月のひかり★の部屋

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私と短歌との出会い

 私と短歌との出会い

18歳の春、小説や自由詩に憧れて入った女子大の文芸部は主に短歌が主流でした。五、七、五、七、七に縛られるなんて「イヤや!」とはじめは見向きもしなかったのですが、いつの間にか先生や先輩達の作品を見よう見真似で、指折り数えながら作り始めていたのでした。それが私と短歌との出会いでした。

      昨夜見し夢のことなど思ふ朝ことさら庭に石白く見ゆ 18歳  


 寝ても覚めても五、七、五、七、七ばかりの毎日が続きました。頭の中に切れぎれの言葉ばかりが浮かんでは消えるばかりで、苦労の割りには気に入った作品はなかなか出来ませんでしたが、思いがけず、ふと良いのが一首出来た時の喜びは他の何にも換え難いものでした。その頃は国文科の勉強よりも短歌を作る方が熱心だったかもしれません。

    緑濃き五月の山路さ迷いて春に別れし友をぞ想ふ  20歳 


 文芸部には安田章生と言う藤原定家の研究で有名な教授が居られ、月に一度、その先生を囲んで短歌会が開かれていました。お茶とお菓子も出て、一人一人が厳しいけれど、心温まる指導を受け、とても和やかで楽しいひと時でした。年に何度か「いずみ」と言う作品集も発行されて、自分の作品が活字になるという喜びもその時初めて知りました。暫くは平穏な学校生活が続きました。


しかしニ回生の終りが近付いた頃、高校時代から仲の良かった友達が急に家庭の事情とかで学校を止めると言い出して、友達の多くなかった私は大きなショックを受けました。「このまま国文科の勉強を続けても大した意味を見出せないから止めるのよ。」と友達はきっぱりと言いました。一時は私もその人と一緒に学校を止めようかとさえ思うほど、辛い出来事でしたが、「自分は将来、教師になるために教職課程も受講するのだ。」と決心してそのまま勉強を続けることにしました。
 間もなく友達は学校を止めましたが、その代わりに安田章生先生主宰の「白珠」の会員となり歌人になるために本格的に短歌の勉強を開始し始めたのでした。
 そして、私は孤独になりました。学校では心から気の合う友達が出来ないまま、何とか毎日出席だけはして、卒業するために必要な単位を取ることに専念しました。短歌も沢山は出来ないけれど少しずつ作りました。

     セキセイの一羽のみ常に離れゐて眠る振りする籠の片隅  21歳

 四回生の時,安田章生先生の紹介で作家の今東光と言う人の事務所に行き,秘書の人が忙しいので,封筒の宛名書きや電話番のアルバイトをさせてもらいました.今東光さんとは一度だけ出会って,その時に東光さんから聞いたお話しは今も心に印象深く残っていて,いつか別の所に書いておきたいと思っています.この頃はあまり短歌は出来ず,「大阪文化」と言う雑誌に自分の書いた随想を一度載せて貰ったことがありました.「ずっとここに残っていても良い」と言って下さいましたが卒業の少し前にそこを辞めました.そして,何とか無事に学校を卒業しました.

春四月から私立の女子中学,高校の国語の教師として勤務するようになり,夏には学生時代に知り合った人と結婚しました.けれども意気地無しで体もあまり丈夫でなかったので仕事と結婚生活を両立出来ず一年で仕事を辞めました.失意の日を送る中で妊娠をして長男が生まれました(^。^).

      透明のグラスの曇り拭ひつつ簡潔にひと日暮れ行かんとす  22歳

      風荒れて冬が戻って来たやうなひと日ヘッセの「車輪の下」読む

こうして短歌は次第に私の生活の中に定着して行き,五,七,五,七,七のリズムをわざわざ指折り数えなくても何かに感動した時にはその感動が自然に五,七,五,七,七のリズムを持った言葉になって出て来るようになりました.その頃,良い短歌が一つでも出来ることが自分にとっての何よりも大きな喜びであったかもしれません.今振り返ると随分,狭い世界に閉じこもっていたものだと思いますが,その頃は全く気付きませんでした.

しかし,二人目の子供が生まれてからは,いつの間にか短歌のことを忘れ,育児に集中するようになりました.何年間かの空白の時代が続き,長男が六年生,長女が二年生になった頃からまた少しずつ作り始めて,安田章生先生主宰の「白珠」に参加しました.初めて投稿したのが次の歌です. 

      胸深く錆びつきさうな扉あり風に対かへばかすかに軋む

   宇宙人に遇ひたいなどと言ひながら星の明るき野を子らと行く 




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