以後、この言葉が頭の片隅に引っ掛かっていたのだが、これは「信仰に目覚めた」という”信者”の言葉なのではないかと思うようになった。近年広がる熱狂的愛国主義は宗教と共通する性質を多分に持つのではなのではないか。
この憶測は自分ではしっくりきたので、同じようなことを考えている人もいるかと検索すると結構以前から言われていることらしくかなりヒットする。
ネトウヨという名の新興宗教 神体は人間、教義は憲法 安全を他人に託さずには生きれない人々 頼る先は安倍ちゃんか米か 他力本願は間抜けの信条
(軍荼利)
実際、信仰に目覚めるという表現は、多くの宗教の信者の人々が使用するものである。「信仰 体験談 めざめ」で検索するとそれらしきHPが多数ヒットする。
私の信仰の目覚め
(幸福の科学)
熱狂的愛国主義(ショーヴィニズム)と宗教の類似点を思いつくままに列挙してみる。
神(天皇)あるいは本尊(日本国家)の存在。
宗教施設(靖国神社)の存在。
熱心に布教活動(拡散)に励む。
信仰(国家)のために命をも投げ出すという献身。
教祖あるいは聖人・英雄・宗教的指導者の存在。
他の信仰に対して不寛容。
信仰に反する言説に聞く耳を持たない。
多くの新興宗教が超国家主義的主張を持っていたり、日本会議を構成するという親和性。
やはり宗教と熱狂的愛国主義は近似するものではないだろうか?というよりも熱狂的愛国主義は戦前の国家神道の焼き直しと考えたほうが良い。熱狂的愛国主義者の心理やその主義の興隆を分析するには宗教との比較類推が有効だろう。
宗教を手掛かりにおぢさんが解き明かしたいのは、なぜ熱狂的愛国主義者はその主義あるいは信仰に染まり、その信仰が広まっているのかという疑問である。
なぜ彼等は信仰を受け入れたのか?宗教とは人間に何を与えるものなのか。大雑把には以下のようなものを与えてくれるのではないだろうか。
宗教が救いをもたらすというのは疑問の余地がない。「苦しい時の神頼み」「信じる者は救われる」という言葉をあげるだけで十分だろう。魂の平安が得られるというのも祈りをささげたり読経や写経をすると落ち着くという話はよく聞く話だ。仲間との連帯感、生きがいについては先に挙げた幸福の科学のHP以外にも以下のHPが参考になるだろう。
生きがいを求めて
(真宗円谷派 円光寺)
信じる者は救われる!?宗教を信仰することによる効果が侮れない
(NAVERまとめ)
とりあえず熱狂的愛国主義者が救いや魂の平安が得られているのかは良く分からないが、仲間との連帯感、生きる意味を見出しているのは間違いないだろう。
仲間とともに中国・韓国・在日コリアンを嘲笑罵倒することにより強い一体感を感じている。また、自虐史観から先覚したものとして大衆を啓蒙していかなければならないという使命感が彼等に生きる意味を与えている。
熱狂的愛国主義に多くの人が取り憑かれたのはこの生きる意味を与えてくれるというのが大きかったのではないだろうか。
彼等は生きがいを求めて自分探しをしていた。数多の宗教的指導者(青山繁晴、桜井誠、田母神俊雄…etc)の教えに触れて中国・朝鮮・在日・売国奴という悪魔の存在を知る。
戦勝国史観から脱することができた自分はすぐれた人間であるという自覚が彼等にこの上ない優越感を与える。すぐれたものは他の者たちを教導してやらなければならない。彼等は布教活動に熱心に取り組む。生きがいを見つけようとして見つけるのは中々難しい。しかし、人のために自分は何かをしている、人のために役に立っているという感覚は人の心に非常に充実感をもたらす。
古谷氏は先の引用で「目覚めた」という言葉は自己にそれが内在しているということが示唆されている、としているが彼等にもともと信仰を受け入れる素地、つまり生きがいを求めているという条件あったから、教えに出会ったその時を境に生まれ変わったということではないだろうか。
今回はこれくらいにしておこう。また機会あったら検討してみたい。
関連して気になるのが、戦前の法華経や日蓮主義の高まりと軍国主義との結びつき、あるいは国家神道などである。
宗教というものが人間にとってどういうもので何を与えるものなのかということからじっくりと考えてみたい。おぢさんは新旧の聖書や中村元氏の竜樹は通読したことはあるが、宗教一般についての知識は乏しい。とりあえず気になる本。
ナショナリズムと宗教 (文春学藝ライブラリー)
愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか (集英社新書)
宗教とナショナリズム (SEKAISHISO SEMINAR)
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