マルスの遺言

マルスの遺言

死刑 京極









死刑 京極














京極という素浪人がいた。

かつては百万石の城主に使える侍だったがお役ごめんで浪人に成り果てていた。

何も失敗したわけではない。ただ、上司に気に入られないだけだった。
彼が未だ独身で周りから見ればなんとも頼りなかったことと、
剣術の達人で他を寄せ付けなかったせいで周りが嫉妬したということも
嫌われた理由にはあっただろう。
しかし本当は、彼の正直すぎるゆえにその不器用さから
世渡りに失敗したせいだといえる。
彼は不届きなことが嫌いだった。
彼の上司やその仲間たちは庶民から袖の下を巻き上げていたのだ。

京極は着の身着のままである町にたどり着いた。
そこには一軒のりっぱな宿屋があった。
彼はそこに泊めてもらうことにした。
しかし彼の身なりを見るなり番頭はいかにも胡散臭そうな顔をし、
中年の小太りの女中は彼をぞんざいに扱った。
けれども腰に刀をさしている以上、京極は一応お侍様には間違いない。
女は睨みつけながらも我慢するように彼の部屋の世話をした。
その女はあごの端に大きなほくろがあったので京極は覚えたくもないが
彼女の顔を覚えてしまった。

翌朝、肩身を狭くして立派な宿で一泊した京極は番頭を呼んで
実は話があると主人を呼んでくれる様に頼んだ。
奥に通された京極はもうすでに苦々しい顔の主人に会った。
嫌な空気を感じながらも京極は自分より身分の低い主人の前で土下座し、

「一昨日から何も食べていなくて思わず泊まってしまった。
金は一銭もない。お詫びにここで働いて借りを返したい」

と謝った。
ところが、主人は彼をにらみつけると、

「金がないだと? 金もないのにこの立派な旅館に貴様のような
素浪人が泊まれると思ったのか?」
「・・・」
「働いて返す? お前のような汚いなりの田舎侍など働かせなくても
ここには何十人とただ同然で働く働き手がいるんだ。
貴様なぞただで返すわけには行かない。役人に突き出してやる!」

主人はそういうと土下座する京極につばを吐き、足蹴にした。
倒れた京極はあまりの侮辱に打ち震えて主人を睨みつけていた。
主人は番頭を呼ぶように使いをやると彼をほったらかしにして
机に向かって金の計算を始めている。
京極はおもむろに立ち上がった。主人は京極を睨みつける。
京極は思わず刀を抜いた。
目をむく主人。

「おのれ貴様、聞いておればあまりの仕打ち! 
許さん!」

京極がそういったとたん刀が振り下ろされる。
血を吹いて畳に倒れる主人。
廊下をやって来る人の声。
京極は一瞬戸惑ったが金を手に取り、庭から塀を越えて
あっという間に逃げ去っていった。


京極はその後、別の地で細々と傘を作って暮らしていた。
彼の住んでいるのは汚い長屋で、農村出身の家族や、
打ち水売りをしているその日暮らしの夫婦や、
日雇いの大工などの町人たちでいっぱいだった。

彼は彼らに溶け込んでいるとは言えず、ここでもある一定の距離を置いて
冷ややかに観察されていた。
かといって彼は挨拶を欠かしたこともないし、彼に対して皆の態度も
別段不自由はなかった。
ただ、実際はそう近い間柄ではなかったということだ。

彼は息抜きに街をうろついてみた。
走り抜ける子供たち、幸せそうな夫婦。
彼は彼なりに幸せを見つけたいと思っていた。
今の彼の姿は彼にとっては不本意なものに違いなかったが
細々と暮らしていければそれでよかった。
それには一人は寂しすぎる、彼もまだ35歳。
人並みの幸せを夢見ていた。

と、目の見えない女が杖を突いて橋を渡ろうとしている。
渡ろうとして勢いよく通り過ぎる荷車に邪魔されてなかなか橋を
渡ることができないでいる。
年のころは30になったばかりの美しい女だ。
彼は思わず声をかけて手を差し伸べた。

彼女はお銀といって近くの茶屋で女中をしていた。
両親とはすでに死別し、今は一人で暮らしていた。
京極もお銀も、お互い貧乏だった。

歳のいった心に傷を持つ者同士の二人が
仲良くなるには時間はかからなかった。
話は結婚にまで及んだ。
お互いに愛し合う二人は幸せだった。

彼はもちろん過去のことは語らなかった。
語りたくなかった。
語る必要も彼女の前ではないように思われた。今の幸せがあれば良い。
彼女を惑わしたり傷つけることの方が彼には許されなかった。
彼女は彼女で過去に何か重いものを抱えているようだった。
目が見えなくなった理由。
その姿の物悲しさはどこから来るのか。
彼には謎だったが彼女が語りたがらないものは聞く必要もなかった。

京極は今でも夢にうなされることがあった。
あの主人を切ったことにどれだけ正当性を見出しても、
あの断末魔のうめき声と苦悶の表情が彼にとって
憎いものであればあるほど、
相容れない考えを持った人物であればあるほど目の奥に焼きついて、
匂いやつばきと共に彼に迫ってきて忘れられないものになってしまう。

この泰平の時代だ、彼は実際には戦場に出たことはなかった。
切腹の手助けや討ち入りなどのお役目としても誰も切ったことがなかった。
人生でただ一人、あの宿屋の主人しか切ったことがなかったのだ。
普段は冷静な京極が取り乱したのは不運な境遇のせいだったのか。
それとも回りまわって振りかかった因縁のせいなのだろうか? 

しかし彼は目の見えないお銀のおかげで幸せをかみしめることができた。
苦しみから逃れることができた。
苦しみから逃れることが目的ではなかったが、そういったことに
彼女を自分が少しでも利用しているような気分がして、なおさら
彼女が不憫でならなかった。

京極は切ない思いで彼女を愛していた。
これがたった一つの真実の愛だと、
やっと見つけることが俺にもできたんだと神に感謝した。


二人は不自由な時間の中で空いた時間を見つけては逢引きを重ねた。
ある時彼はお銀の前にきらきら光る小判を差し出して見せた。

「ある人が、飲み屋で会ったあるお金持ちが
結婚の話を聞いて祝いにともらったんだ。
われわれも見捨てられてはいない証拠だ」

こんな大金いったいどうしたの?
と聞くお銀に、京極は嬉しそうに素直にそう答えた。
お銀は不審に思ったが愛する人が素直に喜んでいるのを知って、
彼女も素直に喜ぶことにした。

「これで君の婚礼の日の白無垢を買おう」

京極はそう言うと一人嬉しそうに目を伏せた。


またある時、二人で渓流に出かけたときのこと、
お銀は子供の叫び声を聞いた。

子供たちが崖から飛び込んで川遊びをしていたのだが、
一人どうしても飛べない子がいるようだ。
京極はその子を励ました。

「飛べ! がんばって目をつむって飛ぶんだ! 
ほら、こうして!」

子供はますます大きく泣きじゃくった。
まるで鬼に襲われたかのように恐怖で狂い、泣き始めた。
その叫び声を聞いてお銀は少し怖くなった。
いったい何が起こっているのか目の前が心配だったが
彼女に見えるはずもない。

次の瞬間、お銀は物凄い悲鳴と共に少年が川に落ちる音を聞いた。
それっきり子供の泣き叫ぶ声はしなくなった。
以前と同じように少し遠くではしゃいでいる子供たちの声が聞こえるだけ。

「やっと飛び込んだよ。行こうか」

京極のあっけらかんとした声が聞こえ、
腕をとられるままお銀は帰りの途についた。


長屋に異変が起こった。
あの昔切り殺してしまった主人の宿で働いていたあの中年女中が
長屋に流れ着いて偶然にも住むことになったのだ。

京極はあの顎の端のほくろを覚えていた。
彼女も京極を覚えていた。
彼女は主人の死の理由こそ知らないけれど、
あることないこと京極の悪口をいい始めた。

長屋の仲の良かった仲間たちの中から、
次第に不信の目が京極に向けられるようになっていった。
始めからあの人は何か怪しいと思っていたという人まで出てきた。

京極は黙っているしかなかった。
他に行くところもないし、やっとこの地でお銀と一緒に
暮らす覚悟を固めることができた時期だったからだ。


ある日、顎の端にほくろのあるその小太りの女は
京極が小判を懐手にして出かけていくのを目にした。
女はあの素浪人が大金を持っているなどということが信じられず、
嫉妬した。
彼女はすぐさま数年前の主人殺しと結びつけて役所に駆け込んだ。

「犯人はあの男です! 間違いありません、証拠を見たんです! 
無くなった大金を持ってました」

京極には宿の主人殺しの汚名がきせられた。
小判は飲み屋でお金持ちにもらったと言ったが、
実はそのお金持ちはこそ泥だったことが分かった。
盗んだ金だったのだ。
そうでなくても実際殺したのは京極だった。
京極は自ら宿屋の主人殺しを白状した。
これでお銀とも会えなくなると思うと、その言葉を口にするのが
のどを締め付けられるほどに苦しかった。
そうして主人殺しの罪は確定した。
そればかりか京極はこそ泥の罪まで被せられてしまった。
それは違うと訴えたが、中国から伝来したお前の持っていた
特徴のある小判が証拠だと聞き入れられることはなかった。

京極の罪を聞いたお銀は悲しんだ。
留置された京極の元にお銀は面会に行った。
まげを切られ囚人服で面会に出てくる京極。
お銀に対して顔を上げることもできない。

「あの宿の主人は私の叔父でした。
彼には子供がなく、私がたった一人の姪なのです。
彼は一緒に住みこそはしていなかったものの、
親代わりの叔父さんでした。
あれから後を継ぐ者もなく、かの家は本家ともども衰退し
私は今に至るのです」

「す、すまん」

初めて知った彼女の秘密。
京極は打ちひしがれ、
自分のしたことがいったいなんだったのかを知った。
そして心の底から詫びたかった。
しかしどうすればいいのかわからなかった。
この目の前の可愛そうな愛する女性には、
詫びても詫びの仕切りようがない、そういう思いだった。
死んでお詫びしよう。
彼には覚悟ができていた。

しかしまたあの女が、顎の端にほくろのある女が町で騒ぎ立てた。

「あの女も共犯よ! ずっと一緒にいたんだから怪しいもんだわ」

長屋の皆はそれはそうに違いないと考えた。
でなきゃあんな男と一緒にいやしない。
彼女も怪しい! 
京極の捕まった噂は町ではちょっとしたスキャンダルになっていた。
皆は噂をでっち上げて広め、役所に訴え出た。


処刑の日。京極がお縄で縛られ、牢屋から出て来た時には
すでに外は大勢の物見うさんで賑わっていた。
薄暗い牢屋の生活でもうろうとした頭で、晴れ渡った外の様子を
まぶしそうに見るとそこには、縄で縛られたもう一人の女の影が。
市中を引きずり回されてすでにぼろぼろになった女の姿が。

お銀だった。

つめかけた町民たちが囃し立てて石を投げ棒でたたく。
耐えるようにして唇を噛みしめているお銀。
たまらず叫ぶ京極。

「お銀!」

その声にはっと顔を向けるお銀。
一瞬しんとする民衆。
そこにはあの太った女も長屋の仲間たちもいる。

「その女は違う! その女は無実だ! 
やったのは私だ。全て私が悪い! 
女を放せ! 放してやってくれ!」

京極のその叫びを聞いた民衆は動きを止めた。
役人も黙って事のなりゆきを見守った。
その静寂を破ったのは、お銀だった。

「そうよ! この人です! 私は何もしていない! 
こんな目の見えない小娘に何ができましょう! 
悪いのはこの人です! 私は何もしていない!」

息を呑む京極。
吐き捨てるように言うそんなお銀の姿を見るのは初めてだった。
民衆もまるで芝居の緊迫した場面を見るようにお銀に注目している。

「そう、お金もこの人が取ったんです! 私は見せてもらいました。
急に小判なんか持って、どうしたのかと不審に思ったんです。
・・・そ、それから、彼は子供も殺しました!
川に泣きじゃくる男の子をほおリ投げたんです!

私は殺すところを見たんです!」

シンとして動かない民衆。
役人がお銀の縄を解いてやる。

うなだれて何も見ていない京極。
大勢の中で一人取り残された静けさの中にいる京極。

その京極の目から、一滴の涙が地に落ちる。
お銀は、もちろんそれを見ることはない。

杭に打たれ、炎に焼かれる京極。
もがき苦しみ、皮膚が焼かれる臭いがあたりに立ち込める。

顔をしかめて鼻を覆い顔をそらす民衆。

お銀のみ、見えない目で京極を見つめている。




                       終




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