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村松虚空蔵尊(→→→こちら)の山門です。三重県伊勢の朝熊山金剛證寺、福島県柳津の霊厳山円蔵寺とともに日本三体虚空蔵尊の一つとして信仰集めているそうです。真言宗豊山派の寺院で、山号は村松山。寺号は日高寺というそうです。その歴史について説明板がありました。大同2年(807年)に空海(弘法大師)によって創建されたとされ、創建の際、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜わったそうです。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて常陸国を治めた佐竹氏の庇護を受け隆盛を極めたが戦火により焼失し、長享元年(1488年)に白頭上人により再建され、名称を「村松山神宮寺」から「村松山日高寺」に改めらたそうです。さらに、江戸時代には、徳川家康から朱印50石を寄進され、また、水戸藩2代藩主・徳川光圀は寺を竜蔵院、竜光院の二院に分け、宗派を修験道に改め、虚空蔵菩薩を修飾しその台座に「日域三虚空蔵之一而霊応日新」と刻んだそうです。明治3年(1870年)の廃仏毀釈より「星の宮」と改称されたが、翌明治4年(1871年)には「虚空蔵」と称することが許可され再び「真言宗日高寺」となりました。明治33年(1900年)に堂塔伽藍すべてが消失しており、現在の建造物はすべて近代になって再建されたものになるそうです。こちらが本堂です。虚空蔵菩薩は丑年生まれと寅年生まれの守り本尊(→→→こちら)と言われるので、本堂の前には、牛と虎(多分)の石像がありました。本堂の扁額です。山号の村松山と本堂は大摩尼殿と呼ばれているのでその扁額もありました。本堂の裏に回ると、本堂裏についての説明書きがありました。白砂青松・村松の海岸この東に広がる村松海岸は白砂青松の景勝地で、天保4年(1833年)水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による「村松晴嵐」の名勝碑を建てさせた。この碑は村松晴嵐の碑と呼ばれ、この階段を上り。さらに80m程行ったところにある。また、この上の奥の院のわきには、俳聖芭蕉の「埜を横に 馬引きむけよ 時烏」の句碑と、詩人山村暮鳥の「おう土よ」の詩碑が建っている。砂浜には、ハマボウフウやハマヒルガオ、松林の中には茸などの植物が多く自生し、野ウサギやリスなどの動物も見られる。大神宮先の砂の高台からは、美しい白い砂・緑の松・青い海を一望することができる。とありました。そして、この階段を登って、本堂の裏も尋ねることにしました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その4) 村松虚空蔵尊
2024年11月24日
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国道245号沿いに「茨城のお伊勢さま」という看板がありました。これは東海村村松にある豊受皇大神宮のことです。次の目的地はこの豊受皇大神宮と村松虚空蔵尊になります。国道245号をそれて、矢印の方向に向かって歩くと、3基の案内板がありました。こちらは茨城県全体の観光案内です。こちらは東海村にある12ヶ所の景勝地の案内で、ここには村松晴嵐(→→→こちら)という美しい白砂青松の景勝地があります。こちらは村松虚空蔵尊(→→→こちら)と「茨城のお伊勢さま」の大神宮(→→→こちら)について説明されていました。写真の向かって右側が大神宮の鳥居、左側が虚空蔵尊の山門になります。そして、大神宮への参道に東海十二景の村松晴嵐(むらまつせいらん)の石碑がありました。これから、この3ヶ所を順次訪れて参ります。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その3) 村松虚空蔵尊と大神宮、そして村松晴嵐
2024年11月23日
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まず訪れたのはこちらの東海原子力館別館(→→→こちら)です。太陽を手に入れた東海村ですが、日本初の商業用原子力発電所である東海発電所の廃炉がすすめられ、首都圏にある唯一の大型原子力発電所である東海第二発電所は、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から停止したままで、再稼働を目指して地震・津波への対策工事を進め営業運転再開を目指しているそうです。しかし、東海村はもとより周辺自治体の理解を得らない事や原子力規制員会からの運転再開の許可が出ない事などで、その太陽の火も消えかかっているそうです。この東海原子力館別館では、原子力の仕組みや安全性を模型や映像・人形劇などで紹介rする施設で、原子力発電所の営業運転再開への広報を行っています。もちろん入場料は無料です。館内で原子力発電に関するクイズに答えると、このような記念品がもらえました。ここから東へさらに海に向かって歩いいくと、こんな看板をつけた建物がありました。こんな看板を掲げている建物、県会議員の事務所のようでした。次は海沿いの国道245号にある原子力科学館(→→→こちら)を踊れました。ここは、日本で唯一の原子力に関する総合博物館です。「原子ってなぁに?」「放射線ってなぁに?」「核分裂ってなぁに?」といった原子力や放射線についての基礎的な事柄を紹介しているそうです。この施設で原子力について正しく理解し、これからの日本のエネルギーあり方について考えようと思いましたが、残念ながら、訪れた日は臨時休館日でした。そして次の目的地に向かって、国道を南に向かって歩きます。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その2) 東海原子力館別館と原子力科学館
2024年11月22日
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茨城県那珂郡東海村にやって来ました。JR常磐線の東海駅(→→→こちら)です。平成6年(1994年)にこの駅舎が完成したそうです。今回は、JR東日本の駅からハイキング「東海村の歴史を学び・原子力に触れるハイキング」に参加しました。東海村と言えば、日本三大虚空蔵堂の一つ村松虚空蔵尊(→→→こちら)があることで有名です。駅前にはこのような石碑が建立されていました。そして、東海村を全国で有名にしているのは、やはり、昭和31年(1956年)、原子力施設の設置先が東海村に閣議決定され、昭和32年(1957年)7月には日本原子力研究所の東海研究所を設置し、翌8月に臨界実験に成功。日本で初めて「原子の火」が灯り、「日本の原子力発祥の地」となったことでしょう。さらに、昭和38年(1963年)10月26日には原子力発電の試験に成功し。その後、昭和32年(1957年)に、電力大手各社の出資により設立された日本原子力発電(原電)は、昭和41年(1966年)に日本初の商業用原発である東海発電所の営業運転を開始しています。つまり、東海村は原子力による太陽を手に入れた村です。そんな、太陽を手に入れた東海村を歩く、駅からハイキングのコースマップをここ東海村三業・情報プラザの事務室でもらいました。こちらの施設は、もちろん、原子力研究関係のため施設のようですね。こちらの道は、日本原子力研究開発機構(→→→こちら)という、原子力に関する研究と技術開発を行う国立研究開発法人の本部だそうです。村の中にはこんな広い道路が整備されています。原子力災害が起こった時は、この広い道がきっと避難の役に立つことでしょう。ちよっと、気がつかないで、いつまで経っても信号が変わらないとなと思っていた押しボタン式信号機がありました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その1) 太陽を手に入れた村
2024年11月21日
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いよいよ今日から年末ジャンボ宝くじの発売が始まるそうですね。宝くじ、競輪や競馬のように自分でデータを分析して予想して、お金を得るのと違い、宝くじを買いに行くということさえすれば、後は大した努力もせずに、抽せん日を待つだけというものですが、折角、買った宝くじ。せめて当選祈願の神頼みをしてみてはどうでしょうか。宝くじ当選に力を発揮する神様、各地にいらっしゃるとは思いますが、東京モンなら日本橋堀留町にある椙森神社(→→→こちら)へお参りしてはいかがでしょうか。こちらが椙森神社の由緒です。藤原秀郷が平将門の乱鎮定のため戦勝祈願したことがこの神社の始まりですが、江戸時代に宝くじの前身と言われる富興業が行われていた神社です。こちらが現在の社殿です。古い社殿は関東大震災で焼失し、昭和6年(1931年)に鉄筋入り耐震構造で再建されたそうです。その時は富くじは発行されなかったのでしょうね。こちらの神社では江戸時代には大変栄え。数多くの富くじが発行されたそうです。それを記念して冨塚が建立され、現在でも宝くじ当選の祈願においでになる方も多いそうです。こちらがその富塚です。ちなみに、MoMo太郎、もう40年以上も宝くじを購入したことがありません。多分、今年も買わないと思います。人気ブログランキング椙森神社で宝くじ当選祈願を
2024年11月20日
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鶴橋本通商店街にやって来ました。ここに来ると、雨が上がって晴れてきました。ここから長い商店街が続いています。この先、大阪鶴橋卸売市場協同組合、高麗市場、大阪鶴橋市場商店街、東小橋商店街、そして鶴橋商店街といった商店街が続いています。近鉄とJR(旧国鉄)が交わる鶴橋は戦前から交通・物流の要衝だったそうです。幸いにも、戦時中の空襲でそれらの鉄道が壊滅的な被害を受けなかったため、戦後間もない昭和20年の秋に広まった闇市として機能するようになったそうです。昭和21年頃にはいくつかの商店街が結成され、現在の商店街の原型が出来始めたそうです。さらに、今ではそれぞれの商店街が入り組んで迷宮の様になっていまるそうで、ちょっと通りがかりの人間には、中に入るのがためらわれるようなエリアでした。とりあえず、大きな道(千日前通りから続く府道)に出て、JR大阪環状線の鶴橋駅を目指しました。こちらがJR鶴橋の入口です。ここから環状線に乗って、帰りました。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その10) 鶴橋の商店街は迷宮
2024年11月19日
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御幸森天神宮に接してあるのは、この大阪コリアタウン(→→→こちら)があります。子供の頃は、一緒に暮らしていた祖母などは、「朝鮮市場があるからね」と、鶴橋や生野の方はなんとなく嫌っていた雰囲気がありました。ちなみに祖父母と住んでいたのは、島之内のあたりでした。大阪コリアタウンは、御幸森天神宮の脇から、平野川までの500メートルの通りに150険の店舗がある商店街です。名称のとおり、在日韓国・朝鮮人にとって食材・日用品などが豊富に揃う商店街です。そして、最近では韓流ブームなどもあって、日本人も訪れる観光地になっているようです。歴史的には、1910年の日韓併合を経て、多くの朝鮮半島の人が出稼ぎ働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となりました。さらに、猪飼野周辺は昭和に入る頃には中小企業の密集地帯となっていたため、そこで働く朝鮮半島出身者の人が増え、その人たちのために商品を扱う市場が形成されていったようです。もう少しこの商店街も歩いてみたかったのですが、写真でもわかるように雨が降ってきたので、ここから北の鶴橋に向かいました。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その9) 大阪コリアタウン
2024年11月18日
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つるのはし史跡公園から北に少し歩いたところにある神社です。この神社は、御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)(→→→こちら)という神社です。天神と言う名前ですが、御祭神は、仁徳天皇(→→→こちら)、少彦名命(→→→こちら)、忍坂彦命(→→→こちら)を祀っています。仁徳天皇といえば、「民のかまど」の逸話があるように仁政を行った天皇として有名ですね。少彦名命は、大国主神の相棒として国造りに協力した神様で、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な特技を持つ神様のようです。忍坂彦命は、今日の皇室の系統につながる皇子で、本人は天皇になれなかったが、子は舒明天皇、孫の孝徳天皇と女性天皇の皇極・斉明天皇(同一人物で二度天皇となった)、そして孫が天智天皇となっています。仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされます。仁徳天皇崩御の後の反正天皇2年(406年)、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸宮と称されたことがこの神社の始まりで、後に疫病が流行ったので少彦名命を勧請したところ、疫病が治まったそうです。そして、この頃から天皇天神社とも天神宮とも呼ばれるようになったそうです。次に、玉造の清水谷あたりに押坂山という小さな山があり、忍坂彦命をお祀りしている天神社がありましたが、大坂夏の陣の兵火に遭い消失しため、元和2年(1616年)に当宮に忍坂彦命の御霊が合祀されたそうです。ちなみに、天神様と思って合格祈願に訪れた人には、この境内にある菅原神社もお参りした方がいいでしょう。猪飼野小路(現勝山北五丁目)に祀られていた菅原道真を祀った社を明治18年(1885年)に合祀したものです。また、神社の本殿の横には、王仁博士歌碑が2009年に建立されています。王仁(わに)博士(→→→こちら)とは、応神天皇の時代に辰孫王(百済の王族だった人→→→こちら)と共に百済から日本に渡来した百済人、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物だそうです。その人が、仁徳天皇の即位を祝して「難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花」という歌を詠んだそうです。こちらが、歌碑です。日本と韓国・朝鮮との友好・共生の時代が続くことを願って建立されたそうです。大阪で育ったにもかかわらず、このあたり(猪飼野)の歴史に疎かったので、色々と調べて書いたため文章が多くなってすみませんでした。思えば、若い頃を過ごした大阪や神戸、そして京都についてほとんど知らなかったんだと改めて自分の勉強不足を反省するMoMo太郎でした。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その8) 御幸森天神宮
2024年11月17日
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このあたりは、古代・仁徳天皇の時代には猪甘部(いかいべ、猪飼部)として朝廷に献上する猪(ここでは大陸から持ち込まれた豚と考えられている)が飼育されていたと伝えられ、この地域は「猪飼野(いかいの)」と呼ばれていたそうです。この猪飼野(→→→こちら)には、多くの「渡来人」が当地にやってきた。また、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に猪甘津橋いかいつのはし)が架けられ、時代が下って江戸時代になると「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となったそうです。しかし、その「つるのはし」は大正12年(1923年)に鶴橋耕地整理組合の手によって新平野川が開削され、不要となった旧川筋は昭和15年(1940年)に埋立てられて、「つるのはし」は廃橋となりました。平成9年(1997年)に橋があった近くに「つるのはし史跡公園」が作られたそうです。ここが「つるのはし史跡公園」(→→→こちら)です。入口には「つるのはし跡」の石柱があります。このあたりに鶴が多数飛来したことから「つるのはし」の名となったようです。こちらの記念碑は昭和27年(1952年)に建てられ、周囲に当時の親柱4本を保存しているそうです。記念碑には「つるのはし跡」と刻まれています。また、「つるのはし跡」についての説明文と、江戸時代の周囲の地図が示されていました。「つるのはし」が架けられていた旧平野川は、かつては旧大和川(久宝寺川)から分岐し、ほぼ現在の流域に沿い、千間川(今川)、猫間川などと合流し、寝屋川に注いでいた。現在の平野川も同様に、大阪府柏原市古町の大和川右岸にある取水口を水源(一級河川の起点)とし北流。大阪市城東区森之宮と城東区中浜の境界で第二寝屋川に合流しています。大正年間には曲がりくねる平野川を直線化し周囲を区画整理する工事が行われ、現在のような河道となったのですが、その過程で猪飼野には工事に従事した朝鮮人がそのまま住み朝鮮人街を形成したそうです。小野小町の歌碑もありました。「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかい津の橋」(忍んではいても、人がそれだと見ているなかを、はじめて猪甘津の橋を渡った)という歌が記されていますが、「小町歌集」には記載がないため幻の歌だといわれているそうです。こちらには、この公園の説明と建設に尽力された(お金を出した)人の名前がありました。大阪の町は東京よりも古くから栄えてきた歴史ある町なので、このような記念碑を探せば、東京よりももっと沢山あるんだろうと思いました。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その7) つるのはし史跡公園
2024年11月16日
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御勝山古墳の東側は、桑津街道、鶴橋街道、俊徳街道の交点となっており、かつては交通の要所であったそうです。街道といっても、昔の道だったので、人が行き交う程度の道幅だったのでしょうか、このような狭い住宅街の中の道が街道となっています。桑津街道とは、天王寺区細工谷から生野区を抜け、東住吉区の桑津神社に至る街道で、高津宮の仁徳天皇が妃髪長媛(かみながひめ)に会いに行くために度々通られたとされる道だそうです。鶴橋街道とは、大阪都心の東に並ぶ城東区、生野区、東住吉区の住宅地を南北に貫く道です。城東区鴫野から、ちょうどJR大阪環状線の東側を沿うような形で進み、針中野で八尾街道に合流します。鶴橋街道の名前は、明治時代に大阪府が管理する主要道の一つとして名付けられたみたいです。俊徳街道(→→→こちら)は、奈良時代の頃から難波・四天王寺と平城京を結ぶ街道のひとつとして整備された道で、現在の大阪市・四天王寺南門付近を起点とし、大阪市内の御勝山古墳の東側、北巽駅付近を経由し、東大阪市の三ノ瀬付近で十三街道に合流します。また、その十三街道は、大阪市内の玉造駅付近からはじまり、十三峠を超え奈良県生駒郡斑鳩町の竜田までを結ぶ街道です。こちらの西俊徳地蔵尊は、桑津街道、鶴橋街道、俊徳街道の交わる地点にありました。こちらの説明板によれば、此の地蔵尊は宝暦時代(1750年頃)、約230年前より祀られていたと思われます。石仏で等身大で蓮華上の座像でございます。御堂の前の道は俊徳街道で、平野川に架けられた石橋の傍らにありましたので、清い流れと共に景色も良かったので、河内高安の長者の嗣子の俊徳丸が四天王寺へお参りの際には休憩されたものと、古老より言い伝へられております。東地蔵尊と共に当地の西の守り仏として、昔より住民の皆様より大変親しまれて、朝夕はお線香の断へたことがない有難いお地蔵尊でございます。とありました。こちらの道が鶴橋街道です。この道を歩いてきました。大阪市生野区って全国で最も外国人比率が高い都市らしく、その多くは在日韓国・朝鮮人だそうで、よくテレビ見かけるアンミカ(→→→こちら)さんも韓国人で生野区で育ったそうです。そんなわけで、韓国料理の飲食店もあるんですね。古くから道ということでしょうか、こんな道標が道端に残っていました。解説板も設置されていました。説明板には、このように記されていました。道標 東面 (文字なし) 西面 右八尾 久宝寺 信貴山 南面 左大阪 北面 慶応丙寅二年 鐘講この道標は 慶応二年(西暦一八六六年)に建てられたものです 当時は 江戸時代から明治時代に移り変わる寸前で 幕末の混乱した時代でした江戸時代では 「大坂」の字が多く用いられていましたので 「阪」の字をつかったこの道標は 非常に珍しいものといえましょう西面に「右八尾・久宝寺・信貴山」とあるのは 当時 近畿地方の人たちが さかんに信貴山に お参りしたことを示しています南面に「左大阪」とあるのは 鶴の橋をわたり大阪へ向う人びとの正面に読めます郷土の人たちが残されたこの貴重な文化財をいつまでも大切にしたいものです 昭和六十二年十一月 猪飼野保存会生野ライオンズクラブがこの説明板を寄贈したんですね。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その6) 西俊徳地蔵尊
2024年11月15日
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勝山通の北側に残る御勝山古墳の方へ行ってみました。何勝山古墳についての説明板がありました。もとは岡山と呼ばれ、元和元年(1615年)の大阪夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠がここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。古墳の大きさは、南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)と勝山南公園になっており、写真の後円部を残すのみiになっているそうです。円部の墳丘は国土地理院の標高点では標高14m、公園内の看板の表記では標高13.25mであり、大阪五低山のうちの一つとされているそうです。大阪五低山とは、港区の天保山(てんぽうざん 標高4.53m)、阿倍野区の聖天山(しょうてんやま 標高14m)、生野区の御勝山(おかちやま 標高14m)、住吉区の帝塚山(てづかやま 標高19.88m)、天王寺区の茶臼山(ちゃうすやま 標高26m)の5座を指すそうです。帝塚山、子供の頃は「てづかやま」とは読めなくて「みかどつかやま」と呼んでいました。そういえば、吹田も「すいた」ではなく「ふいた」と呼んでいましたが、中学生になって吹奏楽があると知って「すいた」と読むんだと納得できました。大阪の地名も難しいですね。1972年3月31日に大阪府指定文化財 史跡に指定されたそうです。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その5) 御勝山古墳
2024年11月14日
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勝山通りを東に向かって歩いて行くと生野区役所(→→→こちら)があります。生野史跡遊歩道案内図とありました。生野区って古くからの歴史のある街だったんですね。ということで、その史跡の一つがこの公園、御勝山南公園です。ここには御勝山古墳(→→→こちら)という前方後円墳があったのですが、勝山通りで南北に分断され南側の前方部は崩されてこの御勝山南公園になったそうです。近くの歩道橋から見下ろして撮影してみました。意外と樹木がまばらにしか植えられていないですね。この公園の敷地には、昭和8年(1933年)から昭和43年(1968年)まで大阪管区気象台(→→→こちら)として利用され、昭和49年(1974年)より御勝山南公園として利用されているそうです。公園の片隅に折口信夫(→→→こちら)歌碑もありました。折口信夫(1887 ~ 1957)は、浪速区で生まれ、釈迢空(しゃくちょうくう)の名で知られている歌人で、万葉学者であり文学博士だった方ですが、ここには、「小橋過ぎ 鶴橋生野来る道は古道と思ふ 見覚えのなき」という歌が刻まれています。歌碑は昭和57年に建立されたみたいです。歌碑の裏側には、折口信夫について、解説が記されていましたが、字がところどころ剥げていて読めませんでしたが、折口信夫は、明治の末、天王寺中学校在籍の頃より、大阪近郊の名所旧跡の地理に詳しく、放課後や日曜日などには友人とよくこの辺を散歩していたそうです。ちなみに、今でいうLGBTで、弟子にセクハラまでした人物ということは記されていませんでした。(→→→こちら)。まあ、学問上の業績までは否定しませんが、仮にLGBTであっても、それでセクハラやアカハラまでやっては不適切にもほどがありますね。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その4) 御勝山南公園
2024年11月13日
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勝山通り(→→→こちら)に出てきました。ここでいったん西向かって歩いていくと、この建物がありました。この建物は「プール学院(Poole Gakiun)」(→→→こちら)です。大阪では有名な古くからある私立女子中学校・女子高等学校です。子供の頃の思い出で、MoMo太郎の伯母さんが、どうしてもこの学校に行きたかったようですが、諸般の事情で、御堂筋の大きなお寺の近くにある学校に通っていました。子供の頃は、プール学院と名前から、大きなスイミング・プールがあって、生徒さんは水泳選手や指導者になる練習に取り組んでいる学校で、伯母さんは、いわゆるカナヅチだったので入学できなかったと思っていました。ちなみに、プール学院の卒業生には、八千草薫さん、三ツ矢歌子さんという綺麗な人が多くて、最近では、女優の国分佐智子さん(→→→こちら)、女性アナウンサーの竹崎由佳さん(→→→こちら)がおられます。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その3) プール学院
2024年11月12日
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さて、桃谷駅から出発します。今まで、このブログにも書いたことがあると思いますが、MoMo太郎は小学校から高校まで大阪に住んでいたことがありますが、この町に来たのは初めてです。桃谷駅前商店街です。商店街でも脳神経外科の宣伝があるんですね。長く続く商店街です。このあと桃谷本通商店街が続きますが、ここで右折して勝山通りの方へ向かいます。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その2) 桃谷駅前商店街
2024年11月11日
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大阪へ出張に行った時に時間が空いたので、軽く駅間歩きをしてみました。まずは、大阪駅から環状線に乗ります。西九条、新今宮方面へは、大阪環状線(内回り)になります。名古屋市営地下鉄に倣えば「左回り」ですね(→→→こちら)京橋・鶴橋方面へは大阪環状線(外回り)になります。名古屋市営地下鉄に倣えば「右回り」ですね。大阪環状線の車両です。山手線と違い色んなタイプの車両が走っているみたいでした。桃谷駅に到着です。JR西日本のホームのベンチはこんな形の配列でした。それから、山手線と違って、ホームの幅が広い感じでした。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その1) 環状線は内回りと外回り
2024年11月10日
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ある人のブログに「東京ディズニーランドに行ったことがありません」とコメントすると、知っていますよ。何回も聞きましたね。いつも教えてくださりありがとうございます。この情報は、私の頭にもインプットしております。とコメントを返してもらいました。同じことを繰り返して言うようになると、耄碌した証拠だと思っていましたが、確実に耄碌しているんだと思い知ったMoMo太郎です。さて、日高屋で、もう何年かぶりに中華丼(650円税込み)を食べました。学生の頃、学食のメニューにあって、野菜もたくさん入っているので、ライスカレーなんかよりは身体にいいだろうと思って、週3くらいの頻度で食べていた時期がありました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 中華丼
2024年11月09日
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そして、再びJR両毛線の岩宿駅に帰って来ました。JR両毛線の全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれていますが、イメージとしてはローカル線の小さな駅でした。駅舎横に跨線橋です。岩宿駅からは桐生競艇場への無料バスが発着しているんですね。競艇のある日には乗降客が多いのかな?駅の構造は、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線を有する列車交換可能な地上駅となっています。高崎駅行の上り列車に乗って帰ります。使用車両は3ドアの211系でした。(岩宿遺跡コース)【了】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その8) 岩宿駅から帰ります
2024年11月08日
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岩宿博物館からJR岩宿駅へ戻る途中にあった、相沢忠洋氏(→→→こちら)の銅像です。在野の考古学者というのは、学会の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられたこともあったそうですが、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見したことで、考古学者として正当な評価をされるようになったそうです。アカデミズムの世界、保守的な側面は今でも変わらないところがあるかもしれませんね。この相沢忠洋氏の銅像の前にあるのが、史跡岩宿遺跡保護観察施設(→→→こちら)。通称「岩宿ドーム」と呼ばれる施設です。岩宿遺跡B地点の地層断面を保存・展示するため、1990年に建設されたそうです。こちらが、中にあった地層の断面図です。そして岩宿遺跡発見に関するビデオも上映されています。入場無料で入れるところも、また嬉しい施設でした。さらに岩宿ドームと道路と挟んで向かい側には、史跡岩宿遺跡に関する説明板と、岩宿遺跡A地点に関する説明がありました。相沢忠洋氏がの、この道路の切通に露出していた関東ローム層から黒曜石の打製石器を発見し、さらに明治大学教授杉原荘介の主導する調査団によって調査がおこなわれ、さらに石器が発見されることにより、日本における旧石器時代の存在が立証されたそうです。これぞ本当の「神の手(ゴットハンド)」の皆さんのがここに集まったんですね。ゴッドハンドといえば、旧石器を捏造して発見したといった事件もありましたが(→→→こちら)、これも誤ったアカデミズムのせいでしょうか。しかし、岩宿遺跡は本物で、国の指定史跡である岩宿遺跡の石柱が建てられ、文部大臣灘尾弘吉(1899-1994)(→→→こちら)揮毫による石碑もありました。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その7) 岩宿ドームと史跡岩宿遺跡
2024年11月07日
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岩宿博物館の近くにある鹿の川沼(→→→こちら)です。春には桜が咲いてきれいな所だそうです。よく見てみると、釣りを楽しんでいる方も多いですね。やっぱりヘラブナ釣りかな?この鹿の川沼、農業用水のための池らしいですね。渡良瀬川から取水されたこの沼までやってきているんですね。薮塚台土地改良区(→→→こちら)というのがここを管理しているみたいですね。土地改良区(→→→こちら)、耳慣れない人も多いかもしれませんが、江戸時代に岡上景能(おかのぼり かげよし)(→→→こちら)が造った用水路を現在に伝えるため維持管理している大切な団体なんですね。以前「北関東の旅 岩宿(その2)岡上景能公銅像」で紹介した岡上景能公の銅像です。この空地、なにやら看板が立っていますが、「ゴミを捨てるな」というような看板かと思いきや、許可なく掘るなという看板でした。ある意味、遺跡があったこのあたり大変価値のある不動産なんですね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その6) 鹿の川沼
2024年11月06日
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北関東の旅 岩宿を続けているところですが、なかなか記事の作成が捗らないので、昨日訪れたJR両国駅にある旧駅舎をリニューアルして造られた複合飲食施設-両国-江戸NORENの紹介でお茶を濁します。今年最後の三連休の最終日、11月4日、天気もいいので両国あたりまで散歩してきました。-両国-江戸NORENの前に飾られていた東京ドイツ村(→→→こちら)から送られてきたマリーゴールドです。東京ドイツ村って千葉県袖ケ浦市にあるのに、東京とついているのが、なんか不思議ですね。千葉県浦安市にある東京ディズニーランドは、まあ、東京都江戸川区の隣なのでなんとなく東京とつけても違和感はないんですが、袖ケ浦までとなるとね・・・。また、建物の中では、愛好家の皆さんにより相撲甚句の公演がありました。こういう民謡とか相撲甚句とか、趣味で楽しんでおられる方って結構いるんでしょうね。人気ブログランキング-両国- 江戸NOREN
2024年11月05日
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鹿田山フットパスから、ぐるっとのんびとかな田園地帯を歩いて、再び岩宿博物館(→→→こちら)に戻ってきました。みどり市岩宿博物館は、いうまでもなく、群馬県みどり市にある旧石器時代の岩宿遺跡に関係する展示を行っている博物館です。入場料310円のところが、駅からハイキングの参加者は200円と割引になりました。岩宿遺跡(→→→こちら)というのは、群馬県みどり市にある旧石器時代の石器文化の遺跡です。昭和24年(1949年)に相澤忠洋さんが発見し、明治大学が発掘調査し、旧石器時代(先土器時代)の長期的な歴史と文化の変遷を明らかにした遺跡です。この遺跡が発見により、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された画期的な発見だったそうです。このような石器が多く展示されています。MoMo太郎のような凡人が、仮に、このような石を発見しても、ただの石ころにしか思えないですが、やはり、志(こころざし)のある人がみればわかるものなんですね。こちらの石器は石斧に使われたものだそうです。こちらの石器はナイフなどの刃物として使われていた石器です。これらの石器を使って、当時生息していたオオツノジカ(→→→こちら)を狩猟していたようです。このオオツノジカ、肩高1.8m、体長2.6mに達した大型の鹿だそうです。しかし、こんなに大きな角が毎年、生えかわるとすれば、相当、この骨を作るためにカルシウムやリンが必要だったでしょうね。骨粗しょう症のオオツノジカはいなかったんでしょうね。マンモスゾウの骨格標本も展示されていました。岩宿にいた旧石器時代の人たちはマンモスも食べていたんでしょうかね。こちらは石器を作るのに使われた道具だそうです。黒曜石やサヌカイトといった石をハンマーとなる石で叩き割って、さらにその隙間に動物の骨や角を挟みこんで細かく削ったり、また、角や骨を石材の削りたい面に直接押し付けて少しずつはがしていくよう方法で、細かい石器を作っていたようですね。そうやって作られた石器を槍や斧として利用していたということです。岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さん(→→→こちら)、納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたそうですが、その相沢さんが愛用していた自転車が展示されていました。岩宿遺跡発掘の後も各地の旧石器時代の遺跡発見を行った相沢忠洋氏、やがてこのスクーターで発掘に回ったようですね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その5) 岩宿博物館リターンズ
2024年11月04日
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のどかな田園風景の中を歩きます。庚申塔(→→→こちら)が道端に建てられていました。庚申塔の「申」は干支で猿に例えられるから、神道では猿田彦神とされ、猿田彦神は天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神ですから、道案内の神様。その神様のお導きで、次の目的地、鹿田山フットパス(→→→こちら)の駐車場にやって来ることができました。多分、フットパスとは英語書くと、"FootPath"、つまり歩道という意味でしょうから、ここまでは車で来ても、鹿田山フットパスで里山ハイキングを楽しむところなんですね。案内図では、池の周りの里山、鹿田山の中を歩けるようでした。こちらの池が鹿田山フットパスの中心地になる清水新沼という農業用のため池です。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その4) 鹿田山フットパス
2024年11月03日
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岩宿を訪れたのは10月6日でしたが、ここ群馬県みどり市笠懸町吹上地区のひまわり花畑は9月下旬から10月中旬にかけて開花する珍しいひまわり畑です。ここには約20万本ものひまわりが咲いているそうです。このひまわり畑を俯瞰で撮影しようと思いましたが、展望台は閉鎖されていて、ちょっと残念。また、この日は天気も悪く、ちょうど雨も降り始めてきましたが、折角来たので遅咲きのヒマワリの花を楽しみました。後ろの山は、みどり市笠懸町にある鹿田山です。この山麓一帯約2haがひまわり畑になっています。夏の盛りの暑い中ではなく、幾分涼しくなった秋のひまわりもじっくり楽しめていいかもしれませんね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その3) ひまわり花畑
2024年11月02日
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岩宿博物館の近くにあったこの銅像。岡上景能(おかのぼり かげよし)(→→→こちら)という、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官の銅像です。この銅像が建立された由来などが記された石碑もありました。このような銅像が建てられ顕彰されているのは、以下の事績によるものです。岡上景能の生まれた岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図るため、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、足尾銅山街道(現・群馬県道69号)を建設したそうです。さらに、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行ったそうです。この笠掛野御用水は、生活用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。どのような罪に問われたのかわかりませんが、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めているようですね。現在で言えば、田中角栄みたいに新幹線や高速道路を作ったけど、ロッキード事件などで総理をやめて金権政治を批判されたとしても、亡くなった今でも未だに色んな人から尊敬を集めているみたいな感じかな。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その2) 岡上景能公銅像
2024年11月01日
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