マルスの遺言

マルスの遺言

あるモスリムの青年の話



彼は控えめで寡黙な青年で、決して冗談など言う人間ではなかった。

彼の国では、彼ら独自の原始宗教とイスラム教が合体した宗教を信じていて、どちらかというと原始宗教が色濃く残っている世界観を信じていた。

彼は「宗教というものは、仙人のように山にこもって修行する出家僧だけが偉いわけじゃない。むしろ、家にいて、以前と変わらぬままの生活をして、その上で宗教の教えを忠実に守っていく、それこそが最も難しいことである」と語った。

そして「出家した僧より、日常で教えを実行していくその人こそ、最も尊敬さに値する人物だ」と。

更に彼は不思議なことを語ってくれた。

山奥にある農村の彼のふるさとでは、呪術という習慣が残っていて、自分も周りの人間も、病気にかかったとき、呪術師(メディスン・マン シャーマン)に治してもらったという。

その呪術師は、いろんな魔術を行うことができ、超能力を持っている。
彼も実際に、年老いた呪術師が宙に浮くのをこの目で見たという。私が信じられないでいると、至極まじめに「本当だ」と何度も訴えた。

その上彼の実家には、代々伝わる短刀があって、それがすごく不思議な歪んだ形をしているらしいのだが、装飾の施された鞘に収まった美しい短刀だということだった。
その短刀を身に付けていると人から見えなくなる、つまり、透明人間になれると言い伝えられているというのだ。
彼はその言い伝えが本当なのかどうか、自分自身も信じられなくて試してみたそうだ。
彼は親に内緒でその短刀を持ち出して、映画を見に行ったそうだ。
映画館の切符切りが自分が見えなければ、タダで映画を観れるという魂胆だ。
しかし、彼はそれを信じているわけではなく、すぐに見つかって入り口で止められるだろうと思っていた。
ところが、彼はまんまと入り口を何の咎めもなく通り抜けられたそうだ。
「やっぱり彼らには、僕が見えなかったからだよ。そうでなかったらいったい誰がタダで映画を見せてくれる?奇跡が起こったんだ!」
彼は興奮気味で語った。

当然私はまったく信じられなかったが、彼の熱意と、見えていない見えていたとに関わらず、なぜ誰も咎めることなく映画館に入り、タダで映画を観れたのかは不思議だったのでその場では奇跡が起こったとまでは賛成しないが実際そうだったんだろうねと頷いておいた。

しかし、考えてみると、世の中不思議なことだらけ、そういう不思議があってもおかしくはない。むしろ私はそういった小さな不思議とは幾度かお付き合いしてきた仲じゃないか、彼の言うことだけ否定する理由はまったくない。
彼のいうことも、信じられるのかもしれない。
そう思えてきた。

日々の実務に追われるようにして、かしこまった現実ばかり考えるより、夢のある不思議を考えた方が、楽しいではないか。





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