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令和3年もコロナで制限のかかる日が多かったけれど、初春から県内を中心とした日帰り登山を楽しみました。
低い山ばかりでしたが私の足には調度いい加減。
沢山登ってブログが追いつかずここにUPした低山は一部です。(せめて月に2.3回は更新したいとおもっているのですが・・・笑)
中山道は和田峠を越えている予定でしたが、やっとこさ手前まで歩き次回は諏訪に入ります。
岡谷は母のふる里で成人するまではよく遊びに行った第二のふる里、次回が楽しみです。
今年最後は11月3日に行った秋の低山歩きのお話です。
その時の写真を見ていると、今日の雪雲はそっちから流れてきているんだなぁ~向こうはさぞや冷え込んでいると察します。
~賤ケ岳~
余呉湖は琵琶湖の北にある、とても小さな湖、地図を拡大するとちょこんとあります。
賤ケ岳(しずがたけ)は琵琶湖と余呉湖の間にある標高421.9mの山です。
~大岩山登山口~
初めて訪れた時は、木之本駅から3㎞歩いて、リフト乗り場の脇から入る南側登山口から登りました。1.5km1時間で山頂です。
山頂から見た余呉湖の綺麗な事。
その時、見晴らし台の影に北側の登山道が見えて、いつか余呉湖側から登ってみたいと思っていたのです。
ところが!木之本インターで降りそこない、次のインターで下りることになってしまいました。
山、山、山の谷間を走ると、なんと福井まで行ってしまいました!もう日本海です。
昔、日本海の海産や蝦夷からの海産物はこの峠を越えて琵琶湖北湖畔の道を通り都に運ばれ、その道は鯖街道と呼ばれていました。
~中川清秀の墓への分岐~
湖の北側にある観光館に車を停めて湖畔道路を歩き、大岩山登山口から入り急な坂を登り、尾根伝いに右回りで賤ケ岳に向います。
途中に中川清秀の墓、首洗い池(確認できず・・・)猿が馬場と戦を物語る場所があります。
~頂上はあと少し~
ここは1583年賤ケ岳の戦いがあった場所。
豊臣秀吉勢と柴田勝家勢がいくつもの砦を築いて対峙しました。
岐阜の織田軍を討つために出陣していった秀吉の留守中に、勝家家臣・佐久間が中川の守る大岩山に奇襲をかけました。
ところが!秀吉軍は大垣から52kmを5時間で戻り、家臣の活躍で柴田軍に勝利しました。
~南に琵琶湖~
1時間余りで頂上です。
登山道では人に会いませんでしたが、ひらけた山頂にはリフトで上がってきた人たちが結構いました。
この日は秋の訪れを感じる日本海からの風が強く、奥琵琶湖の厳しい冬はこの谷を越え、その風は関ケ原を抜けて濃尾平野にやってくるのですね~
~北に余呉湖~
風に飛ばされそうですが、眺めは最高です。
琵琶湖水面には日差しが当たってキラキラと白く輝いています。
合戦の案内板を見ていると余呉湖ボランティア
の方に「案内如何ですか?」と声をかけられました。
ふたりのおじ様はこの強風の中、ずっと待機しているのです。
(寒いなぁ~長くなるのかな・・・)迷い半分、興味半分、やっぱり聞く事にしました。
~向こうは関ケ原~
実際の砦となった山々を示しながら戦国の世の歴史を聞きました。
南側には小谷城、姉川、山本山も見え、こちらの説明も聞くことが出来て、敦賀からこの奥琵琶湖、関ケ原にかけては、歴史マニア、とくに戦国時代が好きな方にはたまらない場所ですね。
とても丁寧な説明をありがとうございました。
歴史がチンプンカンプンな夫も熱意に応えようと懸命に聞いていました(∩´∀`)∩
~北側の登山道~
賤ケ岳には登山道が3つ、
登ってきた<江土登山道>、南側の<リフト乗り場登山道>、北側の<旧国民宿舎登山道>
下りは展望台の裏から入る北側の道を一気に下ります。
湖畔に出ると、つい最近まであった廃墟の国民宿舎はすっかり取り壊されて更地になっていました。
帰りは歩いてきた湖畔を戻ります。
秋、訪れる人の少ない湖畔にひとりキャンプをする人、スケッチをする人、バスの釣り人・・・
湖畔にはすっかり葉を落とした桜やクルミ並木が続いています。
木の下でくるみ拾いをしている人、私も真似して拾ってきました。
この日のお土産は素朴な秋の恵みです。
尾張は雪が降ったり晴れたりの繰り返し、とても寒い大晦日になりました。
暖かくして流行り風邪をひきませんように、みな様佳き年をお迎えください。
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