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熱田区神宮2 新宮坂神社この新宮坂神社はこの地の地名からきているようです。1878年に熱田村の一部が新宮坂町に変り、1981年に現在の地名の神宮町へと変わってきました。その新宮坂町の由来は熱田神宮の境内摂社「南新宮社」の東側の坂を新宮坂と呼んだことから付けられたとされます。左は熱田神宮境内で新宮坂の所以となった「南新宮社」は丁度この左の境内に鎮座しています。写真中央の三叉路の角に「新宮坂神社」の神明鳥居が見えています。上は左が1945年頃(終戦後)の航空写真、右が現在、どちらも新宮坂神社の鳥居を確認できませんが、神社の前の通りは新宮坂と呼ばれたように、西の熱田神宮境内の南新宮社に続いているのが分かります。三叉路から新宮坂神社社頭の眺め。小さな社地は玉垣で囲われ木製の神明鳥居が建てられています。鳥居から先の境内は南北に細長く、鳥居の先に神明造りの社が見られる。高く積まれた台座の上、南を向いて祀られる社。6本の鰹木と内削ぎの千木が配らわれています。神社の創建や祭神など詳細は不明。新宮坂の町名だけ捉えれば創建は1878年以降となるけれど、町名成立以前からの社名だとすると、近くにある今は小さな喜見寺が栄え、境内の一部を町屋にしたとされる1793年(寛政5)あたりまで遡る事になる。燈籠等の寄進年度等からも創建時期につながるものは見かけませんでした。神明鳥居と神明造の社は熱田神宮に関連するものなのか?、熱田神宮の摂末社など調べて見るも関連はなさそう。詳細は不明ですが、社には榊が供えられ、今も崇められているのが伝わってきます。神社北側は「くさなぎどんぐり広場」があり、こちらからだと社後方を眺めることができます。神社を巡る楽しみに社格や歴史にあまり興味はなく、そこになぜ社を祀る必要があったのかそこに興味が湧きます。そうした輩向きに由緒書きはそれを知る手掛かりとなるだけでなく、そこで育つ子供たちがその地を知る絶好の語り部となるだけに由緒書きを掲げるのは有意義だと思う。我が家の息子達が小さかった頃、神社に虫取りに行くと「なんで?」と質問攻めにあった事を思い出す。「くさなぎどんぐり広場」と神社これだけ暑いと子供たちの姿はない。新宮坂神社創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市熱田区神宮2-1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車北へ5分程車アクセス / 熱田神宮南門駐車場から松姤社⇒不明社⇒新宮坂神社まで徒歩5分程関連記事 / 神宮2丁目 不明社 、「松姤社」
2020.08.30
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春日井市神領町2 「津島神社」JR中央線「神領」駅から10分程南に進むと庄内川に架かる下志段味橋に至ります。橋の手前から高く盛られた堤防道路を上流に向け2~3分程歩きます。やがて堤防の法面にポツンと鎮座する小さな社が見えてきます。神領の津島神社です。鬱蒼とした堤防の法面ですが、神社と北側の車道に繋がる手入れされた歩道があり、藪漕ぎはしなくても済みます。道路から津島神社全景堤の先の庄内川を見据える様に南を向いて祀られています。幟柱と岩の上に板宮造の社、その右に燈籠。手前の白い燈籠らしき石柱、正面に崩し字で何か書かれていますが分からない。春日井の少し前は当時の村々や島々にこうした天王社や津島社が祀られ、疫病除け祈願として天王祭りや祇園祭り、津島祭りが行われてきた身近な神様。榊も供えられ、綺麗に雑草が刈り取られた境内、今も地元の方々により崇められているのが伝わってきます。嘗てのこの辺りは現在の様に庄内川を渡る橋はありません、庄内川の勝川、松河戸、下津尾、桜佐、野田、大日、大留、入尾、岩瀬・・・・など各所に渡しが存在し人や物資を船にのせ渡った時代もあります。ここ神領にも渡しがあったそうです。 上の写真は左が1900年頃の当地、橋は架かっていません。その後、ここに木造の橋が架けられますが流失を経て、現在の下志段味橋の姿になります。堤防から上流の眺め、東名高速の橋梁はすぐ近く。対岸は目と鼻の先、なんとかして渡りたいと思うのは自然の事、津島神社の辺りが神領の渡しがあった場所なのかもしれない。そんな思い込みがあるからか、神社の白い燈籠らしき石柱に刻まれた崩し字が「わたし」と書いてあるような気になってくる。読めないもどかしさを痛感する。津島神社創建 / 不明祭神 / 素戔嗚尊住所 / 春日井市神領町2公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅から10分程南最寄りの神社 / 三明神社 下津尾の渡し
2020.08.29
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和歌山市和歌浦西2丁目「紀州東照宮」和歌の浦湾を望む雑賀山の頂に鎮座し、徳川家康を神格化した東照大権現と紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した南龍大神を祀る神社。この地方の紀三井寺、和歌浦天満宮、紀州東照宮の3ヵ所は急な石段で有名、三社合わせて合計389段の石段を一日で回る事を「和歌の浦急峻三社寺巡り」というそうです。既に紀三井寺は制覇したのでこれで二社目にチャレンジ。当初予定には入っていなかったけれど、時間に余裕があれば参拝としていたけれど、紀三井寺から車で県道151号線を西に10分ほどと近いので、折角来ただけに紀伊東照宮は是非とも見ておきたいとかみさんに無理いって参拝することにしました。上は参拝者有料駐車場入口に掲げられた紀伊東照宮の看板と葵の紋のレリーフが嫌でも視界に入ってきます。一の鳥居から広い駐車場に入ります。駐車場左の建物は東照宮会館、こちらであれば石段を登る事なく御朱印は頂けるようです。その右にある社は「権現不動堂」さて一ノ鳥居から社殿を目指します、鳥居は三ノ鳥居まであるようです。後方の小高い山が雑賀山、あそこまで登ります。二ノ鳥居。一ノ鳥居に比べ額も付き、葵の紋が入ります。三ノ鳥居。二ノ鳥居と同様額が付きますが、葵の紋はこちらにはない。右手に社号標と左手に境内案内板があります。境内案内板。目の前の参道は途中で一旦左に折れ、そこから真っすぐ続くようです。途中には福森稲荷社と弁財天社の二社があるようです。三ノ鳥居の額は重厚感のある色合いと字体のもの。6月とはいえ陽気は真夏です、杜の木陰に包まれた参道を進みます。ここから先の雰囲気は厳粛な空気が漂います。木陰の中の参道の両脇に立ち並ぶ年季の入った石灯籠は、徳川家の家臣から寄進されたもので、石畳の参道の奥まで続きます。意外にも参道は目と鼻の先で左に折れるようです。参道を一旦左に折れ、右に参道が続きます、そのあたりの参道左に赤い玉垣と鳥居、さらに青い「稲荷大明神」と書かれた幟が見えてきます。「福森稲荷社」への参道はこの奥で右に続き、その先に社が祀られています。左の小さな鳥居が置かれた石標は日之出大神、その右の石標は吉光大神と彫られています。和歌山県神社庁によればこの三社は境内社となっています。「福森稲荷社」詳細は不明。再び参道に戻って先を眺めます。反り橋の先に見上げるような急な石段とその先に随神門が見えてくる。反り橋の右手は堀の様相、その中に水が湧き出て池を作り、中央の小島に弁財天社が祀られています。弁財天社へは反り橋を渡って右側に狭い下りの石段を下りていきます。橋の手前とその先に二つの鳥居を構えています。こちらには立派な由緒書きが置かれていました。1621年(元和7)、徳川家康公の十男で紀州藩初代藩主の徳川頼宣公により創建されたと言う。その目的は東照宮が鎮座するお山のお守りとしてここに祀られたらしい。御神徳はこの地の守り神のみならず、学問向上、商売繁盛、家運向上、海上安全、井水防火、防疫、安産祈願と霊験あらたかだそうです。祭神は市杵島比売神。弁財天社の右に小さな祠。内部には宝船に乗った七福神が祀られています。宝船の前に置かれているものは長い蛇に見えてしかたがない…蛇はどうにも好きになれない弁財天社から反り橋を見上げる。山肌に降った雨は自然とこの弁天池に流れ込むようになっている。反り橋の先に壁の様な108段の石段、「侍坂」と呼ばれ、石段の数108段は煩悩の数を表すのだという。この「侍坂」を避ける迂回路が石段の左にあります。「緩い石段」と書かれてはいるが、こうした道は遠回り以外の何物でもない、直登あるのみ。角の取れた石段を一段、二段・・・・・、随神門を見上げて登っていたが、中ほどから足元ばかりが気になる、石段の数も途中で忘れた。先を登るかみさんの足取りも重くなり、遂には足元を見て登っている。数はともかく結構な斜度がある。「和歌の浦急峻三社寺巡り」甘くはないか。朱塗りも鮮やかな二層の随神門が間近になってきた。この辺りに来ると再び石灯籠が現れる。石段の両側は切り立った斜面と杜が迫っているため、極彩色に彩色された随神門と左右の廻廊の全容は意外と収まらないけれど、関西の日光とも呼ばれるのも分からないでもない。随神門前から扁額を見あげ…る、首の筋肉が悲鳴を上げる、少し離れて眺めるのがいいのかも。「侍坂」の急登108段と紀三井寺の結縁坂の231段、登り切ったぞ。すぐ西隣に残りの和歌浦天満宮があるけれど、今の気分は「もう十分」日本一大きいといわれる随神が鎮座する。随神門をくぐると視界は開け、境内が広がります。正面に檜皮葺の唐門、拝殿は入母屋造の檜皮葺で破風が施されています。周囲は檜皮葺きの端垣が取り囲んでいます、瑞垣に彩色される特徴のある緑の色、お馴染みの色ですが最近この色が気になりだした、何色というのだろう?境内右に手水舎と正面の瓦葺の建物は神輿蔵。赤い玉垣に囲われた一画は「楓の木」、古い葉は枯れても新芽が出るまで落ちる事はないそうで、縁起を担ぎ合格祈願に訪れる受験生も多いと云います。境内から廻廊と随神門、社務所の眺め。御朱印はやはりこちらで頂きたいもの。入母屋瓦葺の随神門は至る所に彫飾りと彩色が施され、豪華絢爛ですが、意外に地味な方なのかもしれない、何より金色に光り輝く飾り金具が目に飛び込んでこない。唐門から先の拝殿、本殿は拝観料を支払えば間近に見ることができます。唐門左の解説。唐門から拝殿の眺め。最後の11段の石段を登って拝観することに。極彩色の唐門の天井に描かれた天女、色彩は鮮やかです。拝殿、正面に金色に輝く狛犬(獅子かも?)、その先にこれまた金色の葵紋。社殿は拝殿、石の間、本殿の構成、ここはもう豪華絢爛そのもの。眩いばかりに光り輝く金色と細かな彫や彩色が溢れている、さすが徳川。社殿を左回りに見て廻ります。拝殿西側の石の間の軒下に左甚五郎の「鶴亀」が描かれています。唐門に戻ってきました。色鮮やかで傷みの目立たない社殿は、創建から50年の年忌毎の根本修理、10年・15年に彩色修理と計画的に手が入れられて来たそうで、それは今も受け継がれこの姿を留めています。唐門から随神門、その先の眼下に和歌の浦湾を一望できる。こうしてみると標高は結構ありそうです、‣・・・・という事はあれだけ下る? 当たり前か随神門から和歌の浦湾を眺めると「緩い石段」は捨てがたいけれど、この景色を眺めながら再び「侍坂」を下っていこう。「隣も行く?」、無理です。2020/6/26紀伊東照宮創建 / 1621年(元和7)祭神 / 徳川家康、徳川頼宜境内社 / 権現不動堂、福森稲荷社、日之出大神、吉光大神、弁財天社住所 / 和歌山市和歌浦西2-1-20関連記事 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳 『紀三井寺』 、上野東照宮 、久能山東照宮、芝東照宮、瀧山東照宮
2020.08.27
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2020.08.26
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松姤社から国道一号線沿いの歩道を左へ、更に最初の脇道を左に向かい秋葉山圓通寺方向へ。最初の交差点は左に進むと熱田神宮南門へ続きます。熱田神宮の杜沿いに北方向へ進みます。周辺の表通りはビルが立ち並んでいますが、少し入ると趣のある民家が点在しています。秋葉山圓通寺が見える三叉路の角にある個人宅の片隅の幟柱が目にとまりました。良く見ればその奥に小さな社の姿があります。個人宅の壁面に貼られたホーロー看板が味があっていいものです。個人宅南の敷地に東西に長い社地を与えてもらい、幟柱の先に岩で組まれた台座の上に社が祀られています。こちら側が正面かと決め込んで社名の手掛かりを探して見るも何もない、社をよく見るとこちらは背面側。正面に回り込んで見ました、趣はこちらが裏の様な外観です。街中に井戸、しかも今も現役の様に見えます。熱田神宮を背にして東向きに鎮座する板宮造りの社に社名札はなく、その他の手掛かりは分かりません。それでも神社幕が架けられるようになっているので廃社ではなさそうです。こうして見ると屋根神さまの様にも見えなくもないけれど、なにも分からない。上の写真の左は終戦から間もない頃の航空写真、右が終戦から6年後の航空写真。名古屋は大きな空襲を幾度か受けています、戦争による空襲は多くの犠牲者と大きな爪痕を残しました。熱田神宮のあるこの辺りも「熱田大空襲」として多くの人命を失い、甚大な被害を受けています。この社が建てられたのはそれほど古くはないでしょう。復興に向かい現在の姿になっていく過程で、ここの住民(個人?)の思いと創意から祀られたものである事に間違いないでしょう。今こうして見る社、それを必要とした背景が後世に伝わっていくといいのだろうが。廃社の社を見かけると、単に社だけではなく、その地域の一つの歴史が幕を閉じた気がしてならない。不明社創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市熱田区神宮2丁目3松姤社からのアクセス / 鳥居から徒歩で2~3分程関連記事 / 松姤社
2020.08.25
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久し振りにかみさんが健康診断を受けた。それは7月中頃の事、そこから健診結果が郵送されてきたのが先週末の事。レントゲンで再検査(このご時世これは面倒なことになるぞ)と判定される、最寄りの医療センターを9時に受付。受付は一般外来で内容を伝え非接触式体温計で異常なし、1時間近く待ち漸く受診。そこで問診の際にもう一度脇の下で体温計るとこれが37度越え。その結果から一気に本来の受診内容からcovidコースに変更となり、抗体検査へと進む。一歩そちらに踏み込むと、シールドで囲われた受診者が視界に入ってくるそうだ。検体を採取し、結果が出るまでシールドされた僅かなスペースで壁に向かい待機する事さらに一時間。そこから告知なしに本来の外来コースに復帰、問診と精密検査を受けることができた。健診で引っかかった内容について問題ない事は確認できたので一安心。結果を聞いて余裕ができたのでしょう、先生にcovidの検査結果を尋ねたら「問題があればここにはおれません」とのこと。「取り敢えず掛かりつけ医で事情を説明し発熱の治療を受ける様に」とのことなので、今度は掛かりつけ医を訪れる。事前に電話で説明、時間指定で医者に向かう。当然一般待合室には入れず、屋外駐車場の車内で待機。車で待機する方が他にも複数台。やがてフェイスシールド、防護服姿の先生が駐車場に現れ、診断を受ける事に。「抗体検査受けたんだ、取り敢えずもう一度体温計りましょう・・・・・平熱ですねぇ、少し喉チンコが赤いかな、薬飲んで様子見ましょう、本来最初の医療センターが対応する内容、こちらに回されるのは・・・・電話しておきます、薬は調剤薬局から車に持ってきてくれますから、もう少し待っててね」と言い残し立ち去っていきました。相変わらず軽い先生だ。そこから10分程待っていると、フェイスシールド、防護服姿の調剤薬局の方が現れ薬を受け取る。健診や清算等全ては車内で事が済む。陽はとっくに傾き一日がかりとなったけれど、途中相当不安にもなっただろうが、かみさんはある意味、我家でただ一人covid-19の不安を払拭できたことになる。心の健康を頂いたという事で今日一日は二人にとって有意義だったと考えよう。医療に従事される方々には「お手数お掛けしました」という以外にない。エアコンかけっぱだったり、ただでさえ夏風邪をひく。ましてや育ち盛りの子育て世帯にとって子供と熱は切り離せない。このご時世、最初にcovid19の疑いから診断が始まります。いつ感染してもなんら不思議ではないけれど「covid19?風邪?」と悩んでいても解決しない、さっさと医者を訪れよう。今まで以上にエネルギーが必要なご時世になったものです。因みにかみさんは炎天下を歩いて医療センターに行ったようです。(ソレッテ・・・・・どうなのヨ)
2020.08.24
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春日井市貴船町「貴船神社」JR中央線「春日井」駅から北に10分程のところに鎮座します。篠木公園の南と云えばわかりやすいかな。神社の北側を県道75号線(春日井長久手線)が東西に走り、県道沿いに杜があり、車でもそれと分ると思います。写真は南側から社頭の眺め。鳥居の左側に貴船神社社号標と由緒書きがあります。由緒立派な石に彫られた由緒ですが、石の模様が強すぎて写真では読み取れません。祭神は闇龗神、天照大神この神社は以前掲載した小木田神社の境外地のようで、現在は貴船と表記していますが以前は木船と表したようです。明治の頃に小木田で祀られていた神明社が合祀され、それに伴い村社となり、木船から貴布祢となり、更に明治以降に現在の貴船になったと云われます。創建は不明ですが1683年(天和3)に再建されたとある。貴船神社といえば闇龗神(クラオカミ)或いは高龗神(タカオカミ)とも呼ばれる水を司る神様で、高龗は山の頂の龍神、闇龗は谷の龍神だと云われる。どちらも雲を呼び、雨を降らせ、その雨を程よく蓄え、恵みとして湧きだし水は作物に還流する水源の神。上は大正の頃と変貌した現在の姿。少し前は一面田畑の広がっていた地域なのがよく分かります。水は作物の取れ高と密接な関係にあるので、闇龗神(高龗神)が祀られたのも頷ける。もっとも、その面影は今は皆無、田畑を見る機会は少なくなっています。境内左の大きな樹の前に瓦葺の手水舎があります。境内正面に四方が吹き抜けの瓦葺の切妻拝殿。右に社が一社祀られているのが分ります。拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。幣殿は銅葺屋根の切妻造りで内削の千木と鰹木が施されています。右手の社は伊勢神宮の様です。手前、伊勢神宮と本殿の眺め、本殿も銅葺屋根流造、周囲は塀で囲われ全容は見て取れませんでした。拝殿から幣殿の眺め、一対の狛犬が拝殿前を守護しています。色白で阿形は玉と吽形は子持ち、力感があり、全体のフォルムは線が太く頭は少し大きく感じる。本殿の右の伊勢神宮。創建等の詳細は不明ですが、玉垣と石畳はやたらと新しく、2013年に建立されたようです。社は流造で玉垣の建立時期の以前に建て替えられたのかな。多少時期がずれているように見えます。伊勢神宮という事なので、祭神は天照大御神なのだろう。境内の東側に隣接するように関田公民館があります。そちらの表敬之碑に貴船神社の記述はないものの、小木田神社と篠木荘と関田村についての記述がありました。小木田神社は昭和50年、公民館は昭和55年と多くの方の支援によりに新築されたとある。貴船神社と小木田神社、飛地境外社のつながりもあるけれど、どちらも郊外の神社らしくゆとりのある境内と歴史を感じさせる大きな樹々が杜を作る。境内も手入れが行き届き、参拝に訪れて心地いい印象を受けました。そうしたところに地元の氏神様として今も親しまれていることが伝わってきます。貴船神社創建 / 不詳 1683年(天和3)に再建祭神 / 闇龗神、天照大神境内社 / 伊勢神宮住所 / 春日井市貴船町901番地公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅から北に10分程車 / 参拝者駐車場が鳥居の南側に数台分あり関連記事 / 「小木田神社」春日井市小木田町 小木田神社へは東に徒歩で10分程
2020.08.22
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2020.08.21
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熱田神宮南門の参拝者無料駐車場の木陰に車を停め…、この暑さ、ついつい車の移動を選択。駐車場から南の国道1号線に向かう、そこから左の伝馬町方面へ歩いてすぐ左に目指す熱田神宮の境外摂社「松姤社」が鎮座します。国道1号線から伝馬町方向の眺め。左のビル群の間に「松姤社」の参道があります。車で前を通りがかっても存在に気付かないかも知れない。それにしても歩道からの照り返しは半端じゃない、街全体が熱を帯びている。「松姤社」社頭。少し奥まって右に社号標、その奥に木造の神明鳥居がある。参道はビルの木陰となり、この空間に入ると体感温度はぐっと下がり、ちょっとした都会のオアシス。参道脇に常夜灯があり、両脇はビルに挟まれている、参道は民家の前から左に折れます。表通りは車も、人も往来が多く騒がしいけれど、老人性難聴の影響もあるのだろうが参道から奥の空間は意外に静かな印象を受けます。参道を突きあたると玉垣に囲われた境内が現れます。ビルと民家の隙間に境内が広がる、決して広くはないけれど、小さな杜に包まれ鎮座する社の姿は特別な空間である事が伝わってきます。石段の先に鎮座する「松姤社」全景。後方が老舗うなぎ屋さんということもあり、境内には香ばしい香りが漂う。熱田神宮には本宮を始め、別宮1社、摂社8社、末社19社と境外摂社が4社、末社12社の45社を祀っていますが、「松姤社」は境外摂社4社の一つ。祭神は日本武尊のかみさん宮簀媛命を祀ります。その昔、松姤社のあるこの地には清流があり、娘が布を晒していた、そこへ東征のため通りかかった日本武尊が現在の大高近辺への道を娘に尋ねたそうですが、娘は聞こえないふりをして答えなかったそうです。その理由はよく分かりませんが、この出逢いから二人は夫婦になったと云われます。この辺りは尾張名所図会にも布瀑女丁として記され、娘が布を晒(さら)す町、布瀑女丁として呼ばれることになったようで、松姤社も記されていました。この古事から宮簀媛命を祀り、耳の神様として崇敬を受ける様になったのが「松姤社」斜めから見る松姤社全景。神明造の社に内削ぎの千木と鰹木があしらわれている。参拝老化は避けて通れないけれど、ここは二人分の賽銭を奮発して参拝させてもらいました。二人の出逢いとなったこの地、布を晒したと云われる清流は今何処。古代のこの地は熱田台地の先端にあたり、ここから先は徐々に海岸線が迫っていた。ここに布を晒す清流があったか、疑問は残るけれど、それはそれで素直に受け入れておきたい。疑問ばかり残る事の多い昨今、そうした物語は夢があっていいものです。唯一疑問が残るのは宮簀媛命はなぜ「しかと」したか、そこが妙に気になる。社から眺める境内、他の境外社もそうですが、住宅の集中する一画、効率に逆行するこうした空間が残っている事にある意味ほっとする。街中の取るに足らない僅かな空間ですが、そこを拠り所とする生きものがいて、多少聞こえが悪くなってきたおやじの拠り所でもある。境内左に板宮造りの社。詳細は分かりませんが近年建て替えられたようです。宮簀媛は東征の最中、門戸を閉じ誰の声も聞かずに、日本武尊の帰りを祈願したとも言われるそうです。この空間に佇む社の姿にそんな宮簀媛の姿がだぶってくる。追記 / 後日この社は松姤社境内末社で「十握社(とつか)」という所までは分かりましたが、十握剣と所縁があるのか?、かえって厄介な事になった。鳥居脇の常夜灯は昭和5年に寄進されたもの。小一時間程滞在していたけれど、この間どなともお会いすることはありませんでした。境内から喧騒と灼熱の世界に戻る事にします。熱田神宮から5分もかからないだけに松姤社、寄られてみては。熱田神宮摂社 松姤社創建 / 686年(朱鳥元年)祭神 / 宮簀媛命住所 / 名古屋市熱田区神宮2-10公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「伝馬町」駅下車、徒歩5分程車アクセス / 熱田神宮南門駐車場から徒歩5分程関連記事 / 『青衾神社』熱田神宮境外摂社 鈴之御前社 熱田神宮摂社『高座結御子神社』 熱田神宮境外『笹宮』/『南楠社』
2020.08.21
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春日井市八事町八事と聞くと興正寺がある名古屋市昭和区の八事が思い浮かびます。春日井にもJR中央線「春日井」から西へ15分程の所に八事町があります。昭和区の八事とここ春日井市八事町は縁があるようで、そこから八事がつけられたようです。そのつながりの中身までは辿り着けませんでした。地蔵川右岸の弥生公園の北にあたり、鳥居町の南にあたる八事町。入り組んだ住宅街にある八事公園が目的地「八事 神明社」写真は公園の南西側の道筋。手前右側に八事公民館があり、その先に常夜灯と社号標が見えてきます。神社は八事公園の南に隣接して鎮座しています。参道から少し入り、大きな樹々の枝に覆われる様に神明鳥居が建っています。手水舎は左の常夜灯の後方にあります。鳥居正面から拝殿の眺め。公園の敷地にこんもりと盛られた社地があり、周囲は玉垣で囲われています。高く盛られた社地は古墳のようにも見えます。高く盛られ境内に続く石段の先に拝殿。瓦葺で向拝のある切妻造の平入拝殿、外観はシャープな印象を受けます。やや大振りの彩色された狛犬が守護しています。赤い彩色が施された目鼻立ちがはっきりした狛犬。向拝に架けられた「八事神明社」扁額。祭神は天照大御神。見落としているかもしれませんが、境内を見渡しても由緒書きが見つからず詳細は分かりません。拝殿左の少し下がったところにアベマキの御神木があり、その脇に二社が祀られています。左が菅原道真をお祀りする大宰府天満宮。右が五穀豊穣と子孫繁栄の神、御歳神、玉姫命をお祀りする田県神社。拝殿に続く石段の右に公園を見守る様に覆屋があり、中に小さな社が祀られています。訪れた時には気が付きませんでしたが、写真を拡大して行くと覆屋の右の柱に神社名が記されていたようです。アップ画像もなくそれ以上読み取れないので不明社とします。機会があれば書き加える事にします。八事公園から見る神社。この杜のこんもり感はやはり古墳の様です。神社はその上に鎮座しています。庄内川の北に位置し、地蔵川右岸の高台にあたり、川の影響を避けるにはいい場所。八事神明社古墳と呼ばれる古墳時代の円墳ですが、埋葬者等の詳細は分かりません。古墳の名残を感じさせるものは、このこんもりした社地以外は特に残っていない。庄内川沿いにはこうした古墳は多く、墳丘の上に神社が建てられるケースは珍しい物ではない。子供たちが集まる場所でもあり、古墳や神社に関する解説板が整備されるといいのかもしれません。住宅地に残る杜を訪ねると神社或いは城址か古墳。杜を目指せば何かに出逢う。「八事神明社」創建 / 不明祭神 / 天照大御神住所 / 春日井市八事町2-55公共機関アクセス / JR中央本線春日井駅から徒歩10分
2020.08.19
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2020.08.18
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名古屋市熱田区花表町『花表神社』熱田神宮の東にあたり、名鉄「神宮前」駅から東に歩き「花表町どんぐりひろば」のすぐ近くに鎮座する神社が花表神社。住宅街の一画に間口は狭いけれど奥行きのある境内を持つ小さな神社です。「熱田大神」と書かれた青い幟が参道脇に立ち並んでいます。こうして見ると周囲の街並みに溶け込み、遠くからでは存在は分かりにくい。参道の前に来て初めて神社と分る。境内を少し入って鳥居が建ち、狛犬と高く積まれた台座の上に覆屋が見て取れる。街中の神社にしては恵まれた社地を与えられているほうかもしれない。鳥居から境内の眺め、参道はまっすぐ伸びていますが、社を収めた覆屋はなぜか左に寄っています。鳥居に掛けられた「花表神社」の額。町名が先か神社が先か定かではないけれど、くしくも同じ「花表」。江戸時代のこの辺りは華表崎「とりいさき」と呼ばれていたそうです。中国の華表の語源が鳥居を指すと云われ、近くの熱田神宮東門の大鳥居前にあたり、当時は海岸線も近く岬の様なだったため崎が付いて華表崎と表したのではないだろうか。明治に入ってから「とりいさき」の表記が華表先になったと云われ、昭和の頃に華は花に変わって花表町となったようです。由緒書きがないので詳細は分かりませんが、「花表」神社の表記からみると神社の創建は明治以降と思われます。境内の常夜灯や狛犬などの奉納年度は1933年(昭和8)と刻まれていました。境内に入った参道の右に手水鉢。覆屋が左に寄っている理由がここにきて分かりました。右に細い小路が奥に続き、その先は公民館へと繋がっています。そちらの行き来もあり左に寄るしかなかったようです。小さくて白い狛犬が社と公民館を守護しているようです。覆屋の全景。階段は随分と上に続き、覆屋の前から下を見ると手摺りがないこともあり結構怖いものがあります。ここから眺める境内、花表の街並みは見おろすような眺望です。覆屋の中には社が一つ祀られていて、津島神社、熱田神宮、秋葉神社の三社が祀られているようで、屋根神様の様な雰囲気があります。ひと昔前のこの辺り、周囲は田んぼが広がっていて、今の様に家が立ち並ぶ様になったのはそれほど古い話ではない。その過程で屋根神さまが祀られ、町の変貌と花表公民館の設立に併せて、ここに祀られるようになった?花表町の氏神様として町の変貌と共にここにある、そんな気がしてならない。見上げるような高さの台座に祀られた覆屋、社は板塀に囲まれ全容は分かりませんが千木は内削ぎの様に見えます。今は住宅が周囲を取り囲んでいるものの、花表町を見守るにはこの高さは必要だったのかもしれない。2020/8/11『花表神社』創建 / 不明祭神 / 不明 (津島神社、熱田神宮、秋葉神社)住所 / 名古屋市熱田区花表町16公共機関アクセス / 名鉄「神宮前」駅下車、東に徒歩5分程
2020.08.16
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2020/06/26一泊二日で和歌山県の一之宮を訪れてきました。ここは和歌山市紀三井寺1201「紀三井寺」の鎮座地。古くから信仰を集めてきた紀三井寺、石畳が続く参道は門前町の趣が漂います。紀州徳川家代々の藩主から庶民まで、多くの人が祈願に訪れてきた紀三井寺、コロナ禍の影響からか、どの店もシャッターが下り閑散として賑わいはない。西国観音霊場三十三箇所の2番礼所として広く知られ、救世観音宗の総本山。紀三井寺は、770年(宝亀元年)、唐層の為光(いこう)上人によって開かれ、和歌山城からほど近い事から歴代藩主は紀州徳川家の繁栄を祈願し訪れていた、紀三井寺は徳川家から手厚く守られてきた。ざんげと招福の水場楼門に続く石段の手前の右に錫杖を持った白衣観音が安置されています。手水鉢に注がれる清水には罪を洗い流すご利益があると云う。祇園社ざんげと招福の水場の右に鎮座する。その昔、印度でお釈迦様を初め諸弟子の住居となった祇園精舎なる寺があり、 守護神として牛頭天王をまつる仏法が我が国に伝えられ、平安時代に疫病が天下に流行した際に、 京都祇園の牛頭天王を祀りて霊験あり国内に祇園社が多く建立され、人々から親しまれる。紀三井寺にも古くより祇園社があり、悪病退散、諸人の幸福を願い復興した。楼門参道から僅かばかりの石段を登った先に朱塗りの楼門。そこから境内まで一直線に石段が続きます、その数231段と云われています。楼門までの石段はそれに含まれてはいません。楼門の左手に、閻魔大王像がこちらを睨んでいます。西国三十三所開創伝説の中で閻魔大王は、病で冥土の入口にやってきた長谷寺の徳道上人に、三十三所巡りをすることは滅罪の功徳がある、これを広めて巡礼によって民の罪を減じるように諭したとされ、上人を現世に送り返したと云われます。現在の三十三所巡りは、この閻魔大王と徳道上人により開創されたと云ってもいい。楼門の仁王像。作者等の詳細は調べきれていません。室町時代末期の1509年(永正6)に建立され、1559年(永禄2)に修理の手が入れられた。その後も幾度か修理を受け、現在の姿を保っています。瓦葺の入母屋造の建物で、楼門一層に扉はなく常時開け放たれています。二層は高欄付きの縁が設けられた通路など、安土桃山時代の様式が見られます。結縁坂楼門をくぐると目の前に名草山中腹の境内に繋がる231段の階段が現れる。この坂には謂れがあり、その昔、まだ貧しかった紀の国屋文左衛門の若かりし頃、母を背負いこの石段を登り観音様にお参りしていた。ある日、その日もまた母を背負い登っている途中で草履の鼻緒が切れてしまったという。困り果てていたところ、偶然通りかかった玉津島神社の宮司の娘「おかよ」が、鼻緒をすげ替え助けてくれたそうです。それが縁で二人は結ばれ、ここから紀の国屋文左衛門は大成していくことになります。そうしたことから結縁坂と称され、縁結びのパワースポットになっているようです。その結縁坂の石段の途中には善寿院、松樹院、宝蔵院、滝本院、穀屋寺、普門院や寺の名の所以でもある三つの井戸「三井水」等があり、それらを訪れて行けば、231段たいしたことはない?但し斜度はそこそこあり、とてもじゃないが母を背負って登るのは並大抵ではない。普門院七鈴観音と呼ばれる「十一面観世音菩薩像」が祀られている。切妻瓦葺の小さな建物の穀屋寺。地蔵菩薩と聖徳太子を祀ります。穀屋寺紙本著色紀三井寺縁起絵図の解説亡者を裁く10人の王を描いた「十王図」10枚の絵図があり、閻羅王、都市王、五道転輪王の3幅を所蔵し、それらは市の文化財に指定されているそうです。この辺りから見た楼門全景。境内までは高く積まれた石垣と石段が続きます。瀧本院船で生業をなす方々からは航海の安全にご利益があり崇められていますが諸々の災い除けとして広く崇められているようです。波切不動と清浄水の御朱印はこちらで。白龍大明神後方に聳える樹は護国院開基以来の「王同樹」、「おうどうじゅ」とは聞きなれないけれど、楠科のタブノキだそうだ。為光上人が竜宮へ説法に行かれ、龍神からお礼に贈られた七種の宝物の内の一つとされ、この木の葉を煎じて飲んだり、身に着けることで病から守っていただける薬となると云われる霊木です。三井水(写真は清浄水)日本名水百選に選ばれている「清浄水・吉祥水・楊柳水」、名草山から湧き出る自然からの恵みです。石段脇には不動明王や地蔵尊、石塔などが安置されています。松樹院瓦葺の入母屋造りで身代わり大師の御朱印はこちらです。宝蔵院内陣右には真っ赤な炎を背にした不動明王が印象に残ります。ここから楼門方向の眺め、見下ろすように急峻な石段です、手摺は持った方が賢明です。結縁坂を登り切って最初に現れるのが六角堂。1751年(寛延4)の建立、内陣には西国三十三所観音霊場の本尊が安置されていて、ここにお参りすることで西国札所を巡り終えたのと同じ功徳があるそうです。境内に車がありますが、裏門からここまで車で上ってくることができ、背負うことなく本堂まで訪れる事が出来ます、もちろん有料。鐘楼1588年(天正16)に再建された瓦葺で袴腰が付けられた優美な佇まいをしています。新仏殿2006年に建立された鉄筋コンクリート造りの新しい建物、瓦葺の宝形造で葺露盤宝珠が乗る。境内伽藍にあって新仏殿だけは妙に浮いている感が漂う。2008年に落慶された木像立像仏では日本一とされる大千手十一面観世音菩薩像。高さは12㍍あるという。新仏殿からは和歌浦湾の遠望がきき、遥か先には和歌山城も見渡せます。幸せ地蔵尊、賽銭皿に向け賽銭を投げ入れ、その場所により運勢を占うものだそうです。これがなかなか入らない、この場合は小吉の様ですが、それ以上に入らなかったショックが大きい。新仏殿と向かい合うように本殿が鎮座します。右手に幸福観音その先に大師堂と続きます。大師堂瓦葺の宝形造りで堂内を窺うも、窓の樹脂が光を反射してよく見通せませんでした。大樟龍王市指定天然記念物のクスノキは樹齢は300年とも400年ともいわれ、社を収めた覆い屋はその幹に寄り添うように建てられています。大きな樹には何かがいるものです。多宝塔1449年(文安6)の建立された瓦葺のもので、1441年(嘉吉元年)に倒壊した塔に代わって再建されたという。境内にあって鮮やかな朱の多宝塔は視線を引き付けます。春子稲荷 改修中だった三社権現の左に鎮座する稲荷。その昔信長、秀吉の軍勢が粉河寺などを焼き払い、紀三井寺にも迫りつつあった。当時紀三井寺観音堂に仕えていた春子という娘が須弥壇から白狐の姿に化身し、軍勢の先鋒の羽柴秀長から焼き討ち禁制の書状をとりつけ、紀三井寺と寺町を戦火から救った伝承があるという。それ以降、人々が厄除けとして祀ったのが春子稲荷の起こりだと云われます。本殿全景。本殿は1759年(宝歴9)に建立された瓦葺の入母屋造りで正面に唐破風と千鳥破風が施されています。手水舎は瓦葺の宝形造り、手水舎から先に進むと視界が一気に開けふもとの街並みと和歌浦湾が一望できる。本殿の唐破風と千鳥破風。下は本殿正面から外陣、内陣方向の眺め。秘仏特別公開期間でありながら、やはり禍の影響もあり人影は少ない。本殿外陣の右側の賓頭廬尊者。「びんずるさん」で知られる「なで仏」で、心や体に病や悩みを抱える方は、自分のその患部とびんずるさんの同じ場所を交互に撫でながら祈願することで治癒するという。時にこうしてびんずるさんとお目にかかるけれど、こちらのびんずるさんは目を見開き眼光鋭い表情をしています。気軽に撫でさせていただけますが、江戸時代のもので滑らかな表面は多くの悩みを一手に引き受けてきた証です。紀三井寺本尊は十一面観世音菩薩で秘仏とされ50年に一度しかお目にかかれません。その他にも秘仏の千手観世音菩薩や賓頭廬尊者もその一つ。今年はその秘仏が公開される年にあたり、自分もかみさんも間違っても次に見る機会はない。こうして見る本殿は見た目に派手さはないけれど、木組みの緻密さ、天井に描かれた絵などは視線を引き付けるものがあります。善壽院本堂から左の麓に下り裏門に通じる道筋に鎮座します。外観を取り忘れたため内陣のみの写真となります。本殿の左の道を下り切ると裏門に至ります。切妻屋根で瓦葺の裏門が趣があり、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。現在は門の出口の石段の先が車道となり、手摺もある事から事実上通れません。本殿のある境内へ車で登るにはこの車道を上っていく事になります。この裏門を訪れる方は少ないようですが、時間があれば立ち寄ってみるのもいいかもしれない。建立など詳細は分からないけれど、木鼻の彫飾りや透かし彫りは、もっと見てもらってもいいものだと思います。上は裏門と車道を挟んで左で見かけた覆屋。中には白い小さな狐が守護する稲荷社の他にも社が祀られている。「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん」いつ見てもお寺の御朱印の文字は達筆だ。2020/06/26紀三井寺 山号 / 紀三井山院号 / 護国院寺号 / 金剛宝寺 創建 / 770年(宝亀元年)、西国三十三所第2番札所である。 本尊 / 十一面観世音菩薩住所 / 和歌山県和歌山市紀三井寺1201関連記事 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳
2020.08.15
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春日井市中切町2「八幡神社」嘗ての下街道から少し南を走る県道30号線(関田名古屋)、中切町2の交差点から春日井方向に向かった県道沿いに中切の「八幡神社」が鎮座します。駐車場はありませんが、県道を走っていると玉垣と常夜灯が視界に入るはずです。この辺りは八幡神社が多い場所かもしれません。上の地図は左が1891年(明治24)と右がほぼ現在の当地、この地図ではどちらも中切の「八幡神社」の鳥居は記されていません。ここで双方に記されている鳥居(青マーカー)は下条町の八幡社のもので、中切の「八幡神社」は赤の位置になります。中切の「八幡神社」の前を走る県道30号線から春日井方向の眺め。この先に下条町の八幡社、歩いても数分の距離。社頭を守護する狛犬、全体はいい感じに黒ずんでいます。子持ちの吽形は子が毬を持ったもの。狛犬の先に鳥居はなく、行き止まり。参道はそこから右に続き、そこに鳥居建てられています。正面に拝殿と左に相殿。鳥居の右に二脚のコンクリート製の手水舎。拝殿切妻造の平入拝殿は近年改修の手が入っているようでコンクリート造り。拝殿に掲げられた八幡神社の額と拝殿内。境内左方向から相殿と社殿全景の眺め。拝殿同様に幣殿、本殿は切妻平入のコンクリート造りで、5本の鰹木と外削ぎの千木が施されたもの。相殿左から山神社、秋葉社、水天宮社、津島社、熱田社、神明社が祀られています。相殿の左奥、石が組まれこんもり盛られた一画に小さな社があります、この佇まいは…。社は御嶽社、こちらもコンクリート造り、同時期に伽藍全体に手が入ってるようです。神社は綺麗に手入れされ、社殿の新しさもあり訪れて気持ちのいい印象を受ける。結構な交通量の県道沿いにありながら、周囲の樹々が車の騒音を緩和しているのか意外に静かな境内。拝殿右の社記「鎮座地 春日井市中切町北前4586番地社名 八幡神社玉依姫命 誉田別命 気長足姫命合祀 天照大神 日本武尊沿革 当神は昭和14年4月30日改築工事、上棟祭を行昭和54年11月に本殿、拝殿、手水舎並に社務所を鉄筋コンクリート建とし改築竣工す。」ここには1939年(昭和14)改築とある事から、以前から姿は違うものの鎮座していたのかもしれません。それ以上の内容はわかりませんでした。田畑の広がる一帯から急速に宅地化されていく過程で、相殿の社などはひょっとすると落ち着ける場所を失い纏められたものなのかも知れません。拝殿から鳥居方向。鳥居には昭和15年と記されています。境内から黒ずみ君、県道30号線は目の前です。創建は分からなかったけれど、嘗ての中切村、現在の中切町の氏神様が八幡神社。中切町2「八幡神社」創建 / 不明祭神 / 玉依姫命 誉田別命 気長足姫命合祀 / 天照大神 日本武尊住所 / 春日井市中切町2公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、南へ徒歩30分程関連記事 / 春日井市下条町 八幡社
2020.08.12
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今年も12~13日をピークにペルセウス座流星群が見られそうです雲がなければ12日の22時以降から深夜がチャンスかもしれないひとときは無心になってゆっくりと夜空を眺めてみてはどうだろう星に願いを
2020.08.11
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名古屋市東区芳野2名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅から高架沿いに東に10分程歩き、信号を右に曲がると市バス「杉村町」停があります「社宮司神社」はこのバス停の前に鎮座しています。名鉄瀬戸線だとこの辺りは「尼ケ坂」駅と「森下」駅の中間に位置し、どちらから来ても大差はない。名鉄瀬戸線の前進は1905年に開通した瀬戸電機鉄道で1939年に名鉄(名古屋鉄道)と合併し現在に至っています。かつてはここに「社宮祠」駅があり、駅名にあるように社宮司神社へのアクセスは非常に良かった。往時のこの駅は参拝客の利用が見込めたのだろう。その駅も合併から5年ほどして廃駅の道を辿ったようです。現在の様に高架となったのは1990年と比較的日が浅い。最寄り駅ができるほどだった「社宮司神社」さぞかし簡単にわかるだろうと高を括っていた。ところが実際は義市稲荷を過ぎても神社らしき建物はなく、道行く方もいなかったので聞くに聞けず何度も行ったり来たり。周囲は住宅ばかりでひょっとして社くらいは見えないか見渡してみる。バス停の前のこんもり茂った木々の隙間を覗くと社の扉らしきものが。鳥居も社号標もなく、民家の杜の中に社が鎮座していた。呼び鈴を鳴らしてもいいのだろうが、こうして訪れる側は初めてかも知れないが、住んでいる方にすれば正直「またかい?」と感じるはず。賽銭を入れ、チャチャッと参拝させて頂いて引き下がる事に。戻る際に車の陰に隠れるように石標があり、狭くて写真に納められなかったけれど見せて頂きました。社号標と思いきや 「伊斯許理度売命」と彫られていた。「いしこりどめのみこと」は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神、八咫鏡(やたのかがみ)を作った天糠戸(めのぬかど)の子とされる神。古事記では伊斯許理度売命、日本書紀には石凝姥命や石凝戸邊命と表記される、鉄鋼、金物業の守護神で延命長寿にもご利益があるという。岩戸隠れでは、天照大御神が引きこもってしまい、それにより世の中は暗に包まれてしまう。困った八百万の神々、引きこもりの天照を岩戸から外に連れ出そうと闇の中で天宇受売命の妖艶な踊りを始め賑やかに宴会を始め、天照の気を引こうと画策した。顔を出した天照に八咫鏡(やたのかがみ)を差し出し、それに興味を抱いて顔を見せた天照を手力男命が一気に引っ張り出し、世の中は再び明るさを取り戻した。世の中に光を取り戻すための重要なアイテムが八咫鏡。以前掲載した「日前神宮、國懸神宮」の御神体「日像鏡、日矛鏡」は八咫鏡に先立って鋳造されたものとされるそうだ。社宮司神社の創建は不明。写真は社宮司神社からひと区画ほど南の義市稲荷。この稲荷はここに屋敷を構えた名古屋藩付家老の竹腰正信の屋敷に祭祀されたのが始まりで、社宮司神社は屋敷の東北の鬼門に建てられたのではないかという。当時をイメージさせる古図はないものか、探して見たけれど探しきれませんでした。上は瀬戸電機鉄道時代の周辺と現在ですが、大正時代の当時ですらどの程度の伽藍だったのか、社地も特定できませんでした。今は民家の庭の奥に鎮座する形ですが、現在よりは社地は大きかったと思われます。もし鬼門として鎮座されたものであれば江戸時代まで遡る由緒ある神社。社宮司神社 創建 / 不明祭神 / 伊斯許理度売命住所 / 名古屋市東区芳野2公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅から東に10分関連記事 / 「日前神宮、國懸神宮」 義市稲荷社
2020.08.10
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東京都中央区日本橋桜が待ち遠しい時期でもあり、COVID19の足音が忍び寄ってきたころ、かみさんと日本橋を訪れた。仕事で訪れ、ここを通りかかっても、立ち止まって景色を眺める事などあまりなかった。空を覆うように首都高が伸び、周囲はビルばかりで殺伐とした人工的な風景と色合いの広がる世界は、立ち止まる事より、とっと帰ろうとしか思えなかった。かみさん主催「おのぼりさんツアー」の目的地の中に日本橋近くでおでんを食べるために改めて日本橋を眺めてみた。首都高につながれてそそり立つ柱。「道路元標地点」と鋳印された柱は、家康が各地を結ぶ目的から整備を進めた五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)、ここ日本橋は1604年(慶長9)にそれらの起点に定められた。二本の高速道路の高架に連結するように脚が付けられ、中央から柱が上に伸びています。 日本橋の親柱の「麒麟」かみさんは東野圭吾の大ファン、ここに来たら「麒麟」は撮っておかなきゃいけないと教えられ一枚。「麒麟の翼」が映画化された時にこの「麒麟」像が登場したようです。翼が付けられた麒麟、躍動感があり凛々しい姿です。東京市の繁栄を願い麒麟が設置されたようですが、翼が付けられた麒麟の姿はここから世界に羽ばたこうとする願いもあるのかもしれない。明治に入り、橋の中央が全国の国道の起点と定められ、佐藤栄作により文字の刻まれたブロンズ製の元標が橋の中央の車道に埋め込まれています、車道のため実物は見れませんが橋を渡った橋詰にそのレプリカがあります。ここから西へ国道1号線(旧東海道)が東北に国道4号線(日光街道、奥州街道)が伸びていきます。国道6号線(水戸街道)、国道14号線(千葉街道)、国道15号線、国道17号線(中山道)、国道20号線(甲州街道)など、今も昔も要となる道路の起点は日本橋から始まっています。上は江戸名所図会の日本橋の光景、日本橋川を行き交う船、そして人。船は車に代わっても人の往来の多さは今も変わらないようです。橋の手前に中央区教育委員会の解説板があり、それによれば国指定重要文化財「日本橋」日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。 幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重(歌川広重)の錦絵でも知られています。現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。今の時代にあって文化財にも指定されない古いものは取り壊され、無機質な新しいものに変えられていくそうした風潮には寂しいものがある。空を覆う高速は東京が羽ばたいた証なんだろうが・・・・・2020/2/20日本橋住所 / 東京都中央区日本橋室町1-1
2020.08.08
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おーい、どこにいくんだぁ?見ざる・言わざる・聞かざる、なんですか?
2020.08.07
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散歩で城山八幡宮の前を通りかかった。夏の風物詩ともいえる茅輪くぐりの神事ですが、今の状況でどうかなと思っていた。社頭の前を敢えて通ったのもそんなこともあってかもしれません。社頭や石段には奉納された幟や提灯が並んでいました。かやなどで作られた大きな輪、そこをくぐり右にひと回り、次は左をひと回り、最後に真ん中を通り抜ける、無病息災、諸難消除、疫病退散、健康長寿を願う夏の神事。夏が来たんだねと感じさせてくれる。禍に負ける事無く開催されているようですが、調べて見ると今年は例年とは多少違うようです。輪くぐり作法も今年は真っすぐにくぐり抜けるだけだったり、神事に合わせ行われる踊りも中止。なにより露店が出ない。子供の頃はお祭と聞くと小銭を握りしめ露店目当てに出かけたもので、夏休みで帰省した悪友にも偶然再開できたりとお祭はそうした繋がりの場でもある。祭りには少し寂しい気がしないでもないけれど、この禍の最中ではそれも当然の流れだ。今年は悉く行事の自粛や中止が相次いできた、それを生業とする事業者にとって影響は計り知れない。イカ焼きのおいしさや生き物を飼うきっかけを作ってくれた露店が消えない世の中であってほしい。社頭の城山城址解説、麒麟が来るの舞台の一つでもあります。城山八幡宮の茅輪神事は7月15日(水)~8月16日(日)まで催されているようです。かみさん誘ってくぐりにこようかな。関連記事 / 城山八幡宮
2020.08.06
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説明のない数値の読み上げで対策も示されないままの先行き不安ばかりの昨今。昨晩はかみさんと二人で「きぼう」が光り輝いて通過していくのを見ていました。写真を撮るのを忘れ、北から東に音もなく通過していく光景が見られました。今夜も短いながら見られそうです、我が家からは方向が悪く見られませんが間もなくISSが通過します。きぼうとともに。
2020.08.04
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和歌山県和歌山市伊太祈曽『伊太祈曽神社』の社頭を目の前にしてローカル線の遮断機が下りるとはなんて不幸な、運転主は内心そう思っていた。踏切の左に「わかやま電鉄貴志川線」の「伊太祈曽」駅があり神社の社名がそのまま駅名になっている。姿を現したのは電車を擬人化したキャラクターが描かれたラビング車両。このキャラクター「チャギントン」と云うらしい、トーマスくらいはついていけるが、チャギントンは全くついていけない・・・・。白い車両に赤いキャラが描かれなかなかかわいい、停車中に思わず一枚。なんでも、わかやま電鉄の親会社が岡山電気軌道で、親会社がチャギントンのラビング車両を展開し、そのPRのため、子会社のわかやま電鉄でもこの貴志川線にラッピング車両を走らせているとか。以外とラッキーな出逢いだったのかもしれない。踏切を超え、県道9号線を南進する、和田川に架かる赤い常盤橋を越えると紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」の一ノ鳥居、右に社号標。駐車場は参道を進んだ右に広大な駐車場あります。なので社頭辺りはスルーすることになります。 駐車場に車を停め、一ノ鳥居まで戻ってきました。鳥居前の常夜灯は安永時代(1772~1781)の物。左に紀伊國一之宮伊太祈曽神社の由緒書き。祭神は木の神、五十猛命(いたけるのみこと)で、国土緑化の神ともされる。妹神の大屋都比賣命(おおやつひめのみこと) 、都麻津比賣命(つまつひめのみこと)と共に全国の山々に木を植えて緑豊かな国土を造られた神。脇殿にはその妹神が祀られています。また、浮船を造り漁の技術を教えた事から漁業関係者の崇敬も篤いそうだ。ここは五十猛命を祀る全国の神社の総社・一宮で林業・漁業のみならず厄除け祈願に訪れる方も多いようです。社頭から一ノ鳥居の眺め。訪れたのが2020年6月末だった事から天気は期待していなかったが、雲は多いものの汗ばむ陽気。鳥居をくぐったすぐ左に櫛磐間戸神社 。櫛磐間戸命、豊磐間戸命を祀り、神社の入口の守護神で、親しみを込め「門神さん」として崇敬されているそうです。 一ノ鳥居から緩やかに上る参道を進む。左手の小高い森は「伊太祁曾古墳」で丘の頂に続く道の入口に「ときわ山古墳」の看板。古墳を分断するように切通があらわれます。古墳まで20㍍とある。寄り道したいが、ここは神社に参拝し帰りに寄ろう。ニノ鳥居はその右に建つ。ニノ鳥居から拝殿の眺め。ここで狛犬に出逢う。ニノ鳥居で守護する柔らかい質感のある石で彫られた狛犬。赤い橋の先に境内が広がり、城壁の様に積まれた石垣の上に拝殿が建っている。橋を渡った左に手水舎。訪れた当時はまだ手水は開かれていました。大きな杉や檜を背にして建つ割拝殿。外観はまるで城のイメージ。平らな石を多用し乱積みされていながら、長短交互に積まれた石段脇の角石など遠目から見ても綺麗な石垣で、石材も花崗岩に比べると少し青味のあるものが使われ温かみを感じる。割拝殿の石段を上ると正面に本殿。本殿域は檜皮葺の透塀に囲まれ、本殿と脇殿に其々に拝所がある。拝所から本殿域を眺める。右脇殿と本殿共に檜皮葺の流造のようで3本の鰹木と外削ぎの千木が見える。拝殿全景、内部にはチェーンソーで削り出された干支の置物や、「木俣くぐり」と呼ばれる大きな切株があり、その下をくぐる事で厄払いができると云う。本殿右の寄棟の建物。すぐ脇に本殿域に繋がる門がある神饌所か?額もなく用途は不明。一番右の建物、なんとなくお寺の宿坊のような佇まい、有功殿と額はあるがこちらも用途は不明。神宮遥拝所、冠木鳥居の先にはお伊勢さんという事です。さて右脇殿から参拝していきます。都麻津比賣命(つまつひめのみこと)を祀る社。本殿。五十猛命(いたけるのみこと)を祀り、平成に入り手が掛けらています。手前の小さな狛犬はその時に奉納されたものなのか新しいものに見えます。左脇殿は屋都比賣命(おおやつひめのみこと)が祀られる。蛭子神社。境内左にある切妻平入の社、社の左に「おさる石」と呼ばれる霊石が安置されています。この石を撫でれば首から上の病に霊験あらたかとされるそうです。右には木彫りの龍が安置されている。蛭子神社は明治の合祀令により、伊太祁曾神社の氏子区域内で祀られていた産土神をここに合祀したもの。二十二の神社がそれぞれの社名で祀られている。左脇拝殿の左に気生神社。伊太祁曾神社の祭神である五十猛命の荒魂を祀った摂社がある。荒魂は神の荒々しい側面の荒ぶる魂である。昔の映画「大魔神」優しい姿から鬼の様な形相になり悪を懲らしめたあの状態。和魂はその逆で優しく平和的な側面の魂で本殿にはこの和魂が祀られている。こうした側面は誰しも持っていますよね。我が家のかみさんの荒魂が現れると近付き難く、和魂に戻るには頭を垂れ、ひたすら拝むしかない。当然禍の元は自分にある。このあたりは和歌山県の南東にあたり、周囲を山で囲まれた所謂盆地で山東盆地と呼ばれる緑が残る田園地帯で伊太祁曾神社はその西の丘陵地に鎮座します。旧称は山東宮と呼ばれた紀伊國一之宮で社伝によれば古くは「日前宮」鎮座地に祀られていたとされる。垂仁天皇16年に日前神・国懸神を同所で祀ることになり、その地を明け渡したとされ、その際、現在の鎮座地近くの「亥の杜」に遷座、和銅6年(713年)に現在地に遷座したとされる。杉や檜が取り囲む静かなこの空間、雑念まみれの自分の気持ちが妙に浄化されていくような気が。割拝殿から渡廊で続く常盤殿左の石垣脇に神明鳥居が建っています。切通の先は水の神さまと井戸の神さまをお祀りする御井社に続く。鳥居からは50㍍程下った左に鎮座しています。本殿の建つ頂の裏斜面を下り切ったあたり、ここから本殿は見上げる程の高低差があります。御井社の前の井戸は「いのちの水」と呼ばれ、今も枯れる事無く水が湧いています。 「いのちの水」飲むと活力を得ると伝えられ、飲料水や料理に使うため、汲みに来られるそうだ。また、病にかかった人は元気が蘇る霊力を持つと信じられているそうです。社に向かい手を合わせた後に「いのちの水」を頂く作法です。御井社祭神は彌都波能売神(みずはのめのか)、御井神(みいのかみ)を祀ります。祇園神社御井社を後に鳥居まで戻り更に左に向かうと石段の先に祇園神社の明神鳥居があります。ここは石段を登ります。石段途中の左に注連縄が張られた磐座がある。解説によれば「須佐之男神と五十猛神は高天原から天降る時、新羅(韓国)の曾尸茂梨(そしもり)に降り立ちますが「この国には居たくない」として船を造り東に渡り出雲の簸川上の鳥上峯に至ります。後に須佐之男神は大蛇を退治、五十猛神は妹神と共に日本全国に木を植えて廻り全て青山となした。日本書紀には五十猛神はその功績から有功之神と称えられ紀伊國にお鎮りになった。この岩は奥出雲の鳥上峯(船通山)の磐座で、彼の地を拝む縁とするため祇園神社の社前に祀られたもの」当初降り立った曾尸茂梨は今も定かではないようです。その右の石段の先が祇園神社。樹々に囲まれた小高い丘の頂に鎮座する祇園神社。ここも何か特別な空気が漂う空間です。祭神は五十猛命の父神である須佐之男命、天照大神、埴安姫神(はにやすひめのかみ)が祀られ、神社合祀令により氏子区域内に祀られていた祇園社四社(塩ノ谷、明王子、山東中、奥須佐)も1902年に合祀されている。流造の社殿は傷みもない、平成に入り手が掛けられたようです。大きめの社とはいえ、多くの神が収まるには多少三密気味か?賑やかで逆にいいか?常盤殿参拝者駐車場から割拝殿方向に進むと最初に目につく建物。和歌山県では結婚式に餅撒きを行うものらしく、ここの二階から訪れた参列に幸せのお裾分けを行うようです。緑豊かな水田地帯、小高い山に鎮座する紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」、日常の雑念から解き放ってくれる、静かで落ち着いた佇まいの神社。紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」 祭神 / 五十猛命(いたけるのみこと)左脇殿 / 大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)右脇殿 / 都麻津比賣命(つまつひめのみこと)創建 / 和銅6年(713年)境内社 / 櫛磐間戸神社 (櫛磐間戸命、豊磐間戸命)、蛭子神社、気生神社(五十猛命荒魂)、御井社(都波能売神、御井神)、祇園神社(須佐之男命、天照大神、埴安姫神、祇園社四社)住所 / 和歌山県和歌山市伊太祈曽関連記事 / 『紀伊國一之宮 日前神宮・國懸神宮』 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳 公共交通機関アクセス / JR大阪駅から紀州路快速「和歌山」駅下車→和歌山電鐵貴志川線「伊太祈曽」駅で下車
2020.08.03
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東区白壁2 東にマンション、西に高校、周囲は閑静な住宅街の続く白壁の街に鎮座する 七尾神社。社頭入口の神社解説板、ここは東区の史跡散策路の一つになつているようです。「亀尾天満宮、七尾天満、七尾天神とも呼ばれ、菅原道真を祭神とする。1501~04年(文亀年中)、七尾の亀が道真の木像をここに運んだという伝説があり、社名の由来となっている。1504~21年(永生年中)社殿が造営された。桜天神と共に学問の神さまとして崇敬が厚い。1909年(明治42)7月の火災で木像、その他宝物を焼失した。 名古屋市教育委員会」・・・・・とあります、創建は那古野城築城以前ということだ。尾張名所図解を開いてみる、七尾天神として当時の様子が描かれていた。周囲は木々が生い茂るだけの寂しい環境の中に妻入り拝殿と本殿があり、右には稲荷、もう一つ社が描かれている。七尾神社社頭全景。尾張名所図解で描かれた当時と比べ伽藍は随分とこぢんまりとしている。1872年(明治5)に七尾天神から現在の七尾神社に名を改め、第二次世界大戦では名古屋城の近くでもあり、空襲により伽藍も宝物も焼かれてしまい、その後に入って再建されたものが現在の姿。境内左に手水舎、参道石畳の先に神明鳥居と狛犬、臥せ牛があり、その先が拝殿となっています。手水舎全景。自然石の手水鉢に龍がいます。その後方には瓢箪型の小さな池があります。弁天様でも祀られているのかと思いきや、どうやら違うようです。七尾の亀小池の中央に亀の象、その尻尾は七つに割れています。この亀の甲羅に七度水を掛けて願を掛けると願いは叶うとされ、合格祈願、厄除け、生育祈願にご利益があるとされる。この七尾の亀については『尾張名所図会』にも描かれていました。そこには「七尾天神出現の図」として七尾の亀が背中に道真像を乗せ、修行僧と出逢うシーンが描かれています。 七尾天満宮亀尾山永正寺として以下の様に記されている。「志水の西、成瀬家の中屋敷の内にあり。真言宗長久寺、永正年中の建立にして天満宮社僧なり、菅神の霊像は文亀年中七尾ある亀に乗り給ひて、此側なる山林の石上に出現ありしかば、永正改元の頃社を建て安置せしよし。当寺縁起に見えたり、本地十一面観音は行基の作・・・・・」とある。創建時は真言宗の寺で亀尾山永正寺と称し、江戸前期は成瀬家の祈願所であったようです。では永正寺はどうしたというと、現在周辺に寺はなく神仏分離により廃寺となり七尾天神社のみが残ったのかもしれない。鳥居から先の境内。街中にあって短いけれど真っすぐに続く石畳は気持ちいい。周囲のマンションに囲まれ、樹々が少ない境内に切妻のシャープな拝殿が佇む姿に違和感はない。右手に絵馬掛けと小さな鳥居が見えます。参道の狛犬。白御影石で立耳の見慣れた姿ではなく、砂岩から彫られた垂れ耳で日焼けしたねりで、質感が温かくフォルムが滑らかで好みの姿です。次は伏せ牛(奉納大正14年)。道真と云えば彼らはつきものです。体調がすぐれなければその部分を撫でる、しっかり撫でてお参りすれば願いは叶う。もちろん努力も求められる・・・・・賽銭の金額で彼らは忖度されない、頑張る姿を彼らは見ている。軒下に飾られた奉納絵馬と木うそ。道真と鷽(うそ)はつきもので、諸説あるけれど「菅原道真が蜂の大群に襲われた時、鷽の群れが蜂を食べ尽くして道真を救った」とか言われ、天神社や天満社では嘘が真になるという嘘変え神事が行われるようになったと云われます。また、狛鷽もあるようで、この禍が落ち着いた暁には尋ねて見たいものです。拝殿内の眺め。梅の紋が咲き誇っています。拝殿右に梅紋の入った賽銭箱。提灯には筆塚社とあり、その先に筆の形の石柱が建っている。右には皇居遥拝所の石標。なのでこちらが東になる、まさか西という事はないだろう。最近地下鉄から地上に出たり、細く入り組んだ道を歩いていると方向感覚が狂う時がある。まともに太陽を拝んでいない事もあるのだろう、梅雨の間はコンパスが離せなくなってきました。筆塚の奥から本殿は見られますが、本殿裏手の北側の小道に回り込むと内削ぎの千木と鰹木が飾られた神明造の本殿を見ることができます。境内右手の紫陽花の陰に古い手水鉢が残されていた、年代は見ていないけれど「七尾天・・神?」と推測できます、天神社になる以前に使われていたものだろう。拝殿から社頭の眺め。今はすっかり景観も変わってしまったけれど、道真を載せた七尾の亀は今も健在。七尾神社創建 / 1504~21年(永生年中) 祭神 / 菅原道真 住所 / 名古屋市東区白壁2-28-19公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「市役所」駅から北方向へ徒歩約15分程
2020.08.01
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