[どうしたの?]
人にはイロイロ特長がある。
表現の上手い人、たとえ話の上手い人、無言のうちに人を説得できる人、
言葉での説得力の強い人。
十人十色とはよく言ったものだ。
知り合いのオジサンに状況を他の事に例えて話すのが非常に上手い人がいた。
ウツ状態の人に話す時や困り事で相談に来ている人に説得するのに
良く用いていた表現がある。
言い得て妙なるものがある。
「そら、あんたシンドイですやろ。 せやけど、そんな事まるで
ブレーキかけたまま自転車を漕ぐようなものでっせ。
そんな事はせんときなされや。
世の中、成るようにしか成らんし、成る時は成る」という言い方だ。
私は切羽詰った人に対して
「ブレーキをかけたまま自転車を漕ぐような事は止めなされ」と
いう言い方に非常に感銘を受けた。
確かにウツの人の心理状態や行動はそのたとえ、その物だからだ。
ウツ状態の人が自分でブレーキをかけて必死に自転車を漕いでいるとすれば
自分で自分を苦しみのルツボへと投げ込んでいるだけである。
確かにバカらしいことである。
しかしそうまでして悩まなければならない原因があるのだから、
それをどこで区切りを付けるのかというとやはりブレーキのグリップを
離すしかないのであろう。
ところが自分でグリップを離せる人は良いとしても
自分で離そうとしてもそのグリップを第三者が握っていたとしたら・・・・。
こんな恐ろしい事はない。
「いじめ」がその状況ではないかと私は考える。
他人の自転車の後に勝手に乗ってブレーキのグリップを握り締め
「早く漕がんかい」とせき立てるような行為が「いじめ」であると思う。
いじめられている方は少しでも早く逃げ出したいと思うだろう。
しかし自転車を放り出して逃げる訳にはいかない。
ましてその自転車が生活の糧であれば放り出す事はできないであろう。
こころの中はどんなだろうか。
パニックもいい所だ。 頭の中は真っ白だろう。 体は硬直するだろう。
動けなくなった人に対して加害者の方は背を突付き、体をつねり、
何もできずにいる被害者に「どうしたの?」と言ってはニンマリするだろう。
大人であれば誰かに助けを求める事ができるかも知れないが、
これが子供だったり若い人だったら上手く助けを求める事ができるだろうか。
まず無理だろう。
大人でもむつかしい状況なのだ。
「いじめ」をやる人間は必ず被害者に対してにこやかに接しているので
傍目には仲間同士にしか見えない事が多い。
にこやかに見えるのは「いじめる」のが嬉しくて仕方がないからであって
決して作り笑顔ではないのである。
それを見て周りの人間は「仲が良い」と表現をする。
いじめている側の事も「いつもにこやかで明るい人」と表現する事すらある。
いじめられる人はどちらかというと静かな人が多い。
それを周りの人は「暗い人」と表現する事が多い。
ならばいじめる側はなぜにいじめるのか。
大抵の場合、理由など全くない事が多い。
たまたま「そこにいたから」いじめただけ、の事が多い。
「逃げたら良いじゃないか」とウソぶくのである。
大人の場合何らかの抵抗をするので抵抗している間に
「いじめ」の理由は生まれてくる。
いわゆる「けんか」に見せるのである。
周りの人にすれば「真実は藪の中」である。