倉山氏は本書のあちこちで言葉を正確に使うべきだというような主張をされている。例えば「日本の歴史学者は国際法で定義された用語を無視…(中略)…粗雑極まりない言葉の使い方をするのです。」(p.82)、「侵略」とは、国際法用語です(p.155)、 「中国五千年」は嘘だとか、NationとEthnic(group)が云々(p.58参照) など。 にもかかわらず本書では以下の文が登場する。
秦は、二世皇帝の時代にはもう腐敗と動乱が始まり、 三世皇帝 の時代に始皇帝の死後三年で滅んだのは既述の通りです。 p.24
おそらく、始皇帝(初代皇帝)、胡亥(二世皇帝)の後を受けた 秦王 子嬰の事を言っている。他人に言葉の厳密な使用を求めながら自分の言葉には無頓着である。
倉山氏の 他人には過度な要求をする割には自分に甘い態度は次の箇所に良く現れている。
まじめに中国の政治史を書こうとしたら、モンゴル語や満州語ができなければ話になりません。しかし、日本で東洋史・中国史の権威とされる人のほとんどはモンゴル語や満州語ができません。 p.14
本書の他にも『嘘だらけの日韓近現代史』、『嘘だらけの日米近現代史』を書いている著者は、中国語、
モンゴル語、満州語はもちろん英語、ロシア語、
朝鮮語に極めて堪能なのだろうが残念ながら本書には引用・参考文献として
モンゴル語、満州語
文献は挙げられていない。本書のどこかに
モンゴル語、満州語
文献
を研究した痕跡があるのだろうか。さらに 倉山氏の漢文知識は疑問である
。
それ以前に中国の政治史を書こうとしたら本当にモンゴル語、満州語ができなければ話にならないのだろうか、中国の周辺民族の言語を理解しないといけないということならば中国国内の方言、少数民族の言葉、日本語、朝鮮語、チベット語、ベトナム語、ロシア語、その他諸々の言語と文字(参考: 敦煌文書
、 西域文明的發現
)に堪能にならなければならないということになってしまう。それだけ言語ができるならば歴史家ではなく比較言語学の専門家にでもなった方が良いだろう。
彼のいい加減な論はさらにつづく、
史実の三国時代は、人口の九割が減少、純粋な漢民族はこのときに消滅したといわれます。 p.41
民族はふつう,言語,出自,文化,宗教,領土などの諸要素の1つ,あるいは複数が共有されていることをもって定義される。しかし,民族ごとに諸要素の共有の度合いはさまざまであり,結局のところは,すべての事例に適用可能な客観的基準は存在せず,「われわれは1つの民族である」という主観的な意識が,民族の成立する拠り所であるとされている。
1、新王朝、成立2、功臣の粛清3、対外侵略戦争4、漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成5、閨閥、宦官、官僚など皇帝側近の跳梁6、秘密結社の乱立と農民反乱の全国化7、地方軍閥の中央進入8、1へ戻る
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