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今年度も2年生の広報部員が2学期号を担当することになった。行事が集中した時期の取材はちょいと大変だった。1日に学校を3往復し、翌日もまた広報で集まるてな具合だ。でも、それももう終わり。来週に最終チェックをし、あとは納品と配布だけ。今年の広報は楽だった。2学期の担当は3人。「昨年並みでいいよね」とはじめの集まりで決めた。新企画を入れようなどという意見はなかった。凝った作業もPC作業もほとんどなかった。印刷会社から、手書きの原稿でも、テキストファイルでも、ワードの原稿をもらっても、もっと本格的なファイルで提供されても、印刷の費用と納期は同じだと言われていたから。最近ではワードでレイアウト原稿を作り上げてから印刷会社に出す広報部も多いと思う。他の2人はワードで5段組の文書に写真をレイアウトしていたけれど、わたしは自分の担当分をデジタル化しなかった。手書きのレイアウト図を用意しただけ。イラストも印刷会社にお任せなので調達しなかった。PCでの事前作業はデジカメ画像を補正したくらいなもんだ。昨日下刷りに赤字を入れて印刷会社に渡したので、あとは赤字が直っているかどうかのチェックだけ。例年通りであれば、修正したものを印刷会社の方に学校へ届けてもらい部員の誰かが最終チェックするわけだが、面倒なので印刷会社の人に「すみません、最終原稿をPDFにしてメールで送ってもらうことは可能ですか?」と聞いてみた。「え?いいんですか?」と言われ、最終チェックがPDFでいいのかどうか不安になった。春「最終チェックがPDFだった広報誌ってあります?」印「いえ、ないです」春「問題あると思いますか?」印「いや、ないと思います」春「じゃ、送って下さい。」印「アウトラインとるので多少文字が太くなります。解像度はどうしますか」春「太いのはいいです。文字訂正だけ見ますから。解像度は200でいいです」印「はい。ファイルサイズは大きくても大丈夫ですか」春「あまり大きいようでしたら分割して送って下さい。他の2人にはわたしから転送しますし、PDFが開けないようでしたら印刷してFAXするので」というわけで、来週の最終チェックはPDFでということになりました。ホントにPDFは便利。OSの標準機能で付けてほしいですな。小学校時代の、何度もPCでレイアウトをやり直したり、何度も先生方に校正してもらったりした面倒さが一切なかったので「こんなんでいいんですか?」というあっけなさ。学校へ足を運び原稿依頼や回収をしてくれたり、いつも連絡を回してくれた仲間に感謝!気持ちよく仕事をすることができて、よかったです。
Nov 30, 2007
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友人が電話で「HさんとこのT小学校は役員決めが大変だったんだって~」と教えてくれた。なになに、T小学校は確かにPTA大変なんだよね、で、なんでモメたわけ?「それがね、結局誰も立候補がないし、役員が決まらなくて、くじ引きだったんだって。それで、くじ引きで選ばれた本人はやる気もないし、周囲も『この人じゃ役員はできない』ってなったんだって」は?なんのための「くじ引き」なんだ?そもそも「くじ引きで決めよう」と皆でルールを決めた段階で「誰が選ばれてもうらみっこなしヨ」ってのが不文律じゃないのか?くじ引きってのはそういうもんじゃないのか?くじが当っても「やれません」だの、ましてや、くじが当った人に対して「あんたじゃダメ」ですの、それって「くじ引きで決めよう」という決断をした責任を放棄してるんじゃないか?『無理が通れば道理ひっこむ』っていうの、そのまんまじゃないんでしょうか。ま~いいけど。人の学校だし。最終的には誰かやるんだろうし。この話で一番「なんだソレ、へんだよ」って思ったのは『この人じゃ役員はできない』ってところ。確かにPTAは学校や地域とのつながりもあるし、何にもわかってない人には意味不明・魑魅魍魎の世界で渡りきれないかもね。だからと言って「できない」なんてことはない。「できない」って言う人たちはきっと「自分にはできてあの人にはできない」「自分にはわかっていてあの人にはわからない」と思っているんだろう。「いまの委員長にはできるけど、わたしにはできないし、ましてやあの人になんかできない」ってのもアリかな。たしかにPTAの動きや流れがわかっている人と、まったく初めてですという人では仕事の大変さが違うだろうし、ワケわからん人が担当になれば学校や地域との連携で失敗して大事件に発展なんてこともあるかもしれない。でも、そんなときは、失敗して大事件になってもいい、くらいの心構えでやればいいんだと思う。PTAの失敗が子ども達の健全育成に色濃く悪影響を及ぼすなんてことはあまりない。せいぜい「今年のPTAはてんでなってない」とか悪い評判が立つくらいのもんだと思う。いいじゃん、悪く言われるくらい、ナンボのもんでもない。自分がPTAの活動を一生懸命して、システムを改善したり、予算をうまくやりくりしたりという経験があると、ついついPTAに思い入れが大きくなって、後任にも同じようにやってもらいたかったり、自分と同じ苦労はさせたくなかったり、色々考えてしまうこともあるんだけれど「わたしがPTAで何かを学んだように、他の誰かも、その人に合った何かを学ぶんだろうな」って今は思う。だから後任者は、好きなようにPTAをやればいいんだと思うし「どうせやるなら楽しくやりな」ってだけ、思う。PTAの役員決めに難航する学校が多いからこそ、ラフで参加型である意味無責任でもOKてなPTAがいいと思うんですけどね。はじめは無責任でも、やってるうちに責任感が出てくるのは子どもも大人も一緒じゃないかな。何年か前にPTA会長を何度もやっている民生委員さんに「教えてください。そもそもPTAって必要ですか?」と聞いたら「そうねえ、普段は必要ないわね。行事とかもいらない。でもいざ何かあったときには親たちが協力していかなきゃならない。普段からPTAで親同士の交流があればいいけど、何もPTAの活動がないと、いざというときに親同士が協力して動く仕組みがないから困るのよ」と教えてくれた。とっても納得。納得したら「つまんね~やる気もしね~PTA行事」でもきちんと参加して役割を果たして行くことが無意味じゃないと思えるようになった。それと、PTA活動をそんなに一生懸命、やせるほど気を使ってにやらんでもいいこともわかった。まあ、やせるほど気を使ったことなんてないんだけどね。
Mar 16, 2007
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東京国際映画祭のチケットを貰い夫と六本木へ。普段映画を観るのは品川プリンスだから六本木は『王の帰還』から2年ぶり。あら?「王さまは六本木で観る」パターンですな?韓流ブームでまじめに観たドラマは「冬ソナ」「チャングム」「パリ恋」「チェオク」くらい。『王の男』に出ている俳優さんは人気があるらしいけど知らない。そんなんで、事前に『王の男』の公式サイトでストーリチェックはしたものの、たいして期待せずに出かけた。それでもまあ、今まで見てきた韓流ドラマとはかなり質の違う作品で思ったより面白かった。ストーリーの新鮮味はないけれど、クァンデの生き様は素敵。コンギルはキャラクターとして1本の筋が通ってないような気がして不満。コンギルの優柔不断さで女性性を表現しているために「筋が通ってない人物像」に見えてしまうのかもしれないけれど。以心伝心の深い同性愛がコンギルとクァンデの間にはあるはずなのに、「自分にしかこの男(王)の哀しみに寄り添ってあげられる者はいない」となると、コンギルはクァンデに辛い思いをさせてまで王の傍に残ろうとしたりする。しかも王への憐憫だけでなく、与えられた地位にも少しは欲を持っているらしい。このあたりのコンギルは「気持ちが揺れるようす」よりも「翻弄されるようす」で描かれていて、コンギル自身はどう思ってるんだろう?ってイライラする。俳優陣は映画祭に来日したコンギル役のイ・ジュンギ(上写真右)は人気がある人みたいだけど、やっぱりクァンデ役のカム・ウソン(上写真中央)がうまかったなあ。王様役のチョン・ジニョン(上写真左)もよかった。ま、チェオクの剣のチャン・ソンベク役、キム・ミンジュン(→)のほうが色っぽくてカッコいいと思うけど。チェオクの剣は12月2日(土)午後11:10~0:10からNHK総合で再放送予定)
Nov 8, 2006
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リサ&ガスパールはカワイイ。去年は Pasco のパンを食べてサンドイッチボックスをもらった。そして明日から「マグカップとトーストプレート」の応募が始まる。もれなくプレゼントじゃないのが厳しいけど、頑張って家族に Pasco のパンを食べさせよう!まあ、キャラクター商品ってのはどうも始末に困るもんです。集めはじめるとやたらにコンプリートしたくなるものでもあるし、そんなもんをコンプリートするエネルギー(コスト含)は生活の贅肉って感じで。我が家においてはサンドイッチがお弁当になることは皆無で「うれしい~」と喜びで入手したリサガスサンドイッチBOXは袋も開けられずにデッドスペースを生み出す雑貨に成り下がり、今日はじめて小春の弁当をサンドイッチにして利用。1年でたった1回の晴れ舞台。「リサガスすき~」なんて言ったところでこの程度なもの。生活必需品じゃないから出番なんかほとんどない。だからイマシメとして金を出して買うのはやめようと心に決めている。ヨーカ堂でも伊東屋でも高島屋でもどこでも、リサガスグッズコーナーを15分くらい眺め、あれこれ手に取って「かわいいなあ~」と愛でても、絶対に買わない。夫が見かねて「買えば?」と勧めても、娘があきれて「買えば?」と言っても買わない。こうなると逆に買わなくても集められるリサガスグッズってことで Pasco のシール集めに燃えてしまうという、なんか偏執的なパターンに嵌っているような気がします。いやしかし、もしも「マグカップとトーストプレート」が当たっちゃったら、すでにパンパンの食器棚から何かを捨てて収納スペースを作り出さないといけないわけで、それはそれでまたわたし的には大問題。それでもやっぱり、明日からパンは Pasco だもんね。
Sep 30, 2006
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「まえがき」に書かれている内容から察するに「授業中に動き回る子ども」など、落ち着きのない子どもへの対処に不安を抱いている周囲の大人(保護者や先生)向けの導入本なのだろう。梅ヶ丘病院だけでなく、発達障害の診断を出せる小児科はいまどこも予約でいっぱいなのだそうだ。発達障害、足らぬ医師 受診者増加、初診まで3年待ちも(asahi.com)そんな小児医療の状況下で、この本の役割は大きいのだろう。 AD/HD(注意欠陥/多動性障害)のすべてがわかる本東京都立梅ヶ丘病院院長市川宏伸[監修]講談社 定価1200円 ただ、わたしにとっては「わかりにくい」と感じられる点が少なくなかった。《周囲からの働きかけを変えることが治療に》治療は、子どもへの対応を変えたり、生活環境を調整することが第一の選択肢になります。時間をかけて、症状を軽減していくことが目的です。対応の変更だけで改善しない場合には、薬を使って他動性や衝動性をおさえることもあります。薬物療法と対応の変更を並行して症状の改善をめざします。治療というのは、普通、医療行為のことだと理解されているのではないだろうか。読んでいて「ここで言うところの治療というのは子どもの周囲が変わること&投薬だよね?ってことは、医者が子ども本人に施す医療行為はないってことだよね?」と行間を読む読解作業が結構あってわかりにくかったのだ。この本を一般的なソフトウェアマニュアル(あるいはヘルプ)と比較するのは変なんだろうとは思うけど、わたし的には似てるなあと思う。パソコンを教えていると「エクセルやワードでこういう機能はないのかしら?」と質問されることがある。ソフトウェアの解説本やヘルプには、機能の解説や使い方は載っていても「こういうことはできません」とは書いてない。そしてこの本は、ドクターが監修している本なんだけど「医者には、これはできないよ」ということがはっきり書いてないのだ。「不安を抱える人をドクターが突き放す」ような表現になることを極力避けているのかもしれない。でもやはり、遠まわしにヤンワリ表現しないでハッキリ「病院に行く以外にも相談窓口はたくさんあるから、うまく利用して。親が外部のサポートを受けながら子どもの特性を学習して、子どもの環境や子どもへの対応を変えるといいのよ」言ってくれたらもっとわかりやすいのにな。まあ表現の好き嫌いレベルの話なんですけどね。イラストは親しみやすく、ページの構成も読みやすく工夫されていて、文字ばかりの解説書を読むよりはるかに読みやすい。「はじめてなら、これを読んでみて」と紹介しやすい本。でも曖昧な表現から意図を読み取るのが苦手な人だと「わかったようでよくわかんない本」かも。
Jul 12, 2006
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小春はなにかにつけて要領の悪い娘だ。中学に入ってはじめての期末テスト。試験に向けて勉強を始めたとき、嬉しそうに新しいノートを1冊用意して、顕微鏡の各部の名称を覚えるために顕微鏡の絵を描き始めた。「・・・このペースでやるつもりなのか、このムスメは・・・2~3日したら『間に合わない』と自分で気付くだろうか」という母の心配をよそに、まとめノートに色ペンなど使ってキレイに理科だけまとめている。数日しても本人は『間に合わない』とか『要点をおさえる』とかいうことに一向に気付かない。結局母の忍耐がきれ、塾で用意させられた試験対策用ワークブックと学校の試験範囲とをつき合わせて試験前勉強のスケジュールを立てさせた。ああ、これって過保護だよね?と思いながら。子どもが自分で勉強のスケジュールを立てられなければ、親が「早く勉強しなさい」とか「今日の分は終わったの」とか注意し続けなければならず、思春期に入る前にこのカオスから抜け出したいと小春には4年生くらいから「スケジュール立て」を毎週厳しく指導してきた。だけど身につかない。「全体を把握し計画的に時間を配分する」というような物事の処理が、つくづく小春には向いていないのだ。あなたの子どもにぴったりの「学習法」を見つける本著者:マリアエマ・ウィリスビクトリア・キンドル・ホドソン この本で「そういうタイプです」と出たときには「やっぱりな~」とダメ押しされた気分だった。ちなみに妹の子どもはまだ2歳だが(測定当時)「スケジュール立ててきっちり勉強するタイプ」と出た。うらやましいぃ。小春の場合は勉強の合間に落書きしたりするほうがいいんだそうだ。ほんとだろうか!?さて、のんびり屋の小春だって「期末テストは大事な試験」くらいはわかっている。でも区立小学校で今まで行われてきた「大事な試験」には試験のための勉強は必要なかった。むしろ実力で臨むことを前提として実施されるものだ。そう、いま流行りの「都の学力テスト」「区の学力テスト」である。もしかして「勉強は試験のためにするわけではない」という我が家の考え方と「大事な試験は実力で」という小学校時代の教えとが、もともとノンビリ屋の小春をさらに「試験対策のための勉強ができない中学生」にしてしまったのでは!?たのむから、もうちょっと切羽詰って欲しいんだけど・・・・
Jul 3, 2006
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猫蛙さんとこの「アフェリエイトリンクジェネレイター」を使ってみています。クリアファイルで作ってみました。一番の売れ筋商品は「サッカー日本代表」で売り切れ。なるほどね。注:このエントリはアフィリエイトリンクジェネレイターで作成したアフィリエイトリンクを含みます。
Jun 4, 2006
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小1プロブレム と 中1ギャップ。並べて書くと、「これ↑って日本語ですか?」と思うような文字配列。こんな何語だかわからん言葉で現象を語る教育界や周辺にも問題あるんじゃないかと思いますけど、わかりやすさ優先ですかね。Googleで検索すると、どちらが多くヒットするでしょうか。中1ギャップは「新語」だそうで。Yahoo!辞書-新語探検-中1ギャップ(2005年7月27日) 名付け親は新潟県教育委員会。へ~。小1プロブレムの解説は東京都教育委員会のサイトからどうぞ。小1プロブレムやら中1ギャップやらという現象は確かに見聞きして身近にあります。個人的には対岸の火事で当事者意識が薄いのですが、小1プロブレムは学校の教師の問題、中1ギャップは本人と家庭教育の問題だと思います。本質的な部分で決定的に違う気がします。さて「何件ヒットするか」の答"小1プロブレム"の検索結果約 9,430 件"中1ギャップ"の検索結果約 9,250 件"小1ギャップ"の検索結果 約 12 件"中1プロブレム"の検索結果 約 85 件僅差で小1プロブレムのほうが勝ちです。こんなツマラン数で比較して言うのもなんですけど、小学校1年生の担任の先生、頑張ってください。今この時期が正念場ですよ~。中1ギャップのほうは、今この時期に頑張れば収拾するようなものじゃないかもしれないですね。ひそかに進行していた成人病が発症するような根深さがある気がします。勝手な憶測ですけど。(成人病だって気付いた時から根気強く治療すればよいのだと思います。)保護者が小1プロブレムを「担任のせい」にしていられるうちは気楽です。いつか「中1ギャップ」の傾向と対策を考える時期になれば、担任まかせにはできませんから。中学受験もそうですが、情報集めは、早い方がいいです。たくさん情報を集めて「ええ~どうしよう」などと迷う時期を一通り過ぎると、肝が据わるから。親が安定して子どもを受け止めていることが、中1ギャップの一番の対策になるかもしれません。
Apr 19, 2006
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なにげなくTVチャンネルを回していて「徹子の部屋」が映った。今日のゲストは女優の五十嵐めぐみさん。彼女は現在21歳になる、学習障害のお子さんをお持ちなのだそうだ。知らなかった。お子さんの就労(自立)について、五十嵐さんがお話されていたことは次のようなことだった。経理やパソコンなどの就労に向けた技術を身につける努力はした。しかし、人とのコミュニケーションが難しい面があり、持てる能力を生かした職につくことは難しかった。五十嵐さんはお子さんと相談して、知的障害の認定のための試験を受け、障害者手帳を交付してもらい、授産施設で就労できる道を拓いた。黒柳さんが言うように、五十嵐さんがおきれいで苦労が顔に出てらっしゃらないものだから暗くならずに聞けるのだが、どんなにか深く考え悩まれたことだろう。知的障害認定のためのテストは不可、つまり「知的に障害はなし」とされたにも関わらず、人との関わり方を考慮された担当官が「お母様が望まれるなら、障害者手帳を発行します」と伝えたそうだ。「知的に障害がない」と言われてほっとし、いやしかし、自立のために障害者手帳を貰わねばならない、という気持ちが次に来て、障害者手帳を貰ったそうだ。青年期に臨み、親が子供の将来を選択し、限定ともいえる決定をして行かなければいけない現実は、簡単に人に語れるものではないと思う。五十嵐さんは、きっと多くの、同じように迷いながら進んでいる親子のためにも「うちの場合はこうでした」という話をしているんだなあと、TVを見ながら彼女の強さと優しさを思った。発達障害を持つ人の中にも、学業成績はとても優秀だという方はいて、たとえば早稲田大学にストレート合格するような人もいるのだけれども、このように知的能力の高い人ほど、障害のために「困難さを持っている」ことが周囲からは見えにくく、またプライドも高かったりして、そのため理解やサポートを受けにくい、という話を以前聞いた。2004年のことだ。(関連エントリ 2004/10/15「東京都自閉症・発達支援センター」) だから「自閉症よりも高機能自閉症のほうが就労でつまずくケースが多い」のだそうだ。この話を聞いた時は驚いただけだったのだが、あれから1年が経ついまは「本当に難しい問題だ」ということが少しはわかるようになってきた。難しいからこそ、学校社会で揉まれ、社会的スキルを獲得して欲しい。そのためには適切な援助も必要だろう。ともに学ぶほかの子ども達も、軽度発達障害の特徴を学校で見て覚えてほしい。コミュニケーションの手助けができる人に育ってほしい。わたしはいま、小学校で軽度発達障害を持つ子供の生活安全をサポートする「介助」の仕事に携わり、児童の社会的スキルの向上と、情緒の安定とを両立できるように努めている。こんな言い方をするとわかりにくいけれど、「できない!」としか表現できない子供に「手伝って、って言うといいよ」と教えてあげたり、イライラして攻撃的になっている子供に「「むずかしいねえ」と共感してあげたりする、そんな程度だ。介助がつくだけで、手のかかる子どもが放っておかれることは減るし、担任の負担も減る。担任の負担が減れば、クラス運営でも授業が停まったり、ほかの子どもを見る時間が減ったりすることがなくなる。専門家でなくても、まわりのオバちゃんでも、できることがあるんだ、と思う。もちろん充分ではないけれど、ないよりはずっといい。守秘義務を守れる、倫理観のしっかりした成人で、子供に柔軟に合わせることができる人ならば介助に携われる。専門家の育成と配置はもちろん進めて欲しいことだけれど、介助員の配置も、もっと多くの自治体で実施されてほしいと思う。
Feb 22, 2006
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今朝、録画した「白夜行」を見ながら「人格障害をめぐる冒険」の終盤を読んだ。我ながら「朝から暗すぎる?」と思いつつ。「容疑者Xの献身」より「白夜行」のほうが面白いとAmazonあたりの書評で見たように記憶しているのだが、たしかにそうかも。山田孝之と渡部篤郎の演技に魅せられてしまうってこともあるけれど。東野圭吾氏の作品と大泉実成氏の「人格障害をめぐる冒険」の両方に「運命の不平等さや社会の理不尽さに耐えられない」というモチーフを見る。こんなふうに平易な言葉にしちゃうと陳腐だけれど。たぶん多くの人が「運命の不平等さや社会の理不尽さに耐えられず」に、鬱になったり、暴力をふるったり(女性の場合はヒステリーを起こしたり?)、心身症になったり、家庭や職場などの身近なコミュニティで機能不全を起こしたりしているんだと思う。まじめだったり、努力家だったり、正義感が強かったり理想家だったりするほど、不全感や絶望感は大きいのかもしれない。先日「鬱」について友人と話した。鬱には見えない身近な知人が数名いるのだが、本人たちは鬱状態をかなり辛く感じていることがわかったからだ。環境から起こる「鬱」は受身であり被害者であるようなイメージがあるけれど、現状に納得できない、現状を受け入れられない気持ちの奥に、自分を許せなかったり、人を許せなかったり、状況を許せなかったりする「拒否」があるんだなあと思った。鬱の知人たちの「拒否感」は受身ではない、とわたしは感じる。自分の価値を表す「こだわり」であり無言だが強い主張だ。「人格障害をめぐる冒険」の第7章「片づけられてしまうこと」より不安をレアな形で持ち続けている相手に対して、人格障害という言葉で宮崎や麻原、そして少年Aを説明しようとしても、うまくいかないだろう。その相手は「この人は自分の不安をこの言葉によって"片づけて"しまおうとしているのではないか」と疑ってしまうのである。何よりまず、強い不安は不安として尊重されることを望む。「不安」は「解決」をもって安心に変わるべきものだと思ってきた。でも、そうじゃないのね。不安は不安として尊重されることを望むのね。不安もまた価値観の主張であり、それが充分に聞き入れられることが重要。なるほど。求められているものは解決ではなくて共感なのか。先日受講した虐待防止セミナーでも相談員が言っていた。「虐待行為はNGだが、虐待をしてしまうには理由もある。まず、虐待をしてしまう親の気持ちに共感し責めずに聞くことで、親が虐待に向かう自分自身の姿を冷静に考えるようになる。それで7割8割は改善する」って。今日クリップした↓でも「子どもを健全に育てるために必要なことは、お母さんをバックアップしてあげること」という話が出てくる。子どもを犯罪者にしないために親ができることはあるの?【前編】子どもを犯罪者にしないために親ができることはあるの?【後編】「世は共感という愛に飢えている」という感じなんだろうか。そしてまたそれもビジネスになる。カウンセリングも、白夜行のようなストーリーやTVドラマも「共感ビジネス」なのかもしれない。魂で共感できなくとも技術として共感する専門家も多く輩出されるだろう。わたしは、友達として、家族として、共感してあげられる存在になりたい。でも、わたしにはもとから共感する能力(触覚?脳?遺伝子?)が足りない。わたしもまた、技術としての共感を身につけようとしているだけなのかも。
Feb 17, 2006
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なんかの懸賞に応募したときに「スターポイント」っていう所からメールが届くようになったんだと思う。そういうことは良くあるから気にならない。でも最近スターポイントからのメールに重要●っていうプライオリティがついてて、我慢できなくなった。ウザい。メール配信の登録を削除しようと思い、メール本文下方にあるURLをクリックした。□退会□登録した覚えのない方へなどのメニューが並んでいる画面が出た。もちろん「退会」だ。そこにある説明だと「配信停止や解約の手続きは必ずログインしてから行ってください。」とある。へっ?ログイン?IDやパスワードなんて設定した覚えがない。そういうものは必ずメモるんだけどなあ?□登録した覚えのない方へというのをクリックしてみた。そしたらなんと高飛車な説明文が並んでいるではないか。「あんたは絶対になんらかの方法でウチの懸賞に応募したし、登録した」という内容だ。たしかにメール配信はOKしただろうよ。だがしかしログインせよと言われてもパスワードなんて設定した覚えなどない!!サイトメンバーになった記憶なんてないぞ。ひとりプンプン怒りながら、スターポイントのサイトを運営している「有限会社ギガワークス」などの企業情報をを調べつつ、どうやってログインするんだよっと思っていたら、なんとすでにログインしていた。・・・メールのURLをクリックするだけでログインする仕組みになってるってことだ。メールを配信されているユーザーがIDやパスワードを入力しなくてもログインできてしまうサイトに作ってるわけね。それってほとんど詐欺じゃないか?少なくともグレーだよねえ。(あ、グレーじゃないと儲からないんだっけ)ギガワークスが勝手に「メール配信してる人はサイトメンバーとして登録」しちゃってるわけだよねえ。わたしとしては「情報は送ってもいいよ」「広告送りたいならどうぞ」というつもりで懸賞に応募する。スターポイントの会員だのメンバーだのになったつもりはなかったんです。こうなると猜疑心に火がついてメールアドレスだけじゃなく住所情報なんかもスターポイント側に渡っていたのかなあ?などと心配になってくる。いままで、こんなにあつかましいアプローチを受けたことがなかったんで「はいはい、メルアド登録ね」てな調子だったのだけれど、これからはもっと気をつけないと。今度ChanceIT!やその他の懸賞メールでスターポイントの文字を見たら、どういう応募規約になってるか確認してみようっと。
Feb 6, 2006
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今日は放送大学の「社会福祉入門」単位認定試験。地域での「子育て支援ネットワーク活動」や、小学校での「軽度発達障害児の介助」を通して暮らしやすい社会をどう作っていくのかを考えてきた私にとって、この科目で履修したことは大いに学びとなり、特に、イギリスとアメリカの社会福祉の歴史で学んだ、COSとセツルメント運動は興味深いものとなった。COS(慈善組織協会)は個人や家庭への援助を行い、「救済するに値する貧民」と「救済するに値しない貧民」に分類して道徳観を強く打ち出し救済活動を行った。それに対してセツルメント運動はスラムに拠点施設を作り、地域の労働者との人格的な交流を通して援助し人々の主体的な力による貧困解決を目指そうとした。わたし的な解釈で表現すると、COSは「怠けているために貧乏なヤツは救済しない、働け」という姿勢だし、セツルメントでは「たとえ今は怠け者でも、本来の力を発揮できるように励まし教育しよう」という姿勢。前者は小乗的、後者は大乗的な宗教観があって、両者ともに正しさがある。現代日本の社会福祉は、セツルメント的な大乗志向のほうが強いと思う。「何をもってして怠け者と言うのか」という道徳的、宗教的な定義は、お役所にはできないからだろう。さて。セツルメント運動では「人格的な交流」によって救済を受ける側に自発的なヤル気を起こさせることが肝要なのだと思うのだが、その部分が欠落すると「介護が行き届いて寝たきりになった老人」ができたり「保育が充実して長時間保育に預けっぱなしにする親」ができたりする。福祉サービスと「ヤル気を起こさせる働きかけ」はセットになってはじめて救済になるんじゃなかろうか。「ヤル気を起こさせる働きかけ」がないまま、介護サービスや保育サービスが充実して、費用は莫大にかかり、家庭や地域の力が減退していくという図式は哀しい。
Jan 24, 2006
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夏から週1ペースで発達障害児の介助を始めました。感じること、考えること、いろいろありますが、ネットで公開できるような話題ではないことが多く。結果としてサイト更新は滞りますが「春生姜日記Movable Type版」のほうは試行を繰り返しながら成長し続けています。自宅や近隣出張でのパソコン教室の仕事も細々と続けていて、数年前から気になっている「年賀状の時に習ったアレ忘れちゃった~」という生徒さん用のWebページを、やっと用意しました。『ワードでつくる年賀状』一度レッスンして手元にテキストをお持ちの生徒さん用ですので、かなり不案内な内容になっていますが、このあたりのテクニックでつまづいているワード初心者の方にも役立つかもしれません。特にWindows Me の時代にパソコンを購入された生徒さんたちは、パソコンについていた「筆ぐるめ」しかお持ちでない方が多く、当時はまだ画像処理ソフトも薦められるようなものがなかったのでワードで年賀状を作成していたのですが、最近は PhotoShop Elements など自由度の高いソフトを利用してレッスンすることも多くなりました。今となっては「ワードなんかで年賀状作るのか」という感じもあるのですが、上記ページで紹介した機能はPTAや子供会のチラシにも応用できるものなので、よかったら覗いてみて下さい。
Nov 25, 2005
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パチパチパチ。やっと決まった。「教室の天井、3メートル規制撤廃 申請3度草加市が風穴」(asahi.com)「特区をめぐる攻防 Nov 2, 2004」で書いた、学校の天井3メートルの件がやっと国が歩み寄る形で決着した。しかし、この攻防のために使われた草加市のマンパワーは、草加市の持ち出しなのだろうなぁ。結構かかっちゃっただろうね。おつかれさま。
Sep 9, 2005
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久しぶりにMovable Typeのブログをチェックしたらアクセスが多くて驚いた。「書いてないのになんで?」と思ったが、解析結果から察するに夏休みの自由研究でいろいろネタ探しをする人が来てくれたらしい。しかし、同じネタが載せてあるのに楽天にはさっぱりお客が来ない。ロボットでの拾われ方がずいぶん違うのでしょうかねぇ?さて今年の夏休み自由研究は「空気のよごれ調べ」。やってみてどんなだったかレポートします。Step1 きっかけ夏休み前に東京都教育委員会のホームページで『くらしと環境学習Web』を見つけたところから始まった。官公庁系のこども向けホームページは、夏休み前から「夏休み中にこんな取り組みはいかが?」というテーマ提示があちこちに見られる。いろいろ探してみると面白いんじゃないだろうか。Step2 Web調査(ネット学習)YahooやGoogleでキーワード検索し、空気の汚れとは何か、小学生でもできる汚れの測定法があるのかなどを調べる。 このとき、「くうきのよごれ」「空気のよごれ」「空気の汚れ」など、キーワード設定が漢字とひらがなの違いで検索結果が違うことを教える。実験結果を見たいときには「実験結果」とキーワードを入れるより「測定値」など別の言葉に置き換えたほうが良い結果が出ることもあることを教える。Step3 測定キットの購入測定する場所と回数を想定し、「合同出版」で『空気のよごれ「はかるくん」』と『空気の汚れチェッカー』の2種類のキットを注文。Step4 図書館で資料集め 近くの図書館で空気のよごれに関係する児童書籍を借りこむ。これから調べる汚れの「原因」や「人に与える影響」を学習し、ノートに記録しておく。実験結果をまとめるときに使う。Step5 測定機材作り『空気の汚れチェッカー』で空気の汚れを測定するには、2Lペットボトルの底に7mmの穴をあけなければならない。ペットボトルの底は固いので、これがちょいと大変。小春の場合、お父さんがハンダゴテを使ってキッチリあけてくれた。よほど達者なお子さんでない限り、この実験には 大人の助けが必要だと思う。 ハンダゴテで穴あけ 測定用の道具一式 Step6 測定交通量の多い道路や、駅前、家の前など、測定地点まで上記「測定道具」を運び、測定する。「空気の汚れチェッカー」は濾紙に灰色の汚れがつくはずなのだが、交通量の多い道路でもほとんど見えない程度の汚れにしかならない。石原都知事のおかげで東京の道路近辺はずいぶんきれいな空気になったのではなかろうか。5年前に実験していたら面白かったかも・・・。「空気のよごれ はかるくん」は1時間吊るしておくタイプなので、測定地点に1時間以上は留まり実験することになる。熱中症対策が必要。Step7 まとめ 田舎でも測定上が「空気の汚れチェッカー」の結果。濾紙中央左寄りに灰色の円が薄く見えるだろうか?次が「空気のよごれ はかるくん」の測定結果。調査した日時の空気の汚れを東京都環境局の「大気汚染地図情報」で確認するようにした。光化学スモッグ注意報が発令された日に、朝から夜までの間に空気の汚れがどう変化したのかを見るのも面白い。小春の「研究のまとめ」は、始業式の本日、まだできあがっていないのでどんな風にするつもりなのか不明。結構一生懸命やったんだから、ちゃんとまとめてほしいもんである。親の目から見て「空気のよごれ調べ」は自由研究としてあまりオススメではない。小春の資料まとめやWeb調査は親がかりだったし、機材の費用は送料も入れて5000円くらいかかったし、用具を作ったり運んだりも大変だった。グループ学習には向いているけれど、ひとりの子どものためにこれだけの用意をして一緒につきあって路肩で測定するのは暇じゃなきゃできない。親が大変だとかいう問題を抜きにして、理科の実験として子どもの学習に適しているかどうかというと、これまた適していない面がある。空気のよごれとして一番身近な「光化学スモッグ」を今回の測定キットでは測定できないからだ。光化学スモッグの原因になる「オキシダント」は、子ども用の測定キットで測れるものではないらしい。今回購入した「空気のよごれ はかるくん」は二酸化窒素を検出するものだが、光化学スモッグ注意報が発令されているときにこれで空気の汚れを測定しても、たいした汚れは検出できない。左図のように「オキシダント」の汚染地域と「二酸化窒素」の汚染地域は必ずしも重ならないのだ。「光化学スモッグ注意報が出ていても、二酸化窒素は少なく、空気はあまり汚れていませんでした」という結果になることもある。(左図は本日12時の東京環境局速報、品川ではこのあと14時に光化学スモッグ注意報発令)もうひとつの購入キット「空気の汚れチェッカー」は自動車排ガスの粉塵を調べるもので、化学物質を検出測定するようなものではなく、検査紙が黒くなった度合いで汚れを見るもの。こちらはほとんど結果が出ず、苦労のわりに実りのない実験となった。 これらの結果を考えると、空気の汚れを調べて、子どもが自分の日常生活と結びつけて感じ取るような自由研究にまとめあげることは難しいと思う。
Sep 1, 2005
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4月から放送大学の「発達障害児の心と行動」「障害児教育指導法」の2科目を学んできた。久しぶりの大学の講義は子守歌かと思うほど眠くなる。23時45分からの放送をリアルタイムで見ることは不可能であった。始まって10分くらいで「気付くと眠ってしまっていた」状態なんである。大学生は偉い。こんな授業を聞く毎日を送っているんだから。講義録画のために買ってもらったDVDレコーダーは大活躍。受講している科目以外にも、興味のある科目はかたっぱしから録画で撮り貯めた。中でもお気に入りは佐藤学先生の「教育の方法」。佐藤先生は早口なので講義をノートに書き取りながらまじめに勉強すると、1講座45分の録画を見終わるのに3時間くらいかかる。ポーズと巻き戻しボタンの押しまくりである。いま「先生にリモコンついていて~」というファンタのCMが好感度2位らしいけれど、録画された大学の先生たちには、まさにリモコンがついている。大好きな佐藤先生も、わたしが洗濯物を干すなどの主婦業をこなしている時には、ポーズボタンで口をあけたまま、何分でも待っていてくださる。なんという贅沢!巻き戻せば何度でも同じ話を繰り返してくださる。ほんっとに文明の利器だよな~と思いつつ、便利さを享受できる喜びを味わう。放送大学では単位認定試験の前に「通信指導」というのがある。これがマークシートだったのだけれども、送られてきてはじめて「マークシートを塗りつぶすのってはじめてだわ」と気付く。わたしの人生にマークシートの試験ってのはなかったんである。自分がいかにオバはんであるかわかり、ちょっとショックを受ける。録画で撮り貯めた講義は、毎週見ればいいものを、やはり貯めて見ることになってしまった。45分の授業をノートに書きながらポーズしたり巻き戻したりしていると、2時間以上かかって見ることになる。はじめはDVDに焼いてからパソコンで再生し、それを見ながらキーボード入力でノートをとろうと思っていたのだが、実際に「ルーズリーフと鉛筆」というスタイルと、テキストエディタまたはワープロとDVDというパソコンでの学習スタイルと、両方を試してみた結果、「ルーズリーフと鉛筆」スタイルのほうが圧倒的に勉強しやすいということがわかり、なんとも旧式な学習方法でちまちまと勉強を進めることになった。通信指導提出前や、単位認定試験前などは家事を放ってビデオを見る。切羽詰っているわたしを見て夫も小春もそおっとしておいてくれる。たった2科目なのに、誠に申し訳ない。考えてみたら、最後に受けた試験は、たしか「ハーバルエスティシャン」というハーブのエッセンスを活用してフェイシャルケアを施すエスティシャンの試験だった。あのときも勉強はしたけれど、どちらかと言えば実技重視だったから、アンダーラインを引いたり、暗記したりの試験勉強は22年ぶりということになる。暗記できなくなったし、試験勉強で白髪がバクハツ的に増えたような気がする。「単位がとれなくたって、役に立つことはあるよ」と試験を受ける前から夫がなぐさめてくれた。う~ん、「単位がとれたって、何の役にも立たないかもよ」なんだれども。なぜ学びたいのか、学ぶとどうなるのか、自分でもよくわからないところもあるんだけれど、ただ、学べるうちに学びたい。そして学びながら自分の進む道が見えてくるといい。学ぶことで何か社会的に役に立てることがあるといい。カルチャースクールの延長としての放送大学なのか、人生の岐路としての放送大学なのか、走り始めてはみたけれど、まだ先が全く見えない。
Jul 29, 2005
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楽天からカード情報が漏れてるって?Yahoo Japan でいつものようにニュースをチェックして、リンクをたどり、本家ではどう対処しているか楽天のトップページもチェックする。小さいけれど先頭にお知らせを載せているな、さて、楽天を利用している「広場の住人」は何を書いているかな?と広場トップもチェックする・・・が、もうこの居住空間入口には、そのような自虐的な世俗のニュースは載っていない。注目は「夏休み中の小学生のママ集まれ!」だそうだ。わたしが「出産・子育て」のカテゴリで登録しているから出てくるのかな?なんか、あまりにもマヌケっていうか。力が抜けました。とりあえず「株式会社センターロード」では買い物した記憶がないし、何か対処のためのアクションを起こす必要はなさそうね。今日の東京は暑い。朝、テレビで「東京はきのう、ミンミンゼミが鳴きました」というお天気おねえちゃんがコメントするのを聞き、わたしが「ミンミンゼミなら、もうずっと前から鳴いてるよ。『動物の森』やってるときに外でミンミンゼミが鳴くと、ゲームの中のセミか本物かわかんないのよね~」と小春に言う。小春が「ミ~ン、ミ~ン、ミン、ミン、ミ~ン」とセミの真似をする。夫が「夏になって子どもが蝉の鳴き声を真似するのを聞くと、家族がいて幸せだなあって思うよ」とノンキなことを言う。光化学スモッグで灰色になった東京の空をパソコン越しに4階の窓から眺めながら、カード情報流出で家の経済には影響がないのか考え、でも、わたしの生活のメインは「なつやすみ」の子どもをはぐくんでいる、主婦と母の仕事。今日も小春のとんでもなく理解していない算数につきあい、ごはんを食べさせ、遊びに行かせ、その間に自分はボランティアに出かけ、夜はチャングムを見てから寝かせる。たくさんの人たちが、今日もよい一日を送れますように。世界中から、辛いことが減りますように。
Jul 28, 2005
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昨年の夏「自由研究は親が手伝うもの?」8/20と「給食はじまって母はウレシイで~す」9/2の日記に小春の自由研究の顛末を書いた。そんなこんなで小春(5年)の自由研究「目黒川の水質調査」は、区の理科展に学校代表として出展されたのだった。6年生でなく5年生からの出展になったのはスゴイのか?などと思っていたが、今考えれば、6年生は皆受験体制に入っていて理科研究どころじゃなかったんだな。わたしは母親として欠陥があるのか(基本的に人間として共感性が乏しい)子どもが代表になったり受賞したり等を嬉しいと感じたことがほとんどなく、子どもにも「良かったね~」とか「すごいね~」とかほとんど言わないし、言ってもウソくさい。せいぜい「へ~、すごいじゃん」くらいな反応だ。だからなのか、小春も成績が上がっても賞をもらってもあまり喜ばない。目黒川の水質調査では「一番大変だったのは地図だけど、そんなのは誰にもわかならないね」と小春に言ったら「うん」と。でも、どうやら小春としては昨年の出展が嬉しかったらしい。今年も模造紙を使って発表するような理科研究をすると、夏休み前から言い出し「何がいいかな」と相談してきたのだ。昨年理科研究のまとめを手助けしてみて感じたのは、デジカメ画像をうまく処理して取り入れたり、インターネットで調べたり、地図を使ったり、図や表を取り入れて発表資料としてまとめたりといった、いわゆる「総合的な学習の時間」で学ぶような事項が、小学校教育では実用レベルで身に付くところまで行き届いていない、ということ。そして、親の根気があれば、夏休みの理科研究で子どものそうした情報処理能力を高めることができる、ということでもある。子どもの宿題を手伝う気はないのだけれど、自由研究のテーマによってはとてもよい情報処理教育になるから、せっかくヤル気になっている小春のために今年の夏は付き合ってやろうと今は考えている。今年のテーマは「空気のよごれ」に決め、図書館で本を借り込み、インターネットで調べて、よごれを測定する機材を検討中。でも母娘ケンカで決裂し、自由研究が放棄になることもあるかもな~。
Jul 23, 2005
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今日は朝から気分が良かった。ちゃちゃっと掃除し、洗濯機も元気よくまわし、ボランティア活動に出かけた。気持ちよく活動できた。お昼あたりからカラ回りしはじめた。まず、炊飯機にご飯が保温されていたのに、冷凍ご飯をチンしてしまった。こんなことでは主婦失格なんだよな、と思いながら残り物でご飯を食べる。次にボランティア活動の仲間に連絡事項を一斉メールするが、内容をミスった。項目の抜けと日付の間違い。古いメールアドレスのための配信ミス。新アドレス不明のため仕方なく電話する。次に学校へ行き、上記とは別件のボランティア活動のため校長先生にお会いしたかったのだが、てい良く断られる。こっちは結構緊張して行くのだが、意気込みがある分、門前払いを食うとくじける。1時間近くも待ったのに、6年間PTAでかなり貢献してると思うのに、パソコンクラブのボランティアやってるのに、門前払いなんて。イジワルされているんだろうか。だんだん気分がヘコんでくる。小春が帰宅して、今日の学校のできごとを一生懸命話すが、なかなか笑って応えられない気分。主婦だけど、仕事を持ち、ボランティアやって、PTAもやる。ついでに今年は学生もやっている。そういうふうに軸足をたくさん作っておいて、どこかの軸でヘコんで自分の能力のなさに打ちひしがれても、また別の軸で「わたしだって役に立てるじゃん」みたいな気持ちになれれば、気分的なヘコみからは脱することができる。いろいろな事をしていて忙しいでしょうとか言われることもあるけど、実際はどれもこれも中途半端でいい加減にやっているので多忙なわけではない。わたしのヘコみ対策、つまりは鬱対策なのかもしれない。それでもやっぱり今はヘコんでる。校長先生のばか。顔見て「今日は忙しいからまた明日話してください」ってご自身で言葉をかけて下さるだけでも、ずいぶん「門前払い」とは違う気持ちになれたのに。こんな日は世の営業マンが偉く思えるよ。わたしだってくじけるもんか。オマエなんか来るなってスリッパで頭叩かれても頑張るぐらいの心意気で行くぞ。あ、やばい。こんなに力むからヘコみが激しくなるんだ。うう~ん、力を抜いてリラックスして果敢に挑戦ってのは難しいですなあ。
Jul 15, 2005
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夫はすでに幼稚園時代に登校拒否するような子どもだった。わたしは5年生の時に学校の先生がヤな奴で登校拒否をしたことがある。小春は親戚のオバちゃんなんかから「学校楽しい?」と聞かれると答えに窮している。そんなこんなで、我が家では学校を「楽しい場所」とは捉えていない。家族全員がマイペースなので、いつも喧騒としていて短い時間単位で管理される学校の体質とそりが合わないんじゃないかと思う。ウチみたいな家庭はアウトローというか、健全じゃない考え方なんだよな、ほんとはこれじゃマズいんだよな、と思ってきた。が。「学校教育を変える制度論」を読むと、多くの学者さんたちが「元気で明るい学校」という面ばかり強調するのはヘンだよ、と言っている。なんだかホッとした。母親たちは子どもを「右肩上がりに成長させたい」んだけれども、それが子ども自身の「等身大で地に足がついた状態」とは乖離していたりする、そういうことが原因になって、さまざまな問題が起こってくるっていう話。すごい納得できる。学校では、役割や規範があって、子ども達はそれにうまく「合わせる」ことができれば「良い子」なんだよね、たいがいの場合。小学校のあたりまではだいたいそうで、教師や親の子どもに対する評価の多くはそういう傾向なんだと思う。だけど、子どもが学校で学ぶべきことは示された規範に合わせることだけじゃない。友だちと対立したり共鳴したりしながら、認め合うことを学び、助け合うことを学んでいく。見守られた「学校という小さな社会」の中で、いろいろな人と社会を作っていくことを体験していく。別に「誰とでも友だちになれる」のがいいとか、社交的じゃないとイケナイとか、そういうことじゃないけれど、集団の中で「自分はこんな事で役立てるし、ここに居てもいい」という安心感覚のポジションを探りながら動けるといいし、相手のポジションにも心を向けることができるといいと思う。コミュニケーション能力っていうと、現代的には「価値観の違う外人に英語でプレゼンテーションして納得させる技術」みたいな感じになっちゃうけど、そういうんじゃなくて、孫のそばに居るだけの爺ちゃんのような、あんまり役に立っているとも思えなくても、存在だけでも充分に心の支えになるみたいな、そんな「場での調和」みたいな感じ。そういうものを感じ取ったり、工夫して居心地よくしたりする試行錯誤は、学校の持つ学力の競争、できるできないの能力の競争の面が強調され過ぎると、どうしてもしにくいんだと思う。「教育」っていうと、今は、百マス計算の陰山校長にしても、民間人校長の藤原校長にしても、声に出して読みたい日本語の齋藤孝先生にしても、子どもの「集中力」を伸ばすことを具体的に教えてくれているし、それは大切なことなんだろうけれど、でも、集中力を伸ばすっていうのは、学校でなくても出来るのかな~っていう気がする。学校という場で「皆で取り組むからこそできる」という子ももちろんいるんだけれど。「教育」と「学校」は一緒じゃないんだよな~と思う。というか、そういう違いなんて、数年前は考えていなかった。小春が就学した頃から「ゆとり教育への批判」が言われていたこともあって、学校に教育の充実を望んできたけど、小春が6年になる今、社会全体の中で学校に果たしてもらいたい役割を考えると、お勉強の面じゃないと思う。学校でしかできないことって何だろうって考えると「人と人との間合いの作り方」っていうか、集団の中での自分とか、価値観の違う個人と個人との信頼の結び方とか、そういうことを学ぶことかな~と思う。家庭でも、塾でも「公共」の体験は積ませられないから。個人の能力を伸ばす教育ってのもいいんだけれど、それを否定する気は毛頭ないんだけれども、でも「人との関わりの結び方」をこそ学ぶ場が学校であってほしいなあと思う。それは軽度発達障害を持つ子ども達にも、不登校の子どもにも、ひきこもりの子どもにも、必要な場なんじゃないかと思う。そういう場は受験対策塾みたいな「イケイケ集中力!!」みたいな、雰囲気じゃ、ダメなんじゃないかと思う。『学校教育を変える制度論』活動の装置としての学校 著:佐藤学 の章よりお祭りが一日なら明るく元気にふるまえるだろう。しかし、毎日が「お祭り」になると、人は怖ろしく疲れてしまう。どんなに幼い子どもでも大人と同様、幸せも体験していれば不幸も体験している。浮き立つような明るい情動も抱いていれば、闇の中に沈みこむほどの暗い情念も抱いている。日常性とは、それらすべてを包摂していることを意味している。しかし、「明るく元気な学校」では、その不幸の部分と暗い部分を表現することは禁じられている。静かにおとなしく過ごすことも奨励されていない。絶えず「元気」に「がんばる」ことが暗黙に強制されているのである。しかし、「明るく元気な学校」において、誰もが「明るく元気」に過ごせるわけではない。一方に「明るさ」と「元気」を率先して担う子どもが登場すれば、もう一方には「暗さ」と「無力」を背負わされる子どもが準備されている。「明るく元気な学校」に危機的現象が多発するのは、このメカニズムによっている。小春が1年生になった頃、わたしもママ1年生だった。あの頃考えていた「学校教育」というイメージは、今ではすっかり変わってしまった。こうあってほしい、という希望が描けるようになった頃、ひとり娘は小学校を卒業する。そんなものかもしれない。三脇康生・岡田敬司・佐藤学 編万葉舎 1800円第一部 制度論の射程 制度論が志向するコミュニケーション・ネットワーク 教育学と精神医学の対話 制度論的教育学の今日的意味について第二部 学校教育の再生 制度論の契機としてのダイアローグ 活動の装置としての学校 ある中学校教師の成長過程 子どもの姿から教師のあり方を考える 学校内部でのスクールカウンセラーの機能について
Jul 13, 2005
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子供誕生ごとに100万円支給 大和ハウスが新制度わかりやすくていいですね~。毎月手当てを支給するよりもインパクトありますもんね。PR上手です。子育て支援っていろいろ政策を出してきますけど、行政側はまず「これだけのことを、今現在でも行っています」というのを知らせた方が良いと思いますけどね。0歳児を保育園で1ケ月保育するときの経費って、いくらかかるかお母さん達知りませんから。地域によって偏りはあるでしょうけれど、入れモノ(施設)から人件費まで入れたら、認可保育園なんかでは何十万ってかかるでしょう。こういう金額を知ってたら「保育費が高い」なんて口が裂けても言えないし、自分の子どもにそれだけお金をかけて面倒見てくれてると思ったら子ども自身が社会貢献できるように育てるんじゃないかしらと思いますけど、甘いですかね。「あんたの子どもに税金をこれだけ投入しましたから」なんていう通知が来たら不愉快極まりないのかもしれないですけど、私たちは自分の所へ還元されている税金に対しては不注意で、持っていかれる税金だけを気にして生活してるような気がします。そろそろ時効で日記に書いてもいいかな~と思うのですが、以前PTAの委員会で集まりに出席しないママが「わたしは働いて税金を沢山納めているから、仕事してないあんたたちがPTAのことはやって」みたいなコトを言って、ブチ切れそうになったことがありました。当時彼女は子どもを学童保育に預けていたのですが、そういうところで自分の家庭がたくさん税金を使っていることなんかは気付いてないようでした。当時わたしは仕事をして学童保育を利用しPTA委員と学童の役員を引き受けていたのですが「こんな人と仲間意識を持ってやっていくことなんかできない」と強く思ったことを忘れられません。手当てなんかでボチボチやんないで、ドド~ンと一括支給して「金出してるよ」という姿勢を見せ付けること、そういう子育て支援の形式を、もっといろいろな所でも実践していいと思いますな。
Jul 4, 2005
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自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」著者:佐藤幹夫氏主催の編集工房・樹が陣営面白いか、と聞かれれば「考えさせられる本」というところか。裁判の場面について頁数が多く、筋読みしたかったわたしには細か過ぎて読みにくい印象も強い。半読み物、半資料のような書籍で、発達障害に関係する福祉・教育関係者には一読を勧める。この本で、たくさんのことを知った。犯罪加害者が障害者だと、障害者の人権に配慮してあまり報道されないこと。普通中学を卒業したあと高等養護学校へ進学する人たちがいること。高等養護学校を卒業し社会へ出た若者が、就労先などの実社会で「養護学校出身」であるがゆえに蔑まれたりすること、また、卒業後に連絡つかずで所在不明になる人が少なくないこと。共生舎のような組織や活動があること。・・・わたしが、こういう社会について何も知らないということ。レッサーパンダ帽男のY・Mは札幌市内の公立中学校を卒業後普通高校へは行かず、高等養護学校へ進学している。彼には放浪癖がある。彼を支えて見守る力が、彼の家庭にはなかった。どこで何をしていても、反社会的な行為があっても彼を諌めてくれる人はいなかった。この本は、Y・Mが逮捕されてから裁かれるまでの様々な手続きが、自閉症者に対する配慮を欠いていたことについて書かれているが、「司法」の領域に限らず「行政・教育・福祉」に対しても、その責任を問い直すことを求めている。性的な情動を満たすために通りすがりの女性をナイフで脅すというレベルの理性と社会性しか身に付けていていなかったY・Mが、保護監察的な援助を受けずに生活していた。なぜこんな事件が起きたのか、もう2度と同じような事件が起きてほしくない、そう考えるとき、Y・Mを社会から孤立させたまま何もできなかったのはいったいなぜなのかを問わずにはいられない。障害者手帳が交付されていても役に立つことはなく、卒業後に社会生活がうまく行かなくても、福祉の手は行き届かなかった。Y・Mが異常な人格で、この事件が特異なものであるということであれば、この本は書かれなかっただろう。Y・Mは氷山の一角なのだ。次のY・Mが生まれてしまう可能性がある、だから著者は警鐘を鳴らしている。被害者の叔父は犯人のY・Mを「地雷」と表現する。Mちゃんは地雷を踏んでしまったんだと私は思う。これは事故ではないし、まして運命でもないし、運命だったとも思いたくない。地雷さえそこになければ防げたことだった。私はそう思っている。私は、障害をもつ人たち全員が地雷だなんて言っているのではない。Mちゃんが地雷を踏んでしまった。Mちゃんの踏んだのが地雷だった、そう言っている。地雷を世の中に戻せば、必ず誰かがそれを踏んでしまう。犯人は前科があって、刑務所に何回か入っていた。そういう傾向のあった人間を、なんでそのまま戻したのか。行政と司法の責任だと思う。学校時代から家を出て、ふらふらとあちこち行っていたという。なんでそのままにしておいたのか。なんで目を光らせて、きちんと対応しなかったのか。学校を出たあと、一人で出歩けない施設におくなり、なんで一度もそうしたことをしなかったのか。これは教育と福祉の責任でもある。だから行政なり福祉なりがきちんと対応していれば、間違いなく防げた著者の佐藤氏は「学校と福祉、なぜなにもできなかったか」という節を書いている。そこに出てくる共生舎の岩淵さんのお話。「他の施設や作業所で面倒を見切れなくなった人間がうちに来る。口じゃなくて、手を動かせ。他の作業所ではそう教える。学校もそうだ。しかしうちはそうじゃない。どれだけ口を動かすか、だ。どれだけ新聞を読んで、テレビのニュースを見て中身を理解させ、どれだけ世の中の出来事をわかってもらうか。世の中との折り合いというのは、そこからしかつかない。単純作業がこの人たちは得意だ、飽きずにやる、と他の施設の職員は言う。ほんとうにそうか。そんな人間がいるか」→共生舎で働く横井寿之さんの「K@t@ruBelog(かたるべログ)」はこちら。共生舎のような活動を知り、自閉症裁判のような本を読むと、知らなかった頃と同じ自分ではいられなくなる。本を読んだ頃、学校では年度の変わり目だった。娘は小学校6年生。思春期のはじまり、そして「将来を考える時期」でもある。品川は学校を選べ、都立の中高一貫校も増え、ますます選択肢は広がっている。子どもの学力に関する報道も多く「ウチの子が元気で楽しく学校に行っていればOK」的な親は少なくなった。都立中高一貫校の説明会では「卒業後は留学するお子様のための選択コースがございます」といった私立並みの品揃えが披露される。もちろん親としてそうした情報集めはする。でも心のどこかに「一流大学へ入る」とか「留学する」とか「勝ち組になる」とか、そういう強く明るい面ばかりを見ながら子どもの進路を考えられなくなっている自分がいる。社会にはいろんな人が住んでいる。Y・Mのような「つい犯罪を繰り返しがちな障害者」を、世の中から隔離して税金で養うのか、犯罪を繰り返さないで済むような援助のしくみを税金で構築するのか、また援助しても繰り返しそうな場合の判断はどうするのか。娘には、そういうことを「自分の住む社会のことだから、関係ないことではない」と感じられる人になってほしい。Y・Mは裁かれるべきだと思う。しかしY・Mだけが裁かれて終わりでいいとは思えない。行政・司法・教育・福祉が、この事件と裁判を受け、より良く変わることを祈る。
Jun 22, 2005
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パソコンクラブを手伝いはじめて、今年度で4年目。ようやく、あるひとつのことに気付いた。それは「6年生の女子はオバサン化してる」ってことだ。6年間も同じ学校で暮らし、最高学年の女子ともなると、恐いものナシということなんだろうかね。4年生はクラブ活動がはじめてなので、新参者で小さくなっている。5年生くらいから子どもの個性によってグループ化され、2~3人の女子が固まってパソコンの席を取ったりする。それでもまだ横柄さはない。6年生になると、パソコンクラブにきて、インターネットで検索を始める。何を検索するかって?ジャニーズ系のオトコ。あとは自分達が出入りしているコミュニティサイト。この子達はネット接続の仕組みは理解していない。学校のパソコンからアイドルを検索していることなんて、ボランティアのオバちゃん(わたし)が黙ってれば誰にもわからないだろう、くらいに思っている。クラブ活動担当の教師がそうした「勝手なネットサーフィン」をたしなめることはない。ワタシ的には「あんたたち、そういうことは家でやんなさい」という気持ちが強かったのだが、自分の娘が長じるにつれ、小5・小6の女子が、いかに友だちと遊ぶ時間が少ないのかを知り、友だちと一緒にご贔屓のアイドルをネットで漁る楽しみは彼女たちにとっては貴重な息抜きであることも知ったので、後ろから「またオトコかい」とヤジるくらいなもんだ。小6の女どもは「いいじゃん、ウザいな」とわたしに言いながら、ホストのようなオトコの写真を次々に表示させている。「いいじゃん、ウザいな」というコトバは、ボランティアの父兄に対して失礼な言い草なんだけれども、そう言ったのは小春の友だちで、ウチにもよく遊びに来る子なので、一種の照れ隠しであることは容易に想像できるんだけれども。今年度は小春の同級生女子が多いということもあり「ネットのリスクを教えたい」という気持ちが強い。「自分の身は自分で守りな。」って思う。とりあえず、ログインするタイプのコミュニティサイトへの出入りは禁じた。どうしてもログインしたいときには、わたしの許可を得てからにしろと。「ネットの中では自分が何をしても、どこの誰かがわからないと思ってるだろうけど、調べれば、この学校からパソコンクラブの時間に接続していた子どもがいて、掲示板に書き込んだ情報だ、というようなことは全部バレるんだよ」と教えた。いままで、そういうことを教えたくても、やれカード作りだ、やれアイロンプリントだと「お楽しみ系時間潰し」で過ごしてきたし、メールマナーなどを教えたいと担当の教員を通じて学校管理職に申し出てみても「かえって、そういうことは教えないほうがいいので」とやんわり断られて来たのだが、今年はもう、学校側に伺いは立てない。好きにやらせてもらうゼ!と決心している。さて「6年生の女子はオバサン化現象」だが、なぜか毎年小6だけが特出して横柄であることを感じる。「ログインするサイトはダメだ。うちの学校がどこに接続してるか、教育委員会が調べればわかるんだぞ。あんまり頻繁に遊んでると、怒られるかもしれないぞ。」と言ったその20分後には「ねえ、ログインしてもいいでしょう?」とこっちの腹を探る女が現れる。なんつうか、生きる力があるって言うんですかね、諦めたりしないんだよね。隠したりもしない。「ダメって言ったでしょう?」と言っても「お願い!」と、すがってくる。そうなるとワタシは弱い。だって基本的に女の子たちは皆かわいいんだもん。「も~、しょうがないな」と許可する。ただし、どんなサイトに接続するのかは後ろからしっかりチェックを入れ「ここって何?どんなところ?」と聞いて、ログインがバレても恥ずかしくないサイトなのかどうかは確認するんだけれども。この「わがままさ」というか「自分の思うようにやっていいじゃん態度」っていうのは、振り返ってみると昨年の小6女児にも、おととしの小6女児にもあった。彼女達は皆グループになると横柄な態度で管理指導者につっかかってきた。でも、個人的に話すと、みんな横柄さなんて微塵もなかった。思春期の傷つきやすい揺れる心を、グループ化して守っているのだろうか?「オバサンの横柄さ」を身につけることは、この年齢期の少女達に傷つかないための強さを与えてくれるのだろう。だけど、本当のオバさんから見たら、それは哀しい鎧でしかない。傷ついたときに、傷ついた自分のままで存在できる安住の地を、家庭に持っていないのではないかと思う。わたしもそういうオバさん化鎧を着た少女だったと思うし、いいことなのか、わるいことなのか、断言したりはできないけれど。ただ、なんとなく感じたのは、「小学校の6年って、イマドキの子には長すぎるのかもしれない」ってこと。学業面だけでなく、精神的なもの、心理的な成長から見ても、6・3制は弾力的に変化していってしかるべきなのかもな~。
May 18, 2005
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いつもドトールは読書の時間となる。現在『学校教育を変える制度論~教育の現場と精神医療が真に出会うために~を読んでいる。私的な関心が、学校教育→教師のあり方→教室内秩序の維持→一斉授業では対応困難等手間がかかる児童の理解→学校が作る未来の日本あるいは世界→学校の果たすべき役割、というように変遷してきたので、この本が示唆することは興味深く面白いが、日常的な日本語とは思えない読み辛い文章に苦しめられ、なかなか進まず。携帯で口語じゃない文章を書くのはキツイなぁ。
May 17, 2005
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半月ほど前「ボビー・フィッシャーを探して」という映画を見た。チェスの駒を追うジョシュの瞳がいい。チェスのことは全くわからず、ボビー・フィッシャーが実在の人物であることすら知らなかったが、昨日朝NHKのニュースで彼が現在日本にいて、近くアイルランドに出国することを知った。http://www3.nhk.or.jp/news/2005/03/22/d20050322000030.htmlこの日記を書くためネットで調べていたら「日本の常任理入りの夢つぶす」=元チェス王者支援グループが警告 というニュースが出てきた。映画の中では「見失われた過去の英雄」という感じだったのだが、そんなことはなかったのね。時の人だったんだ。***追記 日記書込み後「米政府が元チェス王者の引き渡しを要請」というニュースを見た。や~。結構大変なことらしい?ところでこの「ボビー・フィッシャーを探して」にチェスの先生役で出演しているベン・キングズレーは(好き~)は「シンドラーのリスト」にも出演している。昨年12月にNHKドキュメンタリーで「ハンナのかばん」を見た小春は、何か心に響くものがあったらしく、すぐに図書館で本を借りて同名の本を読んだ。「それじゃ~、シンドラーのリストもみせてみようかな。」とさっそくDVDを借りて見せた。ところが、重くて暗いテーマと画面について行けずに「これは見たくない」と言われてしまった。あちゃ~。やってから分かる親の押し付け教育の失敗である。バカ母の失敗とは関係なく、夫は自分が見たかった「ライフイズビューティフル」を先日借りてきた。小春はチャップリンなんかも好きだし、この映画もはじまりから画面に釘付けで見ていたが、わたしは好きじゃなかったので途中で見るのをやめ、パソコンの仕事に向かった。映画が終わると夫が「あ~面白かった~」と満足そうにパソコン部屋に入ってきた。彼にしてみれば「家族でいい映画も見たし、これからまた夜なべ仕事でもするかな」ということなんだろう。ところが小春はドヨ~ンと沈んでいて「おかあさん、一緒に寝て」と言う。ラストは強制収容所でお父さんが死んじゃうなんてものを、夜、子どもに見せるなよ~>夫。わたしは逆にラストがこうだと知ってたら見たけど。そんなこんなでホロコーストに関する教育(?)が進んでしまった我が家。小春が今朝起きて「おかあさん、夢で強制収容所に連れて行かれた」と言うので、ああ、これはヤリすぎてしまった。と、いたく反省。「それでね、すぐ出てこられたんだけど、おかあさんがね、運動神経が良くなってたの!」ってのは何ですか?よくわかりませんね?小春がゲームや勉強する横で母が「へんな体操」をしてるからですかね?う~む。いっそホロコースト教育資料センターに小春を連れて行き、春休みのイベントに参加させて、小春の「中途半端な情報」をきちんとした情報にしてあげたほうがいいのかもしれないな。行きたいかどうか、聞いてみようっと。
Mar 23, 2005
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日テレのドラマチック韓流のドラマをテレビでつけっぱなしにして、洗濯機をまわしながら、 Norton Systemworks と Norton Internet Security を2005年版に更新しながら、掃除機をかけたりトイレやテレビ棚の裏もいつもより念入りに掃除した。こんな気分よく充実した主婦の日って、わたしには貴重。部屋の空気が落ち着くので、夫が帰って来たら喜ぶだろうな。そして「えらかったね~、ありがとう」と誉めて感謝してくれる。そう想像するだけで「いい日でよかったな」って思う。こんな幸せが大事。どんなにちっぽけでも、どんなにヘンテコでも。ここのところ小春が買ったゲームキューブと「どうぶつの森e+」にハマり、仕事も主婦業もサボり気味。暇を見つけてはゲームの中で魚釣りと虫取りに明け暮れる。実はリアルの魚釣りというのは一度も経験したことがない。ゲームの中の魚釣りでコントローラーがプルプル震えるのは初体験のウレシサなんだ。う~、シーラカンス釣りてぇ~。こんな日々で掃除もいい加減だったのだが(ゲームにハマらなくても、もともと掃除下手)、昨日夫が空気清浄機が欲しいと言い出し(こちらは花粉のため。掃除下手は耐え忍んでいる)、埃がいつもより気になったので何となく「今日は掃除に燃えるぞ」とやってみた。燃えたところで、せいぜい3時間ほど頑張る程度だが。小春は先日学校の家庭科で「掃除のコツ」を調べていたが、けして私に掃除のコツを聞くようなことはせず、ネットでさくさく調べていた。わたしもね~、見るんだけどね~、掃除の仕方の本とか。うまくはならない。でも若い頃よりは少しはマシになってるかも?インテリアコーディネーターの妹の家は、いつも落ち着いた清潔さがある。同じ家庭で同じ母親のもとに育ったのに、この違いは何なんだろう?生徒さんのお宅でも「ここの家はどうやって掃除しているんだろう?」と不思議に感じるくらい、空気までキレイなおうちがある。パソコン教えますから、掃除教えてください!って言ったことがあるけど、本気だとわかってもらえなかった。家事そのものを「とりあえずやっつける」方法で切り抜けていることのツケなんだろうな~。あ~あ、わたしの趣味や能力を考慮して掃除を仕込んでくれるインストラクターはいないもんかな?まあ、パソコン教えても「ん~、あなたは言われるコトをただヤルだけで自分で考えてないですね。そういう姿勢だと応用も効きませんし、はっきり言ってパソコンに向きません」って人もいるけどね。わたしもそうかも。家事にアタマを使い、エネルギーを使う気があんまりナイので主婦落第なんでしょうなぁ。
Mar 2, 2005
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今朝、品川区の「学校防犯システム」が全国ニュースで流れていた。システムってほどではないが、入り口は常に施錠され、訪問者はインターホンで用件を告げる。予定外の訪問者は2人の職員で対応する。ひぇ~、先生の人数が足りないくらいなのに、複数名で門までお出迎えですか。たしか大阪は警備員を配置する予算を計上したと報道していたように思う。先生にしてみれば、そのほうがありがたいんじゃないだろうか?学校守れ、苦心の備え 教師「負担は限界」品川区では新しい防犯グッズに予算を使うことになっているので、新たに警備員の配置なんかできないだろうな。そういえば今朝の同じニュースで、どこか(おそらく逗子&鎌倉市)ではココセコムのGPS端末が児童に配布されると言っていた。八百十二万五千円の予算を計上だそうで。月額の費用すべてを行政側で負担してくれるんだろうか。だとしたら自腹で加入している我が家としてはうらやましいな。ここのところ防犯の視点から「GPS」と「さすまた」が流行りのような気がするんですけど、2つの道具のギャップってすごいですよね。「GPS検索」も「さすまた」も使ったことないという人、多いと思います。そういう意味では、ホントに効果あるんでしょうかっ?と一抹の不安がよぎります。普段使ってないと、いざってときには使えませんものね。
Feb 22, 2005
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公立の中高一貫校のこと。わかっていなかった。小春の進学先対象となる公立中・中高一貫校は「品川区立」と「都立」だと思っていたのだが「千代田区立中高一貫校」も対象になるのだ。先日「千代田区立九段中等教育学校説明会」という案内が学校から配布された。その紙にはどこにも「中高一貫校」という文字はなく不案内なのだが、しばらく考えて「おそらく、千代田区立でも、高校まで含む一貫校なんだろう。だから都内在住の小学校5年生が対象なのだ」と思いついた。東京都教育委員会サイトで調べたら「中等教育学校」というのは「ひとつの学校として、6年間一体的に中高一貫教育を行うもの。前期課程(3年)と後期課程(3年)に区別される」ということだそうだ。(『中高一貫教育校の種類』はこちら)ふ~ん。そうなのか。都立の中高一貫校と違い、千代田区立の学校については説明資料が配られたことがなかったから、九段中等教育学校のことは知らなかったよ。『千代田区が九段高校の移譲を要望する理由』[PDF]を見ると「千代田区の区立小学校から区立中学校への進学率は、平成13年度44.1%にまで落ち込んでおります」とある。すごっ。半分以上は私立へ行くのか。わたしが千代田区民なら、区立の魅力ある中学を切望することだろう。でもでも、千代田区の財源が投入されるだろうに、他区から広く生徒を集めていいのかな。わたしが区民なら千代田区の子どものための学校であってほしいかも。千代田区民枠9割、他区民枠1割とかになるのかな?公立の中高一貫校は「うちは公立でいいし、行けるところでいいのよ」という方針の家庭にも「受験して中高一貫へ」という家庭にもターゲットとなる。当然ある程度の競争があるだろう。都立初の中高一貫校、白鴎高等学校附属中学校の一般枠受験倍率は4.75倍だった。(2/14現在11名辞退で繰り上げあり)うちの小春の場合、ターゲットとなる中高一貫校は都立大学附属高校から転身する『目黒地区中等教育学校』だが、まだ開校していないので適性検査があることと、その概要くらいしかわからない。早稲田アカデミーから「新小6公立コース」の案内ハガキが届いたが「都立中高一貫のことについてはデータないんだよね?情報が不十分だよ」と思う。こうして調べてみると「Webで調べることができない保護者はどこから情報を得ればいいんだろう」って思う。(もちろんWebでわからないこともたくさんあるけれど。)確実にデジタルデバイドが広がっていると感じる。これまで中学受験の情報は、専門の塾が「情報源」の役割を担ってきたけれど、文部省は公立中高一貫校に関する総合的な情報提供をどう進めるつもりなんだろう。公立中高一貫校がデジタルデバイドを推し進めているなんて、思ってもいないんじゃないかな。正直言って、こんなにたくさん進路選択があるなら、小学校から「進路指導室」が欲しいよ。何の説明もなく「千代田区立九段中等学校説明会」なんて紙が配られても、なんのことだかわからない保護者だっていると思う。アジア人の日本語の苦手なお母さんなんかも多いし、子ども自身も「自分で学校を選びたい」と思いはじめる年頃なんだから、小学校で大雑把でもいいから進路指導してくれればいいのに。いや、これ真剣に学校に言ってみよう。でもな~、また先生の仕事を増やすことになるよな~。【追記】文部科学省の「中高一貫教育」ページはこちら。わかりやすい「中高一貫教育パンフレット」も上記ページから。
Feb 14, 2005
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自閉症児の指導法確立 鳴教大付属養護学校、発表会に300人自閉症児・生徒のための指導プログラムと実践例の発表会が鳴教大付属養護学校で開催され、県内外の障害児教育関係者約三百人が参加。プレゼン資料はこちらから。プレゼン資料の20枚目のパネルが興味深かったです。社会性の指導において、知的障害では「心情的理解を図る」が自閉症では「技能的に教える」という部分。わたし自身も「どうすべきかを教えてもらえば対応できるのに『彼女の気持ちにもなってみてよ』なんて言われてもわからん」ということは多々あるので頷けます。映画ターミネーター2でシュワちゃん演じるサイボーグがジョークを覚えていくプロセスを思い出しました。あのサイボーグは「型」から人間的なコミュニケーションを学んでいきます。考えてみると東洋的な芸術の伝授法と重なって面白いかも。これは28枚目のパネルにも出てきます。「振る舞いをスキルとして教えること」なるほど。じゃあたとえば「おはよう」ってにっこり笑顔を向けられたら、同じように「おはよう」と言い、さらに笑顔を作って返す、ということがソーシャルスキルなわけでしょうか。普通は挨拶を交し合うことで両者に「しあわせな感じ」が広がるわけだけれど、挨拶を受けて嬉しいという感覚もなく、技能的に挨拶と笑顔を作り伝えるのは「しあわせな感じ」じゃないだろうな?もしかしたら苦痛かもしれない。社会性を身につけること(振る舞いスキルをあげること)があなたの幸せにつながるということを、どう自閉症の子どもに伝えていくのかしら?振る舞いをスキルとして教えることと,なぜそう振る舞うのかについて説明し理解する内容,もっと端的に言えば,「社会性の表出に関すること」と「社会性の受容に関すること」の2つの内容を考えました。ここの部分、もっと細かく知りたい。「なぜそう振る舞うのか」について、心情的ではない理解があるのかな?
Feb 12, 2005
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教育新聞社に「ゆとり教育を守ることが要」という記事が出ている。(最後まで読むと、そう結んでいる)この期に及んで、まだ賛成派がいるのか~。ここで教育新聞社が言うところの「ゆとり教育」ってのはカリキュラムのことだと思う。でも実際の教育はカリキュラムだけで決まるものじゃないし、肝心なのは教師の質だと思う。教師の質が保障されないのに、カリキュラム的には「ゆとり教育」が良いのだとか言っても、わたし(掃除の下手な主婦)が豪邸に住むみたいなもんで「ミスマッチ」なんでないかと思う。小春の学校では、算数はTT(ティームティーチング)加配を受けている。算数専科の先生が入り、先生ふたり体制で、おそらく授業内容によっては習熟度別学習をさせていると思うのだが、今年の算数専科の先生はハッキリ言ってダメダメである。小春は算数がわからなくなり、苦手意識も持ち、つまらなくなってしまった。わからないと質問しても、教え方(アプローチ)を変えずに、同じように教えるのだそうだ。「同じことを何回繰り返されても、その説明じゃわからない」と小春が言う。「小春、あんたナマイキよ。生徒がそんな態度でどうする?」とか諭しながらも、心の中じゃ「そりゃ、そうだろうよ。」と我が子に同情してしまう。結局わからない部分をフォローするのは算数センスのないワタシだ。かわいそうな小春。夫は算数センスあるし教えるのも上手いのだが、教えるときに「あれもこれも」しつこく教えようとするので小春はそれがイヤみたい。ひとつわかって嬉しいときに「じゃ2つ目をやろうか」と言われたらヨロコビも失せるよねぇ。「わかって嬉しい」ことのほかに「終わって嬉しい」ってキモチもあるんだから。しかたなく、算数大嫌いなワタシが教えるのだが「え~っと、これはこうだからぁ~」と図にして書いていたりすると、それがヒントになって、教えているわたしよりも小春のほうが早く解答を出すこともある。それでもわたしが理解できずにまだウンウン唸っていると「こんなに上手に説明してあげてるのに、まだわかんないの?」と小春が言う。どっちが教えてるんだかわからない。こんな風に、我が家では算数はわたしが教えているというか、一緒にやっている。だから子どもの気持ちもわかるし、何がわからない原因になっているのかも察せられる。わたしがやっているような「つまづきの発見と手助け」を先生がやってくれるのが理想というか、正しい姿なんだろう。子どもがどの部分がわからないのかを把握しようともせず、自分のアプローチを工夫して変容させるようなこともしない先生なんて算数専科にしないでくれ。たのむよ校長先生!いや、担任にもなって欲しくはないけどね。こんな先生が多いとは思わないけれど、でもまだまだこうしたタイプはかなりいる。このタイプの先生が少なくならない限り柔軟性の高い総合学習なんて無理があると思う。ま~今年の算数専科の先生は退職間近な年齢だから仕方がないと言えばそれまでなのだが。
Feb 9, 2005
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先週は中学受験があったため6年生のお休みが多かったそうな。小春が「学級閉鎖にはならないの?」というくらい休みなんだそうだ。きちんと調べたわけじゃないけれど「うちのクラスは受験しない女子が3人なのよ~」というママがいた。新聞に「中学受験過熱!東京では21%が受験」なんて書いてあったけど、このあたりの学校の場合、受験するほうが普通ってことでしょうかね。小春が入学したころ、中学受験するのはせいぜいクラスから5~6人だったと聞いている。ここ5年で親のほうの意識がかなり変化しているのだと思う。ただ逆に、ひと昔前とより「中学受験」にかける意気込みが軽くなっている気がする。昔は「親がかりでお受験!」みたいなガリ勉ムードだったし、受験するとか、どの学校だとかは絶対にクラスメイトには言わない感じだったけれど、いまは「とりあえず塾へは行く。塾へ行ってるんだから受験もしてみようかな」みたいな雰囲気。希望校に合格しなかったら公立でもいいし、というようなユルさ。小春のクラスで塾へ通う子どもは3分の2くらい。(だと思う)「塾行ってる」ってのと「児童センター行ってる」ってのと、それほど変わらない。塾は子どもの居場所のひとつだ。大半の子が通っているけれど、スポーツはもっと盛んだし、塾でガリガリ勉強している雰囲気を漂わせている子はほとんどいない。御三家狙うというような親子は燃えてますけどね、そういう「ホンキで勝負派」と、とりあえず通える範囲で入れる女子校へ入れるかなっていう「とりあえず受験派」とでは、子どもの人生における中学受験の持つ意味がぜんぜん違うと思うし、そういう受験層の内容を考慮せずに「中学受験が過熱。ゆとり教育に不信感」とか言うのもなんか違うかなあという気はします。わたしは田舎者で受験事情にウトく、そのことで劣等感を持ち「親の務めとして受験事情を知らねば」と思った時期もありましたが、いまは当時のような迷いはなく、子どもが自分の環境からさまざまに学び取って生きていく力を信じようと思うので、受験しようとしまいと、私立だろうと公立だろうと、品川は公立も選べるので・・どこの学校を選ぼうと(本人が「わたしが選ぶ」と宣言している)、いいんじゃないかと思っています。もし公立のとんでもない(たとえば授業が成立しない)学校へ行ったとしても、親として、その時点で、できる限りのフォローをしていけば、それでいいと。
Feb 7, 2005
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ラッセル・クロウ主演の『ビューティフル・マインド』とドキュメンタリーの『ビューティ・マインド/狂気の天才数学者、ジョン・ナッシュの人生』を続けて観た。映画『ビューティフル・マインド』では統合失調症(精神分裂病)で幻聴や妄想があらわれるようになった天才数学者ジョン・ナッシュをラッセル・クロウが演じる。彼の演技に引きずり込まれるようにして観たが、後から観たドキュメンタリーのほうが面白かった。このドキュメンタリーにはジョン・ナッシュ氏ご本人が出演されている。若い時の彼はラッセル・クロウよりもずっとハンサムだ。「近づきがたい印象」はあるけれど、もてなかったなんて信じられない。映画『ビューティフル・マインド』はラブストーリーでもあり、ジョン・ナッシュの結婚暦が事実とは違う「妻が添い遂げる」という形で描かれている。映画だけを観ても感動したのだけれど、ドキュメンタリーを観て「真実はそう簡単にはいかない」という深みを知ると、映画の感動が薄っぺらなものに思えてくる。ドキュメンタリーの中で、ジョン・ナッシュが言う。ある意味で正気とは一種の適合なんだよ精神病患者は病んでいると考えられがちだけどそんなに単純なモノじゃない精神病や狂気というのは逃避でもあるんだノーベル賞を受賞するということは偉業なのだけれど、それよりも、幻聴や妄想と折り合いをつけ、失意の時をも生き抜いてきたジョン・ナッシュの人生こそが偉業なのだと、年老いた彼の落ち着いた表情を見ながら思った。
Feb 5, 2005
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窒息する母親たち ―春奈ちゃん事件の心理ファイル-矢幡 洋 (著) 毎日新聞社 ¥1,575 (税込)小学校高学年の子どもがいる母親なら、誰でも「春奈ちゃん事件」を知っているだろう。この本は事件の犯人である山田みつ子さんについて精神分析的に解釈して書かれたものだ。普通は「みつ子」などと呼び捨てにするのだろうが、彼女はわたしの知人なので呼び捨てにできない。彼女が長男を出産したとき、わたしは長女を出産した。分娩室で一緒だった。病室のベットは向かい側。新生児検診で何度か会い、何年かの間、年賀状を交換した。知人と言っても、ただそれだけのことなのだけれど。彼女は一緒に入院していた大部屋のママたちの中で、わたしが一番親しみを感じた人だった。彼女の夫も知っている。いつもお寺のお饅頭などを持ってきて同室の母親たちに配っていた。母乳がうまく出ず、乳房がパンパンになっていた私は甘いものを制限していたので「ありがた迷惑」だったのだが、そんな私を気遣って「ごめんなさいね。お寺なもんだから、こんなものばかり持ってきて」と彼女が言ってくれたことを覚えている。事件当時の報道は彼女に同情的なものが多かったように感じたし、わたしも都会の孤立した子育てにつらい思いをしたこともあり、彼女の気持ちがわかるような気がして何度も泣いた。そして「今度遊びに行くね」と言いながら、行けなかった自分を責めた。わたしが遊びに行ったところで、彼女の友だちとして仲良くなれたのかどうかさえわからないのだけれど。先月、小2の男の子がいる横浜在住のAさんとひとしきりおしゃべりして、別れ際、駅に向かって交通量の多い国道1号線の歩道を歩きながら、年末年始の帰省のことなどを話し、彼女は長野の、わたしは新潟の、それぞれ自分達が育った田舎の牧歌的な風景と、いま自分たちが目にしている殺伐とした国道一号線の風景との違いに思いを馳せていた。「こんな都会に住んでいなければって思うときもあるよね」とわたしが言うと「そうね。あの春奈ちゃん事件のとき、彼女が文京区なんかに住んでなければ、ああはならなかったのにと思った」とAさん。Aさんは続けた。「わたしの知り合いで中国人ママがいてね、その人はとても優秀な人なんだけれど、日本人のママたちと付き合いがうまく行かなくて悩んでいたの。それで『窒息する母親たち』を読んでみるように勧めたの。春奈ちゃん事件と母親たちのグループについて書かれている本で、日本的なコミュニケーションがわかるかなと思って。あの本は内容が重いから、あんまり人には勧められないんだけど・・・。それでね、その中国人のママは「読んでみて、とてもよくわかった」と言ってた」Aさんに犯人を知っていることを話すと「・・・そっか~。だからか~。さっきからずっと、どうしてかわからないけれど、この本の話をしたい、伝えなきゃと思っていたのよ」と言われた。こうして、しばらく思い出さずにいた山田さんのことを『窒息する母親たち 春奈ちゃん事件の心理ファイル』で、もう一度考えてみることになった。まえがきから一部を紹介しよう本書を書き進めながら、「これは防ぎ得た事件だ」という無念の思いがこみあげてくるのをどうしようもなかった。本書が母親の精神衛生の問題に対する理解を深め、このような事件を防止する一助となることを願って止まない。母親たちの精神的プレッシャーは並々ならぬものであり、母親のストレスの訴えを周囲が軽視しないような社会の理解が必要であると思う。筆者の矢幡洋氏は、犯人の山田さんとご自身とを同じ「分裂気質者」としている。静岡の実家や元勤務先など彼女の人生をたどり、その時代にあったであろう彼女の心の動きを自分と重ねながら洞察する。彼女の傍にいた誰か、たったひとりでも、彼女を理解してくれる人がいなかったのか。あるいは、自分であれば彼女を理解し得たのではないか、という矢幡氏の無念さがわたし自身の無念さと重なる。しかし、矢幡氏が丁寧に記した彼女の足跡を読み進めるにつれ、事件から6年の間、わたしが勝手に「彼女のイメージ」を作り上げていたことがわかった。この本を読むまでは、Aさんと同じように「彼女が音羽に住んでいなかったら、あんなことにはならなかった」と思っていた。「彼女は追い詰められてしまったんだ」と思っていた。第一子を、地域や縁者の助けがない都会で育てている、田舎出身の、核家族の母親たちのつらさを-つまり、わたし自身の過去のつらさを、彼女が代弁したように感じていたのかもしれない。でも、本を読んでわかったのは、彼女が苦しみの果てに犯行に及んだ一番の原因は、つらい子育て環境にあったのではなく、彼女自身の「柔軟になれない、かたくなな性格」にあったということ。問題解決能力の低さ、と言い換えてもいいかもしれない。わたしは、批判的な気持ちで彼女をとらえ始めた自分を「仲間を見捨てて裏切ったヤツ」のように感じている。本を読む前と同じように、彼女があわれだという同情は強くあるのだけれど。いまは「追い詰められた」のではなく、彼女自身が自分を追い詰めていたことがわかる。エピローグ「罪と罰と初公判」では、初公判の日、矢幡氏が彼女を目前にして心の中で呼びかける。あなたは、今、自分はこの犯行を犯すように定められてこの世に生まれてきたのだ、と思っているのではないですか。そんな運命があってたまるものか。春奈ちゃんも、春奈ちゃんの家族も、そしてあなた自身だって、みな不幸になるために生まれてきたわけではないはずだ。人間は誰しも幸福になるために生まれてくるのではないですか。矢幡氏は彼女の「重い刑を受ける」という意思を感じ「もしも可能な限り重い刑を受けるということが、あなたの選んだ道であるのなら、私にはもう何も言うことはありません。お行きなさい」と力なく見送っている。「かたくなさ」というか、無骨さというか、一途さや「最後は騒がず自分で始末をつける」という彼女の態度は、日本においては美学として受け入れられることが多いが、その精神的傾向が生きづらさを産み、反社会的な状態や悲しい結末を引き起こす原因になってしまうのではないか。著者が言う「日本社会で広く観察される集団の特性」は以下のとおり。1.ひたすらフレンドリーに振る舞うこと2.他人と違ったことをしない3.とにかく「そうね」と応えること4.群れる時間を長引かせること5.安全な空気に依存する6.「自分たちは同一のランク」という前提7.小さな優越を競い合う8.勝ちすぎてはいけない9.抜け駆けは許さない10.ミクロな対人距離が重視される11.悪口はこっそりと12.異質な存在には排他的13.敵を探して団結すべしおそらくこの部分を読み、Aさんの友人である中国人ママは日本人集団の特性を理解したのだろう。PTAなどにも、こうした特性が見られることはある。いまは「みんなが一緒」の時代ではない。ママたちだって「仲良し」だけでうまくやっていけるわけじゃない。同じ幼稚園や学校へ子供を通わせていても、各家庭の経済状態や価値観は大きく違う。自分をしっかりと持ち、相手と折り合いをつけるための交渉ごとがきちんとできなければ、自分にも相手にも快適な環境(社会)を作り出していくことはできない。西洋化した個人主義の考え方がいいと思うわけじゃないけれど「ひたすらフレンドリーに振る舞う」のは、問題に対峙し、交渉を重ねる難しさからの逃避でもあると思う。自分を殺せばいいという姿勢ではなく、他人との衝突をいたずらに恐れることなく、話し合い、譲り合い、人とたくさん関わり合いながら、彼女にも、残された生を歩んで欲しいと、いま、強く思う。
Jan 23, 2005
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文部科学省が「キレる子」の研究を始めるそうだ。きれる子:文科省が検討会を設置 科学的に情動解明へ(MSN-Mainichi INTERACTIVE 家庭)特別支援教育の中では、学習障害・自閉症・ADHD等のさまざまな困難は「軽度発達障害」としてひとくくりに扱われているが、学級担任やクラスメイトにしたら「キレる子」とそうでない子は、とてもひとくくりにできるものではない。障害のあるなし、診断名のあるなしに関わらずだと思う。『怒りをコントロールできない子の理解と援助 ~教師と親のかかわり~』(著:大河原美以)は、教師からみて「きれている」とか「怒りがコントロールできない」子どもがいて、そのことがクラスの中で著しい問題になっているケースについて、問題を分類し、どう対応/援助すれば良いかを教える本だ。「軽度発達障害のある子には、担任はこう支援しましょう」ではなく、障害のあるなしに関わらず、怒りをコントロールできない子どもを教育する場面においては、怒りの奥に潜む悲しみや不安に共感するところからはじめましょう、というアプローチが納得できる。理論的にはちょっと難しかったのだが、具体的なケーススタディの部分はとてもわかりやすい。たとえば「きれる子」がクラスメイトとトラブルを起こし、教室を出て行ったとき、周囲の子ども達に「わかってあげようよ、許してあげようよ」的な態度を担任がとったときに「ひいき!ひいき!」と言われてしまうが、こういう場合はどうすれば良かったのか等が載っている。「クラスの保護者の怒りがひきだされていく保護者会」のケーススタディは面白かった。きれる子K君をめぐるハナシなのだが、T君:今日もまたK君がきれたよー。先生はK君のことばっかり、かまってるんだよなー。O君:俺さ、今日K君の教科書拾ってあげようとしたら殴られてさ、それなのに先生、K君の気持ちもわかってやれって言うんだよー。意味わかんねー。Y子:K君たらまた被害妄想で教室出ていっちゃってね、先生ったら自分勝手で教室出てったK君にいいとこもあるとか言っちゃって、信じらんないー。R君:K君がきれちゃったら先生もどうしようもなくなって、もう、クラスがバラバラだよ!などと子どもらが口々に言うので、母親達が「これ以上K君と同じクラスでいるのは教育権の侵害だわ」などと井戸端会議になり臨時保護者会になるという設定だ。・・・昨春の身近な状況と大差ない。こういう場合に、どういう保護者会を開くと傷口が広がらないかという担任としての技術が載っているのだが(回答が見たい人は本を読んでね)、うちのクラス担任たちは、ことごとく失敗してるね。この本を読んでもらいたいですわねぇ。傷口大きくして塩ぬってる感があるもん。でも、わたしの個人的な感覚としては、この本に書かれている「担任としての技術」には納得しがたい所もある。クラスの保護者に不満があるときにはガス抜きしましょうみたいな感じがするから。これじゃ共通理解には至らないと思うし、担任とクラス保護者との間で本当の信頼関係は結べないとも思う。でも障害や問題を抱える子どもやその家族のプライバシーを考えると仕方ないのかもしれない。子育てには、逆説的なむずかしさがあります。たとえば、この本のテーマである「怒りをコントロールできる子になるためには、どうすればいいのか」ということについての理想的な育て方があるとしましょう。「攻撃的なテレビやビデオは見せない、ゲームはせいぜい30分でやめさせる、食事は自然食でジャンクフードは食べさせない、早寝早起き、睡眠は十分にとる、夫婦は仲良く、父親も子育てに参加する」など。これらのひとつひとつはそのとおり大事な努力目標でしょう。ところが、このように完璧に子どもを育てようと思ったとたん、それはここまでに述べてきたような「理想的な子育てを求める子育て」になってしまうという逆説に陥るのです。これらを完璧にこなして、親の言うとおりに子どもが従って育ったとしたら、子どもの感情の発達は支障をきたすことになるでしょう。理想を求めて子育てをするときに起こってくる問題は、「子どもの顔」を見ていないということです。療育に偏らず、現実的で実践的な本でした。ま~、子育ても家事も「ほどほどに」でいきましょうかね。
Jan 18, 2005
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警察署の方が学校に来て「セーフティ教室」というのを開いてくれた。来年度からは区内すべての学校でやるらしい。前半は子ども用のプログラム。「知らない人にはついていかない」「ひとりで留守番をしているとき、誰か来ても出ない」等を子役が実演して教えるビデオ上映のあと、児童の中から希望者が前に出て「ぼくならこうやって逃げる」というのをやってみた。警察のビデオでは、ひとりで留守番をしているときには誰が来ても出ないように教えている。たとえ宅配便の人が荷物を届けに来ても「誰ですか」とも聞かないように、とのことだ。「ほんとうに宅配便の人だったらどうするの?」と子役が聞くと、「留守だとわかれば、もう一度届けに来てくれるから大丈夫」と指導する。つまり、危険だから居留守を使えということなのね~?ここまで徹底して言うんだから宅配業者を装った犯罪は意外に多いのかもなぁ?でも、このビデオを宅配業者が見たら「頼むから出てくれ」って思うだろうなあ。気の毒。参加してくださった町会長さんが「わたしは朝8時から玄関前に立って登校する子ども達に『おはよう』と声をかけますが、挨拶を返してくれる子どもがほとんどいない。これも『知らない人』だからでしょうかね。町会の行事にも、若い方は参加してもらえませんし、顔を覚えてもらえない」と嘆いた。うちの町会長ではないけれど、事情は同じ・・・・も、申し訳ありません。うちの子は町会長の顔も名前も存じ上げません。後半は大人対象のセーフティ教室。子どもが被害者にならないことも大切だが、加害者にならないことも大切。非行が増えているので、子どもの変化の兆しに早めに対処してほしいとのこと。悪化につながる「兆し」は○いいわけやウソが多くなる○生活面で不透明なことが多くなる。親を避け、自室にこもる○成績ががくーんと下がる○夜外出するようになる、子どもの交友関係がわからなくなる○すぐにあきらめる、流されやすくなる○バイクや刃物に興味を持つだそうです。「思春期過ぎて悪くなってから初めて叱っても、叱られることに慣れていないので逆ギレする。小さなときからわがまま放題させず、叱るべきところは叱ってしつけてほしい」とか「子どもが自分の気持ちを話したいときに忙しがらずに聞いてあげて」とか、そういうことまで出て、げ~保健所や病院、学校なんかが言う上に警察までもか!って感じです。あと面白かったのは、子どもが父母から言われて嬉しい言葉。3位 「ありがとう」2位 「がんばったね」そして1位は「おかえりなさい」ですって。ほんとかいな?「おかえりなさい」を言ってあげられない親が肩身の狭い思いをするような発表だね、こりゃ。教頭先生は「わたしも『おかえりなさい』はあまり言ってあげられないので、その分『ありがとう』をたくさん、たくさん、言ってあげたいと思います」っておっしゃってました。
Jan 14, 2005
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近所の小児科がビルを建てた。病児保育のための入院施設ができたらしい。個人病院でそこまでやるとはすごい。そうでなくても小児科は儲からなくて大変なのに。うちの区は小学生は医療費がタダになったし、なんとも充実したもんだ。厚生労働省が導入する「緊急サポートネットワーク」もたいしたもんだ。しかしまあ、病気の時に子どもを預かってもらえないという理由で子どもを産まないっていう人はそう多くないだろうから、「緊急サポートネットワーク」が子育て支援にはなっても少子化対策になるとは思えないけど。何新聞だかわからない切り抜きで読んだので出典を明記できないのだが、文京区の福祉協議会が運営している「ファミリー・サポート・センター」を利用している女性公務員(28)の「料金も安くて助かるが、子どもに熱があるときは預かってくれない」というコメントを載せ、病児保育の必要性を説いている記事があった。たしかに病気の子を預かってくれる施設は少ない。「結構元気なんだけど、おたふく」みたいな、保育園や学校へ行っちゃいけないような病気のときとか、小学生で熱はたいしてないけど固形物食べると吐いちゃうとか、そういう緊迫感の薄い「あ~もう、これでまた続けて仕事を休まなきゃならないワケ?」というような症状のときに病児保育してもらえるのは助かる。でも、わたしの感覚だと熱が38度5分以上ある幼児は、たとえ妹の子どもでも預かれない。死なれたら困るし。子どもは容態が急変することもあるし、やっぱり、小さくてあっという間に死んじゃったなんて可能性がナイわけじゃないから恐い。切り抜き記事の上には「保育者の質は?安全性は?」と問題提起がデカデカと印刷されているのだが、こういう見出しって出鼻をくじかれる。せっかく病児保育を互助的な形で実現しようとしてるのに、やれ責任問題がどうのって最初から言われたら、預かりたくなくなっちゃう。「病気の子どもを預かる場合、事故が起きた場合の責任問題が生じる可能性があり、ボランティアが敬遠することも考えられる」なんて書いてあるけど、あんたのその記事読んだら敬遠したくなりますって感じ。病児保育に限らず、子どもや老人を預けるサービスでは「ちゃんと見てちゃんとケアしてくれるのか」ってことが重視されるし、生死に関わる事故を起こさないサービスの質が望まれる。だけど、実際に「ちゃんとやる」には人手が必要。お金がかかる。入所者の少ない特別養護老人ホームでは、正看護婦の資格を持つ人を夜中まで配置しておくことは難しいだろう。子どもが少ない学童保育では土曜日に複数名の職員を配置しておく予算はないだろう。どんな福祉施設でも、有資格者が十分な人数配置されるのは難しい。十分に配置されたら気軽に利用できないほどの費用がかかるだろう。行政に対して、安くて利用しやすいサービスを望むのか、高くても質の高いサービスを望むのか、福祉を利用する側がよくよく考えて意見を言わないといけない時代が来ていると思う。
Jan 13, 2005
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百鬼夜行抄(1)~(6)今市子(著) 朝日ソノラマ ¥620(税込)テーマで百鬼夜行抄を探したら、この本を読んだという日記が2件あった。おひとかたは実家へ帰ったときに妹のマンガを読んだのだそうで、もうひとかたもマタ借りの本だったそうだ。そしてわたしも実家で妹が人から借りてきたこの本を読んだのだ。なんか買って貰えない本だね~、不憫。面白いんだけどね。ジャンルとしては妖怪モノっていうかな~、異次元ものっていうかな。いわゆるホラーのタタリ系とは違うと思うんだけど、恐いものが出てくる。式神とかも出てくるし呪術/守護霊系ではあるな。そういう分類があるか知らんけど。2巻目まではネタがいっぱい詰まっていて密度が濃いけど、そのあと6巻(最終巻)までは、登場人物の個性で物語がつながっちゃうような感じで呪術や霊関係のところで物足りなさを感じる。自分で買うなら、わくわくしたのは3巻目までだったかも。それでもやっぱりクセになる本ではある。「百鬼夜行抄 (7)眠れぬ夜の奇妙な話コミックス」ってのはソノラマコミックス文庫(6)の続きなんだろうか?それとも中に含まれているものなんだろうか。うう、気になる。
Jan 12, 2005
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今月のHANAKOは「カラダのゆがみ」を直して1年をスタートで「ゆがみ」矯正完全ガイド!興味のあるピラティスも載ってることだし、帰省の車中で読もうと東京駅で購入。「わたしの矯正法」ではオフィスの椅子代わりにバランスボールを使っているという方が紹介されていた。これだよ!いいねえ。以前からバランスボールは欲しかったけれど、狭い我が家のどこに置くんじゃ?ということで却下になっていたアイテム。こうやっていつもパソコンの前に居る時に座ってればいいんじゃん。グッドアイデアだ~。なんでもっと早く思いつかなかったんだろう。即刻購入だ!というわけで、昨晩ネット検索してみたのだが、商品の値段のバラツキがあり、何やら種類がいくつかあるみたい。迷ってしまい即刻購入には至らず。ま~いいか。色々と使っている人の意見も聞いてみるか・・・と思っていたのだが。本日の「瞬ワード」に「Gボール」が2位になっていたので「ナンだ?このGボールってのは?」と思いリンクをたどってみると・・・・Gボールはわたしが昨晩捜していたバランスボールのことだった。日本Gボール協会によるとGボールは、1960年代にスイスの理学療法士が、神経系に障害のある子ども達の治療用具の一つとして使用したのが最初です。その後、1970年代にスイスで学んだアメリカ人療法士により主にアメリカでの脳性麻痺児の治療に利用されるようになり、その後、スポーツ選手のリハビリテーションプログラムの中にも取り入れられるようになりました。また、ヨーロッパにおいては、1980年代後半、子ども達の姿勢悪化を改善するために教室の椅子をGボールに替える試みも為され、姿勢の改善のみならず「長時間集中できるようになった」「教材の理解力がよくなった」などの成果も報告されています。ということで、これは人気が出ないわけがない。だからって何でまた急に瞬ワードになったんか?とは思うが。「ふ~ん」と思いながら昨晩チェックした通販サイトを回ると、のきなみ売り切れ続出。ホントか?どうしてそうなる?何かのテレビ番組で紹介でもしたんだろうか?しかし、売り切れ続出となると、余計に欲しくなるのが人情ってものだ。いつもはそういう主婦の購買行動を見下しているのだけれど、今日のわたしは「え~。売り切れないうちに買わなくっちゃ」と張り切って在庫のあるサイトを探し値段を比較して即買い。はてさてバランスボールの効果やいかに。たのしみ~。
Jan 11, 2005
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スギ花粉エキス フォレスト 500ml価格 8,500円 (税込) 送料別夫は長年花粉症を煩い、毎年新しいアイテムを人体実験しているのだが(わたしから見ると趣味に近い)今年はコレ。この冬、彼はこの商品を通販で購入しようとしたのだが「スギ花粉エキスを飲みたい」とわたしに相談したところ、即座に却下されたそうな。いや~、却下した通販大臣の妻としては覚えていないんですけどね、たぶん「花粉をもって花粉を制すってワケ?通販でしか手に入らないってのも怪しすぎるッ」と、まあ、その時はそう思ったんだろう。ところが、新年早々近所の薬局でフォレストを見つけた。商品に釘付けになっている私たちを薬剤師と思われる兄ちゃんが目ざとく見つけ「そちらはとても評判がいいんですよ~」とセールストークでがっちり捕まえた。「家族4人が花粉症というご家庭なんですけれど、お母さまとお嬢様二人が症状が重く、お父様は比較的軽いということで、フォレストは値段もお安くないので、お母さまとお嬢様の3人だけがフォレストを飲んで、お父様は飲まなかったところ、その年はお父様だけ花粉症がひどかったそうです。」「この商品だけは自信を持っておすすめできます。効果が出るんですよね」「なかなか入荷しないんですよ」などなど、お兄ちゃんのセールストークは続く。確かに値段は高いのだが、シーズン前に1本飲むだけなので、ランニングコストとして出費が続くわけではない。薬だと飲み続けなきゃいけないし、そういうのもヤなんだけど、飲みきりなのは嬉しい。セールス兄ちゃんの前で、夫はもう「これ買うまで帰らない」という子どものように動かない。というわけで、買いましたとも。セールストークのお兄ちゃんは「おいしくないですけど2週間で飲みきってください」と言っていたが、花粉症が良くなるためならどんなにマズイものでも平気。っていうかそんなにマズくなかったそうな。フォレストの効果見たさに「花粉が飛ぶのが待ち遠しい」とまで言ってるけど、あんたァ、今年の量はハンパじゃないってよ?今まで通りきちんとマスクしたり帽子かぶったりしてくださいねッ!と妻は思うのでありました。
Jan 10, 2005
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先日NHKの昼の番組で「リル」と「ハイジ」というイルカの話題を見た。2頭のイルカは高知県室戸市で大学が飼育していたが、台風23号の影響で網が破れ、約1週間後に和歌山県串本町で発見された。発見された当時、リルとハイジはとても痩せていた。彼らは自分ではエサを獲る能力がないから。約1週間、大海原にいるのに、生きていく術がなかった。リルとハイジは麻布大学の動物人間関係学研究室で飼われ、発達障害や神経症、心身症の子どもを対象にしたドルフィンスセラピーで癒し手になっている。(2004.12.24現在休業中)このところ、発達障害の子どもの就業を考えていたので、発達障害の子どもを癒すことができても、自分でエサを獲ることができないイルカ、というのがなんとも気になった。発達障害に関する掲示板等を見ると「本当によく頑張っていらっしゃる」と感じられる発言あり「目先のことで手一杯なんだなあ」と感じられる発言ありだが、日々の苦しみをくぐり抜けられてきた方々の発言の中には、親が亡き後、子どもがどう生きていくのかを真剣に深く考えての意見があり、こちらも深く考えさせられる。先日エントリした自閉症についての講演会で、知的な遅れがあるかないかよりも、周囲と協調して仕事ができるのかどうかのほうが就労に影響するケースがあると聞いた。特別な才能を生かすような仕事は別だが、給料を貰って仕事をするのであれば「頭がよくても使えないヤツ」はダメってことだ。これは障害のあるなしに関係ない。さて。リルとハイジには同僚がもうひとりいた。「パックル」というイルカだ。パックルは死んだ。解剖したところ、胃から食道まで、台風で押し寄せられた海のゴミがいっぱいに詰まっていたそうだ。
Dec 23, 2004
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21日19時の瞬!ワードby@niftyで1位が「グォン・サンウ」だった。べつにヨン様好きじゃないし、冬ソナも見たけど「設定無理多し」で抵抗あったし、韓流ブームもどこ吹く風だったんだけど、ついつい毎週「天国の階段」を見てしまうんだよね。グォン・サンウはスター度高いよなぁ。毎週見ようと思ってるわけじゃないんだけど、土曜は家族が出かけて一人残されてる。ちょうど小腹がすいて「オヤツ食べようかな」と思う時間なんで台所でお茶入れてテレビつけると、やってるんだ。冬ソナのときもそうだったんだけど、なんだか見始めると最後まで見ちゃうんだよな、韓流ドラマは。なんでかなあ。いまも小春は熱出して寝ちゃって、夫は帰ってこないから、お腹すいちゃってやっとウドン食べながら冬ソナ完全版見てた。なんかいつも同じシチュエーションで見るな。で、わたしが冬ソナ見てると、夫が帰ってきて「うっ、こんなモノ見てたら時間が足りない」とか言いながら見初めて、たいがい最後まで見る。「ユジン、サンヒョクにしとけ」とか、ストーリーわかってても必ず言ってる。自分はサンヒョクみたいなタイプじゃなかったくせに。グォン・サンウもいいけど、わたしはもしかしてチェ・ジウが好きなのかもな~。
Dec 21, 2004
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東京都特別支援教育推進計画説明会に友人と出向いた。この説明会でわたしがわかったことは「軽度発達障害の子ども達が、将来、社会に出て働き自立できるようにするために、特殊学校の再編成が進められるのだ」ということ。品川ろう学校については、かつて300人いた生徒が30人まで落ち込み、ろう学校の施設をそのまま存続させておくことが難しい状況にあると知人から聞いていたが、この学校は平成23年には品川地区養護学校として生まれ変わる計画。品川ろう学校同様、多くの学校が一気に統廃合され、その後あたらしい養護学校ができる。こうして心身障害教育を行う学校がリストラクチャされ、社会参加と自立に向けて職業教育を充実させたり、知的障害が軽い生徒を対象にした高等部を設置したりする。説明会の最後、質疑応答で「つまり、重い障害を抱えた子どもが、軽い障害の子どものために、場所を明け渡すということですよね」と発言したご婦人がいた。「自閉症の子どもにとって、学校が変わるということはものすごく大変なことなんです。移転される学校の保護者にはきちんと説明されているのでしょうか」と。腹立たしそうな声だった。それを聞いて「新規に予算や施設が投入されて新しいサービス(特別支援教育)が始まるわけじゃないんだ。いままで心身障害者教育サービスを受けてきた人の既得権益が削られるケースも出るのだ」と知った。気付いてみれば当たり前のこと。限られた予算を、どこに、どう使うのか、という再配分でしかない。新しい行政サービスが始まることで、古いサービスは削られていく。それは新陳代謝であり、進めていくべきことだが、その中で切り捨てられる痛みを感じる人たちも少なくない。そんな当たり前のことをわかっていなかった。特別支援教育が進めば、普通の学校の「教室を飛び出してしまう子ども」も少しはケアされ、今より教師の負担は減り、クラスは学習に適した環境になるのではないかと、自分から見えている範囲が良くなることだけを想像していた。教師の質の低下や日本の子どもの学力低下を嘆くのであれば、まず「どうしようもない現状」を改善することが先だと思うし、だからこそ特別支援教育に期待していたのだが、特別支援教育が「センター校」を核として円滑に進んでいくためには、養護学校側の再構築が欠かせないわけで、このために「明け渡してくれる人たち」がいることを忘れずにいたいと思う。Webで資料を集めるだけでは、こんな気持ちにはなれなかった。説明会に行ってみて、よかった。
Dec 19, 2004
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小春が通う塾のテキストを見ると「へ~、小学生なのにこんなコトもやるんだ」という内容が結構出てくる。学校では習わない「ゆとり教育で省かれてしまった単元」も出ている。うちは中学受験を考えていないので塾のテキスト消化もかなりいい加減なのだが、これをキッチリやる子どもはすごいと思う。学校でいくら「ゆとり教育」だなんて言ってても、中学受験して立派な私立学校へ入りたいと頑張っている子どもは、5年生ともなると弁当持ちで夜9時10時まで塾で勉強したりする。遊ぶ時間を削っていることは言うまでもない。こんな風に、公教育のカリキュラムが削減されても、塾でその分を挽回学習している子は相当数いるわけで、学校の勉強しかしない子どもと(学校の勉強すらしない子どももいるしね)、そうした努力を何年も重ねている子の学力差はかなり大きなものになる。うちの学校は校長が「基礎基本が大事」という方針で、授業時数の確保には余念がない。おかげで周りの学校よりも子どもたちの帰ってくる時間が遅い。水曜日だって2時半まである。塾へ通う子も少なくないので、帰宅後に学校の友だちと遊ぶ時間はとても短い。小春が友だちと遊べる時間は週に2~3時間ほどしかない。文科省「ゆとり」転換、授業時間増を検討(読売)とあるが、これ以上子どもを学校で拘束するのはやめてくれ、と思う。いくら頑張ったって、いまの進学塾と同じレベルの学習内容を学校では教えられない。学校は2時くらいまでで終わりにして、それから4時くらいまで友だちと遊んで、4時から6時くらいに塾でちゃんと集中して勉強するってのがワタシ的には理想かも。やっぱり、正直なところ、学力定着について、文部科学省なり、現在の公立学校に「おまかせ」する気にはなれないってことです。
Dec 16, 2004
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今日は月に1度の児童センターでの「子育てネットワーク」ボランティアの日。今年の活動はこれで終わりなので、帰りに「よいお年を」という挨拶を交わした。このボランティア活動からさまざまなことを学んだ1年だったと思う。少し早めに児童センターに着いたので平成12年からの記録を読んでみた。このところ記録係として毎月ノートを手にしていたが、ノートをはじめから読んだことはなかった。ノートの記録は簡単なメモ書き程度のものだ。個人のプライバシーに関係しそうなことや、学校や教師について意見するような「井戸端会議」があったとしても暗黙の了解で記録されずにいるので、たいしたことは記録されていない。しかし、残された簡単なメモ書きの中にも、大切なことがたくさん含まれていた。子育てネットワークの活動初期から、ネットワークでの「おしゃべり会」ではさまざまなことが話されている。LD(学習障害)や立ち歩きの児童についての話題、不登校児を持つ親への対応についての話題など。学校選択についてもだ。たとえば学校選択のことが話題にのぼる。人気のある中学校のPTA役員が「うちは4割が学区域外からの入学者」という。PTA活動も、地元じゃない人が増えるとやりにくい面が出るという、ちょっとした苦労話というか愚痴話というか、そういう切り口から会話が始まっていく。ひとしきり「なるほど~」とか「問題だよね」とかいう同情意見が出される。同情されると安心するということはあると思う。そのうち、愚痴をこぼした人が「でもね、よそから来た人たちも、参加しにくいと感じることもあるんだろうね」と言う。こういう意見が出ると「ああ、そうよねえ」と場の風向きが変わる。他者を思いやる雰囲気がおしゃべり会に出てくるのだ。そして「じゃあ、この地域ではこうなのよ、というような資料をまとめておいたら、逆に外から来た保護者も参加しやすいかもね」というような建設的な意見も出てくる。ノートに記録されているのは「4割が学区域外」と「資料をまとめたら、参加してもらいやすいのでは?」といった抜粋。上のストーリーは参加していた頃の記憶を頼り再現ドラマ化して書いている。子育てネットワークのおしゃべり会では、こうした「場の雰囲気が変わり、参加者の視点が一段階あがっていく」ということを何度も体験している。ノートの記録を見ながら「ああ、このときも、このときも、そんな雰囲気だった」と思う。わたしはこんな「場の変わる瞬間」に煌きのようなものを感じている。自分の成長を感じられるし、おしゃべりした後に「よかったな」と安堵感を覚える。ママたちが、こんな風に意見を出し合えて、相手のことを気遣って暮らすようになれば、もっと子どもを育てやすいし、安心して暮らせると思う。そして、この雰囲気は「子ども社会」にも良い影響になるのではないかと思う。以前、同じネットワークに参加していた、わたしの尊敬する先輩ママが「でも結局、仲良し同士の馴れ合いおしゃべりになっている」と言っていた。確かにそう。出てくるメンバーは固定されがちで、孤立した子育てで悩んでいるママの「ドロップインセンター」的な役割は果たされていない。具体的に何かを解決する機能がないし、ネットワーク活動の「成果」もないのだ。それでもやはり、ないよりはあったほうがいいネットワークだと思う。活動5年目。ネットワークが作ってきた「形にならない財産」を、関わりのない人にも理解してもらえる形でまとめ直す時期が来ていると思う。
Dec 15, 2004
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子供ってのは「みんなが言った」とか「みんなが持ってる」とか言う。そのときの「みんな」は「クラスのみんな」なんかじゃない。実際にはふたりだったり、ひどいときにはまったくのウソであったりする。「家庭・学校・地域」で子育てしましょう、とか言う。でも「地域」ってなんだろう。わたしもよく「地域」という言葉を使う。いい隠れ蓑っていうか、アバウトさをいい具合に内包できるから。でも「地域の子育て力」とか「地域の防犯力」ってのは、やはり、ひとりひとりのヒトの力なのだ。ひとりひとりのヒトの意志や行動が核になって繋がりが生まれ、複合的な力が生まれることはあっても、基本はひとりひとりのヒトだ。わたしは隣の家の家族のことさえよく知らない。隣の家は子どもが3人いる。一番下の子が多分高校生なんだけど、姿は見ない。ママと会ったとき「最近見ないけど?」と聞いたら「ワルなんで寄宿舎のある学校へ行ってます」とのこと。その上のお姉ちゃんは、たぶん学生が終わったのじゃないかな?見なくなってから随分経つけど、隣のママとわたしが道端ですれ違いもしないので、聞いていない。その上のお兄ちゃんは、わたしが引越ししてきた時には居たけど、もう何年も前に独立していると思う。一番下のママに「ワル」と言われた男の子は、確かに近所で有名なワルだったらしい。でも商店街でわたしの姿を見ると、友だちとつるんで道端にウンコ座りしている時でさえ、必ず軽く会釈して挨拶してくれた。夫にも必ず挨拶していた。彼は彼なりの仁義の中で生きてるんだと思ったし、少なくともイヤなやつなんかじゃなかった。わたしが彼に対して心で抱いていたメッセージは「キミのこと、嫌いじゃないよ。隣のオバちゃんだよ、ヨロシクね。うちの小春のこともヨロシクね」だったと思う。彼にとって、わたしは「地域の教育力」になっていたんだろうか?地域で子育てとか、地域で防犯とか、地域の教育力とか言うけど、隣の人がどんな暮らしをしていて、生活の面で何が困っているのか、どんな毎日を送っているのか、そういうことがわからない、わかろうともしない、「心遣い」や「ふれあい」がないところに、そんな地域の力は生まれないと思う。でも、だからと言って用もないのに「お宅はどんな生活してるの?」みたいなことは聞けない。あるとき、ママ友だちが寝込み「娘の幼稚園のお迎えを頼む・・」とヘルプコールがあったので、その夜はカレーの鍋を差し入れし、台所へ上がり込んで米びつをあけて米を研ぎタイマーをセットし、そこんちの子どもに「カレー持ってきたから、ママは起こさないで」と頼んだ。そんな風につきあえるのは、わたしには彼女だけ。そして、こんなことも8年間の付き合いの中で、たった1回だけだ。仲良くしているママはたくさんいるけど、米びつの在りかまでは知らない。困っている時に「助けて」と言い合える友だちは多くはいない。子供に「たくさん友だちつくろうね」なんて言う前に、ママたちはたくさん友だちを作らなければならない。子育て支援だとか、相談センターだとか、なんとかシステムとか、そういうものより、子育てをする人には友だちが必要だと思う。
Dec 3, 2004
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入学前に「親が」読むのにお勧めの本を3冊選んでみました。大中小というか、両極端というか、それぞれ全く異なるカラーを持つ本です。いろいろな「カラー」を知り、子どもや自分には「このへんが丁度いいのかも」という感覚をうまくつかめたら、翻弄されたり取り越し苦労したりすることなく、子どもにも良いサポートができると思います。私とシュタイナー教育 いま学校が失ったもの子安 美知子 (著) 朝日文庫 ¥504 (税込)「日本の学校教育」という枠組みから離れ、子どもの魂をどう育んでいくべきなのか、を再考させられる本。シュタイナー関連に興味が湧くと「妊娠中(子どもが生まれる前)に読むべきだった」と思うかも。「現代の日本の学校教育」という枠組みの中で苦しむことが出てくる時、視野を大きく持つことで井の中の蛙にならずに済み、親も子も安定した気持ちで過ごせるようになる(?)。見える学力、見えない学力岸本 裕史 (著) 国民文庫 ¥578 (税込)「学力とは何か」「わたし達親の世代が受けた学校教育と、いまの学校教育とはどんな風に違っているのか」などがわかる本。教職員でもない限り、我が子が学校へ上がるまで、そんなことは考えてもみない。そんなフツーの親のためのガイド本。導入本としては秀逸だと思うのだけれど、いかんせん情報が古い(1996年改訂版)のでこの本を読んだあとは新しい情報を収集すると良い。「改訂版のまえがき」より★いまの日本は激烈な競争社会になっています。学力の低い子は、将来、安定したくらしをすることがひどくむずかしくなっています。★まともな学力を身に付けることが古い学力観だといわれても、学力の基礎としての読み書き計算の力は、能う限りすべての子どもにしっかりと身に付けさせなければなりません。小学校の不思議な常識保育園を考える親の会OB組 (著)学生社 ¥1,470 (税込)学力とか教育とかじゃなく、「忘れ物」だとか「働いているからと言って断れないPTA役員」だとか「給食」だとか「連絡帳の使い方」なんてハナシ。すぐに「学級崩壊じゃないの?」なんて心配してしまうママは必読。しかし・・・楽天には3冊ともナイ。しかたないのでアマゾンの普通ページにリンク張ろうとしたら、それでも赤字で「楽天意外のアフェリエイトが含まれています」だって!?も~やんなっちゃうな。アマゾンで上記の本をご覧になりたい方はhttp://sage.pooton.net/blog/archives/2004/11/post_98.htmlから飛んでください。
Nov 29, 2004
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★ファシルネットをみつける==========================特別支援教育関連のリンク集を作成する過程で「野菜さらだ」氏を知る。さっそく 野菜さらだの『特別支援教育とリハビリテーション』 というMLに参加してみた。2003.11.10に配信されたメール巻末から「教育ファシリテーション・オフィス」の文字を見つけ Yahoo で検索すると「ファシルネット」がヒット。★XOOPSだ!==========================教育関連のサイトがXOOPSで構築されていることが新鮮だった。意外というか。「本来の使われ方」を見るようで嬉しいが、他のXPOOS利用サイト、とりわけ趣味的でマニアックなニオイがするサイトと違い、閲覧数ばかり多く投稿が少ないことが残念。トラバもついていない。ここに初トラバするのは勇気がいるなあ。専門家じゃないし。XOOPSの構成はわかりやすいと思うのだが、小春が小4の時に使い方を教えたときに「直感的にわかるものではないのだ」と認識を改めた。XPOOS事体は優れたツールであったとしても、使いこなすだけのリテラシーを持つ人は、まだ多くはない。このあたりも投稿の少なさと関係しているのかもしれない。昨年までXOOPSサイトに参加していたのだが、当時はまだ執筆者ごとのブログがRSS配信されていることに気づかなかった。XOOPSがVerupされているせいかもしれないが。nobu氏のブログがRSS配信されているので、さっそくHeadline-Readerに登録。なんて便利なんだろう!★nobu氏の「ファシリテーション講座」を読み、Kネットを考える==========================「ファシリテーション」という言葉をはじめて知った。言葉と概念を得たことで、自分の立場やボランティア活動の進め方が捉えられるようになった。児童センターを活動中心とした子育てネットワーク(Kネット)に参加して5年目。何もわからないまま参加だけ続けてきたのだが、やっとKネットの意味がわかってきた。Kネットは自主サークルではない。児童センターが事務局を引き受け、近隣の子ども会やPTAを動員し、地域の福祉に関係する人などがリーダーになり運営されている。講演会の講師謝礼費用には、区から補助金が出る。お金の流れを見れば、事務局経費もあわせ、区の「子育て支援事業」または「児童センター活用法」のひとつであることがわかる。行政的には、いかに区の予算と労力を使わず、住民自治の力を引き出して「子育て支援事業」を行うかという実験的な試みなのかもしれない。もしKネットが活動5年目にして、地域に根づき、参加者の中からリーダーが出てきて、この地域の子育ての核として活動するようになれば、事業としては成功だ。この方法を別の児童センターでも行えば、区のいたるところに地域に密着した子育て支援のボランティアグループが出現することになる。すばらしい。だがしかし、いま現在、Kネットは地域に根づいていない。毎月チラシを貼るのでそれなりの知名度はあるにせよ、何をやっているのか、何のグループなのか、さっぱりわかってもらえない。活動しているわたしですら、何を目的に誰が責任を持ってやっているのか、つい最近までわからなかったのだから仕方ないだろう。誰が思いついたのかわからないけれど、とにかくKネットが設立された背景には「ファシリテーション」の考え方がある。nobu氏のブログより引用ファシリテーションとは、ある目的のためにグループが組織されているとき、メンバーの貢献を引き出すことによって目的の達成を促すこと。ファシリテーターとは、そのようなファシリテーションを行う人のこと。けれども、思いついて実行に移した人はきっと「ファシリテーション」を知らなかったのだろう。「目的を定めなかった」ことと「ファシリテーターを行政(児童センター)側に置くのか、住民になってもらうのか」を決めていないために、参加して活動しているメンバーでさえ、何のために何をしたらいいのか、常に迷いながら活動し、いつも達成感がない状態になっているのだ。たまたま今年度の活動は、児童センター職員と参加メンバーとが両輪でファシリテーターとしての役割をこなしているため、何となく活動的に盛り上がりを感じるし、やりがいもある。来年度以降Kネットの姿をどうしたいのか、ファシリテーションという概念を得て、具体的にやれそうなことを考えて行きたいと思う。★アメリカ(?)の文化==========================XOOPSにしても、ファシリテーションにしても、それからCAP(子どもへの暴力防止プログラム)などもそうなのだけれど、なんかこう「肌にしっくりこない」という感じがある。日本間に住んでいる人がとても良いライティングテーブルを購入して椅子に座ってみたら、自分の身の丈に合わずに妙に落ち着かず疲れるみたいな感じ。nobu氏のブログより引用最後に、ファシリテーションはあくまでも目的達成のために従事する手段であり、それ自体が目的なのではありません。その意味では、いわゆる「ファシリテーション手法」が前面に出され、あの方法でやれば間違いない、といわれることは危険です。むしろ、目的の達成のために本当に必要なことは何か、ということを常に考えることが求められます。目的が達成されたときに、「ファシリテーション(ファシリテーター)が良かったからこの目的が達成された」という声が聞かれるよりは、「みんなが力をあわせて目的が達成できて良かった」という声が聞かれるほうが健全なファシリテーションだったということになります。主役はあくまでも目的に取り組むメンバー一人一人であり、ファシリテーターはそのメンバーを支援する陰の役なのです。とてもわかりやすい説明だ。もしもわたしがKネットのファシリテーターの任を担うとしたら、わたしは黒子に徹して働くということだ。・・・目的達成のためにその任に徹することができるだろうか?そこがわたし自身の課題。ここには2つの問題がある。1つめは、Kネットの目的自体が定めにくいということ。子育て支援が達成されたという「目標達成」はどういうことを指すだろう。2つめは、地域の子育て支援が仮に達成されたとして、それは私個人の喜びや幸せと直結しないということ。報酬もない。黒子に徹するのであれば賞賛もない。そのストイックな世界に身を投じ、仲間もなく努力を続けることが、わたしの精神的な喜びになるのかどうか。価値に対する報酬の考え方が日本の文化とアメリカの文化とでは全く違うのではないだろうか。日本ではコーディネーターという役割に対して敬意はあまり払われない。価値を認めさせるだけの働きをして行くという手もある。たとえばKネットで地域のママの意見を集約し、行政側にフィードバックするというような機構を作れば、直接問題解決に繋がらなくても、確実に自治に対しては良い結果を生むだろう。そんなことを考えると「ぎゃ~。妄想が広がりすぎ。そこまでできない」という感じになってしまうのだが。ああ。このへんで頭が固まってしまう。
Nov 11, 2004
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小春の学校では今年、子供たちが落ち着かないクラスが複数あり、ママ達の不安や不満の声を多く耳にするようになった。わたしから見れば大きな問題はなく、先生たちも頑張っているとは思うのだが「級友が騒がしすぎる」とか「先生と信頼関係を結べない」などの状況にある子供の母から見れば「なんとかしてほしい」状況が続いている。近年導入された学校選択制や外部評価制度により、学校に対する保護者の目は厳しくなっている。「学校の中で先生たちが考える常識」と「保護者が考える常識」とはズレがあるし、お互いのことを知ろうとする努力もないので、溝がなかなか埋まらない。保護者どうしに溝があることも少なくない。大人たちは子供に「みんなと仲良くね」とか「人の気持ちになって考えてみよう」とか平気で諭すけれど、保護者どうしや、保護者と先生とが、お互いにどんな感じ方をしてどう考えているのかを話し合うことは、ほとんどない。同じ意見の人と群れているのがせいぜいだ。こんなのヘンだ。このままでいいわけじゃない。こんな感覚を持ちはじめて何年経つだろう。思っているだけで何もできず、何もしないままの自分を腹立たしく情けなく思うこともあったし、今もほとんど変わらない。それでもこの秋、子育てネットワークで企画した小さな講演会は、一生懸命やりたいと思っている。いま、知人に「ぜひ来て下さい」と声をかけているところ。そして、講演会に学校の先生も参加してほしかったので声をかけた。そしたら「わたしに、後ろに座って、話を聞いてほしいと言うのですね」と言われた。ショックだった。「教育のプロである私が、教育について何も知らないママさんたちと一緒に、シロウト向けの講演会を聞けとでも言うんですか?」という意味だと感じたからだ。「一緒に学んでほしい」などというつもりはなかった。先生のプライドに傷をつけるようなつもりは毛頭なく、一生懸命に学ぼうとしている保護者達の取り組みを見て欲しかった。学校側と保護者との相互理解に役立つと思ったから。けれどそれは、わたしの自分勝手な希望でしかなく、そういう勝手な希望を押し付けてくること事体が先生にとっては不愉快だと、一瞬のうちに感じられた。もちろんショックに打ちのめされてスゴスゴ帰ってきたりはしない。「そうです。前半は講演会なので、一緒に聞いていただければと思います。後半は交流会のようにしたいと考えていますので、普段先生とお話できない保護者の方も、お話できる機会にもなりますし、普段お母さまたちが何をどう感じているのかを、見て知っていただきたいんです」と伝えた。(趣旨は理解していただいたが、残念ながらスケジュールが合わず、今回は参加してはいただけない。)言うだけのことは言った。やるだけのことはやった。それでも釈然としない気持ちが燻っていた。うちの小春の学校生活は特に問題がない。クラスの保護者はわりと仲がよく、保護者会への出席率も高い。だから「地域の保護者どうしの理解、保護者と学校との理解」のために一生懸命ボランティアなんてやらなくても、何も困りはしない。それでも「やったほうがいい」と思ってやってきた。わかってくれとは言わない。でも不愉快だと思われるようなことじゃないだろう?と悲しくなった。そしたら今日、久しぶりに届いたML、Denにはこんな言葉があった。D e n ;「"あなたがしてくれなかったから私もしてあげない" は、復讐である。 "あなたはしてくれなかったけど、私はしてあげる" は、憎悪である。」 鈴木清一(ダスキン創業者)ものすごいショックだった。わたしは、ボランティアを「与える」気持ちでやっていたつもりだった。でもそれは「憎悪」だったのかと。「あなたはしてくれない」なんて気持ちがあったらダメなのだ。「してあげる」の気持ちではダメなのだ。憎悪の先には何も生まれない。もっと、ただ、淡々とやるべきだった。Denはいつも、共時性を持って、わたしのもとへ届く。いまのわたしに必要な言葉が、その時に届く。励まされ、癒され、気付かされ、そのSynchronicityの神秘の力は圧倒的。今日のは久しぶりにクリティカルヒットってとこでしょうか。わたしは「自分の色」を「透明」に近づけて仕事ができるように、今日からまた新しい気持ちになる。上記、Denの11/9の内容はこちらから Denはこちら
Nov 9, 2004
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藤原和博氏の周りにはいつも新しい風が吹いている。どんな風か知りたい人は藤原和博の[よのなかnet]を見るといい。公立校の逆襲 いい学校を作る!藤原 和博 (著) 朝日新聞社Amazonの「著者からのコメント」この本のタイトルは「PTA完全マニュアル」としてもいいくらい、学校の裏表のホンネがつまっています。日本全国のすべてのPTAの皆さんは、この本を読んでから学校とつきあって欲しいなあ。もちろん、私立・公立問わず先生方にも。『公立校の逆襲 いい学校をつくる!』の帯にはこう記されている。全国のPTAを代表するつもりで校長をやってみた!公立校の良さを引き出し、私立校を超えようとする革命の記録。 いくつか印象深かったところを抜き出してみる。評議員の責任を明確にして、学校側の説明をただ聞くのではなく、また、文句を言って済ませるのでもなく、学校を良くすることに積極的に関わり、お金や労力を提供するのが地域の役割だと迫った生活指導は大切。遅刻をしない、人の話を聞く、宿題などの提出物をきちんと提出する、というたぐいのことから始まって、挨拶をする、ワイシャツをズボンの中に入れる、靴のかかとを踏まない、という基本的な生活習慣の域に至るまで、中学生としての学校でのマナー全般を指導する。学校が安定しているから、さまざまな幅のある学習ができる。「通知表」なんて作らなくても法律的にはいっこうに構わない。公立の生徒一人当たりは、約100万円の税金が使われている。学校という正解には「捨てること」を奨励するインセンティブ(動機づけるための制度)がない。(図書室には読まれない古い本がたくさん)勉強になることがたくさんありすぎて、書ききれない。藤原さんを尊敬してやまないということではないが、とにかく、知らなきゃいけないことを教えてくれる方だと感謝。この本に書かれていることは「公立の学校を良くする」革命だ。そしてその革命は学校内部にとどまらなかった。彼は生徒や地域住民を目覚めさせるために、ご自身のマネジメント能力とネットワークの総力を惜しげもなく使う。「藤原さんは、日本人の中に内在するpublicを発露させようとしている」と最後まで読んで思った。これは「学校の話」なんかじゃ終わらない。もっと大きな社会的な動きだ。強力なリーダーシップの元に発露した「公を構成する民としての自覚と貢献」は、日本のしがらみに絡みつかれることなく力強く生き続けるのだろうか。
Nov 7, 2004
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若い頃は「料理は上手だし得意」だと思っていた。小学校5年生で母親の代わりに夕食を作れたし(カレーくらいだけどさ)、高校時代は運動部のマネージャーで、夏の合宿で60名分の料理を作ったし、その献立作成から買出し手順まで自分で考えて下級生に指示もした。こんな私が料理を面倒だと思いはじめたのは、パソコン関係の仕事を始めた頃からだ。パソコンの仕事で使われる脳細胞と、料理で使う脳細胞は相殺するに違いない!パソコンの仕事をバリバリしながら美味い料理を繰り出す女を、わたしは知らない。今日はADHDなどの軽度発達障害に関するリンク集を作っていて、慣れないスタイルシートなどと格闘していたもんだから昼前に食材の買出しに行こうとしたのだが、全く献立を思いつかなかった。しかたなく料理の本など眺めて献立を決めようとしていたら、小春が「そんなに凝ったものを作らなくていいよ」と横から口を出す。春「本見ても、凝ったものなんか作れないよ」小「でもほら、ミネストローネとか」・・・・そうだった。このあいだ、めずらしく新聞のレシピを見て食材を買い込みミネストローネを鍋いっぱい作ったら不味かったのだ。味と量とダブルのショックだった。どうも、あの事件以来、小春は母が料理本を見るとヤバいと思っているらしい。「わたしにはラーメンだって凝った料理に思えるよ」だって。・・・うう、どういうフォローじゃ。夫にそう報告すると「この間のミネストローネは、そうマズくなかったし、タピオカ事件に比べれば・・・コーヒーゼリーもあったな」と言う。ううっ。タピオカは、結婚2年目の頃、洗面器がいっぱいになる量のタピオカを作ってしまった事件。そしてコーヒーゼリーは、わたしが中学の頃超マズいコーヒーゼリーを作り弟に食べさせたため、それ以来彼のトラウマとなり今でもコーヒーゼリーはイヤだという事件だ。もしかして、わたしは料理がド下手なのかもしれない。少なくとも、いまは結構コンプレックスを感じている。世間一般の主婦に比べてレパートリーは少ないし、手抜きだし、小春の弁当なんていつも中味が同じだ。(それでいいって言うんだもん。)しかも「今日の○○おいしかった。また作って」と言われても、テキトーに作っているので、同じ味は再現できない。結局今夜は料理本を見ながら「和風煮込みハンバーグ」と「田楽芋」を作った。例によって調味料の加減や出汁の量はテキトーだが上出来だった。小春の好みではなかったみたいだけど「母が料理本を開くとヤバい」という恐怖心は少し薄れてくれたかな?食後にはお土産にいただいた小布施竹風堂の栗羊羹をいただき、しあわせ。
Nov 6, 2004
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