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文豪として知られ陸軍の軍医総監も務めて、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説にこだわっていた(→→→こちら)森鴎外(本名:林太郎)は、一時期、この北千住に住んでいたそうです。大正通り探索のついでに森鴎外が住んでいた、橘井堂医院(きっせいどういいん)の場所を訪れてみました。北千住にある旧日光街道に沿った千住本町商店街の千住ザ・タワー付近の交差点を線路にむかって左折すると、橘井堂医院跡にある記念碑がありました。「森鷗外旧居 橘井堂森医院跡」の石柱があり、「千住の鴎外碑の碑文」には、小説「カズイスチカ」の一説が引用されていました。森鴎外と北千住の関係について説明が書かれていました。3枚の説明板があったのですが、重なって全文が見えません。またそれぞれの板は固定されていて全文を読むことはなかなか苦労します。とりあえず、一番上の説明板の内容を引用します。明治12(1879)年に父静男が南足立郡医となり千住に転居して、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、林太郎は東大在学中で下宿先にいましたが、大学を卒業した明治14(1881)年には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説『カズイスチカ』に描写されています。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」(かもめのわたしのそと)という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しています。ちなみに、白鬚橋付近にあった「鴎(かもめ)の渡し」は吉原を指す名称でもあったそうで。遊興の地には近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味も込められているのでしょうか。註1) 鴎の字は、「メ」ではなく「品」ですが環境依存文字であるため「鴎」を使用しています。註2) 説明板の白髭橋の表記は間違いで、正しくは白鬚橋です【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その4) 北千住と森鴎外
2022年07月31日
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大正通りを南側の墨堤通りの方へ歩いて行くと、道路沿いに公園があってそこに石碑が建立されていました。碑文の刻まれた大きな石碑です。篆書体で「大正記念道碑(たいしょうきねんどひ)」(→→→こちら)と刻まれています。これが大正通りという命名と関連しているようですね。この大正記念道碑、碑文は、かの文豪、森鷗外(1862〜1922)が文章を起草しているようです。碑文に関する説明がありました。説明によると、この道は、大正1911(明治44)年から開始された荒川放水路の開削工事によって不要になった用水路を埋め立てて、新たな道を作ったようです。そして、大正記念道碑は、大正新道敷設を記念して当時の地域の有志が大正5年(1916)に建立したものですが、もともとは、別の場所にあったそうですが、平成26年(2014)4月に千住の鷗外碑保存会が公益信託あだちまちづくりトラストの「まちづくりトラスト」助成を受けて、大正新道に面する千住中居町公園に移設整備したそうです。森鴎外の書いた漢文の読み下した内容が説明板に書かれていました。碑文の最後に「千住は父がかつて住んだところでなじみがあり、辞退するわけにもいかず、いわれを書いて与えた」とありました。森鴎外は、大学卒業後、父静男が千住に開業した橘井堂(きっせいどう)森医院で医師として医業に携わっていたのですね。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その3) 大正記念道碑
2022年07月30日
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「昭和通り」から続いている、日光街道こと国道4号線を越えて行きます。この交差点にあった鯛焼き屋さん。天然鯛焼とありますが、養殖鯛焼というのもあるそうですね。調べてみると、天然鯛焼というのは「箸もの」という焼きごてのような釜で焼き上げる製造方法。養殖鯛焼は生地を焼き型に流し入れて焼き、片側にあんこをのせて両側を合わせ、一度に6匹~10匹くらい焼き上げる方法だそうです。4号線を越えて、この道を更に西に。この道は北千住昭和会という商店街で、まだ昭和の時代ですが、この交差点に差し掛かると、北千住昭和会と交差するこの道が大正通りのようです。住宅街にある道ですが、ちょっと昭和感漂う飲食店街もありました。この「大正通り」という愛称は、公募により選ばれたそうですが、そもそも「大正通り」と名付けた発想はどこにあるんでしょうか。ということで、大正通りの命名の由来も探してみました。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その2) 昭和から大正へタイムスリップ
2022年07月29日
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東京にある大正通りを探しにやって来たのは、足立区北千住。北千住駅西口に出てきました。西口から西に向かう商店街を歩いて行きます。きたろーど1010(→→→こちら)というのが、この商店街の名前のようです。商店街にかざられているフラッグには北千住に因むものが描かれています。赤い閻魔大王は、赤い山門で「赤門寺」とも呼ばれる「勝専寺(しょうせんじ)」(→→→こちら)にある閻魔堂に因むものでしょう。中央のラッパを吹いているワンちゃんは「わんさ君」というこの商店街のゆるキャラ。そして、編み笠を持った人物は、北千住から旅に出た松尾芭蕉ですね。そして、銭湯や蔵なども描かれていました。この商店街にあった風格のある建物。眼科医院のようですね。なんか歴史ありそうな建物ですね。さらに西向かって歩きます。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その1) きたろーど1010
2022年07月28日
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東京都心部を東西に貫く「靖国通り」です。靖国通りは、新宿大ガード東交差点から中央区浅草橋交差点に至る延長8kmの道路で、正式名称は、東京都道302号新宿両国線というそうです。この道路も関東大震災の復興事業として東京の南北を貫く「昭和通り」とともに計画された道路だそうです。また、この道路が「靖国通り」という名称が使われるようになったのは、昭和37年(1962)からだそうで、それ以前は「大正通り」と呼ばれていたそうです(→→→こちら)。「大正通り」という道はあったのですが、都内に「大正通り」と呼ばれる道がここ以外にも現存しているそうなので、現存する「大正通り」を明日からは紹介します。【了】人気ブログランキング元号が名前となっている道路(その3) 昔は大正通りでした
2022年07月27日
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こちらは、日本橋兜町にある東京証券取引所。この東京証券取引所を起点に築地の晴海通りまで約1.9kmの道があります。それが、平成通りと呼ばれています。平成になって建設された新しい道ではなく、平成元年(1989)に中央区が愛称を定めた道だそうです。となると気になるのは大正通りはどこかにあるのかということですね。【つづく】人気ブログランキング元号が名前となっている道路(その2) 平成通り
2022年07月26日
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首都高速道路日本橋区間地下化事業が進む日本橋近くにある「昭和通り」昭和通りは、東京都港区の新橋交差点から、明治通りが交わる台東区の大関横丁交差点に至る道路の東京都がつけた通称だそうです。関東大震災の復興事業として計画、建設された道路だったので、新しい時代の昭和を切り拓く「昭和通り」という通称はふさわしいものだったでしょう。昭和通りは、このように東京のビジネス街の中心を貫く道路となっています。そして、こちらは明治通り、東京都港区南麻布二丁目から、渋谷区、新宿区、豊島区、北区、荒川区、台東区、墨田区を経由して江東区夢の島に至る東京をぐるっと一周できる道路です。この道路も関東大震災後の復興のために計画された道路です。東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備された道路ですが、明治通りの名が付いたのは、明治神宮の近くを通るためという説が有力なようです。台東区の大関横丁からみた明治通りです。主要な幹線道路として沢山の車が行き交っています。明治、昭和と元号を使った名前の道路がありますが、そうなると大正通りとか平成通りというのはないのでしょうか。【つづく】人気ブログランキング元号が名前となっている道路(その1) 昭和通りと明治通り
2022年07月25日
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昭和通りの江戸橋南交差点にある日本橋郵便局郵便ポストの上に地球を多くの人が持ち上げているようなオブジェがあって、ちょっと凝ったデザインになっています。この日本橋郵便局は郵便発祥の地になるようで、入り口にプレートが埋め込まれています。郵便発祥の地の碑文です。郵便発祥の地ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅通司(現在の日本郵政公社)と東京の郵便役所(四日市郵便役所とも呼ばれ現在の東京中央郵便局)が置かれたところです人気ブログランキング郵便発祥の地
2022年07月24日
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東京・日本橋川の上はこのように首都高速道路の高架橋が走っています。現在、このこの高架道路を地下化する「首都高速道路日本橋区間地下化事業」(→→→こちら)の工事が進められています。この工事では、神田橋ジャンクション(JCT)と江戸橋(JCT)の間、1.8キロメートルのうち1.1キロメートルを地下に移す計画で、総事業費は約3200億円、工事の完成は18年後の2040年度だそうです。また工事に併せて、呉服橋出入口と江戸橋出入口が廃止となります。こちらは廃止となる江戸橋入口の工事の様子です。こちらは撤去が終わった江戸橋出口の一部区間です。いずれは、この日本橋の上を塞いでいる高架橋も撤去されるのでしょう。しかし、3200億円もの費用をかけて、日本橋の上に青空を取り戻す価値はあるのかどうかはわかりません、それ以前に今までのように自動車が増えて道路が混雑するような、経済状況が2040年においても日本で維持されているのかどうかもわかりません。いずれにせよ18年後には工事費を支払うために高速料金も値上げになるのでしょうけど、その頃は多分、MoMo太郎も免許を返納して首都高速を利用することもないので費用を負担することはないでしょうし。まあ、日本橋の麒麟は青空を見ることができて幸せなことかもしれませんね。人気ブログランキング日本橋に青空を取り戻す
2022年07月23日
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夏だからといって、冷やし中華やもりそば、そうめんばかりを食べていてはいけないと思い、スタミナをつけるため、今日は大阪王将の「レバニラ定食」(870円税込み)を頂きました。ところで、「レバニラ炒め」と「ニラレバ炒め」どう違うのか気になって調べめてみると、ニラレバ炒めは、もともとは中国の「韮菜炒猪肝」という料理のことで、中国語の順番では「韮菜」(ニラ)の後に「猯肝」(レバー)となるので、「ニラレバ炒め」が正式なようです。しかし、日本で「レバニラ炒め」というようになったのは、赤塚不二夫の漫画「天才バカボン」の中で、主人公の父親「バカボンのパパ」が「レバニラ炒め」が大好物と何度も口にしたため、日本では「ニラレバ」ではなく「レバニラ」の順で定着したそうです。(→→→こちら)人気ブログランキング孤独のグルメ ニラレバかレバニラか
2022年07月22日
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たない、マイナーな場所を紹介しています。押上駅から北十間川沿いを東に向かって歩いたところにある十間橋から見た東京スカイツリーです。ここは逆さスカイツリーが楽しめる場所として、結構、知られたメジャースポットかもしれませんね。向こうに見える西十間橋からも水鏡に映るスカイツリーが見えますが、こちらから見たほうがスカイツリーの全体が水鏡に映っていいと思います。スカイツリーと水鏡に映る逆さスカイツリーを同時に撮影しようとしましたが、持っているレンズでは全部は写せませんでした。ということで、スカイツリー周辺にあるマイナースポットを中心に紹介してきました。今度スカイツリーに遊びに行かれることがあれば、参考にしていただければ幸いです。【了】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その17) 十間橋から見るスカイツリー
2022年07月21日
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押上駅たかくにある児童公園「わんぱく天国」(→→→こちら)です。敷地は広くないですが、「わんぱく砦」「わんぱく広場」「やすらぎ広場」の3ゾーンに分かれた園内で、ターザンロープ、畑、池、工作室等といった施設があって、楽しく遊べそうな施設です。ここで遊んで、ルールを守って、腕白でもいい逞しく育って欲しい。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その16) わんぱく天国
2022年07月20日
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本所高校の前の桜橋通りを、スカイツリーのある押上の方へ歩いていくと、東武鉄道の本社があります。スカイツリーが出来る前は、とうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)の近く、今の東京ソラマチという商業施設のあたりに本社があったのですが、東京スカイツリーの開業にあわせて平成21年(2009)に押上のここに移転してきました。本社の前に「東武館」と刻まれた石碑がありました。これは「旧本社玄関に刻まれていた。初代根津嘉一郎(雅号 青山)書の碑銘」だそうで、「台石は旧本社受付に使用されていた大理石と御影石の一部」だそうです。会社の歴史を背負っているという感じがしますね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その15) 東武鉄道本社
2022年07月19日
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すみだ福祉保健センターの近くにある都立本所高校です。このあたり向島なんですが、向島高校ではなく本所高校なんですね。森鴎外住居跡の案内板が建っていました。墨田区向島って、文学者が多く住んでいた町なんですね。案内板に記された説明文です。森鴎外住居跡 所在地 向島三丁目三十七番三十八番 文久二年(一八六二)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治五年(一八七二)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村二三七番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺きの家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った作りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。 父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二ヶ月後には西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海(よだがっかい)邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士(ひきふねこじ)」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は身近いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。 平成二十六年二月 墨田区教育委員会【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その14) 森鴎外住居跡
2022年07月18日
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鳩の街から東京スカイツリーの方へ向かって戻ってきました。こちらの建物は、すみだ福祉保健センター(→→→こちら)です。こちらの建物にあった「堀辰雄住居跡」の案内板です。堀辰雄って、墨田区の生んだ文学者だったんですね。案内板に記された説明文です。堀辰雄は明治 37年 ( 1904 )、麹町平河町 ( 現在の千代田区平河町 ) に生まれました。2歳とき、母に連れられ向島小梅町 ( 現在の向島 3丁目 ) に住む叔母の家に移りました。明治 41年には母が彫金師・上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町 32番地 ( 現在のすみだ福祉保健センター所在地 ) で暮らしはじめます。新居は「曳舟通りに近い、或 ( あ ) る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果 ( 無花果 ) の木や日あたりのいい縁側などがあったと『幼年時代』に記しています。明治 43年の大水で新小梅町 2ノ4 ( 現在の向島 1丁目 16番 ) に移るまで、この地で過ごしました。牛島尋常小学校を経て、府立第三中学校 ( 現在の都立両国高校 ) を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正 13年 ( 1924 ) 4月に父・松吉が隅田公園の新小梅町 8番地 ( 現在の向島 1丁目 7番 ) に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和 13年 ( 1938 ) まで父と共にそこで暮らしました。辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。また、すみだ福祉保健センターの敷地の中には初代墨田区長「勝田菊蔵」氏の胸像がありました。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その13) 堀辰雄旧居跡
2022年07月17日
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鳩の街通り商店街の近く、墨田区立言問小学校のそばにあるこの集合住宅の入口になにやら銘板が見えます。不審者に間違われないかドキドキしながら、銘板を見てみると、「向嶋有馬温泉之図」とありました。下の「向嶋有馬温泉縁起」という文章を読んでみると、あの有名な兵庫県有馬温泉の湯花を持ってきて温泉を経営していたという、今でいうところのスーパー銭湯があったようです。碑文には以下のようなことが記されています。 向嶋有馬温泉縁起向島は江戸時代より多くの別荘が営まれ、春には花の名所として賑わっていました。明治十七年、兵庫県有馬温泉の湯花をこの付近に遷し、向島有馬温泉が開業しました。この由来を語り継ぐものとしてつぎのような文献が残っています。客間 茅葺二階建て一棟何の風情も無けれど、遠く墨堤の桜を望み、小田の蛙に耳を澄し、秋は稲葉の風に戦ぐも、熊変わりてをかし。栽籠繁茂く技を交し、瓦葺の三階造小丘を抱きて立てるをもて背面より登れば直ちに二階達すべく、正面より登れば初階より通るを得べし。其さま恰も浅草奥山鳳凰閣の如く、南に二階家の離れて建てられたるは旅館なり。梅林鬱として、藤樹蔭を成し松籟微かに眠を催して、三伏涼を納るゝに適す。泉水 池あり水青く、中島に茶室あり、渚に捨小船、それすら風雅なるに、蓮の浮葉鯉の跳ねて、客あり、釣竿を望む時は、随意に貸与して、釣る所の、魚を調理す。鮮鱗溌剌膳に上るも快。混堂 池畔に在り、湯槽は好心地よく洗われて、男室女室に区画たる。料理 普通一式の料理。花中又弁当を調進す。美人なし 別嬪は他よりお連れ下されとは情けなくも、前歯のぽっくり欠損た婆様が愛敬。梅干 梅林数十株。毎歳梅干と為す。有馬産の梅干は名代なり。春は、籬根の残雪未だ全く消えやらぬ間に、南枝蕾を破って暗香浮動、梅見にと杖を曳く雅客、つゞいて向島桜狩の崩れ客、庭の藤の花池の面にゆかりの色を映せば、五月ともなりて実梅の影夏座敷に落ちて、水無月文月三伏ともなれば、夏を余所なる納涼がてらの客、美姫を携え酒肴満盞、緑陰華宵に遊ぶもよからむ。 『新撰東京名所図会』第十四編より一部引用上の絵は山本松谷、山下重民の文により明治三十一年発行の『風俗画報』に掲載されました。江戸の画影と明治の息吹を伝える雑誌に「有馬温泉」は「行楽の場」として描かれています。その後この地に「有馬温泉」の名に因んだ銭湯が誕生し地域の人たちの「憩いと語らいの場」としてともに生きてきました。 向島の歴史と文化を伝えたくこの碑文を設けます。 二〇〇四年十二月 【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その12) 向嶋有馬温泉
2022年07月16日
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たない、マイナーな場所を巡っていますが、今日紹介するのは、スカイツリーからはかなり離れた水戸街道沿いにあるこちら。鳩の街通り商店街(→→→こちら)です。昭和3年(1928)に設立された寺島商栄会から続く、90年以上の歴史を持つ古い商店街だそうです。東京大空襲をまぬがれたために、通りの道幅は戦前のまま。昭和初期からのレトロな商店と新しいショップがある個性的な商店街だそうです。また、戦火を免れたということで、この近くにあり東京大空襲で焼け出された「玉の井」(→→→こちら)という私娼街(公の営業許可を与えられていない売春婦がいた町)の業者の何軒が、この寺島商栄会のある地域に移転してきて、営業しはじめたそうです。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが禁止され、その後、日本人相手の赤線地帯(つまり、半ば公認で売春が行われている地帯)として発展したそうです。もちろん、昭和33年(1958)4月1日に売春防止法が完全施行されてからは、永井荷風や吉行淳之介の小説で描れるようなお店はありません。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その11) 鳩の街通り商店街
2022年07月15日
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東京スカイツリーの立っている敷地、以前は生コンクリート工場だったことを覚えているでしょうか。そんなわけで、スカイツリータウン南面 荷捌場B出入口の近くの壁際にひっそりとこんな石碑が建立されています。「生コンクリート工場発祥の地」(→→→こちら)だそうです。この記念碑は、1949 年に東京都墨田区の東武鉄道・業平橋駅構内に日本初の生コンクリート工場設立を記念し、工場の操業50 周年にあたる1999 年11 月に建立したものを東京スカイツリーの完成にあたり、移設再設置したものだそうです。強度150N(1平方メートルあたりおおよそ15,000トンの重さに耐える)の超高強度コンクリートそうです。「生コンクリート工場発祥の地」の碑文には以下のように記されていました。 戦後、わが国のセメントが統制下にあった時代、昭和24年11月この地に日本で初めての生コンクリート製造会社が操業されました。 それまでの施工方法に比べ、簡便で工事費が安価であることから、生コンクリートは道路・軌道工事を中心に急速に広まり、わが国の高度成長期を支えてきました。ここに生コンクリートの発祥の地を記念するとともに、今後も社会基盤を支えていくことを願い、記念碑を建立いたします。住友大阪セメント株式会社東京エスオーシー株式会社平成24年5月 この碑は東京エスオーシー株式会社が50周年記念として平成11年11月に業平橋工場にて強度150N/m㎡のコンクリートで作成・設置していたものを、東京スカイツリー建設にあたり、再設置したものである。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その10) 生コンクリート工場発祥の地
2022年07月14日
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東京スカイツリーの近くにある曳舟川通りです。とうきょうスカイツリー駅北交差点から、曳舟川通りを見たところです。ここはかっては川だったそうですが、埋め立てられて水戸街道と並行する幹線道路として使われています。とうきょうスカイツリー駅北交差点には舟をかたどった石碑があります。「曳舟川の由来」という碑文がありました。曳舟川の由来 曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(一六五九年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曾根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。 その後、享保七年(一七二二年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。 この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。 また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(八〇アールの梅林)から来ているとの説もあります。 昭和二十九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三十年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。 平成五年三月 墨田区」こんな感じで舟を曳いていたんでしょうね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その9) 曳舟川通り
2022年07月13日
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こちらも東京ミズマチに近い、源森橋北詰にある日本初の女医、荻野吟子(おぎのぎんこ)の医院のあったところです。荻野吟子(→→→こちら)は、最初に結婚した旦那さんから性病をうつされて離婚したのですが、その時、この恥ずかしい病気を男性医師のもとにさらさなければならなかった屈辱から、医師の資格をとって、同様の立場に追い込まれた女性患者を助けようと決意し、明治18年(1885)、医師免許試験に女医第一号として合格した方です。つまり、日本初の国家資格を持った女性医師ということです。ということで墨田区教育委員会の案内標識がありました。案内標識の説明文です。荻野医院跡 ──日本女医第一号 荻野吟子開業の地──所在地 墨田区向島1丁目8番荻野吟子は、嘉永4年(1851)3月3日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に産まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治12年(1879)、私立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同38年3月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子35歳。早くもその都市の5月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す14歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治27年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めて開業したのは志方と死別して間もない明治41年12月、58歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正2年(1913)6月23日、62歳で亡くなりました。平成24年3月墨田区教育委員会【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その8) 日本女医第一号 荻野吟子 開業の地
2022年07月12日
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北十間川沿いにある東京ミズマチ(→→→こちら)は、「浅草」と「東京スカイツリータウン」を結ぶ商業施設として有名ですが、その近くにあるこのビルは。文庫屋「大関」(→→→こちら)という革工芸品を作る工房です。文庫屋「大関」の商品は、浅草店、銀座店、東京ソラマチ店とネット通販で買えるそうです。ここはあくまで工房で製品を作るところのようです。文庫屋「大関」の大関は創業者の姓ですが、大関といえばお相撲さん。ミズマチの近くにも相撲部屋があります。元大関琴欧洲が鳴戸親方となって興した鳴戸部屋(→→→こちら)です。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その7) 文庫屋大関と鳴戸部屋
2022年07月11日
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妙縁寺の近くにあるお寺です。「赤門寺」と呼ばれている牛嶋山福厳寺(ふくごんじ)(→→→こちら)です。曹洞宗つまり禅宗のお寺です。駒込吉祥寺の末寺になるそうで、この赤門は、三代将軍家光が、父秀忠の追福のため寄進したものがはじまりでしたが、関東大震災で焼失し、紀尾井町にあった旧紀州家中屋敷の門をもらい受け、これを朱塗りにして寺門としていたそうです。しかし、これもまた戦災で焼失し、現在の赤門はコンクリート製で復興したものだそうてす。このお寺が有名なのは、赤穂浪士大石内蔵助の縁者である、大石三平のお墓があるそうです。大石三平は、四国松山の松平家江戸家老で、横網に住み、福厳寺の住職を禅の師として親しくしていたころから、三平は赤穂義士の吉良家討ち入りのため、参禅・聞法の集会と称して、当寺で義士に密談を行わせたり、このあたりの地理に詳しいことから義士討ち入りの手引きをするなど、大石内蔵助の吉良邸討ち入りというテロ行為を援助していたそうです。また、「夜嵐おきぬ」のモデルとなった原田きぬ(→→→こちら)のお墓もあるそうです。原田きぬは幕末から明治初期に実在した女性で、三浦半島城ヶ島の漁師の娘だったのが、色々あって、歌舞伎役者と恋仲になって、邪魔になった旦那である小林金平を殺鼠剤で毒殺したという、いわゆる毒婦と呼ばれる方です。そんなテロリストの支援者や毒殺犯を供養するのも仏門の大切な役割なんですね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その6) 赤門寺
2022年07月10日
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衝撃的な安倍元首相の銃撃事件。MoMo太郎は今年の1月に事件のあった大和西大寺駅を訪れていました。何気に駅舎を撮影していましたが、撮影したこの場所で撃たれたんですね。しかし、安倍ちゃんを支持していなかった人には、溜飲が下がった思いをしているかもしれませんし、安倍ちゃんが演説している時にヤジを飛ばしていたら、警察から職質されたりしていた人もいたでしょう。しかし、そんなことよりも、政治家だからとか、一般人だからとか、そんなことは関係なく、その人の命を奪うことは絶対許されないことです。人気ブログランキング安倍元首相、ここで撃たれたんですね。
2022年07月09日
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都営浅草線本所吾妻橋駅の近くにある日蓮正宗のお寺「正栄山 妙縁寺」(→→→こちら)です。このお寺の境内にあるのが、「夜隺井銘(やかくいめい)」です。境内には、江戸時代に「本所の名水」と謳われた井戸「夜寉井」があったそうです。人口が多く、水源が乏しかった江戸の人々に貴重な水を供給していました。関東大震災で水が出なくなってしまいましたが、人々に愛された井戸の名前を今に伝える碑となっています。でも、なんて書いてあるのか全くわかりませんが、墨田区の有形文化財に指定されていて説明板がありました。石碑に刻まれているのは、江戸時代の儒学者井上蘭台(1705~61)の漢詩だそうです。「夜寉井銘」の篆額の下に、その内容は、子を失った鶴が子の声を求めて夜の泉に降り立つ故事を引用しながら、今もその水が清らかに深い味わいで、心をいたわるものだと「夜寉井」を称えているそうです。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その5) 夜崔位銘の碑
2022年07月08日
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たないマイナーな場所を紹介します。といっても、今回紹介するのはちょっと有名かも。テレビ東京の「アド街ック天国」などの番組でも紹介されているかもしれない、このお城のような建物。東京スカイツリーから歩いて5分ほどの墨田区業平1丁目にあります。昭和8年(1933)創業の和菓子屋「お城森八」(→→→こちら)です。ここまで来て和菓子を買おうとは思わないのですが、なかなか美味しいとの評判です。ちなみに、この立派なお城は、お城が好きだった先代の意向で、2年間かけて建築されたものだそうです。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その4) お城森八
2022年07月07日
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豊島区、練馬区を中心に33店舗ほど展開しているマイナーな中華料理のチェーン店の「福しん」になんとなくハマっています。ということで、また「福しん」で遅めの昼食を頂きました。さすがにこの時期になると熱々ラーメンは進んで食べる気もせず、冷やし中華(680円税込み)をいただきました。今回も期待にたがわず家庭料理に近いような刺激のない味付け。多分、近所に「福しん」があったら週3くらいで通っていたかもしれないです。タレは、「醤油タレ」と「ゴマタレ」のどちらかが選べますが、今回は「ゴマダレ」にしました。トッピングの蒸し鶏が厚切りの塊なのがいいですね。そして、ちょっとわかりにくいかも知れませんが、麺は、緑色しています。理由は、石垣島産の海藻から作られるクロレラ麺を使っているからだとか。そう聞くとちょっと身体に良さそうな気もしてきますね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 福しんの冷やし中華
2022年07月06日
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いつも利用しているJRの総武線。最近、気がついたのですが、総武線は10両編成です。こちらもよく利用する山手線。山手線は11両編成、多分、平成3年くらいから11両編成になっていた記憶がそこで疑問なのが、以前に山手線に使われていたE231系が総武線に転用されているのですが、その時、11両編成から10両編成に変わって、車両が1両余ることに。その余った1両は何処へいったんでしょうか?そして、気がついたのが、山手線の11両目の車内にある番号札。E235-24と若い番号です。また、製造年も平成30年。9号車の方も、11号車とだいたい同じように若い車両番号と製造年も11号車と同じ。ところが間の10号車では、E235-4625と大きな番号が使われ、製造していたのも今の総合車両製作所になる前の新津車両製作所で、製造年も平成22年となっていました。ということは、山手線の10号車は旧式のE231系を改造して利用しているんでしょうかね。人気ブログランキングあの車両はどこへいったのか 山手線の10号車
2022年07月05日
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池袋西口駅前のある植物で作られたフクロウの一家がいました(→→→こちら)。これは、モザイクカルチャー(→→→こちら)という方法で作られたもので、人、動物、風景などの形を金属のフレームで作り、土を入れ、花や草を植え込んだものですそうです。こちらはお母さんと子供のようです。子供のふくろうの名前は「えんちゃん」というそうです。おかあさんフクロウの名前は「えんちゃん母」だとか、こちらのフクロウはお父さんのフクロウで名前は「えんちゃん父」だそうです。確かに、子供がいると「〇〇(子供の名前)ちゃんのパパ」とか近所の人に呼ばれるようになるので、名前は必要はないのでしょうか、なんだか「バカボンのパパ」みたいですね。そして、池袋西口です。池袋からJRに乗って帰宅しました。(池袋まち散歩のコースです)【了】人気ブログランキング池袋まち散歩(その11)池袋駅西口駅前広場モザイカルチャー
2022年07月04日
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池袋駅西口一帯の鎮守である池袋御嶽神社(→→→こちら)に到着です。池袋の「袋」と「フクロウ」の音が似るところから、苦労を除き(不苦労)福を呼び込む(福籠)神としても信仰を集めているようですね。この神社にフクロウが生息しているわけではありません。ご時世ですね、手水舎は消毒液です。こちらが社殿です。ところで、御嶽神社と書いて、「みたけじんじゃ」と読む場合と「おんたけじんじゃ」と読む場合がありますが、こちらは「みたけじんじゃ」と読みます。覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は「おんたけじんじゃ」、修験道の神である蔵王権現を祀る神社は、「みたけじんじゃ」と呼ぶようです。しかし、この池袋御嶽神社のご祭神は、倭建命、神武天皇、武甕槌命で、蔵王権現ではありません。しかし、蔵王権現は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊でなのですが、神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊(倭建命) 、金山毘古命等と習合し、同一視されることがあるので、神社としてのご祭神に倭建命があるのでしょうね。おそらく、社殿そのものは昭和の頃に改築されたのでしょうが、結構、見事な彫り物が使われていますね。神社を後にさらに東にみたけ通りを歩くと、ようやく池袋という町名に着きました。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その10) 池袋御嶽神社
2022年07月03日
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再び要町通りに戻って、池袋方面に向かって歩いて行くと、えびす通り商店街という商店街の前を通り過ぎて、東京メトロ有楽町線の要町駅がありました。要町通りの下を有楽町線が走っているのですね。要町通りと山手通りが交差する要町一丁目交差点に差し掛かりました。要町一丁目の交差点を過ぎると、こちらの谷端川(やばたがわ)緑道を北に向かって歩きのます。谷端川は豊島区および北区、板橋区、文京区をかつて流れていた河川。現在はほぼすべての区間が暗渠の下水道幹線となっているそうです。その上を緑道として整備されているようです。ちなみに、この川は、豊島区、板橋区では谷端川と呼ばれ、文京区内では小石川(こいしかわ)または礫川(こいしかわ、れきせん)と呼ばれていました。エサを与えないでの看板の近くにあった銅像。この子供、エサを上げられないのに、うまく小鳥を手なづけていますね。緑道はこんな様子で、建物の間を縫うように続いています。きっと、付近にお住まいの方には憩いの場になりそうですね。みたけ通りまでやってきました。次は、この「みたけ通り」を東に向かって、池袋の街の方へ向かって歩いていきます。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキングと池袋まち散歩(その9) 谷端川緑道
2022年07月02日
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粟島神社から「要町通り」という広い道に出ました。要町通りからこの脇道に入って北へ向かってテクテクと行くと、豊島長崎の富士塚(→→→こちら)に到着です。豊島長崎の富士塚は、「富士講」の一つである月三椎名町元講の人々によって文久2年(1862)に築造されたものです。江戸時代に築造された富士塚の中でも、よく原形をとどめていることが評価され、昭和54年(1979)年に国の重要有形民俗文化財に指定されています。富士講の方々が石碑を富士塚に建てられているようです。こちらが登山口のようですが、普段は閉じられていて入山できませんが、今日のような富士山が山開きの7月1日には入山できるかもしれませんね。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その8) 豊島長崎の富士塚
2022年07月01日
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