マルスの遺言

マルスの遺言

リアルは受け取り方だけでは変らない


リアルは受け取り方で変るかもしれない。
リアルは客観的な現実とは違って、 リアル感 に近く、感覚だからだ。

自分の 受け取り方 次第でリアルは変るという。

であれば、結局自分というものは現実によっての 受け身 でしかないのだ。

人間に最も近いイルカの脳の研究を通して人間の脳を研究し続けた、あの映画『イルカの日』の主人公であるジョン・C・リリー、あるいはあの映画『アルタードステイツ』のアルタードステイツを体験したマッド・サイエンティストのジョン・C・リリーは、私の目の前でこう言った。

『現実(運命)とは変えられないものだ。もし人に自由が与えられているとしたら、レイプされた後、死にたいと思うか、ああ気持ちよかったと思うかのどちらかくらいしか人間には自由が許されていない』と。

もちろんこれを聞いて皆さんは例えの醜悪さに嫌悪感をあらわにされるだろう。しかし、彼が言いたいのは、幾度も人間の醜さを見て生きてきた彼が言いたいのは、

運命は変えられない。変えられるのは人間の受け取り方くらいだということだ。

つまり、ずっと脳の研究を続けてきた人間から見たら「現実は脳の中で造られる」ということだろう。受け取り方次第で現実は変ると。

これから逆に言えば、結局人間のリアルなどというものは受身でしかないのだ。どういいように考えようが受け取ろうが受身なのだ。良い様に考えて良い様に現実が変ったとしても、それも後に良い現実を受けたからそう感じたのであって、全ては受身なのだ。

要するに、人間は全てをコントロールするわけには行かない。

人間のリアルには、何者かが必ず仲介している。 センターがあって、そこから全てをコントロールしている。それが神だ。

小説家は、物を書くときに、主人公に目的を持たせ、なるべく目的の邪魔をする。学校に行きたければ途中さらわれて行けなくしたり、落とし穴を掘ったりする。恋愛したければ、邪魔する人物を描き入れたり、二人を離れ離れにしたりだ。

人生も同じ。目的がなかなか叶わず苦労するところにドラマがあり主人公、つまり人間の成長がある。

人間がこの世に生まれ変わってきた理由が成長ならば、神が邪魔をするシナリオを描くのは当然なのだ。

神(仲介者)はいつも邪魔をする。 やることなすことすんなりと上手くは行かせてくれない。人間、主人公が、何か目的を持てばだ。まあ目的を持たない人間など存在しないも同じだが。

だからある意味で、受け取り方次第で現実が変るとは結構、楽観主義的で、人間最上主義というか、エゴイズム(利己主義)の極地な考え方なのだと思う。

違いますか?

受け取り方はもちろん大切だ。楽観主義も大切だ。世の中の現実も人間が作り出している。頭で考えたものが現実になる。この机も、あのビルも、誰かが設計し考えたからこそ、そして皆が必要なものだと受け入れたからこそ現実として存在する。ひょっとしたら目に見えるものだけじゃなく、人間が考えたからこそ平和もあるし、戦争もあるし。

しかし、あまりに個人を、個人の能力を重視しすぎてもそれは違うのだ。

この現実は、皆が作り出している。一人一人に見える現実は一人一人のものだろうが、魂を持って生まれた人々、人類の総意によって 現実 は作られている。だから、一人の考えではどうしようもないところがあるのだ。

そういう意味では皆が だ。この世にいない人もいる人も皆ひっくるめて神なのだ。

そんな神の総体が作り出す現実を、受け取り方は自由だが、自分の現実だけでも自分一人で「現実」を作り出していると考える方が傲慢なのではないだろうか?

そこが東洋哲学と西洋哲学の違いである。

東洋哲学はあくまで 謙虚 なのだ。逆に言うと個人主義ではなさ過ぎると言えるかもしれない。物事は一度すっきりとシンプルに一方向から見極めた方が上手く行くことがある。そういう意味では西洋哲学は有効だ。だが、物事の総体を捕らえるには東洋哲学の方が有効であると私は思う。

この世の現実は センター によってコントロールされている。仲介されている。そういう現実を受け取って、考え、行動するのは私たち一人一人だ。

私たちは神とコラボレーションしている。

私たち人類の魂の総体と、生きながらコラボレーション(相互作業)しているのだ。

他人は変えられないということは自分に迫ってくる現実は変えられない。現実は変らない。
しかし、とにかく 受け取り方を変えるだけでは十分でない

私たちがこの世ですることは、結局現実を変える作業なのだ。

受け取り方が現実を変えるといっても、私たちが頭の中で何を考えようが現実は変りはしないのだ。先ずその一歩にはなる。でもそれだけで十分ではない。 結局現実が変らなければ我々は幸せではない。

AがダメだったらBをするとか、Aが一度ダメでもまたAに挑戦するとか。
人間はとにかく現実に挑戦していく。その挑戦する相手を与えるのが神という現実だ。

人間は現実を受け取って、自分の現実として好きに解釈したなら、また次に現実を良くするように、自分の理想の現実に近づけるようにアクションしていかなければいけない。そうしないと生きていけない動物なのだ。
それが宿命なのだ。
犯罪心理もそうしたことから起こるし、建設的な世の全てのこともそうしたことから起こる。

アダムが禁断の実を食べて「労働」が人間の義務になったというのはそういった意味だと思う。




© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: