Manachan's World-東京下町日記

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インディアン居留地を訪ねて(2005/5/14)



一口でアメリカ・インディアンといっても多数の部族がいますが、大陸東部・アパラチア山脈を故地とする「チェロキー族」(Cherokee)は、その進んだ文明、生活技術、盛んな通商活動等から、インディアンの代表的存在とされています。

チェロキー族は19世紀、米国連邦政府と白人入植者のために故地を追い出され、はるか内陸のオクラホマに強制移住させられ、その移動の途中で飢えと病気のために全人口の4分の1が亡くなるという、悲痛な歴史を背負っています。1838~39年の真冬に起こったこの出来事は、「涙の旅路」(The trail of fears)と呼ばれ、合衆国史上、極めて恥ずべき出来事とされています( 詳しくはこちら )。

ですが今日でも、チェロキーの一部(東部チェロキー族、人口1万3千人)は故地アパラチア山脈に留まり、ノースカロライナ州最西端にある チェロキー・インディアン居留地 で暮らしています。

美しい山懐に抱かれたこの「居留地」は、全米で最も訪れる人の多い
グレート・スモーキー・マウンテン国立公園 のど真ん中にあり、毎週末はキャンプ、ハイキング、渓流釣りなど、アウトドアを楽しむ家族連れで賑わいます。チェロキーの町も、観光地として大いに賑わいを見せています。先週末は、そこへドライブに行ってきました。






【5月6日(金)】
我が家からチェロキーまでの距離は、最短経路でも283マイル(455km)。今回も、やっぱりアクシデントがありました。道中、Asheville付近のフリーウェイ上で、 有毒液体を積んだトラックが横転した らしく、化学処理班まで出動する始末、その結果、日本の帰省ラッシュも真っ青の大渋滞に!!!普通7分間で走り抜ける距離を、なんと1時間45分もかかって、ようやく抜け出すことができました。








そのおかげで、本来なら陽のあるうちにチェロキーに着けるはずだったのが、完璧に夜になってしまいました。この近辺はもう、すごい山奥で道もデコボコなので(落石も多いらしい)、夜闇のなかをドライブするのはさすがに緊張しました。

ホテルにチェックインすると、もう夜9時近い。この時間帯、この山村ではどのレストランも閉まっており、食事ができないぞ!!!と思いきや、一ヶ所だけ開いてました。それは、今やチェロキー最大の観光アトラクションとなった カジノ です。ここは24時間営業で、レストランも 「シーフード食べ放題」と「ステーキハウス」=が営業中・・・私はなぜか、シーフードを選びました。こんな山奥で、イカとかエビとか食べました・・・



参考までに、アメリカでカジノで有名な都市といえば、ラスベガスやアトランティックシティなどですが、インディアン居留地にもカジノが多いんだそうです。おそらく、インディアンの雇用対策や自治政府の財源対策として、連邦政府が許可したものなのでしょうが、ここチェロキーでもご多分に漏れず、巨大なカジノが建っていました。ですが、そこで働く職員にチェロキーの姿は見当たらず、なぜか白人ばっかりでした。

スロットマシーンの電子音の洪水のなかで、山村チェロキーの夜は更けていきました。


【5月7日(土)】
朝、早起きすると、窓の外に爽やかな山の風景が広がっていました。






外に出ると、インディアンを売り物にした、土産屋の姿が目立ちました。「チェロキーの酋長と一緒に写真撮影」みたいな看板もありました。






町の街路表示や看板には、英語とともにチェロキー文字が併記されていました。チェロキー文字は、19世紀前半、Sequoyahという人が考案したそうです。






町はずれに、こんな素晴らしい渓流がありました。






チェロキーの町を出て、さらに10マイル(16km)山奥にあるマス釣り場に直行。




今日の釣果、2.75ポンド(1.25Kg)のマス一匹。かなりの大きさと重さです。




このマスは・・・もちろんバーベキューにして、アパラチア山脈の大自然のなかでいただきました♪



写真うつりはともかく・・・味は最高でした♪自分で釣ったものを大自然のなかで食べる、これに勝るグルメはないっ!!!




その後、「チェロキーインディアン博物館」に行きました。そこには、白人の手により圧迫され、故郷を追われ、飢えと病気のために人口の多くを失い、今日でも狭い居留地のなかで細々と生きているチェロキー族の悲運が、余すことなく描かれていて、見ていて悲痛な気持ちになりました。ここから、ちょっとだけ真面目な話になります。




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アメリカインディアンは、人種的には日本人や中国人と同じ、モンゴロイド(黄色人種)に属します。アジア大陸から北上したモンゴロイドは、ベーリング海峡を超えてアメリカ大陸に入り、北はアラスカから南は南米大陸の突端まで移動しました。彼らが、後日ヨーロッパ人によって、アメリカインディアン(またはインディオ)と呼ばれることになりました。

私とアメリカインディアンとの出会いは、1993年、メキシコ、グアテマラを旅した時に始まります。

メキシコという国は、米国と違って、白人とインディアンとの混血が非常に進んでいます。混血した人々はメスティーソと呼ばれますが、彼らが今日、メキシコ人口の多数を占めています。メスティーソのうち、黄色人種インディアンの血の割合が大きい人々は、当然ながら日本人に似た顔をしています。

メキシコ北部のエンセナーダという港町を歩いている時、現地の物売りがタコスを売っていました。彼らは、通りがかる旅人が白人(たいてい米国人)であれば、英語で"Fish tacos! Shrimp tacos! Chicken tacos!"と声をかけていましたが、私が通りかかった時、スペイン語で"Tacos pollos, pescado, camaron!"と言っていました。何度か試しましたが、いつもスペイン語が返ってくる・・・ということは、たぶん私はメキシコ人だと思われたのでしょう。現に、私がメキシコの街を歩いても、インディアンやメスティーソの中に違和感なく溶け込んでいるようでした(一目で外国人だと分からない!)。

さらに国境を南に越えて、グアテマラに入ると、インディアン度がさらに濃くなります。グアテマラ・・・ここはインディアンが人口の多数を占める、南北アメリカ大陸でも珍しい国です。もちろん、社会の中枢は白人(スペイン人)が握っていますが、この国のどの地方を旅しても、インディアンの姿ばかりが目立ちました。

グアテマラ高原に、アティトラン湖という景勝地があるのですが、私は一瞬、箱根の芦ノ湖にいるような錯覚を覚えました。この辺は、気候も植生も日本に似ているのですが、インディアンの村では、会う人会う人、皆日本人そっくりな顔をしていたからです。インディアンの赤ちゃんは、たいてい「蒙古斑」を持っているそうです。

今日、アジア大陸に残ったモンゴロイドとアメリカ大陸に移ったモンゴロイドを比べてみると、その命運に大きな違いが出ています。語弊を恐れず言えば、前者(アジア人)の多くは、かつて欧米列強の植民地支配を受けつつも、今日、曲りなりにも自らの国家を持ち、自分たちの言語を使って社会生活を営むことができているのに対し、後者(アメリカインディアン)は自分たちの国家を持つことを許されず、移住してきた白人たちがつくった国のなかで、少数民族として生きざるを得ない状況にあります。

同じモンゴロイドの仲間としてみた場合、両者の命運の差(と敢えて言う)がなぜ生まれてしまったのか?ということを考えたとき、チェロキーの歩んできた歴史が、その謎を解くカギを握っているような気がします。

チェロキーインディアン博物館の展示物によれば、白人との接触からしばらく経った時点で、チェロキー社会に大異変が起こったそうです。白人から暴力的な圧迫を受ける以前に、チェロキーの暮らしはすでに白人のつくる銃や日用品に完全に依存することになり、いつの間にか「生殺与奪の権」を白人に握られてしまった・・・チェロキーはその後白人と戦うわけですが、結局、一丁の銃も自前でつくることはなかったそうです。

一つの民族が存続するためには、その時代に要求されるテクノロジーの裏づけがどうしても必要なのでしょう。すなわち、新しいテクノロジーを理解し、使いこなし、改良・発展させていく能力が、いつの時代も求められてくる。テクノロジーを持たない民族は、それを持つ民族から否が応にも圧迫され、場合によっては生存を脅かされてしまう。

日本人の場合、それができた。16世紀、ポルトガル人が種子島に漂流して銃が伝わった時、日本人はその「からくり」を理解し、数年後には自前で銃を製造するようになった。19世紀中葉、欧米列強が軍艦と大砲をもって日本を圧迫した時、日本人は国のつくり変えまでやって、自前で軍艦や大砲をつくれる欧米ふうの国になった・・・

日本の場合、すぐ近くに中華文明があったことが幸いしたのでしょう。中華文明には、西洋史でいう「近代」以前から、石炭エネルギーを活用して鉄を大量生産する技術、遠洋航海をできる船をつくる技術、銃器をつくる技術など、近代テクノロジー要素が一通り揃っていました。そして日本は十世紀以上にわたって、金や銀を中国に売る代価として、中国から進んだ文明を「買い」、それを自前で消化する訓練を積んできた・・・そういう素地があったからこそ、白人がつくる銃器を見て、それを自分でもつくれるはずだと信じ、実際つくってしまったわけです。

一方、アメリカ大陸にいたチェロキーの場合、白人との接触以前から、通商路を整備したり、自前の文字を持ったり、土から陶磁器をつくる等の文明は持っていたわけですが、残念ながら、まだ鉄を知らなかったようです。鉄を知らなければ、鉄部品を複雑に組み合わせたエンジニアリングの結晶である「銃器」を理解することはできず、高いお金を払って白人からそれを買う以外になかった・・・結局それが、日本人とチェロキーとの、(国や文化の独立を守るという意味での)運命の明暗を分けてしまったのだと私は思います。

チェロキーに限らず、インカ、アステカ、スー族をはじめ、アメリカインディアンの多くが、白人に圧迫されて国を失うという、悲痛な運命を歩みました。同じモンゴロイドの仲間として、実に悲しいことであったと、同情を禁じえません。

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ちょっと悲痛な気持ちになって、博物館を出ると、そこには「希望」が見えてました。村の広場で、チェロキーの子供たちが、元気に遊んでいたのです。彼らは、これからの長い人生、このアメリカ大陸で生きていく・・・子供たちこそ、チェロキーの明るい未来を担う主役だと思いました。




そして、私はチェロキーを離れ、アパラチア山脈の分水嶺を越えるロングドライブに出ました。ご覧の通り、すごい絶景のドライブウェイ。




ついに、テネシー州との州境、標高5048フィート(1538m)のUnfound Gap峠に到着!




重畳たる山並みが、延々と続きます。






テネシー側に下りると、そこにGatlinburgの賑やかな街が広がっていました。





-おしまい-


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