★タリバンの復活の不可思議?


★タリバンの復活
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 9月17日、アフガニスタン国境に近いパキスタン辺境の町ペシャワールで
「ジャイシュル・ムスリム」(Jaishul Muslim)という組織が結成された。結
成を報じたアジアタイムスによると、この組織はタリバンの残党によって構成
され、パキスタンの後押しを受け、アメリカもこの組織を承認(黙認)した上
で、アフガニスタンの現カルザイ政権と交渉するために作られた。交渉が成功
すれば、現政権で外されているパシュトン人(タリバン)の勢力を政権内に取
り込み、内戦を終結させてアフガニスタンを安定させることができる。
http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/EI23Ag02.html

 タリバンは、アフガニスタン国民の約半分を占めるパシュトン人を代表する
組織だが、パシュトン人はアフガン諸民族の中で最も強く、アフガニスタンを
統一安定させるためには不可欠な勢力である。パシュトン人はアフガニスタン
東部からパキスタン西部にかけて国境をまたがって住んでおり、18世紀から
この地域を支配したイギリスは彼らを使ってアフガニスタンを間接支配しよう
としたし、1945年にこの地域に建国したパキスタンも同様の動きをとった。

 1980年代にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、パキスタンのほか、ソ
連との冷戦を戦っていたアメリカ、イスラム世界に原理主義(ワハビズム)を
広げようとしていたサウジアラビアの3者が、パシュトン人を中心とする反ソ
ゲリラ勢力を支援した。1990年のソ連撤退後、アフガニスタンはゲリラど
うしの内戦に陥ったが、内戦を収束させるためパキスタンとアメリカが難民青
年を支援して1994年ごろに作ったのがタリバンで、これまたパシュトン人
の組織だった。

 911事件後、オサマ・ビンラディンをかくまっていたタリバンが敵視され、
アメリカがタリバンを潰す戦争を行ったが、これは「アメリカがパシュトン人
を使ってアフガニスタンを安定させる」という、それまでの流れを完全に逆行
させるものだった。

 タリバンを潰した後、アフガニスタンにはカルザイ政権ができたが、これは
タリバンがアフガン全土を統一しようとしたときに最後まで抵抗した「北部同
盟」の政権である。北部同盟は、アフガニスタン諸民族の中で昔からパシュト
ン人の敵だったタジク人、ウズベク人、ハザラ人などが主力になっている。

 カルザイ議長自身はパシュトン人だが、これは新政権がアフガニスタンの全
勢力を連立したかたちに仕立てるための人事で、カルザイは軍勢を持っていな
いため、ほとんどアメリカの傀儡でしかない。

▼戦国大名にカネをばらまく

 アメリカはタリバンを潰し、代わりに北部同盟にカルザイ政権を作らせたが、
それによってアフガニスタンに新たな安定をもたらそうとしたかといえば、そ
うでもない。カルザイ政権が統治しているのは首都カブールの市内だけで、そ
の外側は、政府の言うことをほとんど聞かない地域ごとの武装勢力によって統
治されている。ちょうど、日本の戦国時代のような群雄割拠の状態である。

 カルザイはアメリカに「アフガニスタン国軍」を創設させてほしいと頼んだ
が拒絶された。国軍ができれば、カルザイはそれを使って全国統一の動きに出
られるが、実現していない。むしろアメリカは「ビンラディンを探す情報を得
るため」と称して、アフガン各地の「戦国大名」たちにカネをばらまき、傀儡
のカルザイ政権ではなく、カルザイに敵対する戦国大名たちを力づけてしまっ
た。

 無政府状態の混乱に乗じて戦国大名たちは、タリバン政権下では規制されて
いた麻薬(ケシ)の栽培を拡大した。アメリカの新聞はこうした動きを批判す
る記事を盛んに載せているが、アメリカ政府自体は、戦国大名による麻薬栽培
を黙認している。今や、ヨーロッパで消費される麻薬の9割以上がアフガニス
タン産であるという状態になっている。

(歴史的に見ると、ベトナム戦争時のインドシナや、コロンビア、レバノンな
ど、アメリカが軍事介入した地域の多くは、軍事介入が始まった後、麻薬栽培
が盛んになっている。CIAや米軍が秘密作戦のための費用を作るため、麻薬
取引にかかわっているのだという指摘が何回も出ている)

▼ビンラディンは捕まえない方針?

 アメリカがやっている動きでもう一つ奇妙なのは、オサマ・ビンラディンを
捕まえる気があるのかどうか怪しい、ということである。今年3月、私は
「ビンラディンがもうすぐ捕まるという記事があちこちから出てきている」と
いう記事を書いた。
http://tanakanews.com/d0313osama.htm

 その後、全然捕まる気配がないので、あの話はどうなったのだろうか、と思
っていたら、8月に入ってイギリスの新聞ガーディアンが「ビンラディンはパ
キスタンのアフガン寄りの辺境地域におり、すでにアメリカとパキスタンの当
局は居場所を大体突き止めているが、ムシャラフ大統領の希望で逮捕は延期さ
れている」という報道を出した。
http://www.guardian.co.uk/alqaida/story/0,12469,1028044,00.html

 ムシャラフは、パキスタン国内にはビンラディンの賛同者が多いので、彼を
捕まえたら国内で暴動が起きて自分の政権が転覆されてしまうかもしれず、そ
れを防ぐために逮捕延期を願い出たのだという。

 そもそもビンラディンに関しては、アフガン戦争の末期、後述するクンドゥ
ズと同様にタリバン側が包囲されて大きな戦闘となった「トラボラの戦い」の
際、ビンラディンが白昼堂々と自動車の隊列を組んでトラボラを逃げ出し、パ
キスタンに移転したという報道もある。このとき、米軍はビンラディンの車の
隊列の存在に気づきながら放置したと批判されている。クンドゥズの戦いでタ
リバン幹部たちをわざと逃がしたのと同じ構図である。

▼包囲されたタリバンに逃亡を許す

 ここまで、アメリカがアフガニスタンをわざと不安定な状態に置こうとして
いるように思える動きをいくつか紹介した。これらを見ると、イラク戦争とア
フガン戦争は似ていることが感じられる。いずれも米軍によってわざと泥沼化
させられた感があるし、ビンラディンもフセインもいまだに捕まっておらず、
アメリカ側がわざと捕まえていないのではないか、と思えるからである。

 だが、こうしたこの間の流れを一枚めくってみると、逆にタリバン後のアフ
ガニスタンをアメリカが安定させようとしている動きも見えてくる。たとえば、
アフガン戦争末期に起きた「クンドゥズ」の事件がその一つである。

 戦争終盤の2001年11月下旬、アフガン北部の町クンドゥズで、タリバ
ン軍と北部同盟軍の戦闘があった。タリバン軍はその前の段階で、クンドゥズ
の西にあるマザリシャリフでの戦闘に破れ、東にあるタロカンの戦闘でも負けた。

 それらの戦いで負けたタリバン側の敗残兵が、まだ陥落していなかったクン
ドゥスに立てこもり、侵攻してくる北部同盟軍と対峙した。その数は総勢約
8000人。クンドゥズからカブールへの退路は米軍の爆撃によって寸断され
通行不能で、タリバンの敗北は必至だった。

 内戦が絶えなかったアフガニスタンでは、このような事態になったとき、双
方の軍勢を代表する者がどこかで会合を持ち、敗北が決定的になった側が降伏
する代わりに、勝利が間近になった側はそれを許すことで、無用な死者を出さ
ない戦場の習慣があった。習慣にのっとり、タリバンは北部同盟に降伏の交渉
を持ちかけた。だが、北部同盟の背後にいるアメリカは、タリバンが許される
ことを認めなかった。タリバンにとって最後の絶望的な戦いが始まりそうだった。

 ところが、それに引き続いて起きたのは、意外な展開であった。夜間にパキ
スタンからクンドゥズの飛行場に向けて多数の軍用輸送機が飛来し、タリバン
側の勢力を次々に乗せてパキスタンに退避させ始めたのである。

 パキスタン軍が動いたのは、クンドゥズに多数のパキスタン軍人、特にISI
(パキスタンの諜報機関)の要員がいたためだった。タリバンは1994年に
旗揚げして以来ずっと、戦争から国家運営のやり方まで、ISIの顧問団から
手ほどきを受けていた。タリバンがアフガニスタンのほぼ全土を掌握できたの
はISIのおかげだった。米軍が北部同盟と組んでタリバンを攻撃し始めた後
も、ISIの要員とパキスタン人のゲリラ兵たちは、タリバン軍と一緒に戦っ
ていた。

 クンドゥズが包囲されたとき、パキスタンのムシャラフ大統領がホワイトハ
ウスに「パキスタン人兵士の救出を黙認してほしい」と要請してきた。ムシャ
ラフはアメリカ側に「クンドゥズで無数のパキスタン人兵士が死に、その遺体
袋がパキスタンの飛行場にずらりと並べられる光景が報じられたら、反米イス
ラム原理主義勢力による反政府運動が高まり、自分の政権が持たなくなる」と
説明し、救出作戦に対する黙認を求めた。

 アメリカの国防総省では反対が大きかったが、CIAや国務省は要請を受け
るべきだと主張し、結局ブッシュ政権はムシャラフの懇願を受け入れた。米軍
の中央軍司令部に命じて、クンドゥズからパキスタン国境までのルートで、地
上から砲撃を行わせない態勢を作らせた。救出作戦は3日間続き、毎晩パキス
タン国内の飛行場とクンドゥズの飛行場の間をパキスタンの軍用機が何回も往
復した。

 問題は、救出されたのがパキスタン人だけでなく、アフガン人のタリバン幹
部や、アラブ人のアルカイダ幹部も救援機に乗って逃げ出してしまったことだ
った。クンドゥズに立てこもった8000人のうち、最終的に4000人近く
が投降した。残りの約4000人のうち何人が戦闘で死亡し、何人がパキスタ
ンに逃げ出したかは分からないが、かなりの数のタリバン幹部、アルカイダ幹
部が逃げ出した可能性がある。
http://www.newyorker.com/fact/content/?020128fa_FACT

▼アフガンを安定させる作戦と、不安定にする作戦

 クンドゥズ救出作戦と、タリバン残党が9月17日に「ジャイシュル・ムス
リム」を結成した話とはつながっている。911事件の後、ブッシュ政権中枢
ではアフガニスタンに侵攻すべきかどうか議論があったが、その際に国務省は、
戦争でタリバンを潰すのではなく、タリバン内部で「穏健派」によるクーデタ
ーを誘発し、ビンラディンと縁を切った新しい政権を作らせるのが良いと主張
していた。

 この議論は結局、戦争を主張する国防総省の勝利に終わったが、その後の戦
争中にクンドゥズの事件が持ち上がり、国務省はムシャラフが要請してきた救
出作戦に賛同することで、タリバンの上層部を温存させた。タリバンは米軍に
よって「潰された」というより「蹴散らされた」だけの結果となり、政権とし
ては消滅したものの、幹部はアフガニスタンからパキスタンにかけての伝統的
な居住地域に隠れて再起を狙った。

 アメリカではFBIが担当になり、パキスタンのISIが今年7月にタリバ
ン残党と交渉し始めた。アメリカ・パキスタン側は、タリバンが以前のトップ
であるオマル師を外し、別の人物をトップに据えて再起を図るなら、カルザイ
政権の中に連立の一員として入れるよう協力してやると持ちかけた。

 タリバン残党はいくつもの分派にわかれており、アメリカ・パキスタン側が
最初に交渉した勢力は、オマル師を外すことを拒否したが、次に交渉した勢力
はオマル師を外すことに同意し「ジャイシュル・ムスリム」の成立となった。

 それと前後して、カブールでは政権のカルザイ議長が「タリバンの全員が戦
争犯罪者というわけではない。タリバンの中でも犯罪者ではない者たちは、わ
れわれと一緒に新政権作りにたずさわることができる」と演説し、ジャイシュ
ル・ムスリムを政権に入れる交渉をしても良い、というサインを送った。

 タリバンを復活させてカルザイと連立を組ませようとする動きと、戦国大名
にカネを渡して群雄割拠の不安定さを維持しようとする動き、ビンラディンを
逮捕せずに放置しておく決定など、アメリカの中枢からは、アフガニスタンを
安定させようとする方向の戦略と、不安定にしておこうとする戦略の両方が出
ていると感じられる。こうした交錯ぶりは、911事件以来、米政権内部で続
いてきた「中道派対ネオコン」の対立を思わせるものでもある。


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