でも味はやっぱりトルコ料理らしくない。私はトルコ料理をろくに作れないのである。 レイラは日曜夜からツアーに出るので向こう1週間ヨク(いない)。私もテレビの仕事が来て、しばらくはもっと忙しくなりそう。仕事を貰えるうちが花、頑張るぞ。 カルヌ・ヤルックは、ナスのお腹に挽き肉などを詰め込んだトルコ料理。またまたご近所からいただいたアシュレも・・・madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月10日
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【1月9日・土曜日】 去年の夏、岡山のマミヤさんが送ってくれた食材の中に、岡山名物「花切大根」という切り干し大根があったので、夕食にはこれを煮ることにした。 普通の切干大根は大きな大根を千六本に切って干すが、これは細い小さな大根を小口切りにして干したものである。 朝のうちから水で戻し、これも細いニンジンの銀杏切りや高野豆腐、出し昆布、鳥皮などと軽く炒めてから、鶏がらスープで煮込み、砂糖と醤油、少々の塩で甘めに味付けした。仕上げにたっぷりと青葱を刻み込む。 果たしてレイラの反応は想像したとおりで、「わーい、カセー。私はこの手の煮物には目がないよ。アーフェリン・サナ(よくやった)!」と言いながら箸を持って早速中華鍋に手を伸ばした。 私の娘もこの手の煮物に目がなくて、ひじきの煮物など、以前にも書いたが、鍋にあるうちから大幅に減ってしまうのである。「カセー、まるでV子さんがいるみたいで嬉しいだろう?」とレイラ。 美味しく煮上がった花切大根の煮物 中華鍋いっぱいの煮物。たちまち売れる。 本日のメインディッシュ、チキンソテー 紫いもとほうれん草を入れて煮込んだお粥、右端がリモナータ割の焼酎「カセー、来週は1週間ずっとヨクム(私はいないよ)。ツアーが入ったんだ。ツアーから戻ったら、またオジャックバシュか魚レストランに行こう。奢るからさ!」 私達はレイラのツアー客が残してくれた韓国焼酎を、リモナータ(レモネード)で割って飲んだのが美味しくて病み付きとなった。「いままで、お客さんが置いていってくれると言っても、いらないってお酒だけは断っていたのよね。でも、あんたがこのお酒気に入ったんなら、今度また貰ってくるよ。いままで残念なことをしたなあ・・・」 このところツーリズムの韓国市場も回復の兆しがあるのか、レイラにもガイド仕事がちょうどいいサイクルで入ってくるようになった。 なんだか春の兆しが近いような気がして、煮物1つでも作るのが楽しい昨今である。 春といえば、ちょっと困った春もある。タマオやシェビィがアルスを追い掛け回し、不埒な行動をするようになってしまった。小さな小さなシェビィすら、ちゃんと赤鉛筆の芯みたいな可愛いのを見せて、アルスを捕まえてはもにょもにょやっている。 アルスを押さえ込んだシェビィ 動物診療所のディルシャット先生に聞いたら、まだオス猫に妊娠させる能力がないから大丈夫、とのこと。う~む。ではマッシモの侵入に気をつければまだしばらくは大丈夫かも。何しろ、マッシモはアルスのお父さんだけに、あってはならないことだもの。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月09日
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【1月8日・金曜日】 昨日届いたラファさんこと戦場カメラマン嘉納愛夏さん からのプレゼント。 お餅をはじめ、昆布やわかめの干物類と、私がかねてお願いしたタイツなど。そしてびっくりしたのが、肩や背を温めるソフトなフリースの肩掛けが入っていたことだった。 愛夏さんのプレゼント 家で翻訳をしていると、何時から何時までが勤務時間、とは決めていないのでまだ夜も明けぬうちに始めたり、反対に夜更けまでやっていたりすることがよくある。 足元には足温器があるので温かいが、薄着の私はときに肩や二の腕がひんやりすることも多い。澁澤幸子先生にいただいた素敵なチェックの膝掛けを肩にかけてもいいのだが、今のところ猫に飛びつかれ爪を立てられるのでもったいなくてしまってある。 そうだ、ハギレでも買ってきて、立体裁断でチョッキ型の肩掛けを作ってしまおう、と思いついたのはコンヤに行く少し前のことだった。 マフムット・パシャ(グランド・バザールとエジプシャン・バザールを結ぶ衣料品店の多い通り)で、フリースの生地を見つけたが、なんと毛布くらいに大きなものである。 買ってきたはいいが、大きいのを切るのももったいなくて手がつけられず、そのままコンヤに行ってしまった。 レイラが猫の世話に泊まってくれていたので、もし私のベッドが寒かったらこれも掛けなさい、とフリースも渡しておいた。 私がコンヤにいる間に引っ越したレイラの今度の家は、家賃も安いがカロリフェルの設備がないので寒いとのこと。私はレイラにそのフリースを持たせてやった。 そうだ、また布地を買いに行かなければ、と幾日も考えていたがなかなか出かけられない。そこに届いたのが愛夏さんのプレゼントだったというわけ。 こちらが頼んだ覚えもないのに、まるであつらえたかのような、チョッキ型の肩掛けが2枚入っていたのだった。私の欲しがっていたものがどうしてわかったんだろう。 フリースノ肩掛け、色違いのスペア、ああ、あったかい。 折り返せるようになった大きな襟が肩を二重に暖めるので、上着を羽織ったように温かく、しかも立ったり座ったりの激しい私には、ボレロ程度の長さでまことに具合がいい。洗い替えに色違いが2着あるので、本当に助かる~。 コンヤから戻った後、まだ完全に荷解きしていない旅行鞄の中に、エミネさんからのプレゼント、パティッキもあったはず。エミネさんは空港まで見送ってくれたとき、干したマントゥとこのパティッキを持たせてくれたのだった。 左:マントゥ入りクリームシチュー 右:可愛い花模様のパティッキ(靴下カバー) マントゥのほうは翌日から食べ始めて見る見るうちに1キロ近くあったのを平らげてしまった。それが上の写真で、クリームシチュー風に煮込んだもの(本来はヨーグルトとラー油で食べることが多い)。 愛夏さん、コンヤのエミネさん、ほんとうにありがとう。 さて、夕べの食事は、トルコの魚レストランだったら捨ててしまうイカの耳と足、それを刻んで、葱やニンジンも入れ、かき揚げにした。それにオリーブさんのプレゼントの中にあった紫いもとピーマン、赤ピーマンの野菜天。あとはほうれん草のおひたし。 レイラが「うまい、うまい」の連発であっというまに平らげてしまった。うわ、早い者勝ちか? 明日の晩は半分ずつ別々な皿や鉢に入れることにしよう~っと。 イカの耳と足のかき揚げ、紫いも、ピーマン、赤ピーマンの野菜天。ほうれん草のおひたし、鰹節たっぷり。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月08日
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【1月7日・木曜日】 去年のクリスマス直前にモトクロスで大怪我をした息子が、予定より1週間も早く5日の午後退院し、自宅療養している、と昨日6日の昼少し前、娘から報告があった。 日本では夕方6時過ぎである。V子は勤め先から家に戻る途中、電話してきたのだった。彼女は職場までこれまた2時間近くかかるので、かなり早朝から弟のお粥2食分や柔らかいおかずを拵え、家を出て行くらしい。「驚異の回復力というか、驚いた~。でも、私も成田までの往復がなくなっただけ身体も楽になったわ。職場でもいまのところ残業なしで帰してくれるし、だからお母さん、とりあえず心配いらないからね~」 Allaha sukur! 神様、感謝いたします。 退院したと聞いたので、やっとオリーブさんからいただいたお供えを飾りました。神棚とか仏壇がないのですみません。(まだ掃除は終わっていませんが・・・) 夕方レイラが7時頃夕飯に行く、と知らせてきたので、息子が退院したことを告げると、途中でビールを買ってきた。「Wさんの退院祝いをしようよ。昨日のイカはどんな料理になったのかなあ?」と言いながら家に入ってきたレイラは、「お、お、おー」と嬉しそうに笑い声を上げた。 ちょうど開いたイカの表面に包丁で斜めに筋を入れ、反対側からも同じようにして模様をつけ塩を振り、魚焼き網にかけるところだったのである。イカの松かさ焼きは、半生状態に焼いておろし生姜と醤油であっさり食べるのが美味しい。 娘時代に母親から、松かさ焼きを作るには、出来るだけまっすぐに細かく包丁を入れて菱目模様が美しく出るように、と指導を受けたが、今日は忙しくて走り包丁なのでまあ、美しくは見えないがレイラが喜んでいるからいいとしよう。 イカを網にかけながら野菜炒めもオイスターソース入りで甘みのある仕上がり。テーブルに着くと早速レイラがビアグラスに持参のビールを注いだ。 こちらの8時は向こうの3時、今頃爆睡状態であろう日本の2人に向けて、退院祝いにグラスをカチンと鳴らして乾杯した。 6日の夕飯:イカの松かさ焼き、カパリのピクルス、野菜炒め 左:羨ましそうに見下ろすミディエ 右:アシュレ アシュレを食べるレイラの膝には・・・ 先月から今月にかけてイスラーム教のヒジュラ暦ではムハーレム月というのに当たるので、ご近所からよく、アシュレという甘い食べ物をいただく。ノアのプディングとも言うそうだ。レイラもわが家で、3日連続作った人の違うアシュレを賞味している。 昨年暮れから今年にかけて正直な話、私にとっては正月が正月とも思えず、大掃除を始めたのにやる気が起こらずに、一向に進んでいなかった。息子が退院したから今日からはバリバリ掃除が進むか、というとそれもあり得なさそうだが、心配が薄らぎ、少しまた元気が出てきた。 というわけで、皆様にご心配をいただきましたが、息子は無事に退院、ここに謹んでご報告させていただきます。たくさんのお励まし、ありがとうございました。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月07日
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【1月6日・水曜日】 昨日は子猫3匹に蚤退治の点薬をする予定の日だったので、診療所に電話し、午後1時半に予約を取ったところへ、レイラから電話がかかってきた。「カセー、ベシクタシュの吹き込みの会社に来てるんだけど、あんた、すぐ来られる?」 そうだ、例のアマスィヤの紹介CDで、またまた会社の手違いから、追加で吹き込んだ博物館のナレーション韓国版が消失、レイラ嬢に来て貰ってほしい、と責任者のウミットさんから頼まれていたので、夕べ食事に来たレイラに伝えたのだった。 日本語版はうまく画面に合わせることが出来たので、心配要りません、というのだが、追加で吹き込んだところは博物館部分だけではなかったので、気になって私も同席することにしたのである。 同じ方面に2度も行ったり来たりするのはタクシー代も時間ももったいないので、私は大急ぎで猫3匹を2つのキャリーに押し込んでタクシーに乗った。 オルタキョイの診療所にとりあえず猫を預け、そのままプロダクションに行くと、レイラは担当のバシャック嬢とモニターを見ながら音声を貼り付ける作業の最中だった。 コンヤに行く前に吹き込んだはずの博物館部分の音声がどうしても見つからず、新たにそこを翻訳、吹き込み直したのだそうだ。 その間、私はウミットさんの部屋でもう一度CDを見せて貰った。気になる部分というのは、オスマン朝時代のとあるKulliye(モスクや神学校を含む総合学問所=大学校)の施設の中にある建物を、Imalathaneと書いてあったので、日本の昔の悲田院の授産所みたいなものを思い浮かべ、「工場(製作所)」と訳して吹き込んだのだが、その後、翻訳を始めたガイドブックで、この大学校にはImalathaneなどはなく、Imarethane(給食所)の間違いだと分かった。 博物館の追加ナレーションを加えるときにその部分を含むセンテンスも吹き込み直し、レイラの韓国語版でも給食所と訂正したのである。その日、音声の貼り付けにも立ち会うと言ったのに、スタッフがその必要はない、どこに入れるかもう、私達は分かっているから、と答えたのだった。 ところが、日本語版では博物館は正しくナレーションが貼りつけられていたが、肝心のそのImarethaneのところの音声を置き換えるのを忘れてしまっているのだった。 ほらねー、やっぱりねー。だから来たのよ。「ウミットさん、重大な間違いです。ここはぜひ、訂正してください。新しい音声は、博物館と一緒に吹き込んだので、その時の記録に残っているはずです。見てくださいませんか」 ウミットさんが音声ドキュメントとして記録されているその部分をすぐ見つけ出した。CDの中の音声「こうば」と置き換えるはずだった「給食所」の声の違いはウミットさんにもわかって、「これは、失礼しました」と困惑した表情で彼は言った。「ああ、よかった。来た甲斐がありましたよ。これは原稿の間違いだったとしても、私が気がついて新たに吹き込み直したのですから、これでやっと完璧になりますよ。アッラー・シュキュル(神に感謝)、CDが世に出る前に間違いが正せましたね」 私がニコニコ顔でそう言うと、ウミットさんはますます困惑顔になって、目を伏せてしまった。「どうなさいました、ウミットさん?」「加瀬ハヌム。実は・・・いや、吹き込み直していただいたのに、スタッフがちゃんと置き換えていなかったことを私も知りませんでした。実はその、すでに3000枚のCDが明日あさってのうちに出来上がってきます。もうどうしようもありません」 ウミットさんは顔からしても誠実でトルコ人には珍しく、ペラペラと嘘や口実を言って自分のところの非を隠そう、というタイプの人ではない。 私も今更どうなるわけでもなし、それ以上は追求しないことにした。 帰りがけにウミットさんがタクシー代と言って渡してくれた50リラで、レイラは提案した。「カセー、これでどこかでお昼を食べて、残りは夕飯のおかずを買おうよ」「うん、わかった。そうしよう」 2人で歩いていかれる距離のハイパーマーケット「real」に行き、大きなチュプラ(石鯛)1尾とイカを500グラム買い、スーパーの中のファストフードコーナーで、キョフテを食べて3時過ぎに別れた。 私は猫を引き取りに行った。長い時間、猫達はおとなしくキャリーの中で待っていたようである。家に帰るともう4時近く。今日もろくに掃除は出来なかったが、テーブルの上だけはきれいになっている。 お屠蘇とは違うけど、ご馳走にはやっぱりお酒がほしい。 イカのゲソ入りミニお好み焼きにレイラが喜ぶ。 鯛の刺身と澄まし汁、イカの足を少し使ってミニお好み焼き。 レイラのくれた韓国の焼酎をレモネードで割って乾杯し、お騒がせアマスィヤCD事件の幕を引いたのだった。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月06日
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【1月5日・火曜日】 夕べはレイラがわが家に久々にやってきた。ガイドとしての旅疲れと2日の夜から雨で冷え込んだため、風邪を引いたらしく、日・月とも寝込んでいたという。 野菜サラダ、柔らかく煮込んだロールキャベツ、そしてお雑煮。レイラが解熱剤などを飲んでいるのでアルコールは抜きである。 家で向かい合って食べるのは12月24日のクリスマスイヴ以来。 鶏もも肉、椎茸、高野豆腐、にんじん、葱の雑煮ロールキャベツはひたすらチキンブイヨンで煮込んだもの さて、ミディエやキウイのような大人猫は、食べては寝るだけであまりいたずらはしないが、とにかくシェビィとアルスと来たら絶え間なく何かをやらかしてくれる。 おとなしいタマオまで追いかけっこに加わるので、家の中は駅馬車の突っ走るアリゾナの平原かというほど騒々しい。 耳に頭に騒音がこびりついて熱が出そうだ。レイラじゃないが私まで解熱剤を飲みたくなる。 で、本日は題してカーテン登り特集。日に日に激しくなるシェビィとアルスのカーテン登り。 いままで一番お転婆だったコマちゃんですら、天井までは登らなかった。死にそうだった子猫がこんなに元気になった、と思うことで我慢しているのだが・・・ ♪チャンチャン チャチャチャチャ チャンチャン ♪チャチャチャチャチャンチャン チャチャチャチャチャンチャン ♪チャチャチャチャチャチャチャチャ~ンあの忙しい曲、なんでしたっけ、運動会などでよく聞く・・・思い出せる方は口ずさんでみてくださいね。 あああ、早く大人になってくれ~。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月05日
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【1月4日・月曜日】 今朝はようやく雨が上がって晴れ間が出ていますが、非常に寒い。今冬一番の冷え込みのようです。 12月下旬、コンヤから戻った私に、また嬉しいプレゼントの品々が届きました。もうすでに食べ始めたり食べ終わったりして消えたものもありますが、感謝をこめてブログに掲載させていただき、心よりお礼を申し上げます。 最初のブログ友達・横浜の野の花の散歩道さんが新海苔5帖(50枚)と佃煮セットを送って下さいました。 海泡石のシナンさんが、ツアーのお客さんに貰ったものをそっくり私にプレゼントしてくれました。 年末に旅行で見えたSさんご夫妻からのお土産。佃煮やら赤飯まで入った嬉しいものです。 名古屋のオリーブさんから和食の数々。私が蒟蒻畑大好きだってことを覚えていてくれてありがとう。風邪の予防に葛根湯ドリンク、マスクが泣かせます 千紗子さんからの1キロのし餅とひとみさんから干しいりこ。ひとみさんの焼いたスポンジケーキ、余りにおいしくて跡形もなし。お餅のほうも3が日楽しませていただきました。あとはレイラと食べるときのためにとってあります。 レイラがお客さんから貰った韓国土産。すぱっと半分、分けてくれました。韓国の強~いお酒もありますよ~、ウィー。 皆さん、本当にありがとうございました。 日本は仕事始めですね。でも私の掃除の進捗状況は聞かないで下さい。遅滞状況というのが正しいかも。madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月04日
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【1月3日・日曜日】 昨日の夕方は雨が上がって、レイラが帰ってきた。約束どおり私を夕食に招待してくれるというので、8時少し前、ベイオールまで出かけて行った。 レイラも程なくやってきた。 ウムット・オジャックバシュで1時間半ばかりゆっくりと呑んだり食べたり喋ったりしながら過ごすうちに、外では激しい雨が降っているのに気がついた。 そう言えば、夕方のニュースで、海上が荒れ模様のため、連絡船も欠航しているとのこと。それなのにうっかり傘も持たずに来てしまった。 チャイを入れて貰って様子を見ているうちに少し雨足が弱まったので2人で外に出た。以前だったら同じ方向だったのに、レイラはクルトゥルシュという地区に引っ越したため、すぐにそこで別れなければならなかった。 月曜日の夜に再会を約束し、雨だというのに大混雑しているベイオールの横丁を抜け、私は急ぎ足で坂を下った。幸い、毛糸の帽子と分厚いハーフコートのお陰で、家に戻るまで雨に濡れた感じはしなかった。 ジャーミイの角あたりからグミちゃんやらポップが尻尾を高々と持ち上げて、私を追いかけてきた。まあ、わざわざ出てこなくとも、雨の当たらぬ場所で寝ていればいいのに。 家に入るとすぐ、暮れに来た相談メールに返事を書いた。たちまち夜が更けて、1時頃やっと横になったが、寝る前にはすごい勢いで降雹があった。雨は止んだかと思うと降り、降ったかと思うと止んで、雨雲は重く厚く空を覆っているのである。 今朝も雨で明けた。風呂に入り髪を洗い、大晦日からの洗濯物を洗って、家の中のあちらこちらに吊るした。外に干せないのは憂鬱である。午後からいくらか晴れ間が出るという予報だがどうだろう。 いただいた餅を磯部焼きにして朝食とし、昼から掃除の続きにかかるつもりなので、ぼちぼち動き出し、夕べまた留守中にひっくり返されていた植木鉢の土をかき集めたり、出汁取り用の削り節の大袋がアルスに食いちぎられて、台所の床いっぱいに散乱しているのを掃き集めたり・・・ あああ、元旦の夕方に見た美しい夕焼けは、明くる日以降の上天気を予告していたわけじゃなかったのね、と独りつぶやく。掃除の進捗具合は、と言えばただの一言、前途多難。 たなびく雲も美しく、西空の茜色(1月1日夕方撮影)madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月03日
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【1月2日・土曜日】 昨日の春めいた温かい日本晴れ もとえ、トルコ晴れの一日とは打って変わって、明け方激しい雷雨が襲来、気温もぐっと下がって今日はいつもの冬らしい雨の朝を迎えた。 幸い停電にもならず10時頃には雨も一旦止んで晴れる気配こそないが多少空が明るくなってきた。 今朝は千紗子さんのお土産ののし餅を切って、また雑煮を拵えた。 鶏肉、戻し椎茸、湯葉、ニンジン、ルッコラ、葱 これで3回連続で雑煮を食べることになるが、まったく飽きない。正月に異国にあっても雑煮を食べられる幸せ、オリーブさんと千紗子さん、運んできてくれたそれぞれの夫君に感謝いっぱい。 朝7時頃には濡れそぼったキウイとミディエが前後してベランダに現れ、中に入れてやってからタオルでよくこすってやった。雨が止んだらほどなく、なんとマッシモまでもがまた重い身体をジャンプさせて隣から跳んできた。 私の仕事場にしているサロンは、夕べまではまだどこが片付いたのか分からないほど散らかっていたのだが、寝ている間にさらに3匹の子猫達に掻っ散らかされ、さすがの私も起きぬけには思わずウ~ムと唸ってしまった。 今年初登り、元旦の日のシェビィ 第4本棚の整頓に着手したのだが 今朝目覚めたらまた壊滅状態のサロン。嗚呼、愚痴との遭遇 惨憺たる有様、というのはこのことだ。その上に外から来た猫達が濡れた足でズシズシと乗って歩くのである。濡れた本や紙をタオルで拭いた後、私はマッシモに朝食をふるまってやった。 外の猫の写真を撮る機会は少ないので、マッシモともツーショットを撮ろうと台所でカメラを構えた。 不安で暴れるマッシモを抱きかかえ、1枚でやめておけばよかったのだが、2枚目の自動シャッターをセットして、いざコチコチと秒が進み始めたら、突然マッシモが私の手を引っ掻いて逃走、写真には哀れ、「いて~っ!」と指を押さえてしかめっ面する私だけが写った。 嫌がるマッシモを無理に押さえ込んでのツーショット シャッターが切られる直前、私を引っ掻いてマッシモ逃走写っていたのはコレ・・・ 今日は暮れの27日から韓国グループを率いてツアーに出ていたレイラが戻ってくる。ゆうべ、年賀の挨拶に私に電話して来た。「カセー、今度のお客さん達はすっごくいい人達だよ! とても楽しく旅しているよ。2日の夕方、ウムット・オジャックバシュであんたに腹いっぱいご馳走してあげるから楽しみにしていてね!」とご機嫌で言うのだった。 アマスィヤのガイドブックを作る会社の社長メフメット・アリさんからも嬉しい新年のメールが届いた。最後の2行・・・「几帳面なお人柄の通り、後の編集がやりやすいように、細かいところまで気を配ってくださったことに感謝します。来週早速、料金をお支払いします」 几帳面なお人柄って、私のことですか。うひゃーっ、現在のわが家の有様は死んでも見せられないな、この人には。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月02日
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【2010年1月1日・金曜日】 可愛いトルコの女の子、元旦には弟が生まれてお姉ちゃんになる予定 みなさま、新年おめでとうございます。 世間にとっても自分にとっても激動の1年が終わり、また新しい年を迎えました。トルコにいると、官公庁や学校、銀行も元旦だけは休みますが、あとはシラーッとしたものです。 それでも大晦日の晩は格別。ヨーロッパ風にカウントダウンも行われ、タキシム広場からイスティクラール通りにはいも洗い状態で人が溢れていました。(テレビ中継から) 日本のように年末年始をあまり気にせず暮らせるところが私を暢気にさせています。 そういうわけで「怠け者の節句働き」にも似て、私は元旦に持ち越された大掃除という課題にこれから挑戦しますので、ほんとにきれいになるかどうか、怪しみながら結果報告をお待ちください。 オリーブさんには可愛いお供え餅をいただいているので、部屋がきれいになったらそれも飾り、多分1日か2日遅れで正月を祝うことになるでしょう。 掃除の前に、お雑煮だけは作って、諸方に感謝を捧げつついただくつもりです。食欲だけは翌日回しに出来ない私、今年もカロリーチックに暮らしそうです~。 冒頭の写真の可愛い女の子は、コンヤのエミネさんとメフメット・アリ氏夫妻の初孫、エミネスちゃんです。かつてバスの中で咳き込む私にコンヤの飴をくれたケリメの兄、ハサンさんの長女。ケリメにも2009年に坊やが生まれ、この元旦には、エミネスちゃんの弟が誕生することになっています。めでたい話です! 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 クバドアバド宮殿跡から出土のセルジュク王朝時代のタイル(コンヤ・カラタイ博物館にて)madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)
2010年01月01日
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