山田のお地蔵様


【魔女のルーツ】につながる話をご紹介させていただきます。

実家の故郷は、ちょっと古いので
色々なお話がありますが、ここでは私達一家を守ってくださる
通称【山田の地蔵様】、正式には
 【曹洞宗 妙見山 増福禅院】の由来を
日本史に興味のある方は、聞いて下さいませ。
代々、何か願い事があるとここに出向き、願をかけてきました。
もちろん私の出産の度にも、お札をもらいに行って
無事に出産できるように願をかけてくれたし、
私の病気の時にも、また願掛けしてくれました。
宗教には、ちょっと疎い私ですが、このご利益だけは、
親の祈りとして、素直に受けたいと思っています。
日本史が絡むので、嫌いな方は飛び越してください。

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天文20年(1551年)と言えば、当時我が国は戦国時代の中ごろで、
この宗像地方は中国の雄、大内義隆公の勢力下にあった。
したがってこの地方の時の領主、宗像大宮司家第七十八代氏雄卿は
大内氏の随臣として長州黒川(山口県)に栃を与えられて其処に住んでおられた。
折柄その年の9月朔日、さしもの勢力を誇っていた大内義隆公も
逆臣陶晴賢(すえはるたか)の為、長州深川の大寧寺に攻められ
戦い破れ自害された。その時氏雄卿もまた、大内氏の為奮戦されたが
不幸にも遂に戦死されたのである。
本国筑前宗像の地には、正室菊姫がおられ、母堂の山田局と共に
この山田の地に住んで居られたが、突然の主君の戦死を
嘆き悲しむいとまもなく、同月12日長州表の陶晴賢よりさし向けられた
御父君正氏卿の妾腹の子なべ寿丸(後の79代貞郷)が、突然宗像に
乗り込み白山城に入城してきたのである。言うまでもなく本腹の菊姫御前をしりぞけて、領地六万石を横領せんとする晴賢の策略である。
宗像家譜代恩顧の家臣の中でなべ丸(氏貞)に加担する者も多く、
天文23年(1554年)3月23日「月待ちの夜」、
寝返りした石松但馬守は腹心の野中勘解由、嶺玄蕃等を従えて山田の御殿に乗り込み、菊姫御前をはじめ山田局をも刺し殺し、また主君の為に薙刀を振るって立ち向かった侍女の花尾の局、三日月、小夜、小少将の4人も討ち果たしてしまったのである。時に菊姫18歳、母堂山田局は53歳であった。
今日、菊姫が愛用されていた古鏡、買い合わせなどが増福院に秘蔵されているが、
それらは今なお見る人の涙を誘うのである。
その後、この6人の婦女子の怨霊の祟りものすごく、野中勘解由、嶺玄蕃等を
手始めにこの惨劇に加担した者は勿論、その一族ことごとく変死あるいは怪死するなど、宗像一円は「九州一の怪談」と言われるほどの大惨劇を演ずるにいたったのである。  氏貞卿とその母照葉のかたはこの怨霊を鎮めんと、天台の秘法を修したり代法会を催したりしたが一向に効験なく、遂にここやまだの地に宗像大宮司家の神護寺として在った庵寺に、6霊を合祀して6地蔵を刻み、増幅院と号して6女の霊を祀るようになって、ようやくさしもの変事も収まったと言い伝えられている。  菊姫はじめ6女の呪いが烈しかっただけに、一度六堂能化(ろくどうのうげ)の地蔵様として祀られるや、衆生をお救い下さる力も強く、
特に親の子の対する願いは必ず聞き届けられると言い伝えられ、
安産子育て、厄除けや子供の息災、諸病の平癒など、霊験あらたかにおわしますので今日なお参詣するひとの跡が絶えないのである。


   通称「山田の地蔵さま」と言われる
     増福禅院と秘蔵6地蔵尊の由来 より

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親が子を思う気持は、永遠です。

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