全6976件 (6976件中 51-100件目)
もうすぐやってくる8月15日は「終戦記念日」です。戦争で死んだ人のことや、命と平和の大切さを今一度想い出すための記念日です。浅草に住んでいた私の父の母と妹、つまり私の祖母と叔母は、3月10日の「東京大空襲」で亡くなりました。父は、特攻隊で宝塚にいたので助かりました。その特攻隊も、父が飛ぶ前に戦争が終わったので今の私がいます。(仲間は飛んでしまったのですが、ある理由で父だけみんなと一緒には飛ばなかったのです。)私自身は戦争が終わって6年後に生まれたので直接戦争は知りません。でも、私が子どもの頃は戦争の記憶が濃く残っている時代でした。当たり前のことですが、その当時の大人は100%戦争体験者でした。街の中にもまだ戦争の名残が色濃く残っていました。駅には、白い服を着て、アコーディオンを弾いている戦争で怪我をした人たち、いわゆる傷痍軍人と呼ばれる人たちがいっぱい立って物乞いをしていました。鎌倉駅の前にもいました。父や母や祖父からも戦争の話をよく聞かされました。母は、学校の帰りに機銃掃射を受けたと言っていました。「田んぼの真ん中に落下傘で落ちてきたアメリカ兵を大人たちが棍棒などを持って殴りかかって殺してしまった「という話も聞きました。家内の父は兵隊には行きませんでしたが、戦後、開拓民として北海道に渡り、大変な苦労をしたそうです。義父と北海道旅行をした時、その話をいっぱいしてくれました。なにしろ、電気も水道もなく、農耕には適さないような荒れた土地でなんとか生き延びなければならなかったのですから、当時の体験は、筆舌に尽くし難いものだったようです。でも今、その戦争の記憶は薄れてしまいました。遠くの国で起きている戦争の話は聞きますが、自分の親兄弟や友達が死んでいるわけではありません。自分達の命や、衣食住が脅かされているわけでもありません。だから、ただ「可哀想だ」と感じるだけです。子どもたちはゲームの中で殺し合って遊んでいます。大人たちも、助け合うのではなく勝ち負けを競い合っています。子どもたちに「ケンカはやめなさい」とか「イジメはやめなさい」などと言ってはいますが、「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」を体験を通して伝えようとはしていません。ただ叱るだけです。大人同士も仲良くしていません。でも、二度と戦争が起きないような社会を作るためには、子どもたちに「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」を伝える必要があるのです。いくら戦争の悲惨さを教えても、平和の作り方を知らない子は平和を守れないからです。実際に戦争が動き出したら「戦争反対」も言えなくなってしまいます。「戦争が起きたら逃げる」と言う子もいますが、逃げることも出来なくなるのです。「敵であっても人を殺すのはよくない」などと言えば、非国民扱いされます。コロナ騒動の時のワクチンやマスクのように、相互監視によって行動や意見が制限されるのです。また、戦争を超さない世界を創るためには、子ども達の「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」を育てる必要もあります。戦争が動き出したら、国は決して本当のことを言わなくなるからです。というか、戦争につながらなくても、国民に隠し事をするような国は危険なんです。そういう点で今の日本は非常に危険です。その嘘を見抜き、支配されないためには「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が必要なのです。そしてそれが、平和な社会を作るために必要なことなんです。平和な社会は国が作るものではなく、私たち一人ひとりの意識と生き方が作り出すのです。なぜなら、私たち一人ひとりの意識と生き方が、国の形を決めるのですから。「本当のこと」を隠したり、利害関係で繋がった組織票で政治を動かそうとする考え方は、民主主義の理念に反するのです。ちなみに、第9条があるから大丈夫などとは考えないで下さいね。国が本気になったら、こんなもの簡単に変えてしまうことも出来るのですから。国が情報操作して、「9条は危険な考え方だ」と偉い学者達にテレビなどで言わせれば、世論は簡単に変わってしまうのです。そんなことしなくても自分たちだけで簡単に変えることもできます。だからこそ、「平和」を維持するためには、「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」を育てる必要があるのです。戦争反対をいくら言い立てても、戦争の悲惨さをいくら伝えようとしても、「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が育っていない子には伝わらないのです。
2024.08.10
コメント(0)
(去年の8月にアップした文章に少し手を入れたものです)子どもを叱ってばかりいるお母さんがいます。でも、叱られてばかりいる子どもは、オドオドし、憶病になるだけで行動が改善されることはありません。それは、目隠しされている状態の人に「真っ直ぐ歩け」と言っても意味がないのと同じです。「真っ直ぐ歩け」と言う前に、目隠しを取ってあげる必要があるのです。そして、自分にとって価値のあるものに目を向けさせてあげるのです。そうすれば「真っ直ぐ歩け」などと言わなくても、自分の意思で真っ直ぐ歩くようになるのです。ただし、お母さんが向かわせたい方向とは違う方向に歩き出すでしょうけど。「イジメをヤメロ」と言うのは簡単です。でも、相手の悲しみや苦しみが分からない子に「イジメをヤメロ」と言っても無駄なことです。厳しく叱れば隠れてやるようになるだけです。「ケンカなんかしないで仲良く遊べ」と言っても、「一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らず、相手を「仲間」として受け入れることも出来ないような子が仲良く遊べるわけがないのです。「遊んでばかりいないで勉強しろ」と言っても、「勉強の楽しさ」や、「勉強の仕方」を知らない子が勉強するようになるわけがありません。それは材料を与えることもせず、作り方も、作る楽しさも教えないのに「自分の力で立派な家を建てろ」と言っているのと同じことだからです。そんなこと出来るわけがないですよね。子どもにそういうことを要求している大人にだって出来ません。でも、お母さんだけでなく、世の中の多くの大人達が、「自分でも出来ないようなこと」を子どもには要求しているのです。いくら「戦争反対」を叫んでも、戦争の悲惨さを知らない人にはその訴えは届きません。色々な写真を見せ、色々な体験話を聞かせても戦争に対する恐怖心が生まれるだけです。そして、いくら恐怖心を広めても、戦争は防げないし、平和な社会も作ることも出来ません。それは、「仲間と一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らない子に、「仲良く遊べ」と要求するのと同じことです。戦争はなんで悲惨なのかというと大勢人が死ぬからではありません。人と人が殺し合うからでもありません。実際、ウクライナではいま多くの人が死んでいます、人と人が殺し合っています、でも、多くの日本人はそれを情報として知っているだけでウクライナの人と一緒に悲しんだり、苦しんだりはしていません。悲惨だという状況は認識していますが、実際に悲惨さを感じているわけではありません。どうしてなのかというと、ウクライナに「自分にとって大切な人」がいないからです。ウクライナが自分にとって「大切な国」ではないからです。戦争が悲惨なのは、自分にとって大切な家族や、大切な仲間や、大切な想い出や、大切な故郷や、大切な文化や、大切な生活が失われてしまうからです。ただ単に人と人が殺し合うからではありません。でも、ウクライナに「大切な家族」や、「大切な仲間」や、「大切な想い出」を持っている日本人は多くありません。だから、人ごととして見ていることが出来るのです。人は、「自分にとって大切なもの」を守るために戦うのです。そして、「自分にとって大切なもの」が失われたときに悲しむのです。だから、「戦争がない平和な社会を作ることが出来る子」を育てるためには、人と人のつながりの中で「大切なもの」や「失いたくないもの」をいっぱい育ててあげる必要があるのです。大切な仲間、楽しい想い出、大好きな事や大切にしていることをいっぱい育ててあげることが平和教育になるのです。そういう「大切なもの」をいっぱい育てることが出来た子なら、「戦争が起きたらそういうものが全て失われてしまうんだよ」と伝えることで「戦争の悲惨さ」を伝えることが出来るでしょう。10才以降の子ならその判断が出来ると思います。江戸幕府が300年も平和を築けたのは、人々が戦国時代の悲惨な想い出を語り継いだからではありません。むしろその逆に、人々が日々平和に生きることの中に「楽しさ」を見いだしたからなんです。だから、あれだけの文化が花開いたのです。それと同じように、平和な社会を持続させるためには、子どもたちに「大好きな家族」、「大好きな仲間」、「楽しい想い出」、「自然の美しさと面白さ」、そういうものをいっぱい育ててあげる必要があるのです。また、外国の人ともつながり、外国の文化や歴史にも興味を持たせるような関わりも必要です。フランスに想い出があったり大切な友だちがいるなら、フランスと戦争をしたいなどとは思わないのです。皆さんだって、子どもの頃楽しく遊んだ川、楽しく遊んだ野原、楽しく遊んだ仲間を失いたくはないですよね。破壊されそうになったら守ろうとしますよね。でも、自分の事や、お金や、地位や、名誉にしか興味がない人は、自分の利益のために戦争を利用するかも知れません。戦争が起きても「自分にとって大切なもの」が失われないどころか、むしろ戦争が起きることで「自分にとって大切なもの」を得ることが出来るのですから。でも今、「つながり」の中で「自分にとって大切なもの」を育てることが出来ない子どもたちがいっぱいいます。「自分の命」や「からだ」すら「大切なもの」でなくなってしまっている子もいっぱいいます。それは、大人達が、子ども達から「遊び」を奪い、「仲間」を奪い、「自由に感じ、考え、行動する喜び」を奪い、「自然」を奪い、お金を得ることや、競争に勝つことの大切ばかりを教えて来たからです。そういう状態の子は平和を守ることには興味が無いでしょうね。戦争の悲惨さを教えても、逆に「面白そう」と思うかも知れません。実際、人が人を殺し、人が無残に死ぬようなホラー映画を面白がって見ている子がいっぱいいますから。遊びとしてのゲームの中でも楽しそうに殺しています。実際、「戦争に行ったら鉄砲が自由に撃てるんでしょ。戦争に行きたい。」と言っていた子がいました。皆さんのお子さんにとって「大切なこと」は何ですか?皆さんにとって「大切なこと」は何ですか?「人と人のつながり」の中に「その大切なこと」がある人は、平和を守ろうとするでしょうね。でも、勝ち負けや、名誉や、お金といったようなものにしか価値を感じることが出来ない人は、平和には関心がないでしょうね。
2024.08.09
コメント(0)
昨日は、子ども達に「本人の自由意志に基づかない活動」を強いると、子どもの心とからだがバラバラになってしまうのです。すると、心も不安定になります。ということを書きましたが、子どもが、自立して自分らしく生きることが出来るようになるためには、この「本人の自由意思に基づく活動」が必要になるのです。昔の子どもたちの「子どもたちによる、子どもたちのための群れ遊びの場」ではそういう活動が出来ていました。そんな群れ遊びの場では、嫌ならやらなければいいのです。飽きたら色々と工夫して楽しくすればいいのです。ケンカしても自分たちで解決しました。監視や管理や命令をする大人はいませんでした。「遊びとしての勝ち負け」は競いましたが、勝つことにこだわりはしませんでした。楽しくなくなってしまうからです。それに、昔の群れ遊びの場には色々な年齢の子、色々な能力の子、色々な性格の子が集まっていたので、「みんなが同じルールを守って勝ち負けを競う」という活動自体が出来ませんでした。小学校の高学年の子と幼稚園ぐらいの子が勝ち負けを競い合っても意味がないのです。それよりもみんなが助け合って楽しく遊ぶことの方が大切だったのです。ですから、小さい子には「おみそ」といって特別ルールを作ったりもしました。でも、最近の子たちは小さい子にだけ特別ルールを作ろうとすると「ずるい」と言い立ててきます。固定されたルールに従って勝ち負けを競うスポーツのような活動が成り立つためには、年齢や、体の大きさや、性別や、能力などの同質性が必要になります。実際、スポーツではそうなっていますよね。そして、最近の子どもたちは自分と似た年齢、似た趣味、似た能力の子としか遊ぼうとしないし、また遊べません。だからスポーツは出来ても群れ遊びが出来ないのです。でも、そのような条件が与えられているのは学校やスポーツクラブのような特殊な場だけです。以前、学童に呼ばれて遊びのワークをしたことがあるのですが、異年齢のグループを作らせて遊ばせようとしたのですが、みんな自分と同じ学年の子とだけ群れて、みんな一緒に遊ぼうとしなくて難儀したことがあります。小さい子が困っていても大きな子が助けないし、小さな子が危ないような遊びも平気でするのです。でも、社会に出たら、昔の群れ遊びの場のように、色々な年齢、色々な趣味、色々な能力の人と関わりながら生きていくしかないのです。「会社」もそのような場です。「家族」も同じです。でも、幼い頃から多様性が失われ、助け合うのではなく勝ち負けを競い合う群れの中で育った人は、「会社」や「家族」という「多様性に支えられた群れ」の中ではどうしたらいいのか分からないのです。結婚して子どもが生まれても、自分とは異なった感覚や考え方を持ち、異なった世界に生きている子どもとの関わり方が分からない、自分とは異なったルールを持っているパートナーとの関わり方が分からない、そして「自分勝手(マイルール)」をお互いに押し付け合う、今、そういう人が非常に多いのです。将来子どもが自立して自分らしく生き、幸せな家庭を築くために必要なのは「勝ち負けを競う合う能力」ではなく、「助け合う能力」なんです。でも今、その「助け合う能力」を育てる場がありません。もっとも最近は、結婚願望もあまりなく、子どもも嫌いで子どもを持ちたいという願望も弱く、一人で気楽に生きたいと願っている若者が多いみたいですけど。
2024.08.08
コメント(0)
スポーツでは「勝ち負け」を競います。そして、そんなスポーツが大好きな人は山のようにいます。「子どもの心とからだの成長にはスポーツが必要だ」と言う人も山のようにいます。実際、スポーツは学校教育でも積極的に取り入れられています。部活動でも文化部よりも運動部の方が盛んなようです。でも、そのような考え方に根拠はありません。スポーツが好きな人の思い込みに過ぎません。実際、明治になるまでの日本の子ども達はスポーツではなく遊びで、心とからだを育てていたのですから。そしてそれは日本だけの話ではありません。確かに、子どもの心とからだの成長には運動が必要です。でも、その運動は子ども自身の自由意思に基づくものであるべきです。子ども自身の自由意思に基づく運動であるから、子どもの心とからだの成長に肯定的に働きかけ、心や感覚やからだが統合されるのです。スポーツも子ども自身が望んでやるならいいのですが、授業として嫌々やらされている子もいっぱいいます。実際、「勝ち負けにこだわらない子」、「戦うことが嫌いな子」、「指示や命令で動かされるのが嫌いな子」、「運動が嫌いな子」もいっぱいいるのです。そういう子ども達に、大人の指示や命令に従って運動を強制するのは「訓練」に過ぎません。実際、スポーツは軍隊の訓練としても取り入れられて来ました。また、偏った身体の使い方をしたり、年令不相応に負荷が高い活動をすることでからだを壊す子も出てきます。生理が止まってしまう女の子もいます。でも、鬼ごっこでも、木登りでも、コマ回しでも、遊びでからだを動かす場合は、それほど偏ったからだの使い方をしないものです。疲れたら休めます。また、自分流のからだの使い方も許されます。子ども達に「本人の自由意志に基づかない活動」を強いると、子どもの心とからだがバラバラになってしまうのです。すると、心も不安定になります。本来、子どもの成長にとっては「大人が決めたルールの下で勝ち負けを競うスポーツ」は必要がないのです。実際、「スポーツをやっている子の方がスポーツをやっていない子よりもちゃんと成長している」なんてことないですよね。運動部の不祥事も時々聞きますよね。それに、明治になるまで日本にはスポーツなんて存在していませんでした。ちなみに、江戸時代まで行われていた剣術や武道は「勝ち負けを競うスポーツ」ではありませんからね。本来学校は、「スポーツをやる場」ではなく「学びの場」です。ですから、学校では「スポーツの楽しさ」よりも「学ぶ楽しさ」を伝えるべきなんです。算数を学ぶ楽しさ、国語や歴史を学ぶ楽しさ、理科や社会を学ぶ楽しさを伝えるべきなんです。それが学校というものが存在している理由なんです。でもみんな、その学校本来の役目と意味を忘れてしまっています。
2024.08.07
コメント(0)
今、テレビをつけるとオリンピック関係のニュースばかりで盛り上がっています。まるで今の日本には、オリンピック以上に大切なニュースも、扱うべき問題も存在しないかのようです。株が大暴落しても、オリンピックの話題の隙間に少し流れるくらいです。次に多いのが「この夏の暑さ」についてです。オリンピックが始まる前に流れていたような多くの事件や出来事や話題はもう消えてしまったのでしょうか。そして、CMも含めてテレビに出てくる人はみんな「スポーツのすばらしさ」を思いっきり言い立てています。スポーツが盛んになると日本が元気になる、経済が活性化する、子どもたちも元気になる、などなどです。「子どもたちはスポーツさえやっていればちゃんと育つ」的な考えの人も多いです。学校の部活でも、文化部は低調のようです。数も減っているようです。うちの子は長女が弦楽部でしたが、他の3人はみんな運動部でした。(テニス、剣道、陸上)ちなみに私は運動部が嫌いで(運動が嫌いなわけではありません)、中学の時は「地学天文部」、高校の時は「映画研究部」でした。子どもたちが運動部に入って知ったのは、「運動部はとにかくお金がかかる」ということです。靴やラケットや合宿やその他さまざまな所で出費があります。確かに、経済活動には大きく貢献しているようです。(長女はコントラバスでしたが、買えないので学校のを借りていました。)でもそのため、経済的に困窮している家の子は運動部に入ることが難しいようです。部活動も学校教育の一環として行っているとするのなら、これは公教育の在り方としてはどうなんだろうと思わざるおえません。あと、スポーツでは勝ち負けを競います。だから競技として成り立つのです。サッカーでも野球でも、勝ち負けを競わなければ「遊び」として成り立つのですが、それはスポーツ本来の姿ではありません。そのスポーツでは「パワーとスピード」を非常に重視します。というか、それを様々な形で競い合うのが「スポーツ」の基本的な形です。テクニックも必要ですが、それは「パワーとスピード」をコントロールするためのテクニックです。肉体の柔らかさも求められますが、それは「パワーとスピード」を効率よく使ったり、ケガを避けるためにです。人間は本来「パワーとスピードに依存しない生活をする動物」なので、「パワーとスピードに頼った活動」ばかりをしているとからだを壊してしまうのです。「パワーとスピードに頼った活動」は、本来、人間にとっては不自然な活動なんです。だから「からだ」もそのようには出来ていないのです。実際、人間の様々な文化的な活動、生産的な活動、知的、芸術的活動、人間らしさが表れるような活動において「パワーとスピード」を必要とするものはスポーツの世界だけです。生活の場でも、学びの場でも、仕事の場でも、「パワーとスピード」はほとんど役に立ちません。ゴリラは筋トレなどしなくても力が強いです。チーターは走るトレーニングなどしなくても早く走れます。生活のレベルを超えて訓練しなければ身につかない能力は、その動物にとっては本来必要がない能力なんです。実際、スポーツ的なトレーニングを何もしていなくても、少しも困らずに生活している人の方が多いです。でもだからこそ、「スポーツ」は見世物として成り立つのです。努力しなければ得ることが出来ない「人間らしさを超えた能力」だから、それを見てみんな驚くのです。スポーツを「見世物」と書くと嫌な気分を感じる人もいるかも知れませんが、古代ローマの時代から歴史的に見てもそうなんですから、それは事実として受け入れるしかありません。まただから。プロスポーツを観戦するときにはお金が必要になるのです。ちなみに、相撲は「神さまに対する見世物」として生まれました。実際、現代社会でもスポーツは見世物として扱われています。だから「経済活動」と密接につながっているのです。ちなみに「健康のためのスポーツ」は「スポーツ」というよりも、「遊び」です。そこで大事なのは「勝ち負け」や「記録」ではなく「楽しむ」という事だからです。すのため、パワーやスピードにもこだわりません。ですから「健康のためのスポーツ」はいいと思います。それは否定しません。でも、子どもにはそれすらも必要がありません。子どもには「遊び」があるからです。子どもに「スポーツ」は必要ありませんが「遊び」は絶対的に必要なんです。からだの基礎がある程度出来上がっている大人なら、スポーツの人工的な不自然さを楽しむのもOKですが、そのからだの基礎を作っている時期の子どもには不自然なからだの使い方を要求されるスポーツはあまりふさわしくないのです。子どもがからだの活動を通して育てなければならないのは、「パワーとスピード」でも、「スポーツ的な能力」でもなく、「心や意識の働きとつながった丁寧なからだの使い方」なんです。それが子どもの心とからだを統合させ、精神的な安定をもたらすのです。子どもは本能的にそれを知っています。だから大人に指示命令されなくても、自分の意思で遊ぶのです。人類が「パワーとスピード」を身につける代わりに発達させたのが「考える能力」と「心を使って想像し、手を使って創造する能力」です。それが人間の人間らしさを支えているのです。そして、子どもたちはその能力もまた遊びの中で身につけているのです。でもなぜかみんな、その人類の進化に逆らうような活動にばかり夢中です。
2024.08.06
コメント(0)
自分に自信がない人、不安ばかりが強い人、ほかの人や何かに依存する傾向が強い人、子どもの欠点ばかりあげつらう人、自分のことは棚に上げておいて他の人を評価ばかりする人、自分の意見を言わない人、自分を表現しようとしない人、見栄や体裁や人目ばかり気にしている人、新しいことに挑戦することを避ける人、失敗することを恐れる人、「違う自分」になりたがるような人は、「減点法」で自分や、人や、世界を見ています。その「減点法」の基準は自分であったり、社会的な価値観であったり、自分が「正解だと思い込んでいるもの」であったりします。そしてそれは固定されています。学校では100点を上限として減点法で子どもたちの学力を評価していますが、「減点法」という方法では、子どもたちが「先生の頭の中にある正解にどれだけ近づいたのか」ということだけが評価の基準になります。そこには「子どもの可能性やその子らしを育てる」という視点は皆無です。そのため困ったことに、教育を受けることで「子どもたちの可能性」や「その子らしさ」がつぶされてしまっています。それに反抗して「私は私だ」と主張する子は問題児として扱われます。なぜ、教えられたことをちゃんと覚え、「先生の期待通りに感想文を書き、先生の期待通りに絵を描き、先生の期待通りに正解を書くような子」だけが評価され、「自分らしく感じたことを書いた感想文」や、「自分が感じたように描いた絵」が否定されてしまうのでしょうか。算数でも、なぜ「自分で考えた解き方」で解いてはいけないのでしょうか。なぜ、お母さんや先生の期待度通りに勉強をせず、自分が大好きな虫取りや、木登りばかりやっている子は否定されるのでしょうか。なぜ、学校の勉強はせずに、昆虫や、石や、電車や、恐竜などといった自分の趣味の勉強ばかりしている子は否定されるのでしょうか。学校では、なぜ自分の考えや、自分の意見を言ってはいけないのか。なぜ、「言われたことだけ」をやって「自分がやりたいこと」をやってはいけないのか。なぜ、お母さんや先生は子どもや生徒の言葉に耳を傾けないのか。子どもの気持ちを感じ取ろうとしないのか。子どもの「その子らしい成長」を願わないのか。そういう事を言うと、「そんなことを許したら、みんなが自分勝手なことを言ったりやったりするようになって学校や社会が乱れてしまう」などと言う人がいますが、だったら、「自分の欲や感情に支配されず、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、人の言葉に耳を傾け、自分の意見を言い、自分の意志と判断で行動できる能力」を育てればいいのです。その能力を育てようとせずに、「自由にさせたら乱れる」といって、子どもを束縛しようとするのは大人の身勝手です。というか大人自身が自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることを放棄してしまっているのでしょう。でも、そんなことをしていたら、子どもは成長しません。社会も自由を失い活力を失います。みんなが人目を気にして生きるようになります。だからネットの中で自由を得ようとしているのかも知れません。でも大人は、そんなネットの中でも「あれをしてはいけない、これをしてもいけない」などとネットマナーを教えようとしています。でも、大人や先生には、子どもたちが実際にネットの中でやっていることを監視することは出来ません。本当に必要なことは「ネットマナー」を教えることではなく、「どうしてそれがいけないことなのか」を自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力を育てることなんです。通知表をなくそうとしている学校もありますが、学校を「一方的に大人が教える場」ではなく「大人と子どもが共に育つ場」に変えないことには、通知表をなくしても意味がないのです。
2024.08.05
コメント(0)
「自分の心」にこだわっていると、当然のことながら「心の世界」はドンドンと狭くなっていきます。周囲を見ないで自分ばかり見ているのですからそれは当然のことです。実際にそのような状態で外を歩いたら、石に躓いたり、木にぶつかったり、穴に落ちたり、人にぶつかって怒鳴られたりしてしまうでしょう。それはスマホに夢中になりながら歩いている人と同じ状態です。でも、そのような状態の人は、どうしていつも自分ばかりがそういう災難に遭うのかが分かりません。スマホを見ている人の場合は、何かにぶつかった時にはスマホから目を離して原因を確認することも可能ですが、小さいときから「自分の心」しか見ないまま育った人は、何か災難に遭うと、その苦しみ故に逆に余計に自分の「心の世界」に入り込んでしまうからです。そして、苦しみの原因は「ちゃんと目を開けて周囲を見ていない自分」にあるのにも関わらず、「これは誰かのせいに違いない」と、自分の困難の原因を人のせいにしたりします。「自分は何も悪いことをしていないのに」とも言います。そのような人は、確かに「悪いこと」はしていないのですが、「周囲の状況を見ていない」という「間違ったこと」はしているのです。でも、そのことが分かりません。自分のことばかり見て育っているからです。その状態から抜け出し、自分の心を広げるためには、「視点を変えて見る」とか、「他者の立場に立ってみる」という訓練が必要になるのです。子育てのワークショップなどでは、子どもに対するお母さんの愚痴や文句を聞いて、その状況をそこに参加しているメンバーで再現してみるということをすることがあります。(最近は、気質のワークばかりで、子育てワークショップはあまりやりませんけど・・・。)お母さんから子どもの状態をよく聞いた別の参加者が、そのお母さんが言うように子ども役を演じるのです。そして、いつもやっているように子どもと関わって貰います。いつも言っていることを言い、いつもやっていることをやって貰います。次に、役を交代して貰います。ここで視点の変換が起きます。普段、お母さんが子どもにしていることを、お母さんが子どもの立場になって体験するのです。すろとそれだけで泣き出す人が多いです。「子どもの立場に立ってお母さん(自分)に手紙を書く」というワークもあります。このようなワークを通して「他者の視点」に気付くことが出来るのです。内観法という日本生まれのセラピーでも似たようなことをします。「他者の視点」に気付くことで、「自分の心」へのこだわりが減り、「自分の心」が広がって行くのです。そして、目の前の子どもの顔やからだの状態や、青い空や、肌に触れる風に気付くようになるのです。植物や動物の立場に立ってみる、古代の人の立場になってみる、外国の人の立場に立ってみる、地球の立場に立ってみるということも有効です。そういう「他者の立場に立ってみる」という意識の使い方を通して、「心の世界」はどんどんと広がり自由になって行くのです。でも、現代人の心はそれとは全く逆の方向に進んでいます。そのため「心の世界」がどんどん狭くなってきてしまっています。その根底には「自分ファースト」の価値観があります。あと、この「意識的に自分の視点を切り替える」というという方法は子どもには出来ません。「意識的に意識の切り替えを行う自我の働き」が成熟していないからです。大人でも、「意識的に意識の切り替えを行う自我の働き」が弱い人は、上に書いたようなワークは出来ません。「他者の立場に立って考えてみる」ということが出来ないのです。自我の働きが未成熟だと、「自分」から離れることが出来ないからです。人間以外の動物たちはみんなこのような状態です。子どもの場合には「物語」をいっぱい読んで上げることが、「他者の視点に立つことが出来る心の育ち」に大きな影響を与えます。物語の中で「他者の体験」が出来るからです。ただし、動画などの映像で見せてしまうとその働きは消えます。一番いいのは「素話」ですが、素話が出来る人は多くないので絵本でもいいです。
2024.08.03
コメント(0)
悩みを抱えていて、悩みから抜け出せなくて苦しんでいる人は、「一つの考え方」「一つの見方」「一つの視点」にばかり囚われて、頭と心の自由を失ってしまっています。子育てでも、人生でも、「正解」に囚われている人ほど悩みが多くなるし、悩みから抜け出せなくなります。また、子どもや周囲の人との対立も多くなり、子育てや人間関係が上手く行かなくなります。でも家庭でも、学校でも「正解」しか教えてくれません。でも、私たちが生きている現実の世界には「固定された正解」などありません。あるのは「その場、その状況に合わせた正解」だけです。だから、現実世界を自由に生きるためには、その場、その状況に合わせて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えて正解を導き出すしかないのです。親や先生といった「他の人から与えられた正解」は「一つの例」に過ぎないのです。そして、「その場、その状況に合わせて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えて正解を導き出す能力」は、教科書を使った授業、暗記中心の授業では育てようがないのです。「自然の中での仲間と群れて遊ぶ自由な遊び」ではそのような能力が育ちますが、今の子どもたちはそのような遊びをすることが困難です。「創ったり、描いたり、表現したり、演じたりといったような芸術的」な活動もそのような能力を育ててくれますが、そういう活動を大切にしている学校は少ないです。道を歩いていて、道の真ん中に石が落ちていたとします。小さな石なら無視できます。ちょっと大きいのなら「じゃまだな」とどかすことも、避けることも出来ます。でも、その道をふさぐほどの大きな石が落ちていたらどうしますか?そんな時、その道(正解)にこだわる人は何とかその石をどかそうとするかもしれません。でも、自分の力では動かせないほど大きくて重かったら、その前で立ち往生して自分の不運を嘆くかもしれません。でももし、その状況を空から見ている人がいたら、その道にこだわって立ち往生している人はどう見えると思いますか。立ち往生している人には、目の前の「大きな石」しか見えないかもしれませんが、上から見ている人には「その石の周囲に広がっている広い野原」が見えているかも知れません。その野原の向こうに、「自分の目標」も見えているかも知れません。それが分かったら、目の前の道(石)にこだわらずに、野原の中に自分で道を作ってしまえばいいのです。そうすれば前に進むことが出来るのですから。また、ちょっと戻れば別の道があるかも知れません。でもそれに気づくためには、別の視点(次元)から考えてみる必要があるのです。石の向こうだけが「前」ではないのです。自分が進んでいる方向が前なんです。自分らしく生きるということはそういうことなんです。ちなみに、進むのをやめてしまった人には「前」がありません。このようにちょっと視点を変えてみるだけで頭と心が自由になるのです。
2024.08.03
コメント(0)
何でもかんでも、自分が管理していないと不安を感じる人がいます。仕事でも部下を信じて任せることが出来ない人がいます。子育てでも、子どもを信じて任せることが出来ない人がいます。そういう人は常に、子どもの言うことや行動をチェックしています。そして、常に自分の期待通りの結果を出すように相手に求めています。子どもの気持ちや、能力や、らしさなど無視します。そして、期待通りの結果を出せないと叱責します。「頑張ったところ」は見ずに「出来ていない所」だけを見ています。常に減点法で相手を評価します。また、失敗を許しません。そのため、そういうお母さんに育てられた子も、失敗を恐れるようになります。新しいことにチャレンジしなくなります。そして成長が止まります。そのような人は、相手の立場や視点に立って感じたり、考えたりするのが苦手です。常に「自分」だけが正解で、自分中心に感じ、自分中心に考え、自分中心に行動するのです。そのため、他の人とつながることも、助け合うことも出来ません。そのような人は周囲の人から見たらものすごく不自由な状態なんですが、本人はそのことに気づきません。そして、自分の考えや感覚だけが「正解」だと思い込み、それを相手にも押し付けます。でも当然相手は拒否します。(子どもは拒否できませんけど)そのため、強い不自由を感じることになります。その不自由の原因は自分が作っているのですがそのことに気付かないため、「周囲が自分を攻撃して、周囲によって自分が不自由になっている」と思い込みます。平気でカスハラをするような人はそのような状態なのでしょう。このような状態の人は「心」だけでなく「からだ」も固いです。感覚の働きも歪んでいます。「自分を守ろうとする意識が強い人のからだ」は「鎧」のように固くなってしまっているのです。胸が閉じ、背中は板のように固まり、股関節が緩みません。呼吸も浅いです。声も固いです。そのため「やわらかい動き」をすることが出来ません。「ゆっくり」が苦手です。感覚の働きも歪んでいて、判断することは出来ても味わうことが出来ません。でも中には、自分のそのような状態に気付き、自由になりたいともがき苦しんでいる人もいます。それで頑張って色々なことをするのですが、「頑張る」という方法ではからだを緩めることは出来ないのです。「溺れた時はもがくのではなく、からだの力を抜き水にからだを任せなさい」と言いますがそれと同じです。そして、からだの力を抜くためには「思考」ではなく、「味わう」という感覚の働きに意識を向ける必要があるのです。ストレッチをやる時も、「どれだけ曲がるか」に意識を向けるのではなく、ゆっくりと丁寧に動きながらからだの変化に意識を向け「からだ」を味わうのです。青い空を見て味わい、子どもの笑顔を見て味わい、花を見て味わい、毎日の食事を丁寧に味わうのです。すると少しずつ緩んできます。すると、少しずつ心が自由になってきます。すると、からだも自由になってきます。
2024.08.02
コメント(0)
私は「成長する」ということは「自由になること」なのではないかと思っています。寝たきりだった赤ちゃんがハイハイできるようになると、それだけ自由になります。ハイハイしか出来なかった赤ちゃんが立って歩けるようになると、それだけ自由になります。手が使えなかった子が手が使えるようになると、それだけ自由になります。平地しか歩けなかった子が山道や崖まで登れるようになれば、それだけ自由になります。ハサミやノコギリやナイフといった道具が使えなかった子が、それらを使いこなせるようになると、それだけ自由になります。虫や草や木のことを知らなかった子がそういうことを学べば、それだけ自由に感じ、考え、行動することが出来るようになります。色々な知識や技術を学び吸収することが出来れば、それだけ自由に感じ、考え、行動することが出来るようになります。でも最初は、その全てが「不自由」として存在しています。寝たきりだった赤ちゃんがハイハイし始める時、思うようにならないハイハイは不自由です。ハイハイしか出来なかった赤ちゃんにとって立って歩くことは不自由です。手が使えなかった子が手を使って何かをしようとする時、不自由を感じます。ハサミやノコギリやナイフといった道具が使えない子にとっては、道具を使うことは不自由です。学ぶ楽しさを知らない子にとっては、学ぶことは不自由です。そして、不自由を嫌う現代人は、それらの不自由と向き合い、不自由を乗り越えることで自由を得ようとするのではなく、簡単で便利な機械や道具やマニュアルを使って不自由を取り除こうとしています。上手く歩けない子には、簡単にうまく歩けるように歩行器を与えます。手や道具が使えない子には、不便な道具ではなく、道具を必要としないような簡単で便利なキットを与えます。今の学校の工作はそのような状態のようです。考えることが苦手な子には、考えなくても済むようなマニュアルを与えます。理解することが苦手な子には、暗記だけすれば済むような形の勉強だけさせます。遊びを知らない子、遊ぶことが苦手な子には、簡単に遊べるゲームを与えます。ゲームの中でなら、走るのが苦手な子でも自由に走ることが出来ます。結果、不自由と向き合わなくても、新しいことに挑戦しなくても、学ぶことで成長しなくても、便利な機械に依存することでそれなりに自由になることが出来るようになりました。それが現代人が享受している自由です。未来においては、何のトレーニングもしなくても、アイアンマンが着ているような「モビルスーツ」を着て、超人的に走ったり飛んだりすることも出来るようになるかもしれません。勉強などしなくても、脳内に埋め込まれたチップがオンラインで色々なことを教えてくれたり、考えたりしてくれるようになるかもしれません。脳内に埋め込まれたチップで、ゲームも出来るようになるかもしれません。人間の自由を支えてくれる機械やインフラが発展することで、人間自身が学び成長する必要がなくなってきたのです。でも、その機械を買うためのお金は必要です。ですからみんなお金を稼ぐためだけに生きるようになるでしょう。そして、お金の奴隷になるでしょう。お金を失うことは自由から何まで全てを失うことにつながってしまうからです。人間としての成長がない状態の人がお金の亡者になったら社会は混乱するでしょうね。また、人間として成長できない人たちでも、社会に大きな影響を与えることが出来る強大な力を得ることが出来るようになります。自分の部屋の中にいたまま、社会全体を混乱させるような事件を起こすことも可能になります。というか、もう可能です。刀を持たせる時には、その刀の使い方だけでなく「使っていい時」と「使ってはいけない時」を判断できる能力も育てる必要があります。これは刀だけでなくどんな武器でも同じです。でも、現代社会では「刀の使い方」は教えても、「使っていい時」と「使ってはいけない時」を判断できる能力を育てることをしていません。道徳教育のような形で言葉では教えていても、判断能力を育てること自体をしていないのですから全く無意味です。
2024.08.01
コメント(0)
人は、社会的、物質的、自然的、環境的な不自由の中で暮らしています。自力で空を飛びたいと思っても飛べないし、暑さや寒さから逃れるためにはお金が必要です。裸になりたいと思っても、街中で実際にそれをやるとお巡りさんに捕まります。また、人間関係が自由をもたらしてくれることもありますが、不自由をもたらすこともあります。そういうものは「外から来る不自由」です。では魔法かなんか使えるようになったり、大金持ちになったり、最高権力者などになったりしてその「外から来る不自由」を取り除くことが出来るようになったら人は自由になることが出来るのでしょうか。多くの人がそれを望んでいますが、でも、実際には「外から来る不自由」を100%排除しても人は自由になることは出来ません。なぜなら、「不自由」は外側からだけでなく、内側からもやってくるからです。考えることが苦手な人は、自由に考えることが出来る人よりも不自由な人生を送っています。でも考えることが得意でも、自分の考えに振り回されて不自由になってしまっている人もいます。人目を気にして生きている人は不自由を自分で作り出しています。だからといって人目を気にしないで生きてしまうと、今度は「自分勝手なことをするな」と周囲の人が不自由を与えてきます。皆さんは「自由に発言してもいいよ」と言われたら、自由に発言できますか?「自由に踊っていいよ」と言われたら、自由に踊ることが出来ますか?出来る人もいるかも知れませんが、ほとんどの人はそんなこと出来ないのではないでしょうか。人は、生きている間はどんなことをしても不自由から逃れることは出来ないのです。「自由」と「不自由」は「光」と「闇」のようにセットになっているものだからです。そのため、どちらを取っても、もれなくもう一方がくっついてきてしまうのです。「自由」を求める行為が「不自由」を作り出してしまうこともあります。逆に「不自由」を前向きに引き受けることで「自由」になることもあります。じゃあどうしようもないのか、というとそうでもないのです。「不自由」が不自由なのはその不自由から逃れようとするからなんです。「不自由」の意味を知り、「不自由」から学び、「不自由」を通して成長することが出来るのなら、その「不自由」は「人を束縛するもの」ではなくなるのです。そして、「不自由」のおかげで人は成長し自由になることが出来るのです。「子育て」を「束縛」と考えて「子育て」から逃げようとすればするほど、逆に「不自由」が増えてしまうのです。でも、「子育て」を前向きに受け止め楽しむようにしていれば、お母さんはどんどん成長していきます。そして、成長するに従い自由になることが出来るのです。子どもともよい関係を築くことが出来ます。そのことがまた自由を与えてくれます。それはお母さんだけでなく、お父さんでも同じです。
2024.07.31
コメント(0)
先日、「人間関係における不自由は自由の奪い合いによって生まれている」ということを書きました。それはつまり、あなたの自由が別の人の不自由を引き起こし、別の人の自由があなたの不自由を引き起こしている可能性が高いということでもあります。両者が密接な関係であるほどその影響は強くなります。お母さんが「自分だけの自由」を求めれば、子どもは不自由になります。ご主人が「自分だけの自由」を求めれば奥さんが不自由になります。大人たちが「大人だけの自由」を求めれば、子どもが不自由になります。そして、「他者に不自由を押し付けて得た自由」は巡り巡ってまた自分のところに返ってきてしまうので、結局は不自由になります。お母さんが自由になるために子どもに不自由を押し付けていれば、子どもが成長しなかったり、親子の信頼関係が築けなかったり、問題行動を起こすなりして結局自分のところに返ってきてしまうのです。皆さんが老人になって自分では自分の身の回りの作業が出来なくなった時に、「自分が我が子に対してどのような不自由を押し付けていたのか」を知ることが出来ます。同じように返してくれるからです。楽しみにしていて下さい。だから、人が「本当の自由」を得るためには「私という個人的な視点」ではなく、「私たちというつながりに支えられた視点」が必要になるのです。昔から東洋には、自然とのつながりを通して得たそのような視点がありましたが、個人主義を大切にする欧米的な価値観によって破壊されてしまいました。簡単で便利な機械や社会システムも「つながり」の破壊の手助けをしています。西洋では個人主義が盛んですが、それでもバラバラにならなかったのは、神の前での平等を説く宗教が「私たち」という視点を支えてくれていたからです。そのための「一神教」なんです。たった一人の神をみんなで信仰するから間接的に「私たち」という意識が生まれていたのです。でも、そのキリスト教の神も力を失ってきています。ですから、子どもたちに自由に生きて欲しいのなら、競争に勝つことだけを考えて子どもを追い立てることをやめた方がいいです。競争は自他を分離して「私たちという意識の育ち」を阻害してしまうからです。ではどのようにしたら、子どもたちが「私たち」という視点を育てる手助けが出来るのかということです。まず必要なのは「感情や、行動や、大切なことを共有することが出来る仲間」との出会いです。大切な仲間との出会いがなければ「私たち」という意識は生まれません。でも、ただ子どもたちを大勢集めるだけでは、「自由の奪い合い」が起きるだけです。そして力の強い子は自由になり、力の弱い子は不自由になります。イジメも起きるかも知れません。森の幼稚園でもこの問題は起きています。時々相談を受けますから。「寄せ集め」が「仲間」になるためには「共有するもの」が必要になるのです。それが遊びであったり、目的であったり、歌や踊りであったり、物語であったり、共通体験であったりするのです。地域の中に世代を超えた群れが存在していた時代は、その「共有するもの」も世代を超えて伝承されていました。でも、大人たちが大人の自由を得るためにその群れを破壊してしまいました。それとともに「共有されてきたもの」も消えてしまいました。だから、大人がそれを子どもに返してあげる必要があるのです。森の幼稚園では出来るだけ大人の介入を避けようとしている所が多いですが、支配し、管理するような関りは避けた方がいいですが、子どもたちが仲間づくりしやすくなるような「共有するもの」を与えるような関りは必要なんです。プレイパークではそれがプレイリーダーの役割です。プレイリーダーは、「常識的な大人」としてではなく「子どものような感性を持ち、子どものような発想をすることが出来る遊びの先輩」として子どもたちと関わっています。伝承が途絶えてしまった社会に生まれてきた子どもたちがまたつながりを取り戻すためには、「共有するもの」をいっぱい持っている大人が「遊びの先輩」として子どもと関わってあげる必要があるのです。ただしここで重要なことは「子どもをお客さんにしない」ということです。「子どもが色々なことに興味を持つきっかけとしての大人」は必要ですが、「子どもにいろいろと教えようとする大人」は必要がないということです。でも、保育園や幼稚園などの先生は子どもをお客さんにしてしまっています。最近の子どもたちは「みんなで遊ぶ遊び」を知りません。もちろん「わらべ歌」も知りません。ベーブレードは知っていても、ひもを巻いて回すコマは知りません。知っていても、回せる子は少ないです。ベーゴマになるとさらに少なくなります。そんな子どもたちでも、楽しそうにコマを回している大人がいれば「僕もやってみたい」と寄ってくるのです。「コマ回しを教えてあげるから集まっておいで」などという必要はありません。そして、「教えて」と言われたら教えればいいのです。「わらべ歌」も「わらべ歌」を知っている大人が集まって勝手に遊べばいいのです。そして、子どもが「まぜて」と言ってきたら入れてあげればいいのです。そして、子どもたちが増えてきたら大人は静かに消えればいいのです。「みんなで一緒に遊ぶ遊び」は、一緒に遊んだ体験がない子が何人集まっても発見できないのです。そのような「みんなで一緒に遊ぶ遊び」が、子どもの意識を「私」から「私たち」へと広げてくれるのです。そして、子どもの心が自由になっていくのです。他にも「物語を読む」ことで「私たち」という意識を広げることも出来ます。
2024.07.30
コメント(0)
「自然」は「人間」のために存在しているわけではありません。「人間」もまた「自然」の一部であり、木々や生き物たちは「人間の仲間」であって、そこに「上下の関係」はありません。キリスト教ではそこに「上下の関係がある」と説いていますが、その根拠は人間が作り出した聖書だけです。人間よりも古くから存在している「自然」がそのように証言しているわけではありません。実際、「自然」は「人間の命令」には従ってくれません。森でクマに出会ったとき「下がれおろう、人間様じゃぞ」と言っても、クマは「ははー」などと言って引き下がってはくれません。森の中で「虫がいっぱいいて困る、何とかしろ」と言っても、自然は何もしてくれません。だから、力づくで何とかしようとします。キリスト教が提示する「人間」と「自然」の間の「上下の関係」は、その、人間の「力づく」に正当性を与えていますが、「自然」がその正当性を受け入れているわけではありません。むしろその逆に自然は「自然」を守るために徹底的に抵抗しています。今起きている様々な環境問題や温暖化の問題もその自然による反抗の表れです。でも人間はそれも、科学の力を使って力ずくで自然を押さえ込もうとしています。そんなことをしたらさらに「倍返し」になってしまうのに。人類はそんな不便な自然の中で、あれこれ工夫しながら生き延びてきました。自然を支配しようとするのではなく、逆に自然の力を借りながら自然と共に何十万年と生きてきたのです。人類の知恵や、技術や、様々な文化や文明はその工夫の結果です。でも、その「自然との関わり合いによって得た能力」によって、「人間が人間だけのために創りあげた社会」の中では、人間こそが王様であり神様です。「アレクサ、電気をつけて」と言うだけで、暗い部屋が明るくなったりします。もはや。電気をつけるために立ち上がる必要すらなくなったのです。友達の家まで行かなくても友達と話が出来たり、図書館に行かなくても調べごとが出来たりします。自然を相手にしている時にケガをしたら「自分のせい」ですが、人間が作った環境の中で人間が作ったものでケガをしたら、それは「人のせい」です。時には裁判沙汰になります。人間は楽をするために、簡単で便利な生活を得るために様々な道具や機械を作り出してきました。それでも電気仕掛けになる前は、道具を使う人にもそれなりの学びと、努力と、能力が必要でした。トンカチやノコギリといった道具を使いこなせるようになるためにはそれなりの練習が必要です。その過程でケガをすることもよくあります。うちの教室でも「ケガ」は日常的に起きています。ただし、ケガを繰り返しながら学ぶ子もいれば、たった一回のケガで「もうケガをしたくない」と、その作業に手を出さなくなる子がいます。そういう子は「出来ないこと」がどんどん増えていき、どんどん不自由になっていきます。道具や自分のからだを使って遊ぶプレイパークでも、「ケガと弁当は自分持ち」という言葉を標語にしています。自然の中の遊びやプレイパークのような所では、子どもたちは不便を工夫によって面白いことや楽しいことに変えながら遊んでいるのです。それが「自由になる」ということでもあるのです。「与えてもらう自由」に慣れてしまった子は、「自由を与えてくれる相手」に依存するようになります。でもそれは「自由」を失うということでもあるのです。「自由になる」ということは、「自分」が自分自身の人生の主人公にになることなんです。子ども達はそんな自由を得るために、自分の感覚や、思考や、心や、からだを使って、自分の意志で、「思い通りにならない自然」を相手に、「思い通りにならない仲間」と関わりながら遊んでいるのです。
2024.07.29
コメント(0)
親子キャンプ(合宿)から帰ってきました。昨日泊まったのは神奈川県の山北という所にある「ペガススの家」という所です。この「ペガススの家」は横浜にある「りんごの木」という幼稚園の園長先生が描いた「ぼくはいかない」という絵本の舞台になったところです。この「ペガススの家」は「何にもないけど何でもあるところ」と言われています。私は、この「ペガススの家」で20年くらい前から毎年合宿をしています。お風呂でさえ、「五右衛門風呂」が一つと、川遊びの後に入るドラム缶風呂が二つだけです。キッチンも皆さんのお母さんお父さんが子どもの頃のような状態です。ご飯を炊くのはカマドで羽釜で炊きます。一応ガスコンロはありますが、有料になるので私たちは使いません。今回もほとんど全部薪で調理しました。子ども達は川で遊んだり、竹で工作したりしました。私が竹工作の指導をしました。遊具はありません。あるのは水と石と草と素敵な景色くらいです。いるのはカニや、魚や、オタマジャクシや、素敵な虫、そしてアブやブヨやヒルといった困った虫くらいです。今時の子どもやお母さんが喜ぶようなものはなにもありません。でも、何にもないのですけど、子ども達はそこにあるものだけで夢中になって遊びます。それが「工夫力」であり、「自由である」ということなのではないでしょうか。「ないもの探し」をすれば不自由になります。でも、すでにそこにあるものを工夫して遊ぼうとするのなら自由になります。でも、最近の子は「ないもの探し」ばかりして、つまんない、退屈だと言い続けます。お母さん達も同じような状態です。子どもに「ないもの探し」ばかりしています。この右奥の小川で「ヤマメのつかみ取り」をしました。
2024.07.28
コメント(0)
私は若いころバックパッカーでヨーロッパやアジアの色々な国を回っていました。スペインに半年、インドに二か月弱、後は色々な国を渡り歩いていたのですが、当然、かなりのカルチャーショックがありました。特にインドでですけど。みんな、電車やバスに乗るときに我先に中に入ろうとするのです。なぜかインドの人は布団のような大きな荷物を持って電車に乗ろうとしている人が多く、そういう人が、中の人が出てくるのを待たずに無理やり入ろうとするのです。「そういう人もいる」という状態ではありません。「みんな」です。それで、入ろうとする人は入り口で詰まってしまって入れません。中にいる人は出口が詰まっているため出られません。そこで、両者とも力づくで無理やり自分の目的を遂げようとするのですが、すごく長い時間がかかってしまいます。それを見ていて呆れてしまいました。同じような体験が中国でもありました。まだみんな人民服を着ている頃の中国です。こちらはバスで同じようなことをしていて、中はガラガラなのに中に入るのに長い時間がかかってしまいました。そんな時はちょっと譲り合った方がスムーズに行くものです。昭和の日本人はそのことを知っているので、譲り合うことに慣れています。でも、日本人の場合は、お先にどうぞ。いえいえ、あなたからどうぞ。そんなこと言わずにお先にどうぞいえいえ、あなたの方が年上ですからお先にどうぞなどと、譲り合いすぎて時間がかかってしまうこともあります。それはそれで問題ですけど・・・。だから、謙譲の美徳を大切にする日本人が、自己主張が強いインドや中国の人と商売などで戦って勝てるわけがないのです。常識が全く違うのですから。私がインドや中国で見たのは、「自由を奪い合うと逆に不自由になってしまう」という現実です。そんな時はちょっとだけ「自分の自由」を我慢して譲り合うだけで、もっともっと自由になることが出来るのです。(ただしこれも程度問題ですけど。)でも日本でも、「謙譲の美徳」という価値観はどんどん薄れてきています。相手の謙譲につけ入る人が増えてきたからなのでしょうか。電車などでも、年寄りがいても、子どもがいても、妊婦がいても気にしないで我先に席を確保しようとする人がいっぱいいます。ちなみにコロナ騒動が始まる直前に台湾に行ったのですが、台湾では優先席などなくても私が入ると必ず若者が席を譲ってくれました。100%です。(それはそれで複雑な心境でしたけど・・・)ネットの世界では「謙譲」は全く意味を持ちません。自己主張が絶対に有利なのです。「謙譲の美徳」が意味を持つのは、「顔が見える付き合い」「顔を知っている人同士」の間だけだからです。顔が見えない相手に謙譲しても意味がないのです。まただから、イジメでも顔が見えない状態だと過激になりやすいのです。「謙譲」だけでなく、「優しさ」や、「思いやり」や、「助け合う」といった「人と人との付き合い方の基本」は、顔が見える関係、大切な何かを共有しているつながり、ダイレクトに利害がぶつかり合うような状態の中で痛い思いをしながら学ぶしかないのです。子どもにとってはそれが「大切な仲間との群れ遊びの場」なのです。ネットの中での付き合いでは「人と人の付き合い方の基本」を学べるわけがないのです。大人や学校は、子どもたちに「ネットマナー」を教え、「ネットの中でもマナーを守りなさい」などと言いますがそれは「ちゃんと言ったからね、あとはあんたの責任よ」という責任の押し付けに過ぎません。もし本当に、子どもたちにネットの世界でもマナーを守るように伝えたいのなら、まず、リアルな世界で「大切な仲間と群れて遊ぶ体験」をいっぱいさせてあげるところから始めるしかないのです。リアルな世界で優しさや、思いやりや、謙譲や、助け合いといった「人と人とのかかわり方の基本」と出会っていないのに、ネットの中でそれを守れと言っても100%無理に決まっているのです。それは実際の木を見たことも、木に触れたことも、木と遊んだこともない子に「木を大切にしなさい」と言っているのと同じことだからです。そういう状態の子はネットの中では自由でも、実際に自分が生き、生活し、仕事をしている現実世界では不自由でしょうね。自分に自信を持てないし、人に自由を奪われる不安も強く、自分らしく自由に生きることも出来ないでしょうね。
2024.07.27
コメント(0)
昨日は、大人には「子ども自身の自由」を与えることはできないですが「大人が作り出した不自由」を取り除いてあげることは出来るのです。そして、「大人が作り出した不自由」を取り除くことで初めて、子どもたちは「自由に生きるために必要な能力を得るための活動」を自由に行うことが出来るようになるのです。ということを書きました。皆さんが「子どもの成長」を望むのなら、「大人同士が自由を得るために発生した不自由」を子どもに押し付けるのはやめたほうがいいです。子どもには「大人が作り出した不自由」を解決する能力はないからです。そのため、「大人が作り出した不自由」押し付けられた子どもたちは、大人の目が届かない所で自由を得ることを学んでしまいます。それは時として、困った事件につながってしまうこともあります。大人が「イジメはやめろ」と一方的に押し付ければ、大人には見えない所でイジメるようになるだけのことです。ただし、「大人が作り出した不自由」を取り除いたからといって、子どもが自由になるわけではありません。子どもが子どもの群れの中で遊んでいる場合には、「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」が発生してしまうからです。そしてそれが「ケンカ」という形で表れます。でも、「子どものケンカ」は子ども同士で解決できるのです。子どもの最大の目的は「楽しく遊びたい」ということだからです。ケンカしたままでは遊べなくなってしまうのです。楽しくもなくなってしまいます。だから、「ごめんね」なんて言わなくても、いつの間にかまた一緒に遊びだすのです。子どもが群れて遊ぶ場を作っている人たちはそういう現場をいっぱい見ています。ただし、子どものケンカに必要以上に大人が介入してしまうと、子どもは「自分たちでケンカを解決する能力」を育てることが出来なくなります。それはまた、「自分の力で自由を得る能力」が育たなくなってしまうということでもあります。「ケンカするくらいなら一人で遊びなさい」と子どもを群れから引き離して、テレビやゲームやおもちゃで一人で遊ばせてしまっても、子どもは「自分の力で自由を得る能力」を育てることが出来なくなります。でも、そういう対応をしてしまう大人が多いのです。「子どものトラブル」が「大人のトラブル」に発展してしまうことを恐れているからです。それはつまり「大人の不自由」を子どもに押し付けているということでもあります。ただし、大人が介入した方がいいケンカ(トラブル)もあります。それは常に大人の不自由を押し付けられている子が、一方的に他の子の自由を奪おうとしている場合です。そういう子は、ほかの子を「一緒に遊ぶ仲間」として認識していません。そんな体験がないからです。「一緒に遊びたい」という気持ちを共有している子ども同士なら、ケンカしても自然と仲直りをすることが出来るのですが、最初から「自分だけ楽しければいい」という感覚の子は、仲直りする意味も目的も分かりません。もちろんそんな気持ちもありません。ただ邪魔なだけです。だから大人が介入しないことには、その群れ全体の遊びが止まってしまうのです。これは子どもだけでは解決できない問題です。そんな場合は、大人が介入した状態でその子を排除しなくても遊びが継続出来るようにサポートしてあげる必要があるのではないかと思います。ただし、黒子としてですけどね。大人の介入を嫌う人もいますが、「仲直りが出来ない子」にはもうすでに大人からの影響が深くしみ込んでしまっているのですから、今更「大人の介入」を排除しようとしても意味がないのです。むしろ、「親とは異なる対応をしてくれる(自分を認めてくれる)大人」との出会いが、その子の成長には必要なのではないでしょうか。排除することで解決するのではなく、その子の成長を支えることで解決するのです。ただし難しいのは、この方法には限界があるということです。子どもの成長に一番大きな影響を与えているのは母親や父親の価値観や、母親と父親の関係だからです。いずれにしても「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」は、子ども同士で解決することが出来ます。「群れ」しか遊ぶ場がなかった昔の子どもたちは、こうやって「私」から「私たち」という視点と意識を育てていたのです。(家族の中でも同じです)でも、今、「そのような学びをすることが出来る群れ」の中で遊ぶことが出来ている子は本当に少数です。ただし、「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」は、子ども同士で解決することが出来ますが、それだけで子どもが自由になるわけではありません。子どもたちの群れ遊びは自然の中で行われることが多いですが、その自然が「不自由」として立ちはだかるからです。起伏もあり、石や枝や木の実も落ちていて、色々虫もいて、ところどころぬかるんでいるかも知れないようなところで鬼ごっこするのは、学校の校庭で鬼ごっこするのとは比べ物にならないくらい不自由なんです。でも、子どもたちはその不自由を避けるのではなく、逆に楽しむことで乗り越えてしまいます。
2024.07.26
コメント(0)
実は、みんなが「自分だけの自由」を求め、相手を思い通りにしようと思うから「不自由」が生まれるのです。ただし、均一に不自由になるわけでなく、「社会的弱者」と呼ばれる人たちにその不自由が集中する傾向があります。政治家が「自分たちだけの自由」を求めれば、国民が(特に社会的な弱者)が不自由を押し付けられることになります。大人が「大人だけの自由」を求めれば、子どもが「不自由」を押し付けられることになります。子どもは完全なる社会的弱者ですから、大人の不都合が「子ども」と「子どもを守ろうとする母親」に集中してしまうのです。母親が「子どもからの自由」を求めれば、そこで生まれる不自由はダイレクトに子どもだけに向かいます。でも、そのような不自由は時間差をおいて、さらに大きな不自由となって自分に返ってきてしまうのですが、多くの大人が、多くのお母さんがそれを知りません。そのことに気付くのは「不自由」が実際に自分に返ってきてからです。この「大人の自分勝手が作り出した不自由」は子どもにはどうしようも出来ません。大人にしか、「大人が作り出した不自由」を取り除くことが出来ないのです。先日、「自由に生きる能力は与えることが出来ない、自由は自分の力で得るものだ」というようなことを書きましたが、「大人のエゴが作り出した不自由」は大人が取り除いてあげる必要があるのです。大人には「子ども自身の自由」を与えることはできないですが「大人が作り出した不自由」を取り除いてあげることは出来るのです。そして、「大人が作り出した不自由」を取り除くことで初めて、子どもたちは「自由に生きるために必要な能力を得るための活動」を自由に行うことが出来るようになるのです。でも実際には子どもたちは「大人が作り出した不自由」に取り囲まれて生活しています。そして、「大人の自由に抵触しない自由」だけを与えられています。「放任」も、「好きなだけテレビを見せゲームをやらせる」のも、「大人の自由に抵触しない自由」です。子どもはその自由を喜びますが、その「与えられた自由」はかえって子どもが自由に生きるための能力の育ちを阻害してしまうのです。なぜなら、「与えられる自由」は「子ども時代にしか与えられない自由」だからです。「与えられる自由」しか知らない子は、「子ども」と呼ばれる年齢を過ぎると、急に不自由に取り囲まれ、生きる苦しさを味わうことになるのです。「子ども」ではなくなってから、子どものときに学んだ「好きなことしかしないという自由」を行使しようとすると、周囲の大人たちから非難されてしまいます。また。「好きなことしかしないという自由」に慣れてしまった子どもは、「自分が自立していくために必要なこと」を学ぶことも「押し付けられた不自由」として逃げようとしてしまいます。とにかく「与えられる自由」に慣れてしまった子は、「不自由を押し付けられること」を極端に拒否するようになってしまうのです。そういう子が多く集まれば、学級崩壊は必然的に起きます。
2024.07.25
コメント(4)
社会から「人と人のつながり」が失われ、子どもの頃から他者との親密な出会いも関りもなく、便利な機械に囲まれて「自分中心」の生活を送ってきた現代人は「私たち」という視点で物事を見たり考えたりすることが出来なくなりました。そんな現代人は、「私たち」ではなく「私」という視点だけで色々なものを見たり、考えたり、行動したりしています。「私たち」という体験がないまま育っているのですから。それは当然の結果なんでしょう。でもだから、「人と人のつながり」によって成り立っていた社会というものが成り立たなくなってしまっているのです。「カスハラ」をする人達も「私たち」ではなく「私」という視点だけで相手を責めています。「パワハラ」も同じです。子どもの声がうるさいと文句を言う人も同じです。「私たち」という意識が存在していた時代の人は「子は宝」と言って、親だけでなく地域の人たちみんなで子どもたちを見守っていました。でも今、そういう感覚の人は少なくなりました。子育てで、子どもから自分を守ろうとしているお母さんまでいます。我が子と自分を「私たち」という視点で考えることが出来ないのでしょう。人間関係の問題の解決法に正解などありません。「私たち」という視点に立って話し合い、お互いに納得が出来る解決策を探るしかないのです。でも「私たち」という視点を失ってしまった社会ではその話し合い自体が出来ません。ただ、「私」を主張し合ってののしり合うだけです。そんな「私たち」という意識を失った社会ではみんな不自由を感じています。子育てをしているお母さんも不自由を感じています。外で走り回って遊びたい子も不自由を感じています。実は、現代人が感じている「不自由」を生み出しているのは「他の人の自由」なんです。「私たち」という意識が薄い人たちが集まっている場で、誰かが「自分だけの自由」を主張すれば、そのしわ寄せが近くにいる人に及びます。そしてその人は不自由を感じます。そして不自由を感じた人は不自由を生じさせている人を束縛しようとします。その結果、自分だけの自由を得ようとしている人も不自由を感じます。そうやってお互いにがんじがらめになってしまっているのです。お母さんが自分だけ自由を得ようとすれば、子どもは不自由になります。そして、自分勝手な行動を始めます。その結果、お母さんも不自由になります。先生が生徒一人一人のことを忘れ、自分の「学級経営」のことばかり考えるようになれば生徒は不自由を感じます。そして自分勝手なことをはじめ学級は崩壊します。電車の中で足を広げたり、大騒ぎをしたり、寝っ転がったりして自分だけ自由を得ようとすれば、その電車に乗り合わせた人が不自由を感じます。歩道を本来歩道を走ってはいけない乗り物で我が物顔(自由に)走れば、歩道を歩いている人が不自由を感じます。そして、警察に通報すればその乗り物に乗っている人は指導されます。「私たち」という視点を欠いた自由を得ようとする行為が、逆に不自由を招いてしまうのです。そこで欠如しているのは「お互い様」(私たち)という意識です。人間関係における不自由は自由の奪い合いで起きているのです。そしてこれらは本来、「私たち」という意識で、みんなで話し合えば解決できるはずなんです。ただし、「私たち」という意識を失ってしまった人はその話し合い自体が出来ませんけど。「私たち」は束縛ではないのです。もともと、人間は「私たち」という単位でないと生きることが出来ない動物なんです。「私たち」という考えたかを受け入れないと、自由に生きることが出来ないのです。それは現代人の価値観とは合わないかもし知れませんが、それが「動物しての人間」の現実なんです。もし子どもに自由に生きて欲しいのなら「私たち」という視点で物事を見たり感じたりする能力を育てた方がいいですよ。もちろんそのためにはお母さん自身も「私たち」という視点で物事を見たり感じたり行動する必要がありますけどね。
2024.07.24
コメント(0)
子どもにただ「自由にしていいよ」と好き勝手にさせても「自由を生きる能力」は育ちません。それにそんなこと許してくれるのは親か一部の大人だけです。そのため「自由を与えられて育った子」は自分を保護してくれる大人から離れた時点で、不自由になります。そして、「自分の力で不自由を克服して自由を得る能力」も育たないので、自立すべき年齢になっても自立が出来ずに身動きが取れなくなってしまいます。でも、「自由」ではなく「安心」を与えられて育った子は不自由な状態でも何とか工夫して自由を得ようとします。新しいことにチャレンジしたりもします。「失敗しても大丈夫」という安心があるからです。「安心」を与えられている子にとっては、「安心」は何かにチャレンジする時のエネルギー源になるのです。ですからそのエネルギー源がない「与えられた自由」に慣れてしまった子は、チャレンジしないのです。チャレンジする必要がないからなのでしょう。でも、「自由」を与えるのは簡単ですが、「安心」を与えるのは難しいのです。「安心」は人それぞれだからです。気質の影響も大きいです。人がいるところで安心を感じる人もいれば、一人の方が安心を感じる人もいます。都会の中や機械や物に囲まれていると安心を感じる人もいれば、自然の中で安心を感じる人もいます。顔を見て向き合って安心する人もいれば、肌を触れ合うことで安心する人もいます。静かで薄暗い所にいると安心を感じる人もいれば、にぎやかで明るいところにいるときに安心を感じる人もいます。これは子どもでも同じです。そのため、子どもに「安心」を与えようと思うのなら、その子の「その子らしさ」を知る必要があります。そして、その子らしさに合わせてあげると、その子は安心を感じるのです。自由に行動するようになるのはその結果に過ぎません。また、「自分のリズム」が崩されると人は不安を感じます。生活のリズムがくるっても、お母さんや先生に追い立てられてもリズムが狂い不安が生じます。強い刺激に満たされた生活をしていると、生命のリズムが崩れ不安を感じます。お母さんがイライラしていても子どもは不安を感じます。お母さんの心とからだに余裕がない時にも子どもは不安を感じます。子どもの安心育てにおいては、生活の場で「リズムを整える」というのは非常に重要なことなんです。それがまた、子どもが自由に生きることが出来る能力を自分の力で身に着けるためにも必要なことでもあるのです。ダメなことをした時には「ダメ」としっかり言う必要があります。安心に満たされている子は「ダメ」と言われたぐらいでは不自由になりません。抜け道を探すだけです。だだし、「ダメ」と伝えるときには、何がダメなのかをちゃんと伝え、必要以上に怖がらせないことです。でも、多くのお母さんが子どもを怖がらせることで言うことを聞かそうとしています。でも、そんなことをしていたら安心も失われ、自由に生きる能力も育たなくなってしまうのです。
2024.07.23
コメント(0)
私はいつも、子どもの育ちにとって「自由」がどれだけ大切なことであるかを書いています。そして、同じように「自由であること」の大切さを訴えている人もいっぱいいます。でも実は、子どもの育ちにおいては「自由」よりも大切なことがあるのです。それは「安心」です。「自由」はあっても「安心」がなければ、子どもは「自分の育ちや学びにつながるような活動」が出来ないからです。子どもにとっては「安心」こそがエネルギー源なんです。時々、子どもの言いなりになっているお母さんや、子どもの好き勝手にやらせているお母さんがいますが、そういう子どもは誰からも束縛されないのですから自由といえば自由ですよね。じゃあ、そういう子どもが生き生きと、ノビノビと、素敵に育っているのかというとそんなことはないのです。また子ども自身も自由ではなく不安を感じています。自分を支えてくれるものがないのですから。みなさんは、無人島に連れて行かれて「何をやってもいいよ、あなたは自由だよ」と言われたら喜びますか。自由に行動できますか。最初は喜ぶ人もいるかもしれませんが、次第に不安を感じてしまうのではないでしょうか。「自由」は「自分の力で得るもの」であって、「与えられるもの」ではないのです。「与えられた自由」は「自分にとっての自由」ではないのです。それは、「糸が切れた風船」「重力がない宇宙空間に放り出された宇宙飛行士」と同じような状態です。そこにあるのは「自由」ではなく「不安」です。子どものときのからだは軽かったですが、大人になるにしたがって重くなってきます。太めの人はなおさらです。重力のせいで自由に動けないし、すぐに疲れます。だから、人類は空を飛ぶことにあこがれを感じ、空を飛ぶことが出来る機械を発明して、重力から自由になることを願ったのです。不自由があったからこそ、自由を求め自由を得ることが出来たのです。生まれつき手足が自由な人は、手足が自由なことは当たり前なのでそのことに自由を感じたりはしません。でも、病気やけがで手が不自由になってみると、手が自由であることのありがたさが分かります。そして「もっと大切に使おう」と思うかも知れません。道具を使うときにも「不自由」と出会います。だから練習して自由に道具が使えるようになりたいと思って努力するのです。大人が子どもに「自由」を与えることはできないのです。本人が努力して、自分の力で手に入れるしかないのです。ですから、子どもに「自由な人間」に育って欲しいと願うならば、子どもが自分自身の努力で乗り越えることが出来る程度の不自由と、一緒に不自由を乗り越えようとする仲間と、失敗を許し見守る大人たちが必要になるのです。あと、子どもの憧れになるような年上の子や大人も必要です。自由に竹馬に乗っている子にあこがれるから、竹馬という不自由に挑戦しようとするのですから。このように、「自由」は大人に与えられなくても自分の努力で手に入れることが出来るのです。でも、「安心」はそういうわけにはいかないのです。思春期を過ぎた大人は、自分で自分の意識を操作して、自分の力で「安心」を得ることも出来ますが、思春期前の子どもたちの安心は100%周囲の大人や仲間に依存しているからです。自分ではどうしようもできないのです。そして、安心があるから自由を手に入れようと頑張ることも出来るのです。不安が強い子は自分の心を守ることばかり考えてしまうので、自由を求めて努力するということも出来ないのです。子どもにはまず安心を与えてあげてください。安心があれば、子どもは自分の力で自由を手に入れようとし始めますから。「不自由」は、子どもが自分の力で「自由」を求めるようになるためのきっかけなんです。だから、子どもを自由にさせるだけでは自由に生きることが出来る人には育たないのです。むしろ「不安が強い人」に育ってしまうかも知れません。ちなみに今の日本には「自由」はあっても「安心」がありません。だから、束縛はされていないのにみんな不自由になってしまっているのです。そして、自ら「束縛してくれる対象」(依存対象)を求めています。
2024.07.22
コメント(0)
昨日は「お母さんたちつながってください」と書きましたが、だからといってそう簡単につながれるわけではありません。つながりたいと思っているお母さんがいっぱいいても、誰かが「つながろうよ」と呼び掛けても、それだけではつながれないのです。「つながり」が生まれるためには「つながりを支えるもの」が必要だからです。それは言葉であったり、思想であったり、宗教であったり、場所であったり、歌や踊りであったり、遊びであったりします。私はお母さんたちに様々な遊びを伝えています。そして、「ここで学んだ遊びを子どもの友達や地域の子どもたちと共有して下さい」と言っています。「遊び」を共有しようとすると、「遊び」が「つながりを支えるもの」になり、「つながり」が生まれるからです。そして、その「つながりを支えるもの」の質と内容が、その「つながり」(グループ)の質を決めてしまいます。だから「つながり」を作りたいと思うのなら、何を「つながりを支えるもの」にするのかを慎重に考えた方がいいです。そしてそれは「自分自身がすでに大切にしているもの」である必要があります。また、みんなにそれをちゃんと説明できる必要もあります。「つながり」を立ち上げるだけなら簡単なんです。「楽しそうなイベント」を企画すれば「楽しいこと」を求めている子どもやお母さんたちが集まるからです。また、みんなで一緒に大騒ぎする楽しさもあります。でも、ただ「楽しいこと」だけをもとめて集まっただけで「つながりを支えるもの」が明確化も共有もされていないグループは、盛り上がりが収まると同時に消えていきます。また、集まった人の多くが「お客さん感覚」です。いくらいっぱい人が集まっても、「お客さん感覚」の人が多ければその会は長続きしないのです。主催する人がただただ疲弊してしまうだけです。また、初代の人たちが頑張っても、それを後輩に受け渡すことが出来なければ、その会は継続しません。湘南近辺には何十年と続いている遊びのグループや共同保育のグループがありますが、そういうグループでは、「この会で大切にしていること(つながりを支えるもの)」が共有されているだけでなく、世代を超えて受け継がれているのでしょう。それだけ、会の目的が明確化されているということでもあります。「つながり」を作るためには、呼びかける人がまず、自分の生き方や自分の考えを整える必要があるのです。そして、その「つながりの目的」を明確にすることです。そして、色々な形でいっぱい発信することです。呼びかける人が具体的な方法を知らなくても大丈夫です。「つながりの目的」がはっきりしていて、それを発信しているのなら、方法を知っている人とつながることが出来るからです。自分が何でもかんでも一人でやる必要も、また出来る必要もないのです。出来ないところは出来る人とつながり、任せてしまえばいいのです。
2024.07.21
コメント(0)
子どもとお母さんを「人と人のつながり」から切り離してはいけないのです。これは絶対にです。子どもとお母さんを「人と人のつながり」から切り離すようなことをしている社会は絶対に衰退してしまうのです。それは、古来から現代にいたるまで、人間の社会は「人と人のつながり」によって支えられてきたからです。「つながり」が失われた社会は、その有機性と多様性と一体性を失い、人々が幸せに生きることが出来る社会形態を維持することが出来なくなってしまうのです。AIだって「つながり」の中で機能しているのです。AIの高度な能力は「つながり」によって支えられているのです。人間と違うのはその「つながり」が「情報のつながり」だということに過ぎません。人は「一人では生きることが出来ない動物」なんです。でも、便利な機械と豊かなインフラが普及することで、多くの人が、「他の人とつながらなくても一人でも生きていくことが出来る」というような錯覚を持ち始めています。確かに、今の時代、人間としての常識と、一人前の能力や知識を身に着けた大人なら一人でも生きていくことが出来ます。だからそのような錯覚を感じてしまうのかも知れませんが、「つながり」が失われた社会では、それ以前の問題として、その「人間としての常識と、一人前の能力や知識を身に着けた大人」が育たなくなってしまうのです。今、子どもと子どもが切り離されています。子どもと大人が切り離されています。子どもと社会が切り離されています。子どもと自然が切り離されています。子どもと、言葉や、文化や、伝統が切り離されています。子どもの頭と心とからだが切り離されています。お母さんたちにおいても同じです。お母さんとお母さんが切り離されています。お母さんと社会が切り離されています。お母さんと生活が切り離されています。お母さんと子どもが切り離されています。「世話をする」という縦のつながりは残っていても、「人間と人間としてのつながり」という横のつながりは消えてしまいました。そして、子どもにとって他の子は「仲間」ではなく「競争相手」になってしまいました。お母さんにとっても、ほかのお母さんが「仲間」ではなく「競争相手」になってしまいました。子育てに関わっていない大人たちは、子どもやお母さんたちに批判的で厳しい目を向けています。子どもの「子どもらしい行動」を「お母さんのしつけがなっていないからだ」などと一方的に決めつけ、子どもとお母さんを追い詰めています。その結果、子どももお母さんも人目を気にしながら、自分らしさを押し殺しながら、小さくなって、ビクビクしながら生きています。こういう状態では、「自立して幸せに生きることが出来る子ども」を育てることが出来るわけがないのです。「みんなが幸せに生きることが出来る社会」は維持できないのです。この状態から抜け出るためには、この問題に気づき、子育てや生活を変えたいと思ったお母さんが有機的につながり、「子どもらしい子ども」や「人間らしい子育て」を批判、非難する周囲の人たちから子どもや自分たちを守っていくしかないのです。
2024.07.20
コメント(2)
ネットで、現代の子ども事情、子育て事情に関する衝撃的な(私にとっては)記事をよみました。それは、AERAdot.の「友達の家に遊びに行けない」小学生が急増中 都会に住む親が「行っちゃダメ」と禁止する理由とはというものです。記事の中で 2019年、厚生労働省は小学校3年生を対象に「放課後に過ごす場所」を調査し、約2万4000人から回答を得た。その結果、「放課後に友達の家に行く」は01年度に生まれた子は50・6%だったが、10年度に生まれた子では29・1%に減少したという。ということも書かれていました。先日、「体験格差」について書きましたが、そのタイトルの本の中では「体験格差」が「経済格差」とつながっているということが書かれていました。経済的に余裕のある家の子は旅行にも、習い事にも、ディズニーランドにも、色々な体験イベントにも参加できます。でも、経済的な余裕がない家の子は、そういう体験をする機会が少ないというのです。そしてその「体験格差」が「学力格差」にも影響が出てしまっているのです。また、経済的な問題はお母さんやお父さんの時間的な余裕だけでなく、精神的な余裕も奪ってしまいます。だから、待つことも、話し相手になってあげることも難しいでしょう。そういうことも子どもの学力格差に大きな影響を与えてしまいます。子どもを習い事に通わせるために一生懸命に仕事をして、子どもと共に過ごす時間的、精神的余裕を失っている人も多いみたいです。でも、戦後やそれ以前の日本では、一部の特別な人を除いて、お母さんやお父さんが子どものために時間を割くことが出来ないのは普通の家庭の普通の状況だったのです。多くの人が生きて生活していくだけで精一杯で、子どもを習い事に通わせるなどという精神的、経済的な余裕などなかったのです。今は、経済的な余裕がなくても、いっぱい子どもに習い事をさせている家も多いですが、私が子どものころ(昭和20年代、30年代)は、習い事をしていても一つか二つぐらいでした。何にも習い事をしていない子もいっぱいいました。じゃあ、そういう子どもたちは放課後どうやって時間を過ごしていたのかということです。「体験を奪われた状態で育っていたのか」ということです。でも、実際にはその逆でした。習い事に行かなくても、旅行に行かなくても、様々なイベントに参加しなくても、今の子どもたちよりもはるかに豊かでいっぱいの体験を、自然や、町の中や、友だちの家などでいっぱいしていたのです。本来、「子どもの成長に必要な体験」にお金は必要がないのです。今の子どもたちが得ることが出来るのは「お金で買うことが出来る体験」ばかりです。でも、本当に子どもの自立や心とからだの成長を支えてくれる体験はお金では買うことが出来ないのです。お金で買うことが出来るのは「受動的に受け取る体験」ばかりです。でも、子どもの自立や心とからだの成長を支えてくれるのは「子ども自身の能動的な意思に基づく体験」なんです。そしてそのような能動的な体験をするためには「自由な時間」と、「自由な遊び場」と、「遊びを共有する仲間」たちが必要なんです。子どもの成長を支える体験を得るために必要なのは「お金」ではなく「自由」なんです。「自由」を取り上げてしまったから「お金で買うことが出来る体験」を与えようとしているのでしょうが、そのような体験は、子どもを「お客さん」にしてしまうだけなんです。「学校から帰ったあと友達の家で遊ぶ」というのも「お金では買うことが出来ない体験」を子どもに与えてくれます。自分の家とは違う家の様子、家のルール、友達のお母さんとの出会いは、子どもの成長に大きな影響を与える貴重な体験なんです。お母さんにとっても、我が子以外の子どもの姿に触れることが出来る貴重な体験です。色々な子どもと触れ合うことで我が子のことを客観的に見ることも出来るようになるでしょう。でも、最近のお母さんはそのような肯定的な面には目を向けず、「何かあったらどうしよう」「家の中の実態を知られてしまうのは困る」などと否定的なことばかり考えビクビクしているのではないでしょうか。自分自身が人と人のつながりが薄い状態の中で育った最近のお母さんは、必要以上に「他人の目」を気にしているように見えるのです。そして、その裏返しなのでしょうが、ほかのお母さんの子育てにもシビアです。だから助け合うことも出来ません。でもそのことで子育てが苦しくなってしまったり、子どもの成長が阻害されてしまっているのです。社会全体がこんなにも豊かになる前の昔の日本では、お母さんたちは日常的に助け合って子育てをしていました。子ども達も助け合って遊んでいました。助け合わなければ子育ても出来ないし、遊ぶことも出来なかったからです。でも、経済発展を遂げ中途半端に余裕が出来てしまった現代人は、助け合わなくても子育てが出来るようになりました。子ども達も仲間がいなくても遊ぶことが出来るようになりました。また、「子育て」を「プライベートなこと」と考える価値観も広がりました。プライベートなことだから他の人には見せないし、知られたくないし、ほかの人の子育てとも関わりたくないのでしょう。でも、子育てや子どもの育ちをプライベートなことにしてしまったら、子どもは社会との関わり方が分からなくなってしまうのです。社会に出て自立することが出来なくなってしまうのです。子育てや遊びを、子どもをつながりから切り離す「プライベートなこと」にしてはいけないのです。
2024.07.19
コメント(2)
<告知です>東京の足立区と神奈川の二宮で「気質の勉強会」を始めます。詳細はブログの本文の後に書いておきました。足立区の講座<二宮の講座>ご興味のある方はお問い合わせ下さい。*************私は「親子遊び」の指導もしているので、「子どもとの遊び方が分からないので、遊び方を教えて下さい。」と聞いてくる人が多いです。公民館やお母さん達のグループなどから「親子遊び」のワークを依頼される時にも、「どういう遊びをするのですか?」とよく聞かれます。そのような人は「遊び」を「方法」として考えているのでしょう。でも、遊びには決まった形がないので答えようがないのです。それで、「歌ったり、動いたり、手をつないだり、からだで遊んだり、ピョンピョン、ゴロゴロ、コチョコチョやって遊びます」というように答えるのですが、これではよく分かりませんよね。実は、それがどんなことであっても、楽しめれば全部「遊び」なんです。親子でその楽しさが共有出来ればそれだけで立派な「親子遊び」なんです。ただ目を見つめ合って笑い合うだけでも「親子遊び」なんです。歩くことを楽しむことが出来るなら、それは「歩き遊び」です。雲を見て楽しむことが出来るのなら、それは「雲見遊び」です。宮沢賢治によるとカエルはこの遊びが好きなようです。呼吸を楽しむことが出来るのなら、それは「呼吸遊び」です。からだを動かすことを楽しむことが出来るのなら、それは「からだ遊び」です。お掃除を楽しむことが出来るのなら、それは「お掃除遊び」です。子育てを楽しむことが出来るのなら、それは「子育て遊び」です。生きることを楽しむことが出来るのなら、人生そのものが「遊び」になります。勉強や仕事だって、楽しむことが出来るのならそれは「遊び」です。そういう楽しさを親子で共有出来るのならそれが親子遊びです。そして、自分たちで発見した「楽しい遊び」は進化します。「楽しさ」を維持するために、その日の状況、天気、子どもの成長、その時の興味に合わせて遊びが進化するのです。そして、幼い頃にお母さんや仲間と一緒にそういう「進化する遊び」で遊んだ子は、自分一人でも自分で感じ、考え、工夫し、行動して遊ぶことが出来るようになります。「遊び」は「文化」ですから、最初は誰かから受け継ぐ必要があるのです。「暇つぶし的な遊び」や、大騒ぎするだけの「発散的な遊び」は受け継がなくても出来ますが、そのような遊びは進化しません。進化しないのですぐに飽きてしまいます。また、「暇つぶし的な遊び」しか出来ない子は刺激に飢えているので、ちょっとした刺激に虜になってしまいます。でも今、「能動的に感じ、考え、行動する事によって楽しむ」ことが苦手な子どもが増えて来ました。大人も楽しむのが下手です。そういう状態の子を森の中に連れて行ってもすぐに退屈してしまいます。造形しても楽しくありません。みんなと一緒にいても楽しくありません。「楽しい」を発見することが出来ないからです。当然、勉強も、生きることも楽しくないでしょう。そして、「楽しい」を見つけることが出来ない子は、「生きている意味」を見つけ出すことにも苦労するでしょう。「人はなぜ生きるのか」という問いに答えはありません。生まれてきてしまったから生きるのです。その時、生きることが楽しければ、生きることを楽しみながら積極的に生きることが出来るでしょう。苦しいことがあってもその苦しみから学び成長する事も出来るでしょう。そしてそれが「生きる意味」になっていくでしょう。でも、生きることが楽しくなければ人生は苦しみばかりです。仕事も楽しくありません。人間関係も楽しくありません。そのような人は、死ぬのが怖いから生き続けるだけです。そのため、お酒やゲームといった、「苦しみを忘れさせてくれる逃避先」を求めます。その「楽しみを発見する能力」の種は、共鳴という形を通して親から子へと受け継がれます。お母さんが楽しい事を発見するのが上手なら、子どももその才能を受け継ぐのです。ただし、その「種」が成長するためには「退屈な時間」と、「自由に行動できる多様な空間」と、「楽しいを共有する仲間」が必要になります。多くのお母さんが子どもを退屈にさせることを恐れていますが、子どもの心とからだの成長にとって「退屈」は非常に大切なんです。ただし、自由に行動することも、声を出すことも、走り回ることも許されない狭い部屋の中の退屈ではありません。そのような場での退屈は、子どもを無気力にさせてしまいます。子どもは、自由を奪われた状況では、テレビを見ていても、ゲームをやっていても、心は満たされないのです。だから簡単にスマホやゲームに依存してしまうのです。子どもの成長に必要な退屈は、自由に感じ、考え、行動することが許されるような場での退屈です。****************<足立区の講座の詳細>やってみることにしました、気質講座✨✨夏休みなので、皆さんお忙しいかと思いますが😅、お待ちしております🍀🍀シェア歓迎です。ご興味ありそうなお友達にぜひお伝え下さい🙇気質、とは、生まれ持った人の4つの要素です。シュタイナー教育の考え方の1つです。黄色で春のイメージの多血気質赤で夏のイメージの胆汁気質青で秋のイメージの憂鬱気質緑で冬のイメージの粘液気質篠先生は、茅ヶ崎に住んでいらっしゃるので、足立区に来てくださるのは、大変貴重な機会なんです。素敵なおじいちゃん?仙人?なので、この機会にぜひ!いつも、からだ、からだ、からだが大事、と思っているのですが、今回は、気質、です😁😁私は、自分の気質に納得がいって受け入れられた時、本当に自分が愛おしく、人生が楽しくなりました⭐ちなみに、私は何気質が強いと思いますか?😁😁実は、気質講座は、広めたい、内緒にしておきたい、広めたい!の間で揺れ動くという根っからの篠先生ファンの私。内緒にしておきたいのは、こんなに面白いことは独り占めして習いたい、と思っちゃうからです。でも、一人では学べないのが気質なので、皆さんのお力をお借りしたいです。⭐⭐⭐【自分と向き合う気質講座】篠先生の気質講座をはじめます。連続講座を予定していますが、まずはその1回目。気質を学ぶことは、自分を知ること。自分を知ると自分と仲良くなれます。無理せず、楽しく、豊かに生きていくための知恵が詰まった講座です!講師:篠秀夫先生親子あそび研究家◯日時:8/8(木) 13:30-15:30◯場所:北千住駅から徒歩15分の場所※お申込時に詳細お伝えします◯参加費:お一人2500円(先生への講師料+会場費)◯持ち物:動きやすい格好、筆記用具、飲み物◯お申し込み:お名前お住まい(例 足立区谷中)この講座に興味を持ったきっかけを、添えて、和田まで。ライン、コメント、メッセージに直接、もしくは、wada.lab2021@gmail.com へ。**************<二宮の講座の詳細>【大人の気質講座】生まれつきの自分らしさを知ろう茅ヶ崎を中心に、造形教室や自然遊び、幼児教室などを主宰している篠先生の気質講座を、二宮町で初開催してもらいます!「気質」とは、生まれつきの持っている自分らしさ。自分と他者の気質を学ぶことで、生きやすくなる手助けになればと考えています。あなたが否定しているのは、あなたがあなたらしく生きるために必要な自分らしさの一部かも知れません。今回は、シュタイナーの気質をベースとした基礎を学ぶ3回講座。3回通して参加が望ましいですが、単発参加もOKです。<日程/場所>■第一回 9/11(水) →町民センター和室■第二回10/4(金) →ラディアンミーティングルーム2■第三回 11/8(金)→未定<時間>全日:10時~12時<内容>気質を知る座学と身体をつかったワーク<定員>15~20人<対象>老若男女どなたでも<参加費>参加費:お一人2500円(先生への講師料+会場費雑費)<持ち物>筆記用具、飲み物※動きやすい格好で来てください。<申込>こちらの申込フォームにてお願いします。※先着順。定員に達し次第締め切ります。https://forms.gle/Epsgayx5zXWa82Mf7【プロフィール】篠秀夫(しのひでお)湘南茅ヶ崎を中心に、子どものための造形教室や親子で遊ぶ幼児教室などを主催。シュタイナー教育に基づく価値観を大切にし「子育て」「セルフケア」「気質」のワークショップや勉強会などを開催。楽天ブログ「森へ行こう」では、生命、子育て、感覚、気質などをキーワードに発信しつづけています。森へ行こう(心とからだと子育てと) – 楽天ブログ~~~~~~~◎自分ってこんな性格で…と、誰しも自身のことを自分なりにとらえていると思います。同じように、うちの旦那は、子どもは、、さらには親や上司などのことも、それぞれに知ったり、分かったりしていると思います。しかし、社会的な性格だけでなく、その人の持つ本来の気質を知ることで、自分自身と相手をより理解することができます。無駄なイライラや、落ち込みなども、減るかもしれません^_^全国のあちこちで講演会を開いている篠先生ですが、二宮町では初めての講座です。この機会に、みんなで、基本を学んでいきましょう。
2024.07.18
コメント(0)
人はいつでも考えています。寝ている時にも考えています。夢はその表れです。幼い子どもだって、もっといえば赤ちゃんだって考えています。でも、その幼い子どもの思考は「受動的な反射」に基づくものであって、「能動的な意志」に基づくものではありません。そのため、自分の考えを自分でコントロールすることが出来ません。不安が強い人の思考も「反射」であって、「自分の意志」に基づくものではありません。それは「夢の中の思考」と同じものです。人は夢の中でも色々と考えていますが、自分で自分の思考をコントロールすることが出来ませんよね。それは、夢の中の思考もまた反射によるものだからです。ハイハイし始めた幼い子どもは自由に動き回りますが、その行動も「反射」です。色々な刺激に反応して動いているだけです。反射ですから、その行動に「理由」はあっても「目的」がありません。「夢の中の思考」にも「理由」はありますが「目的」はありません。そして、子どもの思考もこれと似ているのです。幼い子どもの思考には「理由」はあっても「目的」がないのです。でも、この「反射に基づく思考」では創造的な行為を行うことが出来ません。目的に応じて考えることも出来ません。学んだことを理解する時にも使えません。学んだことを理解するためには、「理解するための思考」が必要になるのですが、「理解しなければという理由」があっても、「理解したいという目的」がない子にはその思考が出来ないのです。子ども達にその「目的」を与えてくれるのが「遊び」です。「セミを捕りたい」という目的がある子は、「どうやったらセミを捕ることが出来るのか」を能動的に考えます。これは反射ではありません。ですから、試行錯誤を繰り返しながら色々な方法を自由に考えることも出来ます。でも、自分はセミが捕りたくないのに、先生から「セミを捕ってこい」という課題を出された子は、嫌々アミを持って出かけても「捕まえるための工夫」をすることが出来ません。そのため、運が良くなければ捕まえることが出来ません。子どもが能動的に考えるようになるためには、子ども自身の心の中に「考えるための目的」が必要になるのです。その多くは「あこがれ」から生まれます。セミ捕りが上手な子にあこがれて自分も色々なことを考え、色々と工夫し始めるのです。子どもは大人が凄いことをやってもあこがれませんが、自分と年令が近い子がやっている「凄いこと」にはあこがれるのです。そして「どうやったらその子に近づけるのか」を能動的に考え始めるのです。それは、コマ回しでも、竹馬でも同じです。それが、子どもの本能であり、「子どもの成長に必要な遊びの場」なんです。それに対して、「ゲーム」をプレイする時に必要な思考は反射的な思考です。だから3才ぐらいの幼児でも遊ぶことが出来るのです。サルでもスマホゲームで遊ぶ事が出来ます。また「○○ランド」のような場での遊びは「子どもの能動性」を必要としない「受動的な遊び」です。確かにそのような遊びは楽しいかも知れませんが、「能動的に感じ、考え、行動することを必要としないような遊び」は、子どもの「能動的な意志の育ち」や、「自分の頭で考える能力の育ち」を阻害してしまうのです。勉強も同じです。子どもに「大人になったら必要だから」という理由だけで、「子ども自身には意味も、目的も、楽しさも分からない勉強」を押しつけたら、「自分の頭で考えない勉強が嫌いなだけの子」が育ってしまうだけです。9才から10才頃までの子どもに必要なのは「遊びの場での学び」なんです。「遊びを通した学び」と言い換えることも出来ます。そのような場では「楽しい」とか「出来るようになりたい」ということが、自分の意志で考える動機になるのです。考えることが楽しくなければ子どもは考えないのです。そして子ども達は、その「遊びの場」で、「手を使って考える」「からだを使って考える」ということをやっています。「理解し創造するための思考」には「自分自身との対話」が必要になるのですが、体験も乏しく、言葉が未成熟で、まだしっかりとした自我が目覚めていない状態の子どもは、頭の中だけで自分自身と対話することが出来ないからです。だから、考えるためには「思いついたことを手やからだを使って実際にやってみる」という活動が必要になるのです。自分の考えを一回、頭の中から外に出してみるのです。そして、「他者となった自分の考え」と対話するのです。頭の中だけでこれが出来るようになるのは、このような体験をいっぱい繰り返して大きくなった子だけです。手を使っていっぱい絵を描いた子は、頭の中だけでも絵を描くことが出来るようになります。手を使っていっぱいソロバンを練習した子は、頭の中にソロバンをイメージすることが出来ます。そしてそれを使って、頭の中だけで計算することが出来るようになります。手を使っていっぱい工作をした子は、材料を見るだけで何が作れるかをイメージすることが出来るようになります。ナイフ使って何回もケガをしたことがある子は、「どういう使い方をするとケガするのか」ということをやってみなくても分かるようになります。そのように実際の体験を繰り返すことで、頭の中だけで「考える」ということが出来るようになるのです。そして、自分の考えに振り回されなくなるのです。それが「子どもは遊びを通して成長している」とか、「子どもは遊びを通して学んでいる」ということの意味でもあるのです。たしかに、いくらいっぱい遊んでも学校で教えているような「知識」は学べません。でも、遊びを通して、「自分の人生を豊かにし、自分の人生を自分らしく生きるために必要な智恵」は学ぶことが出来るのです。そして知識は後からでも学べますが、智恵は「能動的な遊びが楽しい時期」にしか学べないのです。
2024.07.17
コメント(0)
最近の子は道具を使うのが苦手です。それは「意識とつなげた状態で指や手を使う事が出来ない」ということでもあります。トンカチやノコギリといった「腕全体を使うような道具」も苦手ですが、裁縫の用の針や羊毛用のニードルといった「指先で使う道具」を扱うのも苦手です。輪ゴムをつなげるのもヒモを縛るのも苦手です。ハサミの使い方も下手です。コンパスや定規の使い方も下手です。そして、そのような活動を嫌がります。(下手でも好きなら問題ありません。上手下手の問題ではなくそのような行為を楽しめるか楽しめないのかということです。)生活の場から、そういうものを使う機会が消えてしまったのですから使えなくても当然といえば当然です。だから、子ども達のそのような状態を問題視している人も少ないです。ほとんどのお母さんは、我が子がナイフが使えなくても、竹とんぼが飛ばせなくても、靴のヒモが結べなくても気にしません。そもそも、子どものそのような状態を知りません。多くのお母さんが気にしているのは、学校の成績と周囲からの評判だけです。でも実は、道具が使えない、指や手が使えないというのは、子どもの成長から見たら非常に大きな問題なんです。なぜなら、腕や指に意識を向けることが苦手な子どもは考えることも苦手なことが多いからです。「使う必要がないのなら使えなくても問題はない」というのは「社会の都合」であって、「命やからだの都合」ではないのです。「命」とか「からだ」というものは、意識や心や肉体も含めて「システム」として機能しています。そして、成長するということはそのシステムとしてのつながりが維持された状態で、システムがさらに複雑化していくことです。心やからだ、知性や、思考力や、感性がバラバラに成長していくのではなく、全てがつながった状態のままで、相互に影響を与えながら一緒に成長していくのです。そのため、現代社会では必要がない能力だからといって、その能力の育ちを無視していたら、その遅れにつられて他の能力の育ちも遅れてしまうのです。ヘレンケラーのバラバラになった心の中が一つにつながったのは、水に触れた時の手や指の感触とサリバン先生がヘレンの手の中に書いた「ウォータ」という言葉がつながった時です。ちなみにヘレン・ケラーは見ることも聞くことも話すことも出来なかったので、手のひらに指で文字を書いて言葉を教えたそうです。(それようの文字があるそうです。)それが可能なのは指や手のひらの感覚の分解能が高いからです。指や手の感覚能力は目や耳の感覚能力に匹敵するのです。現代人でも「思考力」(考える能力)は大切だと思っています。だから、勉強などでも「もっと考えろ」と子どもに要求しています。パスカルという哲学者は「人間は考える葦である」ということを言いましたが、でもその「考える能力」は生まれつきのものではありません。生まれつきなのは、「様々な体験を通して考える能力を獲得する能力」であって、「考える能力」そのものではないのです。でも、多くの人がそのことを知りません。その「考える能力」を育てるために一番大切なのが、「見ること」と「聞くこと」と「指や手を使う活動」なんです。このセットが重要なんです。だから赤ちゃんは本能的に、自分の指を舐めたり、色々なものを叩いたり、破ったり、いじくり回したりするのです。お母さんやお父さんが大切にしているものにふれて壊して叱られたり、積み木を積んで遊んだりするのです。でも現代人は子ども達からそのような「困った活動」を取り上げてしまいました。でもそのことが、子ども達の「考える力の育ち」を阻害する結果になってしまったことには気付いていません。
2024.07.16
コメント(0)
現代人は、昔の人に比べて「道具」を使いません。道具とは、包丁、箒、チリトリ、洗濯板、スキやクワ、桶、柄杓、トンカチ、荷車などというような「人が手やからだを使って自分のからだの延長として使うもの」です。子どもたちが遊びの場で使っていたナイフや、様々な道具を使って自分たちで作った竹馬や、コマや、凧なども「道具」の一種です。「遊ぶための道具」です。これらの「道具」の特徴は、使う人の能力に合わせて便利になったり、全然役に立たなかったりするということです。下手な使い方をすると役に立たないどころか怪我をしてしまいます。現代人はそういう「道具」の代わりに「機械」を使います。「道具」と「機械」の違いがどこにあるのかというと、「道具の能力」は「それを使う人の能力」に依存しますが、「機械の能力」は「使う人の能力」ではなく「機械自体の能力」に依存するということです。それはつまり、同じ機械を使えばベテランがやっても初心者がやっても同じ結果を出せるということです。ベーゴマが回せるようになるためには練習が必要ですが、ベーブレードを回すために必要なのは説明書を読むことだけです。また、「道具」はからだの動きや能力を拡大してくれます。でも、拡大してくれるだけで代わりにやってくれるわけではありません。それに、拡大してくれるのでからだを正確に動かさないと被害も大きくなります。素手で殴るよりトンカチで殴った方が怪我はズーッと大きくなりますよね。熟練した人がよい道具を使えば、思い通りに作品を作ることができます。でも、初心者はどんなに良い道具を使っても思い通りに作品を作ることができません。逆に道具を壊してしまいます。先日、教室の子どもが数人、ナイフで木を削ってスプーンを作っていたのですが、ナイフなどほとんど使ったことがない子どもたちばかりですから、全然思い通りにいきません。まず、ナイフをコントロールするために必要な指や、手首や、腕の力がありません。また、指や、手首や、腕に意識を向けることができないのでナイフを思った通りにコントロールすることも出来ません。というかどうやって手を動かしたらいいのかすらわかりません。「木」と対話する能力もないので「木の目」や「木の特性」を読むことが出来ず、力もないのに、力ずくで何とかしようとしてしまいます。結果、やればやるほど「スプーン」から遠ざかっていきます。怪我もします。それでも諦めない子は上達していきますが、ほとんどの子は、思い通りにいかないということが分かった時点で「疲れた」と言って諦めてしまいます。それでも、普段から「からだを使った遊び」をいっぱいやっているような子はなかなか諦めません。普段の遊びを通して「自分のからだを使って木やナイフと対話するコツ」が分かっているからなのでしょう。対話が出来るから面白くなるのです。また上達もするのです。でも今、そういう子は多くありません。昔の子どもたちは生活の場でも、遊びの場でも、道具を使ったり、からだを使ったりすることで「からだの使い方」を学んでいました。そして、「からだの使い方」を学ぶ過程で「自分のからだ」や「自分が関わっている相手」と対話する能力も育っていたのです。「ナイフで木を削る」という遊びを通して「木と対話する能力」も育つのです。そしてその能力は、相手が木でなくても使うことが出来ます。木を相手にして学んだことが人間を相手にした場合でも使うことが出来るのです。自分のからだや木と対話できる子は、人とも対話できるのです。それはつまり、上手に道具を使いこなすことが出来る子は、人と対話する能力も高いということです。まあ、素質も影響しますからイコールということではありませんが、相関関係はあります。
2024.07.15
コメント(0)
昨日は、現代人は子どもとの対話も、自然との対話も、からだとの対話もせず、相手に一方的に自分の価値観や要求を押し付け、自分勝手なことばかり言ったりやったりしている。ということを書きました。ネットなどでも、ちょっと自分の意見と違うことを言う人がいると、対話を求めるのではなく、一方的に上から目線で攻撃する人がいっぱいいます。子どもと対話するためには、生活を共有し、言葉を共有し、体験を共有し、感覚を共有し、歌や踊りや物語を共有すれば対話が成り立ちます。でも実際には、これらのほとんどが失われてしまった状態で子育てや教育が行われています。現代社会には、衣食住の世話をし、大人の期待に応えるように子どもたちを追い立てているだけの子育てをしている人がいっぱいいます。現代の教育では知識を教え、覚えさせているだけで、それらを栄養にして子どもたちの心やからだを育てようとはしていないように見えます。「教育」という言葉は「教える」と「育てる」が組み合わさっていますが、現代の教育では、「教育」から「教える」ことだけが残り、「育てる」ということが消えてしまっているのです。自然と対話するためには自然と関わる必要があります。でもその関わり方は様々です。なんせ、人間自体が自然の一部そのものなんですから。まず、そのことに気付く必要があります。生・病・老・死の全てが自然現象なんです。出産や子どもの成長も自然現象です。自分の性別や顔やからだの状態も自然現象です。ただ、「生命」はその自然の働きに流されない存在として生まれてきました。だから、自然の働きに抵抗することが出来るのですが、だからといって自然を支配しようとしてはいけないのです。またそんなことは出来ません。「部分」に過ぎないものが、自分を含んだ「全体」を支配することは出来ないのです。空が晴れれば「自分の中の自然」が反応します。花を見ても「自分の中の自然」が反応します。子どもの笑顔を見ても「自分の中の自然」が反応します。美味しいものを食べても「自分の中の自然」が反応します。空の星を見ても「自分の中の自然」が反応します。朝日を見ても「自分の中の自然」が反応します。自然との対話を取り戻すためには、まず、その「自分の中の自然」に気付く必要があるのです。それが鈍くなっていると「自然との対話」は出来ないからです。「自分の中の自然」を感じることが出来ない人は、野原や森で遊んでも、野原や森にあるものを「物」としてしか見ることが出来ないのです。子どもの洋服についた泥は見ることが出来ても、子どもの笑顔を見ることが出来ません。「からだとの対話」を取り戻すために一番簡単なのは「道具」を使うことです。「自分の代わりに仕事をしてくれる機械」ではなく、ノコギリやトンカチのような「自分の手やからだの一部として使う道具」です。<続きます>
2024.07.14
コメント(2)
現代人は「自分のからだ」を道具のように扱っています。からだの声を聴くことも、からだと対話することもなく、頭の命令によってからだを一方的にコントロールしようとしています。その結果健康が失われたり、からだの具合が悪くなったりすると、薬や手術などで強制的に言うことを聞かそうとしています。どうしてもだめになった場合はその部分を人工物に変えたり、「他の人からのもらいもの」と交換したりします。それはまるで、「相手のことや周囲の人のことを考えずに、自分勝手に行動している子ども」のようです。「子どもを自由にさせておけば、自由に生きることが出来る大人になる」と信じて、そういう教育を行っている人を時々見かけます。じゃあ、そういう「野放し教育」を受けた子は実際に自立できるようになるのか」というと、現実はそう思い通りには行きません。なぜなら「野放し教育」を受けている子は、他者との間に幸せな関係を築いたり、他者から学ぶ能力を育てることが出来ないからです。他の人と対話する能力も育ちません。自分がやりたいことを自分勝手にやろうとする子が相手に対話を求めるわけがないからです。そういう状態の子は、相手が思い通りにならない時には、大きな声を出したり、暴れたり、怒ったりして力づくで自分の要求を通そうとするだけです。でも、そんな野放し状態が可能なのは、野放しを許してくれる親に守られている時だけです。それはつまり、野放し教育を受けた子は、親の期待とは逆に「自立できない大人」に育ってしまうということでもあります。そして実は、同じような関係が「人間」と「自然」の間にも、「頭」と「心とからだ」の間にもあるのです。人間は自然を相手に自分勝手に振舞ってきました。自然の声を聴こうともしませんでした。ビルを建てるのに山が邪魔なら、平気で山を崩してしまいます。そこに生きている生き物のことを無視して、森や林や野原をつぶして町や工場や農地を作ってしまいます。そんな「人間の自分勝手」を支えてくれたのが科学技術の進歩です。「人間にとって不都合な自然」は、科学が力ずくで抑え込んでくれたのです。でも、それも限界に近づき始めています。科学ではどうにもならないほど自然が歪み始めてしまったからです。「頭」と「心とからだ」の間にも同じようなことが起きています。現代人は、一方的に「頭の要求」を「心」や「からだ」に押し付けています。「心やからだの声」に耳を傾けようともしません。でもその結果、現代人の心やからだは非常に不安定になってしまっています。免疫力も低下しています。また、対話がないので「頭」が「心」や「からだ」から学ぶこともできません。「心が感じている世界の素晴らしさ」や、「からだが触れている世界の不思議」と出会うことも出来ません。その結果「自分勝手な頭」だけが暴走しています。でも、「心」や「からだ」が病めば「頭の働き」も狂いだすのです。もっとも、心やからだと対話することが出来ない人は頭の働きが狂っていてもそのことに気づきませんけどね。また、「心」や「からだ」と対話することが出来ない人は、「頭の世界」が閉ざされてしまっているので、意識が成長することもありません。もちろん、「心」も「からだ」も成長できません。そういう一方的な状態から抜け出し、意識や心やからだの成長を取り戻すためには「対話」が必要になるのです。「子どもとの対話」「自然との対話」「心やからだとの対話」です。相手を一方的にコントロールしようとする意識を捨てて相手の言葉に耳を傾けるのです。ときにそれは「声にならない言葉」かも知れません。でも、そんな「声にならない言葉」でも、耳を澄ませば聞こえてくるのです。人間にはそういう能力があるからです。現代人は忘れてしまっていますが、人間には目には見えないものを観、耳には聞こえない音を聴き、手では触れることが出来ないものに触れることが出来る能力があるのです。人間がまだ自然と共に生きていた頃は、人々はそのような能力をつかって自然と共存しながら生きていました。ちなみに、今でも7才頃までの幼い子ども達はそのような感覚世界に生きています。だから「訳の分からないこと」を言うのです。そしてだから、そのような世界を否定する大人は子どもと対話することが出来ないのです。自分の要求を通そうとするだけで、子どもや、自然や、からだと対話することが出来ない大人が支配する世界はやがて崩壊します。それは野放し状態で育った子が、成長と共に生きていくのが困難になってしまうのと同じです。
2024.07.13
コメント(0)
「自由に生きる」というのはどういうことなんでしょうか?「好き勝手に生きる」ということと同じなんでしょうか?そもそも「自由」って何でしょうか?「自由にしていいよ」と言われて、どうしていいのか分からず不自由になってしまう子がいっぱいいます。「お仕事」を与えられることで「自分の頭で考える必要」がなくなり、「自分の頭で考えるストレス」から解放される子もいます。それは「自由になった」ということなのでしょうか?子育てなどでも、「どっちにするのかは自分で決めて下さい」と言うと「先生が決めて下さい」というお母さんがいます。「子育てに正解はないんだよ」と言っているのに、「正解を教えて下さい」と言って来るお母さんもいます。目の前に選択肢がいっぱいあるのに、その選択肢を見ようとせず、不自由を嘆いている人がいっぱいいます。そういう人は「出来る事」は探さず、「出来ないこと」ばかりを探します。そのような人に「こういう選択肢もあるよ」と伝えても「でも・・・」という返事しか返ってきません。私は30才でそれまで勤めていた仕事を辞め、リュック一つで世界放浪の旅に出ました。そんなお気楽に生きている私を見て「しのは自由でいいよな」という友人がいました。「自分も絵の勉強でヨーロッパに行きたい」というのです。だから私は「行きたいんだったら行ったら」と言ったのですが、「でも・・・」という返事しか返ってきませんでした。それで、「お金がないの?」と聞くと「お金はある」と言うのです。「休みが取れないの?」と聞くと「休みが取れないこともない」と言います。「じゃあ行ったら」と言ったのですが、それでも「でも・・・」しか返って来ないのです。そういう人は何に束縛されているのでしょうか。「自由」を「善」と考える人もいれば、北朝鮮の金正恩のように「悪」と考える人もいます。そんな、自由を奪われた北朝鮮に住んでいる人たちは(一部の人を除いて)「自分たちは不自由だ」とは考えていないそうです。不自由を感じるのは自由を知った人だけだからです。光を知らない人は闇の中で暮らしていても、闇を知らないのです。だから、北朝鮮では韓国や欧米からの情報を徹底的に排除するのです。昔の日本にも、現代人が考えるような「自由」は存在していませんでした。それでも人々は、そのことに不自由を感じてはいませんでした。自由を奪われた生活をしている子ども達も、退屈を紛らわせるゲームや、ディズニーランドのような「楽しく遊ぶところ」があれば、自分の状態を不自由だとは感じません。でも、思春期が来て自分の人生を自分で選択しなければならない状況になった時、どうしていいのか分からなくなり、突然「身動きが取れない不自由」を感じ始めます。そんな時、「やりたいこと」を見つけることが出来れば、そこから「自由への道」はひらけるのですが、子どもの頃に家と学校を行き来するだけの生活をし、家ではゲーム、学校ではお勉強しかやってこなかった子は、「やりたいこと」を見つけることが困難です。また、ユーチューバーとかゲームクリエイターとか「やりたいこと」があっても、そのために努力することが出来ません。なぜなら、努力するために必要な「自分の意志」が育っていないからです。努力するということは、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する」ということです。「努力」は自発的な行為なんです。ですから、「努力」を強制することは出来ないのです。強制してしまったらそれは「努力」ではなく、「強制から逃れるための行為」になってしまうのです。怖い人に追いかけられて必死に逃げている状態を「努力している」とは言いませんよね。だからこそ、「努力する能力」が育つためには自由が必要なんです。自由がない状況で育った子は「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する必要がありません。そのため能力「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する能力」が育たないのです。その結果、努力することも出来なくなってしまうのです。追い立てる人がいなくなったら止めてしまうような活動は「努力」ではないのです。「追い立てるような子育てや教育」は、子どもの「自由に生きる能力」の育ちだけでなく、「努力する能力」の育ちも阻害してしまうのです。そのような子は学校から出た後苦労するのです。
2024.07.12
コメント(0)
幼い子どもは自分の意志で、自由に生きようとしています。そこには大人の常識を越えた世界があり、その必死で生きている姿を見ていると「無限の可能性」を感じます。でも、大人達はその可能性を伸ばすどころか、「しつけ」や「教育」という名目で、必死になってその「可能性」をつぶそうとしています。狭い部屋の中に閉じこめられて、大人が与えたおもちゃだけで遊ばなければならない子どもたちがいっぱいいます。やることなすこと、大人の価値観で監視されている子どももいっぱいいます。外に出ても、「触ってはいけない」、「ケンカしてはいけない」、「ゴメンナサイと言いなさい」、「登ってはいけない」、「走ってはいけない」、「捕まえてはいけない」、「一人でどっかに行ってはいけない」などと、数え切れないほどの指示命令に束縛されています。そのような繰り返しを通して、やがて子どもたちは「能動的な行動への意志」「新しいことにチャレンジする意欲」「不思議を感じ、どうしてなのかを考える喜び」を失い、ただ暇つぶし的な遊びだけで遊ぶようになります。その一方で「他の人からの評価」を気にする感性は育ちます。おもちゃで遊ぶだけの時間、ゲームで遊ぶだけの時間、テレビやビデオを見るだけの時間はただの「暇つぶし」に過ぎません。なぜなら、子どもはその遊びを通して自分の成長に必要なことを何も学ぶことが出来ないからです。ストレス発散には役に立つでしょう。また、知識はいっぱい得ることが出来るかも知れません。でも、自分自身の体験とつながっていない知識は無意味です。試験やクイズの時以外、何の役にも立ちません。そのような遊びを通して子どもが学んでいるのは、子どもの成長には必要がないものばかりです。子どもは、自由が許される状態での仲間との関わり、自然との関わり、そして大人との関わりを通してその可能性を広げて行くのです。実際、仲間と関わり、自然と関わり、大人と関わりながら育った子は、一人の人間として、また一人前の社会人として生きていくことが出来ます。なぜなら、昔の子どもたちは、みんなそうだったのですから。一人の人間として、一人の社会人として生きていくために必要なことは全て、「仲間との関わり」「自然との関わり」「大人との関わり」を通して学ぶことが出来るのです。たとえそれが「幸福な関わり方」ではなかったとしても、そのようなものとの関わりが充分にあったならば、子どもは「生きる」ということを学ぶことが出来るのです。でも、そういうものが失われた生活をしている子は、どんなにたくさんの知識を知っていても、また学校の成績が良くても、大人になった時に「一人の人間として」自立することが困難になってしまうのです。そして、今そのような大人達がどんどん増えてきています。生きることに意味も喜びも感じることが出来ない若者も増えています。そのような若者は目先の快楽と仲間からの承認だけを求めて行動してしまいます。仲間から受ければ何でもやってしまうのです。そのように、能動的に生きる意志と意欲を失ってしまった人にとって、能動的に生きなければ生きていくことが出来ない現実の世界は、苦痛そのものなのです。古い話ですが、1997年に、『酒鬼薔薇事件』として有名な神戸連続児童殺傷事件が起きた時、多くの親が、我が子が「被害者になるかも知れない不安」ではなく、「加害者になるかも知れない不安」を感じたそうです。もしかしたら、お母さん達は無意識的にその犯罪の理由を知っているのかも知れません。最近の若者による理解不能な事件を見ても、その犯人の子ども時代は、凶暴でもなく、バカでもなく、貧しい家庭に育ったのでもなく、問題児でもなく、普通で、大人しく、むしろ成績優秀な子どもが多いように感じます。オーム真理教事件の時もそうでした。つまり、普通の子どもが大人になり、社会の中に出た時、そこに居場所がないことを感じ、突然「理解不能な事件」を起こすのです。事件を起こして早く社会からドロップアウトしたいだけなのですから、相手は誰でも構わないのす。ちなみに刑務所に入ると、子どもの時のように受け身だけで生活することが出来ます。つまり、能動的に生きる意志を失ってしまった人にとっては、刑務所の中の方が気が楽だということです。だから、出所してもすぐに犯罪を犯して、刑務所に戻ろうとする人がいっぱいいるのでしょう。
2024.07.11
コメント(0)
日本の学校教育は明治になってから始まったのですが、江戸時代までは「学校」ではなく「寺子屋」が子どもの教育を担っていました。その「寺子屋」は、子どもや個々の家庭や地域のニーズに合わせて子どもの教育をしていました。まただから、子どもや親が先生を選ぶこともできました。地域で先生を呼んできて寺子屋を開くようなこともあったようです。そんな寺子屋では、地域の異年齢の子どもたちが一緒に学んでいたのですが、一斉授業ではなく、先生が個々の子どもに対応しながらその子に必要なものを教えていました。また、子ども相手だけでなくさらに大きくなった人の学びの場としての私塾もありました。幕末、明治と活躍した多くの人たちを輩出した吉田松陰による「松下村塾」もそのような私塾の一つでした。その私塾も「押し付けられたもの」ではなく「自分で選ぶもの」でした。簡単に言ってしまうと、明治になるまでの日本には「寺子屋」とか「私塾」という名前の「フリースクール」しかなかったのです。そして、そのフリースクールを出た人たちが長い間日本を支え、明治維新や文明開化を成功させたのです。でも、明治になると「子どもや個々の家庭や地域のニーズに合わせた教育」ではなく、富国強兵を目的とする「国のニーズに合わせた教育」を行う場として「学校」が作られました。そんな学校で教えたのは、「日本の音楽」ではなく「西洋の音楽」でした。「日本人が大切にしてきた価値観」ではなく「欧米の人たちが大切にしている価値観」でした。「地域のこと」ではなく「国のこと」でした。これは今でも変わっていません。その結果、子どもたちの学びや意識が地域や生活から離れてしまい、子どもたちは「自分や地域のため」ではなく、「お国のため」、「お金儲けのため」、「出世のため」に学ぶようになりました。クラスメイトは「仲間」ではなく「競争相手」になりました。また、「欧米へのあこがれ」や「豊かさへのあこがれ」は大きく膨らみましたが、「家族や仲間の大切さ」や、「日本文化の素晴らしさや価値」を忘れてしまいました。その結果、多くの美術品が破棄されたり、外国に流失していきました。寺や仏像は壊されました。今でこそ偉そうに「これが日本の文化です」と言っていますが、それは、そういう動きに反対して必死になって日本の文化や美術品を守ろうとした人がいたからです。また、欧米の人の評価によって、日本の素晴らしさを見直す人もいました。欧米の国たちは自国の文化の上に文明を築いたのですが、日本は自国の文化を否定して文明を築いたのです。これは日本だけでなく韓国や中国も同じです。その結果、物質的豊かさは手に入れましたが、それと引き替えに、何百年と受け継がれてきた文化と精神的アイデンティティーを失ってしまったのです。でも今、そういう「お国のため」、「お金儲けのため」、「出世のため」ということを目的とした学校教育が成り立たなくなってしまっています。子ども達がそういうものに魅力を感じなくなってしまったからです。また学校も、「教育の目的」を子ども達が納得できるような形で提示することが出来ません。その結果、子ども達は「目的が分からない競争」に追い立てられているのです。そういう状況では「学校に行きたくない子」が増えても当然ですよね。私たちは今、明治維新以来の日本の教育の大きな転換点に立ち会っているのかも知れません。でも、この変革を進めるのは国ではなく、一人一人の意識です。「学校に行かないという選択をする子ども達」が大人の意識を変えてくれるのではないかと思います。そういう子ども達の声を聴いて教育が変わって行かなければ、日本はどんどん衰退していくと思います。
2024.07.10
コメント(0)
「子育て」には「大人のための子育て」と「子どものための子育て」があるような気がします。「教育」も同じです。その違いは、「子どもへの大人の期待」を叶えるためにするのが「大人のための子育て」で、大人の期待通りに育たなくても、子どもが自立して幸せに生きることが出来るように支えてあげるのが「子どものための子育て」です。そして、国が公費で運営している公立学校は「子どもへの大人の期待」を叶えるための場です。実際、学校では「国の期待」や「社会の期待」や、「社会的な成功を望む親の期待」を叶えるための授業をしています。ただ、そのような「大人のための子育て」をしている人も、大人のための子育てをしているとは自覚していません。だから、「今は苦しくても、結局それがあんたのためなんだから」と、嫌がる子どもを説得しようとしています。「大人のための子育て」をしている人は、自分たちがやっていることを子どもが肯定的に受け入れていないことを知っているので、「これがあんたのためなんだから」となんとか説得しようとするのです。「大人のための子育て」は「子どもが望む子育て」ではないので、どうしても「押しつける子育て(教育)」になってしまうのです。その結果、共感よりも説得や強制が多くなります。でも、「押しつける子育て」を受けた子は必然的に、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の判断と意思で行動することが出来なくなります。そして、大人が与えてくれた正解に従って生きるようになり、「自分らしさ」とともに「自分の人生」を失います。そんな自分の状態に疑問を感じることなく一生を過ごせれば、それはそれでいいのですが、でも、思春期頃、もしくは中年にさしかかった頃に「自分の人生は空っぽだ」と気付いてしまことがあります。その時、「自分という存在」や「自分の人生」を肯定できなくなってしまうことが多いのです。高度経済成長の頃は世の中がキラキラしていたので、そのキラキラを手に入れさせようとする大人の期待と、キラキラを手に入れたいという子どもの期待が一致していました。だから、大人が与えてくれる子育てや教育を素直に受け入れていました。それが皆さんの親の世代です。「大人のための教育」では、子どもが自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の判断と意思で行動する能力は育たないのですが、みんなが同じ目標に向かって生きていた時代にはそのような能力は最初から必要がなかったのです。でも、そのキラキラは泡となってとうの昔に消えてしまいました。でも、キラキラは消えても、その頃に受けた子育てや教育の結果はいつまでもその人の中に残ります。それは、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の判断と意思で行動する能力が育っていないという現実です。そのため、「大人のための教育」を受けた人は、時代や社会の状態が変わっても、学校や社会が与えてくれる正解を「正しい」と信じ、自分の子どもにも押しつけようとします。そして「これがあんたのためなんだから」と言います。人は「自分が受けた子育て」を、そのまま自分の子どもにも行おうとする傾向があるのです。そして、今、子育てをしている世代の人の多くは、このような子育てを受けてきたのではないでしょうか。でも、世の中は変わりました。みんなが「豊かさ」という一つの夢を追い求める時代は終わったのです。世の中から、「子どもがあこがれるキラキラ」は消えてしまったのです。今、そのキラキラはテレビの中にしかありません。でも、テレビの中の世界は意図的に演出された虚構の世界です。キラキラにあこがれて飛び込んでもその実態はドロドロかも知れません。今私たちが生きている世界では、自分が生きる目標や目的は自分で探すしかないのです。学校や大人が与えてくれる正解は、学校の外の世界では役に立たなくなってしまったのです。もちろん、自分の人生を生きる役にも立ちません。だからもし皆さんが自分の子どもの幸せを願うのなら、「大人のための子育て」ではなく「子どものための子育て」を与えてあげる必要があるのです。それは、「正解を教える子育て」ではなく、「子ども自身が自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の判断と意思で行動することが出来る能力」を育てる子育てです。でも、その方法に正解はありません。子どもは一人一人違うからです。能力も、好みも、感覚や感性も違います。だから、「子どもの育ちを支える子育て」をするためには、子どもの言葉に耳を傾け、子どもと対話し、子どもに「自由」と、「仲間」と、「遊びの場」を与え、大人達が自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する必要があるのです。子どもの育ちに「お手本としての大人」や「人生の先輩としての大人」は必要ですが、「押しつけ、命令し、評価し、強制し、正解を教える大人」は必要がないのです。でも実際には、「押しつけ、命令し、評価し、強制し、正解を教える大人」はいっぱいいますが、「お手本としての大人」や「人生の先輩としての大人」は本当に少ないです。
2024.07.09
コメント(0)
しばらく前に、回転ずしの醤油の入れ物をペロペロやってネットにアップして騒ぎになった事件がありましたよね。それで警察に捕まったのですが、その時の彼の言い訳が「やってはいけないことだということを知らなかったんです」というものでした。でも、こういう「マナー」に属するようなことは、本来、知識として覚えることでも、教えることでもないのです。挨拶もまた同じです。知識として覚えていても使えないからです。そもそも、マナーは状況に応じて発生するものなので、その本質はマニュアル化することが出来ないのです。傘を脇に持って手を振りながら階段を登る行為が危険だということで問題になっていますが、これもまた同じです。幼い子どもや老人が歩いているような歩道を自転車で爆走したり、スマホを見ながら自転車に乗ったり歩いたりする人も同じです。バイトテロやカスハラをする人も同じです。そして今、そういう「みんなが迷惑するような行為を平気でする人」がすごく増えてきています。そういう人はみんな「教えてもらわなかったから」そういう行為をしているのでしょうか。じゃあ、知識として教えればそういう行為を止めるのでしょうか。そんなことはありませんよね。当たり前のようにこういう行為をしてしまう人たちに足らないのは、「知識」ではなく「想像力」なんです。「こういうことをしたらお店の人や周囲の人が困るだろうな」とか、「自分も困ったことになってしまうかも」という想像力です。崖の端っこに立って動画を撮ってアップしていたら落ちて死んでしまったという事件も起きましたが、こういう人に欠如しているのも想像力です。軽装で富士山に登って、頂上付近でにっちもさっちも行かなくなってしまう人に欠けているのも想像力です。そして今、「想像力」が欠如している人たちがどんどん増えてきています。想像力が欠如している人は自分中心的に考え、行動します。相手の立場に立って考えるためにの想像力が欠如してしまっているのですからそれは当然のことです。そして、想像力が欠如している人は簡単に洗脳されてしまいます。というか、洗脳に近いような子育てや教育を受けてきたから想像力が育たなかったのでしょう。マスクをし続けたらどういう影響があるか・・・。ワクチンを打ち続けたらどういう影響が出るか・・・。もちろんマスクをしないで起きることに対する想像力も、ワクチンを打たないことで起きることに対する想像力も必要です。その両方を想像した上で、自分の意志でどちらかを選ぶのならいいのですが、国が言っているから、医者が言っているから、周囲がみんなやっているからと言う理由だけで自分の行動を選択するような生き方をしていたら「自分の人生」を失うことになってしまうのです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断して行動するためには「想像力」が必要なんです。「本に書かれているような知識」ではなく、「多様な体験をすることで育つ想像力」です。何回も木登りをしたことがある子は、木を見て登り方を想像することができます。危険も予測することが出来ます。でも、木登りをしたことがない子は自分が登っていることを空想することは出来ますが、空想は願望であって現実に即していません。そのため、空想しかしたことがない子が実際に木に登ってしまうと危険なことになります。空想の中の自分には重力による重さもないし、手は痛くないし、疲れることもないのですから。目の前にあるものを見て「上から見たらどう見えるか」「横から見たらどう見えるのか」を想像するために必要なのは空想力ではなく想像力です。平面図を見て立体を想像するために必要なものも想像力です。そして、空想は出来ても想像が出来ない子は、学んだことを覚えることは出来ても理解することが出来ないのです。「理解するためには想像力が必要だからです。これは国語、算数、理科、社会の全ての教科において同じです。「1 + 1=2」を覚えるのは簡単です。でも、これを理解するためには「色々な状況を頭の中に思い描いてシミュレーションしてみる想像力」が必要になるのです。そして、「多種多様な体験」があるから、その自由な想像が可能になるのです。いっぱい勉強させれば理解力がアップするのではなく、自由な状況の中で多種多様な体験をしたから、その体験を頭の中で自由に組み替えることが出来る想像力が育ち、想像力が育ったから理解することが出来るのです。そして、どうしてこんなにも想像力が欠如した子どもや、若者や、大人達が増えてきてしまったのかということですが、私は、それは子どもの「なんで? どうして?」や、「自由で多様な体験を大切にしない子育てや教育」、「子ども一人一人の子どもらしさやその子らしさを大切にしない子育てや教育」の結果なのではないかと思っています。学びの基盤となる想像力は体験によって育つのです。いくら知識をいっぱい詰め込んでも、体験が乏しければ想像力は育たないのです。そこ結果は思春期頃になって表れます。
2024.07.08
コメント(0)
人間は、何も知らない、何もできない状態で産まれてきます。出来るのは「成長すること」だけです。人間はその「成長する能力」を使って、生きていくために必要な他の能力を補うように出来ているのです。そのため、その「成長する能力」が充分に働かないと、生きていくのが困難になってしまうのです。その「成長する能力」が働くためには、成長に必要な栄養が必要です。肉体が成長するためには「物質的な栄養」が必要ですよね。それと同じように、心が成長するためには、「心を持った人との心ある関わり合い」が必要になるのです。「心の栄養」は「豊かな心を持った人」から受け継ぐしかないからです。映画などではAIに育てられた子の話がありますが、AIに育てられた子が人間らしさを身に着けることは不可能です。それは日本語しか存在しない環境で育てられた子が、日本語以外の言葉を話せるようになるわけがないのと同じです。感覚が成長するためには、「感覚の働きを大切にしている人との関わり合い」が必要になります。肉体的な機能としての五感の働きは生まれつきのものですが、その五感の働きが、心や、感情や、知性や、意識や、からだと良い関係で繋がるためには、「感覚の働きを大切にしている人との関わり合い」が必要になるのです。だから、日本人的な感覚を持った親に育てられれば「日本人的な感覚」が育ち、フランス人的な感覚を持った親に育てられれば「フランス人的な感覚」が育つのです。思考力が育つためには、思考を必要とする環境と、考えたり工夫したりすることを楽しむことが出来る人との関わり合いや、考えたことを実際にやってみることが許される自由な環境が必要になります。お母さんやお父さんがどんなに高い思考力を持っていても、子どもが「思考力を必要としない生活」をしているのなら子どもの思考力は育ちません。そして、いずれの能力の育ちにも「言葉の育ち」が必要になるのですが、子どもが言葉を学ぶためには「言葉を必要とする環境」と「言葉を知っている人との関わり合い」の二つが必要になります。このいずれが欠けても、子どもは言葉を学ぶことが出来なくなります。お母さんがいくら英語が得意でも、実際に生活の場でお母さんが英語を使っていないのなら、子どもはお母さんから英語を受け継ぐことはできません。まあ当然のことですよね。意識の働きが育つためには「言葉の学び」と「自分と向き合うような体験」が必要になります。子どもは教えてもらったから学ぶのではなく、必要だから学ぶのです。だから、一方通行の授業でいくらいっぱい色々なことを教えても、実際に「それを必要とするような体験」や「それを求める動機」がなければ、頭の中の知識としてとどまるだけで、子どもの知性や、心や、からだの成長を支える栄養にはならないのです。それは、「子どもの口の中に食べ物をいっぱい詰め込んでも、子ども自身がそれを喜び、咀嚼し、飲み込まないことには「子どもの成長を支える栄養」にはならないのと同じです。自分が望んでいないものを口に入れられても、子どもは大人が見ていないところでそれを吐き出してしまいます。「子どもの成長に必要なもの」をこのように考えていった時、今の子どもたちがいかに「ヤバイ」状況の中で生活しているのか」ということが分かるのではないでしょうか。最近の子は、家の中、テレビの中、ゲームの中、おもちゃの中、便利な機械が作り出す人工的な環境の中に閉じ込められて生活しています。そこには、機械との出会い、簡単便利との出会い、快楽との出会い、欲望との出会いはありますが、自然との出会い、人間との出会い、心との出会い、感覚との出会い、意識との出会い、言葉との出会い、成長する喜びとの出会い、自分の目標となるようなあこがれとの出会いはほとんどありません。機械に依存した「簡単で便利な生活」の中には、「楽しいもの」はいっぱいありますが、「子どもの成長に必要なもの」はないのです。
2024.07.07
コメント(0)
最近の子は遊びの場でも、生活の場でも、あまりからだを使うということがないので、「自分のからだのリアル」を知りません。そのため、テレビやネットなどに出てくる「すごいことをやっている人」を見て、「自分も簡単にできる」と思い込んでしまう子も多いです。ゲームの中では簡単に「すごいこと」が出来ますからね。リアルな世界でそんな「すごいこと」が出来るようになるためには、長い時間をかけた「すごい練習」が必要になるのですが、最近の子は、からだを使って色々なことにチャレンジした体験がないのでそういうことが分からないのです。だから「自分でもちょっと教えてもらえば簡単にできる」と思い込んでしまっているのです。「その過程でケガをしたり、苦しかったり、長い時間かかることがある」という想像も出来ません。私がコマを回していると、「僕も回したい」と言ってくる子はいっぱいいます。でも、教えようとして目の前でやって見せても、「何をどう見たらいいのか」ということ自体が分からない子が多いのです。「見てもわからない」というだけでなく、「見る」という行為自体に集中出来ない子がいっぱいいるのです。いつも受動的に見ているだけで、「能動的に見る」という機会が少ないからなのでしょうか。そういう子に、「やってみせるからちゃんと見ていて」と言っても、「私がやっていること」を見ようとしないのです。どっかに行ってしまう子も多いです。また、簡単に出来ると思っているので、ちょっとやって難しそうだと諦めてしまう子も多いです。そんな時に食らいついてくるのは普段から「からだを使った遊び」をしている子だけです。最近の子の「観察力」は悲惨な状態です。知恵の輪を渡しても、観察しようとせず、色々と試そうともせず、最初から「外し方を教えて」と聞いてきます。「椅子が作りたい」と言う子に、見本を見せて「これを参考にしてみて」と言っても、見本には見向きもしません。というか、「どう見たらいいのか」ということ自体が分からないようなのです。自分自身の体験が乏しい子は、人がやっていることをただ見ることは出来ても、想像力を働かせながら能動的に観察することが出来ないのです。「観察する」ということは、「ただ見ていること」と同じではないのです。そして、そのように観察力が低い子は、「人がやっていることを見て学ぶ」ということも出来ません。そのため、常に教えてもらいたがります。でも、観察力が育っていない子は、いくら丁寧に教えてもらっても、「教えてもらったこと」を理解することが出来ないのです。でも、観察することが得意な子は、教えなくても、他の人がやっているところを見て学ぶことが出来ます。だから、自分で自分を成長させることが出来ます。能動的に生きることも出来ます。観察力が高い子は、「人のこと」であっても「自分のこと」のように見て、感じて、理解することが出来るのです。また、「観察力」が弱い子は「想像力」も弱いです。そのため、「ナイフをこんな風に持ったらケガをする」ということを想像することも出来ません。自分には「楽しい遊び」であっても、相手には「苦しいイジメだ」ということを想像することも出来ません。視点の切り替えが出来ないからです。想像力も多様な体験によって育つのです。いっぱい木登りしたからまだ登ったことがない木を見ても「登り方」を想像することが出来るのです。それでは、どうして現代の子どもたちの観察力がそんなにも悲惨な状態になってしまっているのかということですが、それは、日ごろから観察を必要としない生活をしているからに他なりません。それは簡単な理由です。「包丁の使い方」を学びたいのなら、お母さんが包丁を使っているところをよく観察する必要があります。こういうことは「教えてもらったから出来るようになる」ということではありません。いくら丁寧に教えてもらっても、自分の意志と意識でしっかりと観察しないことには出来るようにならないのです。でもそのためには、子どもにテレビやゲームといった「受動的に遊べるもの」ではなく、能動的に観察し、考え、行動しないことには楽しくならない「退屈な時間」を与える必要があるのです。
2024.07.06
コメント(0)
ネットの記事などを見ていると、今、子どもたちの「体験格差」が大きな問題になっているようです。以下は、今井悠介という人が書いた「体験格差」(講談社現代新書)という本の内容紹介です。(ちなみに、私自身はまだこの本を読んでいませんけど。)習い事や家族旅行は贅沢?子どもたちから何が奪われているのか?この社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態とは?日本初の全国調査が明かす「体験ゼロ」の衝撃!【本書のおもな内容】●低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」●小4までは「学習」より「体験」●体験は贅沢品か? 必需品か?●「サッカーがしたい」「うちは無理だよね」●なぜ体験をあきらめなければいけないのか●人気の水泳と音楽で生じる格差●近所のお祭りにすら格差がある●障害児や外国ルーツを持つ家庭が直面する壁●子どもは親の苦しみを想像する●体験は想像力と選択肢の幅を広げるyahooニュースでもう少し詳しい説明を読むことが出来ます。「体験格差」大人になったらどんな影響がある? 全国調査が明らかにした“ヤバい実態”「体験格差」は親の「経済格差」ともつながっていますが、それ以上に親の「意識格差」ともつながっています。同じような経済状態でも「どういう体験を子どもに与えたい」と思うのかは、親の意識次第だからです。そして、その意識格差の背景には親自身の子ども時代の体験も影響しています。「親にしてもらって良かった」と思ったことを、自分の子どもにもやらせてあげたいと考える人は多いです。自分自身の価値観や生き方に合わせて子どもに色々な体験をさせたいと考える人もいます。また、子どもの望みに合わせて、色々なところに行ったり、色々なことをやらせる人もいます。高いお金をかけて家族でディズニーランドに行く人もいれば、もっと安い費用でキャンプや近くの自然の中で遊ぼうと考える人もいます。もちろん、「ディズニーランド」とキャンプや野山での自然体験とでは、その「体験の質」が全く違います。そして「体験の質」が違えば、子どもの成長や、心やからだに与える影響も全く違います。「キャンプなんか行きたくない」と言っている子を無理矢理キャンプに連れ出しても、キャンプが大好きな子と同じ体験は出来ないのです。そして、キャンプを楽しむためには、その土台として別の体験が必要になります。日常的に自然の中で遊ぶことが多い子は、自然の中でのキャンプも楽しめるでしょう。でも、部屋の中で人工物に囲まれ、ゲームばかりしている子が、不便なだけのキャンプを楽しむのは難しいかも知れません。家でお料理のお手伝いをするという体験は、お金はかからないし、色々な面で子どもの成長にも良い影響があります。私は子どもの成長にとって一番必要なのは、習い事や旅行のような「高いお金を必要とする体験」ではなく、「お金をかけずにできる日常的な生活体験」や、仲間や多くの大人たちと群れて遊んだり、目的を持って活動したりする「人間体験」や「社会体験」なのではないかと思っています。実際、社会的に素晴らしい活動をした人の伝記なんかを読んでも、「高いお金が必要な体験をさせてもらったから」というような話を読んだ記憶がありません。むしろ、「貧しくて苦労した」という話の方が多いです。また、子どもの成長には、「受け身で出来る体験」ではなく、「能動的に取り組み、工夫が必要になるような体験」が必要です。「受け身で出来る体験」はお金で買うことが出来ますが、「能動的に取り組み、工夫が必要になるような体験」はお金では買えません。だから、(もちろんある程度の経済的余裕は必要かもしれませんが)ただ単に「お金があれば色々な体験を子どもに与えることが出来る」というような単純な話ではないのです。あと、「経済的余裕」よりもさらに必要なのは親の「精神的余裕」の方です。(両者は無関係ではありませんが、イコールでもありません。)お母さんが、子どもがやろうとしていることを見守り、待つことが出来るだけで、子どもは多くの体験をすることが出来るのです。でも、子どもがやっていることを親の価値観で評価したり、待てずに急かしたら、いっぱい色々なことをやらせても、その体験は子どもの成長につながらないのです。私は、最近の子どもたちに不足しているは、「自然体験」と、「感覚体験」と、「言葉体験」と、「人間体験」と、「遊び体験」だと思っています。もっとも「遊び体験」の中に、これらの全ての体験を入れ込むことは可能です。
2024.07.05
コメント(4)
いま、走ることが苦手な子、すぐ転ぶ子が増えてきています。走らせると、「どこか身体に障害があるのではないか」というような不自然な走り方をしたり、老人のように何にもないところですぐ転んだりするのです。特に山や野原のような平地ではない場所ではすぐ転びます。わらべ歌などで、「花いちもんめ」のように、手をつないで後ろ向きに歩くことがあるのですが、後ろ向き歩きをすると転ぶ子も結構います。転んだとき、手が出なくて顔面が直接地面にぶつかり大けがをしてしまう子や、ボールが顔に向かって飛んできているのに避けることも目を閉じることも出来ず、眼球を傷つけてしまう子が増えてきた、という報告はかなり以前から出ています。姿勢も悪いです。呼吸も浅いです。すぐ疲れます。指や手を使って工夫することが苦手です。意識や感覚が散漫で一つの事に集中するのが苦手です。心も不安定です。それでいて「こだわり」が強く「ゆうずう」がききません。困ったことに、同じような状態のお母さんもいっぱいいます。(多分、お父さんもなんでしょう・・・)そういう状態の背景には「からだの育ち」の遅れが影響しているのです。それは「からだの智恵」が育っていないということでもあります。その「からだの智恵」は「鍛える」という発想に基づくスポーツでは育てることが出来ません。また、スポーツでは、そのスポーツに応じて、からだの使い方や、意識や感覚の使い方が固定されてしまっているので、スポーツで身につけたものは、スポーツ以外の場ではあまり役に立たないのです。それは、「学校で学んだ知識」が「学校以外の場」ではあまり役に立たないのと同じです。(それじゃあ困るのですけどね・・・)「学校以外の場」で役に立つのは「知識」よりも「智恵」です。そして、「智恵」が育っている子は生活の場や仕事でも、有効に「知識」を使うことも出来ます。でも「智恵」が育っていない子は、試験の時にしか「知識」を役立てることが出来ません。その「智恵」には「頭の智恵」と「からだの智恵」の二種類があります。ただし、この二つは別々のものではなく、連携して働いています。この二つの智恵が働いている人は「子育て」も「仕事」も楽しむ事が出来ます。それらの活動を通して多くを学ぶことも出来ます。でも、この智恵が働いていない人は「子育て」も「仕事」も単なる「お仕事」にしてしまいます。そのため何も学べません。楽しめません。そして、すぐに疲れます。でも、学校は知識を覚えさせることばかりに熱心で、智恵を育てようとはしていません。お母さん達もまた、「お母さんの言うことをよく聞くよい子」を育てようとするばかりで、「智恵」を育てようとはしていません。というか、もうすでに多くのお母さん達が「智恵」を失ってしまっています。だから、「子育て書」に依存しないと子育てが出来なくなってしまっているのです。昔の子ども達は「遊びの場や生活の場での体験」を通して知恵を育てていましたが、最近の子にはその両方ともありません。整地され管理された運動場を走る能力と、自然な状態の野山を走る能力は同じではありません。プールで泳ぐ能力と、海で泳ぎながら遊ぶ能力は同じではありません。そして、子どもの時に学ぶべきなのは、スポーツ的な「特殊化されたからだの使い方」ではなく、自由で応用が利く「遊びを通したからだの使い方」なんです。それが、私が言っている「からだの智恵」でもあります。でも今、「スポーツでからだを動かす場」はあっても、「遊びでからだを動かす場」がありません。公園で遊んでいると「うるさい」と叱られます。自由に遊べる広場や野山、そして一緒に遊んでくれる仲間も消えました。公園などでは木登りをしているだけでも叱られます。うちの子が小学生の頃、別のクラスの子がブランコから落ちてケガをして救急車で運ばれるという事故がありました。最初は、何かふざけていて落ちたのかと思ったのですが、そうではなく大きくこいでいるうちに、途中で怖くなって手を離してしまったらしいのです。今の子ども達は、遊びや生活の中で「しがみつく」という体験が少ないので、しがみつく力も、しがみつこうとする本能も弱いのです。親子遊びで、子どもを布に乗せて引っ張る遊びをするのですが、布の上にちょこんと座るだけでしがみつこうとしない子がいっぱいいます。(ベビーカーではしがみつく必要がありませんからね。)そのような状態で布を引っ張ると、後ろにコテンと倒れてしまうので、「布をつかんで」と言うのですが、なかなかその感覚が分からないようです。四つん這いになったお母さんやお父さんの背中に子どもをしがみつかせて、振り落とすような動きをする「ロディオ」という遊びがあるのですが、この時もただちょこんと乗るだけでしがみつけない子がいっぱいいます。手だけはしがみつけても、足まで使うことが出来る子は少ないです。そのため、すぐに落ちてしまいます。うちの子達も小さいときからこの遊びをやっていたのですが、うちの子達は四人とも、まるで「大リーグボール養成ギブス」のようにがっちりとしがみついて、どんなに暴れまくっても落ちませんでした。そのまま立って、ジャンプしても落ちないくらいでした。でも、我が子以外で、そのようなことが出来る子は少ないです。あと、「ランドセル」とか、「お猿の赤ちゃん」とか、しがみつく遊びは色々とあるのですが、今、しっかりとしがみつくことが出来る子は多くありません。また、鬼ごっこのようなことをしていると、前を向いて走らないため、正面衝突もよく起きます。細かいからだの使い方も苦手です。「こより」(分かりますか?)を撚ったり、羊毛を小さく丸めたり、針に糸を通したり、コマのヒモを巻くような作業も苦手です。からだ全体を使って、剣玉の球をひょいと上に上げるようなからだの使い方も苦手で、腕だけで剣玉を振り回してしまうので非常に危険です。竹とんぼを飛ばすのも、弓矢を飛ばすのも苦手です。「からだの智恵」が育っていないのです。そのため、カッターやノコギリのような刃物を使わせると非常に危険な使い方をします。それで、「正しい使い方」を教えるのですが、からだの智恵が育っていない子は、なんべん教えても「自分のやり方」を変えることが出来ません。また、そういうものでケガをしたことがないので、ケガに対する認識もありません。それでケガをしてしまう子も多いです。それでも、「からだの智恵」が育っている最中の3,4才頃の子なら、ケガをしてもまたやりたがるのですが、年長さんや小学生ぐらいになると、一度ケガをしてびっくりしてしまうと、「ぼく それ嫌い」といって、二度と手を出さなくなる子も結構います。また、自分がケガをするだけならいいのですが刃物の怖さを知らないので、平気で振り回したり、危ないことをしてしまう子もいます。この状態を変えるためには、日々の生活や遊びを変える必要があるのです。
2024.07.04
コメント(0)
昨日は「自分のからだに意識を向けて下さい」ということを書きました。「意識を向ける」ということは「感じようとする」ということでもあります。そして、「感じようとする」ことで、「そのもの」が存在しはじめるのです。「からだ」を感じようとするから「からだ」という存在が現れるのです。「自分」を感じようとするから「自分」が現れるのです。「からだ」が存在しているから「からだ」を感じる事が出来るのではなく、「からだ」を感じようとする意識の働きが「からだ」を生み出すのです。これは「からだ」や「自分」だけではありません。「木」でも、「石」でも、「光」でも、「愛」でも、「勇気」でも、「希望」でも、「神様」でも同じです。客観的な存在としての「肉体」は感じようとしなくても最初から存在しています。だから本人の気持ちとは関係なく医者が扱うことが出来ます。でも、「からだ」は「自分の意識」が創り出しているものなので、医者には扱うことが出来ないのです。「石」はそこいら中に落ちています。でも、「石が大好きな人にとっての石」と「石に関心がない人にとっての石」は同じではありません。だから、「物理的には同じ石」を見ていても、一人一人異なった「石」を見ているのです。その違いは、その「石」の絵を描いたり、その「石」について詩を書いたりすれば分かります。同じものを見ているのに、一人一人みんな違う絵を描き、詩を書きますから。私たちが生きているのは、「自分の意識と感覚が創りだした世界」なんです。「自然が大好きな子」を自然の中に連れ出せば、自然の中に色々と「素敵なもの」、「キラキラしたもの」、「面白いもの」をいっぱい発見するでしょう。でも、「自然が苦手な子」を自然の中に連れ出しても、「退屈なもの」「汚いもの」「面白くないもの」「気持ちが悪いもの」しか見えないのでしょう。「この世界は悪人ばかりだ」と言う人も、「この世は善人ばかりだ」と言う人もいますが、それは「その人にとっては」というだけの話です。そこに全ての人にとって客観的な事実なんてありません。悪人を探そうとすれば悪人ばかりになり、善人を探そうとすれば善人ばかりになるのです。神様を感じようとすれば、そこいら中に神様を感じることが出来ます。だから、子育てや教育では、単なる知識を教えるのではなく、子どもの不思議や、興味や関心をいっぱい増やしてあげた方がいいのです。自分が生まれてきた世界の「否定的な側面」ではなく「肯定的な側面」をいっぱい伝えてあげた方がいいのです。「勉強」を教えるのではなく「勉強の楽しさ」を教えてあげるべきなんです。「勉強の楽しさ」を伝えることが出来れば「勉強しなさい」などと子どもを追い立てなくても子どもは勉強するようになるのです。「優しいって嬉しい、気持ちがいい」ということを伝えることが出来れば「優しくしなさい」と怒鳴らなくても、優しい子に育つのです。「考えるって楽しい」ということを伝えることが出来れば、「考えなさい」などと言わなくても、自分の頭で考えるようになるのです。でも、「考える楽しさ」を知らない子に、いくら「考えなさい」と言っても無駄です。何を言われているのかすら理解出来ないでしょう。多くのお母さんや先生達が、子どもに勉強を押しつけることで「勉強が嫌いな子」を大量生産しています。そういう子は「試験のための勉強」しかしなくなります。問題は「勉強って楽しい」ということは、「勉強が楽しい人」にしか伝えられないということです。「この世界はすばらしい」ということは、「この世界はすばらしい」と感じている人にしか伝えることが出来ません。だから、子ども達を積極的に「自分の人生を生き生きと生きている素敵な大人」と出会わせてあげて欲しいのです。話が広がってしまいましたが、ゆっくり動くなどして自分の「からだ」に意識を向けてみて下さい。自分の姿勢や動きに意識を向けて下さい。深く感じることが出来るようになればなるほど自分のからだが豊かになりますから。
2024.07.03
コメント(0)
現代人は「からだとの対話」が苦手です。この場合の「からだ」とは、単なる「肉体」のことではありません。目を閉じた時にも感じることが出来る「自分という存在」そのものです。それは、「肉体」という「物理的存在」ではなく、「意識の働きとつながっている感覚の働きが創りだした肉体を超えた存在」です。ですから、「自分の肉体よりも大きなからだ」を感じることが出来る人もいれば、「肉体の中に埋もれてしまうような小さなからだ」しか感じることが出来ない人も居ます。その「小さなからだ」の人は、自分で「自分という存在」を感じるのが苦手です。「自分」がはっきりとしていないからです。そのため、不安や孤独を感じやすいです。それを「透明人間のような自分」と表現する人もいます。以前、「自分のからだを感じるワーク」で、床に寝て目を閉じてもらい、「自分のからだ」を感じてもらいました。「足の親指はありますか」「かかとはありますか」「ふくらはぎは・・・」と次々と聞いていったら、「右足がありません」とか「内臓がありません」などと言った人がいました。もちろん物理的には存在しているのですが、それが「自分」という意識とつながっていないので感じことが出来ないのです。「自分のからだ」なのに、「自分」から切り離されてしまっているのです。指を感じることが出来ない人は指を使うことが出来ません。肺を感じることが出来ない人は呼吸を感じることが出来ません。そして、「自分」という存在を感じることが出来ない人は「他者」という存在も感じることが出来ません。ちゃんと見えるし、ちゃんと声を聞くことも出来るのですが、リアルな「存在」として感じないのです。どうしてそういう状態の人が多くなってしまったのかというと、現代人の簡単で便利な道具や機械に囲まれた生活では「からだ」と対話する必要がないからです。ゲームのような仮想空間の中ではなおさらです。だから意識の中から「からだ」が消えてしまうのです。そんな、消えてしまった「からだ」を取り戻してみませんか。まず、からだを動かしても物にぶつからない程度の広い空間を見つけ、足を少し広げて自然体で立ちます。そして、目を閉じてゆっくりと色々からだを動かしてみて下さい。手を挙げたり、からだをねじったり、ポーズをしたり、色々な動きを試してみて下さい。ゆっくりと動きます。その時、自分のからだがどのように動いているのかを感じることが出来ますか。また、時々動きを止めてみて下さい。動きは感じることが出来ても、静止した時にからだを感じることは出来ますか。今、自分のからだがどのような状態になっているのか分かりますか。手や指、そして足や胴や腕や全身の状態が分かりますか。分かりにくかったらその部分をかすかに動かしてみて下さい。この静止状態での自分のからだとの対話は横に寝てやるともっとはっきり分かってきます。ちなみに発達障害の子の中には目を閉じると自分のからだの状態が確認出来なくなってしまう子もいるようです。普通の人は目を閉じてからだを動かしても、今自分のからだがどんな形、状態になっているのか分かるのですが、そういう子は実際に目で確認しないとそれが分からないそうです。それはつまり、自分のからだとの対話ができないということを意味しています。そして、発達障害でなくても自分のからだとの対話が出来ない人、からだの状態を感じ取ることが苦手な人は、同時に他者のからだを感じることもうまく出来ません。人間は相手と自分のからだを共鳴させることで他者のからだを感じているからです。そして、他者のからだを感じることが出来ない人は他者の感情を感じることもできません。人は他者のからだの状態を自分のからだで感じることで、そのからだの状態の背景にある感情を感じ取っているのです。悲しんでいる人を見ている時、自分のからだがその悲しんでいる人のからだと共鳴することでその人の悲しみを自分の悲しみとして受け取っているのです。そうでないとただ視覚で「ああ、あの人は悲しいんだ」という判断しか出来ません。そして、そういう子どもたちそして大人達が増えて来ています。自分のからだとの対話が苦手だと、自分と世界の境界線が曖昧になってしまい不安が強くなります。自分に害のあるものをからだで防御することが出来ないからです。特に、この場合は皮膚感覚が大きく影響しているようです。そういう人たちは意識的に自分と世界の境界線を確認しようとします。そして、からだを締め付けるような下着や洋服を着たり、リストカットを繰り返します。次から次へと様々なトラブルを起こすのもその延長かも知れません。トラブルを起こして、その時の周囲からの反応によって自分の存在を確認しようとしているのです。ちなみに自分のからだの感覚に過敏な人はからだの感覚に支配されているのであってそれは対話とは異なります。そういう人は他者のからだや感情には鈍感です。鈍感と過敏は根っこが同じなんです。
2024.07.02
コメント(0)
私たちは「私」という意識をもっています。でも、その「私」は非常に不安定です。心穏やかに過ごしているときの「私」もあれば、雷が落ち、暴風雨が吹き荒れる嵐のような「私」の時もあります。春のような温かくてウキウキするような「私」の時も、夏のように「さー、思いっきり遊ぶぞ!」というような「私」の時も、秋のように自分を見つめ、美しいものや優しいものに浸っていたい「私」の時も、冬のように春を待ちわびてマッタリと過ごしたい「私」の時もあります。会社にいる時の「私」と、家庭にいる時の「私」は違います。友達と遊んでいるときの「私」と、子育てをしているときの「私」も違います。朝の「私」、昼の「私」、夜の「私」も違います。食事前の「私」と、食事後の「私」も違います。子どもと一緒に居る時の「私」と、友だちと一緒に居る時の「私」も違います。失敗をする前の「私」と、失敗をしてしまった後の「私」も違います。立っているときの「私」と、座っているときの「私」も違います。上を向いているときの「私」と、下を向いているときの「私」も違います。その変化に合わせて、感じ方も、考え方も、意識や感情の状態まで違うのです。「私」はこんなにも変化しているのに、でも人はその「私」の変化に気付きません。そして、「私」は「いつも同じ私」だと思っています。それは、四六時中「目」を使ってものを見ているのに、その「目」自体を意識することが出来ないのと同じです。でも実は、その「私」には実体がないのです。「私」という意識はありますが、その「意識」の中身はからだの状態に応じて常に変化しているのです。でも人はその「中身」の変化には気付きません。上に書いたような「私」の変化は全て「私のからだの変化」の現れなんです。ですから、「私」を変えたいと思うのなら「私のからだ」を変えるしかないのです。本気で「自己肯定感が低い私」や、「いつも怒ってばかりいる自分」を変えたいと思うのなら、「からだ」を変えるのです。自分で自分を問い詰め、否定し、罵っても何も変わらないのです。まず、「嫌いな自分」の「からだ」をよく観察してみて下さい。姿勢はどうですか。肩や腰や胸は緊張で固まっていませんか。声はどうですか。歩き方はどうですか。目線はいつも近くを見ていますか、遠くを見ていますか。上の方を見ていますか、下の方を見ていますか。しっかり見ていますか。ボーッと見ているだけですか。とは言っても、その「自分観察」がちゃんと出来るようなら問題はないのです。自分を変えたいと思っている人ほど、自分のことを冷静に観察していないからです。そこにあるのは「思い込みの自分」と「こだわりの自分」だけです。じゃあ、どうしたらいいのかというと、いつもと違うことをしてみるのです。いつもと違う姿勢をしてみる。いつもと違う歩き方をしてみる。いつもと違う話し方をしてみる。いつもと違う怒り方をしてみる。いつもと違う道を歩いてみる。いつもと違う座り方をしてみる。などなどです。すると、「いつもの自分」を客観的に見る目が生まれます。「対比する自分」が生まれるからです。そうしたら「いつもの自分」を変える方法も探せるようになるのです。頭で考えるだけでは何にも解決しません。
2024.07.01
コメント(0)
昔の職人や芸事をやっていた人は、弟子を育てる時にいちいち教えたりしませんでした。ただ手本を見せ、ただそれを真似するように求めたのです。間違ったことをした時は叱りましたが、だからといって、弟子が「どこが悪いんですか?」と聞いても「自分で考えろ」と言うだけで丁寧に教えはしませんでした。(私の太極拳の先生はこういう教え方をしていました。)今こういう教え方をしたら、若者はすぐに辞めてしまうでしょうね。今これをやると「不親切だ」とか「イジワルをしている」と言われてしまうでしょけど、実は、世の中には「言葉で教えることが出来ること」と「言葉では教えることが出来ないこと」があるのです。そして、「本当に大切なこと」は言葉では教えることが出来ないのです。なぜなら、言葉で教えたことは「知識」として頭の中に留まるだけで、心や、感覚や、からだの中に落ちて行かないからです。当然、心や、感覚や、からだを育てる栄養にもなりません。また、知識として知っているだけでは師匠がやっていることを再現できません。テストでは知識として知っているだけで充分ですが、職人や芸事や武術などの世界ではどんなに多くのことを知っていても、自分のからだで実際に再現出来なければ意味がないのです。それに、感覚や、心や、からだの世界に属するものは、言葉では伝えることが出来ません。どんなに食レポが上手でも「実際の味」を伝えることは出来ませんよね。そして、実際の味が伝わらなければ再現も出来ないのです。感覚に属するものは感覚で受け取り、心に属するものは心で受け取り、からだに属するものはからだで受け取るしかないのです。頭で受け取ることが出来るのは頭に属するものだけです。そのため、「優しさとは何か」ということをいくらいっぱい知識として教えても、「優しい子」は育ちません。教科書で道徳を教えても全く意味がありません。「優しくしなさい」と怒鳴っても「優しくない子」が育つだけです。「イジメは良くない」ということをいくら教えても、「仲間と仲良く遊ぶ楽しさ」を知らない子は、他の子をいじめたり、他の子にいじめられたりしてしまうでしょう。そして、子どもの育ちに必要なものも「頭」ではなく「感覚」や、「心」や、「からだ」でしか学ぶことが出来ないのです。特に、思春期前の子ども達においては「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」が絶対的に必要になるのです。思春期前の子どもの知性は、頭ではなく感覚や、心や、からだの中に宿っているのです。でも、現代人は「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」は与えずに、「頭での学び」ばかりを子どもに与えています。そのため、今の子ども達は「感覚や、心や、からだで学ぶ能力」が非常に低くなってしまっているのです。でも、その「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が、思春期頃から始まる「頭での学び」に必要になるのです。なぜなら、「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が「頭で学んだ知識」を理解する時に必要になるからです。そもそも「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」がなければ言葉を理解すること自体が出来ないのです。でも、理解出来なくても暗記することは出来ます。そして、暗記すればテストではそれなりにいい点数を取ることは出来ます。だから親も先生も理解よりも暗記を求めるのでしょう。でも、その「覚えたこと」は、学校という狭い世界の中でしか通用しません。
2024.06.30
コメント(0)
現代人は自分のからだを大切にしません。からだと対話することもしません。からだを通して学ぶことを大切にしません。からだの不思議を知りません。「からだ」という恩寵も「からだ」という喜びもを知りません。でも、学校でも家庭でも、「命を大切にしよう」とは言います。「命」を支えてくれている「からだ」は大切にしていないのに、「命を大切にしよう」とは言うのです。不思議なことです。そんな現代人の考える「命」は非常に抽象的で観念的です。「命を大切にしよう」と言いながらそこには全く具体性がありません。ですから、子どもに「命ってなあに?」とか、「命ってどうやって大切にするの?」とか、「命はなんで大切なの?」などと聞かれてもまともに答えることが出来ません。そもそも皆さんはご自分の命を大切になさっていますか。最近は、自己肯定感の低い人も多いですが、自分で自分を否定することは、自分の命を粗末にしていることにはなりませんか。 「命」は物と違って、触れることも、見ることも出来ません。金庫に入れておくことも出来ません。科学的にその存在を証明することも出来ません。それは「神様」と呼ばれるようなものと似ています。実際、「命は単なる化学現象に過ぎない」と主張する科学者もいます。そこにあるのは、「命」ではなく、「命のような現象」に過ぎないということです。竜巻は「命あるもの」のように動きますが、単なる物理現象であって「命あるもの」ではないですよね。AIを搭載したロボットは人間のように反応しますが、「命あるもの」ではありませんよね。それと同じです。じゃあ、「命」は本当に観念的なものなのかというとそれは違うのです。確かに、科学的にその存在を証明することは出来ませんが、からだの感覚を通して、リアルな感覚として感じることは出来るからです。それは「音楽」と似ています。私たちは当たり前に「音楽」が存在していることを知っています。でも、そんな身近な存在でも、科学はその存在を証明できないのです。なぜなら、「音楽」を科学的に観察することが出来ないからです。科学で観察できるのは「音」だけです。「音の変化」や「音の関係性」を観察することも出来ますが、そこに「音楽」はありません。「音楽」は人の心でしかその存在を確認することが出来ないものなのです。「命」も同じです。「命」は人の「からだの感覚」を通してしか確認出来ないものなのです。子どもを抱きしめたときに「子どもの命」を感じますよね。自分のからだに意識を向けることで、それと同じ感覚を、自分自身の命に対しても感じることが出来ます。でも、「自分のからだと対話する能力」を失ってしまった現代人は、「命を感じる能力」も失ってしまいました。そして、「命」の源である「からだ」を、「頭の道具」として使うようになりました。その結果、「心」と「からだ」が分離し、「心」と「からだ」が不安定になり、不安が強くなりました。じゃあ、どうやったらもう一度「からだの感覚」を取り戻し、「自分のからだや命」と対話することが出来るようになるのか、ということですが、困った事に「自分との対話の方法」は教えることが出来ないのです。ただ、教えることは出来ませんが自分で学ぶ方法はあります。その一つに、「ゆっくり動く」という方法があります。普通、人はいつも無意識にからだを動かしています。無意識に起き上がって、無意識に歩き、無意識に歯を磨き、無意識に話し、無意識に食事をしています。 そして、そのような無意識状態でからだを動かしているときには、「心とからだの対話」はありません。からだの内部だけで処理が自己完結してしまっているからです。だからこそ、考え事をしながらでも自転車に乗ることが出来るわけです。人間以外の動物たちはみなその状態です。でも、そのままでは「心とからだの対話」は出来ないので、その無意識状態からからだを解放してあげる必要があるのです。「ゆっくり」はそのための方法です。ちなみに「ゆっくり」は「ゆったり」とか「ゆるむ」という言葉と繋がっている言葉のようです。ですから、「ゆっくり動く」ということは、単に「スローモーションで動く」ということではありません。「心の余裕を持って動く」ということです。また、「からだ」を「頭の支配」から解放してあげないことには「ゆっくり」は出来ません。実は、「ゆっくり」を大切にするということは、「脳の中の世界」から出て、「自分のからだが置かれた現実の世界」に還ってくるということでもあるのです。それはまた、自分自身を受け入れることであり、目の前の子どもを受け入れることであり、自分が置かれている現実を肯定することなんです。「ゆっくり」はそこからしか始まらないのです。
2024.06.29
コメント(0)
子育ての目的は、子どもを「従順な子」に育てることではありません。そう考えている人は多いですが、そんな風に考えて子育てをしているのは人間だけです。他の動物たちにとっての「子育ての目的」は、我が子を「自立できるようにする」ことだけです。そうでないと種が滅びてしまうからです。みんなが「従順な子を育てること」を「子育ての目的」にしてそれが成功したら、AIがその従順な人間達の支配者になるでしょう。従順なだけの人間は誰かの指示に従うことは出来ますが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する事が出来ないので、思考と、感覚と、判断を誰かに依存せざるおえないからです。AIはその役割をやってくれるかも知れませんが、AIには「人間の幸せ」を考える能力がないので、やがて人類は滅びてしまうでしょう。また、従順なだけの人が自分の人生に「生きがい」や「喜び」を感じるのは難しいと思います。そして愚痴ばかりを言い続けながらやがて人生を終えることになるでしょう。そして今の日本にはその「愚痴」が満ちあふれています。カスハラも、「子どもの声がうるさい」と文句を言う人もその表れです。皆さんは我が子にそういう「愚痴ばかりの人生」を送って欲しいのですか。そんなことないですよね。大部分のお母さんは「自分の人生を自分らしく幸せに生きることが出来る人」に育って欲しくて子育てをしているのではないかと思います。でも、多くの人が子どもの幸せを願っているはずなのに、実際にやっているのは、「子どもの気持ちを無視して、子どもに自分の願いや要求を押しつけるような子育て」ばかりです。そのようなお母さんでも、「子どもの自立」を願っているのでしょうが、その「自立」の中身は「経済的な自立」だけです。だから、子ども達を「勉強」に追い立てることが出来るのです。「精神的な自立」を願っていたら、子どもを支配しようなどとはしないはずですから。現代人にとって一番大切なのは「お金」です。現代社会においては「お金を稼げる人」が「偉い人」なんです。子ども達に「一番欲しいのは何」と聞いても、「お金」という答えが返ってきます。だから、お母さん達も、子どもを「お金を稼げる人」、「経済的に自立した人」に育てようとしているのでしょう。でもそのような価値観は、お金を稼いでいない「お母さん」という存在の価値を否定してしまいます。実際、「お母さんのやっていること」に自信も誇りも持てていないお母さんがいっぱいいます。子どもに「お金を稼ぐことが一番大切なんだ」と伝えることが、子どもに「お母さんという存在に価値はないんだ」ということを伝える結果になってしまっているのです。多くのお母さんが、自分の存在を自分で否定しているのです。お母さん自身も「お金を稼いでいない自分」に自信が持てません。国も「子どもが幼いうちから子どもを保育園に預けお金を稼げ」という圧力をかけています。実際、経済的に自立できていない「専業主婦」という自分の立場を卑下している人も多いです。お金を稼いでいない専業主婦をバカにする男性も多いです。でもそのように考える人は、「お母さん」が「お金には代えがたい大切なことをやっている」ということを知らないのです。「子どももお母さんも幸せになるような子育て」をするためには、お母さん自身がそのことに気づき、自分がやっていることや、自分の存在に誇りを持つことが出来るようになる必要があるのです。お母さん自身が精神的な自立を目指さないことには、子どもの精神的な自立を支えることは出来ないのです。
2024.06.28
コメント(0)
子どもが言うことを聞かないので悩んでいるお母さんがいっぱいいます。その背景には、「子どもがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だ」という思い込みがあるのでしょう。また、子どもを仕付けるのは親の義務だ。だから、その仕付けのために親が子どもに色々と要求するのも親の義務だ。そしてその、子どものための要求に応えるのは子どもの義務だ。「あなたはまだ何も知らない、何も出来ない、そんなあなたがちゃんと成長するために色々と言っているんだから、あなたがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だし、義務でもあるんだよ」ということなのでしょう。「お母さんの言うことを聞かない子はわがままで、自分勝手で、悪い子だ」と言う人もいます。まるで専制君主のような考え方ですね。でも、このような考え方をしているお母さんは普通にいっぱいいます。学校の先生も、同じような理由で同じようなことを子どもやお母さん達に求めています。「子どもやお母さんが先生の言うことを聞くのは当たり前で義務だ」と思い込んで、そのような意識で子どもや親に色々と言って来る先生もいます。奥さんにそのようなことを求めているご主人もいます。(その逆もあります)嫁にそのようなことを求めているお姑さんもいます。社員にそのようなことを求めている会社もあります。その結果過労死しても「それはその個人の問題に過ぎない」と切り捨ててしまいます。国民にそのようなことを求めている国家も多いです。日本でも、コロナの時はみんな言うことを聞かされました。「マスクをしない」、「ワクチンを打たない」、「アルコール消毒をしない」というだけで「反社会的な活動家」のような評価をされましたからね。マイナンバーカードでも、河野さんは「みんなのためなんだから言うことを聞け」という態度を崩しませんよね。そういう考え方をする人は「話し合い」に応じません。一方的に「あんたのためなんだから」と自分の要求を押しつけてきます。相手の言葉に耳を傾けません。プライドがあるのでしょうか。待ちません。相手を自分のペースに従わせようとします。いま、日本中がそういう状態になってしまっていますが、その中で一番弱い立場に居るのが子ども達です。だから子ども達は虫や小動物を殺してあそんだり、誰かターゲットを決めて「イジメ遊び」をしたり、万引きや麻薬などに手を出して「追い詰められた苦しさ」から逃れようとしています。するとそれはそれで、親や先生や社会から強く非難されます。そして、大人がよってたかって「子どもはこうあるべきだ」という「子どもが望まないこと」や「子どもの成長につながらないこと」を子どもに押しつけています。でも、子どもが大人の言うことを聞かないのは当たり前のことなんです。子どもは「大人の家来」として生まれてくるわけではないので、それは当然のことなんです。子どもは常に「今、自分に必要なこと」だけを求めています。それが動物としての、また、人間としての本能だからです。でも大人は、「今必要なこと」ではなく、子どもには理解出来ない「将来必要になること」や「社会的に必要なこと」ばかりを子どもに押しつけています。だから子どもは自分を守るために逃げるのです。幼い子ども達が今求めているのは「お母さんの傍にいることができる安心」と、「共に色々なものを見て、色々なことを感じて、一緒に笑い、遊んでくれ、色々なことを伝えてくれるお母さんや仲間達、そして周囲の大人達との関わり」なんです。その証拠に、お母さんの言うことからは逃げる子でも、こういうことからは逃げませんから。
2024.06.27
コメント(2)
多くのお母さんが「子どものために」と頑張っています。子どものために大好きだった趣味を諦めているお母さんはいっぱいいます。子どものために一人で色々と考えて頑張っています。子どものために色々と考えて子どもにしつけをしたり、勉強をさせたり、色々なところに連れ出したりしています。子どものために付き合いたくないママ友とも付き合っています。子どもの習い事のために仕事に出ている人もいます。子どものために夫婦でケンカをしたりもしています。子どもがケガをしないように、子どもが困らないように先回りして色々と考えたりやったりしています。でも肝心の子どもはその想いに応えてくれません。こんなにも子どものために我慢して頑張っているのに、なぜか子どもはお母さんから離れていきます。その一方で「子どもの犠牲になりたくない」と、衣食住を与えるという最低限のことしかしようとしないお母さんもいます。そのようなお母さんは「子どもの状態」や「やること」にあまり関心がありません。積極的に子どもと関わろうともしません。「子どものために」と色々と考えたりやったりもしません。買い物やレストランに連れて行っても、放し飼い状態です。子どもがみんなに迷惑をかけていても気にしません。そんなお母さんが大きく反応するのは、子どもが自分に迷惑がかかるようなことをした時だけです。そんな時、そのようなお母さんは「あんたのせいで」などと子どもを責めます。極端なところまで行くと「ネグレクト」という虐待になってしまいますが、そこまで行かなくても、そういう感じの子育てをしている人は多いのではないでしょうか。町中で時々見かけますから・・・。そして実は、一見この両者は正反対ですが、「一番大切なのは自分」という点では同じなんです。両者とも「子どもの気持ち」に耳を傾けません。子どもと対話しません。感覚や感情や体験を子どもと共有しようともしません。子どもと一緒にいる時間を楽しみません。子どもの心やからだの状態には関心がありません。子どもを待ちません。前者のお母さんが大切にしているのは「自分の不安を消すこと」と「周囲の人や先生から非難されないようにすること」です。「あの人はいいお母さんだ」と言ってもらうと安心するのです。後者のお母さんが大切にしているのは「自分の欲望を実現すること」です。ですから、両者とも「子どもと共に」という感覚がないのです。でも、子どもはその「共に」という感覚や体験を通して色々と学び成長しているのです。だから、子どもの成長を支えるためには、子どもの犠牲になるのでも、子どもを犠牲にするのでもない子育てが必要になるのです。でも、その「共に」が苦手なお母さんが多いのです。また、一人で何でも出来る簡単で便利な機械のおかげで「共に」が必要になる状況も減りました。買い物の行き帰りなどにゆっくりとお散歩をしていれば、「共に」を楽しむことが出来ますが、自転車や車に乗ってしまうと「共に」が出来なくなります。素材からゆっくりとお料理を作っていれば「共に」を楽しみながら子どもと一緒にお料理を作ることが出来ますが、レンチンでは「共に」が出来ません。ウーバーを使ったらなおさらです。森や野原なら子どもと一緒に遊ぶことが出来ますが、遊具のある公園は「子どものためのもの」ですから、大人は見ているだけになります。大人が子どもと一緒に遊具で遊んでいると文句が出るかも知れません。「子どものための」という施設は子どもと大人を切り離します。またそれを望む大人も多いです。先日行った児童館では、幼児対応の所には小学生が入れませんでした。だから、幼稚園児と小学生の兄弟で行くと別々に遊ばなくてはなりません。大人は入らないで下さい。大人は遊ばないで下さいという遊びの場も多いです。みんな「子どもは子どもだけ」「大人は大人だけ」「幼児は幼児だけ」「小学生は小学生だけ」「年寄りは年寄りだけ」「障害を持っている子は障害を持っている子だけ」と対象を分離して遊ばせようとしているのです。その方が効率もいいし、危険を避けることが出来るからなのでしょうか。でも、このような「子どもと子ども」を「子どもと大人を」「障害を持っている子と持っていない子」を「お母さんと子ども」を分離するような子育てや教育では子どもは育たないのです。
2024.06.26
コメント(0)
子育てにおいて大切なことは「一人で頑張ること」ではなく「子どもと一緒に、仲間と一緒に楽しむこと」です。お母さんが子どもや仲間との関わり合いを楽しんでいれば、「子育て」を特別に意識しなくても子どもは勝手に育ってしまうのです。でも、多くのお母さんが一人で子育てを頑張っています。目の前にいる子どもの顔も見ないし、心を感じようともしません。そして、自分の期待通りに子どもが育っているか、期待通りに行動しているのかということばかりを気にしています。でも、どんなにお母さんが頑張っても、子どもはマイペースです。お母さんの期待通りに頑張るなんてことはしません。その結果、お母さん一人が空回りすることになります。そしてそれが、お母さんのストレスと、苦しさと、孤独の種になっています。でも、そのストレスと、苦しさと、孤独を子どもにぶつけると、子どもの心やからだは固まってしまい動けなくなります。友だちとも良い関係を築けなくなります。お母さんの前でだけ「いい子」になる子もいますが、そういう状態の子は、「自分の育ちにつながるような学び」が出来なくなってしまうため思春期が来ても自立が困難になり、さらに苦しみが増えます。お母さん達は一体誰のために、何のために頑張っているのでしょうか?そう問われたら、多くのお母さんが「子どものため」と言うでしょう。でも、子どもの心に寄り添うことが出来ていないのなら、それは子どものためではなく、「自分のため」なのではないでしょうか。自分の不安を消すために頑張っているのではないでしょうか。子育ては頑張らなくていいのです。むしろ頑張ってはいけないのです。なぜなら、そうしないと子どもの心に寄り添うことが出来ないからです。頑張るのではなく、子どもと一緒の時間を楽しんで下さい。それだけで、特別なことをしなくても子どもは育って行くのです。子どもはお母さんに心を向けてもらうことで、お母さんから学ぼうとする気持ちが目覚めるからです。また、お母さんとつながることが出来る子は、時期が来れば周囲の仲間や大人ともつながることが出来るようになります。仲間や周囲の大人からも学ぶことが出来るようになります。子どもは、自分の話を聞いてくれる人の言葉に耳を澄まし、自分に心を向けてくれる人から学びたいと思うのです。逆に、押しつけてくる人の言葉には耳をふさぎ、そして逃げようとします。だから頑張れば頑張るほど逆効果になるのです。
2024.06.25
コメント(0)
現代人は「痛み」とか「苦しみ」とか「失敗」ということに対して否定的です。子ども達もそうで、最近の子はちょっと痛かったり、ちょっと苦しかったり、ちょっと失敗したりするとすぐに挫折します。ノコギリでちょっとケガをしただけで「怖いからもうノコギリは使いたくない」とか、ホットボンド(グルーガン)でちょっと火傷しただけで、「こわいからホットボンドは使いたくない」などと言い出す子は普通です。その結果、可能性や自由度が狭くなってしまうのですが、「挑戦するワクワク感」や「創造の自由」よりも、「痛みや、苦しみや、失敗することに対する恐れ」の方が強いので、ちょっとやってうまく行かないともう手を出さなくなります。そうして、どんどん「できないこと」が増えていきます。可能性を広げてあげようと思って色々な体験をさせているのですが、そのことで逆に可能性が狭くなってしまうという困ったことが起きてしまうのです。そんな時、昔の人だったら「根性で乗り切れ」的な発想をしたのでしょうが、今ではそれは通用しません。子どももそのような考えを受け入れません。ただ、幼児期に野山を駆けまわって遊んでいたような子はそんなことありません。ちょっとケガをしたくらいでは気にしません。野山を駆けまわっていた子にとってケガは日常だからなのでしょう。また、失敗もそれほど気にしません。(私の教室には両方のタイプの子がいます。)私の印象では、「痛みや、苦しみや、失敗に対する恐れ」は、人工的な環境の中で人工的な遊びばかりして育った子の方が強いような気がします。人工的に管理された環境や遊びでは「ケガをする可能性」や「子どもが飽きてしまう可能性」が低くなるように設計されているからなのかも知れません。それに対して、自然の中での自然を相手にした遊びには「危険」がいっぱいです。自然の中には「子どもを守るための安全装置」も、「簡単便利に遊ばせてくれる仕組み」も存在しません。現代人が恐れるバイ菌もウヨウヨいます。また、自然の中で遊べば必然的に汚れます。時には泥だらけになります。そういう場で遊べば、ケガをするのも、失敗するのも当たり前ですよね。でも、そんなこといちいち気にしていたら遊べません。まただから、そういう場で子どもを遊ばせたくないお母さんもいっぱいいるのでしょう。近所のお勉強系幼稚園の園庭は人工芝です。通りがかりに覗くと、みんな素敵な制服を着て遊具で遊んでいます。これなら安心だし汚れないですよね。それと、自然の中には「正解」が存在していません。「公園のブランコや滑り台の使い方」には正解がありますが、「ドロンコ遊びや木登りの仕方」に正解はないのです。「正解」がないのですから「失敗」も存在しません。だから色々と工夫して遊ぶことが出来るわけです。バイ菌はいっぱいいますが、野山で遊んで病気になった子の話は聞いたことがありません。うちの三番目はその辺に生えている草をしょっちゅ食べていましたが、一番元気です。(無理には勧めませんけど・・・)そして「私が知っている範囲では」という話になりますが、子育てを楽しむ事が出来ているお母さんには「自然の中で遊ぶことが好きな人」が多いような気がします。「子どもという自然」を肯定的に受け入れることが出来るからなのでしょうか。
2024.06.24
コメント(0)
人間にとって「痛み」はなかなかやっかいです。人間以外の生き物は基本的に「痛み」を感じないか、もしくは少ししか感じていないように見えます。以前、ネコを飼っていたのですが、ネコもあまり痛みを感じないようです。近所の野良猫とケンカして大けがをしたこともあったのですが、痛がっている様子はありませんでした。見てもらった病院の先生も「ネコは痛みに鈍い」ということをおっしゃっていました。昆虫なんか足をもがれても泣いたり騒いだりしません。苦しそうな仕草も見せません。ただ色々と不便になっただけです。人間ほど「痛み」に敏感で「痛み」を恐れる生き物はいないのではないかと思います。本当にちょっとした痛みでも人間は気にします。さらには、「からだの痛み」だけでなく「心の痛み」にも敏感です。そして、痛みを感じると意識がそのことに支配されて心とからだの自由が失われてしまいます。他のことに意識を向けたり、他のことを考えることが出来なくなってしまうのです。でもそんな人間でも何かに夢中になっている時には痛みを忘れることがあります。「夢中になって遊んで帰ってきて手や足を見たら気付かないうちにケガをしていた」なんてことはよくあることです。以前お話を聞いた日本画家の女性は、徹夜して夢中になって絵を描いていて、描き終わってほっとしたらなんか足が痛いことに気付いたそうです。そうして見てみたら、足に楊枝が刺さっていたそうです。気付いたらさらに痛くなったそうです。人間にとって「痛み」は、単に身体的なものではなく、精神的な要素も非常に強いのです。それはつまり、「心の状態」が「からだの痛みの状態」に非常に大きく影響しているということです。そしてそれは「心」に支配されている人間の特徴でもあります。人間においては、「心の働き」が「からだの痛み」を消したり、さらに強くしたりするのです。山登りが大好きで頂上を目指している人は、上っている途中で多少ケガをしてもちょっとのケガなら気にしません。人間は、意識が別のことに向いている時には、それほど痛みを感じないのです。でも、付き合いで嫌々登らされているような人は、ちょっとのケガでも痛くてしょうがないでしょう。ケガのことばかり考えてしまうでしょう。「ばい菌が入ったらどうしよう」「骨が折れていたらどうしよう」などと考えてしまうかも知れません。周囲の景色や足下の草花を愛でて楽しむなんて心の余裕もありません。その行為に、意味や目的を感じ、自分の意志で前向きに取り組んでいる時には、その過程で生じる痛みはあまり気にならないものです。痛みは感じていても痛みに支配されることがないのです。でも、仕方なく嫌々やらされているような時には、ちょっとのケガや痛みでも気になってしまうのです。そして簡単に痛みに支配されてしまいます。東京都知事選に立候補した小池百合子さんは、公約の一つとして「無痛分娩費用の助成制度の導入」をあげました。それだけ今、「無痛分娩」を望む人が多いということなんでしょうか。でも、私の周囲には「痛いことは痛いけど嫌な痛さではなかった」とか、「痛かったけどそれだけ赤ちゃんがいとおしくなった」とか、「痛みを経て赤ちゃんの顔を見た時の喜びが大きかった」という人もいます。痛みが引いた頃に「また産みたくなってきた」と言う人もいます。それは山登りに似ているのかも知れません。車やロープウェイで簡単に頂上まで行っても、長い時間をかけて苦労して登っても、「頂上に立っている」という結果は同じです。でも、「喜び」は同じではありません。想い出も全く異なったものになるでしょう。それは、「結果が良ければ良い」という生き方と、「過程を大切にしたい」という生き方の違いなのかも知れません。まあ、どちらを選ぶのかはその人の価値観や生き方の問題ですから私がとやかく言うことは出来ませんが、でも、その価値観や生き方はその後の子育てにも影響してくるでしょう。「無痛分娩」は可能でも「無痛子育て」は不可能だからです。「子育ての苦しみ」と前向きに向き合い、発想を切り替えて「子育てを楽しんでしまえ」という子育てをしているお母さんもいます。そのようなお母さんは子育てを通して色々なことを学び、色々なことを発見し、色々な仲間やつながりを得ようとしています。そういう活動をしていると「子育ての苦しみ」を和らげることが出来るからです。「痛み」を感じた時には、意識を他のことに向けると「痛み」に束縛されにくくなるのです。また、そのようなお母さんの生き方を通して子どもも色々なことを学び体験し、心とからだを育てることが出来ます。そして、「子育ての苦しみ」は少しずつ減って「子育ての喜び」が増えて来ます。その逆に、その「苦しみ」から逃げようとする子育てをしている人もいます。そのような人は、自分を守るために自分の周りにバリヤーを張っています。お互いにバリヤーを張った状態の仲間作りはしますが、バリヤーを外した仲間作りはしません。子どもとの間にもバリヤーを張っています。でも、バリヤー越しの子育てを受けている子はお母さんを通して「自分の成長につながるようなもの」を学ぶことが出来ません。お母さんに肯定されていないのですから、自己肯定感も育ちません。その結果成長が遅れたり、偏ったりしてしまいます。そして、そのことは子どもが思春期を迎える頃に、「お母さんを苦しめる原因」として大きくなってきます。「子育ての苦しみ」から逃げようとすればするほど、その苦しみはどんどん大きくなってしまうのです。
2024.06.23
コメント(0)
子どもを比較し、追いたてる人がいます。そのような人は、「ありのままの子ども」を受け入れることが出来ません。そしてそのような価値観の大人に育てられたり教育されている子ども達も、「ありのままの自分」を否定し、常に他者と自分自身を比較しながら生きることになります。そのように学習してしまうのです。そして、大人になり、親になり、今度は自分の子どもを他の子や、標準値や、理想と比較し、追い立てます。自分に対しても同じことをしています。そのような人は、常に比較し、追いたてていないと不安なんです。幼い頃に親から受け継いだ価値観は、本人が変えたいと思っても他の人の手助けがないと変えられないのです。でもそういう人に限って、他の人に助けを求めません。成長を続けていないと維持できない経済システム、人口が増え続けていないと維持できない政治システムはそのような人たちによって作られ、維持されて来ました。また、そのような社会がそのような価値観の子どもや大人を育ててきました。そのような社会を維持するためには、「立ち止まること、自分と向き合うことに不安を感じる人」が必要だからです。経済活動を活性化させるためには、常に比較し、競争しようとする人たちが必要なんです。ですから、そのような社会の価値観を善とする人たちは、子どもを比較し、追いたてることも善であって、非難されるようなことではないと思い込んでいます。だから原発は善であり、原発反対は悪なのです。そしてその結果、原発が、また社会全体が困った状態にになってしまっても、「原因不明」もしくは「不可抗力」で済まそうとするのです。それが現代日本の政治や経済の中枢にいる人たちの価値観なんです。ですから、この問題は個人の問題であると同時に、社会全体の問題でもあるのです。そのことに気付かないと個人の問題も、子育てや教育の問題も解決できません。どんな価値観に支配された社会に生まれてくる子ども達でも、生まれたばかりの時にはまだ「社会の価値観」に染まっていません。どんな国、どんな社会に生まれてくる子ども達でも、「現代人の感覚」ではなく「古代人の感覚」を持った状態で生まれてくるのです。何しろ古代人としての歴史は何十万年ですが、人類が文明を持ち始めた歴史は数千年程度なんですから。現代につながる「科学に支えられた便利な生活」なんか、たった100年、200年程度の歴史しかありません。そして、「古代の人たちと同じ感覚」を持ったまま生まれてくる子どもたちにはその「現代社会の感覚や考え方」は理解できません。その「古代人の感覚」で大切なのは、「助け合うこと」や「分かち合うこと」であって「比較し、競争すること」ではありませんでした。厳しい自然の中で生き延びるためには「助け合う仲間」が絶対的に必要だからです。そして、これは今でも自然と共に生きている人たちにとって共通する価値観です。実際、競争に明け暮れている日本人でも、大きな災害があると助け合いますよね。助け合わないことには自分も生き延びることが出来ないからです。古代の人が、仲間と助け合わずに競争に明け暮れていたら人類はとっくの昔に滅亡していたはずです。その古代人の感覚を持ったまま生まれてくる幼い子どもたちは、助け合ったり、分かち合っている時には天使のような笑顔を見せてくれます。でも、比較され、追いたてられている時には悲しそうな顔をします。でも大人達はそんな子ども達の「悲しそうな顔」を無視します。気付いてすらいないのかも知れません。でなければ子ども達を競争に追い立てることが出来ないはずだからです。でも、大人達がそんな子ども達の「悲しそうな顔」「苦しそうな顔」に気付かないと、やがて人類はどん詰まりに追い詰められてしまうでしょうね。そして全体が滅びれば、必然的に個も滅びます。
2024.06.22
コメント(0)
全6976件 (6976件中 51-100件目)