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2023.08.11
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カテゴリ: 牧野富太郎


 昭和十四年から およ そ五十二年程前の明治二十年頃に民間の一書生であった私は、時々否な殆ど不断に東京大学理科大学、すなわち今の東京帝国大学理学部の植物学教室へ通っていた。がしかし大学とは公に於て何の関係もなく、これは当時植物学の教授であった理学博士矢田部良吉先生の許しを得てであったが、先生達はじめ学生諸君までも非常に私を好遇してくれたのである。教室の書物も自由に閲覧してよい、標本も勝手に見てよいとマルデ在学の学生と同様に待遇してくれた。その時分はいわゆる青長屋時代であった。私はこれがため大変に喜んで自由に同教室に出入して大いにわが知識の蓄積に努め、また新たに種々と植物を研究して日を送った。そこでつらつら私の思ったには、従来わが国にまだ一つの完全した日本の植物志すなわちフロラが無い、これは国の面目としても確かに一つの大欠点であるから、それは是非ともわれら植物分類研究者の手に依てその完成を理想として、新たに作りはじめねばならんと痛感したもんだから、私は早速にそれに着手し、その業をはじめる事に決心した。それにはどうしても図が入用であるのだが、今それを描く自信はあるからそれは敢えて心配は無いが、しかしこれを印刷せねばならんから、その印刷術も ト通りは心得ておかねば不自由ダと思い、そこで神田錦町にあった ひとつ の石版印刷屋で一年程その印刷術稽古をした。そしていよいよ『日本植物志』を世に出す準備を整えた。その時私の考えではおよそ植物を知るにはその文章も無論必要だが、図は早解りがする。故にとりあえずその図を先きに出し、その文章を後廻しにする事にして、断然実行に移す事となり、まずその書名を『日本植物志図篇』と定めた。これは『日本植物志』の図の部の意味である。そしていよいよその第一巻第一集を自費を以て印刷し、これを当時の神田裏神保町にあった書肆敬業社をして発売せしめたが、それが明治二十一年十一月十二日で今から大分前の事であった。その書名は前記の通りであったが、これを欧文で記すると Illustrations of the Flora of Japan, to serve as an Atlas to the Nippon-Shokubutsushi であった。助教授であった村松任三氏は大変にこれを賞讃してくれて「余ハ今日只今日本帝国内ニ本邦植物図志ヲ著スベキ人ハ牧野富太郎氏一人アルノミ……本邦所産ノ植物ヲ全璧センノ責任ヲ氏ニ負ハシメントスルモノナリ」と当時の「植物学雑誌」第二十二号の誌上へ書かれた。
 それが明治二十三年三月二十五日発行の第六集まで順調に進んだ時であった。ここに突然私に取っては一つの悲むべき事件が発生した。それは教授の矢田部氏が何の感ずる所があってか知らんが、殆ど上の私の著書と同じような日本植物の書物を書く事を企てた。そこで私に向こうて宣告するに今後は教室の書物も標本も一切私に見せないとの事を以てした。私はこの意外な拒絶に遭ってヒタと困った! 早速に矢田部氏の富士見町の宅を訪問して氏に面会し、私の意見を陳述しまた懇願して見た。すなわちその意見というのは第一は先輩は後輩を引き立つべき義務のある事、第二は今日植物学者は極めて すくな いから一人でもそれを排斥すれば学界が損をし植物学の進歩を弱める事、第三は矢張り相変らず書物標本を見せて貰いたき事、この三つを以て折衝してみたが氏は強情にも頑としてそれを聴き入れなかった。その時は丁度私が東京近郊で世界に珍しい食虫植物のムジナモ(Aldrovanda vesiculosa L.)を発見した際なので、私は止むを得ずこれを駒場の農科大学へ持って行ってそこでそれを写生し、完全なその詳図が出来た。この図の中にある花などの部分はその後 独逸 ドイツ の植物書にも転載せられたものである。
 私は矢田部教授の無情な仕打ちに憤懣し、しかる上は矢田部を向うへ廻してこれに対抗し大いに我が著書を 進捗 しんちょく さすべしと決意し、そこではじめて多数の新種植物へ学名をつけ、欧文の記載を添え、続々とこれを書中に載せ、上の『日本植物志図篇』を続刊した。当時私の感じでは今仮りにこれを相撲に喩うればそれは丁度大関と褌担ぎのようなもの、すなわち矢田部は、大関、私は褌担ぎでその取組みは甚だ面白く真に対抗し甲斐があるので大いにヤルべしという事になり、そこは私は土佐の生まれだけあって、その鼻息が頗る荒らかった。一方では杉浦重剛先生または菊池大麓先生など、それは矢田部が しからんと大いに孤立せる私に同情を寄せられ、殊にその頃発行になっていた「亜細亜」という雑誌へ杉浦先生の意を
 丁度その時である。イッソ私は、私をよく識ってくれている日本植物研究者のマキシモヴィッチ氏の許に行かんと企て、これを露国の同氏に紹介した。同氏も大変喜んでくれたのであったが、その刹那同氏は不幸にも流感で歿したので、私は遂にその行をはたさなかったが、その時に「所感」と題して私の作った拙い詩があるからオ目に掛けます。

専攻斯学願樹功、微躯聊期報国忠、人間万事不如意、一身長在轗軻中、泰西頼見義侠人、憐我衷情傾意待、故国難去幾踟※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)、決然欲遠航西海、一夜風急雨 ​黫

​​ 、義人溘焉逝不還、※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57) 忽長隔幽明路、天外伝訃涙潸潸、生前不逢音容絶、胸中鬱勃向誰説、天地茫茫知己無、今対遺影感転切


 明治二十四年十月遂に上の図篇が第十一集に達し、これを発行した時、私の郷里土佐国佐川町に残してあったわが家(酒造家)の始末をつけねばならぬ事が起ったので、仕方なく右の出版事業をそのまま なげう っておいて、 匆々 そうそう
 国に帰った後で、一つの驚くべき一事件が大学に突発した。それは矢田部教授が突然大学を罷職になった事である。同教授のこの罷職は何も私とのイキサツの結果では無論なく、これは他に大きな原因があって、ツマリ同じ大学の有力者との勢力争いで遂に矢田部教授が負けたのである。それには彼の鹿鳴館時代、一ツ橋高等女学校に於ける彼の行為も大分その遠因を成しているらしく思われる。
 越えて明治二十五年になった。月も日も忘れたが、大学から一つの書面が私の郷里に届き私の手に入った。 ひら いて見ると君を大学へ採用するから来いとの事が書いてあった。大抵の人ならこんな書面に接したら飛び立つように喜ぶであろうが、私はそう嬉しいようにも感じ無くアアそうかという位の気持ちであった。そこで早速返事を認めて、只今我が家を整理中だからそれが済んだら上京して御世話になりますと挨拶をしておいた。
 翌明治二十六年一月になって私の長女が東京で病死したので急遽私は上京した。大学の方はどう成っているか知らんと聴いて見たら、地位がそのまま空けてあるからいつからでも 這入 はい れという事で、私は遂に民間から入って大学の人となり、助手を拝命して植物学教室に勤務し、毎月月給を大枚十五円ずつ有難く頂戴したが、これは一面からいうと実は芸が身を助ける不仕合せでもあったのである。
 実は私は大学へ勤める迄は、私の覚えていない程早く死んだ親から遺された財産があって、何の苦労も無くノンビリと一人で来たのである。が丁度大学へ入った時分にそれが全く尽きて仕舞った。それは大抵皆なわが学問に入れあげたからであったが、そこは鷹揚な坊チャン育ちの私には金の使い方が確かにマズク、今でもよく牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある。
おも うて見れば誠に不思議なもので小学校も半分しかやらず、その後何処の学校へも這入らず、何の学歴も持たぬ私がポッカリ民間から最高学府の大学助手になり、講師になり、後には遂に博士の学位迄も頂戴したとは実にウソのようなマコトで実に世は様々、何がどうなるか判ったもんでは無い。
 ダガ、昨日まで 暖飽 だんぽう な生活をして来た私が にわ かに毎月十五円とは、これには弱った。何分足りない、足りなきゃ借金が出来る、それから段々子供が生まれだし、驚く なか れ後には遂に十三人に及んだ。そして割合に給料があがらない。サア事ダ、私の多事多難はこれがスタートして、それからが波瀾重畳、 つぶ さに辛酸を めた幾十年を大学で過ごした。その間また断えず主任教授の理不尽な圧迫が学閥なき私に加えられたので、今日その当時を回想すると面白かったとは 冗戯 じょうだん 半分いえない事も無いでは無いが、しかし誠に閉口した。がそれでも上に媚びて給料の一円もあげて貰いたいと 女々 めめ しく勝手口から泣き込んで歎願に及んだ事は一度も無く、そんな事は いやし くも男子のする事では無いと一度も落胆はしなかった。そしてこんな勢いの不利な場合は幾らあせっても仕方が無いから、そんな時は黙ってウント勉強し潜勢力を養い、他日の風雲に備うる覚悟をするのが最も賢明であると信じ、私は何の不平も口にせずただ黙々として研究に没頭し、多くの論文を作ってみたが、この研究こそ他日端なく私の学位論文となったものである。
 紆余曲折あるこんな空気の中に長くおりながら、何の学閥も無き身を以て明治二十六年就職以来今日まで実に四十七年の歳月が流れたのである。こんな永い間敢て薄給を物ともせず厭な顔一つも見せずに何時もニコニコと平気で在職していた事は大学としても珍しいことであろうし、また本人の年からいっても七十八歳とはこれもまた他に類の無い事であろう。そこで私の感ずる事はなるべく足許の明るいうちにこの古巣を去りたい事で、去年からそれを希望し、今年三月を限りとし、「長く通した 我儘 わがまま 気儘最早や年貢の納め時」の歌を唄いつつこの大学の名物男(これは他からの讃辞であって自分は何んとも思っていない)またはいわゆる植物の牧野サン(これも人がよくそういっている)が、この思い出深い植物学教室にオ 暇乞 いとまご いをするのである。
 大学を出て何処へ行く? モウよい年だから隠居する? トボケタこと言うナイ、われらの研究はマダ終わっていないで尚前途遼遠ダ。マダ自分へ課せられた使命ははたされていないから、これから足腰の達者な間はこの ひろ い天然の研究場で 馳駆 ちく し、出来るだけ学問へ貢献するのダ。幸い若い時分から身体に何の故障も無く頗る健康に恵まれているので、その辺は敢て心配無用ダ。私の脈は柔かく血圧は低く、エヘン元気の電池であるアソコも衰えていなく、そして酒も呑まず煙草も吸わぬからまず長命は請合いダと信じている。マア死ぬまで活動するのが私の勤めサ。「薬もて補うことをつゆだにもわれは思わずきょうの健やか」これなら大丈夫でしょう。
 言い漏したが前の『日本植物志図篇』の書はその後どうなっタ? それは私の環境が変わったのでアレはまずその第十一集で打切り(十二集分の図は出来ていたけれど)、後に当時の浜尾総長の意を体して大学で私が『大日本植物志』の大著に従事していたが、ある事情の下にそれは第四集で中止した。これはわが国植物書中の最も精緻を極めたものであるので、その中止はわが学界のためにこの上も無い損失であった。著者であった私としては、マー私の手腕の如何なる〔も〕のであったかの証拠を示した記念碑を建てて貰ったのダト思えば多少自ら慰むるところがないでもない。
 以上は頗るダラシの無い事を長々と書き連ねましたので、筆を いたあと私は恐れ縮こまっています。

ながく住みしかびの古屋をあとにして
   気の む野辺にわれは 呼吸 いき せむ ​​





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最終更新日  2023.08.11 09:09:44


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