the Fourth Avenue Cafё

第1章 足跡





――そして今日も訪れた。最悪な毎日が繰り返される日々、彼は嫌気が差していた。そして夢精と共に目覚めた。ここ最近になって、酷く鬱になることが多くなったと頭を垂れ、彼は重たい身体を起こし、便所へ行った。
春菜昭人は身支度をし、寝癖を整えて玄関を出た。父は行方知らず、母は夜にしか見たことがない――昼までいつも寝ていて、起こすとそれはそれで機嫌が悪く絡むのが面倒くさい。夜には何処かへ消えていく。
駅前のコンビニでおにぎりと紅茶だけを買い、食べながら学校へ登校した。暑苦しい野球部が今日も朝練から戻ってきていた。そして教室に入れば、白い目線を投げかけられ、席に着く。
誰も彼も高校二年生だってのに、授業は寝てるし、携帯電話弄ってるし――気づけば、もう高校二年生。そして春菜はバイトの金が入るといつものように野球部に腐臭のする便所へ呼び出される――ここでよく女子は犯される。それが拭き込んだ黄ばんだタオルのようにこの学校に長い間染みついたしきたりになっている。
春菜昭人はこんな毎日に嫌気が差していた。せめてもの刺激が欲しかった。ほんの小さなものでいい。今の彼にとってそれは地球が爆発するほどの衝撃になるのだから。尤も地球が爆発しようと今の彼にとってどうでも良いことだった。


「いってらっしゃい」不意に奥の部屋から声が聞こえてきた。玄関を開けたばかりの昭人の足は止まって、振り返った。扉は閉まったままだったが、その奥で母が煙草片手に新聞を読んでいるのは容易に想像できた。
「いってきます」彼は妙に恥ずかしい気持ちになりながら、言い残し家を出た。
今日は何か転機かもしれない――昭人はわくわくする気持ちの反面、不安と面倒くさいという気持ちがあった。
気づかない内に彼は早足になり、いつも通るコンビニに入らず、通り過ぎていた。
学校に着いたとき、野球部はまだ刈り上げた頭に汗を滲ませながら、練習に励んでいた。「随分早くついたな」彼は無意識に早足になっていることに気づいていなかった。
しかし教室に入れば、いつものように冷たい目で見られた。彼はいつものように無視して席に着き、一時間目の世界史――昭人が最も苦手とする教科だった――の用意を机に置き、読書を始めた。読書だけが昭人の唯一の楽しみといっても過言ではないほど、彼は本を読むと周りがどれほどうるさくしていようと集中できた。嫌いな野球部がほうきを振り回していようと、小汚い女子が化粧しながら、香水をふりまいていようとも。

白髪の交じった高齢の担任が教室へ入ってきた。「おい、座れ。朝から連絡あるから座れ」口調は厳しいが、案外優しいと生徒は甘く見ていた。
皆が座るのを待って、担任の上田がゆっくりと痰の詰まった声で言った。「はい、ええと、創立50年ということでね、前から言っていたと思うが――」昭人は息を飲んだ。もしかするとこれが転機かもしれない。
「――図書室の本を一掃し、新しい本に切り替えることにした」その瞬間、皆が席を立ち、悪態をつき、暴言を吐き散らした。同時に昭人も落胆した。期待した自分が恥ずかしく思えた。
読書好きの昭人とはいえ、さすがに図書室になど行ったことがなかった。それもそのはず、校舎の端に位置し、いつ開いているのかもわからない。それにそこに置いている本で興味を引かれるものなどあるはずがない。
「ということで、一時間目が始まるから席に着け」上田はブーイングを浴びながら、教室を出ていった。その後を引き継いだ世界史の授業は地獄だった。


放課後、残暑の残るグラウンドで野球部が汗を流し、練習しているのを春菜は冷めた目で眺めながら横を通過し、バスケットボール部が動くキュッキュッという音を聞きながら体育館の横も通り過ぎた。そして独りで沈黙に向かった先は図書室だった。何だか今日は妙だ。そうつくづく思いながらも彼は迷わず、そこへ歩いた。鞄を肩に提げ、ポケットに両手を突っ込み、俯いて歩いていった。
別の校舎に入り、その奥にある図書室に向かった。途中音楽室の横を通り、吹奏楽部の一人の女子と目が合ったが、すぐ反らした。単純に顔が気に食わなかっただけだ。
そして図書室の扉の前で止まり、ガラスの向こう側を覗いた。部屋全体が夕焼けに照らされ、橙色に染まっていた。叙情的とでもいうのだろうか、彼はそれに一瞬目を奪われた。すぐに我に返ったとき、奥の方――窓ガラスから辛うじて見えるところ――に誰かが座っていた。春菜は刺激が欲しかったのか、とても見たくなった。その衝動に駆られた。
汗の滲んだ手をズボンで拭い、ガラスに反射する自分を見て、髪を弄り、格好いい顔に決めてから、そっと取っ手を握り、扉を開けた。
その音にそこに座っていた人は昭人の方を見た。そして二人は目があった。一瞬気まずい雰囲気が流れた――たった2秒に過ぎないのに、それは5分にも感じた。
昭人はそこに座る女性に言葉を失い、息を飲んだ。今までに見たことがないような大人な、貴賓でそれでいて飾らず清楚な女性だった。髪が長く、それが本を読むのに邪魔らしく耳にかけていて――。夕日に照らされ、余計に優美に見えただけかもしれない。しかし、それでも春菜昭人にとって今までに体験したことのない様な刺激が脳天を通り過ぎた。
大人の穏やかな雰囲気をかもし出しているにも関わらず、昭人に向けた自然な笑みが幼く見え、何も言えなかった。冷静に見れば、学校の制服でもなければ、クラブのユニフォームでもない――教師か、それとも来賓客か。しかし今の昭人はそれを聞く勇気がなかった。彼には刺激が強すぎた。
「どうしたの、何か本でも探してる?」彼女は普通に立ち上がった。だが昭人の目には人魚姫が海を泳ぐようなしなやかな動きにしか見えなかった。彼女は何も喋らない昭人に顔を傾げ、もう一度笑顔を投げかけた。
その瞬間、昭人は怯み、図書館を出た。全速力で逃げるように駆けていった。
こんな感覚、気持ち初めてだ。春菜は胸が痛むのを感じ、家へ逃げ帰った。






家へ駆け込んだ昭人は玄関で膝から崩れ、その場でへたれ込んだ。彼の息が上がっていて、鼓動が威勢良く震動していても、部屋は沈黙に包まれており、唯一聞こえるのは秒針の音だけだった。変わらない夕日が差し込んでいるにも関わらず、家が腐って見えた。
彼は顔を真っ赤にさせ、立ち上がって、自分の部屋に入ってベッドに横たわった。いつもなら帰ってすぐ掛けるブレザーもそのままに寝転がって動かなくなった。秒針が3周回っただろうか、昭人は体を起こし、今度は膝を抱えて座って動かなくなった。
表情も変えないで、彼が考えていることといえば、彼女だった――彼の心を動かした、夕日に照らされるあの女性。そして動かなくなってから、しばらくして彼はブレザーを脱ぎ、壁に投げつけ、ふてくされたように寝てしまった。
彼自身、認めたくなかったのだろう、たった数秒目があっただけで、今までぴくりとも動かなかった恋心が動いてしまうのが、彼の自尊心が許さなかったのだ。

今夜は久々に性欲に掻き立てられた気がし、自慰をして眠った。






春菜昭人の目覚めは随分とよかった。いつもとはうって変わってパッと目が覚めた。
そして昨日と同様に早足で学校へ急いだ。着くと急いで図書室へ足を運んだが、もちろん朝からいるはずもなく、無駄骨に終わった。
落胆して教室に入り、席に着いた。それからいつも通り、読書にうちこんだ。


昼まで授業も終わり、昼休みに入った。昭人は静かに席を立ち、売店まで赴いた――いつものことなら、ここで野球部とばったり遭遇して昼飯代をカッパられるのだが、今日は居なかった。これも何かの暗示なのか、春菜はそう思い、心の中で安心しながら昼のパンを手に取った。そのとき、不意に――そう、無意識に――顔がそちらへ向いた。
そしてそこにいたのが、例の彼女だった。春菜は目を奪われた、昨日のように。
彼女はどうやら昭人が自分を見ていることに気づいていないようだ。それとも昭人のことを覚えていないか。実際には後者だったが、昭人は前者であるよう心の片隅で願っていた。
彼女は長い髪を一つくくりにして、脇に教科書をしめて歩いていった。昭人は話しかけようと1歩踏み出したものの、それ以上勇気が出ず、前へ出ることが出来なかった。彼女が遠ざかる程に彼の頭が冷めていった。そして背後で売店の婆が呼んでいるのが聞こえてきた。
と同時に聞き覚えのある掠れた声が聞こえてきた――野球部だと瞬時にわかった。そして今日も野球部の昼飯を奢らされた。
しかし今日はまだ気が休まった気もする。
ただそのとき昭人はあることを決意していた――彼女に話かけよう、それも今日中に。





昼の授業も終わり、放課後となった。彼は微かにガッツポーズをし、図書館へ走った。今や誰も彼を引き止める者は居なかった。
尤も走ったわけではなく、他人より少し歩幅を広く勇み足だっただけで、それも周りに自分の気持ちを悟られないようにするためだった。だが明らかに彼の存在はその場の空気と異なっていたものの、彼の存在自体がもともと無いに等しいため、異なっていたとしてもそれはてんで変わったことではない。
そして昭人は別校舎へと乗り込み、遂に図書室の前にまで来た――何だろう、今日は昨日と違って全くと言って良いほど美しく感じなかった。何故だ。
そして扉を開ける以前にここに彼女がいないことは推測できた。だがもちろんまだ確定したわけではないため、昭人は取っ手に手をかけ、開いた――中に彼女はいなかった。いないと予想できたにも関わらず、心の何処かでいることを望んでいたかのように絶望し、愕然と立ちすくんだ。
春菜昭人は輝きを失った瞳で部屋を見渡し、その場に座り込んでしまった。案外、こうやって落ち着いて見てみると図書室は広く感じた。それに昨日と違ってどこか暗く、重苦しい。昭人は時計を見て、まだ時間はあるなと確認してから、扉を閉めて、一人中で残ることにした。
もちろん叶わぬ願いだと踏んだが、彼女を待つことにしたのだ。
部屋自体は沈黙に包まれているものの、外からの部活動の掛け声で、妙に不気味に思えた。こう、独り取り残されていくような。
虚しく思いながら、昭人は彼女の座っていた席に座り、鞄を枕に俯せになった。すると心の奥から感情が込み上げてくるのが分かった。自分でもわからない、感情が叫びたい衝動へと変わっていく。
だがここで彼の悪い癖が出た――出たいところで自制して足が止まってしまう。この癖の所為で彼は散々、後悔した人生を送ってきたにもかかわらず、一向に直る気配は伺えない。
結局、彼の叫びは喉を通じて流れるようにゆっくりと外へでていった。「あー・・・」又しても図書室に虚しく取り残されたように反響した。
そして春菜は目を閉じた――何時間経ったんだろう、時計を見る気力さえ起こらないなんて。
気づいたときには図書室は先程よりやや薄暗く、それでも夕日が差し込んでまた一風変わった空気をかもし出していた。黄昏時とはこのことかもしれないな、昭人は細目で外をのぞき見た。

「・・・?」一瞬何が起きたのか、寝ぼけた頭では理解できなかったが、徐々に頭が慣れてきたところで、ようやくそれが何かを理解できた。
昭人は目を見開き、飛び起き、立ち上がった。そして目を疑ったが、それは紛れもなく現実にあった。昭人の胸が高鳴っていくのが、手に取るようにわかる。
春菜昭人が見た先には、彼女がいた――優美で、華麗で、それでいてどことなく幼い、あの女性。名前も年齢も、何もわからない彼女。ただ唯一、彼女が教師であることは昼のことから伺えた。つまり昭人は生徒でありながら、教師に恋をしてしまったのだった。
その不思議な、彼にとって幻想的な彼女は窓の外を見ており、顔は彼に向けていなかったようだが、彼が立ち上がった音に反応して振り向いた――夕日の逆光で顔がよく見えない。
「起きた?そこで寝てて大丈夫?」彼女が言った、ちょっと強気な声音で。だがそれも昭人にとって胸を熱くさせる要素の一つでもあった。只たんに彼女のすること全てが彼を魅了していただけなのだが。昭人はその返事をしなかった。
またしても言葉を失った昭人だが、今度は逃げなかった。決意したんだ、彼女に会って言うんだ、て。昭人は微かに拳を作る力を強めた。






「聞いてる?」昭人は必死に気持ちを落ち着かせ、自分のペースに持ち込もうとした。「あの!」急に大きな声を出した所為で、彼女は一瞬怯んで身構えた。
しかし、昭人の言葉がこれ以上続かないことを察し、微笑んだ(というより笑った)。その瞬間、その場の空気が一瞬にして和み、昭人も照れ笑いを浮かべた。彼女の笑った顔を初めて見て、恋しく思い、居ても立っても居られなくなった。彼女は肩の力を抜き、昭人に話しかけようとした、そのときだった。
その女性は外が暗くなっていることに気付き、慌て始めた。「あ、もうこんなに暗いじゃない!ほら、帰った、帰った」彼女は昭人の手を取って、図書室から出した。その手の感触に昭人は心を奪われた――温かく、繊細で柔らかい。握り返したくなるような手だった。
「はい」昭人はあがってしまって、声が裏返ってしまった。
「門まで送るわ」彼女は明るく言い、昭人の背中を両手で押して、廊下を歩き始めた。その幼い行動に昭人は一瞬で惚れてしまい、顔が赤くなってしまった。それは夕日が落ち、全体的に暗いその場所でもわかるほどだった。
「ほら、早く早く」すると段々彼女の押す力が増していき、歩く速度も増していった。そして終いには2人は少年少女のようにはしゃぎ、走っていた。笑顔で溢れ、普段気持ちを表に出さない昭人も正直な気持ちを出し、笑っていた――今までにないほど。
2人は夜に近付く校舎内を笑い声に似た叫び声を上げ、走っていった。今までにないほどの幸福な、至福の時間だった。たった1分かもしれない。しかし昭人には今まで生きてきた17年間よりも充実した時間だった。
楽しい時間もいずれ終わるというものだ――2人は門に着いてしまった。空は完全な黒となっていた。今は何時だろう。
彼女は息が上がっていた。膝に手をついて荒く呼吸していた。「大丈夫ですか」昭人は彼女の肩にそっと触れ、気遣った。自分でも不思議に思うくらい、それは自然な動作だった。今までなら、先程までの自分なら、あり得ないことだ。
「うん、大丈夫」彼女はVサインをしてみせた。その仕草も彼にとって大切なものとなった。
昭人は今しかないと思い、彼女に告白しようと決心した。が、前へ踏み出すことが出来なかった。何も言えなかった、自分でも疑うほど、喉から言いたいことが全然出てこなかった。
昭人は唇を噛み締め、堪えた。何も言えない自分の腹立たしさにいつも部屋に置いてる物は壊されていく、その癖は今、出してはいけない。彼は堪えた。そして苦し紛れに言った。「じゃ、帰ります」
それはあっさりと出、味気ない色をしていた。彼女も息を切らしながら、背筋を伸ばし、昭人に向き直った。「うん、さよなら」昭人は門から一歩踏み出したところで足を止め、振り返った。「身体に気をつけてください」
彼女はあしらうように手を振り、返事した。「はいはい」昭人は彼女に背を向け、歩き始めた。結局何も言えなかった、何も。彼女の名前をも聞けなかった。俺の糞野郎。
昭人は拳を握り締め、もう一度振り返った。彼女は遠ざかっていく。昭人は腹をくくり、叫んだ。今はまだ率直な気持ちは言えない。今はただ彼女といる時間を長く保ちたいだけだった、今はまだ。
「先生は、いつ図書室にいますか!」彼女は足を止め、昭人の方へ振り返った。目の錯覚か、その表情はどこか寂しいものが伺えた気がした。しかし彼女は元気良く叫んでくれた。「月、水、金、土曜日にいるよ!」彼女は大きく手を振って返した。その瞬間、彼女の表情が明るくなったように思えた。
昭人も笑顔で手を振り、帰路に就いた。昭人はこんなに嬉しい気持ちになったのは初めてだった。そして人生がこんなにも良いものだと初めて思い知らされた。






二、消極的と積極的の心(限界と無限――抱きしめたい)



図書室の彼女――優美で綺麗で、最も夕日の似合う美しい女性は(後々わかったことなのだが)、世界史の担当教師で23歳、柿本サクラという名前だった。昭人はその名を聞いたとき、恥ずかしがりながらも一応「良い名前ですね」と言っておいた――本心に間違いはないのだが。それから『世界史』と聞いてから、その苦手な教科を勉強するようになった。ただ今は彼女に男として認めて貰いたい一心だった。

その日から放課後、図書室に通うことは彼の日課となった。尤も彼が行く曜日は決まって月、水、金、土曜日で、とくに土曜日は部活動で門が開いているだけで授業がないため、彼女といる時間が長い。彼はその空いている時間全てを彼女と図書館でのんびりと過ごした。
時たま、柿本が用事で職員室へ戻るが、彼は決まってその時間に睡眠をとる。そして彼女が帰ってきたところで起きる。偶然起きないこともあり――彼女が故意に静かに部屋に入ってくるのだが――、そのときは彼女の悪戯心で昭人の顔はキャンパスとなる。
「何、どうしたの」昭人があまりにもサクラを凝視していたため、彼女は昭人の方を睨んだ。邪気のない目をしていたが、昭人は一瞬怯んだ。
因みに2人はいつも面と向かって座っている。
「えー・・・と――」昭人が言葉に詰まっているとサクラは無邪気にしかめっ面をして睨んでから優しく言った。「いいよ、許してあげる」サクラの言ってる『許してあげる』というのは多分、学生が先生に恋心を抱くのはご法度だと子供染みたことを信じているからだろう。彼女は右手を突きだして、彼に向けた。
「はい、1回目だからこれで許してあげるって」サクラは昭人の額を弾いた。てっきり優しくするのかと思えば、意外と強くしてきたため、昭人は本心から痛がり、席を立って、図書室を一周してきて、また席に戻った。
「ごめん、ごめん。痛かった?」彼女も彼を追って図書室を一周し、席に着いた彼の肩に触れ、心配した表情で顔を覗き込んできた。昭人は顔を真っ赤にさせ、逆に見られないようにそっぽ向いた。「もう!」サクラは頬をふくらませてから、外を見た。それから何か思いついたかのように口をOの字にして、しばらく動かなくなった。
昭人は恐る恐る先生の方を確かめて、様子が変なことに気付き、同じ方向を見た。
視線の先――窓の向こう――にはグラウンドがあり、そこではサッカー部がパスを繋ぎ、ボールを運んでいた。その俊敏さに昭人は呆気にとられた。自分には絶対無理だと確信した。
ある意味、自分は一番相応しいクラブを見つけたのかもしれない。こうやって図書室で彼女と一緒に過ごせるクラブ。昭人は自己陶酔に入りながらも満足した、そのとき、彼女は彼の袖口を引っ張った。
「外に出ない?部屋の中ばかりも身体に悪いし。散歩がてらにね」昭人はサクラの引っ張るその仕草に一瞬心を奪われたが、すぐに我に返り、今度は昭人が勇気を出してサクラの手を握った。自然に。ぎこちなさをなくして。
そして2人は(昭人がサクラを引っ張って)外へ出た。






当たり前のようで、実はそうでもない。ということは大抵あるものだ。我が家ではお好み焼きがご飯のオカズであるように。または何処かの地方(九州だっただろうか)では某ショップのフライドチキンを片手に米を食すように。
そして昭人にとって常識であること――野球部が<腐れ部>だということ――もサクラにとって衝撃的な事実だった。実際、2人が校舎の外を歩く先では野球部が練習をサボって煙草を吹かしていた。尤も昭人がそれを先に見つけ、サクラに見せぬよう努めたため、彼女が見て衝撃を受けたのは、部活動をサボってサッカーをしていることになった。
正直、昭人はこうなることが容易に推測できたため、外に出たくなかったのだ。
しかし、彼女が望んだことだから、彼は受け入れる。例え彼女が宮廷の常識知らずのお嬢様でも彼は辛い現実を目の当たりにさせないため、必死に動き回るだろう。それが彼のつとめなら。
2人は野球部の視線を感じながら、そこを通過した。「あれって、春菜だよな。脅してやろうか、一緒にいる女をレイプでもしてやろうか」そんな声でも聞こえてきそうで昭人は恐かった。
2人は寄り添い、体育館の横も通過し、本校舎に入った。各組の教室がずらりと並ぶだけの校舎だが、別校舎とは格段と大きさも清潔さも違った。教室はほとんど閉め切られているため、この場の行事はただ廊下を歩くことだけだった。
しかし、昭人にとってそれでも良かった。こうやって彼女と隣りに居られるなら、良い。逆に何も障害がないと考えれば、喜ばしいことだった。
「ねえ、春菜君の教室ってどこ?2年だったはずだし――」「ああ・・・この上です。3階」昭人は右手人差し指で上を指して言った。
「行こう」彼女は走り出した。昭人は赤面しながらも後を追って走った。
いつしか、それはいつかの夜のようにはしゃぐ2人の少年少女のようになっていた。






まず始めに教室に着いたのは春菜の方だった。それから遅れて柿本先生。昭人はあまり息を挙げていなかったが、彼女の方は随分とあがっているようだ。昭人は心配しながらも、教室の中をうかがった。誰もいない教室は昼とは一変した、夕日に照らされた情景が広がっていた――どこか図書室にも似ている。
不思議な感覚だ。初めて彼女と出会った、あの日のような美しい景色が広がっている。しかし今はその彼女が隣りに居る。昭人は急に胸が締めつけられた気がした。唇を噛み締め、溢れんばかりの気持ちを堪えた。
不意にドアノブに手を掛けると、簡単に開いてしまった。「先生、開いてますよ」普通の先生なら、そこで注意して、扉を閉めるだろうが、彼女は違った――冒険心が強いらしく、自ら入った。
「ほら、席に着きなさい、春菜君。ホームルーム!」サクラは教室に入ると教卓に着き、春菜に指を差して、張りのある声で言った。昭人はビクッと反応し、渋々自分の席に着いた。彼の席は前から前から5番目(後ろから3番目)、窓側の2番目だった。先生とは距離のある席だ。
彼女は教卓に手をつき、俯いて動かなくなった。あまりにも動かないため、昭人は心配になって立ち上がった瞬間、柿本先生は昭人を指さして注意した。「ほら、そこ席を立つな」
どうもいつも見ているサクラとは違うため、しっくりこない。だがこれが教師のサクラの姿なのだろう。昭人は不意に先生としての面も見た。
「私ね、教科担当だけど、クラスは持ったことがないの(つまり担任の仕事をしたことがないの)」彼女は神妙な面もちで言った。彼女の指は教卓を滑るようになぞり、端を握った。
昭人は言葉を返さなかった。「私ね、いつかは杉田先生とか、岡本先生のようにクラスを持てるようになることが夢なの」彼女は窓の外を見た。夕日に照らされ、彼女が美しく見えた。一瞬悲しい目をして、そして目が潤っているように見えた。見間違えたのか、昭人は眉間に皺を寄せた。
「あ、そんなに重たいことじゃないの、ただあんな風な先生になりたいなあ~ってこと」彼女は俯いて虚しく笑った。昭人は居たたまれない気持ちになった。何も言えないし、自分に出来る事なんて何もない。それもこんなに貧弱な自分なんだから。
「本を読むのは好きだけど、あんなゴミ処理みたいに図書室に取り残されるし」サクラは震える声で言った。「私って先生向いてないのか」彼女はぼそっと言い、そして堪えられなくなり、両手で顔を覆って昭人に背を向けた。
昭人は一瞬目を疑った。そして彼女が肩を奮わせているのを見て、拳を握り締め、歯を食いしばり、瞳を強く閉じた。そして――

――立ち上がった。勢いよく。
「先生は!」言葉が詰まった。結局の所、彼女がこんなに辛く考えていることも、彼女の良いところも何も分かっていなかった。俺が今まで彼女と居たことも、逆に彼女を追いつめていたのかもしれない。「先生は、良い先生だよ。校長とか教頭とかが馬鹿だからわかってないんだよ。心配しなくても大丈夫だよ」根も葉もない、説得力のない言葉だった。
俺って馬鹿だ。逆に彼女を苦しめているだけなのに。
「先生言ったじゃん、そんなに重たく考える事じゃないって」励ましにもなってねーや。俺って馬鹿だ。「偉いよ、俺が言ってどうこうなるわけじゃないけど」
昭人は唇を噛み締めた。
「俺が言ってどうこうなるわけじゃないけど、最後に勝つのは、信念のある者だって、心の強い者だって。そういうものだと俺は思う」彼女の頭はそれでもあがらない。
「マイペースだって悪い事じゃない、むしろ遠回りは経験を積むのと一緒だって――」昭人はこれ以上何も思いつく言葉が無かった。段々語尾に近付くに連れ、言葉が確信を失っていった。
「ごめん、俺じゃ支えになれない」昭人は一心に彼女を見つめた。

時計の秒針が虚しく教室に鳴り響く。彼女は顔を上げ、鼻を啜って、昭人の方を見た。昭人は目を反らさなかった、一心に彼女を見つめたままだった。サクラは目の周りを赤くし、涙を堪えながら言った。「ありがとう。ごめんね、こんなこと言って」
彼女は教卓を離れ、昭人の隣の席に座った。「楽しく図書室で本でも読んでりゃ良かった」彼女が捨て台詞のように言った。その彼女の背中が虚しく見えて仕方なかった。
「俺、馬鹿だよな。先生がこんなに辛いのに、呑気に本なんて読んで」「ううん、そんなことないって――」
不意に彼女は言葉を失った。一瞬何が起こったのかもわからなかった。しかし彼の包み込む腕を見て、何が起こったのか瞬時に理解した。
「俺にできるのって、こんなことくらいしかないけど、これでちょっとでも気持ちが楽になるなら、退学になろうとも――」昭人は彼女を後ろから抱きしめたまま、言った。「俺は先生を護るし、応援する」自分でも疑った。俺、何してんだろって。先生を抱きしめて、何格好つけてんだろって。捨て身で彼女を抱きしめて。
それでもサクラは抵抗しなかった。するどころか、昭人の手をそっと握った。
その手は温かく、包み込まれる思いだった。たったそれだけのことが昭人の全身全霊の決意よりも強く、彼の抱擁よりも心地よかった。
駄目だ、彼女の柔らかさにおし負けそうだ――今は俺が護らなければならないのに。






「先生、ごめん」昭人は腕を解き、罰の悪い表情を見せないよう、窓に向いた。「ううん、ありがとう。元気になった」彼女は溢れ出る涙を指で拭い、笑った。その笑顔をとても見たい。今までにないほど素直で、純粋な笑顔なんだろうが、今の彼には見る勇気がなかった。
「そんなの嘘ですよね。セクハラされて明日にはもう俺、学校に来れなくさせられてるんじゃないですか」まったくもって、笑えない冗談だ。俺は取り返しの着かないことをしてしまったんだ。
「はは・・・」彼女は笑うだけで、何も返さなかった。昭人の中で全てが崩壊していった。それでも今は笑っていられた。踏み出す勇気もなければ、諦める決断力もなかった自分がここまでやれたのだから。
だから、もう少しだけ――もう一回。
「俺、退学になるなら、それでも良い。今なら中退したって頑張れる気がする」「何言ってるの。中退だなんて、そんなこと――」「昔の俺なら、学校やめてもどうも思わなかったけど、今は寂しい」
「馬鹿!」間髪入れず、サクラが言った。背中を向け合っているのに互いの表情が手に取るようにわかった。それでも昭人の口は止まらなかった。「だから、やめるなら、それはそれで最後に言っておきたいことがあるんだ――」不思議なくらい言葉が次々と口から溢れ出てきた。ある種、諦めた分、強くなれたのかも知れない。
「――好きだ、先生」昭人は破れかぶれだが、言った。あたって砕けろとはこのことか。もしかすれば彼女に認めて貰えるかもしれない、この恋は成功するかもしれないと昭人は予測した。しかし、彼が言ってから、数秒経とうとサクラの返事はなかった。
自信のあった告白も虚しく心の中で響くばかりだ。昭人はこの場にいるのが、堪えられなくなった。早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「・・・馬鹿」彼女の声はひどく沈んでいた。昭人はその瞬間、身体の熱が急に冷めた気がした。「私のことが好きなら、退学しないで」その言葉に昭人は目を見開き、耳を疑った。
しかし続く言葉は彼の期待を裏切り、そして虚しかった。「先生として自信がないのに、ここで春菜君がやめることとかになったら、私もう先生を続けられない。もっと私の気持ちを理解してよ」
昭人は拳を握り締めた。
「自分勝手だよ。自分の好きなことだけして、言いたいことだけ言って。春菜君、自分勝手だよ」彼女の声が震え始めた。今までにないほど怯えた様で、懇願しているように聞こえた。
「私も春菜君、好きだよ。けど今はそれぞれ互いに頑張らなきゃいけないときなんだよ!何も解決していない――むしろ問題が増えた――状況でそんなことできないって」サクラは両手で顔を覆い、泣き始めた。何故、泣く?昭人は心の底から煮えくり返る思いでいっぱいだった。自分勝手、昭人の心に何か引っ掛かるものがあった。
悪い性格だ。彼女は何一つ間違ってなんかいないのに、自分が正しいと勘違いして、彼女を否定する。最悪な男だ。俺は自分勝手なんかじゃない。むしろ先生が悪いんだろ。俺を好きなら、どうしてそんなこと言うんだよ。
彼女に背を向けた昭人の心の中では醜い葛藤が続いていた。よくあることだが、今日はどうも様子がおかしい。いつもより悪い性格が勝ってしまっている。
「先生、ごめん」言葉とは裏腹の気持ちでいっぱいだった。「けど――」
昭人の彼女に対する――と同時に自分に対する――静かな怒りが頂点に達してしまった。

気付いたときには彼女を押し倒してしまっていた。驚き、怯える彼女の表情が目の前にあった。「痛い・・・」彼女は口ごもった声でぼそっと言った。昭人の手が彼女の肩を力強くおさえつけていた。
それ以上、彼女は何も言わず、必死に目を瞑り、現実から逃げようとしていた。その時の昭人の顔は恐ろしく冷酷なそれと豹変していたのだ。認めたくない、その気持ちでいっぱいだった。
昭人は何も言わず、ただ彼女の上にまたがっているだけだった。接吻を無理強いするでもなく、無理矢理犯すわけでもなく、ただ彼女の上にいるだけだった。
恐ろしい人格か、それとも彼の本性か。誰も知る由はなかったが、本人はわかっていた。これが自分なんだと。






もがく彼女の両手を抑えつけ、昭人は朦朧とする中、しばらく動かないでいた。彼女は涙をためた瞳を力強く閉じ、横に顔をそらしていた。その口はかたく締められ、震えているのが目に見えてわかった。
数分が経った。サクラにとって地獄にいるような生きた心地のしない時間が過ぎた。春菜昭人にとってはどうだろう。

いつまでも動かない昭人に自然と視線が向いていくのをサクラは感じた。そしてついに彼女は彼を見た。それはあまりにも衝撃的なものだった。
――昭人が瞳に涙をため、唇を噛み締めていたのである。そう考えれば、微かに全身が震えているような。
昭人は我に返り、自分のしていることに愕然としていた。そして彼女を押さえ付ける力が徐々に弱まっていき、完全に解き放たれた。彼は現実を認めたくないといったような素振りで首を振り、現実から逃げ出したい気持ちで発狂した。
そして周りにある机、椅子を蹴飛ばし、教室から飛び出していった。昭人は廊下を歩く先生、生徒になりふり構わず、ぶつかり走り続けた。逃げ出したい。死にたい!初めて彼女と逢ったあの日に戻りたい!

取り残されたサクラはじんじんと痛む手首をほぐし、激震する心臓をなだめていた。口は半開きで、頬は化粧が少し落ち、跡が出来ていた。彼女も信じられないでいた。現実を疑った。しかしこれは紛れもなく真実でしかなかった。
嫌だ・・・。






それから来る日も来る日も昭人は校門の前まで姿を現すが、そこから先へ踏み入る勇気もなく、踵を返し、そそくさと帰っていくのであった。もし廊下で先生とすれ違いでもしたら、どうすればいいのか、わからない。いやそれ以前に、こんな顔をみんなに見られるだけでも耐えがたいものだった。
サクラは次の日、学校を休み、それ以降しっかり通勤していた。彼と違って彼女は休める身ではないからだ。
昭人の家には毎日のように担任の上田からの電話がかかってきていた。もちろん親はいない。それに昭人は部屋から出ないとあっては、電話に出る者などいるわけがない。終いには担任が直接、家に来たこともあった。だが、昭人は専ら出るつもりなど無かった。電話に出さえしないのだ。直接会えるわけがない。
そんな日が1ヶ月続いた――昭人にとって、サクラにとっても地獄のような日々が続いた。
そして終わった。







昭人はついに学校へ姿を現した。門の前へ現れた彼の表情は今までに見たことのないような、何とも言えない顔をしていた。腹をくくり、身構えた目をしているものの不安と緊張で引きつった眉をしている。校内に入れば、担任からもいろいろ言われるかも知れない、嫌いな野球部に絡まれるかも知れない。しかし今はそんなことどうでも良い。
教室に入れば、「こいつ折角休んでたのに、また来やがったよ」という目配りをされたが、昭人は全く相手にせず、席についた。例の野球部も今か今かと待っていたのだろう、彼が席についた瞬間に絡んでいった。
今の昭人にはタカる蠅にしか見えなかった。気に障らないように軽くあしらっただけだった。
彼が学校へ来た目的はそんなものではなかった。
彼女に謝らなければ。長く思えたあの時間は取り戻せないが、その分の償いはする決心できている。その一心で――

放課後まで待った。放課後になり、皆が出払った頃に図書室へ行こう。今日は水曜日、彼女が入る曜日だ。
そう決心し、放課後を迎えた。終礼が終わったと思ったとき、担任が昭人を呼びだした。あの糞爺!こんなときに!昭人は心の中で焦った。
そして教室が2人だけになった。「そこに座れ」神妙な声で上田が言った。上田の表情を昭人は読みとることが出来ないで居た。もしかするとあの放課後の事を言われるのではないかと不安になった。
だが口臭漂う口から言われた言葉は昭人を心配してくれたものだった。「1ヶ月どうだった?学校を離れて」昭人はそっぽ向いて聞いているだけだった。答える気などさらさらない。
「恋しくなった、とは答えてくれないか」上田は落胆したように言い、笑った。「休んでいる間、何考えてたなんて聞かないから安心してくれよ」それでも昭人はそっぽ向いたままだった。
「多分、家にいると退屈でしょうがないだろう。そう考えれば学校は楽しいもんだ。毎日いろいろな事が起きる」担任は両手を広げ、喜びを表現して見せた。「時には楽しく、時には厳しく、時には悲しく、そして時には嬉しく。イベントがあった方が人生、生きていて良かったってもんだろ」相変わらず昭人は先生に一瞥をくれただけで別方向を向いているだけだった。
「う~ん」上田が溜め息をついた。「学校にはそのイベントが嫌と言うほどある。何故かわかるか」『初めて』の問いだった。
一瞬、昭人の頭に描いていたサクラの画が消えた。「何故かわかるか、今日はそれだけ言いたい」「さあ」間髪入れず昭人は言った。一瞬考えさせられたが、答える気などない。
「わからないか?わからんのか?へーわからないかあ」「うるせーな!」昭人は初めて上田の方を向き、そして叫んだ。前に居た上田は微笑んでいた。
「やっとこっちに向いてくれた」その言葉にしてやられ、昭人はちょっと頭に来て、席を立って教室から出ようとした。「おい、まだ終わっていないぞ」「黙ってろ」昭人は扉に手をかけた。その時、先程までのふざけた調子の声ではなく、真剣なそれが背後から聞こえてきた。
「正解は『ここに人がいるから』」昭人の手が止まった。
「正直学校には自分と無関係な人で溢れていると思っているかも知れないが、実はそれは嘘で、出会った人全てが自分を形成させてくれて、その人が1人でも欠ければ、今の自分はいない」昭人はその場で先生の方を見た。「無関係な人が起こした事件が切っ掛けで出会う人々もいる。そこから良き出会いにする人もいれば、『無関係』と決めつけ、通り過ぎる人もいる」
昭人はいつの間にか、話に聞き入っていた。「学校にいれば、嫌と言うほど人と接する時間が増える。つまりイベントが増える。そして人生に飽きなくなる」担任が笑って昭人を見た。
「君はその出会いを失敗させてしまった」昭人は目を見開き、鞄を床に投げつけた。「お前に何がわかる!」「わからないね、何も。君が何をしたのか、わからないよ」上田も立ち上がった。
「ただその失敗も、出会いなのだから――」上田は口を噤んだ。昭人はその続きを知りたくなった。「出会いだから、何」「いや、続きは――」「続きは――」上田はまた座った。「自分で発見してくれ」昭人は拳を握り締め、上田の前の椅子に座った。目の前の男の口車に乗せられたことに自分に腹を立てた。
「話はまだ続くのか」昭人は挑戦的な声で言った。「ん~・・・俺の昔話でも聞くか?」昭人は溜め息を吐き、席を立った。「俺、行くところあるから」昭人は無意識にそう言い、教室の扉を開けたところであることに気付いた。今日、柿本先生に会いに行くんだ。
そう思い出したとき、昭人は走り出していた。図書室へ。






春菜昭人は校舎を出て、図書室のある別校舎へ走った。傾きかけた日が昭人の左半分を赤く染めていた。この時期、日は一瞬にして暮れるため、この景色も光陰矢の如し、というわけである。それに空気が肌寒くなり始めたため、昭人が受ける風は突き刺さるように彼の頬を赤く火照らしていった。早く、早く。謝りたい。
今の彼は誰にも止められない。
彼は大きな"Y"字の像が立つ中庭の横を通り抜け、別校舎に入った。後は直線廊下だった。そして間もなくそこに辿り着いた。
一瞬スライドショーのようにカタカタ音を立てて彼女の映像が頭を過ぎった。本を片付ける柿本サクラ、カーテンを開けている柿本サクラ、そして前に座ってすまして本を読んでいるサクラ。全て彼が今まで見てきたものだった。呼吸を整えたところで、扉に手を掛けた。だが、それ以上身体が動かなくなってしまった。恐い。昭人を苦しめていたのは過去の自分だった。
彼女と昔のようにわだかまり無く話せる仲に戻りたいという気持ちと裏腹に、このまま彼女を避けて身を潜めるような生活で良いという気持ちが対立していた。
戻りたい。別に構わない。嫌だ、逢いたい。

そして昭人は扉から手を離した。何気ない動作のようにスムーズに手が離れていった。
彼は歯を食いしばり、目を強く閉じて闘った。拳を握り締め、彼は一歩を踏み出そうとした。今まで超える事が出来なかった大きな壁をぶち破り、その背後にそそり立つ階段に一歩踏み出そうとしていたのだ。自分自身の殻――それが大きな壁だった。
そして決心の一歩を踏み出した。彼は扉を開けたのだ。そして間を空けず、中に入った。
そこに彼女はいた。紛れもなく彼女だ。柿本サクラ、彼の恋した女性で、彼の身勝手が傷つけた女性。昭人は一心に彼女を見つめ、彼女は戸惑った後、顔をそらした。







「すみませんでした!」昭人はすぐにその場にしゃがみ、土下座した。額を床に叩き付け、大きな声で叫ぶように謝った。顔を背けたサクラも流石にそれに驚き、見返した。どう返せば良いのか、戸惑っていた。それでも昭人はただただ土下座をして謝り続けた。
「本当に本当に本当にすみません!」彼女は立ち上がり、昭人を立つよう促した。「立って、ほら」昭人は立ち上がってお辞儀をした。「もう良いって」
彼女は昭人を姿勢正しく立たせ、睨んだ。昭人は目を反らさないように必死に堪え、受け止めた。そして彼女は微笑んだ。彼に微笑んでくれたのだ。
その瞬間、昭人は込み上げる何かを感じた。堪えなきゃ、ここで堪えなきゃ。しかしそれは止まらなかった。昭人の瞳が微かに潤み始めた。
それを見たサクラは優しい母のようにハンカチを取り出し、あやした。「ほらほら、泣かない泣かない。大丈夫だって」「でも!」その時、昭人は自分がどれほど情けない存在か、実感させられた。
「ほら、座って」昭人は促されるまま、椅子に座った。そして隣りにサクラ。「俺何かより、先生の方がずっと辛かったはずなのに」昭人は情けなく彼女のハンカチを握り締めながら、言った。「ううん、辛いのは一緒」彼女は彼と真正面に向くよう座った。
「1ヶ月くらいかな、ずっと私のこと考えてくれたんだよね」彼女は真剣な表情で、でも優しく言った。「ありがとう、そんなに考えてくれてるだけでも嬉しい」昭人は再び込み上げた。
今度は全然堪えることが出来なかった。
昭人はハンカチで目元を抑えた。彼女に泣いている顔など見せられない。ただ声は微かに漏れた。「ごめんなさい」昭人は駄目押しのように最後に言った。そして図書室が沈黙に包まれた。
「大丈・・・」サクラが昭人を泣き止まそうとあやし、微笑んだとき、言葉を遮るように昭人が言った。「俺、本当悪いことしたってわかってる。けど俺、馬鹿だからさ、いろいろ考えたけど、やっぱり先生が――」サクラは止めなかった。「――好きです」昭人の声が震え始めた。泣く人によく見られる、口が上手くひらけず、言葉を発せられない症状だった。
「先生が俺を嫌いでも良い、避けても良い。でも俺は――」まったくもって情けない様だ。小学生でも稀にいるような泣き虫にしか見えなかった。
口が震え、先が言えない彼をサクラはそっと抱きしめた。昭人の頬が微かに彼女の鎖骨に触れた。温かい。
「わからないの。春菜君のことどう思ってるとか、わからない。けど――」サクラは唾を飲み込んだ。それも密接している昭人には手に取るように分かった。そしてサクラは今まで踏み出そうとしなかった境界線を踏み越えた。「本当は駄目なのかもしれないけど、私――先生としてじゃなくて、1人の女として――春菜君のこと、好き」昭人はハンカチの中で目を見開き、驚いた。
「冗談じゃなくて、嘘でもなくて。何て言ったら、良いのか、わからないけど」その時には昭人の涙は既に止まっていた。
「こんなに馬鹿な私に構ってくれて」昭人は彼女の介抱を解き、俯きながら、彼女の手を握った。サクラはその手から逃れようともせず、受け止めた。「やっぱ私、馬鹿だよね。だから教師向かないんだって」昭人は俯いたまま、唇を噛み締め、堪えた。俺の役目など、ここには無い。俺はこの場で無力なんだ。彼女を励ますことも、応援することも今の俺がして良い事じゃない。
けど――。
けど、俺にもできることはある。

昭人は握る手を胸元まで持ち上げ、笑って見せた。「俺にできることなんて何もないけど、応援する。先生が、先生の言うところの『先生』になれるまで俺はずっと応援する」昭人は精一杯の笑顔を見せた。「誰にも先生を傷つけさせない」
落ち込み始めたサクラの顔が昭人の方へ向いた。何も口から出なかった。
「先生がこの図書室を管理するなら、俺がこの図書室を大きくさせていく。皆に広めるし、もっともっと本を増やしていく。もっと活き活きとした図書室にすれば、先生だって――」その時の昭人の瞳はまさに文字通り、活き活きとしていた。サクラは今までに見たことのない、その表情に見とれ、彼の言葉を聞き入っていた。「先生だって、『先生』になれる!」
するとふとサクラの口元が緩んだ。昭人の言った『先生』の発音が外れ、それが彼女のツボに入ったのだった。
「それなら、私も頑張る!」サクラは元気を取り戻していた。
「俺と先生なら、何でもできる」春菜昭人と柿本サクラは夢を語るように活き活きとした瞳で見つめ、笑いあった。





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