マルスの遺言

マルスの遺言

キリストの映画「パッション」の血



確かフェリーニの先生のイタリア人映画監督・ロッセリーニだったと思うが、ロッセリーニの描いたキリスト映画に匹敵するくらいすばらしい映画だ。ちなみにロッセリーニは「聖フランチェスコ」も好きな映画だ。もう観ることはなかなか出来ないが・・・。

当然、裁判のシーンはあの「ジャンヌ・ダルク」の裁判と酷似している。多分モノクロ映画「裁かるるジャンヌ」の時代からキリストを意識して作ったのだろう。

映画は徹底したリアリズムで、ヘブイライ語など当事そのままの言語で描かれている。普通の映画ならいろいろな国の言語が飛び交う国際的な一大叙事詩だ。

しかしこのような「人間とは何たるか?」や「世の中を見つめる新たな視点」を与えてくれる映画というものは、あなたのそして私の「人生」に貴重である。

この映画を観て、キリストも普通の人間で(もちろんメシアだが)未来は予知できても、それを経験するまでは不安で、未来は未来のことでしかなく、それゆえに、人生の一瞬一瞬を生きるしかなかった私たちと同じ人間だったのだと感じた。

もうすでに知っていることだが、ここでも、キリストが真理である真の自由を勝ち取るためには、孤独に甘んじ、裏切りに合い、憎しみを引き受け、多大の血を流すことが必要だった。これはストーリーだ。ヒーロー者の伝説だ。葛藤があり、面白く、悲しくもあり、友情を描き、女がいてプラトニックな愛を描き、敵がいて、冒険をして、何かを捨てることによって別の新しい何か本当に大切なものを手に入れる。これは伝説によくある物語のパターンだ。日本人や、東洋思想、仏教徒たちには宗教としては芝居じみて感じるだろう。しかしそれゆえに人々を強くひきつけ、熱狂的に信じられている。

これは何かに似ていないだろうか。血の上に築かれた文化。そう、資本主義と似てはいないだろうか。
資本主義も二元論のドラマを作り出している。男と女、金持ちと貧乏人、貸す者と借りる者、売る者と消費する者、それら両極端の二元論の配役によって、ドラマは作られている。そしてドラマによってドラマがまた作り出される。そうやって貧乏人に甘んじている者でさえ、人間って生きてるんだって思っている。でも、それが他人の「血」の上に築かれた財産であったり平和であったり、生の証だったりするのでは?

今なぜ?この映画を!メル・ギブソンが自らプロデュースしてまで作らなければならなかったか?!

分からないだろうか?
ただ痛い映画と思っただけだろうか?

人は罪を繰り返しているのだ!あの、キリストが!あれだけの血を流し、痛み苦しみを受けてまで、私たちの罪の身代わりになって死んだのに!

だから、今!あのキリストの痛みを思い知れというのだ!思い出せというのだ。人類の、人間が人間であるが故の罪の痛みを思い出して欲しいというのだ。

これは何も、キリスト教だけに言える事ではない。中には私は無宗教だという人もいるだろうが(本当だろうか?)仏教徒にも言えることだ。

この映画の冒頭でキリストは語っている。
「友のために命をささげるということは、最大の愛だ」と。

仏教でもこういう話しがある。
お釈迦様(仏陀)は、前世でウサギだった。そしてそのウサギは極寒の中、トラが飢えているのを見て「自らを食え」と炎の中に飛び込み、命を差し出したという。


最大の愛を与えてもらったことはあるだろうか?
キリスト教信者は「イエス」と言えるのである。








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