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日比谷通り面して建つこのホテル。日本を代表するこの高級ホテルも、栄ちゃんらを発起人として明治23年(1890)に開業しています。東京都区部(東京23区)に事業所をおく企業・団体で運営されている東京商工会議所。この中にも栄ちゃんの銅像が設置されています。明治11年(1878)、東京商法会議所として設立された東京商工会議所ですが。初代会頭i、つまりお頭(カシラ)として商工業者のグループをまとめたのが栄ちゃんです。これは東京商工会議所のロビーに設置されていた栄ちゃんを紹介するパネルです。日本の金融・経済の発展の為に尽くした栄ちゃん、まさに日本の資本主義を育ててくれた父でした。【了】人気ブログランキング青天を衝け(その6) 商工業者のお頭(カシラ)は渋沢栄一
2021年05月31日
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日本橋兜町にあるこちらの建物、古典様式風の三層構成、入口と最上階のアーチ窓の対比など、優れた外観意匠となっています。この建物は、日証館ビルと呼ばれています。元々は、栄ちゃんの邸宅兼事務所だった建物があったのですが、関東大震災により無くなったので、その跡地に東京株式取引所(この創業にも栄ちゃんが参加していた)が昭和3年(1928)にこの建物を建設しました。当初は東株ビルディング、昭和18年(1943)の日本証券取引所設立後は日証館と呼ばれています。平和不動産(→→→こちら)が昭和22年(1947)の創立以来このビルを保有し、本店を置いているそうです。ちなみに平和不動産とは証券取引所設備の賃貸を軸にする不動産会社だそうです。こちらの建物は、みずほ銀行兜町支店ですが、実はこの銘板にある「銀行発祥の地」に建つ歴史の重みのある土地に建っているのです。日本初の商業銀行であり株式会社でもある「第一国立銀行」(みずほ銀行の前身)は、明治6年(1873)に栄ちゃんにより、ここに設立されました。建物の壁面には、現在に至るまでの建物の変遷を紹介するパネルが設置されています。その他にも、栄ちゃんは、兜町に明治11年(1878)、東京株式取引所(現東京証券取引所)を設立し、日本経済・金融の礎を築くために大活躍したのでした。【つづく】人気ブログランキング青天を衝け(その5) 兜町の渋沢栄一
2021年05月30日
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栄ちゃんの銅像、結構あるみたいですね。こちらは中央区日本橋と千代田区大手町を間を流れる日本橋川に架かる常盤橋のたもとにある常盤橋公園にも立派な栄ちゃんの銅像が建立されています。渋沢青淵翁記念会が設立され、昭和8年(1933)に銅像が建立されたそうですが、その銅像は第二次世界大戦中の金属供出で撤去されて、昭和30年(1955)に再建されたそうです。ちなみに、銅像が建てられている常盤橋公園は、江戸城の常盤橋門があったところです。そして、その常盤橋門から日本橋川を渡る人道橋が常磐橋と呼ばれています。この常磐橋は東日本大震災で被災し、今年の5月10日に修復工事が終わり通行が可能となりました(ちなみにMoMo太郎がここを訪れたのはゴールデンウィークの最中の4月30日だったので、常磐橋を通行していません)。さらに遡ると、この常磐橋は関東大震災でも被災し、今の常盤橋が架け替えられた経緯がありますが、それに加えて常磐橋の復元の音頭をとったのは栄ちゃんだそうです。そういうこともあって、ここに栄ちゃんの銅像が出来たのだと聞いていますが。銅像の脇にある碑文は結構細かく記載されています。青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。 昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社栄ちゃん、会社の設立だけでなく、生活困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として養育院を作ったり(発案は当時の東京府知事だったのかもしれませんが)、一橋大学や日本女子大学の設立にも関わったとは、なかなか手広く仕事していますね。【つづく】人気ブログランキング青天を衝け(その4) 常盤橋公園の渋沢栄一像
2021年05月29日
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江東区永代二丁目にある、この大きなビル。 そのビルの前にある広場には、 この石碑が建立されています。 碑文には、以下のように栄ちゃんのことが記されています。澁澤倉庫発祥の地 「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・ 保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」 日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、 明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。 この地は、澁澤倉庫発祥の地である。 渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の 他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。 この藍玉の商いをするときに使用した記章が (ちぎり・りうご)であった。 明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として 組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も 「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。 澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。 平成十六年四月吉日 澁澤倉庫株式会社 このビルの入口です。 澁澤シティプレイス永代という名前のビルです。 ロビーの中には、栄ちゃんの胸像がありました。 そして、こちらには江東区の設置した看板もありました。 看板には以下のように記されていました。江東区登録史跡 渋沢栄一宅跡 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。 栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。 栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。 平成21年3月 江東区教育委員会 栄ちゃん、江東区にも住んでいたのですね。 【つづく】 【これ余談なんですけど・・・深キョンはどちらを受診しているのか、精神科 or 心療内科?】 深田恭子「適応障害」で7月期フジテレビ連ドラ降板 ホリプロが発表「治療を優先」(→→→ こちら) 適応障害かどうかわかりませんが、MoMo太郎も心が折れそうになる時もあるので、そういう時は、精神科と心療内科、どちらの先生を受診して治療を受ければいいのでしょうか。 人気ブログランキング 青天を衝け(その3) 江東区の渋沢栄一宅跡
2021年05月28日
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栄ちゃんのお宅があった飛鳥山。その自宅建物が国指定重要文化財となって残っています。 この建物は「青淵文庫(せいえんぶんこ)」 栄ちゃんの傘寿(80 歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、大正14年(1925)に竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄ー記念財団)が贈呈したそうです。文庫ということで栄ちゃんの蔵書なんかも保管されていたんでしょうね。 また、「青淵」というのは、栄ちゃんの号だそうで、栄ちゃんによれば 青淵と云ふ私の号は、私が十八歳頃、藍香先生 [渋沢栄一の従兄・学問の師の尾高惇忠] から附けて貰った。当時私の家の下に淵があって、その関係から私の家を淵上小屋と名附けていた。それから青淵と云ふ号が出来たのである。ということです。 こちらは「晩香廬(ばんこうろう)」 栄ちゃんが喜寿(77歳)を迎えた時に、清水組(現在の清水建設株式会社)から贈呈された洋風茶室だそうです。 晩香廬の名は「バンガロー(bungalow)」の駄洒落ではなく、「題晩香廬壁」という渋沢翁自作の漢詩から命名されたそうで、主に国内外の賓客を迎える接待・接客の場として使用されていたそうです。 しかし、栄ちゃん、よく人から贈物をもらっていたんですね。今こんなことやったら、国民から大バッシング受けたかもしれませんね。 こちらは大河ドラマを当て込んだおみやげ屋さん。商魂たくましいのは栄ちゃんの教えを守っていますね。 そのおみやげ屋さんに描かれていた栄ちゃんとそのお友達のイラスト。 こちらは公園の中にあった、栄ちゃんの銅像。明治34年(1901)に還暦を祝して兜町にあった第一銀行の中庭に建立されたのち、ここに移されたそうです。 なかなかオシャレな栄ちゃん、でもドラマに出てくる俳優さんとはかなり違いますね。 【つづく】 【今日の疑問】 新型コロナウイルスワクチン接種する人は防護服とか着ていた方がいいんでしょうか。スクラブや白衣は着ていた方がいいとは思うのですが。それ以前に接種者はワクチン接種済みなんでしょうか? 人気ブログランキング 青天を衝け(その2) 渋沢栄一のお宅訪問
2021年05月27日
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やっぱりNHKの大河ドラマに関連して一儲けという自治体って多いんですね。こちらは北区王子にある北区役所です。垂れ幕で「大河ドラマ館 飛鳥山に開館」とPRしていますね。今年のNHKの大河ドラマは「青天を衝け」(→→→こちら)。主人公は日本資本主義の父といわれる渋沢栄一。以下、親しみを込めて「栄ちゃん」と呼びます。明治8年(1875)に、栄ちゃんが設立に尽力した抄紙会社(後の王子製紙会社)の王子工場が操業を開始し、その数年後、同社の工場を操業後も見守り続けたいという思いなどから、飛鳥山に別荘を建設したそうです。そして、 明治34年(1901)、栄ちゃんは別荘として使用してきた飛鳥山邸を本邸とし、亡くなるまでの生涯を飛鳥山で過ごしたそうです。そんな栄ちゃんとかかわりから、今回の大河ドラマにちなんで、飛鳥山公園に大河ドラマ館を作ったようです。ということで、飛鳥山モノレール(あすかパークレール)「アスカルゴ」に乗って飛鳥山公園(標高25.4メートル)に登ってみました。飛鳥山に登るとこんな看板が、栄ちゃん関連の施設が結構あるんですね。 こちらが「渋沢×北区 青天を衝け大河ドラマ館」(→→→こちら)です。新たに大河ドラマ館を作ったわけではなく、ここにあった飛鳥山博物館の一角を改装して大河ドラマ館を設置したようですね。でもさざなみで医療が転覆しそうな日本で青天を衝くことはできるのでしょうか。【つづく】人気ブログランキング青天を衝け(その1) 渋沢栄一で盛り上げよう北区飛鳥山公園
2021年05月26日
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小田原城を離れて近くの市街地を歩いてみました。小田原城の南側にある「小田原種秀」という商店です。取り扱い商品は「もなかの皮」だそうです。ということは小田原の人は、皮だけ買って帰って、自分の好みで、餡子、アイスクリーム、ジャムなどを皮の中に入れて食べるのでしょうか、或いはお味噌汁の具に使ったり?こちらは「ういろう」というお店。つまり、米粉の蒸し菓子の外郎(ういろう)のお店ですが、元々薬屋さんだったそうで、薬局も兼ねて胃薬なんかも売っていました。また外郎博物館も併設していて、「ういろう」の名の由来、お菓子と薬の起源、歌舞伎十八番「外郎売」との 関係などを、紹介しているそうです。こちらの建物は小田原の古くからの産業文化を紹介する街かど博物館(→→→こちら)の一つで、済生堂薬局小西本店というお店で薬博物館として薬研や秤、明治・大正時代のお店の写真などを展示しているそうです。こちらは「小田原宿なりわい交流館」という施設で、昭和7年に建設された旧網問屋を改装して観光案内所や観光客の休憩のために利用しているそうです(→→→こちら)。こちらは小田原城の東側にある大手門の跡だそうで、今は鐘楼として時刻を知らせる鐘を打っているそうです。小田原駅前に戻ってきて、おしゃれ横丁という道幅の狭い商店街にやって来ました。この商店街の中に北条氏政・氏照の墓所がありました。小田原攻めで豊臣秀吉に敗れた北条氏政と氏照の兄弟の遺体がここに葬られたということですね。お墓を思わせる五輪塔が3基ありますが、氏政と氏照、そしてもう一人は?誰なのでしょうか。はじめてきた小田原城とその周辺、なかなか興味深いところでした。また、箱根なんかも含めて、ゆっくり見物したいと思いながら、小田急の特急で帰りました。【了】人気ブログランキング春の小田原城へ行ってみました(その7) 古い建物と北条氏政・氏照の墓所
2021年05月25日
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以徳報徳、徳をもって徳に報いる、報徳の教えを学ぶため、小田原城にある報徳二宮神社に参拝しました。二宮尊徳(たかのり)は諱であり、本名は二宮金次郎、また一般には「たかのり」ではなく「そんとく」として定着しているそうです。この銅像は二宮尊徳翁像で兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家 南部祥雲氏に依頼作成された「二宮尊徳翁立像」10体の内1体で、平成21年11月23日に、前報徳学園理事長 故 大谷勇様より寄贈されたものだそうです。銅像の横にある説明ですが、「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」。確かにそうですね。神社に参拝します。入口の大鳥居は木製でしたが、こちらの鳥居は銅製でした。若い頃の二宮金次郎は小田原藩の家老、服部十郎兵衛に仕えていて、その時、薪を節約するために釜についた煤で熱の伝導効率が悪くなるからといって煤を削ったそうです。こちらが社殿です。古い木造建築ですね。明治42年(1909)に建てられたそうです。こちらは、小田原城の本丸に近い出入口になります。【つづく】人気ブログランキング春の小田原城へ行ってみました(その6) 報徳二宮神社
2021年05月24日
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天守閣に登りました。見下ろすと、コスプレイヤーの方が写真撮影を。この天守閣、昭和35年(1960)に小田原市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興されたそうです。江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を基に復元されたそうなので、4階建ての建物でありながら、エレベーターが設置されていません。車いすに乗ったコラムニストの伊是名夏子さんは勿論、足の弱いお年寄りは天守閣に入るなということで、バリアフリーにはほど遠いですね。でも伊是名氏なら、ここで働く観光協会の人に4人掛かりで車いすを抱えて持ち上げろというのでしょうね。多分。こちらは天守閣の最上階から西側の眺めです。こちらは南側、海に突き出た伊豆半島が微かに見えました。こちらは東側の相模湾。北側に見える小田原駅です。中央に見える尖った頂上の山は、多分、大山(→→→こちら)だと思います。【つづく】人気ブログランキング春の小田原城へ行ってみました(その5) 天守閣に登る
2021年05月23日
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いよいよ本丸に突入です。その前に、こちらのNINJA館(歴史見聞館)に立ち寄る人も多いでしょうね。北条氏と関わりのあった風魔忍者について学べる施設です(WEBによる事前予約制だとか)。この階段を登ると、いよいよ本丸のようです。桜とツツジのコラボですね。眼下には菖蒲園がありました。この常盤木門(ときわぎもん)を抜けると本丸です。ちなみにこの門は昭和46年(1971)に復元されたそうです。こちらが本丸跡、正面に見えるのが、天守閣です。本丸には、何故かニホンザルの檻がありました。ここにいるサルたちは、「お猿のかごや」の後裔なのでしょうかね?否、本当はかって昭和25年(1950)からこの本丸跡地に小田原動物園というのがあり、当時は天守閣はまだ再建されていなかったため、広いスペースを利用して、タイから100万円で輸入したゾウのウメ子など38種93点の動物を展示していたそうです。さらにその後、ライオンやフラミンゴなども加わり、最盛期の80年代後半には70種332点の動物がいたそうです。しかし、昭和34年(1959)に本丸跡などが国指定史跡になり、昭和35年(1960)0年には天守閣が再建されたことから、動物園は平成17年(2005)から徐々に縮小し、最後に引き取り手のなかったサルが残されたということらしいです。考えてみれば、ボス猿を中心に確立された猿の社会で、新たな猿の集団を受け入れてくれる猿の集団も他の動物園にはないのかもしれませんね。それは黒人を受け入れない白人社会、アジア人をヘイトする黒人社会、外国人を受け入れない日本人社会、と同じで、人間社会もサル社会も同じということでしょうか。【つづく】人気ブログランキング春の小田原城へ行ってみました(その4) 本丸にはお猿のかごやの後裔が
2021年05月22日
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政府は緊急事態宣言に沖縄を追加する方針だそうですが(→→→こちら)。このところ毎週金曜日は緊急事態宣言の日ということですかね。いよいよ難攻不落の小田原城内へ入ってきました。向こうに目指す天守閣が。その前にこの中堀を越えて行かねばなりませぬ。こちらの建物は二の丸観光案内所というところで、小田原ガイド協会が、城址公園内や小田原の観光スポット・史跡などをガイドしてくれるそうです。この橋は住吉橋というそうです。そして、この門は内仕切門(うちしきりもん)です。左右の石垣を開けた場所に設けるという埋門(うずみもん)形式となっているのが特徴です。内仕切門を抜けると、次の銅門(あかがねもん)があります。門に筋状の銅が飾りとして使われています。この銅門は毎週土・日曜日および祝日に一般公開されているそうです。ということでこの階段を登って、中に入って行きます。これが銅門の内部です。こちらにあるのが、攻めてきた敵兵に上から石を落とすための仕掛け。でも、敵兵も甲冑で身を固めているので、石が当たってもそれほどダメージはなかったため、熱湯や糞尿を落とした方が効果があったとか。屋根を支える梁材です。上棟式の時に飾った守護札が残っていました。鑿の痕が荒々しく残っています。昔はこういう仕上げだったんでしょうね。北条氏直、氏政、氏照と重臣たちが打ち合わせをしている様子(小田原評定→→→こちら)を再現しているそうです。新型コロナウイルスの感染拡大にもこんな感じで、ガースー総理以下閣僚の皆さんが小田原評定を繰り返しているんですかね。新型コロナウイルスと戦う武器は、人の移動制限とワクチン接種しか今のところないとは思うのですが。【つづく】人気ブログランキング春の小田原城へ行ってみました(その3) 毎週金曜日は緊急事態宣言の日、そして難攻不落の小田原城の城門はコロナウイルスの攻撃にも大丈夫?
2021年05月21日
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ガッキーこと新垣結衣さんから「結婚して欲しい」と言われたら、結婚する覚悟ができていたMoMo太郎ですが、星野源さんと結婚されるとのニュースにショックを受けています。 小田原駅から小田原城へ向かって歩きました。お城と駅、それほど離れていません。 小田原駅の駅ビル、大きいですね。 歩道の上には小田原城へ向かう矢印が描かれていて、迷うことはないと思います。 この道を「お堀端通り」といって、この道を歩いて行けば小田原城の堀に出るようです。 これが小田原城のお堀です。 この赤い欄干の橋は「学橋」というそうですが、こちらから入るのは正規の登城ルートでないようです。 正規の登城ルートはこちらの馬出門(うまだしもん)からだそうです。 この門は平成21年に復元されたそうです。 【つづく】 人気ブログランキング 春の小田原城へ行ってみました(その2) 小田原城へ
2021年05月20日
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天気の良かった4月11日の日曜日、小田原城へ出かけました。小田原駅に展示されている小田原提灯(→→→こちら)です。小田原提灯って旅人が折りたたんで携行しやすい提灯なんですが、流石にこの大きさでは携行できませんな。小田原といえば、戦国大名の嚆矢として有名な「北条早雲」(→→→こちら)を忘れてはいけませんね。駅の西口には北条早雲の銅像がありまります。なお、北条早雲の姓は「伊勢」で、北条という姓に変えたのは二代目の氏綱の時からだそうです。また、騎乗して戦いにいく様子の早雲、兜はかぶらず頭巾いうのがお洒落ですね。そして、忘れてはいけないのが、MoMo太郎が敬愛する元祖歩きスマホの二宮金次郎の銅像も駅の東口にありました。いよいよ、小田原城に向けて歩き出しましょう。【つづく】人気ブログランキング春の小田原城へ行ってみました(その1) 北条早雲と二宮金次郎
2021年05月19日
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多分、10年ぶりぐらいに、秋葉原にあるラーメンチェーン店の「幸楽苑」平河町店に行った。 「きゃりーぱみゅぱみゅ」がテレビコマーシャルに出ていたので気になったせいだろうと思う。 昼時だったのでBランチ(550円税込み)を食べました。 ラーメンと餃子のセットですが、ラーメンは、醤油、塩、味噌の三種類の中から選べるようになっていたので、味噌ラーメンを頼みました。 しかし、これが失敗だったのか、なんか中華味の乏しい味噌汁の中にラーメンが入っていました。麺もこれといった特徴もなく普通の味。 むかし、鹿児島県の徳之島に住んでいた時、島の人に「おいしいラーメン屋さんはこの島にありますか」と聞いた時。ほとんどの人が「インスタントラーメンを家で作って食べた方が美味しい」と教えてくれました。幸楽苑のラーメンを食べた時、この言葉が頭をよぎりました。 10年前の幸楽苑はラーメンという名前ではなく「中華そば」という名前で290円くらいの安い値段だったと思いますが、今は最低でも440円。また、日高屋なら麺大盛り無料サービス券をくれるけど、幸楽苑にはつきません。 値段も高くなったし、まあこんな値段で味も云々することもないですが、ちょっとストライクゾーンでもないし、街で幸楽苑を見かけても、10年くらいは近寄らないかもしれません。(あくまで、個人の感想です。) 人気ブログランキングへ 孤独のグルメ 10年おきに幸楽苑かも
2021年05月18日
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富士山を見るためにぶらりとやってきましたが、なかなか快心の富士山は未だ撮影できずです。撮影ポイントを探して、忍野八海の菖蒲池にやって来ました。菖蒲の季節にはまだ早かったですね。枝垂れ桜が見事でした。菖蒲池近くの公園から富士山がやや見えてきました。こちらは鏡池というところから撮影しました。そして、忍野八海から県道717号線に出て鳥居地峠の方に向かう途中で撮影した富士山です。桜と富士山の写真が撮影できましたが、笠雲で富士山をくっきりとは見えなかったのはちょっぴり残念でした。【了】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その11) 桜と富士山も撮影できました
2021年05月17日
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この忍野八海のあたりを散策して、富士山の写真を撮影してきました。この小川、桜の名所なのかもしれませんね。きれいでしたので、ちょっと、箸休め的に水仙も撮影しました。小川(新名庄川というそうです)に沿って歩くと小さな神社がありました。浅間神社です。地元では「忍野浅間神社」、「忍草(しぼくさ)浅間神社」と呼ばれているようですが、一般には「忍野八海浅間神社」と称されているのだとか。大同2年(807)の創建ですが、この社殿は天保2年(1831)に現在の天屋拝殿を再造営されたもので、昭和51年(1976)9月に銅板葺きとなったそうです。拝殿の前には、角樽に入った、お酒ではなく、忍野八海のそれぞれの池の水が供えられていました。沢山の千社札が貼られていますね。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その10) 忍野八海浅間神社
2021年05月16日
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やってきました忍野八海(おしのはっかい)。忍野八海とは、山梨県南都留郡忍野村にある8か所の湧泉群のことです。富士山や近くの火山山麓の伏流水を水源とし、湧水の出口が池として残ったのが忍野八海と呼ばれています。 「海」と言うほど広くはありませんが、この池も忍野八海のひとつで、「湧池」」と呼ばれています。 そして、国指定の天然記念物、名水百選、県の新富嶽百景にも選定されており、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されているという大変貴重なもののようです。 本当にきれいな水ですね。 「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った8つの湧泉を巡礼する八海めぐりからきているのだそうです。探せば他にも湧水がありそうですが、すえひろがりの「八」ということですかね。 訪れた4月7日には、まだ桜が満開でした。 「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」という和歌を口にしたくなります。 こちらの池は「中池」というそうですが、忍野八海には入っていないようです。 この池の反対側から見ると、うっすらと富士山が見えました。 ちなみに、名水百選とは、昭和60年(1985)3月に環境庁(現・環境省)が選定した全国各地の「名水」とされる100か所の湧水・河川(用水)・地下水のことだそうです。 さらに、環境省は2008年(平成20年)6月、「平成の名水百選」を選定したそうですが、二つは重複していないそうです。 【つづく】 【追伸:<新型コロナ>「住民に説明がつく対応を」田村厚労相も苦言 首長らのワクチン先行接種、6市町で新たに判明】東京新聞によれば、自治体の首長らへの新型コロナウイルスワクチンの先行接種が14日、少なくとも茨城、栃木、埼玉、岐阜、兵庫の5県計6市町で新たに判明した。(→→→こちら) だそうです。 まあ、こちらの薬局の経営者の方も含めて、皆さん色々とやることがあるので、ワクチンを早く接種されたいのでしょうね。 ちなみに、この薬局の経営理念は、「私たちは、まごころを込めて親切に応対し、地域社会に貢献します。私たちは、社員一人ひとりの幸福、お客様一人ひとりの幸福、そして、あらゆる人々の幸福を願い、笑顔を増やします。」だそうです。素晴らしい、社員の幸福が第一ですからね。それで、経営者が社員より優先してワクチン接種ですか。 また、この薬局の経営者も自治体の首長も、予約を取るのに、ネットを使えないとか、つながらない電話を一日中架けている暇もないのでしょうね。こんなことなら、往復はがきを送って抽選でワクチン接種の予約を決めた方がラクだったかもしれませんね。わからないように多少手心を加えられたかもしれませんから。 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その9) 忍野八海
2021年05月15日
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山中湖の湖畔にあった、鯉のモニュメントがありました。 「奉納鯉の碑」だそうです。 富士山信仰が盛んだった頃、各地から富士講と呼ばれる信者たちが苦しい修行のために訪れていたそうで、1801年現在の埼玉県寄居町の富士講の一派が、八海巡りと呼ばれる厳しい修行のためにこの地を訪れ、捕えられた生き物を放してやる放生会というしきたりにより、鯉を放した記念に建てられたものと思われます。 山中湖を泳いでいたこの鯉も、富士講の人たちによって放された鯉の末裔でしょうか。 空も晴れてきたので、 富士山も姿を現してきましたね。 【つづく】 【追伸:群馬、石川、岡山、広島、熊本の5県へ「まん延防止等重点措置」を適用】 新型コロナウイルスの感染は拡大する一方ですね。 緊急事態宣言:東京、愛知、大阪、京都、兵庫、福岡 まん延防止等重点措置:北海道、埼玉、千葉、神奈川、岐阜、三重、愛媛、沖縄 それに加えて、群馬、石川、岡山、広島、熊本が追加されました。 思えば、去年は志村けんとか岡江久美子さんといった著名な芸能人が新型コロナで亡くなられたので、みなさん感染防止に一生懸命になったのではないかと思います。 やはり今回も、感染拡大を止めるには、著名人の死亡が効果あるのでしょうか。特に変異株の流行で若い方も感染しているそうなので、ここは若くて人気のある芸能人の方が新型コロナで亡くなることでもないと、「緊急事態宣言」も「まん延防止等重点措置」も効果がないのかもしれませんね。 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その8) 鯉奉納の碑
2021年05月14日
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小山町須走から国道138号線を北上し、籠坂峠を越えて、山中湖にやって来ました。山中湖といえば、富士五湖の一つなんですね。そして、山中湖といえばスワンボート。なぜかそういうイメージがありますが、陸で休んでいるスワンボートもありましたし、桟橋で乗り手を待っているスワンボートも。スワンボートの親玉が。かなり大きなスワンボート、何人くらいで漕いでいるんでしょうか。こちらの小さいのは、本物の白鳥でした。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その7) 山中湖といえばハクチョウ
2021年05月13日
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冨士講の登拝記念の石碑が多く並んでいました。 麻布山三元講は、富士浅間神社とは関わりが深く、神門の前の富士塚と狛犬を築造したそうです。また、富士講の解散に併せてこちらの富士塚と冨士講の講碑を昭和62年(1987)に移設したそうです。 その他にも境内の森には富士講石碑が置かれていました。 江戸期後半から大正期にかけて隆盛した庶民信仰・富士講の各講社が、登拝記念の石碑を建立したり、講社の解散に伴い、講社の地元から移築・寄進されたものもあるようですね。 やはり、東口本宮冨士浅間神社というだけのことがあって、アクセスのよい東京の富士講の石碑が多いですね。 こちらは四谷にあった富士講のものなんでしょうね。 富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされているそうですが、この講は55回も富士登山したのですね。 この和歌山県にある講社は899回も富士登山されたのですね。切りのいい900回にしないところに深い意味がありそうな感じがしますね。 まだ、富士山は雲に隠れて姿を現してきません。これはMoMo太郎の信心が足りないということですね。 【つづく】 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その6) 冨士講講碑
2021年05月12日
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鬱蒼とした杉の木立に囲まれた境内、いよいよ富士浅間神社に参拝です。 手水舎には、新型コロナウイルスの影響で、柄杓はなかったです。 長寿亀石という亀の形をした石がありました。亀は万年、鶴は千年といわれていますが、浦島太郎を乗せて竜宮城の往復をした亀は、地上の世界では万年生きるのかもしれませんが、竜宮城では100年くらいかも。 こちらが社殿です。 本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造になってます。現在の社殿は富士山・宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに修復・修繕を行ってきたものだそうです。さすが世界文化遺産ですね。 賽銭箱の上にありました。朱印帳への記帳はできないので、初穂料を賽銭箱に入れてここに置いてある書き置きの朱印をいただくシステムにしているそうです。新型コロナウイルスの影響なんでしょうね。 まあ、初穂料を賽銭箱に入れずに朱印だけを持って帰る罰当たりなことをしてはいけませんね。 扁額は右からの横書きでした。鈴も鳴らすための鈴緒も感染予防のため触れないように巻き上げられていました。 鈴を鳴らさないと、神様もお参りに来たことを気がつかないかと心配されますが、神様は耳がいいのでお賽銭が入った音に気がつくので大丈夫でしょうね。 【つづく】 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その5) ご朱印記帳は休止していました
2021年05月11日
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静岡県小山町須走にある「東口本宮冨士浅間神社」へ参拝しました。ここは全国にある浅間神社の一社。富士山須走口登山道の起点に鎮座しています。浅間神社の総本宮は富士宮市にある富士山本宮浅間大社ですが、平成25年(2013)に富士山が世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録された際に構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている神社だそうで、登録名称は「冨士浅間神社」となっていますね。こちらの鎌倉往還と呼ばれる道を南に下って冨士浅間神社の正面に回りました。こちらは須走護国神社です。各地にある護国神社はその土地の出身ないし縁故の戦死者、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神とする神社だそうです。桜(多分、ヤマザクラ)が見事に咲いていました。こちらが冨士浅間神社の表参道にあたります。表参道の鳥居の脇にある「信しげの滝」です。鳥居に掲げられた「不二山」と記された扁額。「二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山」という意味なんですね。こちらが神門です。神門の前にある狛犬です。富士塚に佇む狛犬。左側の狛犬には、岩山を登ろうとする小さな狛犬が、「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣ったような狛犬ですね。ちなみに、この富士塚と狛犬は、昭和の初めに東京にあった麻布山三元講という冨士講の信徒の方の寄進によって造られたそうです。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その4) 東口本宮冨士浅間神社
2021年05月10日
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御殿場市役所です。市役所の中庭って、大抵、郷土の発展に貢献したとされる人の銅像があったりするもので、御殿場市役所にもありました。こちらは勝間田(かつまた)清一氏(→→→こちら)、御殿場市出身で日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任された政治家です。こちらは初代御殿場市長勝又(かつまた)春一氏(→→→こちら)。衆議院議員(3期)。初代御殿場市長(3期)務められた政治家です。この石碑は、勝亦(かつまた)国臣翁頌徳碑です。石碑の碑文が読み取れなかったのですが、勝亦国臣氏は、大正6年(1917)に御殿場町長になった方ということがわかりました。しかし、御殿場には「かつまた」と読む苗字が多いですね、御殿場市出身のタレントの勝俣州和(くにかず)さんも政治家になれば、市役所に銅像が建つかもしれませんね。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その3) 勝俣州和さんの銅像も立つかな?
2021年05月09日
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御殿場駅には「ポッポ広場」というD52形蒸気機関車72号機を保存展示されている場所があります。蒸気機関車の前には記念歌碑があって、右側にあるボタンを押すと、鉄道唱歌と汽車ポッポの歌が流れきます。昭和9年(1934)に丹那トンネルが開通し東海道線が熱海駅経由になるまで、御殿場線が東海本線だったので、明治33年(1900)発売の鉄道唱歌東海道篇の15番の歌詞では御殿場駅が歌われています。ここぞ御殿場夏ならばわれも登山をこころみん高さは一万数千尺十三州もただ一目また、「汽車ポッポ」を作詞した富原薫氏(→→→こちら)は、静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)の出身でこのあたりで学校教員として働く傍ら、作詞家として活動していたそうです。その縁でここで聞くことができるのでしょう。ちなみに、「汽車ボッボ」は最初、昭和12年(1937)に「兵隊さん汽車」という題名で、汽車に乗って出征する兵士を見送る内容の歌だったそうです。汽車汽車 ポッポポッポシュッポシュッポ シュッポッポウ兵隊さんを乗せてシュッポシュッポ シュッポッポウ僕等も手に手に日の丸の旗を振り振り送りませう萬歳 萬歳 萬歳兵隊さん兵隊さん 萬々歳しかし、昭和20年(1945)の大晦日にNHKラジオの「紅白音楽試合」(「NHK紅白歌合戦」の前身)でこの曲が歌われる時に、終戦後の時代にあった内容への改作をNHKから依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められたそうです。「兵隊さんの汽車」を「汽車ポッポ」、「紅白歌合戦」を「紅白歌試合」と改めるなど、時の権力者の意向を忖度するNHKの体質変わらないですね。このD52形蒸気機関車72号機、昭和19年(1944)の製造だそうです。つまり、日本が第二次世界大戦を戦っている最中、鉄などの車両用の資材が不足する中で製造された機関車でしたが、1944年から1968年までの約25年間にわたって使用されていました。機関室の中も見学できます。ちょっと複雑すぎて、どうやって運転するのか、想像がつきません。こちらは炭水車D52形蒸気機関車72号機の運用の歴史が記されていました。最初は、新鶴見機関区に配置され、戦後、国府津機関区に配属され御殿場線で活躍していたようです。全景を見てみると、武骨なザ・機械という感じですね【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その2) 汽車ポッポ
2021年05月08日
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緊急事態宣言で出かけられないゴールデンウィークも終わってしまいましたね。そんなことを予想して、ブログのネタを確保しておこうと、サンデー毎日の身となったMoMo太郎。天気の良かった4月7日に、ふらっと富士山を見にドライブに出かけました。最初にやって来たのはここ御殿場駅。ノンビリとした御殿場線ってローカル線と言う雰囲気ですが、富士山や箱根に向かう玄関口の駅、新宿からやって来る小田急の特急「ふじさん」の終点駅でもあり、なかなか立派な駅ですね。JR東海とJR東日本を跨いでICカードは使えないってことですね。そうすると御殿場から小田原に通勤している人のICカード定期券ってどうなるんでしょうかね。富士山口というのが、御殿場駅らしいですね。ちなみに東口は箱根乙女口でした。でその西口の駅前広場にあるのが、富士山を模した案内板。ローマ字で「ようこそ、御殿場」と書いてあるのが、よくわからないですね。外国人向けなら「Welcome Gotenba」とした方がいいような。裏側には、周辺観光地の説明がありました。富士山が噴火した時に飛散した火山弾(→→→こちら)です。このモニュメントは富士山にかかる笠雲をイメージしているか。で、多分、この方向に富士山が見えるはずなんですが、笠雲というよりレインコート雲で富士山は見えませんでした。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その1) 御殿場駅です
2021年05月07日
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いつもお世話になっている、立ち食い蕎麦の「ゆで太郎」で食べた「ミニ肉茄子丼セット(620円税込み)」です。ちなみにかき揚げはクボーン券で追加しました。マル得セットの水曜日のメニューとして提供されていて、水曜日以外にセットで注文すると720円となりますから注意しましょう。でも、このマル得セットの価格、先月は600円だったと記憶していますが、ちょっと値上がりしたんですね。人気ブログランキング孤独のグルメ ミニ肉茄子丼セット
2021年05月06日
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「立てば芍薬(シャクヤク)座れば牡丹(ボタン)歩く姿は百合の花」というそうですが、この花は、葉っぱの形や雌しべと雄しべの様子から芍薬ですね。「いずれ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)」というそうですが、この花は、花弁の根元の色と模様から菖蒲(アヤメ)ですね。人気ブログランキング芍薬と菖蒲
2021年05月05日
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中央通りの御徒町付近にあるコンビニの前です。今ではコンビニですが、実は明治22年(1988)当時、ここには日本最初の喫茶店ができた場所だそうです。可否茶館は、外務省に勤めていた鄭永慶が開業したお店で、現代の喫茶店の原型になったといわれているそうです。店内には娯楽品や国内外の書籍、化粧室やシャワー室が備えられそうですから、インターネットカフェみたいなところですね。日本で初めて開業した喫茶店「可否茶館」。コーヒーを広めるきっかけになったのでしょうが、当時は蕎麦が八厘から一銭なのに対し、コーヒーは一銭五厘だったという高級品。そんなこともあって、経営そのものはふるわなかったようです。可否茶館は明治25年(1892)に閉店し、鄭は日本を去り、アメリカ合衆国へ密航したといわれています。多額の借金を抱えてしまったのですかね。人気ブログランキング喫茶店発祥の地
2021年05月04日
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亀戸香取神社の中にある亀戸大根之碑です。亀戸大根(→→→こちら)とは、いわゆる練馬ダイコンや千住一本ネギのような江戸東京野菜のことで、文久年間(1860〜1864)の頃から昭和初期まで、亀戸香取神社周辺で栽培されていたそうですが、現在も少量ですが葛飾区で栽培されているようです。あまり流通していませんが、明治通り沿いにあるこの料理店で実物を見ることができました。全体的に小ぶりで先が尖っています。味は、どうなんでしょうね。いつか食べてみたいですね。人気ブログランキング亀戸大根之碑
2021年05月03日
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亀戸天神の裏、北側に位置する江東(又は亀戸)天祖神社(→→→こちら)にお参りしました。社叢が緑濃く、神聖な雰囲気が漂います。旧称は柳島・砂原神明宮というそうで、推古天皇の御代(593~628年頃)に聖徳太子の作による神像を祀ったのが創建とされている神社です。ご神徳として伝わっているのは、天正年間(1573~1593年)に疾病が大流行した際、織田信長は当社へ使者を遣わせ、流鏑馬を奉納したところ、流行は収まったということです。ということは、新型コロナウイルスが感染拡大する中、この神社のご神徳におすがりするのはもっもなことですね。社殿の前にある遥拝碑です。全国各地の有名な神社の方角が記されていて、ここからはるか遠くの神社を拝みましょう。提灯の汚れ具合もまたシブイですね。扁額の揮毫が、なかなかスゴイですね。近衛文麿。肩書が「大禮(礼)使長官」となっていますから、これは昭和3年(1928)11月に昭和天皇が即位された時の儀式を司る長官だった頃のことで、この社殿はその頃に創建されたものということですね。戦前の創建にもかかわらず、東京大空襲などの戦災にもあわなかったという、まさに神様に守られた神社ともいえますね。【追伸:オリンピックまであと83日、やるつもり?】五輪への看護師派遣は可能 菅首相「医療に支障来さず」菅義偉首相は30日、東京五輪・パラリンピック組織委員会が日本看護協会に依頼している大会期間中の看護師500人派遣について、「現在休まれている方もたくさんいると聞いている。そうしたことは可能だ」と述べた。余りの過重労働と子育てのため、別の仕事をしたり、或いは家庭にいる看護師資格を持っている人、いるかもしれませんね。コロナワクチンの優先接種、かつ夜勤手当とかとは別に日給10万円くらい支払えば志願してくれる人がいるという算段でしょうかね。ところで、7月4日の都議選で、百合子さん率いる都民ファーストの会「オリンピック、バラリンピックの中止」という公約なんか出したりして。 (4月30日、東京駅前で撮影)人気ブログランキング柳島の総鎮守、江東天祖神社
2021年05月02日
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4月25日、藤まつりで賑わう亀戸天神です。藤の花ざかりでした。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態にもかかわらず。みなさん、もうコロナ慣れでしょうか。MoMo太郎も、折角来たので、お参りを。でもあいにく小銭の持ち合わせがなかったので、お賽銭は後日にさせていただきました。そのうち、PASMOやPayPayでお賽銭も済ませるようになるのかも。だいたい、落語や時代劇だとこういう神社やお寺の参りにかこつけて、きれいなお姉さんがいるちょっといかがわしい場所、いわゆる「花街」に立ち寄っていく輩がいるものです。勿論、この亀戸にも花街がありました。また花街のことを、お堅くいえば、「三業地」と呼ぶそうで、三業とは、料理屋・待合茶屋・置屋(芸者屋)のことをいうそうです。まあ、昭和32年(1957)に売春防止法が施行されて、そういうおじさんたちが期待することは、もっと別の場所でやられているのでしょうが。で亀戸天神に三業地があった証拠として、こちらの亀戸にある香取神宮の明治通りに面した鳥居の門柱。この門柱を寄進したのが、亀戸三業組合という団体。三業があると監視するために、こちらの社号碑の裏には、亀戸警察署の文字が、しかし、昔の警察とか行政機関は、神社へ寄付してよかったんですね。ということで、藤まつりを見に行くついでに、亀戸天神裏の昔の花街の残像を探してみました。こちらは亀戸天神町会会館となっていますが、むかしは亀戸三業組合事務所で、いわゆる見番で客席に出る芸者の取り次ぎや玉代(ぎょくだい)の計算などの事務を扱った所らしいです。この建物、今は普通の住宅のように見えますが、なんとなく料理屋さんだった風ですね。こちらの建物もそんな感じ。この細い道の先には「天祖神社」があります。ここも閉まっているようですが、料理屋さんですね。その隣は、町会会館がありました。しかし、町会でこういう建物を所有しているということは、町会って会社なんかと同じ法人なんですね。普通の任意団体だと、町会の代表者が所有者になってしまって、相続とか税金の問題がややこしくなりますものね。こちらは古くからありそうな、床屋さん。やっぱり、きれいなお姉さんに会いに行くなら、男性もちょっと髭ぐらい剃って身ぎれいにしたいですよね。【追伸:命を選択することになるのかも】高齢者入院「優先順位下げざるを得ない」 幹部がメール大阪府の医師職のトップである府健康医療部の医療監(次長級)の男性が、保健所宛てに「年齢が高い方は入院の優先順位を下げざるを得ない」と記したメールを送っていたそうです。まあ、その医療監は「DNAR(延命治療を求めない蘇生措置拒否)の方は高齢の方が多く、『年齢が高い方』としてしまった。年齢だけで療養を判断する意図はなかった」として、表現を誤ったと釈明したそうです。しかし、これは実際に患者さんを診ていない人からみれば、案外、本音かもしれないなと勘ぐってしまいますね。勿論、実際に患者さんを目の前にした医師や看護師は、高齢者であれ、若者であれ、外国人であれ、命を差別することはなく、何とか助けたいと思うのが当たり前でしょうが(と、信じたい)。軽症中等症の患者さんを50床、60床と受け入ている国公立の病院で、その中で一割の患者さんが重症化すれば、新型コロナ感染者とそうでない患者さんを一緒に同じICUに入れるわけにもいかないので、重症患者も、軽症中等症の患者さんと一緒に一般病床で人工呼吸器を装着して治療しないといけません。そうなると、他の患者さんを診ている時に人工呼吸器のアラームに対応できないケースも想定されます。そんなところで、公立病院を所管する大阪府の偉い人が重症化のリスクが高い65歳以上の人や基礎疾患のある人は避けたいと思っても当然ですよね。とはいえ今、猛威を奮っている変異株は、基礎疾患のない若年層も重症化する傾向にあるそうですから、外部の私たちが思う以上に医療の現場は大変な状況ではないかと思います。【2月1日~4月30日のアクセス数】2月1日から4月30日のアクセス数です。沢山の方に拙いブログを見ていただきありがとうございました。人気ブログランキング亀戸天神裏に花街の名残りをさがす
2021年05月01日
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