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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。東京駅丸の内側から皇居へ続く行幸通り(→→→こちら)を歩きます。写真の人達が歩いている中央車線は、かっては、一般車の通行は禁止され、天皇の行幸と信任状捧呈式に向かう外国大使の送迎の車馬が通行する時にのみ使用される専用道だったそうです。丸の内仲通りです、浅草の仲通りとは違いお土産屋さんはありませんが、三菱関係の企業のビルが並んでいます。和田倉門の交差点にある守衛詰所跡ですね。こちらは馬場先濠です。この濠をはじめとする皇居外苑や北の丸公園の一帯は環境省が管理しているそうです。江戸城の石垣が今も残っていますね。石垣の先には、皇居の桔梗門前広場が広がっています。その奥にちょっと頭だけ見えているのが富士見櫓(→→→こちら)です。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その3) 東京駅から皇居和田倉門へ
2021年01月31日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。日銀の前にある常盤橋の交差点を左折して、日本橋川に架かる一石橋を渡って呉服橋の交差点にやってきました。こうしてみると東京って橋が多い橋の町だったんですね。交差点にある銀行の前に鉄骨の残骸が展示されていました。下の説明によると、建て替える前のビルに使われていた鉄骨だったわけですね。呉服橋から永代通りを西の方へ歩いていくと東京駅日本橋口に出ます。さらに大手町に向かって高架橋を抜けて、そして、東京駅丸の内北口にやってきました。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その2) 東京駅へ
2021年01月30日
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もう一月も終わろうかと言う時ですが、引き続き、昨年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。今年の駅からハイキングは今のところ中止が続いています。再開されたらまた参加して報告したいと思います。出発は神田駅からです。神田駅から中央通りを日本橋方面に歩いて、日本橋室町の三越本店まで来ました。この本店は重要文化財(登録有形文化財(建造物))に指定されているそうです。三越の向かい側がこの建物。三井本館で、三井住友銀行日本橋支店がありますが、こちらも国の重要文化財(登録有形文化財(建造物))です。さら行くと、こちら日本銀行の本店です。こちらも国の重要文化財(登録有形文化財(建造物))です。日銀本館の向かいの分館にあるのが日本銀行金融研究所貨幣博物館(→→→こちら)です。古代から現代までの様々な貨幣や海外の珍しい貨幣、そしてこれまで発行された日本銀行券などが展示されています。経済のことを勉強するためには、まずここで貨幣制度の歴史などを勉強するのにお薦めですね。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その1) 重要文化財だらけ
2021年01月29日
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町を歩いていたら見かけた貼り紙です。喫茶店の閉店のお知らせでした。地元の人の話だと、この喫茶店は昭和11年(1936)5月5日創業だったそうです。閉店の理由はわかりませんが、経営者の人の高齢化でしょうか。人気ブログランキング閉店のお知らせ
2021年01月28日
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2020年11月23日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して田町から高輪までを歩いた報告です。 さらに第一京浜を北に進むと、西側に石垣があります。 反対側から見た見たところです。 高輪大木戸跡(→→→こちら)だそうです。 街道の両側に築かれた石垣が作られて、その間に柵と門があり、治安の維持と交通規制の役割を果たした江戸府内の出入り口、つまり「ゲートウェイ」だったということです。 立派な石碑も建立されていました。 そんなわけで、2020年(令和2年)3月14日に開業したこの駅も高輪ゲートウェイ。この駅が今回の駅からハイキングのゴールです。 駅舎は隈研吾氏によるデザインだそうです。 こちらが改札口。 駅前はまだ工事中でした。 二階、三階はお店が入っていました。 駅の東側は、東京総合車両センター田町センターとして使われているようですね。 【了】 人気ブログランキングへ 港区を歩く(その7) 高輪は昔からゲートウエイ(入口)でした
2021年01月27日
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2020年11月23日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して田町から高輪までを歩いた報告です。さらに高輪方面に向かって歩いていくと、渋いユニークな建物が見えてきました。高輪消防署二本榎出張所で、この建物は昭和8年(1933年)12月28日に落成したもので、近代建築の遺産(ドイツ表現主義)として東京都文化デザイン事業により保存建築物に指定されているそうです。坂道を下って、第一京浜までやってくると、黒っぽい石で作られた石垣がちょっと顔を出していました。「高輪海岸の石垣石」というもので、江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられていたもの。平成7年(1995)、高輪2丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡発掘調査で出土したそうです。江戸時代はここまで海だったんですね。第一京浜を北へ向かって歩いて行くと、高輪一帯の総鎮守社、高輪神社です。11月に行ったので七五三の案内が出ていました。古い石の鳥居が歴史を感じました。ちょっと気になった鳥居のしめ縄。普通のしめ縄のように見えましたが、藁で編んだ綱ではなくなにやら合成繊維のような。社殿です。ちょっと新しい感じでした。こちらは社殿の左手にある太子堂、つまり聖徳太子をお祀りしているところです。おそらく聖徳太子を崇敬している人たちが神社の敷地に造ったのでしょうね。由緒正しい感じのする石碑も建立されていました。【つづく】人気ブログランキングへ港区を歩く(その6) 高輪神社
2021年01月26日
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2020年11月23日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して田町から高輪までを歩いた報告です。白金の目黒通りから桜田通り(国道一号線)に向かって桑原坂を下って行きました。まず最初に目についたのはこの神社。古地老稲荷神社です。この神社が建立されると周辺地域に火事が起こらなくなるという偶然が起こり、これが同神社の霊験として住民に理解されるようになり、その後火伏せの稲荷として見なされるようになったという神社です。その隣にあったのが、レストラン、結婚式場として有名な八芳園(→→→こちら)でした。八芳園は元は大久保彦左衛門の屋敷だったそうですね。そして、坂道をさらに行くと、明治学院大学の前に出ます。休日なので閑散としていますが、なかなか雰囲気のある建物があっていいですね。MoMo太郎は子供の頃、明治牛乳、明治大学、明治生命といった、会社や学校は三菱や三井のように明治という財閥グループ企業だと思っていました(^^;)。【つづく】人気ブログランキングへ港区を歩く(その5) 桑原坂
2021年01月25日
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2020年11月23日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して田町から高輪までを歩いた報告です。伊皿子の交差点を過ぎて、高松宮邸を過ぎていくと、このお店がありました。「虎屋」さんです。かの有名な赤坂にある「とらや」とは違います。もう閉店しているようですね。煙突があるのがちょっと珍しいというか、懐かしい感じでした。そこから清正公前の交差点に出て、目黒通り沿いを歩くと、この大きな建物があります。シェラトン都ホテル東京(→→→こちら)です。昔は近鉄が経営していた都ホテルだったのですが、外国資本と提携していくことが増えてきましたね。そして、いよいよセレブの町、白金にやってきました。白金という町にふさわしいような重厚な門構え。東京大学医科研究所とその附属病院(→→→こちら)です。目的地はここではなく、その隣にあるこのゴシック調の建物、港区立郷土歴史館(→→→こちら)です。アプローチの道路には歴史を旅するようなポップなイラスト。こちらが、港区立郷土歴史館の建物です。1938年に完成した「旧公衆衛生院」の建物を保存・改修して利用しています。常設展は300円、企画展特別展は200円、セットで400円の入場料ですが、建物の見学だけだと無料です。ということで、建物の見学だけさせていただきました。入口を入ったところにあるホールです。2層吹き抜けの空間で、床材、壁材に石材が使われて、特徴的な意匠ですね。公衆衛生院次長の部屋です。内装は、意外と今風のベニヤ板?ちなみに公衆衛生院とは、名前のとおり、日本の公衆衛生の改善と向上のため、公衆衛生に携わる技術者の養成、訓練を行うとともに、公衆衛生に関する調査研究機関として1938年(昭和13年)に設置されたものです。しかし、今は廃止され国立医療・病院管理研究所と共に国立保健医療科学院に改組されて埼玉県和光市にあります。ということで、今この建物中を歩いても、新型コロナウイルスや大腸菌O157などの研究をしている場所があるわけではありません。こちらは院長室になります。院長室です。家具は昔のものではないですね。雰囲気的には、古い大学の構内の雰囲気でした。エレベーターはきっと後で改築されて設置されたのでしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ港区を歩く(その4) 旧公衆衛生院
2021年01月24日
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2020年11月23日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して田町から高輪までを歩いた報告です。慶応大学の前を過ぎて、聖(ひじり)坂を登ります。坂の入口にあったこの宗教団体(→→→こちら)に由来して「聖坂」ではなく、古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったことから「聖坂」と呼ばれているそうです。こちらは学校です。普連土(ふれんど)学園だそうです。私立女子中学校、高等学校です。普連土といっても、ここのJKやJCの方がガールフレンドになってくれるわけではなく、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのキリスト友会(クエーカー、フレンド派)の婦人伝道会が女子教育を目的として創設した学校で、「普連土」の当て字は、津田仙(津田塾大学の創立者津田梅子の父)が、「普(あまねく)世界の土地に連なる」、転じて「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いから命名したとされています。フレンド、お友達といえばこちらの大使館。クウェート(Kuwait)大使館です。石油で儲けたお金持ちも多そうなので、お友達になりたいわ。そして、コースのポイントとなる「亀塚公園」に到着しました。この円墳状の盛り土が亀塚の由来のみたいですね。亀塚に関する説明板です。東京都指定史跡 亀塚所在地:港区三田4-16-15指定:昭和58年5月6日古くから坪井正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行われず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和45・46年、港区教育委員会が主体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成14・17・18年に港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。また、平安時代に書かれた「更級日記」に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469~87)には、太田道灌が斥候(ものみ)を置いたと伝えられています。江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼熙(よりおき)が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。平成19年3月31日 港区教育委員会 港区環境・まちづくり支援部ということで、頂上の「亀山碑」を見に行きました。港区指定有形文化財 歴史資料 亀山碑亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熙によって寛延3年(1750)に建てられたものです。土岐家は、明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文に秀でた大名といわれた頼熙は、この地が「更級日記」の故地であることや、塚の頂部に酒壺があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壺の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるためにこの碑を建立したと考えられています。大名が邸内に建立した石碑として貴重なものです。平成26年3月10日 港区教育委員会だそうです。江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守の下屋敷で明治維新後は皇族華頂宮家の屋敷跡だそうで、広々とした公園です。高層ビルが見えるところが都心の公園ですね。「三田(みた)」という町名の由来が書いてありました。この地に朝廷に献上する米を作る屯田(みた)が存在したからとも、伊勢神宮または御田八幡神社の神田(みた)があったからともいわれる。伊皿子坂との交差点にやってきました。ここが東京歯科大学発祥の地だそうです。そういえば、東京歯科大学は慶応義塾大学と合併するそうですね(→→→こちら)。これで慶応大学には、前からあった医学部、看護医療学部、そして2008年に共立薬科大学と合併してできた薬学部。そして今回の歯学部ということで、医療系の研究については盤石と言う感じです。さらに東京歯科大学さんは千葉県市川市に「東京歯科大学市川総合病院」という心臓外科や産科なども含んだ総合病院を所有しています。しかもその病院には結構、慶応出身の先生も働いておられるので、実質、慶応大学病付属院千葉分院のようなものですが、信濃町にしか附属病院を持たない慶応としては病院が増えることで収益アップも見込めますね。さらに、市川で働く先生も「東京歯科大学〇〇科教授」よりも「慶応大学医学部教授」という肩書になって、ちょっと嬉しいですよね。【つづく】人気ブログランキングへ港区を歩く(その3) 亀塚公園3
2021年01月23日
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2020年11月23日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して田町から高輪までを歩いた報告です。三田通りに出ると見えました、東京のシンボル、東京タワー。スカイツリーもいいですが、東京タワーの方がやっぱり、タワーっていう感じがしますね。三田通りから坂を上って、ちょっとルネッサンスと呼びたくなるような建物が。「綱町三井倶楽部」(→→→こちら)でした。三井グループの会員制倶楽部ということで、三井関連の会社に関係ある人しか利用できないようです。そういえば、慶応大学出身で三越に勤めている友達の結婚式でここに来たような記憶が。綱町三井倶楽部の横にあるこの綱坂を下っていくとMoMo太郎が入学を断られた慶応義塾大学が。ここに入学できなかったので、当時住んでいた関西の方へ流れていったMoMo太郎です。【つづく】人気ブログランキングへ港区を歩く(その2) 三田といえばこの大学
2021年01月22日
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読売新聞によれば「重症者は1014人、17日連続で最多…全国で5534人の感染確認」 ということで、猖獗をきわめる新型コロナウイルスですが、そういう状況にもかかわらず、出歩いている人が多いですね。このまま感染者が増えると、重症患者の方は受け入れられないので、そのまま自宅で治療を受けずに最後の時間を過ごしてもらうだけになるのでしょうか。また感染した人は、そうですね、とりあえず、無人島に感染者キャンプを作って、そこで生活してもらうことになるのかな。 そのようなことが起きないことを願うばかりですが。 そういう、MoMo太郎も去年の秋はよく出歩いていました。 ということで、2020年11月23日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して田町から高輪までを歩いた報告です。 やって来ました田町駅。今日の駅からハイキングのスタート地点です。 田町駅のコンコースです。意外と広い通路でした。 東口から出て線路沿いに歩き、この地下道を通って国道15号線の方へ。 地下通路を出たところにあるのが、本芝公園。 この公園、かっては海岸で雑魚場(ざこば)と呼ばれていました。昭和45年に運河を埋め立てて造られました。また、落語「芝浜」の舞台としても知られている場所でした。 芝五丁目の交差点です。箱根駅伝のコースですね。かって母校のタスキをかけてここを走ったMoMo太郎を覚えているでしょうか(嘘です)。 この目立つビルは、NECの本社ビルです。 そのビルの裏手にある見落としそうな石碑。 「薩摩屋敷跡」です。 薩摩藩は最初は桜田に上屋敷がありましたが、手狭になったことで三田に上屋敷を構え、その他に高輪に中屋敷、渋谷に下屋敷、白金に抱屋敷などがあったそうです。また三田の海岸沿いには蔵屋敷もあったそうです。 ちなみに、明治維新の発端になった鳥羽伏見の戦いの原因になる薩摩藩邸焼き討ちは、この上屋敷に対して行われたので、江戸を焼き討ちから救ったとされる、勝海舟と西郷隆盛の会見は、三田の海岸沿いにあった蔵屋敷が使われたそうです 【つづく】 人気ブログランキングへ 港区を歩く(その1) 田町駅界隈
2021年01月21日
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新型コロナウイルスの感染を避けるためには、会食を控えるようにと言われています。 家族連れでファミレスや回転ずしに行くのも、例えば、お父さんが会社の洗面所のカランに触れてウイルスに感染しているのかもしれませんから、やっぱり危険です。 また、人によってはどうしても外食しなければならない人もいるでしょう。そういう時のために新型コロナウイルスの感染予防にお薦めなのが、孤独のグルメです。 MoMo太郎も夜勤明けの朝食は、ひとりで黙々と立ち食い蕎麦屋「ゆで太郎」の朝食カレーセット(380円税込み)で済ませました。 カレールーの追加ができるクボーン券を持っていたので、カレールーを追加しています。 やっぱり、蕎麦屋のカレーということで、ちょっとマイルドな味わいです。辛いのが好きな方は蕎麦の中に載せた赤い色のスパイス、唐辛子、山椒、黒ごま等をごま油で練った「赤鬼」という辛味調味料を使ってください。 カレーより数倍辛くて、寝ぼけていた脳みそが、一気に目を覚ましました。 人気ブログランキング 孤独のグルメ 朝からカレーと「赤鬼」
2021年01月20日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。ちょっと古めかしいコンクリートの門柱と小屋。ここへ戦争中、柏市にあった高射砲第二連隊の営門と歩哨所が移設され、保存されています。実際、千葉県柏市は軍都の町でした。首都防備計画の一環として1938年に柏飛行場ができ、その防空を担当する高射砲部隊があったということです。考えてみれば、千葉県って今でも軍事関係の施設や部隊がありますね。この近くには海上自衛隊の下総航空基地(→→→こちら)や陸上自衛隊の習志野駐屯地(→→→こちら)などがありますね。また、今の新京成電鉄の路線も旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した軌道敷を利用したものだそうですね。移設されたのはこの児童公園で、ここで遊ぶ子供たちが将来、戦争に巻き込まれないことを願います。富勢冨士見坂という道路を進んでいきます。むかしは、ここから富士山が見えたのかもしれませんね。この坂を下って、再びここに戻ってきました。「松ヶ崎城跡」(→→→こちら)です。やっぱり柏市って大昔から軍都だったんですね。松ヶ崎城跡のある丘陵をまた上ります。松ヶ崎湧水(→→→こちら)があります。環境省の千葉県の代表的な湧水としてホームページに紹介されている湧水です。わずかですが湧水があるようでした。その湧水の上にあった屋根付きのお地蔵様です。松ヶ崎湧水の後、今回の駅からハイキングのコースはこの北柏駅で終わりです。北柏駅、もともとは貨物駅として開業したようですが、周辺が宅地開発されたこともあって旅客駅も併設されたそうです。そのため無理矢理、駅を造ったせいかホームがカーブしていました。柏市、意外と興味深い町だとわかりました。【了】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その6) 軍都だった柏市
2021年01月19日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。県道7号線我孫子関宿線沿いにある長泉寺(ちょうせんじ)が次の目的地になります。ぼけ封じ関東三十三観音霊場第七番札所というのがご利益ありそうでいいですね。駐車場完備でお参りにも便利そう。山門です。真言宗豊山派大非山長泉寺というのですね。境内です。お寺の解説がありました。このお寺、山伏堂(修験者の道場)であったのを宝暦11年(1761)に流山東福寺の末寺として開山し、1800年代中期に庫裏と本堂を改修して、明治時代には仮設学校として利用された歴史をもっているそうです。ボケ封じにいいそうなので、しっかりお参りさせていただきました。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その5) ぼけ封じの長泉寺
2021年01月18日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。東京の駅からハイキングのコースでは見かけませんでしたが、千葉県の駅からハイキングでは、このようなコース案内図がありました。矢印に従って、進んでいきました。広い畑が広がっていました。カブが栽培されていました。次の目的地のお寺に到着。花井山(かせいざん)大洞院(だいどういん)という曹洞宗のお寺だそうです(→→→こちら)。慶長元年(1596)に曹洞宗の鷹山舜岳大和尚が開山した歴史あるお寺ですが、大洞院のあった場所からは、鎌倉・室町時代(14世紀)の武蔵型板碑が多数出土しているそうで、板碑は、石の板に彫った卒塔婆状の供養塔で、その彫刻文字から、この時代の大洞院は天台宗寺院であったと思われるそうです。境内の端っこに「無邊洞」と刻まれたちょっと古い石碑が設置されていました。石碑のそばに説明板がありました。この「無邊洞の碑」は、長野出身で大久保利通に認められ伊藤博文内閣の大蔵大臣を務めるなどの功績のあった渡辺国武子爵の自宅に建立されていたもので、平成26年にこちらに移設されたそうです。こちらが本堂。このお寺は、本堂を用いたコンサート(寺コン)、ギャラリーを開放しての作品展、歴史研究会、小仏彫刻教室、書道教室、華道教室などの文化活動も活発に行っているそうです。ご住職のお考えなんでしょうね。扁額は新しいような感じですね。このイチョウの大木、樹齢450年以上といわれているそうです。【追伸】1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大災害「阪神淡路大震災」から26年。MoMo太郎個人としては、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による「東日本大震災」より、大都市の鉄道や道路の崩壊など、今まで安全だと信じていた土木構造物や建物が大きな被害を受けたという点で、強い印象が残っています。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その4) 花井山大洞院
2021年01月17日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。次に訪れたのは、歴史を感じさせる日本家屋のある公園です。国指定重要文化財 旧吉田家住宅(→→→こちら)です。旧吉田家住宅は、名主であった吉田家の豪農ぶりが分かる江戸時代末期築造の邸宅ですね。屋敷前は広大な芝生広場となって、旧吉田家住宅歴史公園として整備されています。こちらは長屋門、25mに及ぶ大きな門です。これだけも吉田家の羽振りの良さが想像できます。ちなみに、長屋門とは、江戸時代,武家屋敷で敷地の周囲に家臣を住まわせる長屋を建て,その建物の一部に扉をつけて門としたもので、裕福な農家にも見られたものだそうです。こちらは、茅葺屋根の重厚な作りの主屋。主屋の中です。土間で煮炊きがされていたのでしょうね。土間の天井です。大きな梁と丸太が交差して、頑丈そうでした。掛け軸など飾ってお客さん用の座敷でしょうか。豪農というだけあって、部屋にエアコンも完備。広くて、樹木も植えられ、なかなかの風情ある庭園です。この吉田家は主に農業を営みながら名主として栄えた家で、幕府や領主の命に従い村内の諸事全般を取り仕切っていたそうです。また、江戸時代中期頃からは金融や穀物売買等の事業を開始し、地域の特産となる醤油醸造業も手がけていたそうです、その上、文政9年(1826)には、.幕府直轄の牧(幕府の軍馬育成場)の一つ「小金牧」の目付け牧士(管理人で士分になる)に任命され、以降4代にわたり牧の管理に携わっていたそうです。明治から昭和にかけてはその財力を活かし、吉田家は醤油醸造のほかに、乗合自動車や北総鉄道の開発などさまざまな分野に進出していたそうです。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その3) 旧吉田家住宅歴史公園
2021年01月16日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。この階段になった道を登って台地の上に行くと。木立の中に、柏市指定文化財「松ヶ崎城跡」(→→→こちら)があります。建設された時期は定かではありませんが、15世紀後半から16世紀前半の中世城跡です。平成14~15年度に遺跡の範囲や内容を確認する目的で発掘調査が実施され、遺構が当時のまま良い状態で残っていることがわかったそうです。こちらは城郭を守る、堀の跡です。こちらの盛り上がったところは、物見台だそうです。さらに城内にはこのようなこのような盛り土がありますが、これは古墳をそのまま利用していたようです。城跡からは北柏の街並みが見下ろせます。眼下の半円形の平場は、腰曲輪だそうです。17世紀の江戸時代初期までは手賀沼から香取まで内海が広がり、その水辺に位置していた松ヶ崎城は交通の要所を押さえる城だったようですが、どのような武将の城だったかはよくわからないようです。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その2) 松ヶ崎城跡
2021年01月15日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。今回のスタートは常磐線の柏駅からです。柏というと、この建物の中にあった「柏そごう」。「柏そごう」が出来たことで、なんか賑やかな街へ柏市が変貌していった記憶がありましたが、今はその「柏そごう」は閉店しています。駅の西口にある高島屋はまだ頑張っています。その前を抜けて。国道6号線(水戸街道)に出てます。そして、この国道16号線に沿って北上します。16号線は横須賀から横浜市、東京都町田市、神奈川県相模原市、東京都八王子市、埼玉県川越市、さいたま市、千葉県柏市、千葉市から木更津市に至る道路で、東京を取り囲むような道路です。むかし、千葉県在住の知人から「16号線の内側は都会で外側は田舎なんだ」と言われました。さらに進むと、この川がありました。大堀川という川です。大堀川は柏市内を流れて手賀沼に注ぐ河川で、その沿岸に沿った遊歩道を歩いていきます。大堀川リバーサイドウォークには桜並木が整備されていますが、その桜は里親という方々に植えられたようです。リバーサイドウォークに変わった建物が。地下に入っていくような構造です。大堀川リバーサイドウォークの地下には利根川の水を江戸川へ導水する「北千葉導水路」(→→→こちら)という管水路が埋設されています。その管水路の点検などに降りるための施設だと思われます。北千葉導水路は、利根川の水を江戸川に運ぶことで東京都民の水を確保しているとともに、利根川のきれいな水を手賀沼に逆送して手賀沼の水を希釈してきれいにしている施設です。東京って、千葉県や埼玉県に頼って成り立っているってことが改めてわかりました。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その1) 大堀川リバーサイドウォーク
2021年01月14日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告の番外編です。折角天空橋駅までやって来たので、近くにある大鳥居(→→→こちら)まで行ってみました。鳥居にある「平和」の文字。この鳥居の歴史に関係ありそうですね。氏神として、鈴木弥五右衛門という名前がありますが、天明年間(1781年から1789年)に、このあたりを干拓により新田開発を行った羽田猟師町の名主の名前です。この大鳥居の歴史が記されています。元々は、今の羽田空港のあるあたりにあった穴守稲荷神社に奉納された鳥居でしたが、1945年の終戦後に羽田空港を建設するためGHQによって強制移転させられることになり、この大鳥居を壊す工事が始まりました。しかし、工事に従事していた作業員が二度も鳥居のてっぺんから足をすべらせて落ち、米兵も機械に挟まれて亡くなるなど、工事関係者が相次いで不慮の事故が起きたので鳥居の撤去工事が中止され、その後は、放置された状態でした。昭和五十九年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害とならことから、撤去を余儀なくされることとなりました。しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成十一年二月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。そんな戦争にも関係する歴史から平和の大鳥居と呼ばれているのでしょうね。むかし、ここに人が住んでいたことを紹介する仮の掲示板もありました。大鳥居のある場所から見える多摩川の河口です。なんかやっぱり平和っていいですね。人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(番外編) 大鳥居
2021年01月13日
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十日戎はも毎年1月9日から3日間行われ、9日を宵戎(よいえびす)、10日を本戎(ほんえびす)、11日を残り福といいます。これは主に大阪では知られた行事ですが、西宮神社は、十日戎の早朝に行われる「福男選び」は報道もされるので、知っている人も多いと思いますが、これも十日戎の伝統的な行事の一つです。ということで、日本橋本町にある「寶田恵比寿神社」(→→→こちら)に残り福をもらいに1月11日にお参りしてきました。どちらかというと、ここは毎年10月19・20日のべったら市と恵比寿講の方が賑わいますね。関西の今宮戎にいくと「商売繁盛で笹もってこい♪」というお囃子で有名です。やっぱり東京ではこんなことないですかね。この寶田恵比寿神社の近くにあるのが「於竹大日如来井戸跡」(→→→こちら)です。於竹さんという女中さんが大日如来の化身ということで、みんなから拝まれるようになったということのようです。その於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあったそうです。人気ブログランキング商売繁盛で笹もってこい♪ 残り福をいただきました
2021年01月12日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。東京都下水道局の羽田ポンプ所(→→→こちら)です。下水道管には傾斜がついていて自然に下流側へ流れますが、深くなっていくと下水道管の設置が難しくなるので、このポンプ所で下水を地表近くまでくみ上げ、再び自然流下させているそうです。そして、下水を浄化する水再生センターに送られます。また、大雨の時など、下水道管に流れ込んだ雨水をに川や海に放流する役目もあるそうです。穴守橋という橋を渡ります。親柱の装飾にデルタ翼(三角翼)の飛行機が付いているのは、妙に懐かしい感じがしました。欄干には飛行機の歴史を紹介するパネルが展示されていました。「日本の航空機の父」二宮忠八(→→→こちら)の玉虫型飛行器ですこちらはあのゼロ戦ですね。正式には「零式艦上戦闘機」というのですね。つまり空母に載せる飛行機だったんですね。穴守橋の架かる「海老取川」です。水上バイクで川を疾走するグルーブがいました。そして、東京モノレールも見えますね。そして、飛行機。羽田空港の傍まで来たのです。やったー!ここがゴールの東京モノレール天空橋駅です。【了】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その10) 飛行機が見える橋
2021年01月11日
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今年は新型コロナウイルス感染拡大による非常事態宣言で成人式が中止なっているそうですね。中学校の頃、ちょっと気になっていた可愛かった女の子の晴れ着姿を見るのを楽しみにしていた今年の新成人男子の皆さんには、ちょっと残念なことかもしれません。MoMo太郎が市長なら、そういう残念な思いをしている男子のために、コロナが収束していそうな、夏のお盆の頃に成人式を開催して、新成人男子の票固めにつなげたいと思います。さて、2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。赤い鳥居があるのは「穴守稲荷神社」(→→→こちら)です。こちらが拝殿です。「穴守」の冠号は「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う」という御神徳を称えているそうです。穴守稲荷神社は、1804(文化元)年頃、現在の羽田空港敷地内にて羽田猟師町(現羽田2丁目・6丁目付近)の名主、鈴木弥五右衛門が中心となり新田の開発(鈴木新田)を行った際、激しい波のため沿岸の堤防に大穴が開くなどして決壊し、甚大な被害が発生したため、堤防の上に稲荷大神を勧請し祀ったのが始まりだそうで、堤防の穴から田畑を守るということに通じるのですね。終戦直後GHQが羽田空港を拡張すべく、海老取川の東、今の天空橋駅付近にあった旧社地を接収したため、氏子であった約3,000人の付近住民とともに鎮座地を追われ現在の場所に遷座したという歴史を持っています。ということは、穴守稲荷神社、氏子や氏子地域を持っていない神社ということ?氏子地域がなくなって、氏子の人も減ったとしても、こんなに立派な神社として栄えているのは、江戸時代には、この「穴守」という名から転じ「(性病から)守る」に通ずるとされ、遊女達の信仰も集めていたそうなので、今でも、そういう関係の人や、穴を掘ったり塞いだりする仕事をしている人達がここへ参拝されているのでしょうか。千本鳥居の後ろに見える山のようなものは、2020年4月19日に完成した「稲荷山」だそうです。こちらの千本鳥居も鮮やかで、最近できたものなんでしょうね。千本鳥居の奥に鎮座するのが「奥之宮」です。この中には商売繁盛にご利益乗る「穴守のご神砂」が置いてあり、持って帰ることができます。稲荷山の階段を登っていきます。拝殿や本殿の屋根が見下ろせます。本殿の後ろに鎮座する祠。山頂には穴守稲荷神社上社と、御嶽神社が鎮座しています。穴守稲荷神社のまわり、モダンなビジネス街の雰囲気ですね。ちなみにちょっと見えている広い道は環八です。さて、神社を出て羽田空港の方へ、しかし、この稲荷山、案外大きいですね。【つづく】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その9) 穴守稲荷神社
2021年01月10日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。羽田空港へ向かって歩いて行くと、また神社が。羽田道と刻まれた石柱。その側面には、羽田道の説明がありました。昔はこの道を通って魚が運ばれていたのですね。そしてこのあたり、漁村だったんですね。そしてこの神社が鴎(カモメ)稲荷神社です。カモメが奉られている稲荷神社?「鴎」という冠号の由来は、その昔、漁師たちが祈願すると鴎(かもめ)が飛来し大漁であったと云うことから、鴎を大漁の兆しとして崇め、以後「鴎稲荷」と呼ばれるようになった。ということだそうです。都営浅草線の新型車両「5500型」(→→→こちら)が走っていますが、これは京浜急行空港線です。この線路を越えて、羽田空港に近いせいでしょうか、ビジネスホテルがありました。ちょっと昭和っぽい感じですね。そして、再び赤い鳥居が現れました。【つづく】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その8) 鴎稲荷神社
2021年01月09日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。羽田空港のある東に向かって歩いて、産業道路に出ました。産業道路に面して立派な山門のあるお寺がありました。門前にあった羽田街道の石碑。内川橋際(大森東二丁目2番先)で東海道から分かれて、川崎大師(平間寺)まで行く道が羽田街道だったのでしょうか。お寺の名前は「喜修山正蔵院」(→→→こちら)です。その正蔵院の近くに、大きな神社がありました。羽田総鎮守の羽田神社(→→→こちら)です。夏の例大祭で使われるお神輿です。立派な拝殿です。羽田と言うからには、羽田空港も氏子に入ってるのでしょうか。空の安全もお祈りしてみました。今から約800年程前、当地の領主・行方与次郎が牛頭天王を祀ったことに始まると伝わる神社です。産業道路を越えて、さらに東に進むと、首都高速の横羽線の高架橋が見えてきました。【つづく】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その7) 羽田神社
2021年01月08日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。ちなみに今週末から始まる予定だった駅からハイキング、緊急事態宣言を考慮して中止となっているようで、ちょっとガッカリしています。多摩川の土手を歩いていきます。このあたりの地名「本羽田」というのですね。「羽田」という地名、翼のある飛行機が飛ぶ飛行場ができたから付けた名前ではなく。「羽田」という地名は、以下のような由来で、 地形説 - 多摩川河口で海に接する地を「ハネ」という。 地名説 - 古代の荏原郡に特に多い田のつく地名。 半田説 - 方言で半分のことを「はんだ」ということから。 地形説 - 海老取川を境に2分され、その形が海上から見ると鳥が羽を広げたよう見えることから。 土質説 - 赤土・粘土地などの「はに」に由来する。 開墾地説 - 新開地・墾田を「はりた」というが、その転訛。付けられたのだとか。歴史ある地名だったんですね。そして、ここから神社巡りが。この神社、重幸(じゅうこう)稲荷神社(→→→こちら)です。多摩川の洪水に悩まされていたこのあたりの大野上田の住人達が、旧六郷土堤際に、田畑の守護と五穀豊穣を祈願して祀った神社だそうで、この神社の管理に尽力した家亀重幸氏が社名の由来だそうです。今流行の町中華のお店です。町中華というと、BS-TBSの「町中華で飲ろうぜ」(→→→こちら)を観ていますが、そこに出てくる町の中華料理屋さんって、大抵、「店主は18歳の時に山梨県から出てきて、銀座の中華の名店で修行して、32歳の時に結婚を機に独立してこの店をはじめて、以来、シュウマイの旨い店として地元の人に愛されて25年」みたいな歴史が語られていますね。このお店にもそんなファミリーヒストリーがあるのかもしれませんね。こちらの集合住宅。ちょっと変わった名前、「工場アパート」(→→→こちら)。工場と住宅が一体となった施設だそうです。こちらの神社は「中村天祖神社」(→→→こちら)です。江戸時代に祀られたとみられる旧羽田村・中村の鎮守だそうで、立派な社殿です。しかし、本命はこちらの高山稲荷神社(→→→こちら)です。「高山」の冠称は、遷座前の社殿が飛騨高山より来た大工によって造営された事にちなむのだとか。この大きな土地と建物は、「東京都立つばさ総合高等学校」です。2002年、東京都立羽田高等学校と東京都立羽田工業高等学校の全日制課程を統合して開校したそうです。【つづく】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その6) 稲荷神社めぐり
2021年01月07日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。水門通り商店街を抜けると、静かな公園に出ました。「南六郷緑地」というそうです。橋の欄干にあるこのマーク、「豪郷」の文字が図案化されて、地元の町のマークだそうです。さらに進むと、舟だまりとなって船が係留されていました。六郷水門(→→こちら)の先にある多摩川を通って東京湾に出かけられますね。釣り客の人がむ利用する遊漁船でした。イラストにあるようにハゼが釣れるのですね。六郷水門と赤レンガのポンプ場。歴史を感じます。六郷水門は国土交通省の「近代土木遺産リスト」に登録されていて、また、(社)土木学会の「日本の近代土木遺産」にも選ばれているそうです。六郷水門は、昭和に入り、六郷地区の住宅化が進み、流出する生活用水が増し、大降雨時など排水しきれずに浸水する地域が拡がったため、かってこのあたりの農地を灌漑していた六郷用水(→→→こちら)の末流、池上・矢口・羽田の一部と六郷の全域の排水を受け持つため、昭和6年(1931年)に完成した水門です。今日では、下水道の完備によってその使命を終えているそうです。重厚な堰柱です。多摩川です。こちらは六郷水門から下流側、対岸は川崎の工業地帯ですね。河口から4kmの地点でした。【つづく】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その5) 六郷水門
2021年01月06日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。 雑色駅の西側を走る第一京浜(国道15号線)です。 40年前のお正月、母校の襷を背負って、この道を駆け抜けていった、MoMo太郎の姿をみなさん覚えているでしょうか(ウソをつきました申し訳ありません<(_ _)>)。 第一京浜を過ぎると、また商店街が。 水門通り商店街(→→→こちら)です。 商店街から見えた煙突。 昔ながらの銭湯という風情がありました。 ちなみに大田区民だと、 毎月第1日曜は、「子ども入浴デー」ということで、区内在住の小学生以下のお子さんは、毎月第1日曜は区内の公衆浴場に無料で入浴できます(→→→こちら)。 また、70歳以上の区民の方は、「いきいき高齢者入浴証」を区内の公衆浴場で呈示すると、1回200円で年間36回(2カ月で6回まで)利用できます(→→→こちら)。 【つづく】 人気ブログランキングへ 蒲田から羽田へ(その4) 水門通り商店街
2021年01月05日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。 こちらの商店街に出ました、結構大きな商店街です。 何と読むのでしょうか。 アーケド街もあって、その上に読み方が。 「雑色」と書いて「ぞうしき」と読むそうです。 雑色(→→→こちら)とは、古代律令国家時代から、宮中の雑役などをする役目の人のことを呼んでいましたが、どうしてこのあたりの地名が雑色となったのかは、よくわかりません。宮中、つまり天皇のまわりの雑用をしていた人たちが、明治維新で京都から東京に天皇が移られた時に、こちらに移り住んだのでしょうか。 こちらは京浜急行の高架橋です。 2010年(平成22年)5月16日 - 上りホームを高架線へ切り替えられ、2012年(平成24年)10月21日 - 下りホームを高架線へ切り替えられたので、比較的新しいですね。 こちらが京急の雑色駅の改札口。京急の駅にはセブンイレブンがあるのですね。 「ぞうしき」なので象のキャラクター? 雑色商店街、お店の数も多くて、とても便利なところですね。 【つづく】 人気ブログランキングへ 蒲田から羽田へ(その3) 雑色商店街
2021年01月04日
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2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。JR京浜東北線沿いにさらに歩いていくと、「西六郷タイヤ公園」(→→→こちら)にやって来ました。この公園、線路沿いにあるので、京浜東北線を利用している乗客の皆さんにはお馴染みかも。テレビなんかでもよく取り上げられているので、ご存知の方も多いかもしれませんが、とにかく古タイヤが沢山あって、それを使った遊具があったり、タイヤでできた怪獣もあり、きっと子供達には人気の公園でしょうね。西六郷公園のすぐ近くにある跨線橋を渡って、線路の東側へ。東海道線、京浜東北線の線路です。むこうは川崎方面。【つづく】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その2) 西六郷タイヤ公園
2021年01月03日
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年が改まっても、去年の駅からハイキングのことをアップしています。かなり、駅からハイキング沼にはまり込んで、2021年も参加したいと思っています。2020年11月8日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して蒲田から羽田を歩いた報告です。出発はここJR蒲田駅西口。JRの主催するイベントだけど東急の池上線や多摩川線も蒲田に来ているので、東急を利用して来た人も多かったりして。蒲田駅の駅ビル、なかなか立派です。西口の駅前にある銅像です。男の子、おそらくお兄さんでしょうか、に掴まって一緒に入る女の子、おそらく妹さんでしょか、なんか兄妹仲良くて良かったです。駅から南へ向かって線路沿いに歩いて、富士通の事業所がありました。そして、すぐそばにJR東日本の大田運輸区への引き込み線の踏切がありました。京浜東北線が大田運輸区に入って行きます。この先が大田運輸区、むかしは蒲田電車区と呼んでいて、車両が配置される車両基地でしたが、今は運転士さんや車掌さんが勤務する運輸区になっています。京浜東北線の車両は南浦和として。つまりここで電車に乗り込んで、始発駅に向かい、終着駅から戻ってくるところです。運転士さんや車掌さんは、蒲田駅から歩いて、ここまで通勤しているのですかね。ちなみに、松本清張の「砂の器」の事件現場だった国鉄蒲田操車場はここのことです。まだ運輸区に付属するこの建物、駅社員に安全教育・訓練を行うための蒲田トレーニングセンターです。ここでホームから落っことしたワイヤレスイヤホンの拾い方も練習していたりして。駅の発車メロディーになる蒲田のご当地ソング「蒲田行進曲」のオリジナルバージョンです。なんといっても昭和4年(1929)の音源ですから。そういえば、観てはいませんが「蒲田行進曲」(1982年、監督・深作欣二)という映画もありましたね。【つづく】人気ブログランキングへ蒲田から羽田へ(その1) 蒲田行進曲
2021年01月02日
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あけましておめでとうございます。昨年は新型コロナウイルスの流行で大変な一年でしたが、年も改まり、また平穏な日々が皆様に戻ってくるを祈念いたします。人気ブログランキング新年おめでとうございます。
2021年01月01日
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