マルスの遺言

マルスの遺言

「紅白歌合戦」に見る日本の和




日本の美徳は「和をもって尊しとす」であると思う。

聖徳太子がそう意図したのかどうかは分からないが、それは当時、あまりにも乱れた世の中を治めるための方便だったかもしれない。彼のプロパガンダ、あるいは”おふれ”のような強制だったかもしれないと私は思うのだ。
その可能性は完全には否定できないだろう。

とにかくそれは、その当時機能し、良い方向に向かったし、今でもその美徳は語り継がれ、何かしらの形で守られていると思う。

それが今、果たして私たち日本人に有益に働いているのだろうかどうか?

例えば年末の「紅白歌合戦」。”今年は若者たちにウケるギンギンのロックバンドが出てきた!こいつらは紅白では歌わないだろうなぁ”と思っていたらしっかり出てきて歌っているということが良くある。
出場前は、その存在が謎めいて日本を揺り動かしかねない社会の”毒”だった彼らが、紅白出場したとたんに毒気を抜かれた軟弱な若者像に一変してしまう。
一度日本国民、大衆に認知された、認められた彼らはもはや時代の反逆児ではなくなるのだ。

このように「紅白」には魔力がある。
「紅白」つまり、競馬、パチンコなどのギャンブル、タバコ、ゴルフ、プロ野球、飲み会、スキー、温泉、年末ジャンボ宝くじ、学校、試験、会社、村、街、国、海外旅行、結婚式、エステ、ダイエット、政治、その他の「紅白」のような物も総称して「紅白」と呼ばせてもらうが、これらの物は、社会に反逆する芽を摘み取って大衆化し、無力化してしまう力がある。それ自体は悪い物ではないはずなのだが、何故かスッキリとしないうやむやなものがある。
アメリカのことわざに「ボスがバイオリンを弾けばいつでも踊る」という言葉がある。まさに踊らされている感じがするのだ。
それは前に書いたメディアの麻薬性と関連している。

事を毒気を吸収、無力化してしまうことに限定すれば、私はこのことも、日本の独特の文化である「和」から来ていると考えている。
「和」が、個人の力や、思想、目的意識、本来の重要な愛までもを摘み取ってしまう。
「和」が、悪の存在や、貧富の差、社会的悪の構造をうやむやにしてしまうのだ。

それを今までの日本人は自分たちで、ぬるま湯に浸かっていると表現した。

当然、二元論で言ってきたように、物事にはいい面と悪い面がある。

必ずしも日本の和が悪いというわけではないし、優れた良い面も沢山ある。
日本全体を覆う和やかな明るさというか、あっけらかんとしたエネルギーは和から来ていると思う。ただそれが刹那的で、悪い意味の個人主義的な考えにもとずいていることが多いような気がする。
悪く言えばお祭り的投げやりな態度だ。そこには自己満足と、スノッブさと、傲慢さと、見栄の張り合いと、他者との繋がりを無性に欲しながら他者を軽蔑する考えとが混在している。
良く言えば”なんとかなるさ”的な考えで繋がり感を重視する態度でもある。そしてその自分の考えを否定しようとする物全てをシャットアウトしてしまう。

世界各地を巡ってみても、やはり日本だけが変わっていて、どこの国も日本には似ていない。日本独自の体質は、どこの国を探してもない物である。
きっとこの特異性は何かしら世界の目を開くのに役立つかもしれない。この中立”的”立場から世界の問題点をとらえられるような気がする。私はそう思えてならない。

しかし、もっと外に目を向けて、客観的に世界の中の自分の置かれた状況を把握できるようにしないと、日本のあっけらかんさは世界を救う鍵になるかもしれないが、同時に自らを滅ぼしてしまうキッカケにもなりかねないのだ。

もし、聖徳太子が説いた”和”が、強制された物だとしたら、未だに日本人はそのおふれをありがたく受けとっているのである。

そこには本当の意味の自分の意志での選択が、無いのかもしれない。



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