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江ノ島駅を降りたら、雨が降っていました。天気が悪くなるとは聞いていたけど、出る時は東京は青空だったので午前中は持つと思っていたのが間違いでした。でも折角、ここまで来たので江ノ電の江ノ島駅から江ノ島弁天橋へ向かうまでの道、商店や旅館が並ぶすばな通りを歩いて行きました。「すばな通り」って漢字で「洲鼻通り」と書くらしいです。フェンスで囲われた石碑がありました。この石碑を寄贈した会社の名前が、裏に彫られてました。「ここは湘南」と刻まれた石碑もありました。裏にある寄贈した会社は、すばな通りの石碑と同じだったんですね。かなり降ってきたので、江ノ島に来た証拠として、ここから写真だけ撮って、藤沢に戻ることにしました。江ノ電の駅までは遠いので、小田急の片瀬江ノ島駅から藤沢に戻ることにしました。片瀬江ノ島駅(→→→こちら)、竜宮城みたいですね。新宿からロマンスカーもやって来る駅ですが、止まっていたのは藤沢行の各駅停車です。東京へ帰るときも藤沢駅から新宿行の急行で帰ることにしました。ということで、大したこともない報告になりました。ついでではなく、今場は江ノ島の弁天様にお参りするぞ、いうしっかりした目的でないと、弁天様も江ノ島上陸は許してくれないんでしょうね。【了】人気ブログランキング江ノ島に行ったけど雨だった話(その2)
2024年10月29日
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藤沢に住むむかしお世話になった人の家に行きました。その時の話です。藤沢駅のホームにあったJRのコンビニは店舗は、往年の湘南電車80系の形でした。訪問の約束は午後からでしたが、昼ご飯は藤沢で済ませてから伺うことにして午前中に藤沢に到着です。ちょっと時間があるので、中学生の時に行って以来となる50年ぶりぐらいになる江ノ島を見てみようと思って江ノ電に乗って行くことにしました。江ノ電って、結構、きれいな電車なんですね。江ノ島に到着です。【つづく】人気ブログランキング江ノ島に行ったけど雨だった話(その1)
2024年10月28日
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JR羽村駅の近くに戻ってきたました。やや文字が薄くなってきていますが「東京都指定文化財 史跡まいまいず井戸」と書かれています。JR羽村駅東口近くの五ノ神社境内にある「まいまいず井戸」です。こまかい説明が書かれた看板がありました。「まいまいず井戸」(→→→こちら)はこのようなものです。まいまいとはカタツムリのことで、その名のとおり地表面から渦巻き状に通路がついた古い井戸のことです。この五ノ井まいまいず井戸は直径16m・深さ約5mあるそうです。かつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種だそうですが、掘削当時、垂直に深く掘る技術がなかったためこの形になったと言われています。下に降りられるようになっているので、中に入ってみました。下から上の方を眺めてみると、かなり深い感じがしました。しかし、この坂を昇り降りして水汲みをするのはかなりの重労働だったことでしょうね。それだけこの地域では水は貴重品だったんでしょうね。井戸のそばにあった、馬頭観音の石碑です。このまいまいず井戸は、五ノ神社に境内にあります。五ノ神社も春祭りの八雲祭の準備に追われていました。そしてJR羽村駅東口に到着しました。ここから家に帰りました。(春の羽村散歩のコース)【了】人気ブログランキング春の羽村散歩(その14) まいまいず井戸
2024年06月06日
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羽村市神明台にある神明神社(しんめいじんじゃ)に到着しました。神明神社(羽村)の創建年代等は不詳ながら、かつて屡々怪事があったことから老樹の下に神明社を祀り、川崎村の鎮守としたといい、明治6年村社に列格したと伝わっています。4月7日(日)にこの神社に参拝したのですが、この神社でも四月第二日曜日に行われる八雲祭、または天王祭呼ばれる、羽村市の春祭りの準備が進んでいました。このように社殿の畳も新調されていました。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その13) 神明神社
2024年06月05日
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医王山という山号が書かれた扁額のある立派な山門のお寺にやって来ました。門前の寺号碑には、「臨済宗建長寺派医王山崇禅寺」(→→→こちら)と刻まれています。宗教の世界にも〇〇派という派閥はあるんですね。医王山崇禅寺(いおうざんそうぜんじ)と書かれた羽村市教育委員会の説明板がありました。元和元年(1615)創建のお寺ですが、境内にある薬師堂はその前から存在し羽村市で最古の建物として市指定有形文化財となっているそうです。確かに、山号の医王山の医王は、薬師如来のことで、境内にある薬師如来を祀っている薬師堂が山号の由来となっているのでしょう。こちらが境内で山門と鐘突堂が兼用となっているんですね。こちらは本堂、ご本尊様は釈迦如来坐像だそうです。お寺の山号の由来となっているこちらの薬師堂は、寛政年間(1460~1465)創建、天正年間(1573~1592)再建との伝承があるそうです。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その12) 医王山崇禅寺
2024年06月04日
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羽村取水堰近くの羽村橋の近くある大きなケヤキの木がありました。多摩川の河岸段丘の崖沿いにあり、根元には湧水があったのでしょうね。計幾条件も良く、大きな樹木に育ったんでしょうか。説明板によれば、「羽村橋のケヤキ」と言う名称で、1965年に、東京都の天然記念物に指定されています。羽村橋のケヤキは、玉川上水に架かる羽村橋と奥多摩街道を隔てた大樹です。崖線からの豊かな湧水に育まれたケヤキは、樹枝全体が鞠状を成しており、幹の周囲は5.5m、高さは約24mと巨木です。樹齢は、400年とも600年とも伝えられています。河岸段丘を登り、羽村東小学校の近くにあった小さな神社です。この神社の境内から玉川上水第三水門が見えました。この第三水門から地下の水道管を通じて狭山湖・多摩湖へ送られており、この先は一気に玉川上水の流量が減ります。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その11) 羽村橋のケヤキと玉川上水第三水門
2024年06月03日
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羽村取水堰の回りを散策してみました。取水堰直下の玉川上水です。こちらは、牛枠(→→→こちら)と呼ばれるものです。牛枠とは、伝統的河川工法の一つで、重りの蛇籠を載せて沈めるて造られています。洪水が起きると、蛇行する川の曲がり角が決壊しやすいため、水の流れを弱めたり、方向を変えるための施設です。こちらの銅像は玉川上水を開削した玉川兄弟の銅像です。玉川上水は、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画され、工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、玉川庄右衛門と玉川清右衛門の玉川兄弟が工事を請負ったそうです。兄弟二人だけで羽村堰や羽村堰から四谷大木戸までの約43キロメートルの水路を建設したわけではなく、多くの作業員を雇って工事したんでしょうでしょうから、江戸時代の建設会社の社長と専務みたいな人だったんでしょうか。この銅像は「玉川兄弟」を永く称えるため、昭和33年(1958)に、ゆかりの地である羽村取水堰付近に建てられた像です。右側に立ち、当時の測量器具である間縄を持っているのが、兄の庄右衛門で、左側で片膝をついて間竿を持っているのが、弟の清右衛門だそうです。こちらの塔は、水道管の圧力を調節するためのサージタンク8→→→こちら)です。管の中を流れている水が急に止められると、水の流れの勢い(エネルギー)が圧力に返還されて管の中の圧力が高くなるので、その圧力上昇を水槽の水位の上昇で吸収します。また、止まっていたみずが流れ始めると、逆に圧力が下がるので、圧力降下を水槽の水位が下がって吸収します。この圧力の上昇や降下は何度か繰り返されて、やがて水とパイプの摩擦でそのエネルギーの変動が消えていくそうです。玉川上水に沿って約200本の桜が植えられていて。玉川上水は国土交通省関東地域整備局京浜河川事務所の「多摩川八景」「多摩川50景」にも選ばれているそうです。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その10) 玉川兄弟の銅像
2024年06月02日
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「多摩川の原水の流れ図」です。上流の小河内ダムで貯められたみずは多摩川を通ってこの羽村取水堰で取水され、玉川上水の水路を通って東京都内に水道水を供給しています。こちらが取水堰の取り入れ口になります。正式名称は東京都水道局羽村取水堰というそうです。ここで多摩川の水を取り入れます。江戸へ上水道を供給する玉川上水の取水口として江戸初期の承応2年(1653年)に上水とともに完成し、明治・大正期に増改築を繰り返し現在の形とないます。こちらが多摩川の河川内に設けられた取水堰です。この堰は、「固定堰」と「仮設堰」(投渡堰、なげわたしぜきと呼ばれる)を組み合わせて構成され、世界でもここだけとされているそうです。こちらが投渡堰部分です。投渡堰とは、固定的な支柱の桁に仮設材として丸太や木の枝を柵状に配置したものです。よく見るとコンクリート柱の堰柱の間には仮設の木材で締め切られています。これは、増水時には桁を上げて仮設の木材を意図的に多摩川本流に流下させることができます。これは、圧倒的な自然の力に逆らうことなく堰や水門を守り、洪水を回避する目的で設計されているそうです。堰が設置された当初からこの構造になっているそうです。また、堰の下流側には第二水門が設置されていて、玉川上水へ流れ込む水量を調節したり、流れ込んできた土砂を多摩川に戻しています。川の中心部には、固定堰になっています。固定堰は流れに直角ではなく斜めに造られているのは、越流する幅を長くして、洪水水位が上がることがなく洪水を流せる仕組みになっているのでしょう。堰柱と固定堰の間のスロープはかつて江戸(東京)へ木材を運搬する目的で設けられた筏の通し場のようです。このような工夫と歴史があるからでしょうか、「江戸の発展を支えた歴史的価値の高い施設であることに加え、設置当時の投渡しの技術が現在まで継承されている貴重な土木遺産」として羽村取水堰(投渡堰)は土木学会選奨土木遺産となっています。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その9) 羽村取水堰
2024年06月01日
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多摩川の流れです。羽村と言えば、玉川上水(→→→こちら)の取水口である羽村取水堰があります。これが、取水堰です。この玉川水神社は、玉川上水及び羽村取水堰の工事に当たった玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が水神を祀って創建した神社です。説明板には、次のように書かれていました。玉川水神社は、玉川上水築造に尽力した玉川庄右衛門・玉川清右衛門が承応年間(1652-1654)に創建、幕府が管理していといいます。大正10年水道拡張工事に際して取入口西側から現在の水道庁舎西側に移転したといいます。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その8) 玉川水神社
2024年05月31日
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羽村の町を訪れたのは4月7日。その頃は「はむら花都水のまつり」というイベントが開催されていて、チューリップ畑と多摩川沿いの堤防のさくら並木がメイン会場で、その近くにはこのよように模擬店が出店されていました。こちらが堤防沿いに桜が植樹された、この桜づつみ公園は「さくらまつり会場」となっていました。開花後のソメイヨシノの花弁の色は白に近く淡紅色です。ところが、散る間際になると、花弁や雄しべ、雌しべの基部(花の中心部)が赤くなってきます。「さくらつづみ植樹記念碑」がありました。この場所は多摩川の下流に見えたのは、江戸時代に町民の飲料水を確保するために築かれた羽村取水堰です。そして多摩川にたたずむカワウたちも、桜づつみ公園に咲く桜を眺めているんでしょうか?羽村市福島県人会から寄贈されたしだれ桜「三春の滝桜」も植樹されています。こちらが「三春の滝桜」だそうです。何十年、何百年先かわかりませんが、大切に育てて本家を越える桜の銘木になって欲しいですね。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その7) はむら花と水のまつり2024
2024年05月30日
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多摩川の堤防に着きました。堤防のそばには大きな杉の木が二本立っていました。羽村市教育委員会が設置した説明板がありました。大正土手 ・一本杉 多摩川べりのこの一帯は、根搦前 といい、羽村市唯一の水田地帯です。 明治末期、二回にわたる洪水で田畑が水没したことから、東京市(当時)が、大正2年(# 1913)に本格的な護岸工事に着手、同12年に一本杉前護岸工事 を完成させ、この地域の水防態勢が整備されました。 大正時代につくられたということで、「大正土手」と呼ばれていますが、平成6年(1994)に新たに改修工事が行われ、桜並木が一新されました。またこの土手は、市民の散歩コースとしても親しまれています。 大正時代の工事以前から土手上に孤立していた大杉には「一本杉」の名があり、対岸の丸山から狐火が飛んだなどの言い伝えが残されています。平成7年3月羽村市教育委員会と記されています。一本杉といいながら二本あるのはちょっと不思議”ですね。この説明板の横に建てられていた石碑です。文字がはっきりと詠めませんでしたが、おそらく大正土手が東京市によって建設されたことを伝える内容が記されているようでした。また大きな切株があり、その横に一本杉に関する説明板も羽村市により設置されていました。この説明板には、初代一本杉大正時代の護岸工事以前から、土手上のこの場所に一本だけ独立していた大杉で、「一本杉」という名があり、対岸の丸山から狐火が飛んだなどの言い伝えが残されるなど、古くから地域のシンボル的な存在として親しまれてきました。一本杉は、これまでの度重なる落雷などが原因で、樹齢170年(推定)の生涯を平成25年9月19日に終えました。樹高は約25メートル、幹回り3.05メートルあり、樹木(幹)の一部は郷土博物館で保存されております。※写真は、昭和60年頃の一本杉を写したものです。羽村市と記されていました。、(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その6) 多摩川の大正土手と一本杉
2024年05月29日
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羽村市は多摩川の河岸段丘の上に広がっている町のようで、多摩川に降りていくための坂道が、この坂道には「雨乞街道」という名称がありました。説明板には、真夏の日でりが続くと田ノ上地区の人たちは裸で、この街道を通り、丸山下にある渕へ行き、木製の龍頭をしずめて、雨ごいをしたといわれています。水の乏しい台地の上にある地区では、干ばつの被害を受けやすく雨乞いは大切な行事だったんでしょうね。この坂道の下には、水田が広がっていました。羽村市内唯一の水田地帯である根がらみ水田ですが、休耕期間を利用して、このようにチューリップが栽培されていて、人々の目を楽しませてくれています。野生のチューリップは、十字軍によってもたらされたとされ、その後、トルコで品種改良が重ねられて園芸種が、十六世紀にオランダ商人によって紹介されるようになったそうです。チューリップの名前の由来は、通訳が「形がチュリバンに似ている花」と説明したことから、その後チューリップになったとされています。ちなみに、チュリバンとはペルシア語でターバンを意味するそうです。チューリップ畑を見下ろせる展望台も設置されていましたが、営業時間は午前10時から午後5時までだそうで、訪れた時は営業開始前の時間でした。東京都内でも、東京都足立区鹿浜にある都市農業公園や立川市にある国営昭和記念公園でもチューリップが楽しめるそうですが、ここ羽村市のチューリップ畑は、関東最大級の約35万球ものチューリップが咲き誇るそうです。こちらのチューリップはこれから咲くようですね。ミニチュア水車の展示も行われているようでした。できれば水車を回して発電でもしていると、再生可能エネルギーと地球温暖化対策について子供たちに教えることができたんでしょうけどね。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その5) チューリップ畑
2024年05月28日
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そして、「玉川神社」(→→→こちら)に到着しました。寿永年間(1182年-1185年)に領主の畠山重忠一族が信濃国一宮の諏訪大社より分霊を勧請したことが起源と伝えられている神社です。その経緯より「おすわさま」と呼ばれて紹運来福の神様として、地域住民の崇敬を集めているそうです。この神社の春祭りを八雲祭、または天王祭といって、従来七月の暑い盛りに行われていたものが、 最近では四月第二日曜日に行われているそうで、MoMo太郎が訪れた4月7日(日)は、次の4月17日のお祭りに向けて、氏子の皆さんが準備に忙しくしているところでした。お祭りでは、神輿渡御と山車巡行が行われているそうで、山車も洗車してお祭り準備をしていました。ちなみに羽村市では、毎年4月の第二土曜日と第二日曜日に「羽村春祭り(八雲神社春季例大祭)」が開催されていて、市内6社(五ノ神社:ごのかみしゃ/玉川神社/阿蘇神社/神明神社/松本神社)の神社の山車や神輿が市内を練り歩き、また、八雲神社の神輿が勇ましく川を渡るところが見ものだとか。また、「西多摩小学校発足の地」という説明板もありました。明治10年(1877年)春、境内に羽村で最初の小学校ここ玉川神社の境内に校舎を新築し「羽村学舎」と称したそうで、明治22年(1889) 羽村・五ノ神村・川崎村が合併して西多摩村となり「西多摩尋常高等小学校」と 称し, その12年後に 現 羽村一中の所在地に校舎を新築, 移転。したそうです。昭和6年(1931)「西多摩国民学校」, 昭和22年(1947)「西多摩小学校」と校名を変更。昭和31年(1956)町制施行により羽村町が誕生。(1991年に 羽村市) 「羽村小学校」と校名変更。翌年 現在地(羽加美4-2)に移転し, 「羽村西小学校」となる。あったのは、この説明板だけで、石碑などは見つけられませんでした。このような住宅街の中を通って、多摩川の方に向かいます。この道は、水上公園通りという洒落た名前がついていました。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その4) 玉川神社
2024年05月27日
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新奥多摩街道の交差点にあった銅像です。「なかよし」という名称がついていました。しかし、年齢が4~5歳の子供がモデルとすれば、この様子、ちょっとマセ過ぎていませんか。道沿いに護国神社がありました。郷土の出身者で戦役で亡くなった人々の英霊を祀る護国神社、各地にありますね。境内にあった石碑です。こちらは「平和之礎」と刻まれた石碑で護国神社にふさわしく、西南戦争、日清戦争・日露戦争、そして太平洋戦争の戦没者を慰霊顕彰したものでした。こちらの「戦役記念碑」も日清戦争・日露戦争に従軍された兵士の顕彰のようですね。「希典書」とあったので、乃木希典将軍が揮毫したのでしょうか。こちらの石碑は「下田君伊左衛門之碑」とありました。碑文を正確には理解できませんでしたが、戦争で活躍した人ではなく、郷土の発展に尽くされた下田伊左衛門という方の顕彰碑のようです。さらに肖像画のレリーフが着いたこの石碑は「井上新吉君碑」とありました。この方もこの地域の発展に尽力された方なんでしょうね。また、道路沿いに立つこの銅像を目印に新奥多摩街道の方に向かいました。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その3) 護国神社
2024年05月26日
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ちょっと歴史がありそうなアパートを発見。屋根の上にあるこの飾り、避雷針?でもリンゴの形とは、設計した人の意図が気になりますね。住宅街の中にあるこの公園。介山公園とありました。この公園は小説「大菩薩峠」の作者・中里介山(→→→こちら)が建設した「大菩薩峠記念館」の跡地に造られた公園だそうです。このような石碑も建立されていました。石碑の横にあった碑文です。中里介山はこの羽村市の出身だったそうですね。MoMo太郎も「大菩薩峠」読みました。主人公は机竜之助という剣士だっんですが、話が進むうちに、いつのまにか新選組やら幕府の旗本とか、その他の人物が出てきて、なんだかよくわからなくて、最後は蒸気船を建造して南の島へ行くようになっていて、結局、作者の中里介山が亡くなったので未完のまま終わったような・・・だったと思います。文庫本にして20巻くらいの大長編小説でした。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その2) 中里介山の出身地でした
2024年05月25日
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2024年4月7日(日)新宿発の特別快速ホリデー快速おくたま3号に乗って、JR青梅線の羽村駅までやって来ました。こちらは羽村駅の西口です。JR東日本が開催する「駅からハイキング」のイベントに参加するため、初めて、羽村市を訪れました。その西口から少し西に向かって歩き、羽村市観光案内所で、駅からハイキング「春爛漫のはむら~関東最大級のチューリップ畑を訪ねて~」のコース地図ももらつて出発です。今では住宅街の中の狭い道ですが、実は歴史的な道で、鎌倉街道(→→→こちら)という道だったそうです。鎌倉街道は、鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が置かれた鎌倉と各地とを結んでいた古道を指すそうで、多摩地区の鎌倉街道は青梅市新町から羽村駅西側を通り、羽村東小学校を経て遠江坂を下り。多摩川を渡っていたと考えられています。こちらの道は旧青梅街道になるそうです。新宿から青梅に向かう、青梅街道は、瑞穂町から青梅市に入り、羽村市は通っていません。しかし、かっては福生から、羽村小作台に向かう、青梅街道があったんですね。旧青梅街道と旧鎌倉街道の交差点にあった石碑と説明板です。石碑に刻まれた文字は、薄くなってよく読めませんでしたが、この説明板によると青梅街道の井戸明治18(1885)年島田善助翁の努力によって彫られた井戸がありました。そのころは、青梅街道や新田街道の辻󠄀で付近は畑ばかりでした。道を行き来する人々や畑で働く人たちの飲み水のために、この井戸は大変役立っていたのです。明治27(1953)年、青梅鉄道が開通し、近くの羽村駅7付近にも人家が建ち始めました。井戸は西多摩村(現羽村市)に寄付され、この付近の発展に大きな貢献をしたことから昭和28(1953)年、善助翁の不滅の善行を永く記念する碑が建てられました。平成31年3月 羽村市教育委員会とありました。ということはつい最近まで、この井戸と石碑は余り人に顧みられることもなかったんですかね。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その1) 鎌倉街道を歩く
2024年05月24日
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目黒川沿いを歩いて駅からハイキングのゴールである五反田駅に向かいます。川岸に桜並木があり、花見の時期には多くの見物客で賑わのでしょうが、訪れた2月12日は花見客もいませんでした。川沿いに広場がありました。五反田ふれあい水広場(→→→こちら)です。親水広場と芝生広場があって、およそ1.8ヘクタールの広さがあるそうです。この近くにあった旅館山水荘(→→→こちら)。昭和にタイムスリップしたような和風の旅館。東京の真ん中にもこんな旅館が残っていたんですね。そして、山手線の線路の下を抜けると、東急池上線の五反田駅のホームの橋が見えてきました。どうして東急の五反田駅(→→→こちら)ってこんな高い所にあるんでしょうかね。色々な歴史的な経緯があるんでしょうね。そして五反田駅が見えてきました。ゴールの五反田駅に到着です。閑静な住宅街と商店街のある目黒から戸越、大崎そして五反田エリア。なかなか魅力的な街を散歩できた一日でした。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【了】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その16) 目黒川と五反田ふれあい水辺広場
2024年03月28日
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昨日の投稿に対して、このようなコメントをいただきました。先週 戸越銀座のコメントですが私は電柱がある時に歩きました現在街灯の支柱が立ってるところに電柱があった電柱がない代わりに少しは歩きやすくなったでしょうねってそんな思いで書いてあるんですがその内容のお返事は無視ですか?コメント省くのにもほどほどに。MoMo太郎は一応頂いた全てのコメントに対して、自分のブログの中でのみ返事を書いており、それはコメント欄の下に表示されています(この方へも通り一遍ではありますが、返事も書いております)。またコメントを頂いた人のブログのコメント欄には投稿していません。他の人のコメント欄に自分へのコメントの返信を投稿することよりも、その方が投稿された記事への感想などをコメントすることを優先したいと思うからです。MoMo太郎は大喜利の名人でもないので、いただいた全てのコメントに面白い返事や気の利いた返事を書くこともできませんので、期待されるのもほどほどにご容赦願います。m(_ _;)m大崎駅にやってきました。明治34年(1901)に開業した駅で今年で123年目になります。山手線、湘南新宿ライン、埼京線、相鉄線直通列車など、多くの路線が乗り入れており、交通の要所といえる駅です。跨線橋を歩いて駅の東側に向かいます。大崎駅のホームが下に見えました。こちらは西口にある長距離バスのターミナルです。改札口です。駅の東口に出ました。大崎地区は当初は畑が広がる地域でしたが、明電舎などの電気機器メーカーが大崎工場を創設し、工業地域として発展してきました。そして、1980年代に東京都が指定した副都心として再開発され、大崎ニューシティやゲートシティ大崎などの施設が建設されて都内でも有数のビジネスエリアになってます。目黒川(→→→こちら)です。この辺りは河口に近くなっています。河口付近では湊が開かれ、品の行き交っていた川であったことから、地名「品川」と呼ばれるようなったという説もあるそうです。目黒川を越えたあたりにも多くの高層ビルが建設されていました。東京ってそんなにビルの需要があるんですかね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その15) 大崎副都心
2024年03月27日
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閑静な住宅街の中に鳥居が見えてきました。ここが大崎鎮守の居木(いるぎ)神社です。ここを訪れたのは2024年2月12日ですが、境内の梅の木は満開でした。白梅ですね。青空に映えています。こちらは枝垂れ梅。紅梅でした。居木神社のご由緒がありました。この神社、江戸時代初期には目黒川に架かる山手通りの居木橋付近にあったのですが、川の近くにあったため風水害の被害を受けやすく、村民らによって現在の地に遷座されたそうです。御祭神は叡智と武勇の神とされる日本武尊だそうです。早速お参りさせていただきました。扁額には「大崎鎮守 居木神社」とありました。鎮守神とは、人間がある土地に人工物を造営したとき、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、そのの土地に住む神(地主神)よりも霊威の強い神を新たに勧請して祀った神様のことだそうです。だから日本武尊が御祭神なんですね。また、JA東京グループによる江戸東京野菜「居留木橋カボチャ」(→→→こちら)に関する説明がありました。京野菜というのはよく聞きますが、江戸東京にも練馬ダイコンのような伝統的な野菜があったんですね(→→→こちら)神社の石段の途中にあった居木橋遺跡の看板です。居木橋遺跡は居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約六千年~五千年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居跡も多数確認されているそうです。こちらの石段が居木神社の表参道なんでしょうか。石段を降りて、斜面の途中に変わった石が積まれていました。改めてみてみると溶岩のような石が積まれていて、これは富士塚だそうです。石段を降りて細い参道を歩いて、社号碑もあって、どうやらこちらが表参道なんですね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その14) 大崎鎮守 居木(いるぎ)神社
2024年03月26日
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国道1号と戸越銀座商店街が交差する戸越銀座交差点です。駅からハイキングのコースでは、ここからJR大崎駅に向います。この道が国道1号です。国道一号からこの百反通りに入ります。百反通りは、東京都品川区大崎4丁目から西品川3丁目までの延長 1100mの道路の呼び名です。品川区が定める道路愛称名のひとつで、古くは「百段坂」と呼ばれる階段状の坂だったそうです。さらに百反通りから、こちらの峰原通りに入っていきます。この峰原通りも品川区が定めた道路愛称名になります。峰原とは、明治時代の谷山(ややま)村時代からこの辺一帯の地名で現在の大崎3・4丁目付近にあたるそうです。さらにこの峰原通りから分かれて芳水小学校(→→→こちら)の方に歩いて行きます。芳水小学校の「芳水」は、この小学校が明電舎(→→→こちら)創業者の重宗芳水が設立に私財を投じたことにちなむそうです。住宅街の向こうに大崎駅前の高層ビル群が見えてきました。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その13) 大崎へ向かいます
2024年03月25日
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東急池上線の戸越銀座駅にやって来ました。所在地は「平塚」であることから当初は「平塚駅」になる予定でしたが、既に同名の駅が東海道本線にあったため知名度の高い「戸越」が仮駅名として選ばれた後、地元商店街からの要望で現在の「戸越銀座」と命名されたそうです。駅のすぐ横は。踏切となっていて、改札口は上下線別々になってます。こちらは蒲田方面の入口になります。戸越銀座駅のホームです。屋根が木製で意外とオシャレですね。東急の1000系電車がやって来ました。以前は車体カラー帯は赤だと思っていましたが、最近はグリーンに変わったんですかね。東急にはほとんど乗らないのでその変更に気がつきませんでした。池上線は五反田と蒲田を結ぶ路線です。むかし西島三重子(→→→こちら)というシンガーソングライターの方が歌っていた「池上線」(→→→こちら)という曲があったことを覚えている人は少ないでしょうね。戸越金座商店街、駅を越えてまだ続きます。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その12) 戸越銀座駅
2024年03月24日
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中原街道を五反田方面に歩いて、ここ荏原二丁目の交差点にやって来ました。ここが戸越銀座商店街(→→→こちら)の中原街道側の入口になります。この通りが戸越銀座商店街になります。戸越銀座商店街の路面は、こんな石畳になっています。電柱は立っていませんが、街灯は立っていて、街灯の柱には「とごしGINZAどおり」と表示されたプレートが取り付けられています。戸越銀座商栄会の旗も取り付けられていました。商店街は、東急池上線の「戸越銀座駅」を中心に全長約1.3kmにわたる関東有数の長さを誇り、商店街沿いには約400件の店舗が軒を連ねていて、メディア等からの注目度が非常に高く、下町情緒あふれる商店街として雑誌やテレビで度々取り上げられているそうです。ちなみに「戸越」と言う地名の由来のひとつに、江戸から現在の戸越を越えると、相模の国(神奈川県)に入ることから、この地が古くは「江戸越えの村」と呼ばれ、やがて「戸越」になったという説があるそうです。そんな戸越銀座商店街、全国的にも知名度が高く、近隣からの買い物客だけではなく商店街自体に遊びに来る、観光を目的とした来訪者も増えているそうです。まあ、MoMo太郎もそういう中のひとりですね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その11) 戸越銀座商店街
2024年03月23日
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この賑やかな武蔵小山商店街パルムを抜けると、中原街道(→→→こちら)に出ます。中原街道を東の五反田方面に向かって歩きます。途中で中原街道はふたつに分かれています。こちらの道は旧中原街道だそうです。この中原街道は、東海道に対して、江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)と平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿)とを結ぶ脇街道とされ、横浜や藤沢を通る東海道に比べて、江戸 - 平塚間をほぼ直線につなぐため、最速ルートとして利用されています。また大名行列も通らないことから、庶民や商人が利用しており。赤穂浪士も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたといわれています。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その10) 中原街道
2024年03月22日
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武蔵小山駅前にある武蔵小山商店街パルム(→→→こちら)です。次はこの商店街の中を歩きます。商店街の中に入るといきなり道が二又に分かれていました。こちらの道よりは、こちらの道の方が広いので、こちらに進むことにしました。丁度、この辺りが駅からハイキング「冬の自然や商店街を楽しむのんびり散歩~林試の森を抜けたらそこはふたつの商店街でした~」のコースの中間地点です。武蔵小山商店街「パルム」は武蔵小山駅から中原街道までの、東京都内では最長の800mのアーケード街で、昭和31年(1956)の完成当時は「東洋一」と称えられ、現在でも約250店舗を有する都内でも有数の商店街で。テレビなどでも度々取り上げられています。その商店街の運営の中心となる武蔵小山商店街振興組合の事務局があるパルム会館です。このパルム会館で駅からハイキングの記念品がもらえるというので、入ってみると、時節柄ですね、ひな人形が飾られていました。そしていただいてのが、このカード。1970年頃の二代目となるアーケードの写真でした。単なるカードでクオカードでも商店街のポイントカードでもありません。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その9) 武蔵小山商店街パルム
2024年03月21日
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この門から林試の森公園を後にしました。この門の名前「水車門」と言うそうです。門からでた少し先にあるこの小屋が、水車はついていませんでしたが、水車小屋だっんですね。この近くを品川用水(→→→こちら)というかんがい用水路があったことから、それに関連した歴史を記した施設なんだろうと思います。さらに歩いて行くと、手押しポンプもあったりして、水にかんする歴史を感じたりしました。そして、東急電鉄目蒲線の武蔵小山駅にやってきました。武蔵小山駅(むさしこやまえき)と読むんですね。平成18年(2006)に地下化されています。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その8) 水車門から武蔵小山駅へ
2024年03月20日
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林試の森公園(→→→こちら)の西門に到着です。こちらが西門。自転車でやって来ているのは御近所の人なんでしょうね。こんな公園が近くにあるつていいですね。林試の森公園は、林業・森林の研究機関「林業試験場」が昭和53年(1978)に筑波研究学園都市に移転した跡地を東京都が払い下げを受けて「都立林試の森公園」として平成元年(1989)に開園したもので。面積は12ha(約36,000坪)あるそうです。園内にはこのような林に囲まれた、だだただ広い広場があってのびのびとして過ごすことができたり、森林浴気分で木立の中を散策できたり、子供たちのための遊具があったりで、楽しく一日ピクニック気分で遊べそうです。最近は、こういうタイプのペットボトル専用のごみ箱が設置されていることが多いですね。下から上に向けてペットボトルを差し込んで捨てるため、紙ごみなんかは捨てにくくなっています。都立公園の歴史は、明治6年(1873)の上野恩賜公園(→→→こちら)が開園したことに始まるので、150周年ということになるんですね。冬なので水がないのですが、子供たちが水遊びできるようと作られたジャブジャブ池です。園内にある池です。公園の敷地はもともは湿地だったんでしょうね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その7) 林試の森公園
2024年03月19日
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目黒通り沿いにあるこの目立つヨーロッパ調の建物は、東京バレエ団(→→→こちら)の建物です。やはりバレエというとヨーロッパやロシアの芸術ということで、こういう雰囲気の建物に普段から住んでいないといけないのかも。ここは東急バス目黒営業所です。バス営業所を過ぎて、目黒郵便局の前の交差点を左折して26号線通り(→→→こちら)と呼んでいる戸越方面に向かう道を歩いていくと、庚申塔がありました。ここは清水庚申塔(→→→こちら)と言うそうです。やはり、江戸時代は庚申信仰が盛んだったため、こういう庚申塔や庚申塚があちらこちらに残っているそうです。ということで、庚申信仰について、少し調べてみました。60日に1度巡ってくる「庚申(かのえさる)の日」の夜に眠ってしまうと人の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあったてそうです。その報告内容の罪状によっては寿命が縮まるというので、寿命が縮まらないよう、庚申の日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしたそうです。しかし、眠らないように夜にみんなで集まっていると、やっぱり楽しい懇親会となって飲んだり食べたりするようになり、この懇親会を庚申講というようになりました。そして、この庚申講を3年18回続けた記念に建立するのが庚申塔(又は庚申塚)だそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その6) 清水庚申塔
2024年03月18日
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さらに歩いて、多摩大学目黒中学校・高等学校(→→→こちら)というのを見つけました。最初は昭和12年(1937)に目黒商業女学校として発足した学校ですが、時代ともに発展してきて、平成元年(1989)に多摩大学を設立し、平成7年(1995)には多摩大学目黒中学校・目黒高等学校と校名を変更し、今では男女共学の学校になっているそうです。なかなか洒落たデザインの校舎ですね。さらに西に進んで、こちらのバス停。名称が「元競馬場前」です。ここには、今は東京都府中市にある東京競馬場へ移転しましたが、明治40年(1907)から昭和8年(1933年)まで、目黒競馬場(→→→こちら)という施設があったそうです。また、競馬は軍馬改良の為の馬匹の質の改善を目指した軍部の意向で始まったそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その5) 多摩大学目黒中学校・高等学校と元競馬場前
2024年03月17日
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さらに目黒通りを西向かって歩いて行くと、目黒寄生虫館(→→→こちら)がありました。名前の通り、「寄生虫」を専門に扱う研究博物館で、南満洲鉄道株式会社の衛生研究所に勤務していた医学博士・亀谷了(かめがい さとる)が私財を投じて昭和23年(1953)に創設した私立博物館です。国内外から収集された約300点の寄生虫の標本資料や関連資料が展示されています。私立博物ではありますが、入館料は無料です。しかし、入館料を徴収しないため来館者による寄付金とともに寄生虫に関する書籍やTシャツやキーホルダーなどのグッズの販売が収入源となっています。入館して寄生虫のホルマリン固定標本や寄生虫罹患者の写真等を見学するのは大変参考となりました。寄生虫といえば、MoMo太郎が以前住んでいた福岡県久留米市では、日本住血吸虫症という寄生虫による風土病があり恐れられていましたが、その日本住血吸虫の宿主のミヤイリガイ(宮入貝)撲滅が行われ、日本住血吸虫症を克服したそうです(→→→こちら)。下の写真は久留米市宮ノ陣と小森野の間にあるリバーサイドパークに建立されたそのミヤイリガイの供養石碑です。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その4) 目黒寄生虫館
2024年03月16日
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目黒通りと山手通りの交差点には目黒総鎮守の大鳥神社(→→→こちら)があります。折角の機会、大鳥神社にお参りさせてもらいました。この由緒によれば、景行天皇(西暦71年~130年)の時代に当地に国常立尊(日本の国開きの神様)を祀った社があり、景行天皇の皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷平定の折にこの神社に立ち寄って、平定達成と部下の目の病の治癒を祈願したそうです。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806年)に社殿が完成したそうです。そのため目黒区最古の神社ということになったそうです。浅草にある酉の市で有名な鷲神社(→→→こちら)、台東区鳥越の鳥越神社(→→→こちら)など都内にある「鳥」の名前がつく神社では、日本武尊が御祭神として祀られているのは、日本武尊が死後、白鳥となって飛び立ったたことに関連しているんでしょうね。そして、大阪府堺市にある大鳥神社(→→→こちら)は、その白鳥となった日本武尊が最後に舞い降りた場所であり、全国の大鳥神社および大鳥信仰の総本社とされているそうです。また、日本武尊が部下の目の病を治癒を祈願し、無事治癒したことから、盲神(めくらがみ)と呼ばれ、この「めくら」が段々と訛っていき「目黒(めぐろ)」という地名の由来になったんだそうです。境内にある大きなイチョウの木。御神木となっているそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その3) 目黒総鎮守大鳥神社
2024年03月15日
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目黒通り(東京都道312号白金台町等々力線)をさらに西に向かって歩くと、橋の大きな親柱が見えてきました。目黒新橋という橋です。この橋の下を流れる川が目黒川(→→→こちら)です。さらに目黒通りを西に向かって進んでいくと、山手通り(東京都道317号環状六号線)(→→→こちら)との交差点に差し掛かります。この下の道が山手通りになっています。立体交差になっていて、山手通りから目黒通りに入るには、側道を通るようになっています。まだ免許取りたての頃、MoMo太郎はこのことに気がつかず、随分、遠回りをして道に迷ったことがありました。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その2) 目黒川と山手通り
2024年03月14日
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2月12日は月曜日でしたが「建国記念の日」の振替休日でした。ということでJR東日本が催行している「駅からハイキング 冬の自然や商店街を楽しむのんびり散歩~林試の森を抜けたらそこはふたつの商店街でした~」に参加してきました。その報告です。やって来たのは、目黒駅。改札口の前では参加者の受付中。ここで今日歩くコースの地図を渡されて、目黒駅です。西口から歩き出します。目黒駅から出て、しばらく歩くと目黒区に。目黒通り(東京都道312号白金台町等々力線)に沿って歩きます。ここから少し下り坂になっています。この坂道は「権之助坂」坂の名は菅沼権之助(→→→こちら)に由来するそうです。この人は、元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主だったそうで、権之助が坂を開いたとする説や、重たい年貢に苦しむ農民のために年貢軽減を直訴してそのために処刑された権之助の名を、慕う農民が開かれたばかりの新坂につけたとする説などがあるそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その1) 目黒駅からスタートです
2024年03月13日
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ダムの湖面がキラキラと光を反射しています。奥多摩湖は蛇行しながらこの山々の奥深くまで広がっています。湖面には浮橋が架かっていますね。浮橋には船が係留されています。この船は遊覧船ではなく、水道水となる奥多摩湖の水質を監視する船だと思われます。小河内ダムの堤体の上は人が歩いて対岸まで行けるようなっていました。堤体には2つの塔があります。この塔はダムの堤体の中を点検するためのエレベーターや階段があるものでしょう。ダムの竣工年月が記された銘板が堤体の柵の親柱に埋め込まれています。重力式コンクリートダムの下流側です。勾配が急ですが、重力式コンクリートダムの下流側の勾配、大抵のダムは1:0.8の勾配(垂直に1メートル上がると、水平に0.8メートル進む)になっているケースが多いです。これはダムの転倒に対する安定計算の結果です。堤高は149メートルです。大体ビルの50階から見下ろす感じです。ダム下流のダム直下には水力発電所があります。2つある塔の一つは、小河内ダムの展望塔として中に一般の人が入れるようになっています。展望塔の2階には小河内ダム周辺も含めた航空写真が床に置かれていました。3階からは小河内ダムとその貯水池が展望できます。窓ガラス越しに奥多摩湖を撮影したので反射して撮影者の手が写り込んでいます。ダム下流側の多摩川の渓谷です。この渓谷の中に奥多摩むかし道があり、そこを歩いてきました。次にダムのこちらを歩いて右岸側まで行ってみます。右岸側にの広場にこんなモニュメントがあります。ダムの工事で87名の尊い命が失われました。その慰霊碑です。ダムの上流側です。一直線に延びたダムの堤体です。こちらには、錆びた金属製の物が置かれています。こちらはダムのコンクリートを打設するのに使われたコンクリートバケットです。今は色んな工法が開発されているようですが、小河内ダムが建設された時代はダムの両岸に鉄塔を建て、その間をケーブルで結び、そのケーブルにこのコンクリートバケット吊られていて、必要な場所にコンクリートを打設する方法が一般的でした。しかし、どうやって両岸の鉄塔にケーブルを掛けたのでしょうか?ドローンにケーブルの端をつけて、対岸に飛ばしたんでしょうか。その頃からドローン使われていたんですかね。考えてみて下さい。こちらは浮橋を浮かべるために使われたドラム缶の浮具です。というわけで、歩き疲れたので、帰りはバスに乗ってJR奥多摩駅に戻りました。このバス奥多摩湖が始発バス停というのではなく、ダム上流の集落からやって来るようで、バスの座席はもう埋まっていましたから、駅まではパスの中で立って帰りました。ちょっと疲れましたが、なかなか山の緑が楽しめたハイキングでした。(奥多摩むかし道を歩くコース)【了】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その20) ダムの上から
2023年05月27日
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ここまでやってきて、小河内ダムとダムによって生まれた小河内貯水池(通称「奥多摩湖」)(→→→こちら)も見学してみました。山あいに広がるエメラルドグリーンに輝く湖。しかし、普段からこの水を都民が飲んでいるわけではないようです。小河内ダムの完成当時、東京の水源は主に多摩川水系に依存していましたが、現在は都の水源の約20%となっています。 しかし、小河内ダムは東京都の独自水源として、利根川水系の渇水時や事故時には放流量を増やすなど、住民の安定給水の確保に重要な役割を果たしています(→→→こちら)。正面に見えるのが小河内ダムの堤体です。小河内ダム について簡単に諸元を記すと 所在地:東京都西多摩郡奥多摩町 河川:多摩川水系多摩川 目的:上水・発電 ダム型式: 重力式コンクリート 堤高:149m 堤頂長:353m 堤体積: 1676千m 流域面積:262.9km2 ( 全て直接流域 ) 湛水面積:425ha 総貯水容量:189100千m3 有効貯水容量:185400千m3 着手:1936年(昭和11年) 竣工:1957年(昭和32年) ダム湖名 奥多摩湖 (おくたまこ)我が国屈指の大ダムで、世界最大の水道専用ダムといわれることが多いそうです。「東京水道~企業の森(ネーミングライツ)」の取り組みが紹介されていました。ダムの水を生み出すためには、ダム流域の森林を育むこちが大切で、東京都水道局が企業と連携した森づくりとして水道水源林の一部の森林にネーミングライツを設定し、企業からの寄付をいただき、森づくりを行っているそうです。こちらは人間日時計というもので、この日時計の中心部を通るライン上に日付の目盛りがあり、その位置に立つと日時計のように時刻がわかるようになっています。日時計の周囲には、小河内ダム建設の歴史を記した説明板が展示されています。小河内ダム建設には長い道のりがあり、ダムに着手したのが1936年(昭和11年)で、途中戦争による中断をはさみ、完成したのは1957年(昭和32年)という21年間もの時間を要しています。「湖底の故郷」と刻まれた石碑がありました。揮毫は日本におけるスポーツ医学の草分けとなった医師であり、1959年(昭和34年)~1967年(昭和42年)の二期にわたり東京都知事を務めた東 龍太郎氏です。IOC委員を務め最初の東京オリンピック開催への功績も大きい方です。石碑の裏側には、歌手の東海林太郎さんが歌う「湖底の故郷」(作詞・島田磬也、作曲・鈴木武雄)という昭和12年に発表され、全国的に愛唱された歌が刻まれた歌碑となっています。ダム建設に伴い、東京都の小河内村、さらに山梨県丹波山村・小菅村を合わせ、945世帯6000人(小河内村は600世帯、3000人)ほどが移転を余儀なくされ、村を離れることの思いを歌にしたそうです。夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らすさらば湖底の わが村よまた、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々のその後を描いた石川達三氏の小説「日蔭の村」(→→→こちら)をはじめいくつかの書籍もあるようですね。こちらは、ダムの洪水吐です。最大洪水量1,500m3/sを流下させることができるようです。仮面ライダーシリーズ第1作「仮面ライダー」の第1回に登場した怪人、蜘蛛男とライダーが戦った場所であり、最近公開された映画「シン・仮面ライダー」でも、人間とクモの合成した怪人のクモオーグとライダーはこの場所で戦っています。この洪水吐のゲートの上を越えてダム本体の方に向かいます。この湖底にも、人々の営みがあったという、その重みを感じて、これからは水道水を使わせていただきます。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その19) 奥多摩湖と湖底の故郷
2023年05月26日
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奥多摩むかし道を歩いていると、所々で見かけた看板です。地球の環境を守るために森林再生間伐事業をやっいたのですね。ところでここで出てくる林班とは、林野庁のホームページによると、森林の区画の単位で、都道府県が作成する地域森林計画の森林計画図において定められます。行政上の字界、尾根や川などの天然地形又は道路などの地物をもって区画して設定されています。市町村ごと(又は一定地域ごと)に一連の番号が付けられており、森林計画図でその区域を確認することができます。ということでした。奥多摩湖まで600mのところまでやって来ました。ここから先の道は舗装された道です。国道411号線、青梅街道に出ました。ここは秩父多摩国立公園なんですね。そして、ゴールの奥多摩水と緑のふれあい館(→→→こちら)に到着しました。この施設は、東京近代水道100周年と小河内ダム竣工40周年の記念事業として、 東京都水道局と奥多摩町の共同で、1998年に開館した施設です。郷土の歴史・文化、都民の水源地である奥多摩の豊かな自然や、ダムの仕組み、水の大切さなど3Dシアターやジオラマ・ビデオなどで紹介しています。しかもMoMo太郎の大好きな入館料無料なんです。水と緑ふれあい館の前にあった変わったモニュメント。2013年9月29日に行われた東京国体(スポーツ祭東京)自転車競技ロードレース本番の、前年のプレ大会(第2回東京ヒルクライムHINOHARAステージ)を記念して設置された自転車ゆりーと像というそうです。ちなみに「ゆりーと」とは、第68回国民体育大会及び第13回全国障害者スポーツ大会を応援するための「ゆりかもめ」をモチーフしたキャラクターです。また周辺には、「登々、極水源 隔谷、幾村々 崖峻、泉鳴筧 岳高 雲入軒」昭和六稔二月廿二日武州小河内宿舎即興蘇峰老人と刻まれた石碑がありました。徳富蘇峰(→→→こちら)の詩碑「登々、水源を極め 谷を隔て、幾村々 崖けわしく、泉は筧(かけひ)を鳴らし 嶽高く、雲軒に入る」というもののようです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その18) 奥多摩水と緑のふれあい館
2023年05月25日
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いよいよ奥多摩むかし道を歩く行程も大詰めで、奥多摩湖(小河内ダム)に近づいてきました。そして、奥多摩湖へ向かって、この山道に入ります。やがて木立の隙間から小河内ダム(→→→こちら)の姿が見えてきました。言うまでもないことですが、小河内ダムで堰き止められてできた貯水池が「奥多摩湖」と呼ばれています。そして、奥多摩湖まではあと2.5kmとなり、いよいよゴール間近かと思いましたが、よく考えてみれば、ダム両側の山というのはダムの高さより高くないと水が貯まらないわけですから、急な山道を登り続けないといけません。ここでギブアップも思いましたが、こんな山の中にタクシーは来てくれない。ということで歩きます。見晴らしのよいところで多摩川の下流側を撮影しましたが、本当に山深いところだと改めて思いました。山の斜面にへばりついたような未舗装で細い山道が続きます。防護柵があるので安心ですが、なければとても危険です。奥多摩むかし道は旧青梅街道だったといいますが、こんな険しい道だったんでしょうか?思うにダムができる前から旧青梅街道として人々が利用していた道は、ダムが出来て使えなくなったので、ダムの横を大きく迂回して山を越えていくようになったので、このような登山道が「奥多摩むかし道」として作られたのではないのでしょうか。そして、木立の隙間から見える小河内ダムの洪水吐です。大雨の時は洪水がここを越流していくのですね。「青目不動尊」なかなか有名なお寺があるみたいでしたが、かなり足にきていたので参拝は諦めて素通りしました。青目不動尊のあたりから見下ろした奥多摩湖です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その17) 山道続く、未舗装・道細い
2023年05月24日
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奥多摩むかし道にある川合玉堂(→→→こちら)の歌碑です。「山の上のはなれ 小むらの名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく」明治36年夏奥多摩中山郷付近にて詠みし奮作を志とする 玉堂と記されていました。こちらの看板も解説文がありましたが、文字は判読できませんでした。川合玉堂は、1944年(昭和19年)にかねてより写生で頻繁に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市御岳)に疎開し、1957年(昭和32年)、89才で他界するまで、奥多摩を離れることなく山や村などを描きつづけたそうです。小河内ダムに向かって更に歩いて行くと、また吊り橋がありました。道所橋という橋です。この橋も同時に渡れるのは2人までとなっていました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その16) 玉堂歌碑と道所橋
2023年05月22日
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昔は馬だけではなく牛も運搬の手段として使われていたそうで、牛馬の息災を祈る牛頭(ごず)観音が祭られているそうです。こちらの小さな石仏が牛頭観音です。素朴な感じがする石仏ですが、それだけに当時の人たちの祈りの気持ちが伝わってくるようです。石積みの中に目立たないように祭られている石仏がありました。むし歯地蔵尊だそうです。この目立たない石仏が、「むし歯地蔵尊」だそうです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その15) 牛頭観音とむし歯地蔵尊
2023年05月21日
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道の切羽面に説明板がありました。説明板には「縁結びの地蔵尊」とありましたが、お地蔵様の石仏、どこにも見当たりませんでした。切り立った崖にそって奥多摩むかし道は続きます。こちらにも説明板がありました。馬の水のみ場だそうです。茶店は今はありませんでした。馬の水のみ場にはまだ、清水が僅かですが、湧き出していました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その14) 縁結びの地蔵尊はなかったけど馬の水飲み場はありました
2023年05月20日
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多摩川沿いを歩く奥多摩むかし道、川に沿って渓谷があるようです。このあたりが惣岳渓谷と呼ばれるているそうです。渓谷美が木立の間からのぞき見えています。しばらく行くと大きな吊り橋があります。しだくら橋と呼ばれているみたいです。同時に渡れるのは2人までだそうです。全長は約67mだそうです。歩くとこの橋、よく揺れました。橋の上からは、「惣岳の荒」と呼ばれる渓谷美を見下ろすことができました。巨岩がゴロゴロとした荒々しい渓谷美です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その13) 惣岳渓谷としだくら橋
2023年05月19日
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駅からハイキング「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」、中間点を過ぎていよいよ後半戦です。石柱の道標を確認してみると、右 さかい村 奥多摩駅左 惣岳渓谷 小河内温泉と刻まれていました、しかし、温泉があるとは知りませんでした。前を向いても山。振り返っても山だけの道になりました。信仰の厚い山の暮らしなのでしょうか、また鳥居がありました。惣岳の不動尊と説明板に書いてありましたが、不動尊って仏教の神様では? とすると、神社を示す鳥居は謎ですね。そんなMoMo太郎の愚問に関係なく、道端の観音像が静かに微笑んでいました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その12) 惣岳不動尊
2023年05月18日
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奥多摩むかし道を歩いています。緑に囲まれた山道を歩いていくと、また説明板を見つけました。樹齢約200年のもみじの木だそうで、「いろは楓」というそうですが、「楓」という漢字なら「いろはかえで」と読むべきでは。そこで、もみじ(紅葉)とかえで(楓)の違いについて、Microsoft BingのAIに聞いてみました。かえでともみじの違いについてお答えします。かえでともみじは、どちらもムクロジ科カエデ属の植物で、植物学上では同じ分類です。しかし、一般的には、葉の切れ込みが深いものがもみじ、切れ込みの浅いものがかえでと呼ばれます。また、名前の由来にも違いがあります。もみじは、秋に草木が赤や黄色に色づくことを意味する動詞「もみず」からきています。かえでは、葉の形がカエルの手に似ていることから「カエル手」が変化したものとされています。日本では、紅葉の代表として「イロハモミジ」「ヤマモミジ」「オオモミジ」などの品種があります1。これらは葉の大きさや形、紅葉の色などで見分けることができます。ということです。葉っぱの形で見分けてみると、切れ込みが深いので「もみじ」ですね。そして、このあたりが今回の駅からハイキング「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」の中間地点になります。まだ、道半ばです。ここからもうひと踏ん張り、と思ったら、沿道のお宅によもぎ大福の無人販売所があったので、100円払って1個いただきました。こういう時の甘いものいいですね。MoMo太郎がお餅を食べ終えた時、3人連れのおば様方が来て、大福餅を見つけると、「500円硬貨しかないから、5個買うわ」と言って、3人で5個のよもぎ大福を買っていきました。3人で5個どうやって分けるのか気になりました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その11) 中間点でよもぎ大福
2023年05月16日
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奥多摩むかし道に沿って、また神様がおられました。耳神様というそうです。確かに穴の開いた小石が置かれていました。奥多摩の山村の人々の暮らしがうかがえる貴重な遺産ですね。そしてこの耳神様の頭上には、新たに整備された青梅街道のトンネルと、さらにその上にはかっての東京都水道局小河内線(→→→こちら)の廃線跡の橋梁がありました。天高くそびえる橋脚と橋桁、ダムを造るための鉄道建設も、本体のダム並みに大変な難工事だったのではないかと思わせますね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その10) 耳神様と廃線の橋梁
2023年05月15日
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白髭神社を過ぎて、少し行くと、ちょっと変わった岩がありました。この説明板によると、「弁慶の腕ぬき岩」というそうです。ごつごつとしたこの大きな岩の下側に、なるほど、大人の腕がちょうど入るほどの穴が巨石を貫いていました。先ほどの白亜の巨岩といい、大地の不思議な力を感じる奥多摩むかし道です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その9)弁慶の腕ぬき岩
2023年05月14日
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奥多摩むかし道沿いにある白髭神社です。神社はこの石段を登ったところにあります。巨岩が信仰の対象として祭祀されているそうです。MoMo太郎の知っている向島の白鬚神社の御祭神は猿田彦大神ですが、この奥多摩の白髭神社の御祭神は「巨岩」?石段の上はこのような崖に沿った細い道。そして木立の間から巨岩と社殿が見えてきました。大きな白亜の巨岩の陰にある、ここが白髭神社です。この石碑によると、社殿は昭和56年に再建されたようです。この白亜の巨岩は、約6000万年前の三世紀石灰岩が白亜紀泥質岩の上に急角度でせりあがってできたものだそうです。つまり、逆断層ですね。この大地が動かす力が祭られている白髭神社こそパワースポットではないでしょうか。【正断層と逆断層】正断層と逆断層の違いは、地殻の変動によって生じるひずみの方向にあります。正断層は、ひずみが引っ張りになるときに発生し、上部のブロックが下部のブロックよりも低い位置に移動します。逆断層は、ひずみが圧縮になるときに発生し、上部のブロックが下部のブロックよりも高い位置に移動します。正断層と逆断層は、地震や火山活動などの自然現象に影響を与える重要な構造です。(この解説は、Microsoft Bing のAIによって作成しものです)(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その8) 大地の力が宿るパワースポット、奥多摩の白髭神社
2023年05月13日
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奥多摩むかし道からまた廃線跡が見えてきました。このあたりはちょっとした集落になっています。これも小河内線の遺構ですが、なんか今でも機関車にけん引された貨車か走っていてもおかしくはないような景色でした。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その7) 天空に架かる廃線跡の鉄橋
2023年05月12日
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奥多摩むかし道には、このような石柱でできた道しるべも建てられています。槐木の地点を過ぎると、林道も兼ねているのでしょうか、このような舗装された道が続きいています。こちらの道しるべでは、奥多摩湖までまだ7.7Kmです。このまま舗装した平坦な道が続くことを願いました。と思ったら、この階段を上るのですね。階段の後はこのような舗装した道がありました。奥多摩むかし道、サイクリングで楽しんでいる人もいるんですね。初夏のこの時期、藤の花も咲いていました。しかし、藤の木って、他の自立している木に蔓を巻き付けて成長しているのですね。まるで自立せずに実家の親に居座って寄生しているパラサイトシングルみたいな植物ですね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その6) 舗装した道もありました
2023年05月11日
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旧青梅街道であった奥多摩むかし道に沿って石仏が並んでいました。随分、沢山の石仏が並んでいました。やはり、険しい旧青梅街道を往来した人たちが道中の無事を願って建立していたんでしょうか。奥多摩むかし道はハイキングコースとして整備されている面もあるのでしょう。所々にこのようなトイレと休憩スペースが設置されていました。また、このトイレの近くには祠が建てられており、小さな石仏と大きな馬頭観音像が祭られていました。花や吊し雛が供えられていて、地元の人たちの信仰を集めているようです。さらに大木があり、説明板も設置されていました。ここは、槐木(さいかちぎ)という場所で、ここにあるサイカチの大木が地名の由来となっているそうです。また、羽黒坂と桧村からの坂道を登りつめたところにありも休み場として賑わった場所だったようです。こちらが地名の由来となったサイカチの木です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その5) 石仏に込めた思い
2023年05月10日
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奥多摩むかし道、道標があるのでそれに従って歩いていけます。この日は奥多摩むかしみちセラピーウォークというイベントも開催されていたので、大きな案内看板もあってわかりやすく歩けました。この道が奥多摩むかし道。コンクリートですが舗装もしてあり歩きやすそうと思いましたが、・・・。旧青梅街道では羽黒坂と呼ばれる坂道だったそうです。昔の人たちの苦労を少し感じるウォーキングも悪くはないかと思いましたが、・・・。結構、本格的な山道になっていて、普通のスニーカーでやってきたMoMo太郎、この時点で、ちょっぴり後悔。そして、この後はもっと後悔、リタイアも考えることになりました。途中にあった立ち入り禁止のバリケード。奥多摩工業が設置したものです。草に隠れていましたが、よく見ると、線路の跡が、これも奥多摩工業が管理している東京都水道局小河内線(→→→こちら)の廃線跡ですね。さらに山道の木立に隠れてわかりにくいですが、廃線跡の橋梁とトンネルがあるのが見えました。トンネル後の坑口の真上から廃線跡を撮影しました。現在も東京都民の水道水源として重要な役割を担っている小河内ダムの建設用資材輸送用に東京都水道局が敷設・管理した小河内線。1952年(昭和27年)に開通し、1957年(昭和32年)までのわずか5年ばかり利用された仮設備のようなものだと思っていましたが、遺構としてかなりしっかりと残っているんですね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その4)羽黒坂と廃線跡のトンネル
2023年05月09日
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このあたりは交番(派出所)ではなく駐在所なんですね。二階建てになっているので、警察官やその家族の人が住んでいるんでしょうね。寺島進さんのような駐在刑事(→→→こちら)の方もいるのかな。日原街道入口の交差点に戻ってきました。ここからこちらの道、青梅街道に沿って歩いて行くのかと思ったところ、こちらの大きな木製の看板に示されている奥多摩むかし道(→→→こちら)を歩いてゆきます。「奥多摩むかし道」は旧青梅街道にあたり奥多摩町氷川地区から小河内地区を結んでいます。今の青梅街道ができて車での移動が楽になる以前の山村の生活道を歩いてみます。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その3)奥多摩むかし道
2023年05月08日
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