天海大僧正

天海大僧正

天海と桜

東比叡山 寛永寺を開山した天海は、奈良の吉野のような桜名所にしようと考え、多くの桜を植えた。

当時は、上野の山、全体が境内で、庶民の入山は、桜の時期だけ許され

江戸庶民の最高の行楽となり、現在の花見となる。




天海の像

天海が住職をしていた長楽寺(群馬県)に、“円義”と伝わる像を、解体調査したところ

腹の中が空洞になっており、内部に「大僧正 天海」と書かれていた!



天海は、江戸を設計した中心人物

江戸そのものも、家康と天海が、城を置くべき土地を周知に選んだところから、始まり

江戸城を中心に宗教的な規則によって創建されたのだ。



江戸城と 江戸の建物の方角・位置関係

・寛永寺・・・江戸城の鬼門(北東)を守り、東の比叡山=東比叡山と呼ばれている。

・日枝神社は、江戸城を挟んで、寛永寺の反対側 江戸城の裏鬼門(南西)にある。

昔から、江戸城の守護を担っていた。

御社殿には、普通、狛犬がいるが・・・・猿いる。

都は、猿が守り、邪気をふせいでいる(京都御所・幸神社など)

鬼門と裏鬼門の説明
*鬼門   陰陽道で、最悪とされている北東方角のこと
*裏鬼門  鬼門の反対の南西方角。邪気が入りやすいとされていた。



江戸城と 大手町一丁目一番一号の謎

大手町一丁目一番一号には、平 将門の首塚がある。

関東に反乱をおこし、新王と名乗り、朝廷にとって、最も恐ろしい存在だった。

首塚は、将門が朝廷軍に打たれ、首が空を飛び、関東に戻った場所だと言われている。


江戸城の大手門(城の正門=玄関)の、門前に持ってきたので

平将門の首塚が「大手町一丁目一番一号」という住所になった。



神田明神
将門の体が奉ってある神田明神を江戸城の鬼門にうつした。
*神田とは、将門の胴体「体」が変化した地名。

将門の首塚&神田明神で、わかるように

天海は、天皇を封じこめ、天皇の力をおさえ

江戸庶民に、尊王心を持たせず、江戸を京都に変わる都市に設計した。



家康の死後

家康没の時、静岡は雨だった。

亡骸は、その夜のうちに、久能山にうつされ、梵舜の手により

当時人間を神にできるとされた「吉田神道」によって、奉りごとされた。

家康の墓は、真西に向いており、この線をのばしていくと

久能山(家康墓)→ 鳳来寺(家康の母が願をかけ、授かった所)→大樹寺(家康誕生の地・岡崎)→京都

この道は、太陽の道と言われ、春分・秋分の日は、この東西の線上を移動する。

西に沈み、東から、あらわれる太陽のように、東に祀ることで、神として、再生できるように願ったのだ。

梵舜の大役は、ここで終わった。



明神!? 権現!?

葬儀の後の梵舜、崇伝、天海、秀忠の話し合いは、有名である。

崇伝「遺言により、昨夜、久能山に葬りました。」

天海「いや、それは、間違いである!」

梵舜と崇伝「間違いとは、何じゃ!」

天海「昨夜のは、吉田神道。家康殿は、私に権現として祀るよう遺言された」

明神(みょうじん)とは、吉田神道で、人を神として祀つる。
権現(ごんげん)とは、 仏が神の姿であらわれる。

梵舜と崇伝「そんな話は、初耳である」

天海「豊国大明神として、祀った後、豊臣家は、どうなりましたかなあ」

話合いは、この発言によって、終止符が打たれた。

豊臣家は、家康の手で、滅亡していた。

こうして家康(亡骸)は、1年後、日光に行き、権現になったのだ。


なぜ、天海は、日光にうつしたのか?
久能山の神殿が、東西だったのに、日光の本殿・唐門・陽名門の配置はピッタリ南北になっている。
日光東照宮の本殿は、北を背にして、南向きに建てられ、江戸城の真北に位置している。

昔から、必ず都の北に建てられているものが、京都御所である。
昔から、宇宙の中心で、動かない北極星は、天地の星とされ、天皇が住む御所は、北に作られた。

日光東照宮も江戸の真北に位置し、本殿は北極星を背負っている。


久能山(静岡)参道から、拝殿、本殿の向きは、北東を指している。
これを伸ばすと

久能山(北東方角)→ 富士山(不死の象徴?) →  日光 と 繋がる

天海のしかけとは、久能山で神となった家康を、江戸の真北の日光にうつし
日本の中心に鎮座する最高神にし、天皇をも、超えるようとする意図があった。

日光東照宮は、秀忠が建てたが
後に、家光が 56万8000両(現在の400億円)をかけて、今の形に改装した。


家光と春日局と天海

天海が、住職をしていた川越の喜多院に江戸城、大奥家康誕生の間がある。
喜多院が火事で焼けた時、家光が江戸城大奥誕生の間を移築した。(春日局、化粧の間も移築されている)
家光にとって、天海は、かけがえのない存在だったのだ。

3人のことを家系図で、紹介していたが、天海=明智光秀のように、説明していた。

「春日局 由緒」によれば、乳母募集のお札を見て、応募したことになっているが
将軍の長男の乳母を一般から、募集するのも変なら
大おじを殺害した指揮官の娘を乳母をするのも、変・・・。

「松のさかへ ― 東照宮様 御文」によれば
秀忠公 御嫡男  竹千代君    御腹 春日局
*春日局は、家光の実母だと書かれている


春日局も家康も、天海を実父のように慕い、信頼していた。
天海の死後、家光の命令により、亡骸を運んだ葬列は、千人を超えた。(家康を日光に運んだ時と同じ規模)


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