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【訪問日:2024年(令和6年)10月11日(金)】 ※ 公式HPより 天慶二年(九三九)、平将門が朝廷に対して乱を起こします(承平の乱)。その際に、将門の参謀格であった興世王が勝浦に砦を築き、これがのちの勝浦城のもととなったとも言われます。鎌倉時代になるとこの砦は上総広常の支城となります。源頼朝が関東の経営に乗り出すと広常も頼朝に従います。しかし、謀反の疑いをかけられ謀殺され、上総は千葉氏や三浦氏に分配されました。 また一説には、大永元年(一五二一)に真理谷武田氏によって築かれたとも言われます。現在見ることができない勝浦城を古地図によると、八幡岬から鳴海神社、その下の恵比寿地区まで、南北に長細い形状となっています。天文十一年(一五四二)には、勝浦正木氏の初代正木時忠が勝浦城に入城。二年後の天文十三年に、真理谷武田氏は滅亡します。その後、二代時通、三代頼忠の居城となり勝浦正木氏の統治が続きますが、天正十八年(一五九〇)、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡すると、勝浦城も本多忠勝や植村泰忠らの軍勢に攻められ落城しました。この時、頼忠の息女お万は炎上する城から母と弟を連れ八幡岬の断崖に白い布を垂らし海に下り、小舟で館山方面に逃れました。現在も八幡岬には「お万布ざらし」の伝承を伝える「お万の像」が建てられています。逃れる際には当社の側を通りぬけていったことでしょう。御祭神の加護篤く、お万は無事逃れのちに家康の側室となり、紀伊徳川家藩祖・頼宣、水戸徳川家藩祖・頼房の二子を産みました。 八幡岬の先端三方海に臨んだ断崖に勝浦城址があります。築城時期については様々な伝承がありますが、城郭の形態をなしたのは、正木時忠からではないかと考えられます。それ以前は真里谷武田氏の出城か砦であったと考えられます。正木時忠がいつ侵攻してきたのかは不明ですがおおよそ天文8年(1539年)から天文10年(1541年)にかけてではないかと考えられています。 正木氏は時忠から時通・頼忠と続きますがが天正18年(1590年)小田原落城により関東が徳川家康の支配下に置かれるとほどなく植村泰忠に接収されることになります。 現在、郭内、木戸脇、内宿、二のくら(廓)、三のくらなどの地名は残っていますが廓跡も八幡岬公園として生まれ変わり、お万の方の銅像が青い太平洋を見つめています。 ※ 勝浦城址 〈勝浦城址(千葉県勝浦市浜勝浦字郭内)〉
2024年10月11日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 溜池櫓台跡は、江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの1つです。江戸城隅櫓はいずれも主要な道に面した場所につくられていました。残る2つの隅櫓は、筋違門と浅草門に所在していましたが、どちらも取り壊されており、唯一この石垣だけが現存しています。ただしこの櫓台も、以前は東側に溜池落口の櫓がもう1つあり、一対だったようです。 一対の溜池櫓台は、1636年(寛永13年)に因幡鳥取藩(現在の鳥取県)藩主池田光仲によって構築されたという記録が残っています。かつて、この地点は近世初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にもなるなど、江戸城の防備と都市政策の両方にとって重要な地域でした。地形の上でも、この地点は東側に広がっていた溜池一帯を見下ろすことができる位置にありました。 溜池及び周辺の堀は明治時代に埋められましたが、近隣の文部科学省構内には3か所の石垣が残っており、かつての外堀の姿をしのぶことができます。 ※ 溜池櫓台跡 〈溜池櫓台跡(東京都千代田区霞が関3-8)〉
2024年05月22日
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【見た日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 東京メトロ虎ノ門駅付近には、外堀の石垣が数か所に残っています。もともとは高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在するのみです。ここでは長さ20m、高さ7.4mの石垣を保存したうえで一部を埋め戻して虎ノ門駅の文部科学省連絡通路内で展示されています。説明板には当時の石積工法や工事について記されています。 この石垣は、1636(寛永13)年、佐賀藩主鍋島勝茂らによって江戸城の総仕上げとしてつくられたもので、石垣表面には石を割った矢穴や担当した大名家の刻印が見られます。 ※ 江戸城外堀跡 石垣(地下展示室) 〈江戸城外堀跡 石垣(地下展示室)(東京都千代田区霞が関3-2)〉
2024年05月22日
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【訪問日:2024年(令和6年)5月3日(金・憲法記念日)】 ※ 公式HPより 高崎城は、慶長3年(1598)、徳川家康の命を受けた箕輪城主・井伊直政によって築城されました。 高崎城は、郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭でした。現在は、三の丸外囲の土居と堀、乾櫓、東門が残っています。武器や食料の収蔵庫で、ここから敵に矢や鉄砲を射かれたという乾櫓は、県内に現存する唯一の城郭建築です。 ※ 高崎城 〈高崎城(群馬県高崎市高松町 城址公園内)〉
2024年05月03日
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【訪問日:2024年(令和6年)5月3日(金・憲法記念日)】 ※ 公式HPより 箕輪城は約500年前に長野業尚によって築かれた名城。 現在の城跡は、井伊直政在城当時のもので、昭和62年に国指定史跡に指定され、日本百名城にも選出されています。広範囲にわたる敷地内には散策コースが設けられ、四季折々の自然も楽しむことができます。 長野業政の時代には幾度となく武田信玄の攻撃を防いだ難攻不落の城として有名です。 箕輪城まつりでは、戦が現代によみがえり、長野側と武田側に扮した武士達が熱い戦いを繰り広げます。 箕輪城跡三ノ丸石垣は、城内で最も高い4mの石垣。築城当時では最先端の技術が用いられていました。 ※ 箕輪城 〈箕輪城(群馬県高崎市箕郷町東明屋)〉
2024年05月03日
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【訪問日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 群馬県庁に土塁が残っています。 〈前橋城跡(栃木県前橋市大手町1-1-1)〉
2024年05月02日
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【見た日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより そびえ立つ県庁舎の東、県庁前通りにある群馬会館の南側の歩道を東方向、国道50号方面に約200メートルほど行くと、大手町二丁目5の一角に大手新聞社の前橋支局があります。 その直ぐ東側の路地に不思議な空間があり、案内板が目に入ります。 左手には、新聞社のものが、正面には前橋市が設置したものがそれぞれあります。 市の史跡「前橋城車橋門跡」(まえばしじょうくるまばしもんあと)の説明が記されています。 市の案内板には「関東4名城にも数えられていた前橋城の遺構は大変少なく、現在では県庁周辺の本丸土塁とこの門跡しかありません。この門は城の外曲輪(そとくるわ)から城内に至る重要な門で、対の石積み台石は1辺7.7メートル×4.25メートル、高さ1.4メートルあります。前橋藩4代藩主酒井 忠清の代(1637~1681年)に2本の柱の上に横木を一本置いた冠木門(かぶきもん)から櫓の2階を通って門の左右に渡れる渡櫓門(わたりやぐらもん)に改築され、その後、酒井氏の後を継いだ藩主松平氏が川越へ移城した後もこの門は存続していました。現在の門は、昭和39年区画整理事業により間隔がせばめられ西側の台石が8メートル移動されました。」と記されています。 これらの案内によると、車橋門は、慶応3年(1867年)に復興された前橋城渡りやぐら門の跡で、当時、前橋城の外曲輪と内曲輪を結ぶ大手筋にあり、数ある城門の中でも特に重要な門であったとされています。車橋門跡は、現存する前橋城の数少ない遺構のひとつで、前橋城の跡は、この門跡と県庁北の土塁だけとのことです。 また、新聞社の案内板によると、社屋の下にも石垣が保存されているとの説明が記されています。 是非、一度足を運ばれてはいかがでしょうか。前橋市の原点であります前橋城を少しでも感じ取れることと思います。 車橋門(くるまばしもん)は、前橋城の外曲輪(そとくるわ)の加内(金井)曲輪を結ぶ大手筋にあって、数ある城門の中で、特に重要な門の一つでした。 「直泰夜話(なおやすやわ。(注釈1))」によると、初めは2本の柱の上に1本の横木をのせた冠木門(かぶらきもん)でしたが、酒井忠清(さかいただきよ。4代藩主)のとき、通路をはさんだ2つの石積み基台の上に渡櫓(わたりやぐら)をのせた渡櫓門に改められました。今に残る絵図に、その威容がしのばれます。 前橋城は、宇都宮、川越、忍(おし。行田)の城とならんで関東の4平城の一つとされ、特に、幕府にとっては北関東のおさえの城として重要でした。酒井重忠(さかいしげただ)が初代藩主になった時、徳川家康は「汝に関東の華をとらす」と言ったと伝えられています。 前橋城は現在、県庁北側の土塁、児童遊園地(るなぱあく)の空堀とこの車橋門だけが、当時の面影を伝えています。 基台 前幅4.25メートル、奥行7.7メートル、高さ1.4メートル、基台の間隔10.9メートル ※ 前橋城車橋門跡 〈前橋城車橋門跡(栃木県前橋市大手町2-5-3)〉
2024年05月02日
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【訪問日:2024年(令和6年)3月3日(日)】 ※ 公式HPより はじまりの名護屋城それからの唐津城 名護屋城は文禄元年(1592年)朝鮮出兵の拠点として豊臣秀吉が1592年(文禄元年)に築城しこの名護屋城の地に、徳川家康をはじめとする全国の大名が率いる15万ともいわれる軍勢と様々な人々が交流する巨大都市が出現しました。 名護屋城は秀吉の死と共に7年間の短い期間で廃城となり幻の都市となりましたが、一方では博多の豪商による南蛮商業交流や、能、浄瑠璃、茶の湯、唐津焼などによる安土桃山文化、また穴太衆(あのうしゅう)の石工技術などを唐津の地に根付かせました。 秀吉の側近であった初代藩主寺沢志摩守広高は唐津城下の河口大改造、新田開発のため東にのびる砂州に黒松の植林を行い(虹ノ松原)、漁業では紀州から漁夫を雇い入れ捕鯨を導入しました。 城は本丸、二の丸、三の丸、外曲輪(そとくるわ)にわり、外曲輪は外堀で守られ、その外に東寺町、西寺町の町割りを行いました。 ※ 唐津城 〈唐津城(佐賀県唐津市東城内8-1)〉
2024年03月03日
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【見た日:2024年(令和6年)2月16日(金)】 ※ 道庭城跡 〈道庭城跡(埼玉県三郷市半田)〉
2024年02月16日
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【訪問日:2024年(令和6年)1月29日(月)】 中世の平山城 ※ 中城跡 〈中城跡(埼玉県小川町大塚338)〉
2024年01月29日
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【見た日:2024年(令和6年)1月29日(月)】 ※ 高谷砦跡 〈高谷砦跡(埼玉県小川町高谷1423)〉
2024年01月29日
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【訪問日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 公式HPより 逆井城は今から400年以上前の戦国時代末期(1577年)に後北条氏の北関東進出拠点として築城されました。1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を滅ぼしたため、逆井城も廃城になりましたが、現在もその外堀と土塁が残っています。調査によって、櫓(やぐら)門、橋、塀、主殿、二層櫓などが復元され、戦国時代にタイムスリップできる公園になっています。また、園内には四季折々の花が咲き、広々とした風景の中、ゆったりと散策を楽しむことができます。 ※ 逆井城跡 〈逆井城跡(茨城県坂東市逆井1262)〉
2023年12月15日
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【訪問日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 公式HPより 長井戸城跡は、境町長井戸の長井戸香取神社境内にある城跡です。南に土橋・折れのある空堀、東側道路に沿って土塁・空堀が良好に残り、北側にも土塁が残っています。長井戸城は、天文年間(1532~55年)に小山氏に属した菅谷左京という武士の居城であったと伝えられていいます。天文二十三年(1554年)小山氏の攻撃を受け降伏し、その小山氏も天正四年(1576年)北条氏に攻略されました。翌、天正五年北条氏は逆井城を築城し下野と常陸進出への前線拠点としています。長井戸城は、小山城から逆井城を結ぶ中継点として機能していたと考えられます。天正十八年(1590年)北条氏が滅び、その後廃城となっています。 ※ 長井戸城跡 〈長井戸城跡(茨城県境町長井戸991)〉
2023年12月15日
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【見た日:2023年(令和5年)10月19日(木)】 ※ 公式HPより 関宿城の三の丸に設置されていた門のひとつで、明治維新後の廃城に伴い民間へ払い下げられ、現在の場所へ移築されました。門の鬼瓦には江戸時代中期から明治維新まで関宿藩主を務めた久世氏の家紋「久世鷹の羽」があしらわれています。 平成12年に野田市(旧関宿町)の『有形文化財』に指定されました。 ※ 関宿城埋門(うずめもん) 〈関宿城埋門(うずめもん)(千葉県野田市東高野94)〉
2023年10月19日
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【見た日:2023年(令和5年)10月14日(土)】 ※ 公式HPより 江戸時代半ば、8代将軍徳川吉宗の時代に、鷹狩の際の休憩所として小菅御殿が設けられた。9代将軍家重が多く利用した。小菅御殿の跡地には、現在、東京拘置所が置かれている。敷地内にある旧小菅御殿石燈籠(区登録文化財)が当時の面影を残している。 ※ 小菅御殿跡 〈小菅御殿跡(東京都葛飾区小菅1-35-1)〉
2023年10月15日
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【訪問日:2023年(令和5年)9月28日(木)】 日本100名城 足利氏の居城。邸内に氏寺として鑁阿寺が造営された。水掘りと土塁に囲まれています。 ※ 足利氏館〈鑁阿寺(ばんなじ) 〈足利氏館(鑁阿寺(ばんなじ))(栃木県足利市家富町2220)〉
2023年09月28日
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【訪問日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 金山城は、戦国時代に造られた城で、金山全体の自然地形を利用して造られた「山城」という種類の城です。まだ天守閣がつくられるより古い時代の城であり、堀切や土塁・石垣など土木工事(普請)を中心とした遺構がよく残されています。 山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定を受けました。 太田市と太田市教育委員会では、平成4年度(1992)から発掘調査を開始し、金山城時代の通路形態の復元を中心とした、遺構の保存整備事業を実施して参りました。また、平成18年(2006)には公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されています。 名称 金山城跡(かなやまじょうあと) 指定区分 国指定史跡 所在地 群馬県太田市金山町40-106ほか 指定年月日 昭和9年(1934)12月28日 平成14年(2002)9月20日追加指定 指定面積 97.8ヘクタール 当初の指定範囲は、金山の山頂を中心とする実城から西城までの尾根部分の18.3ヘクタール。追加指定範囲は、北城(坂中)・八王子山の砦・大手筋の士屋敷等を含む79.5ヘクタール。 時代 築城 文明元年(1469) 廃城 天正18年(1590) 歴代城主 新田岩松氏、横瀬・由良氏、小田原北条氏 特徴 標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所ですが、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られます。 ※ 金山城跡 〈金山城跡(群馬県太田市金山町40-106)〉
2023年09月27日
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【訪問日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 唐沢山城跡は、栃木県南部の唐沢山一帯に広がり、山頂本丸の標高は242メートルを有します。山麓(さんろく)に広がる根小屋(ねごや)地区との標高差は約180メートルです。築城の時期については、下野の藤姓足利氏が「佐野庄」を統治、鎌倉時代に入り佐野氏としての勢力を拡大しつつ、その後、群雄割拠の時代的背景の中、山城を築き上げていったものだと考えられています。 ※ 唐沢山城跡 〈唐沢山城跡(栃木県佐野市富士町1409)〉
2023年09月27日
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【訪問日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 小川城跡 〈小川城跡(茨城県小美玉市小川1649)〉
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 公式HPより 鎌倉時代、志筑郷の地頭であった下河辺氏(後の益戸氏)によって築城されたと伝えられています。六代国行の南北朝争乱では南朝方に与し、北朝方である府中城の大掾高幹と戦いました。しかし、興国2年(1341)6月に北朝の高師直の軍に攻撃を受けて落城したと伝わります。 鎌倉時代の志筑城があった場所については、江戸時代より、上志筑の権現山と、中志筑の旧志筑小学校跡の場所に考えが分かれていましたが、昭和10年に旧志筑小学校跡の場所が県指定史跡になりました。この旧志筑小学校跡は、正保2年(1645)に旗本である本堂家の陣屋が置かれたところです。 ※ 志築城跡 志築城跡(茨城県かすみがうら市中志筑1037)
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 公式HPより 中佐谷の台地が東南にのびた突端にあり、その南側に天の川、北東部に御館川が流れて城跡の東南端で合流する要害の地です。今は、北部に高さ1m足らずの土塁を残すのみですが、現在も「城山」の地名で呼ばれています。 正元年間(1259~1260)、常陸大掾資幹の孫に当たる佐野郷の地頭佐谷左衛門尉実幹の築城と伝えられ、当時は佐谷城と称しました。 慶長7年(1602)から約40年間、志筑領主本堂氏が居住し笠松城としました。 ※ 笠松城跡 〈笠松城跡(茨城県かすみがうら市中佐谷468)
2023年08月22日
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【訪問日:2023年(令和5年)6月26日(月)】 ※ 公式HPより 宇都宮城の歴史 宇都宮城のはじまり(平安時代後期) 宇都宮城を築いたのは、藤原秀郷とも藤原宗円とも言われており、時代は平安時代後期と考えられています。 鎌倉時代から戦国時代 中世(鎌倉時代から戦国時代)の城主であった宇都宮氏は、鎌倉幕府の有力な御家人であるとともに、京都ともつながりが深く、5代頼綱(よりつな)(蓮生・れんしょう)は百人一首の成立にも深くかかわっていました。 日本中が戦乱に巻き込まれた南北朝時代から戦国時代、このころの宇都宮城は敵の攻撃に備えるため、堀と土塁を幾重にもめぐらせた守りの堅い城になっていきました。 宇都宮城をめぐっての戦いも行なわれ、城下町が焼かれたこともありました。 江戸時代 約500年間宇都宮を支配してきた宇都宮氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、近世(江戸時代)には譜代大名の居城となりました。その中でも本多正純(ほんだまさずみ)は、城と城下町の大改造を行い、今日の宇都宮の中心市街地の骨格を作り上げたと言われています。 将軍が日光にお参りする日光社参(にっこうしゃさん)。宇都宮城は将軍の宿泊場所となり、本丸には将軍のための御成御殿(おなりごてん)が建てられました。日光社参は幕府の威信をかけた大事業であり、城も城下町も大変なにぎわいだったと言われています。 戊辰戦争以降 宇都宮城は1868年の戊辰(ぼしん)戦争で建物の大半が焼失しました。堀も次第に埋められて、当時の面影をしのぶものはほとんどなくなりました。 ※ 宇都宮城【訪問日:2023年(令和5年)6月25日(日)】※ 市役所から望む
2023年06月26日
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【訪問日:2023年(令和5年)5月20日(土)】 このへんにあったらしいです。 〈石浜城(東京都荒川区南千住3-28-58)〉
2023年05月20日
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【訪問日:2023年(令和5年)2月7日(火)】 ※ 羽生城址 〈羽生城址:埼玉県羽生市東5-7-1〉
2023年02月07日
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【見た日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 ※ 公式HPより 15~16世紀に信濃出身の豪族・屋代氏の一族が構えた城郭の一部であり、「土塁」とは、外敵から城を防御するために造られた土の城壁(土手)の一種である。 屋代城址は市内でも屈指の大規模遺跡であったが、ニュータウン開発に伴う埋蔵文化財の発掘調査終了後、その大部分が消滅してしまった。 しかし、この5号土塁は,城が存在していた当時の状態を非常によく留めていたため、茨城県や市の協議により破壊せず、城ノ内中学校の敷地内に保存したという経緯がある。 学校敷地内にあるため,通常は一般公開しておりません。 ※ 屋代城址5号土塁 〈屋代城址5号土塁:茨城県竜ケ崎市龍ケ崎市城ノ内5-3 龍ケ崎市立城ノ内中学校〉
2022年12月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 ※ 公式HPより 種別:史跡 指定年月日:昭和15年4月5日 所在地:龍ケ崎市馴馬町2507番地 管理者:個人 馴馬城趾は、常磐線龍ケ崎市駅の南東約3キロメートルの台地上にある。牛久方面から南南東に延びる台地の先端は、この付近で沢(山王久保)を挟んで二股に分かれているが、その南側の比較的細い台地を利用して城が作られていたと思われる。 文献史料によると、この城趾が南北朝時代の康永3年(興国5・1344年)に南朝方の春日顕国がたてこもった「馴馬沼田城(=馴馬城)」に比定されている。この城は、北朝方の宍戸朝里により政略されている。また、これより先、暦応4年(興国2・1341年)秋の北朝方の攻勢の際に、南朝方が「河内郡馴馬楯(=馴馬城)」を「引退」したことが史料からわかる。このことからも、馴馬城は、少なくとも二度、南朝方が拠点にしたと思われる。 馴馬城は、基本的には舌状台地の先端を掘切で区切るという類型的な構造をしている。ただ中心部が破壊されていることもあって、遺構が明瞭ではないが、現存する部分を見るかぎり、形式的な新しさが感じられず、その点で南北朝の姿を留めているといえる。 ※ 馴馬城跡 〈馴馬城跡:茨城県龍ケ崎市馴馬町2507)
2022年12月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 こっちも、なかなか、いい感じ 〈岡見城:茨城県牛久市牛久市岡見町1579-2〉
2022年12月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 なかなか、いい感じ ※ 牛久城 〈牛久城:茨城県牛久市城中町502〉
2022年12月16日
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【見た日:2022年(令和4年)9月27日(火)】 ※ 公式HPより上州道に通じる江戸城外郭門のひとつです。外濠に面した見附のなかでも、江戸の遺構がもっともよく残ります。1639(寛永16)年、徳島藩の初代藩主蜂須賀忠英らによって築かれました。解体された角石に、普請した忠英を指す「松平阿波守」の文字が発見されています。 ※ 牛込見附跡 〈牛込見附跡:東京都千代田区富士見2-9〉
2022年09月27日
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【見た日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 伝源経基館跡 〈伝源経基館跡:埼玉県鴻巣市大間942〉
2022年09月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 どこが城跡かわかりません。 ※ 小谷城跡(こやじょうあと) 〈小谷城跡(こやじょうあと):埼玉県鴻巣市小谷 荒川堤防付近〉
2022年09月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 ※ 花崎城跡 〈花崎城跡:埼玉県加須市加須市花崎2-24-6〉
2022年08月18日
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【訪問日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 さすがに城跡のこのあたりは、標高が高いらしい。 15.5mもある。 ※ 公式HPより 史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館でしたが、天守閣を持つ城として復元しました。 ※ 騎西城跡※ 本丸跡を望む 〈騎西城跡:埼玉県加須市根古屋633-2〉
2022年08月18日
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【訪問日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 菖蒲城の支城 ※ 種垂城跡 〈種垂城跡:埼玉県加須市上種足456-2〉
2022年08月18日
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【訪問日:2022年(令和4年)7月14日(木)】 ※ 公式HPより 中世の浪漫とお茶の薫る史跡 国指定史跡の河越館跡は、平安時代末から南北朝時代にかけて武蔵国で有数の勢力を誇った武士である河越氏の居館跡です。この河越館の保存を図るとともに、郷土学習の場、市民の憩いの場として整備し平成21年11月15日に開園しました。 〈国指定史跡河越館跡(史跡公園):埼玉県川越市川越市上戸195-1〉
2022年07月14日
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【見た日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。 川越城は古賀公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防に備える為に、1457(長禄元)年に、太田道真・道灌父子によって築城されました。 江戸時代になると、江戸の北の守りとして、川越城は重視されました。 1639(寛永16)年、藩主となった松平信綱は、城の大規模改修を行い、近世城郭としての体裁を整えました。 整備された現在の中ノ門堀跡は、堀跡本体と見学広場の2つになります。 本体は、遺構保護の為に盛土して、構築当初の勾配を復元しました。 また、見学広場には、説明板とベンチを設け、入口には城を連想させる和風の冠木門を設置しております。 明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊された中で、中ノ門堀跡は旧城内に残る数少ない遺構です。 中ノ門堀は、西大手門(現在の川越市役所付近)から本丸(現在の初雁公園周辺)に向かう道筋を妨げるように設けられた堀の一つです。 右に左に屈曲する道を進むと、この中ノ門堀に突き当たります。堀は深さ7m、幅18mですが、西大手門側の勾配は30°、本丸側は60°と傾斜角度が異なるため、西大手門から入った侵入者には、堀が壁のように切り立って見えたことでしょう。 ※ 川越城 中ノ門跡 〈川越城 中ノ門跡:埼玉県川越市郭町1-8−6〉
2022年07月13日
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【訪問日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもので、武家風の落ち着いた造りが印象的な江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿である。 川越城は扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗する為、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城されたもの。その後寛永16年(1639)、徳川幕府の重鎮として知られる川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張・整備で、台地上先端に本丸・天神郭・北に二の丸・西に八幡郭・三の丸他の曲輪・本丸西南隅に三層の富士見櫓と称する櫓を含む三つの櫓と十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて四万六千坪にもなった。 現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典により再建されたものの一部であり、現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。玄関に入ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり、いくつかある部屋の装飾は質素で装飾などは最低限に止められているが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えは豪壮でさすがに御殿と呼ぶにふさわしい造りである。 大広間にいまだに残る松の絵の絵板戸や、現存する家老詰所には家老の人形(写真上)などがあり、当時の家老たちのやりとりに思いを馳せるのも楽しい。 川越城は、長禄元年(1457年)に、上杉持朝の家臣である太田道真・太田道灌父子が築いたといわれています。現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、一部として玄関・大広間・家老詰所が残っており、江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿です。 現在において、川越城の周囲をめぐる堀はほとんどが失われていますが、土地の窪みにその名残が残っています。 また、本丸御殿のほど近くには、かつて天守閣が無い川越城の天守閣代わりとして見張りや防戦の足場として活躍した富士見櫓の跡があり、数少ない川越城の名残として現存しています。 ※ 川越城 本丸御殿※ 修繕箇所(色の濃いところ) 〈川越城 本丸御殿:埼玉県川越市郭町2−13−1〉
2022年07月13日
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【訪問日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより かつて天守閣が無い川越城の天守閣代わりとして、見張りや防戦の足場として活躍した富士見櫓の跡地です。 数少ない川越城の遺構として現存しています。 跡地内には、御嶽神社、富士浅間神社、富士見稲荷神社が祀られています。 ※ 川越城 富士見櫓跡 〈川越城 富士見櫓跡:埼玉県川越市郭町2〉
2022年07月13日
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【見た日:2022年(令和4年)7月4日(月)】 この辺らしい 〈向畑城跡:埼玉県越谷市向畑〉
2022年07月04日
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【訪問日:2022年(令和4年)6月18日(土)】 ※ 公式HPより 江戸時代に築かれた土浦城址です。櫓門は城郭建築の遺構としては関東唯一のものであり、公園の象徴となっております。3月下旬から4月上旬には桜が咲き来場者を癒してくれます。 〈土浦城:茨城県土浦市中央1-13-48〉
2022年06月18日
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【見た日:2022年(令和4年)6月18日(土)】 ※ 公式HPより 宝篋山(ほうきょうざん)の南にある小田氏の築いた平城で、延元3年・暦応元年(1338) 10月、北畠親房(きたばたけちかふさ)の入城により一時関東地方における南朝方の中心となりました。 特に親房が小田城にいるときに『神皇正統記』を著し、南朝方の正統性を主張したことで有名です。 本丸跡は周囲に土塁跡が残り、堀に囲まれています。 そられの外側にもさらに曲輪(くるわ)・堀跡がめぐっています。 堀跡は水田などになっているものの、往時の規模をしのばせています。 現在も発掘調査が行われ、史跡公園整備事業が進められています。 ※ 小田城跡 〈小田城跡:茨城県つくば市小田2532-2〉
2022年06月18日
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【見た日:2022年(令和4年)6月16日(木)】 ※ 公式HPより 江戸時代初期に関東郡代伊奈忠治が築き、その後も長い間伊奈氏の拠点となった城跡です。77ヘクタールもの広大な土地に本丸、二の丸、家臣屋敷、菩提寺などがあったとされ、今も堀の跡などが残されています。近くには、イイナパーク川口(赤山歴史自然公園)があり、園内の歴史自然資料館では赤山陣屋の模型や伊奈氏の歴史を知ることができます。 〈赤山城跡:埼玉県川口市赤山766-2〉
2022年06月16日
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【遠くから眺めた日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 山道の登って行きましたが、途中で通行止めになったり、駐車場が満車で、そのまま下山(泣) 次回の課題となりました。 〈唐沢山城跡の遠景:栃木県佐野市〉
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 館林城跡(土橋門) 〈市指定史跡 館林城跡:群馬県館林市城町)
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 倚井(よりい)の陣屋(石川城)跡 〈倚井(よりい)の陣屋(石川城)跡:埼玉県加須市麦倉1189 北川辺西小内〉
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 古河城 獅子ヶ崎土塁 〈古河城 獅子ヶ崎土塁:茨城県古河市桜町1-35〉
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 古河城 諏訪曲輪跡 〈古河城 諏訪曲輪跡:茨城県古河市中央町3-10-56〉
2022年05月04日
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【訪問日:2022年(令和4年)4月26日(火)】 曲輪、土塁、堀切が遺っています。 〈花輪城跡:千葉県流山市下花輪字寺下1355(花輪城址公園)〉
2022年04月26日
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【訪問日:2021年(令和3年)11月14日(日)】 〈別府城跡:埼玉県熊谷市東別府778〉
2021年11月14日
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【見た日:2021年(令和3年)11月14日(日)】 ※ 公式HPより 忍城は、室町時代の文明年間(15世紀後半)にこの地を統一した成田氏によって築城されたと伝えられており、天正18年(1590)までの約100年間、初代城主の成田顕泰(あきやす)以降、親泰(ちかやす)、長泰(ながやす)、氏長(うじなが)の四代にわたり、成田氏の居城でした。 忍城が築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた低湿地で、小さな川が乱流し、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっており、そこに残る島や自然堤防を巧みに利用して築かれました。 そのため、難攻不落の名城と謳われ、戦国時代には上杉謙信による北条攻めや石田三成の水攻めなどにも屈しませんでした。特に、石田三成の水攻めでは… 天正18年(1590)3月、豊臣秀吉は関東平定のため、当時、関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将石田三成が軍勢を引き連れ忍城を包囲し、全長28kmにおよぶ堤を築き、利根川と荒川の流れを引き入れて水攻めにしました。しかし、城がなかなか沈まないため、これを見た人々は城が浮くからだと考え、「浮き城」としてその名を轟かせました。その後、堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城は小田原城降伏の後も持ちこたえていましたが、小田原城に篭城していた城主氏長の命により開城し、豊臣軍に引き渡されました。 同年、徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。以後江戸時代を通じて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。 寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備が進められました。元禄7年(1694)、孫の阿部正武(まさたけ)のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としての形が整いました。 文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(ただたか)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。 その後、廃藩置県と同時に廃城した忍城は明治6年(1873)に取り壊され、現在は土塁の一部が残っています。 現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたもので、行田市郷土博物館の展示室として、行田の歴史を語り継いでいます。 〈県指定記念物 忍城跡:埼玉県行田市本丸17-23〉
2021年11月14日
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