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颯HAYATE★我儘のべる
欲望と愛情の間で 10
牧野の声に緊張が高まった。
「進? 誰かお客様・・・」
リビングのドアを開けた途端に目に入った俺の姿に牧野が一瞬にして固まった。お互いに一言も発することなく、ただ見つめあっていた。
「ど・・・道明寺・・・」
最初に沈黙を破ったのは彼女の方だった。俺はといえば情けないことに声をかけられてもしばらくは何も言うことができなかった。
「道明寺さん?」
弟に声をかけられて初めて少しだけ緊張が解けた。この俺が『緊張』を体験するとは考えたこともない。
人生において、これほど緊張したことがあっただろうか。いや、緊張というものをしたことすらない。
「牧野・・・話があるんだ。」
とにかく俺の話を聞いてくれと心の中で懇願した。それを聞き届けてくれたのか、彼女は青ざめた顔で小さく頷いた。
「私も話したいことがある、から・・・」
お互いに言葉を探しながら、目を離さずに話しかける。進はその間に席を立ち、部屋を出て行った。きっと気を利かせてくれたのだろう。
「話って・・・?」
「お前から話せよ。」
「ううん、道明寺から・・・」
お互いに譲りあっていても進まない、俺は深呼吸をしてから話を切り出した。
とにかく謝罪し、許しを請うしかないと思っていた。
「その・・・俺はお前に謝らないといけない。」
自分の頭を蹴り倒したくなった。なぜこういう言い方しかできないのだろう。素直に謝罪すればいいじゃないか。
彼女の表情を窺うが、何も浮かんでいない。驚きすらしていないようだ。
「悪かった! ああいうことをして悪かった! 追い詰めるような真似をして・・・本当にすまない。」
俺は慌てて謝罪の言葉を口にし、座ったままではあるが深々と頭を下げた。今度は彼女も俺が頭を下げたという事実に驚きを隠せないようだ。
「―――っ!?」
声にならない声が牧野の口から洩れた。俺は頭を上げると、懇願するように彼女を見つめた。
いや、本当に懇願していたと思う。この俺がここまで許しを願ったことは初めてだし、頭を下げたのも初めてだ。
仕事でさえ、ここまで頭を下げたことはない。この俺が頭を下げ、許してくれと土下座する勢いで懇願しているのだ。
自分で自分が信じられない気分でもある。
彼女は一瞬の驚きが消えると完全に表情を消し去っていた。許してもらえないのかと、青ざめたとき彼女が口を開いた。
「道明寺は・・・ああいうことって何に対して謝っているの?」
「―――お前を追い詰めたことだ。お前の仕事に裏から手をまわして妨害したこと。」
俺は正直に気持ちを口にした。だが、それを聞いた牧野は眉を寄せ、不機嫌を隠さなかった。
「アンタね、謝罪することはそれだけなの!?」
「??? それだけだ。」
「私を愛人扱いしたことは? 仕事を盾にして脅迫したようなもんじゃないっ!」
俺は一瞬だけ言葉に詰まったが、正直なところ彼女は怒っていると思っていたし、傷つけたとも思ったがそれに関しては謝る気になれなかった。
いや、本当はここにくるまで迷っていたが進と話していて謝罪する気はなくなっていた。
「あれは謝らねぇ。俺はお前を抱きたかったし、たとえ愛人扱いしても俺の女にしたかった。それを後悔していないからな。」
「なっ!!!」
俺の傲慢な答えに彼女は呆れたようだが、言葉に偽りはない。俺は進と話したことで正当化はできないが、この件に関してだけは許しを請うことをやめた。
「俺は進に言われた。俺が愛人になることを強要したとき、お前には別の道を選ぶこともできたってな。確かに俺は脅迫した。だが―――お前を抱いたことを後悔したことはない。
ただ仕事を利用して追い詰めたことは謝罪するしかない。卑怯な真似をしてもお前をこの手に取り戻したかったのは事実だ、だからその卑怯な真似に対しては謝罪する。」
牧野は小さく深呼吸をし、怒りを体内から吐き出した。
「わかった、確かにそうかもしれない。私はアンタの言い分を拒否することもできた。だけど―――アンタに罪悪感はないの?」
「罪悪感? それは卑怯な真似をしたっていうことに対してはあるだろ?だから謝っている。」
「それが謝っている人間の態度なの!? 私に対して謝るんじゃなくて、奥さんに謝罪しなさいよ。
アンタが後悔しようがしまいが、奥さんを裏切っていたことは事実よ。私は自分自身が許せないわよ!?」
「―――なんで俺がアイツに謝る必要がある?」
「アンタの奥さんよ!? 奥さんを裏切って私という愛人を持ったのよ? 不倫・・・していたのよ?これを知れば奥さんは傷つくでしょ・・・私より奥さんに謝りなさいよ。」
俺は彼女が誤解していることに気がついた。俺とあの女が愛し合って結婚したとでも思っているのだろうか。
「俺たちは政略結婚だぞ? お互いに愛情があるわけでもないのに、なぜ傷つくんだ?」
「―――アンタね、政略結婚だろうが、奥さんは奥さんよ。アンタの妻でしょうが! 他に女を囲われて傷つかないわけないでしょ。」
「傷つくわけねぇだろ!アイツには結婚する前から男がいるんだから!」
俺の言葉に牧野は何も言えなくなり、ただ驚きで目を見開いていた。
「な、何、それ・・・。アンタたち夫婦ってどういう・・・」
「だから政略結婚だって言っているだろうが。最初から愛情なんてねぇんだよ。
俺はお前が手に入らないなら誰でも良かったし、アイツは男がいたんだが金のない奴で・・・生活レベルを落としたくなかったんだ。」
俺の言葉に牧野は目を閉じ、ため息を落とした。そしてどうしようもないというように頭を振った。
「私にはついていけない世界だわ、本当に別世界ね。」
彼女の言葉に俺は眉を寄せた。なんだか嫌な予感がした。
「世界は一つしかねぇ・・・ぞ」
俺の言葉に彼女は悲しげな目で微笑むことで答えた。
これは・・・俺に別れを告げようとしている、俺の直感がそう言っている。
「俺は離婚した。―――いや、まだ手続き途中かもしれないが、離婚は決定だ。」
思わず、俺はそう言っていた。何とかしなければという気持ちが先走って思わず飛び出した言葉。
それを今言っても仕方がないとわかっているのに―――。
「離婚?―――何が言いたいの?」
彼女の答えは半ばわかっていた。自分でも、だから何だと言いたくなるだろう。
俺が答えないでいると、彼女は小さくため息をついた。それを聞いて、俺は何度彼女にため息をつかせただろうかと考えていた。
諦観のため息、同情のため息、軽蔑のため息、そして何かの気持ちが消えていくようなため息。
俺の中に新たな後悔と罪悪感が生まれた。
日本に戻って牧野を見かけたときに声をかけていれば、あの時、彼女に愛人契約なんて持ち出さなければ・・・。
そして、もっと早くこんな結婚にケリをつけていれば・・・。
悔恨の言葉が渦巻いて自分を覆い尽くしていく気がした。
「ただ・・・知ってほしかっただけだ・・・」
司はそれだけしか言うことができなかった。何を言っても言い訳でしかない、彼女も不快に感じるだけだろう。
「私がそれを知ってどうなると言うの・・・」
彼女はただ呟いた。聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声だった。
二人は沈黙の中、ただ座ってお互いを見ていた。視線をそらすことなく、ただ座って見ていた。
最初にその緊張を破ったのは、つくしだった。
「道明寺、私たちは間違いを犯したのよ。」
この先は聞きたくなかった。司は耳を覆いたい気持ちを必死で抑えながら、つくしの言葉を微かに項垂れて聞いていた。
もうつくしの顔を見ることができなかった。何を言いたいのかわかっていたから―――。
「道明寺、私たちはこの関係を終わらせなければ。間違った関係は間違った結果しか生まない。」
「牧野・・・俺たちはやり直すことはできないのか?」
呟くように言った言葉に彼女は驚いたように目を見開いた。だが、それも一瞬ですぐに悲しい目に変わり小さく頭を振った。
「道明寺、始まってもいないものをやり直すことはできないのよ?」
この言葉はショックだった。始まってもいない―――俺たちの関係はいったい何だったのだろう。
この愛人契約はともかく、俺たちの学生時代は何だったんだ?そこからやり直すことは不可能なのか?
始まってもいないとはどういうことだ? 俺たちの関係は始まっていただろう?そして俺が一度は終わらせたんだ。
そこで司はハッとした。俺たちの関係は俺が終わらせた―――つまり一度終わっているのだ。
終わった時点でその関係は牧野にとって過去であり、消したい記憶だったのかもしれない。
そして始まった新しい関係は牧野がいま、終わらせようとしている。
無理やり作った関係。俺にとってはそこが始まりでも、彼女にとっては始まってもいなかった・・・?
「この・・・愛人契約を破棄して・・・そして始めから・・・」
「この契約を破棄したとしても、どこが始めなの?道明寺が私の会社を陥れようとしたとき?私がアンタの会社を訪ねたとき?
それとも、契約をしたとき?どれが最初だとしてもお互いが納得した関係じゃないでしょう。
そんな関係は始まりとは言えない。終わらせるだけの関係で始まっていたとは言えない。言いたいことはわかるでしょう。」
わかりすぎるほどわかる。俺が言いたい始まり―――それは俺が牧野を見たあの瞬間だ。
牧野と進が楽しそうにカフェで話をしていたあの瞬間。俺が二人の関係を誤解したあの瞬間。
あそこから俺はやり直したかった。今ではもうあの男が進で、牧野の弟だとわかっている。同じ間違いは有り得ないのだから。
俺は久しぶりに牧野を見ることができた、あの喜びの瞬間からやり直したかった。
誤解をする一瞬前から―――嫉妬する一瞬前からやり直したいのだ。それをどう牧野に伝えればいいのだろうか。
顔を上げると、疲れ果てたように座っている牧野の顔が見えた。
自分がここまで追い込んだのだろうと思うと、自分で自分が許せない。しかし勝手なもので、それを牧野には許してもらいたいのだ。
「牧野・・・」
項垂れ、ただ座って床を見ている牧野に声をかけるが返事はない。
「牧野・・・俺は・・・」
「道明寺、離婚手続きが完了しない限り、アンタは妻帯者よ。私は今まで後ろめたい生き方はしたことなかった。
でも、生まれて初めて人生に罪悪感というものが侵入してきた。
アンタの奥さんへの罪悪感、それにアンタのご両親にも奥さんのご家族にも謝っても許してもらえないことをした。
アンタがどう言おうと私の中で、それは消えない。不倫なんて人として最低だと思うし、自分が奥さんの立場になれば許せるものじゃない。
たとえ、愛情のない結婚でお互いに別の恋人がいたとしても、それは私には関係ないことなの。」
つまり、どう言おうと彼女は俺を、そして自分を許さない―――。そういうことだろう。
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