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2007年10月02日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 一昨日、沖縄で地震がありました。北部で震度3、私が住んでいる浦添市で震度1、とのことでした。しかし、私の東京での経験から震度3だったのではと思う。一瞬ではありましたが家全体の揺れが強かったからです。地震、怖いですね~~~!

沖縄での地震といえば、今から200年前の明和の大津波が、不気味なイメージとして浮かび上がります。

 これは1771年4月24日(旧暦3月10日)、石垣島、白保崎南南東40キロの海底を震源地とする震度7の地震で、宮古、八重山の両方合わせて11,861人の流亡者を出しています。

 その時の人口が約5万人ほどでしたので、約24%が犠牲になったということになります。八重山だけですと流亡者9、313人で、人口が28、896人でしたので犠牲者は32%となります。

 その日の朝8時、男たちは野良仕事に精を出し、女たちは家で家事や反布織りにいそしんでいた。突然、激しい地震の後、島を揺るがして白保崎の沖合いで轟音が起こった。島民たちはびっくり仰天しながら海を見た。

 すると海水がもの凄い勢いで沖のほうへ吸い込まれて行き、視界の果てまであっという間に乾上った。そして、いたる所で大小さまざまな魚がパタパタ飛び跳ね回っていたのであります。

 島民たちは我先にとカゴを抱えて海へ駆け下りていった。そして、天の助けとばかり、競って魚をつかみ取りした。久しぶりの動物性蛋白質、今宵は泡盛とワインを飲みながらカラオケ、宴会だ・・・。

 そして、カゴがいっぱいとなり、島民たちは喜びの笑顔を満面にたたえて帰りはじめた。そのとき、水平線の果てから果てを結ぶ巨大な波が、天を巻き込むように現れたのであった。不気味な響きと共に白い泡の線をその頂上に引き、逆巻きながら押し寄せてくる。

 仰天した島民たちは懸命に島を目指して駆けた。しかし、魚の詰まったカゴを捨てる者はいなかった。必死に重いカゴを抱え、走り続けたのであります。食べ物の恨みがなぜ怖いのか、そのわけが分かるような気がします。そういう時の波は時速100キロを軽く越します。



 波はあっという間に島民たちを飲み込み、陸を襲い、村々を瞬時にしてじゅうりんした。嘉崎浜海岸から宮良川に入った波は、轟川から侵入してきた怒涛と合流して高々と盛り上がり、、一気に島の中央、牧中の頂上に逆上した。

 その高さは85メートルであります。それから島を飛び越えて反対側の名蔵湾にごうごうと流れて行った。生存者ゼロの、全滅した村もあり、石垣島だけですと50%近くが流亡しております。それから、幾重にも連なる山脈のように怒涛は海を走り、100キロ離れた宮古島に襲いかかった。高さ30mに達する怒涛、平べったい宮古島はひとたまりもなかった。そこでは2、548人が死亡しております。

 以上が明和8年に起こった琉球史上最大最悪の「明和の大津波」であります。この周期が「200年」と琉大の教授が言っておりますので、もうそろそろ、という怖い思いが致します。





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最終更新日  2007年10月02日 07時16分04秒
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