マルスの遺言

マルスの遺言

こっぱみじんと「無」


仏教で「無心」という言葉がある。「こっぱみじん」という禅の言葉もあるように、無駄なものを排除・破壊して裸になったとき、つまり無心になったとき、自分の進むべき道や、目的が見えてくるというような意味だと思っている。

進むべき道。
人は生きていく上で立ち止まってはいられない。もう何度も言うが、サメが泳いでいないと、口から入ってくる海水から酸素を取り入れることが出来なくなり死んでしまうように。立ち止まったら死を意味する。緩やかに泳ぐことは出来る。しかし、それもこの資本主義経済の今の状況では難しくなっている。それどころかますます早く泳ぐことが要求されている。そのcheat(ズル)に溢れた競争に敗れたものは水さえ与えられないような、そんな世界になり始めている。

ある本でこんなことが書いてあった。「マスターの言葉」とかいう本だ。(一応うっかりcheatしないようにここに紹介?しておく)
人間は前に進まないと生きていけない。それは飛行機のように、船のように。飛行機や船は抵抗によって前に進むことが出来る。飛行機は空気抵抗によって、船は水の抵抗によって。だから人間が生きていく上で抵抗、妨害に遭うのはごく自然なことである。それが無ければ行動も在り得ない。存在しない。
人間の抵抗とはこの前語った「理不尽」であったり、自然の驚異であったり、人間関係であったり、職場の地位であったりするかもしれないし、お金が無いことであったりするかもしれない。それらが無ければ行動も無いくらい有って当然のものだが、それら抵抗にエネルギーを与えてはならない、というのだ。
これも何かに書いてあったが申し訳ない忘れてしまったので紹介は出来ないが、もしその抵抗に関わって「怒り」を爆発すれば、怒りは後悔や無駄な行動を生む。爆発しなくても係わり合いを持つことでエネルギーが相手に渡るというのだ。
飛行機は限られた燃料しか積んでいない。船も同じだ。乱気流に遭ってもみくちゃにされたら飛行機は無駄にエネルギーを消耗してしまう。船が荒らしに遭ってながされたら遠回りになってしまう。自分の進むべき方向さえわからなくなるかもしれない。そうしたら方向を探すことからまた始めなければいけない。
面白いのは、相手にエネルギーを与えてしまうということだ。
「怒り」を誰かに爆発させて疲労困ぱいした人を見たことはないだろうか?怒りは自分の大事なエネルギーを相手に与える行為だというのだ。相手の思う壺だと。
そんな無駄なことは誰でもしたくない。

ここで話を「無心」に戻そう、無心とはしっかり自分の進むべき道を見据えて、無駄な行動に出ない、抵抗に感情を動かされないということなのだ。
そう、極端に言うと感情を捨てるというところまで行くのだとお粗末ながら私は私なりに考えている。
それは「虚無」ではない。愛情のたっぷり入った、前回の日記に書いた心を込める「無」、無駄なものを「こっぱみじん」にしてそぎ落とした「無」なのだと思う。が、きれい事なのだろうか?まだまだここのところが分からないでいる。
もしこの程度ですまない感情を揺り動かされずにいない大きな抵抗に出遭ったら?死にたいと思うような出来事に遭遇したら?きれい事は言ってられない。そのときに無でいるなんて人間ではないのかも。死んでしまうよりはましだが、哀しいことである。
もし行動に抵抗がつきものなら、仏が言ったように人生は苦だ。だから、愛情のいっぱい詰まった仏教で言う虚無でない「無心」、「悟りの境地」=「三昧(ザンマイ・何も無いけれども満たされている)」の世界を私自身本当の意味で知りたいものだ。







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