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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 越生の今市 高札場跡
2024年11月14日
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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 公式HPより 三井呉服店出張所を営んでいた生絹仲買商・星野商店の店舗兼住宅として建築された、主屋(見世と居宅)と袖蔵が一体となった建物である。 主屋全面の軒を大きく前に張り出した出桁造は、当地の上層商家の格式を示す特徴です。袖蔵は商品や什器などを収蔵する土蔵で、青梅波の屋根棟端の鬼瓦には三越の店章「丸越」が、拝み巴瓦には「星野」が刻まれ、観音扉は左官技術の粋を凝らした四段の漆喰仕上げである。 袖蔵西側の「不動横丁」の突き当りには、明治33年に「生絹市場」が開設され、昭和5年(1930)には「織物会館」(越生絹織物同業組合事務所)が竣工し、平成20年に取り壊されるまで使用されていた。殷賑を極めた越生の絹取引の、かつての中心地に遺る貴重な歴史的建造物である。 ※ 星野家住宅主屋及び袖蔵 〈星野家住宅主屋及び袖蔵(埼玉県越生町越生729)〉
2024年11月14日
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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 公式HPより この建物は、生絹仲買取引などで財をなした嶋野伊右衛門の店舗兼住宅として、江戸時代末期に建築された。土庇、出桁造を持つ外観と、見世から裏へ通じる通り土間がある間取りは、幕末期における当地の上層商家の特徴と考えられる。 屋根裏からは、建築主や上棟年月日などとともに、棟梁の大谷村(現越生町大字大谷)深田定蔵をはじめ、建築に関わった越生及び近在の大工、山方、杣取、挽方、鳶、石工、左官等数十人の職方名を墨で列記した柱材が見つかっている。 また、慶応2年(1866)に起こった武州一揆の「打ちこわし」による刃物傷が家中いたるところに生々しく残されている。 大正7年(1918)からは栗島家が所有し、平成20年(2008)まで、種苗・肥料商「改農園」を営んでいた。同年、金子家が購入し、今日に至っている。 「越生の今市」と呼ばれた往時の繁栄を偲ばせる貴重な歴史的建造物である。 ※ 金子家住宅主屋 金子家住宅主屋(埼玉県越生町大字越生字町769)
2024年11月14日
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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 新井蘇生堂薬局(埼玉県越生町) 〈新井蘇生堂薬局(埼玉県越生町越生849)〉
2024年11月14日
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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 八幡神社跡 〈八幡神社跡(埼玉県越生町越生)〉
2024年11月14日
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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 公式HPより 越辺川を隔てた隣村和田村(現大字西和田)への道が通じていたことから、こう呼ばれてきた。大正から昭和初期の一時期、公衆浴場があったことから、「銭湯横町(せんとよこちょう)」と呼ばれたこともあった。『新編武蔵風土記稿』(文政13年〈1830〉成立)「和田村」の項には、「川幅二十間、平常は僅かに二三間許、冬より春に至ては板橋を架して往来に便す」とある。また、明治2年(1869)の「今市村絵図」にも橋が描かれており、渡河地点だったことが知れる。 この界隈が、「越生の今市」と呼ばれた江戸時代からの市街地の中心で、明治30年代の最盛期には、絹、織物関係業者など大小の商家が軒を連ね、さながら小都会の趣きを呈していた。現在も残る幕末から明治にかけての建造物が、かつての繁栄を偲ばせている。 ※ 和田横丁 〈和田横丁(埼玉県越生町越生770)〉
2024年11月14日
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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 公式HPより 江戸時代後期、関東では剣術が盛行し、さまざまな流派が生まれ、武士のみならず、農民たちも各地の道場で稽古に勤しんでいた。 写真は、寛政12年(1800)、春日神社に今市村(現越生町大字越生)の田嶋七郎左衛門が奉納した額である。甲源一刀流の創始者、秩父の逸見太四郎の高弟であった七郎左衛門が、「禅心無形流」を興した記念に奉じたもので、越生はもとより、相模、上野、越後に至る門人百数十人が名を連ねている。 文政6年(1823)に、今市村の名主を務めていた田嶋家を訪ねた八王子千人同心組頭の塩野適斎は「家内頗る広く、我が曹主従十八人を容るるに足り、接待供給、例に称えり。其の人と為りや剛毅篤実なり。屋後に撃剣場を設け、其の術を郷党の少年輩に教授す」と、著書『桑都日記』に記している。 ※ 禅心無形流道場跡 〈禅心無形流道場跡(埼玉県越生町越生)〉
2024年11月14日
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【見た日:2024年(令和6年)11月14日(木)】 ※ 公式HPより 土蔵造3階建の店蔵は全体的に見ても希少で、当時は黒漆喰で仕上げられていた外壁、1階戸袋の亀甲崩し文様、階ごとに異なる軒下のデザインなど、随所に意匠がこらされている。絹取引で活気にあふれていた当時の、越生町の絹織物の繁栄を今に伝える歴史的な建造物である。 店蔵の東側、短冊形の敷地奥に立つ白壁の土蔵は、建築様式や技法などから、江戸時代もしくは江戸時代後期の創建と推定されている。 ※ 岡野家住宅店蔵 〈岡野家住宅店蔵(埼玉県越生町大字越生字町796)〉
2024年11月14日
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【参加した日:2024年(令和6年)10月28日(月)】 ※ 公式HPより 旅 久伊豆神社神職と境内散策ツアー!! 参道の入り口から社殿裏まで、しめ縄や鳥居のこと、祭りのことなど境内を散策しながら説明していきます。神社を身近に感じ、郷土愛を深めていただきたいと思います! 神職: 久伊豆神社 小林威朗 荒井一起 (こばやしたけろう あらいかずき)様 ※ 越谷技人館 久伊豆神社神職と境内散策ツアー
2024年10月28日
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【訪問日:2024年(令和6年)10月11日(金)】 ※ 公式HPより 明治2年(1869)1月3日夜、勝浦川津沖で熊本藩士の乗る米国汽船が暴風雨に遭い難破し、200余人の犠牲者を出した事故があった。 慶応4年(1868)から明治2年(1869)に至る戊申の役で、旧幕府の海軍副総督榎本武揚(えのもとたけあき)は、北海道の函館で官軍に最後の抵抗をしていた。維新政府から鎮圧を命じられた津軽藩は、容易に平定することができず、津軽藩主の実兄である熊本藩主に援軍の要請をし、熊本藩から寺尾九郎右衛門を長とする350人が船で北海道に向かった。しかし、勝浦川津沖でこの事故に遭い、北海道へは、たどり着くことができなかった。 官軍塚は、この遭難事故の救助に当たった地元川津の人々が遭難者を埋葬供養した場所であり、塚と記念碑が建っている。 現在、官軍塚からの眺望は素晴らしく、晴れた日の海は絶景であるが、この塚は、明治2年のこの事件を後世に伝え、明治維新史を物語ってくれる。 ※ 千葉県指定史跡 官軍塚 〈千葉県指定史跡 官軍塚(千葉県勝浦市川津1394)〉
2024年10月11日
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【訪問日:2024年(令和6年)10月11日(金)】 ※ 日本海軍駆逐艦沖風殉難平和観音像慰霊碑 〈日本海軍駆逐艦沖風殉難平和観音像慰霊碑(千葉県勝浦市)〉
2024年10月11日
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【訪問日:2024年(令和6年)10月5日(土)】 ※ 重要文化財 法務省旧本館 〈法務省(東京都千代田区霞が関1-1-1)〉
2024年10月05日
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【持ち上げさせていただいた日:2024年(令和6年)9月21日(土)】 あの、有名な越谷隕石です。 重かったです。
2024年09月21日
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【見た日:2024年(令和6年)8月21日(水)】 ※ 公式HPより 見沼溜井は寛永6年(1629)に関東郡代伊奈忠治が木曽呂村(現川口市)と附島村(現さいたま市)の間に長さ八丁(約880m)の堤を築いて造成しましたが、水深が浅く、その反面水没する田も発生するなど十分機能はしませんでした。 ※ 八丁堤 〈八丁堤(埼玉県さいたま市緑区大間木)〉
2024年08月21日
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【見た日:2024年(令和6年)8月21日(水)】 ※ 公式HPより 国指定史跡見沼通船堀には、通船差配役であった鈴木家の住宅が指定地に含まれています。 鈴木家は、幕府から見沼通船堀の差配(各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う業務)役を命じられていました。文政年間(1818年から1830年)以降は、差配を執り行う事務所(八丁会所)に出向いて差配にあたり、住まいも江戸から現地に移しました。 現在残る鈴木家の建物(母屋・米倉・その他の建造物)は、その頃に建てられたと考えられています。 鈴木家の建物のうち、米倉と納屋を公開しています。また、2分の1サイズに復元した船も合わせて公開しています。 母屋内部は公開していません。見学をする際は、文化財の所有者や管理者、近所の方、他の見学者の迷惑とならないようお願いします。 ※ 鈴木家住宅附属建物の公開 〈鈴木家住宅附属建物の公開(埼玉県さいたま市緑区大字大間木1889)〉
2024年08月21日
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【見た日:2024年(令和6年)8月21日(水)】 ※ 公式HPより 見沼通船堀の開削 国指定史跡「見沼通船堀」は1731年(享保16年)に完成した閘門式運河(こうもんしきうんが)です。 見沼では、8代将軍徳川吉宗の命により井澤弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が新田開発を行い、米が収穫できるようになりました。 収穫した米は年貢米として江戸に運ばれることになり、そのために造られたのが、東西の見沼代用水と芝川を結ぶ見沼通船堀です。 見沼通船堀は東西の見沼代用水と中央の芝川までの距離が狭まるところに造られました。 見沼通船堀は芝川を挟んで、東縁(ひがしべり)と西縁(にしべり)に分かれ、堀の長さは東縁が約390m、西縁が約650mあります。 見沼通船堀の特徴 見沼通船堀の最大の特徴は、見沼代用水と芝川との3mの水位差を克服するしくみです。 見沼通船堀では、東縁・西縁のそれぞれ2ヵ所に閘門を設置し、水位を調整して船を通しました。 閘門は、水位差の大きいところに関(水門)をつくって水位を調整し、船を通す施設のことです。見沼通船堀の閘門は、芝川側から順に一の関、二の関と呼んでいます。 見沼通船堀は閘門式運河として、日本有数の古さであり、江戸時代中期の土木技術の高さが評価されています。 閘門の構造 見沼通船堀東縁・西縁には、それぞれ2つの閘門があり、この4つの閘門はだいたい同じ寸法です。 閘門の全長は5間半から6間(約9.9~11.7m)あり、幅はせまいところで9尺(約273cm)、高さはおよそ12尺(約364cm)です。閘門の中央にある太い木枠を鳥居柱といい、ケヤキを用いています。この鳥居柱に、角落(かくおとし)と呼ばれる板を取り付けたり、外したりして水位を調整します。角落の大きさは、長さ11尺(約333cm)、幅6寸(約18cm)、厚さ2寸(約6cm)で、細長い形です。 通船のしかた 見沼代用水の水を使用して船を通していました。そのため、見沼代用水を農業用水として使用しない時期に、見沼通船堀に用水を流して通船が行われていました。見沼通船を行っている時期は秋の彼岸から翌年春の彼岸の頃までです。 実際にご覧いただけるよう「見沼通船堀閘門開閉実演」(例年8月開催、年1回)を開催しています。 ※ 国指定史跡 見沼通船堀 閘門開閉実演 〈国指定史跡 見沼通船堀 閘門開閉実演(埼玉県さいたま市緑区大間木2407)〉
2024年08月21日
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【見た日:2024年(令和6年)8月20日(火)】 歴史を感じました。 ※ 新石一丁目・新石二丁目 山車展示会
2024年08月20日
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【見た日:2024年(令和6年)8月12日(月・振替休日)】 今年も行ってきました。 蘭陵王、見はぐりました。 〈武蔵国 越谷郷 久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年08月12日
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【見た日:2024年(令和6年)8月12日(月・振替休日)】 ※ 公式HPより 越谷市は、平成20年11月3日に「越谷市平和都市宣言」を行ったことから、世界の恒久平和実現を希求し、戦争の悲惨さや平和の尊さを後世に伝えるために、毎年、「平和事業」を実施しています。 今年度は、平和への思いが高まるこの時期に、「ミニ平和展」を開催します。 〈越谷市役所(埼玉県越谷市越ヶ谷4-2-1)〉
2024年08月12日
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【見た日:2024年(令和6年)8月12日(月・振替休日)】 ※ 公式HPより 越ヶ谷小学校の校務日誌や教科書、子どもたちの写真などから、第二次大戦末期と終戦直後から現代までの教育の変化や学校の様子を紹介します。 〈越谷市役所(埼玉県越谷市越ヶ谷4-2-1)〉
2024年08月12日
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【見た日:2024年(令和6年)7月31日(水)】 ※ 公式HPより 近代教育の土台となった幕末の寺子屋や、明治の学制発布によって誕生した学校の様子、試行錯誤しながら進められた教育内容などについて、市域に残る教科書などの史料を通して紹介します。 ※ 江戸末期の寺子屋~大正期の学校と子どもたち~ 〈越谷市役所(埼玉県越谷市越ヶ谷4-2-1)〉
2024年07月31日
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【見た日:2024年(令和6年)6月24日(月)】 ※ 公式HPより 庁舎A棟の場所にかつて存在した「1号館」を歴史的建造物として移築・復元し記念館としました。平日の午前・午後に見学ツアーを開催しており、館内を見学することができます。 ※ 市ヶ谷記念館 ※ 三島由紀夫が演説をしたバルコニー ※ かつて一号館の正面に掲げられていた「大時計」と「桜」※ 大講堂 極東国際軍事裁判の法廷として使用された大講堂を移築しました。旧軍の資料や制服なども展示しております。 ※ 旧便殿の間(午前・午後 ご案内) 陛下が御休憩された旧便殿の間を移築しました。 ※ 旧陸軍大臣室 陸軍士官学校時代は学校長の部屋、その後陸軍大臣室として使用されておりました。 三島由紀夫の割腹現場です。 ※ 扉には、三島がつけた刀傷が3か所残っています。絶命したのも、この付近でした。 ※ 部屋の一番左の窓からバルコニーに出て、自衛隊員たちを前に、憲法改正を求めるクーデターを呼びかけ、人質の総監の目の前で割腹自殺しました。 〈市ヶ谷記念館(防衛省(東京都新宿区市谷本村町5-1))〉
2024年06月24日
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【見た日:2024年(令和6年)6月24日(月)】 ※ 公式HPより 大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部等の陸軍の主要機関の防空壕として建設されました。 当時の軍人の記録によれば、昭和20年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が将校らをこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている、戦後は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が使用した後、昭和34年に返還されました。 ※ 大本営地下壕跡 〈大本営地下壕跡(防衛省(東京都新宿区市谷本村町5-1))〉
2024年06月24日
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【訪問日:2024年(令和6年)6月18日(火)】 ※ 公式HPより 浅草地下街は現存する日本最古の地下商店街です。銀座線「浅草駅」に直結したレトロ感溢れる多国籍な異次元空間です。焼きそば、タイ料理、ベトナム料理、タイ雑貨、BAR、タイ珈琲屋、ビデオ屋が集まっています。映画、YouTube、テレビ番組、ファッション誌の撮影は歓迎です。 〈日本最古の地下商店街 浅草地下街(東京都台東区浅草1-1-12)〉
2024年06月18日
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※ 公式HPより 千代田区教育委員会が有形文化財に指定する「工部大学校阯碑」が霞が関3丁目の霞が関コモンゲートにあります。 ここは江戸時代虎門内延岡藩邸を中心とした地域で, 言わば日本の工学発祥の地です。そして、東京大学工学部の発祥の地です。明治6年(1873), 工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校し、同10年(1788)には工学寮が工部大学校と改称されました。 工部大学校では, 土木・機械・造家などの学科が, イギリスから招聘された外国人教師によって教授されていました。 しかし同校は明治19年(1886)に帝国大学と合併してその工科大学となりました。 現在の東京大学工学部の前身です。 「工部大学校阯碑」は千代田区内において日本最初の工業技術教育機関が設置された場所を示しつつ, その歴史を後世に語りかけてくれます。 さらに震災で倒壊した建造物の廃材を素材としていることで, 震災によって大きな打撃をうけた 千代田区の歴史をも伝えてくれているのです。 ※ 工部大学校阯碑 〈工部大学校阯碑(東京都千代田区霞が関3-2-1 霞ヶ関コモンゲート西館敷地内)〉
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 観光スポット 定番スポット 公園 さくらの名所 紅葉の名所 国会前庭の名の通り国会議事堂前にある庭園です。洋式庭園の北庭と日本庭園の南庭に分かれています。 北庭は江戸時代の初めには加藤清正の屋敷があり、後に彦根藩井伊氏の上屋敷となり大老井伊直弼が居住した場所です。中心には三権分立を象徴するシンボルとして三面の時計塔が建てられています。「憲政の神様」尾崎行雄の業績を称えて建設された尾崎行雄記念館を前身とする憲政記念館もこちらにあります。 敷地内には日本の土地の標高を決める基準「日本水準原点」や、江戸の名水として知られた井戸「櫻の井」など重要文化財や旧跡などもあり、散策に最適です。 ※ 江戸の名水「櫻の井」 〈江戸の名水「櫻の井」(東京都千代田区永田町1-1)〉
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 日本水準原点の近くには、「甲、乙、丙、丁、戊(ぼ)」と名づけられた一等水準点が5点あります。「丁」は地上にありますが、他の4つの水準点は、普段は鉄の蓋で覆われています。このうち「甲、乙、丙」もまた重要文化財に指定されています。 ※ 一等水準点 丙 〈一等水準点 丙(東京都千代田区永田町1-1)〉
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 国土地理院は、国会前庭にある「日本水準原点」の隣に、電子基準点「東京千代田」を設置し、2018年3月26日から、準天頂衛星システム(みちびき)やGPSなどの観測を始めます。都心での測量が効率化するとともに、全国の標高の基準である日本水準原点の変動をモニターできるようになり、大きな地殻変動が生じた場合でも円滑な測量が可能になります。 電子基準点は全国に1,300箇所設置され、東京23区では「足立」、「練馬」、「世田谷」にありますが、今まで都心にはありませんでした。今回の千代田区永田町への設置により、都心で電子基準点を用いる測量の観測時間を半減できるなど、測量の効率化が可能となります。 社会基盤の海外展開の一つとして電子基準点への関心が高まっています。都心の交通の便の良さを生かし、来日した関係者に対する、電子基準点のショーケースにもなります。 電子基準点「東京千代田」は、我が国の標高の基準となっている「日本水準原点」と同じ地盤に設置されており、その変動を衛星測位でモニターできます。万一、首都直下地震等によって都心の標高が変わっても、衛星測位により従来の水準測量より遙かに早く変動量を把握でき、その後の測量が円滑に進みます。 ※ 電子基準点「東京千代田」(東京都千代田区) 〈電子基準点「東京千代田」(東京都千代田区永田町1-1)〉
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 日本水準原点の近くには、「甲、乙、丙、丁、戊(ぼ)」と名づけられた一等水準点が5点あります。 「丁」は地上にありますが、他の4つの水準点は、普段は鉄の蓋で覆われています。このうち「甲、乙、丙」もまた重要文化財に指定されています。 ※ 一等水準点 丁 〈一等水準点 丁(東京都千代田区永田町1-1))
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 たまたま通りがかりにありました。 ※ 公式HPより 日本で最初の公立学校である鞆絵(ともえ)小学校 江戸が東京と改称されたばかりの慶応4年(1868)7月、新政府は教育の重要性に着目して、東京府に対し「算筆稽古所」を起こし、教導の者を選び読書算の初歩を教えるように指示を出します。「其府ニ於テ小学教育之道施行可致候事」といい、町役人の配慮を求め、経費支弁を保証して、翌明治2年(1869)2月には『府県施政順序』を制定して「小学校ヲ設ル事」を府県の施政の大綱の一つに掲げました。 翌月には、東京府は中小学校取調掛設置を命じられ、12月小学教育施行について調査を行いました。翌3年3月、源流院以下6か所の寺院をあてることとし、6月8日多少の修正を経て小学開設の布達に至ります。源流院は江戸初期からの増上寺子院で、境内北辺の御成門東側(現芝公園1丁目1番)にあり、小学第一校はこの源流院内に創設されました。 明治4年7月文部省設置で中小学校はその直轄となります。12月23日付直轄校開校布達の冒頭に、芝増上寺内源流院小学第一校があって、授業料月二分、科目は書算筆三科、稽古毎日五時間、男子生徒8歳から15歳、女子生徒8歳から12歳との旨が記載されています。 翌5年学制発布にともない、一年を経ずして11月小学第一校は「第二中学区第一番小学」として府管轄に戻り、校地も西久保町に移りました。明治6年4月12日「第一大学区東京府管下第二中学区官立学校一番小学鞆絵〈ともえ〉学校」となり(町名の巴を嘉字に変えた)、その後校名は「鞆絵尋常高等小学校」、「鞆絵国民学校」、「鞆絵小学校」などと変遷しました。 平成3年港区立鞆絵小学校は、桜小学校・桜田小学校と統合し、御成門小学校が開校しました(平成6年に桜川小学校、平成7年に神明小学校も統合)。 ※ 港区立鞆絵小学校校舎跡 〈港区立鞆絵小学校校舎跡(東京都港区虎ノ門3-6-9)〉
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 日本経緯度原点は、日本における地理学的経緯度を決めるための基準となる点であり、測量法施行令(昭和24年政令第322号)第2条第1項において、その数値が定められています。 1892年(明治25年)に東京天文台の子午環の中心を日本経緯度原点と定めました。 その後、1923年(大正12年)の関東大地震により、子午環が崩壊したため、日本経緯度原点の位置に金属標を設置しました。 2001年(平成13年)に測量法が改正され、測量の基準として世界測地系を採用することになり、金属標の十字の交点が日本経緯度原点の地点となりました。原点の経度、緯度及び方位角の数値は、VLBI、GNSS等の宇宙測地技術を用いて定めたものです。 さらに、平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の影響による地殻変動が観測されたため、2011年(平成23年)10月21日に、次の数値に改定されました。 経度 東経 139°44′28.8869” 緯度 北緯 35°39′29.1572” 原点方位角 32°20′46.209” (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値) ※ 日本経緯度原点 〈日本経緯度原点(東京都港区麻布台2-2-1)〉
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月12日(日)】 昔の火の見櫓の半鐘です。 消防団が保管しています。
2024年05月12日
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【訪問日:2024年(令和6年)5月3日(金・憲法記念日)】 ※ 公式HPより 奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇は国ごとに僧寺と尼寺を造ることを命じました。これが国分寺で、後に僧寺が「国分寺」と言われるようになりました。 当時の群馬県は上野国と呼ばれており、その国分寺は今の高崎市と前橋市の境近くに建てられました。 今からおよそ1,250年前、平城京(奈良県)を中心に全国を約60の国に分けて治める律令政治が行われていました。 当時、災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、仏教の力でこれを治めようと、国ごとに国分寺を造らせるとともに都には東大寺を建立しました。 こうした寺院は政府によって造られましたが、各地方の豪族にも協力が求められました。 上野国の国分寺は、政治の中心であり今の県庁にあたる国府の北西に、僧寺・尼寺がそれぞれ東西に並ぶように建てられました。 歴史書によると旧碓氷郡や旧勢多郡の豪族の協力により、750年頃に主な建物が完成したようです。 全国の国分寺の中でも、最も早い時期に姿が整ったものといえます。 僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60.5メートルもある七重塔が建てられていました。 古い記録や調査から1000年頃には築垣や門は壊れてしまいましたが、金堂などは残っていたことが分かります。 しかし、1380年頃には、それも滅びてしまったようです。その跡は道路などで分断されずに現在までよく残っており、大正15年(1926年)に国の史跡に指定されました。 現在では、復元された塔や講堂(旧金堂)の基壇がご覧いただけます。塔の基壇は一辺が19.2メートルの正方形で、上面には17個の礎石が並んでいます。塔の規模としては国内最大級です。 ※ 上野国分寺跡 〈上野国分寺跡(群馬県前橋市元総社町小見、高崎市東国分町・引間町)〉
2024年05月03日
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【訪問日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 世界遺産/国宝 富岡製糸場 革新しつづける、未来をつくる TOMIOKA –ism 遠くに雄大な浅間山をのぞみ、手前に妙義山の荒々しい奇岩がせまる風光明媚な地、富岡。昔から養蚕が盛んだったこの地に、明治5年、生糸輸出に近代国家建設への活路を見出した政府は、西洋の先進技術を導入して器械製糸のモデル工場を設立します。その一翼を担った工女たち。近代的な大工場で働くという女性の新しいライフスタイルの始まりでした。 民営化後、経営のバトンを引き継いだ人々は誇りと気概を持ち、ひたすら質の良い生糸を能率よく大量生産するために革新を続けます。 世界の絹文化へ多大な影響を与えた日本の製糸業。富岡製糸場はそのシンボルとして、その歴史と価値を語りかけます。 世界遺産となった富岡製糸場。世界の宝を後世へ引きつぐ大事な役割を、今のわたしたちは託されています。多くの来訪者に支えられながら、未来に向けた先人たちの活力を感じながら、そのチャレンジは続きます。 富岡製糸場は昭和62年(1987年)操業を停止した後、平成17年(2005年)7月に敷地が国の史跡に、そして翌年平成18年(2006年)7月には創業当初期の建造物が国の重要文化財に指定されました。重要文化財のうち繰糸所、東置繭所、西置繭所の3棟は平成26年(2014年)12月に国宝となりました。現在は富岡市が所有・管理を行っています。 ※ 国宝 東置繭所 2階に乾燥させた繭を貯蔵し、1階は事務所・作業場として使っていました。長さおよそ104mにもおよぶ巨大な繭倉庫です。来訪者を最初に迎える木骨煉瓦造の建物で、アーチ中央の要石には創業年「明治五年」が刻まれており、フォトスポットの一つになっています。建物の中にはシルクギャラリーやショップもございます。※ ガイドツアーに参加しました※ 国宝 繰糸所 繭から糸を取る作業が行われていた建物です。長さ約140mの巨大な工場で、創設時にフランスから導入した金属製の繰糸器300釜が設置され、世界最大規模の器械製糸工場でした。小屋組みにトラス構造を用いることで建物の中央に柱のない大空間を作り出すことが出来ました。※ 国宝 西置繭所 創業時に東置繭所と対で建てられた繭倉庫。建物の歴史と価値を保存し、かつ積極的に公開活用するための保存整備工事を2020年に終了。1階には耐震補強用の鉄骨を活用したガラスの部屋が設けられ、資料展示室や多目的ホールなどが整備されました。ホールは様々なイベント開催に活用されています。 〈富岡製糸場(群馬県富岡市富岡60)〉
2024年05月02日
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【見た日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 昭和9年11月、国家的行事であった陸軍特別大演習が、群馬県内で挙行されました。その折、天皇陛下が貫前神社を参拝され、これを契機に敬神崇祖精神高揚事業期成会という組織が設立されました。 昭和11年3月、期成会が中心となり、青年男女の精神修養を目的とした「東國敬神道場」が建設されました。総工費は、81,952円95銭(現在の価格で10億円前後)、全額県民の寄附でした。 完成後は群馬県が管轄し、昭和20年の終戦以降は、施設の名称や役割を変えながら、社会教育や研修、各種講座などに使われ、平成17年4月からは、富岡市が管理運営しています。 平成20年7月、歴史的・文化財的・建築学的価値を有していることから、国の登録有形文化財に登録されました。 ※ 富岡市社会教育館 〈富岡市社会教育館(群馬県富岡市一ノ宮1465-1 )〉
2024年05月02日
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【見た日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 高崎市南東部の綿貫という所に、観音山古墳という前方後円墳と呼ばれる形の長さ100メートルにも及ぶお墓があります。これは今から約1,400年以上前の6世紀後半に造られたものです。現在の高崎市を中心とした地域を支配した人のお墓です。 石室内部の天井の石は、十数キロ離れた藤岡市金井地区等で産出する牛伏砂岩の巨石(最大の石は重さ22トン)を6つ使っています。石を切り出した後どのようにこの巨石を運んだのか想像してみましょう。舟を使い、そりで引き上げたと思われますが、それにしても大変な作業だったと思います。壁石は榛名山の火山岩を使用しています。 石室は、入り口部分の狭い通路と奥の幅の広い遺体を置く場所である玄室があります。石室の全長は約12.6メートル、玄室の長さが約8.2メートル、幅3.8メートル、高さ2.3メートルで、県内の玄室では最大の大きさです。 この石室を発見した時、発掘調査を担当した人たちの興奮はすごいものでした。それというのも、古墳の石室は大抵既に掘られていて、中に納められていたはずの物は盗まれている場合がほとんどです。ところが、幸運にもこの古墳の石室は、崩れていたため墓盗人が掘り出すことができず、当時お墓の主のために納められていた品々がそっくりそのまま出土しました。このようなことは、全国的にも極めて稀なことです。 ※ 史跡 観音山古墳 〈史跡 観音山古墳(群馬県高崎市綿貫町1752)
2024年05月02日
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【見た日:2024年(令和6年)4月10日(水)】 ※ 公式HPより さいたま市指定有形文化財「旧坂東家住宅」を、建築当初の位置に解体復原し博物館として利用しています。生きている民家をテーマに、季節の行事の再現とその公開、建物を利用した様々な展示やイベント等を行っています。敷地には斜面林が隣接し、加田屋新田が望め、かつての見沼田んぼの風景を見ることができます。 旧坂東家住宅は片柳の加田屋新田を開発した、坂東家の旧宅をほぼ同じ位置に復原したものです。 寄棟造り、茅葺の建物で、建坪は87坪(約286平方メートル)。江戸時代の末、安政4年(1857年)の建立で、式台を持つ格式の高い住宅です。 旧坂東家住宅は3時期にわたって造られたと考えられており、床上部分が安政4年の建立であることが柱のほぞ穴の墨書により判明しています。土間部分の建立はこれより古く、中二階を持つ建物背面に突出した八畳の部屋が一番新しいものとされていますが、建築年代にあまり大きな差はないと考えられています。 向かって右手の土間は建物の間口約半分を占め、土間部分は壁により「うまや」、「おとこべや」、「みそべや」等の部屋に仕切られており、「うまや」の部分は南側に張り出しています。床上部分の「おくざしき」から続いて「かって」とよばれる板の間があり、土間側に囲炉裏が設置されています。 床上部分は六間取りで「おくざしき」の南側には「おもて」があり、「おくざしき」から続く中二階を持つ「はちじょう」が建物北側に突き出しています。次に「ざしき」と「げんかん」があり、「げんかん」には身分の高い人を迎える式台がついています。西側は「おく」、「おくでい」と呼ばれる部屋で、「おくでい」には床の間と付書院があります。西側の「ろうか」の奥には湯殿と便所を設けています。 このように、旧坂東家住宅はこの地の名主の屋敷としての規模と格式を備えた家となっています。 ※ 旧坂東家住宅見沼くらしっく館(埼玉県さいたま市見沼区片柳1266-2)※ 茅葺屋根※ 破風飾り※ おしゃもじ様※ 八丁注連(はっちょうじめ)※ 大好物、力石※ 現家主の蔵 〈旧坂東家住宅見沼くらしっく館(埼玉県さいたま市見沼区片柳1266-2)〉
2024年04月10日
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【拝観日:2024年(令和6年)4月7日(日)】 たまたま通りかかったら ※ 観音様の御開帳※ 薬師如来? 〈観音様の御開帳〈増森公民館(埼玉県越谷市増森1775)〉
2024年04月07日
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【通りかかった日:2024年(令和6年)3月2日(土)】 ※ 公式HPより 7世紀後半から12世紀後半、大宰府は行政機関として九州を統括し、西の都としての役割を果たしました。地理的に日本の外交と防衛の最前線、アジア大陸の窓口としても機能したことから、重要な政治の中核として大宰府の中心地に政庁が建設されたのです。 長い時を経て政庁の建物は失われていますが、古い建築基礎は今も遺されており、現在は史跡公園として親しまれています。公園の入り口からほど近い「大宰府展示館」では、考古資料の展示をはじめ、西の都・大宰府の歴史と文化を紹介しています。 ※ 大宰府政庁跡 〈大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)〉
2024年03月02日
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【参加した日:2024年(令和6年)2月12日(月・振替休日)】 お勉強になりました! ※ 講座「利根川の河道変遷から見た越谷」〈 越谷市市民活動支援センター(埼玉県越谷市弥生町16-1 )〉
2024年02月12日
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【見た日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 日光街道に西面して建つ「店舗」は、二階建てで、一階は張り出した庇(ひさし)部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場(ちょうば)を設け、二階は畳敷きの座敷となっています。 「店舗」の後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と、明治初期の建造と伝える「外蔵」が建ち、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋の景観を残しています。 「国土の歴史的景観に寄与しているもの」と認められ、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 ※ 国登録有形文化財 藤城家住宅店舗 〈国登録有形文化財 藤城家住宅店舗(埼玉県草加市高砂2-19-3)
2024年01月18日
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【歩いた日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 日光街道2番目の宿場町。草加宿の北側に位置する綾瀬川右岸沿い約1.5kmの松並木は「草加松原」と呼ばれ、紀行文『おくのほそ道』で松尾芭蕉が歩いた街道だと伝えられています。現在では遊歩道になっており、「おくのほそ道の風景地」として国の名勝に指定されています。札場河岸公園内にある芭蕉のブロンズ像は、1989年におくのほそ道旅立ち300年を記念して建てられたものです。 江戸時代末期の町屋建築「旧久野家店舗」を活用した「草加宿神明庵」は、草加宿を訪れた人たちや草加市民のためのお休み処として、いまでは地域の集いの場になっています。 ※ 日光街道 草加宿 〈日光街道 草加宿(埼玉県草加市)〉
2024年01月18日
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【見た日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 旧草加宿の北端近くで、街道に東面して建つ久野家の店舗です。木造瓦ぶきで、二階の軒先は腕木(うでき)を突き出し、その先端で桁(けた)を支える出桁(だしげた)造りとなっています。関東大震災などで被災しているものの、正面入り口の柱の側面や上部の庇(ひさし)には、揚戸(あげど)の痕跡も認められます。草加宿の町屋建築の正面外観の姿を今に伝える貴重な遺構であり、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」と認められ、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 ※ 久野家住宅店舗 〈国登録有形文化財 久野家住宅店舗(埼玉県草加市神明1-35)
2024年01月18日
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【見た日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点 ※ 神明宮鳥居踏石(礎石)の高低測量測量几(き)号 〈神明神社(市神・神明宮)(埼玉県草加市神明1-6-6)〉
2024年01月18日
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【訪問日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ おせん公園 〈おせん公園(埼玉県草加市)〉
2024年01月18日
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【見た日:2024年(令和6年)1月8日(月・成人の日)】 太平洋戦争末期に急造され、新和飛行場(にいわひこうじょう)、荻島飛行場(おぎしまひこうじょう)、論田飛行場(ろんでんひこうじょう)などとも呼ばれました。 ※ 大日本帝国陸軍東部軍越谷飛行場(コンクリート台)※ 格納庫の一部?※ 排水溝(暗渠))※ 滑走路※ 新堀池(土砂を採取してできた池)
2024年01月08日
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【参加した日:2023年(令和5年)12月22日(金)】 ※ 令和5年度荻島公民館主催事業 越谷の歴史・文化を学ぶ講座「荻島飛行場」 〈越谷市荻島地区センター・公民館(埼玉県越谷市南荻島190-1)〉
2023年12月22日
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【参加した日:2023年(令和5年)12月10日(日)】 ※ 講座「河川が造った越谷市の地形の歴史と暗橋」
2023年12月10日
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【訪問日:2023年(令和5年)11月22日(水)】 ※ 小渕湖畔砂丘 〈小渕湖畔砂丘(埼玉県春日部市小渕2105-23)〉
2023年11月22日
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【見た日:2023年(令和5年)10月19日(木)】 ※ 旧日光街道東往還関宿多功道
2023年10月19日
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