5世紀代には倭の五王による中国への遣使が行われ、若干の金石文が残されているものの、 文字文化の主な担い手は渡来人 であったと推測した。その後6世紀から7世紀前半の文字資料が希薄な時期を経て、7世紀半ば頃から段階的に倭(やまと)の言葉を文字で表す到達が成され、急速に文字文化が花開いたこということを書籍に依りながら 前回整理 した。
今回は私の想像も交えて文字普及までの状況を考えてみたい。
まず、倭に移入された漢字というものはそもそも漢語を書き表すための物であり、漢字で記す以上外国語である漢文で書くしか術が無かった。
大量に漢語が流入した今の日本語のように漢語に歩み寄った言葉でなく、やまと言葉の使い手であった当時の人々は文字修得と同時に外国語修得の困難に直面したはずである。そもそも「日本語」という言葉自体が外国語である。日(ニチ)本(ホン)語(ゴ)いずれも音である。本来は「ひのもとのことば」か「やまとことば」でなければならない。最初は訓読みが存在しないのはもちろん音読みのコンセンサスも無い。そうした困難な状況が改善されるには7世紀後半から8世紀前半の段階的な表記方法の確立の過程が不可欠であった。この長い過程で訓読みが確立し、正格漢文でない語順の漢文が生まれるに及んでやっと倭人が言葉を書き表す際のコンセンサスが出来上がった。この過程以前の倭人が文字を修得するというのは教材も満足にない中で外国語をマスターするような業だった筈だ。
私たちは大人になると読み書きできることは当然のことのように錯覚してしまう。しかし、我々は古代と比較して格段に優れた書写材料(ノート・鉛筆)、優れた印刷教材を用いるにもかかわらず、小・中学校の9年間非常に苦労しながら文字と作文を学習する。
我々は文字駆使能力の習得と維持において当時の人々に比べはるかに恵まれている。それは現代の日本が文字をベースとした文化であるということだ。
朝、目が覚めてから寝るまでカレンダー、時計、テレビのテロップ、標識、看板、広告、今読んでいるテキスト・・・。生まれたときから文字の大海に身を置いて生活している。
これだけ恵まれていながら、漢字テスト、作文で悪い点を取り、大人になって簡単な漢字を度忘れする。文字が生活空間に殆ど存在しなかった7世紀後半までの倭で文字を修得し、能力を維持するのがどれだけ困難か想像していただけるだろう。
文字が何らかの形で移入されればすぐ定着するように錯覚してしまうが、文字が普及していない地域に文字文化が定着するには現地人が文字を修得する必要があり実際は非常に困難なのではないか。これが文字自体が倭に移入されても7世紀後半まで定着しなかった原因だろう。
文字がそれ以後定着する7世紀後半から見られる「習書木簡」、「音義木簡」が、それ以前の時代に見られないということからこれは裏付けられる。
「 習書木簡 」とは木簡に文字を覚えるために書いた物である。私たちの漢字練習帳にあたる。「 音義木簡 」とは漢字の音や和訓または意味を 万葉仮名 で記した物である。私たちの字書に当たる。どちらも文字の学習に不可欠だ。私は常用漢字およそ2000文字を覚えるのに何枚のページ、プリントに漢字練習をしたのか?文字文化と呼べるようなものが成立していたとしたら、数は少ないとしても上記のような木簡が発見されて当然だと思われるが、これらの資料が現れるのは7世紀後半からなのである。つまり、それ以前には倭人が文字を学習した痕跡が見当たらないということだ。
参考文献
『 日本古代の文字と地方社会
』三上喜孝
『 日本語誕生の時代
』熊倉浩靖
竹沼(藤岡エリア)古墳前期土器編年 2020.02.11
鏑川上中流域古墳前期土器編年(暫定版)… 2019.10.26
鞘戸原Ⅰ・鞘戸原Ⅱ(中高瀬観音山エリア)… 2019.08.11
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