旧い映画を楽しむ。なでしこの棲家

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<海と毒薬>≪にあんちゃん≫


   1.≪海と毒薬≫
   2・≪にあんちゃん≫
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 1.  ≪海と毒薬≫
遠藤周作原作の映画化ものをもう一作。

   ≪海と毒薬≫

小説の方は文字で読むので、映画ほど気分が悪くならないが、
この映画は描写よりも、作品の登場人物の会話に、
吐き気をもよおす.

日本人の罪と罰の意識を問うた作品である。

社会的な罰を受けなくても、神の罰を受けるということを
感じない日本人の体質を問うた。
熊井啓監督も原作に忠実にそれを問うている。

神の罰。良心...
社会的罰を恐れても神の罰は感じない国民。
そして罪を怖れない。
そのテーマを、昭和20年、九州大学で起きた
アメリカ人捕虜の生体解剖という実話をもとに
二人の医学研修生を通して、
二人の心の葛藤と、医者や軍の思いあがった殺人とも言える
生体解剖の実体を生々しく描いている。

実際の生体解剖の描写よりも、
彼らの生命の尊厳というものを一切感じない、医者や軍の人間の
鬼畜のような会話に胸が悪くなる。
しかし、生々しく描きながら、神の罰というものを
浮き上がらせ、戸田という研修生は怖いのは社会的罰だと
はっきりと言いきる。そして医学の世界ではそれは表にでないという。
もうひとりの勝呂という研修生は怖くて、医師の解剖中にも
目が開けられない.

30年ほど前に、ひところ、上坂冬子のノンフイクションものを
読み漁った事がある。その中に≪生体解剖≫もあった.
≪巣鴨プリズン≫など彼女のノンフイクションものなど、
罰を受けた側の言い訳もあり、それもふかく心に残った。
今、そういったものを読む情熱もなくなり、
記憶からも遠のいていた。
この頃、なぜかこういったジャンルの作品を改めて読みたい心境にある。

遠藤氏の、小説とは言え、この生体解剖をモチーフにした
小説はやはり衝撃的であった。
まして、殆ど原作に忠実に描かれた画像で観て、
生々しく、怖さを覚えた。

≪本覚防遺文≫では、利休の死に焦点をあてた啓監督の日本の精神
の分析をみた.そして今度は神の罰というテーマ....
この比較は非常に興味をそそられるはずだ。

作品の前半は、死にかけた患者をどうせ死んでいく患者だから...という考えと、死ぬまでは生きてるんだという考えのもとに、患者の解剖を巡ってまだ,静かにストーリーは進む。

後半、撃墜した本土爆撃のB-29のアメリカ人搭乗員が
捕虜として、軍から、九大医学部に連行されてくる。
生体解剖の実験台として。
エンデイングまで、息を呑んで観た。
人間が生きた人間をなんの罪の意識もなく、笑みさえ浮かべて
解剖、いや、殺人執行を平気でやる医者たち。
軍からも見物に来ていて、果ては写真に撮って良いかという。

医者たちは”どうぞ、どうぞ、私たちは8ミリにとりますから.。

人間が人間を解剖する、殺す権利がどこにある?

映画は最初、逮捕された彼らがアメリカの検察側から、
ひとりひとり尋問を受け、ひとりひとりの証言と考えとが明らかになっていくという構成で作られている。

そして、ヒルダというドイツ人の女性を通して、神の罰というものを、画面で訴えている。
罰は恐れながら、罪は恐れない日本人の習性がどこに由来しているかを問いただしている。
そういうことをあまり考えない自分自身でさえ、
日本人として否定できないところがあって、恥ずかしい。

逮捕されたもの.。30名に及び、
絞首刑5名、終身刑4名、7名の無罪を除いて、
労働3年から25年以上の重刑を宣告されたそうであるが、
後の朝鮮戦争で社会事情により、全員釈放されたそうである。

※ 生体解剖とは..。

  人間は血液をどの程度失えば死に至るのか..。
  どれだけ肺を切り取れば人間は死亡するのか..。と
いうような事だったらしい。
無差別爆撃のすえ、捕虜となった敵国人とは言え、
生きた人間を実験材料にして、現実に解剖を執行したのである。

作品に携わったスタッフや、俳優さんたちに敬意を表したいです。

出演  勝呂研修生。。。奥田英二、
    戸田研修生   渡辺 謙
    医学部長    成田三樹夫
    橋本教授    田村高廣
    柴田助教授   西田 健
    看護婦長    岸田今日子
    看護婦     根岸季衣

補足、ベルリン映画祭では、上映中に救急車が
用意されたそうである。

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2.≪にあんちゃん≫
1.≪にあんちゃん≫


わたし達の小学、中学時代にはまだクラスに
必ず一人、二人の外国人がいたものだ。
まだ、差別という言葉はなかったと思うが、
からかう男の子もいたようだ。 が、
それは、外国人だからという意識ではなく、
他の同級生をからかうのと同じような種類のものであった。
少なくともわたしの通っていた田舎の学校ではそうであった。
成績のいいかたもいらしたし、貧しい方もいらした。
でも上手く溶け合っていたように思う。

久しぶりに観た今村昌平監督の≪にあんちゃん≫。
この話しは実話?だと聞かされていたがどうだろう?
原作は安井末子という方となっている。
≪にあんちゃん≫
製作 日活 1959年度作
監督 今村昌平
音楽 黛 敏郎

昭和29年から30年の頃全国の炭坑は相次ぐ閉山で
その失業者20000人とも言われたそうだ。

この物語は佐賀の西端に位置する貧しい炭坑町で
どん底の生活の中での四人の兄弟の生活記録であるという。

この作者の作文か何かを元にしたものだろうか?
長男ーーあんちゃん   長門裕之
長女ーーねえちゃん   松尾嘉代
次男ーーにあんちゃん  沖村 武
次女ーーせいこちゃん  前田暁子
保健婦さん         吉行和子
外国人のおばあさん    北林谷栄
 々  のおっちゃん    小林昭一
おっちゃん          殿山泰司
銭湯のかまたき男     西村 晃           
保健婦の婚約者      二谷英明

この役者、配役で場面が想像出来るかもしれない
素晴らしい役者さんたち。
この他にもすばらしい役者さんがたくさん出ている。

悪人という悪人は出てこない・
ただ貧乏ゆえ致し方なく非情になる場合もある。
がそれはわたしが今の感覚で見るとそうなるが、
あの時代子供達もおとなの事情というものを
理解しているから、ひねくれたりはしない。悪人ではないのだ。
だれもそうしたくてしているのではない。

落盤事故で父を失った(母はすでに他界している)四人の兄弟は
あんちゃんの炭坑の臨時雇いの賃金だけで生活している。
にあんちゃんは元気が良く 妹思いで 頭も学校イチ出来る。

お昼のお弁当は運動場のお水、
せいこにだけには食べさせてやりたい。

町はあまり衛生的ではないから保健婦さんは一生懸命
衛生的にしようと働きかけるが街者(東京)だから
みんな言うことを聞かないが、にあんちゃんとせいこちゃんは
このおねえちゃんが大好きだ。

赤痢もでれば、相次ぐ落盤で失業者も相次ぐ。
あんちゃんは職を失い働きを求めて町を出る。
ねえちゃんも同じだ。

残された二人は近所に預けられるがそことて楽な生活ではなく
夏休みに漁師の家の手伝いをして金を得る。
がそれとてまだ小学生のにあんちゃんの身体からして
楽ではないが、にあんちゃんは逞しい。

せいこちゃんはまだ母の膝が恋しい年頃だ。
じっと歯を食いしばって淋しさをこらえている。

この町にいてもずーっとこのままだと思い、稼いだお金で
にあんちゃんは東京へ行くが、おまわりさんにつかまり、
佐賀へ送られてくる。

にあんちゃんは言う。
”今はじっと我慢して勉強だけをする。
そして医者になって貧しい人たちを診てあげるンダ。
東京よりもこの町のほうがいまは良い。みんなのどかだあ。
辛いことはいっぱいあるだろうけど...我慢する!
もっと大きくなったら..。がんばるぞー”とせいこちゃんの手を
引いてトロッコ用の線路を元気に登っていく...

これはせいこちゃんの目から見た逞しくやさしい2番目のあんちゃん
イコールーにあんちゃんが主人公のお話である。
この町の生活水準しか知らない兄弟です。

でも、せいこちゃんの望みは貧しくとも兄弟四人が一緒に暮らせる
そのことだけなのです。

にあんちゃんが東京へ行くときのせいこちゃんのくしゃくしゃの顔
やるせなくて、やるせなくて。。

いまの軟弱な子等に観て欲しい にあんちゃんのたくましさ!
いじめられても”おれは水腹じゃけんど いつでもかかって来い
相手になるぞ”と頼もしい。
そして卑屈にもならない。利口だからだ。
愚痴も言わない。
そしてあの当時いたような外国人のおばあさんも
すごく良い。
谷栄さんが良いですね。
生活に上手く溶け合った時代だったんだ。

今村監督は小津監督の助監督をしていたが、
小津に反発して松竹を出た方らしい。

問題作を次々と発表した社会派の代表的な監督であるが
デビューして2.3作目にしてこの”にあんちゃん”を
世に送った。
この作品にも貧乏をどうすることも出来ない事実を
リアルに描き 頑張るという意識、希望を 希望に 
向かってくじけない強さをしっかり持つこと
このことを投げかけている。

子供の時に見たこの映画はせいこちゃんが可愛そうで。。。。
という記憶しかなかったが、
みんなが一生懸命で、
こんなに素晴らしくさわやかな映画だったんだと改めて思う作品でし
た。

豚と軍艦、日本昆虫記、赤い殺意、神々の深き欲望、楢山節考、
と数々の賞も受賞、

日活というプロレタリア思想の濃かった場で力いっぱい
作れたのだと思う。

世のお子さん方、にあんちゃんのようにたくましく
育ってくださいね。

≪余談≫

数年前にテレビで見たこと。
長門さんがお出になっていて、
にあんちゃんの共演者のお二人にお会いしたいと。

で、にあんちゃん役の沖村 武さんが来られたんです。
40年ぶりだとか。
沖村さんも、前田さん(せいこちゃん役)も
これ1本きりで引退。
沖村さんはあのにあんちゃんが
そのままおじさんにおなりになったという印象でした。

撮影当時は本当の兄弟のように生活をしていたとかで
感無量というものでした。
が、せいこちゃんのお話になって....
彼女は若くしてご病気でお亡くなりになったとか。
それを知らなかった長門さんが号泣なさっていたのを
思い出しました。合掌。

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2・浦山桐郎監督
 ≪キューポラのある街≫


女優高峰秀子、岸恵子、若尾文子などを書いてきたが、
ここらで”吉永小百合”について書こうと思う。

昭和30年代前半、テレビドラマ”まぼろし探偵団”に
出演した後、日活撮影所に入り、
赤木圭一郎の”電光石火の男”や、石原裕次郎の作品に
チョイ役で出ていた頃はまだ、単なる美少女であった。

彼女の人気を不動のものにした作品は
”キューポラのある街”である。

鋳物工場の町、川口市を舞台に、貧しいながらも力強く
まっすぐに生きて行く少年少女を描いた
今は亡き浦山四郎監督の作品である。

当時の彼女の私生活での生きかたと重なり、共感をも呼んだ。

当時のフアンは彼女をアイドルでありながら
サユリちゃんとは呼ばない。”サユリさま”であった。

純情可憐、目から鼻へ抜ける聡明さと、庶民的で明るく
初々しいその演技はそのまま当時のサユリさまそのものであり、
1960年の安保闘争に混乱する世相の中で、
彼女の存在は新鮮であり、若者のシンボルであった。

”キューポラ...”では走って走っていつも元気なジュン。
母の相談相手になり、のんべえの父親に説教をし、弟たちの
面倒を見、学友の相談相手もし、日本の片隅にはまだまだ貧しい
世界がたくさんあったなかでジュンの存在は
当時の若者にとって自分達が重なった。

初主演のこの作品に始まり、昭和37年から41,2年までか、
彼女の若者のアイドルとしての青春映画は続々と作られ
熱狂的なサユリスト信者を作っていった。

石坂洋次郎作品の青い山脈のリメイクもの、若い人、光る海に始まり
、泥だらけの純情、ガラスの中の少女、潮騒、伊豆の踊り子、
青春の門などなどと続いた。

が、女優としての作品を上げるとすれば”キューポラ..”
1本で充分であろう。

なぜなら、その後の彼女の女優としての これ という作品は
浮かばないから。

決して彼女を嫌いではないむしろ素敵だと思う。
ただ、ブラウン館で観るコマーシャルなど、黙って
そこにいる小百合さんが好きなのである。

結婚してからの彼女は作品を選んで出演すると公言し、
年に一本か2,3年に一本の割で出ていたようであるが
残念ながら演技は10代のままである。

大スターであるからして当然大監督などの作品に
出演した。 が、彼女が出演するという話題性が先行して
いるだけでどれを観てもわたしは消化不良を起こした。
物足りない。
日本映画の大フアンであるからこそ、厳しい観方かもしれないが
正直な気持ちである。

何度も観たいと思う作品がないのである。
観たいと思うのは気軽に懐かしめる青春作品だけだ。

サユリストの方々ごめんなさい!
決して嫌いではないということを再度申し上げます。

思うに彼女は女優というより、その”存在”そのものの
魅力ではなかろうか。

彼女が”出る”というだけでもう”良い”ということ...
演技とかうんぬん延べる以前のことである。
なんと幸せな、稀有な”存在”であろうか。

例えばテレビドラマの”夢千代日記”--
これは土曜日の夜、かなりの視聴率を上げたが、
演技は樹木希林に、秋吉久美子に食われてしまったが
彼女が出ているーーストーリーの面白さーーで話題を呼んだ。
芸者の役の立ち居振る舞いは見ていてぎこちなく、身体は
硬く、観ていられなかった。

だから、顔のUPばかりが目立った作品だ。

同時期に活躍した日活の十朱幸代ーー
決して好きな女優ではないが、彼女が今舞台女優として
花開いたその陰には並々ならぬ努力と、勉強があったと思う。

わたしは吉永小百合を女優としては見ていない、むしろ
文化人としてみている。
彼女の生きかたがどのようなポリーシーなのか知る由もないが
ただ進む方向はそのようなものであろうと思うしあって欲しい。

長い脇役から老齢になって、魅力的な老女優となった
北林谷枝とはその道のりが違うからして当然であるが
10年後,20年後の女優としての先は感じられない。

近年の作品”長崎ぶらぶら節”にしても、テレビ版の
市原悦子に遠く及ばなかったことに観られるように
とうとう一皮が向けなかった。

世の女性、男性、そして老若男女を問わず、
彼女は、憧れの人であり、永遠の恋人である。

そして女優(吉永い小百合)は
あのキューポラのある街で元気に走るジュンや
青春映画で活躍したアイドルとして
心に残しておきたいのです。

小百合さん!今のあなたは”存在”の人で充分に魅力的です。
どうぞ女優として無理をなさらず、
文化人として、魅力的な、そしてテレビのコマーシャルで
黙って微笑んでいてくだされば、それでじゅうぶんデス。




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