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翌朝、ぼくは早めに家を出た。イケの家に行くつもりだった。 おじいちゃんは、「学校休んでもいいんだぞ。ルイ、無理するな」と、言った。びっくりした。以前は、そんなことを言うおじいちゃんではなかったから。ぼくはとても、嬉しかった。でも、何だか寂しくもなった。いつまでも、強気なおじいちゃんでいてほしいからなんだ。いつまでも、元気でいて欲しいと思っているからだ。「大丈夫だよ。おじいちゃん、行ってくるね」 ぼくは、元気に家を出た。 イケは、まだ家にいた。開けたドアの陰で、イケの左手は見えなかった。「お早う」 ぼくは、覗き込むようにして言った。「よおー。何だよ、こんなに朝早く。何しに来たんだよ。どういう風の吹き回しだ、オイ」 イケは、笑いながら言った。「イケと一緒に学校行こうと思ってさ。しょっちゅうサボってるからさ、イケったら」「まあな。親父、まだ寝ていやがるんだ。どっちが親だかわからねー、あはは。親父を起こして、会社に行かせるからよ。待っててくれよ、すぐだからよ」 ぼくは、イケの手を確かめようとしたけど、見えなかった。イケは、引っ込んだまま、なかなか出てこなかった。家の中の声が聞こえてくる。「父ちゃん、起きろよ。オレ、もう学校行くからよ。父ちゃん、父ちゃんッ」 イケの父さんが、何か喚いているようだ。酔っ払っているのだろうか。「父ちゃん、父ちゃん!オレ、もう学校行くよ。会社遅れるぜ。オレ、ちゃんと起こしたんだから、なー。飯、できてるからよ。オレ、もう行くよ」 イケは、毎日こんな生活をしてるのだろうか。朝食だって、イケが用意して。「おう、待たせたな」 イケには、何にも負けない強さがある。「何で、オレを迎えに来る気になったんだよ、ルイ。お前、その手どうした?」「イケこそ、手どうなった?あの後、病院行ったの?」「病院?行く訳ねーよ。もう、治ったし、よ」「見せてよ。ほんとに治ったかどうか」「お前、疑い深いんだよッ」「そうだよ。だから見せろよッ」 ぼくは、一刻も早く確かめたかった。何でもないことを祈るような気持ちで。 イケは、左手をグウーにして、ぼくの前に、にょきっと突き出した。「何でもねーよ、ほら」 少し変だった。「パアにして」「お前、いちいちうるせーんだよ。ほれ、見てみろよ」 ぼくは、息を呑んだ。イケの左手の薬指は、内側にぐにゃっと曲がりその上に中指が重なっていた!一瞬、イケがふざけてぼくを驚かそうとしてるのかもしれないと、思ったほどだ。でも、これは紛れもない事実なのだ。イケは、薬指に力を入れて伸ばそうとしている。何故、こんなになるまで、ぼくは気がつかなかったのだろう。イケの父さんだって、何故気がつかなかったのだろう、親なのに。親のくせして。どんなに痛かっただろう!「イケ、真っ直ぐ指を伸ばしてみてよ!イケ、イケッ。真っ直ぐだよ、真っ直ぐにだよ!」「これしか、できねーって。お前、うるさいこと言うなよ。しょうがねーだろ。こうなってしまったんだから、よ。バレリーナは、こんな手つきして踊ってるよな?だから、いいんだよ。気にするな。お前こそ、どうしたんだよ、その手ぇ」 ぼくは、胸が詰まって何も言えなかった。こんなになるまで放っておいたことが、悔しくて、悔しくてしょうがなかった。イケもイケだ。何故、父さんに話して病院に連れてってもらわなかったのだろう。怒りがこみ上げてきた。「オレ、もう痛くねーしよ」 と、イケがケロリと言った。「そんな問題じゃ、ないだろッ」「何、イカってんだよ、ルイ」「イカってるよ。当たり前だろッ。そんなになるまで、なんで病院に行かなかったんだよ。ちゃんと治せたはずなのに!」「仕方なかったんだよ。しょうがねーだろ」「仕方もしょうがも、あったんだよッ。イケは何を考えてたんだよ!」 ぼくは思わず、訳の分からないことを言ってしまった。イカリが収まらなかった。「イケったら、馬ッ鹿じゃないの。何でだよォ、こんなになるまでー。全く」 イケの手は、もう治せないのだろうか。もう、手遅れなのだろうか。 つづく
Apr 30, 2011
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「見たんだ、ぼくは」 ごり押しされながら、ぼくはどう言えば的を射ているのかを考えていた。みんなの前で言わなくても、北くんにだけ、ぐさりと矢が刺さるように。「だから、何を見たんだよ!見たことを言ってみろよォ。むかつくぜッ。いい気になりやがって!何にも見てもいないくせして、よ!」 北くんは、強がっている。「北くん、その前に、ぼくに言うことがあるはずだよ!足を引っ掛けてきたじゃないか。今までだって、一度や二度じゃない!何度もだよッ。今まで一度だって謝られたことないから。ちゃんと謝ったら、言うよ。ぼくは、見てるんだから、間違いなく、ね!こんな所でと、いう所で北くんを見たんだからね」 今度は、北くが狼狽する番だった。目が右に左に、忙しなく動いた。明らかに動揺している。 泣きながら自転車を飛ばして、林の一本道に消えていった北くんをぼくは、まざまざと、思い出していた。北くんも、きっとあの時のことを思い返している。誰にも見られていなかったはずだと。誰にも会わなかったはずだと。それに力を得たかのように、立て直して向かってきた。「謝れ?わざとやった訳じゃないのに、謝れぇ?バカにすんなよなッ。いい気になりやがって」「いつだって、わざとやってるだろッ。誤魔化そうたって、そうはいかないからね!」「偉そうにしやがって。オレはわざとやった訳じゃねー。謝る必要なんかないねッ」「それなら、ぼくだって、言う必要ないよ」「お前の見たことなんか、聞きたくもねー。見た見たって、どーせ、くだらないことだろッ」「くだらないことなんかじゃ、ないよ。大事なことだよ。北くんの胸に手を当ててみろよ。分かるハズだよね。聞きたかったら、ぼくのところに、一人で来なよッ」「お前、何様のつもりだよ。脅迫する気かよ」「脅迫なんかしてないよ。何言ってんだよ。誰にだって、悲しいことや苦しいことなんかあるんだよ。それに負け、」 まだ話してるぼくを、斜めに睨みつけて、北くんは仲間と一緒に、机を蹴って出て行った。「勝手なこと、ほざきやがって」 と、吠えながら。ぼくは、どさっと椅子に、座り込んだ。左手が痛くなっていた。気がつかないうちに、もくっと腫れている。 しーんと静まり返っているみんなの中を通って、ぼくは保健室に駆け込んだ。保健の先生が手早く、冷やして、三角巾で腕をつってくれた。なるべく動かさないように安静にするようにと言った。骨折はしてないようだけど、家の人と病院に行くようにとも。 牧野先生が、息を切らしてとんで来た。先生は、授業を自習にして、ぼくを家まで車で送ってくれた。「北くんに、足を引っ掛けられて、転びそうになって手をついて。こんなことになっちゃったんです。やられるの分かってて、油断しちゃったから」 ぼくは、車の中で、正直に話した。「そう、また北くんなのね。川を綺麗にする話、早く進めなくっちゃね。川の持ち主の住所、漸く分かったんだよ。捜した捜した。やっと分かったんだよ。今度の日曜日、何とか都合をつけて、了解を得に行ってくるからね。もう少し待ってて」 先生は、そう言ってから、「痛む?」 と、ぼくに訊いた。「我慢できないほどじゃないから、大丈夫」「そう?腕は、なるべくさげないようにしてね。それから、あんまり動かさないこと。もう、北くんには、こんなことさせないからね。ごめんね、池永くん。北くんも、いろいろあるから。許してあげてね?」 ぼくは、黙って頷いた。 その夜、ぼくは目が冴えて眠れなかった。 おじいちゃんは、ぼくを病院に連れて行って疲れたみたいだ。病院で、嫌になるほど待たされたりもしたから。ぐっすり眠っている。 ぼくは、イケのことを考えていた。イケの左手は、どうなったんだろう。ぼくは、気にしていなかった。まるで、あの後のことを知らないのだ。ぼくは、左手の自由を奪われて、はじめてイケの手のことを思った。イケはあの時、病院へは行かなかったと思う。病院へ行かずに治したのだろうか。冷やさなければいけなかったのに、そうは、しなかったのではないだろうか。ぼくは、今すぐにでも、イケの手がどうなっているのか知りたかった。真夜中を走り抜けて訪ねて行き、大丈夫かって、訊きたかった。イケは、当てにならない父さんに、きっと、なんにも話さなかったのではないだろうか。イケは、一人でどうやって、治療したのだろう。 ぼくは、おじいちゃんに守られている。でも、イケは。 ぼくは、布団を被って泣いてしまった。イケ、ごめん!手は、まだ痛む?大丈夫? つづく 、
Feb 22, 2011
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自分に苦しいことがあって、それを逃れるために、誰かにあたっても、気持ちは晴れることなんてないのに。誤魔化しは、何処まで行っても誤魔化しでしかない。 その日から、ぼくは何となく北くんが気になった。今、ターゲットになっているのは清水くんだ。清水くんは、学校に来なくなった。 北くんたちが教室から出て行ったのは、次のターゲットを誰にするか、決めるためなのだろうか。気が重くなってしまった。 ぼくは牧野先生に、呼び出された。「考えてもらえたかなぁ?」 先生は笑顔で、すぐにそう訊いてきた。「学校の裏の、川の清掃をみんなでしたらいいと思います。綺麗にして、蛍を育てて、飛ばしたら、みんな喜ぶと思います」「えッ?えッ?そっかぁ」 先生の目が一瞬、宙を泳いだ。「蛍?いいなぁ。うんッ、すごくいいんだよね。蛍までは考えなかったんだけど、綺麗にしたいと先生も、何度か思ったことがあるの。この川、私有の川なんだよ。上流まで遡っていくとね、道路につきあたるの。ちっちゃな、欄干がない橋がかかってるんだけど。橋からこっちが、私有地なんだって。だから、川も私有になってるんだよね。ちょっと、難しいかもしれないなぁ」 先生の言葉に、ぼくは、がっかりしてしまった。「ぼく、その橋まで行って、見てきました。綺麗にするんだから、別にいいんじゃないんですか、持ち主がいたって。ちゃんと断わっとけば」「ん?簡単にはいかないんだよ。持ち主が、もうこの土地に住んでいないからなの。関東の方に住んでるらしいということまでしか、分からないんだよね。池永くんが言うように、ちゃんと断らなくちゃいけないしね?池永くん、上流まで行って調べて来たのね?」 ぼくは、失望しながら頷いた。「池永くんが折角、足で調べて来てくれたんだものね。蛍、いいしなぁ。アイディアもいいしなぁ。よしッ、先生、もう一度持ち主を探してみるッ。持ち主の了解がないと何もはじめられないものね。もうちょっと、待っててね?探して了解を得たら、すぐ実行しよう。校長先生も説得して味方にしなくちゃね」 先生は真剣な顔をした。「ありがとう、池永くん。よ~し頑張るぞ~」 先生はガッツポーズをして、にこりと笑った。授業のはじまる時間だった。 その後、何日経っても先生からは、川の持ち主の話がどうなったのか、知らせてもらえなかった。どうなったのだろう。時間がかかりすぎている。今年の夏、蛍は飛ばせないかもしれない。ぼくは、じりじりしながら待っていた。 それから、また何日も経った。待っていても仕方がない。もう、先生に訊きに行くしかないと決心した。蛍、蛍と、とても焦っていたから。急いで椅子から立ち上がった時、もう気持ちは走り出していた。ぼくはやられてしまった!油断していた。 さっとやって来た北くんの定番、足を引っ掛けられてしまったのだ。ぼくを密かに観察して隙を狙ってたのかもしれない。ぼくは、同じ石に何度もつまずいたことになる。 転びそうになって、他の人の机にバンッと、手をついてしまった。びりっと、痛みが走った!「北くん!何時までこんなことしてる気なんだよッ。いい加減にしろよ!」「いい加減にしてるよ、オレは。ただ、お前が、むかつくからよ。ははは」「ぼくだって、むかついてるよ。北くんにィ。でも、ぼくはこんな汚いやり方はしない!」 ぼくは、手の痛みを堪えながら怒鳴った。周りの空気が、凍っている。誰もが、話を止め、息をつめている。でも、誰も直接こっちを見ない。無関心じゃない無関心だ。「ぼくは、見たんだよ、北くん!」 腹いせに、思わず言っていた!しまったと、思ったけど、もう間に合わない。言ってはいけないことだってある。みんなの前では。言ってしまったら、いじめが加速し、もっともっと根が深くなるだけだ。 ぼくは、うろたえてしまった。北くんは、ぼくがうろたえたのを見逃さなかった。「見たッ?何をだよッ。何を見たんだよォ。言ってみろよッ」 つづく 、
Feb 11, 2011
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ぼくは、涙をぬぐった。今、起きていたことは、現実なのだろうかと、霧の中にいるような頭で、そう思った。あまりにも突然、予期しなかったことが起こったからだ。 野島さんのことを思い出していて、その延長線上に北くんが出てきたのだけど。まさか、本当に北くんが現れるなんて思いもしなかった。こんな所に、こんな形で。でもあれは、紛れもなく、北くんだった。 野島さんが北くんのいじめに遭い、どんなに苦しんだか。今になって、ぼくは分かる。仲の良かった周りの女子にさえ見放されてしまっていた。無視されていた。助けたら最後、自分がターゲットになってしまうからだ。無視するのは、いじめに加担していることと同じなのではないかと、身震いした。ぼくだって、加担していたことになる! また、涙が溢れた。ぼくは、野島さんに謝りたい。ぼくは、その頃のことをまざまざと思い出していた。何故、ぼくは野島さんを助けなかったのだろう。あの頃のぼくに、とても腹がたつ。許しがたい。とても、後悔している。悔しいけどぼくには、心の余裕がなかったのだ。 北くんのいじめは、とても陰湿だった。一人ではやらず、必ず仲間を作り、巻き込んでやるのだ。その仲間一人一人に、単独でやらせたりもするから、いじめられる子は、絶えず誰かにやられているのだ。卑怯なやり方だった。上履きの、つま先の方に画鋲を入れておくのなどは、まだ良い方だった。一度やられたら、二度目には気をつけるからだ。でも、不意をつくやりかたが一番ダメージを受けるのだ。人間としての誇りをズタズタにされてしまう。立ち上がれなくなるのだ。ぼくは、それを分かっていたのに、いじめに対して何もしなかった!ぼくの感覚は、麻痺していたのだ!自分の苦しみで。 ぼくは、あの頃、死にたくなるほど苦しい日々を送っていた。北くんは、ぼくへのいじめもやったけど、ぼくはそんなことに構っていられなかった。ぼくは、父さんが突然亡くなってショックだったのに、その後、母さんが実の母さんじゃないことを知った!数年後、今度は母さんが、ぼくと耕ちゃんを連れて再婚することになった。再婚のことは、おじいちゃんが応援したけど、ぼくは、母さんが許せなかった。あんなに愛してた父さんを忘れて、他の人と結婚するなんて!ぼくは、悩み、苦しんでいて、北くんのいじめに反応できなかった。他の人へのいじめに対しても。北くんをとても嫌な奴だとは、思っていたけど。 あの頃の北くんを考えると、今、泣き喚く姿を見たからと言って、ぼくは自分の心を動かされたりしない。酷いことをしてきたのだから。自業自得だと、思う。 でも、何故母さんを嫌っているのだろう。あんなに愛されていて、何よりも実の母さんなのに!あの小母さんは、死に物狂いで自分の息子を守っていた。自分がどう思われようと、がむしゃらな人だった。 授業参観の日も、授業中なのに遮って、牧野先生に、クレームを入れたりしていた。北くんは、それだけは、嫌だと思っていたらしいけど。でも、ぼくは、とても羨ましいと思っていた。愛してくれる、本当の母さんなんだから。例え、過保護でも、溺愛でも。 翌日、登校しても、イケは来なかった。どうしてるんだろう、まったく。 ぼくは、登校してきた北くんを見た。何事もなかったような顔をしている。その表情から、何か読み取れるものがないか、ぼくは注視した。北くんは、そんなぼくを見るなり、ちッっと舌打ちをした。 ぼくを避けるように、古松くんや羽矢崎くんと合流して、教室から出て行った。 仲間がいると言うことは、苦しいことがあっても、誤魔化せるんだと、ぼくは思った。 つづく、
Feb 5, 2011
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何だかちょっと、情けなくなってしまった。笹が、こんなに人を傷つける武器になってしまうなんて、知らなかった。お寿司やお団子なんかを、包んでいたりする葉っぱだとは思っていたけど。 そう言えば昔、おばあちゃんが、笹は食べ物を腐り難くするんだよって、言ってたことがあった。お寿司やお団子を笹で包んでいたのは、そういう理由からだったんだ。ぼくはあの時、ふ~んとただ聞いていたけど、今になって、やっと理解した。おすしやお団子は、何故笹の葉に包まれていたのかっていうことを。頭で分かることと、実際に分かることとの間には大きな隔たりがあるんだ。実際に分かることの方がはるかに面白い。 おばあちゃんは、そう言えば笹舟も作ってくれた。川に流しに行ったけど、何処の川だったのだろう。覚えていない。ほんとにやさしい、おばあちゃんだった。 あの頃の、楽しかった日々。リセットはできないけど、あんなに輝いていた日々を、ぼくは思い出として持っている。いつだって、時間を越えて取り出して、ぼくの頭の中のスクリーンに映し出せる。ぼくは、それをやっと、とても嬉しいことだと思えるようになったのだ。 ぼくは、ここまで、学校の裏から何キロ歩いてきたのだろう。そして、今度は、学校からの下流も見なければ、どれぐらいの距離を綺麗にすることになるのかは、分からない。 一人でやることを想定して、どれぐらいで終えられるのだろう。今年の夏、蛍を飛ばすことは、不可能に近いかもしれない。 来年、ぼくは中学生になってしまうのだ。そんなことを考えていたら焦ってしまった。中学は、部活と勉強で忙しくなってしまうらしいし。でも、例え、忙しくなっても、最後までやり遂げたい。ぼくの気持ちは、しっかり固まった。 これから、川を綺麗にしてからだって、やることはたくさんある。蛍の幼虫を、どこで手に入れたらいいのだろう。売ってる専門店なんてあるのだろうか。幼虫の餌はどうすればいいのだろう。カワニナも売っているのだろうか。 調べなければいけないことも、たくさんあるのだ。でも、蛍が飛ぶのを想像したら、力が出てきた。ぼくだけじゃなく、みんなに、光る糸を引くように飛ぶ、蛍の愛おしい姿を見てほしいのだ。夜の深い美しさの中で。 ふと、野島さんがいてくれたら、真っ先に応援してくれたかもしれないと思った。そう思った時、ぼくは何だか、胸がじーんとした。懐かしかった。会いたいと思った。ぼくは、野島さんが心の中にいたことにびっくりした!ぼくは、野島さんのことが、好きになっていたのだろうか。 ああ、あの時、野島さんは、ぼくを庇っていじめにあったのだ!ぼくは、庇ってほしいなんて思っていなかったから、戸惑ってしまっていた。ぼくは、野島さんがどんなに苦しかったかなんて一度も考えたことがなかった。野島さんは、引っ越してしまったけど今、どうしているのだろう。 心の奥から、野島さんに謝りたいと、はじめて思った。鼻の奥がつーんと痛くなって、涙が溢れてきた。止めようとしても、止まらなかった。誰にも、見られたくなかった! ぼくは、土手まで戻ってから、そこから低い草はらの方におりた。 涙の中で、考えた。 気づかないうちに、人を好きになっていることを。野島さんは、もう転校してしまった。ぼくは、どこに行ったのかさえ知らない。ぼくは、謝りたい。気がつくのが遅すぎたけど。 はきはきと物を言い、しっかりしていて、よく笑っていた。そんな野島さんは、いじめに遭い、ひっそりと越していってしまった。会うことは、もうできないのだろうか。無理なのだろうか。もう、過去の思い出になってしまったのかも、しれない。 その時、思い出を引き裂くような怒声が、ぼくの耳に飛び込んできた。 さっきまで、誰もいなかった道路の方から、泣き喚く声がした。「母さんなんか、くそばばァだ!死んじまえ!バカやろう!」 自転車が一台、スピードをあげて通り過ぎていった。聞き覚えのある声だった。ぼくは、急いで道路に引き返した。北くんの、怒りで膨らんだ背中が、ひらひらと風に揺れ、林の一本道に消えていった。「バカやろう!バカやろう!」 何があったのだろう。ぼくは、呆然と立ちすくんでいた。 野島さんを、執拗にいじめた、北くんの驚くような姿だった。 つづく 、
Feb 2, 2011
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ぼくは翌日、一人でどぶ川の上流を探検しに行った。幅一メートルぐらいの小川だから、源流もそれほど遠くはないだろうと思った。 小川には、細かい小さな棘のあるつる性の植物が、生い茂り、はびこり、かぶさっていた。まるで、編んだつるで、小川に蓋をしているみたいに。つるは、よく見ると、小さなピンクの花をつけている。その隙間からは、陽に照らされ、風にかすかに揺れて、銀色や七色にぎらりと光る小川の水が垣間見えた。不気味な美しさだった。一瞬、その美しさに気を取られ、そうになった。でも、不安になるような臭いもして、ぼくはグホグホッと咳き込んでしまった。咳は、なかなか止まらなくなって、そのうちに、涙が出てきてしまった。 この川には、きっと、生きものなんか、住んではいないだろう。住めるはずないなと、思った。この小川は明らかに、病んでいる。誰が見たって。とても水が流れているとは思えない。いつからこんな状態になってしまったのだろう。どうして今まで、綺麗にしようとする人が現れなかったのだろう。 清らかな小川であり続けるのは、難しいことなのだろうか。でも、こんなに汚したのは人間なのだ。汚すのも人間、綺麗にしようとするのも人間だ。やっぱり誰かが手を入れない限り綺麗にはならない。もしも、誰も手伝ってくれる人がいなくても、ぼくが綺麗にすると、決心していた。源流は、こんなに汚れているはずがないと、思いたかった。 この小川の両サイドは、水面より高くなっていて、人が一人、やっと通れるようなでこぼこの土手の道だった。そこには、ねこじゃらし、シロツメグサ、オオバコ、名前の知らない雑草などが風 に揺れていた。シロツメグサは、丸くて白くて可愛らしかった。 ずっと昔、おばあちゃんがまだ生きていた頃。おばあちゃんは、このシロツメグサを上手に編んで、手首に巻いていたことがあった。嬉しそうに、子どもみたいに笑って。どうして、そんなに嬉しいのだろうと不思議に思いながら、でも、ぼくも何だか、とても嬉しかったことを覚えている。 おばあちゃんは、ぼくが女の子だったら、きっと花の輪を編んでぼくの頭に乗せてくれたのかもしれない。白い花は、仄かな、あまくてやさしい匂いがしたことも、思い出した。 この白い花で輪を編み、生まれてくる妹の小さな頭に乗せてあげたい。天使みたいだろうなと、 ふと思った。おばあちゃんも、妹が生まれたらどんなに喜んだだろう。 ぼくは、ドキンとした。ぼくは、何を考えているんだ。どうかしてる!思わず、狼狽してしまった。ぼくは、土手を乱暴に腕をふって歩き始めた。 とても歩きにくかった。草が足にからんだりもするからだ。それに、避けていた考えが、不意に現れ、ぼくの足をとろうともしているからだ。ぼくは、そんなことを振り切りたくて、右の方の土手に飛び移った。でも、歩きにくいのはどちらも、同じだった。 つるは、こんなに歩いてきてもまだ、小川に覆いかぶさっていた。何て、強い繁殖力だろう。小川の主みたいだ。 土手の道は歩いていくうちに、こっちの方だけ段々高くなっていく。どうなってるんだろう。登 りきった時にはなくなっていた!行き止まりになっていたのだ。木が茂り、笹が一面を覆いつくしていた。一歩も進めなかった。ここから、左の方の土手に飛び降りることは、怖かった。あの細くてでこぼこの土手の道に、着地する自信はなかったからだ。小川に落ちてしまうか、向こうの低くなっている笹薮に突っ込んでしまうかだ。例え、うまく着地できたとしても、体のどこかを打ってしまいそうだった。もしも、ここで足なんか怪我したら、ぼくは誰にも気づいてもらえない。一人では、帰れなくなってしまう。さすがに、あのマサルじいさんだって、ここまでは見回りしていないだろう。 心配するおじいちゃんの顔が浮かんだ。もう、おじいちゃんに心配はかけられない。ぼくは引き返した。一人だからこそ、危険なことはしない。ぼくは、安全な所まで引き返した。そうして、反対側に飛び移った。 小川の臭いは、あまりしなくなっている。あのぎらりとした、水の上に浮かんでいた七色の油のような膜も、少なくなっている。どこまで遡ったら、完全になくなるのだろう。 少し心細くなっていたけど、ぼくは、また源流を目指した。 だいぶ歩いた時、前方に手すりのない小さな橋が、かかっているのが見えた。この小川を横切るように、道路が通っているようだ。行ってみると土手の道は、橋を最後にもう、なくなっていた。その先は笹薮だった。 この辺からこんもりとした山が、始まっているのだ。木々がうっそうと茂り、その根元には笹が勝ち誇ったように群生していた。とても人が、入ってはいけなそうだった。小川は、その間を、ゆるやかに左にカーブして見えなくなってしまった。川幅も、狭くなっていた。ぼくは、何だか逃げられてしまったような気がして、しょげてしまった。 探検は、ここで終わりにしなければいけないのかもしれない。小川は、笹薮に守られているみたいだった。 でも、小川は逃げたんじゃないんだ。だって、水はぼくの方に向かって流れてきてるから。綺麗な水だった。ここには、生きものが住んでいるかもしれないと、思った。ぼくは、何がいるか見たくて、笹を掻き分けて入った。思わず、ギャーと、叫んでしまった。腕も脚も笹の葉で切ってしまったからだ。ぼくは、注意深く道路に戻った。擦り傷だらけになって血がにじんでいた。ちくちくと痛く、じりじりと痒かった。 つづく 、
Dec 21, 2010
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先生は、何をしたらいいのかを考えてくれないかなと、言った。どんな小さなことでも構わないからとも、言った。笑顔だったけれど声と目に、真剣な迫力があった。途端にぼくは、重い荷物を背負ってしまったのではないかと、思った。急かされているような、追われているような落ち着かない気分になった。 だから、ぼくには、イケの協力が、どうしても必要だったのに! とにかく、何をしたらいいのか、先ず書き出してみるしかないと思った。できることもできないことも、思いつくままを。 1 北くんとサッカーして仲良くなる。いじめの元凶の彼を味方につける。(これは、ぼくにとって、無理なことだけど。一応) 2 朝、登校したらみんなでサッカーか、ドッジボールする。(みんな、めんどくせーって反対しそう) 3 帰りの会のとき、その日の楽しかったことをみんなに話してもらう。(楽しいことなんて、学校では、ないような気がするけど、一応) 4 今までで、一番悲しかったことを話してもらう。(他人の悲しみに共感できたらいいけど。でも、みんなの前でそんなこと、言えるだろうか。言えてたら、こんなクラスには、なっていなかったはずだし) 5 みんなで、何かを続ける。例えば、クラス三十二人三十三脚を始める。そのタイムをあげる練習に挑戦する。テレビに出られるぐらい、強くなる。(みんな白けてしまいそうだ)考えているうちに、ぼくのクラスでは、とてもできそうにないことばかりだと、思った。みんなバラバラで冷めているし。ヒソヒソと秘密めいたことも、忍び足で教室中を、動き回っている。例えできたとしても果たして、一人ぼっちの子がいなくなる保証なんてあるのだろうか。いじめは、根が深い。簡単になんかいかないんだ。ぼくの考えていることは、みんな、実現できそうもないことばっかり。 山には登りたいけれど、登る前から、その困難を想像して、避けているぼくだ、きっと。先生に、協力するなんて言うんじゃなかったとぼくは、後悔し始めていたからだ。まだ何もはじめてもいないのに、挫折しかけている。難しくなってきて、ぼくは自分で引き受けたのに、投げ出したくなってしまった。 だけど、イケと一緒ならできる、とは、思った!何故なら、ぼくには、イケと一緒に解決した、悪との決別と言う輝かしい、金メダルがあるからだ!ぼくは、イケと力を合わせられれば、どんな難しいことだってできると信じている。 あの時、どういう風に言えば、イケはぼくと一緒にやろうとしてくれたのだろう。どうして、協力しないなんてイケは、断言したのだろう。ぼくはあの時、頭にきて、よく考えもしないで、一人でやるからいいと言ってしまった!イケは、―――正しいことをするんだから、協力するのが当然とぼくが思っている―――と、言った。ぼくはそんなこと一度も言ってないし思ってもいない。なのに、イケはそう言った。(言ってもいないし思ってもいないのに)態度に出ていたって、どういうことなのだろう。ただ、イケに断られるなんて、思いもしなかったことは確かだ。だから驚き、がっかりし、頭にもきてしまったのだ。イケは一緒にやってくれるものと、信じていた。イケは、ぼくのその態度のことを、言っているのだろうか。ぼくが気づいていないだけなのだろうか。ぼくの気持ちの中に、そんな傲慢さが隠れていたとでも言うのだろうか。ぼくは、そんなもの隠してなんかいない!思いもしないことが心の中にあるなんて、そんなことがあり得るのだろうか。心の中には思っていることしか入っていないはずなのに。イケの言っている意味が、分からない。イケは時々、ぼくの理解できないことを言う。 ぼくはその時、はっとした。理解できないこととか、やれないことばかり考えているから苦しくなってしまうんだ。そして、前に進めなくなって、他人の所為にしたくなったりするんだと、思った。一度引き受けておきながら、今更、断ることなんかできない。ぼく一人ででも、やるしかない。それなら、ぼくがやりたいと思うことを、考えていけばいいんだ。(考えてみれば、引き受けたのは、ぼくの都合でもあったのだから、文句なんか言えない) ぼくのやりたいこと。ずっと、抱き続けてきたこと。それは、校舎の裏のどぶ川を綺麗にすることだ。蛍が住めるような美しい川にしたいってことだ。水の流れのない川なんて、川とは呼べない。 小さい頃、一度だけ父さんと一緒に、蛍を見たことがある。ゆらゆらと、幻想を背に乗せて飛んでいってしまった蛍。今度は父さんの思いを乗せて、蛍が還って来てくれたら、どんなに嬉しいだろう。強くてやさしくて厳しくて、物知りだった父さんの魂をふわりと包んで、運んで来てくれたら。そしたら、ぼくは言おう。ずっと、思っていたこと。「父さん、ぼくはもう大丈夫だよ!思い出してばかりいて、とても苦しかったけどね。でも今は、父さんとの思い出が光ってるんだよ」って。 つづく、
Nov 24, 2010
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ぼくは、そんなことを、考えているのが嫌になっていた。 そんなときだった。牧野先生がぼくに、クラスに一人ぼっちの子がいなくなるように、イケと一緒に協力してほしいと言ったのは。今までは、関わりたくないと思っていたぼくだったけれど、(考えることから)逃れるように、つい引き受けてしまった。 クラスにいじめは、ある。みんな、一人ぼっちにされて、無視されてしまうことを恐れている。何時、自分がそうなってしまうか不安なのだ。信じられないような小さなことで、それが逆転して、いじめの対象となってしまうからだ。臭くないのに臭いと言われることや、汚くないのに汚いと言われることにびくびくしている。そう言われ始めたら、いじめの矛先が自分に向かってきているからだ。みんな左右を見て他人と同じようにする。少しでも、はみ出さないようにする。仕方がないから。我慢して。怯えながら。自分がターゲットにならないようにする。みんな、自信がないんだ。ぼくもそうだけど。自信があるのはイケだけだ。イケは他人の目を気にしないから、強い。へっちゃらだ。臭いと言われたって、汚いと言われたって、それがどうしたッと、怒鳴り返す。いじめられたら、やりかえす。誰にもできることじゃない。殆どの子は、まいってしまう。 新聞には今日も、いじめで命を絶った子の記事が載っていた。絶望してしまうんだ。ぼくは、絶望すると言うその気持ち、少しは分かる。なんにも見えなくなってしまうんだ。暗闇の中で、出口を必死に捜し回っても見当たらない。苦しいんだ。疲れきって、もうどうなったっていいと諦めてしまう。そして、他人を信じられなくなるんだ。友情だって簡単に分断されて、みんな繋がらなくなっていく。野島さんがそうだったように。悩みを打ち明けられる、ほんとの友だち(ぼくとイケのような!)がいれば、負けたりはしないのに。簡単に分断されたりしない、固い友情!ぼくには、それがある。 一人で(悩みを)抱え込んでしまったら、他人の悪意から容易くは、逃れられない。みんな、その悪意が自分に回って来ないように、悪意で自分を武装するからだ。そうやって、いつの間にか悪意は連帯していく。悪意の連帯は容易いのに、善意の連帯は難しいのだ。心の奥には、か弱いやさしさがあるのに、段々、出せないままになっていくのだ。そして、それは、習慣になって固まっていく。固い悪意の岩盤を、壊していかなくていけないんだ、誰かが。一人立ちあがる人がいなければ、誰も続いてなんかいかない。誰かが立ちあがらなければ、何も変わらない。暗い世界が続いていくだけだ。ぼくは、勇気のあるその一人になれるだろうか。イケとなら、組んで、やれるかもしれない。ぼく一人では、とても無理だ。ぼくには、イケがいる。ぼくは、花立に来て、本当に良かったと思っている。ぼくは、イケがいたから生きているんだ。 いじめる奴も、周りの人も社会病(ぼくの造語だけど)に罹っている。何か充たされないものを、八つ当たり(いじめ)で晴らしている。未来への不安で、心が沈む大人の社会(他人のことなんか考えられず、自分さえ良ければそれでオーケイの人が多すぎる)の中に子どももいるからだ。子どもの鏡には、そんな大人がしっかりと写っている。だから、他人の痛みなんか分かろうなんて思いもしない。そんな余裕はないんだ。 ぼくは、命を絶った子を、本当に傷ましいと思った!絶望してしまう子に、海に咲く花を見せてあげたい!どんな子でも、きっと、心の奥にある勇気を揺さぶられるはずだから。海に咲く花は、イケと二人だけの秘密だったし、誰にも見せたくなかった。でも、今は、違う。そんな子に見せてあげたいと、本気で思った。海に咲く花は、今頃何処を旅しているのだろう。海に咲く花は、ぼくたち子どもの大いなる希望だから。 いじめの岩盤を壊そうとするのは、容易くはなかった。だいいち、イケでさえぼくに、一人でやれと言ったからだ。「オレを当てにするな。お前が引き受けたんだろッ」「なんだよッ、協力しないのかよ。イケ、がっかりさせんなよ。親友だと思ってるのにィ」「それとこれは、別だよ」「どう、別なんだよ!」「正しいことをするんだから、協力するのはトーゼンってかッ。お前のソーユー態度、超むかつくんだよ」「どんな態度か知らないけど、ぼくはぼくなんだッ。むかつかれたって、しょうがないんだ。もうイケには頼まないからいいよッ。ぼくは一人でもやるから。イケになんか、絶対頼まないからいいよ!」「けッ、やってみろよッ」「イケのその態度だって、超むかつくよッ」 どうしてこうなってしまうんだろう。お互いに、言いたいことを言っているからだ。イケには、頭にくることも多いけど、でも、ぼくの大親友だ。 ぼくは一人でもやってみると、決心していた。何からはじめたら良いのか、何も分からなかったけれど。 つづく
Nov 4, 2010
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あれから一ヵ月後、ぼくは、おじいちゃんから、聞かされた。母さんに、赤ちゃんができたことを! イケが言ってた正夢。ぼくが恐れていたことだった!一瞬、息が止まりそうだった!本当に、聞きたくなんかなかったことだったッ。 ぼくと母さんのやっと縮まった距離が、逆に、それが原因でどんどん、広がっていく気がした。母さんと、血がつながっている子がまた、一人増えるのだ。耕ちゃんと赤ちゃん。ぼくは、いつまで経っても、どんなに待っても、母さんとは血がつながらない。当たり前なのに。当たり前のことなのに。ぼくは、だから、苦しいのだ。生まれてくる赤ちゃんが、じりじりするほど、羨ましかった!赤ちゃんは何て、幸せな子なのだろう!そして、可愛い耕ちゃんのことさえ、憎らしくなった。だって、母さんの本当の子だから。ぼくには血のつながった、おじいちゃんがいてくれるんだ!そう思うのに、ぼくは寂しい。 一瞬、無限岬に心が引き戻されそうになった。でも、ぼくはもうあんなことは、二度としない。どんなことがあっても。 海に咲く花を、思った。今頃、どこの海を漂っているのだろう。ぼくは。ぼくはどうして、イケみたいに、(赤ちゃんが生まれてくることを)飛び上がって喜べないのだろう。こんなぼくって、イケが言ったように、性格が悪いのだろうか。人を羨んだり、憎らしいと思ったりするから。ぼくはとても苦しい。その原因はいつだって、ぼくの外にあった。ぼくの所為じゃなかった。ぼくはそう、思っていた。でも、それは、間違いなのだろうか。ぼくの、受け取り方を、イケのようにすればいいのだろうか。そうすれば解決するのだろうか。苦しいと思う原因は、ぼくの中にあるのだろうか。ぼくが、変わるしかないってことなのだろうか。どうやって、変わればいいのだろう。無理やり変わったとしても、それは、一時的に自分を押さえ込んでいるだけだ。すぐに、元に戻ってしまう。ぼくは、イケのようにはなれない。そんなことを考えていると、母さんのために喜こぼうと努力しても、益々できなくなる。 ぼくは、母さんのこと、理解しようとしていたし、血がつながっていないことだって、認めていくしかないと、思い始めていたのだ。血がつながっていないからって、それが、何?ってぼくは、そう思い始めていた。やっぱり、母さんは、ぼくのたった一人の母さんだと思い始めていた。でも、それは、がらがらと崩れていきそうだった。ぼくの思いなんて、何て簡単にできているのだろう。何か起こると、すぐに壊れてしまう。 おじいちゃんは、話を続けた。「良かったな。お腹の赤ん坊は、女の子だそうだ。耕ちゃんも、飛び上がって喜んでるそうだしな。ルイにとっても、妹なんだし、な。弟と妹がいるなんて、ルイ、いいじゃないか。湖子さんも、やっと、これから幸せになってくれるだろう。良かった!ほんとに良かった!オレも、これで、安心だ。湖子さんには、(昶が死んで)今まで苦しませてしまった分まで、幸せになってもらわないとな」 おじいちゃんは、しみじみと言った。ぼくは、黙っていた。みんなが喜べることが、ぼくにはできない。「ルイ、母さんのために喜んでやれよ。それにな、ルイ。これを機会に、お前と一緒に暮らしたいって、また山中さんが言ってきてるんだがな。ルイが、その気になってくれたらって、さ」 おじいちゃんは、ぼくの気持ちが分かっているハズなのに、そう言った。 ぼくの知らないところで、大人はそんな話をしてるんだ。以前と何も変わってなんかいない。ぼくは、悲しくなった。 妹。血の繋がっていない妹。何て、悲しい話だろう。でも、ぼくは、本当は喜びたい。母さんに、いつまでも心配させたくない。どうしたら、心から喜べるようになれるのだろう。 つづく
Sep 14, 2010
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夢を見た。北くんが出てきた。何のわだかまりもなく、イケもぼくも、北くんとサッカーをしていた。あり得ないことだけど。それに、たった三人で。あんまり楽しそうではなかった。 イケは、北くんにボールを回さない。ぼくは、仕方なく北くんに回すけど、イケはすぐ奪って自分で蹴って、ボールを追っていく。そして、ボールを回してくるときは、いつもぼくにだけだ。楽しくも何ともない。「イケ、北くんに回して!」「へへへッ」 イケは、からかうように、ぼくを揺さぶる。「イケッ、イケったらァ。ふざけんなよォ」「へへへッ」「何で、笑ってんだよッ」 いつの間にか何も言わずに、北くんはいなくなっていた。いなくなってしまったのに、ぼくは全然気にもしないで、イケと二人でボールを蹴っている。 夢って、どうしてこう、つじつまが合わないんだろう。合わないのに、それを当然のように、すんなり受け容れてしまっているのだ。不思議で仕方がない。「ノジー、ノジー」 どこからか、野島さんを呼ぶ声が聞こえた。いつの間にか、今度は野島さんと三人でサッカーをしている!男女混合サッカーなんて聞いたこともない。それもたった三人で。イケは、ボールを蹴りやすいように、やさしく野島さんにだけ回してやっている。「イケ、ぼくにも、よこしてよッ」やっぱりイケは、「へへへッ」 ばかりだ。イケは、夢の中でも、野島さんが好きなんだ。 いつの間にか、また舞台が替わっていた。 ぼくもイケも、学校の図書館に隠れている。イケは、食べたこともない、お菓子か果物か分からないような物を持っていた。「食おうぜ」 ぼくは、何の警戒もせずに食べているけど、美味しいのか不味いのか、よく分からなかった。そして、夢はそこで終わり、ぼくはぐっすりと安らかな眠りの中に入っていった。 しばらくすると、また夢をみた。見たこともない場所にいた。 母さんが、赤ちゃんを抱っこしていた。耕ちゃんではなかった。耕ちゃんより、ずっと小さかった。ぼくは、見せて見せてと、せがんでいる。母さんは、ちょっとだけしゃがんで見せてくれた。やさしく微笑みながら。白い小さな帽子をかぶった、女の子の赤ちゃんだった。母さんの腕の中で、ピンクのほっぺをして眠っていた。母さんは、何処の家の赤ちゃんを抱っこしているのだろう。 母さんは、赤ちゃんを抱っこして歩いて行く。 ♪ 眠れ、よい子よ 庭や牧場に 犬もライオンも みんな眠れば ♪ 母さんが、ぼくの小さい頃、歌ってくれた歌。犬とライオンのぬいぐるみを、まくらの側に置いて。歌の歌詞は鳥や羊ではなく、いつも犬とライオンだった。 母さんは、その懐かしい歌を、今度は、その何処かの赤ちゃんのために歌っている。「母さん、何処の赤ちゃん?」 母さんは、何も答えず静かに微笑んでいる。「母さんッ。ねえ、何処の赤ちゃんッ?誰の赤ちゃん!」 ぼくは、怒って訊いている。何故だかぼくの心に、灰色の雲がかかりはじめている。もくもくとした、言い知れぬ不安が、広がっていく。はっきりと見えないことへの不安。 ぼくは、自分の胸の鼓動で、目が覚めた。 イケと一緒に登校するとき、ぼくは夢の話をイケにした。「正夢じゃ、ねッ?良かったじゃん、お前に妹ができるんだよ」「妹?何でだよッ」「お前の母ちゃんの子なら、妹だろッ。きっと、可愛い子だよ」「何で、母さんの子って分かるんだよ!他所の家の子かもしれないじゃん。何でだよ」「お前、性格悪すぎだろ?何で、素直に喜べねーんだよ。可愛い妹なのによ。オレなら、飛び上がって喜んでよ、星の一つぐらい掴んできてプレゼントするぜ」「妹なんかじゃないよ!血がつながってないんだから」「お前、やべえな。そんな考えしかできねえのかよ。母ちゃんのためにも、喜んでやれよ。いつまで、そんなことばっか、言ってんだよ」 ぼくは、もうイケの話を聞いてなかった。イケと一緒になんか登校したくなかった。ぼくは、走り出していた。学校ではなく、無限岬を目指して。 ぼくは、もしも。 もしも、母さんが女の子の赤ちゃんを産んだら、どうやって喜んだらいいのだろう。喜こべるぼくになりたい。でも、どうやって? おじいちゃんだって大喜びするだろう、きっと。ぼくだって、喜びたい。でも、でも、どうすれば、喜べるぼくになれるのだろう。ぼくは、あの白い海に咲く花を、思い浮かべていた。 第六章 終わり
Jul 23, 2010
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おじいちゃんは、その夜、きっと、ぼくたちに今まで何があったのかを訊くと思った。ぼくは、覚悟を決めていた。「今夜は、ルイもイケもゆっくり休むんだぞ。いいかい?もう、何も心配することは、なさそうだから。イケの父さん、まだ帰って来てないようだったからさ。もう少し経ったら、また、(電話)掛けてみるから。大丈夫だから、な。ゆっくりお休み」「帰って来ない時も、あるっす。子どものことなんか、考えてもいない、飲んだくれの親父で、全く、しょうがないっす」「そうか、飲んだくれかい?それでも、イケの大事な父さんなんだよ。今は分からなくても、いつか分かる時がくるから、なッ?イケの父さんだって、それなりにイケのことは、考えているんだよ」 イケは、ちょっと不服そうな顔をした。おじいちゃんは、苦笑いした。「物事を分かるには、順番ってものがあるんだ。それにな、時間がかかるんだよ。オレだって、この年になって、やっと分かったこともあるんだ。だからイケも、今に分かる時が必ずくるから、なッ」「オレ、多分。親父のことは、分からない気がするっす、一生」「いやいや、そんなことはないよ、イケ。イケには、持って生まれた智慧がある。物事を分かる智慧だ。それにな、大きく伸びていく資質がある。それを確かに育てていくのが勉強だ。イケ、勉強好きか」「嫌いっす」「あはは、即答かい。勉強が好きな子なんて、滅多にいないよな?」「でも、ルイは勉強、好きみたいっす」「好きじゃないに決まってるよッ。イケったら、勝手なこと言うなよ」 ぼくは、ちょっとむかっとした。 「あはは、そうだよな。勉強は、他人に言われてするのは、辛いもんだしなぁ。勉強が面白くなったら、こっちのもんなんだがな。一気に伸びていくんだよなぁ。そこまで行くのが大変なことなんだよなぁ」 おじいちゃんは、いつの間にか独り言のように、自分に向かって話している。ぼくとイケは、顔を見合わせてしまった。このまま、話を聞いていなければならないのは、ちょっと辛いと思ってしまったからだ。「おじいちゃん、ぼくたち眠くなってしまったよ、寝てもいい?」「ああ、そうか、そうか。そうだったよな。つい、昶の小さい頃を思い出していたよ。あいつは、勉強が面白くて仕方がない子だったからな。一度も勉強しろなんて、言ったことがなかったな、あはは」 おじいちゃんは、懐かしそうに、父さんを愛しむように、静かに笑った。ぼくはおじいちゃんが、父さんの小さい頃の話をしたので聞きたくなっていた。「眠くなったか。よしよし、もうお休み。寝る子は育つ。二人とも、ぐっすり寝るんだぞ」 おじいちゃんは、話をそこで止めてしまった。ぼくが聞きたいモードに切り替わった時には、話は終わりだった。 イケは、布団に入るとすぐに眠ってしまった。寝息が、すうすうと聞こえ、イケは安心したんだと、思った。イケは、今日、悪と向き合って、勝ったのだ。どんなに疲れたことだろう!どんなに嬉しかっただろう!眠ってしまったイケに、ぼくは小さく声をかけた。「イケ、良かったねッ。イケ、勝ったねッ」 イケは、穏やかな眠りの中で、明日からの新たな出発の喜びを感じているみたいだ。聞こえてくる暗闇の中の呼吸に、ぼくは、生きていることの尊さを、ひしと感じていた。 父さんが小さい頃、どんな少年だったか、さっき、おじいちゃは少しだけ話してくれた。何だか、ドアのすき間から小さい頃の父さんが少しだけ見えた気がした。もっと、父さんのこと聞きたかった!知りたかった!父さんは、勉強を面白いと感じていたんだ。だから、努力できたんだ。ぼくの父さんは、凄い人だったんだ。 明日になったら、父さんの小さい頃の話、もっともっと、おじいちゃんに聞こう。 そう思った途端、ぼくはもう、すとんと、柔らかい夢の中に落ちていった。 つづく
Jun 18, 2010
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「おじいちゃん?先生、来ないかなあ?先生にも、美味しいご馳走、食べてほしくない?」「先生?おッ、牧野先生か。先生は、忙しいだろう。急に言ったって無理じゃないか。それよりも、近頃はいろいろうるさいことを言う親も多いしな。家に呼んで、食事をしてたなんてな。先生の立場が悪くなったら、申し訳ないことだし、な」 おじいちゃんの気持ちは、動いてはいる。イケは、押せ、押せとぼくに合図してくる。全くうるさいイケなんだから。プレッシャーだけど、でも、何だか可笑しい。つい、笑ってしまうし、引き受けてしまうのだ。イケは明るくて、ひょうきんで、頭もいい。ぼくは、イケに押されて何が何でも、おじいちゃんを説得しなくちゃいけなくなってしまった。「おじいちゃん、そんなの、気にしなくていいんじゃない?先生なら、大丈夫だよ。跳ね除けちゃうよ。先生、強いんだから。北くんの母さんとケンカしたって絶対負けないんだから、ね。カッコいいんだから」 ぼくは、何だか、めちゃくちゃなことを言ってる。だって、イケの希望を背負って立ってるから。大げさだけど。 イケが、ぐふっと笑い、止まらなくなってしまった。腹を抱えている。おじいちゃんは、つられて笑っているけど、どうしたのと言う表情だ。イケは、大事なところで、笑うんだから。「おや、何だい。北くんが、どうしたって?」 おじいちゃんは、半分笑い半分怪訝な顔だ。「おじいちゃん、お願い!兎に角、先生に電話して、来てもらおうよッ。ぼく、合唱コンクールのことで、先生から頼まれてることもあるんだ。詳しく訊きたいし。ねッ?」 おじいちゃんは、ぼくの顔を見てから、イケの顔もみた。「要するに、先生と一緒に飯食いたいんだろッ?ルイもイケも、な」「やべッ、ばれてる」 イケは、けろりと言った。「ばれてても、いいさ。よし、学校に電話してみよう。ただ、先生が来ないと仰ったら、そこで諦めるんだぞ。いいかい?」「ありがとう!おじいちゃん」 ぼくの声が裏返っている。おじいちゃんは、電話をしてくれた。丁寧に話している。イケは、ぼくに親指を立てて見せ、顔をくちゃくちゃにして笑っている。「お帰りになられたんですか。いやいや、急ぎの用では、ありませんから。ありがとうございました」 おじいちゃんは、そう言って切った。イケのしかめっ面ったら、なかった。ぼくも相当がっかりしたけど。 三人で食事を、はじめた。おじいちゃんは、突然言った。「イケ、食う時は、姿勢を良くしろ。じいちゃんの家に来た時は、じいちゃんに従ってくれ。そんなに、丸まって食ってたら、胃にも良くないぞ。大きくなれないしな。だいいち、美味くないだろう」 ぼくは、びくっとして聞いていた。ぼくは、学校でいつもイケの給食の時の姿勢は気になっていた。先生は、何も注意しなかったから、ぼくも何も言わなかった。イケの個性なんだと考えて。 イケは、何て答えるだろう。ぼくは、どきどきした。イケは困ったような顔をしている。おじいちゃんも、言いすぎだと、ぼくはイケの肩を持った。イケは、やられて擦り傷だらけなのだし。姿勢だって悪くなるのは、当たり前だと思う。「おじいちゃん、イケは、今傷だらけだよ。無理だよ。折角美味しく食べてるのに」 イケは、ぼくを押さえた。じっと、おじいちゃんの言葉を聞こうとしている。「オレは、イケの食い方を見ていると、(食事が)不味くなるよ。ルイ、じいちゃんが我慢するのか。イケが直すのか。どっちだ?」 ぼくは、黙っていた。イケが直した方がいいに決まってるけど。何て答えたらいいのか迷ってしまった。「オレ、直すっす、小父さん。オレ、気を付けるっす」 イケはそう言った。「そうか。イケ、ありがとうな。オレは小うるさいかもしれん。でもな、これからも、気になることがあれば、注意するけど、いいかい?」「いいっす」 イケは、何て潔いんだろう。ぼくだったら、きっと、「いいっす」なんて言えない。 つづく
Apr 28, 2010
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おじいちゃんは、目を細めて、ぼくたちを、包み込むように見た。ぼくは、光あふれる中にいた。これがきっと、慈愛の目なんだ。ぼくは心が軽くて、あったかくて、何だか、えへへ、えへへと笑ってばかりいた。ちょっと、ヘンになってしまったみたいに。こんなにすっきりと、嬉しかったことは、ずーっとなかった。心から笑えていることが、楽しくて仕方なかった。「おじさん、来てくれて、ありがとう。ついでに、オレ今日、泊まらしてもらっていいっすか。すみません」 イケは、おじいちゃんにそう訊いた。「あはは。いいよ、いいよ。何日だっていいさ。池上くん、皓平ちゃんって言ったかい?皓ちゃんの、父さんの許可ももらってやるからな。心配しなくていいから。何日、泊まったって、いいさ。その代わり、二人とも、ちゃんと宿題やっていくんだぞ。牧野先生を、困らしちゃ、だめだぞ、いいかい?」 ぼくとイケは、思わず顔を見合わせてしまった。「困らせねっす。オレ、これからは、マキちゃんに協力するっす」「マキちゃん?ああ、牧野先生のことか。わはは。あはは。皓ちゃん、面白いねえ。協力ついでに勉強も頑張ってみ(るかい?)」 イケは、おじいちゃんが言い終わらないうちに、返した。「あッ、それは遠慮するっす」 みんなで、爆笑してしまった。イケは、瞬時に、的確に、打ち返すラケットを持っているんだ。「遠慮なんか、するなよ、皓ちゃん。皓ちゃんは、なかなか、見込みがあるんだから、さ。面構えだって、きりっとしてるしなぁ。牧野先生も、しっかりした、将来性のある子どもだって、そんな風に仰ってたぞ」 イケは、にやにやして聞いている。「おじいちゃん。イケのこと、皓ちゃんて呼ぶと、(ぼくの弟の耕ちゃんと)紛らわしいよ。イケって、呼んだ方がよくない?」「そうか、そうだな。どうりで、皓ちゃんて呼びやすかったんだなぁ。あの頃、(一緒に暮らしていたから)耕ちゃん、耕ちゃんって毎日呼んでたからなぁ。耕ちゃん、元気にしてるだろうかな。みんなに、かわいがられているだろうな。そうだなぁ。ルイの言う通りにしよう。皓ちゃん、イケって呼ぶことにして、いいかい?」「いっす、照れるっす。オレ、久しぶりに、すんげー、嬉しっす」 エフワンの中には、楽しい空気が、満タンだった。 帰るとすぐ、イケに着替えてもらった。イケは、傷とアザだらけだったけど、骨折もなかった。捻挫もしてなかった。もしかしてイケは、やられることに、慣れていたのだろうか。一瞬、ぼくは奴らを許せなくて、ぶるっと震えた。でも、イケは元気で、はしゃぎまくっていたのだ。傷を消毒する時も、わざと「死んでしまう!死んでしまうよォ!」 と、叫んだ。「イケ。こらこら、じっとして、じっとして。じっとしないと、死んじゃうぞ」 と、おじいちゃんも、何だか明るかった。ぼくもおじいちゃんも、それで、安心してしまったのだ。後になって、イケの左手に障害が残るなんて、おじいちゃんでさえ、その時気付かなかったのだ!ぼくは、悔しくて悔しくて、仕方がない。 イケは何事もなかったように、夕食の手伝いもした。おじいちゃんは、張り切ってしまって、ご馳走が沢山並んだ。三人で、わあわあ話しながら、準備した。 ぼくは、牧野先生が、家庭訪問してくれないかなあと、密かに期待していた。牧野先生も一緒に食事ができたらと、ぼくははじめてそう思った。「マキちゃん、来てもらいたくねッ?ルイ。飯、こんなに旨そうだし、よ。オレのこと、マキちゃん、見込みがあるって言ってるしよ。やっぱり、マキちゃん、見る目あるし。これはもう、招待するしか、ねくね?」 ぼくは、笑ってしまった。ぼくと、同じことを考えていたし、イケがいい気になっていることが、可笑しくて、嬉しかったからだ。 おじいちゃんに、電話してもらえと、イケは図々しく、ぼくに命令した。イケったら、しょうがないんだから、全く。 つづく
Apr 22, 2010
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「おじいちゃん。イケはとうとう、勝ったんだよ。最高のメダルだよね。イケは間違っていなかったんだ。凄いよ、イケって」 ぼくの声はかすれ、振るえた。おじいちゃんは無言だった。じっと何かを考えているようだった。ぼくとおじいちゃんは、エフワンの中から降りていくことも忘れて、イケを見つめていた。 イケは、時々足を止め、空を見上げて深呼吸しているみたいだった。イケは自由になったのだ!危険な目にあいながら、取り戻した尊い自由だった。「そうか、そうだったのか。そういうことだったのか。マサルんとこも、こんな風に解決できてたらな。あんなことにはならなかったんだ。悔しいよ。オレは、何の役にも立たなかった・・・。お前たちは、立派だったよ」 おじいちゃんは、喉に詰まりそうな声でそう言った。ぼくは驚いておじいちゃんを見た。真っ直ぐ前を向いたまま、手で濡れた頬を拭っている。 マサルも、息子のことで過去に、何かあったのかもしれない。おじいちゃんは、親友のために涙を流している。過去に、親友のために役に立つことができなかったと後悔しながら。責めながら。 イケが、訝るように、透かすようにこっちを見ている。右に左に体を少し傾けながら。多分、イケには、ぼくたちだとは、分からないかもしれない。自動車(くるま)に乗っている人を識別するのは、車外からは分かり難いのだ。まして、こんなに離れているのだし。乗っている方からは、車外がしっかり見えるけど。 ぼくは、飛び降りてイケに向かってダッシュした。「イケーッ、イケーッ」 イケは、立ち止まったまま、片手を大きく空に向かって突き上げた。勝利宣言だ!「オレ、やっただろー?勝っただろー、なーっ?ルイーッ」 イケは、叫んだ。「勝ったよーッ。勝った、勝ったァ!イケー、良かったねー」 ぼくは、叫び返した。「ほら見ろッ、なーッ?」 イケは右手を挙げて待っている。ぼくは、全速力で走った。右手でその手を力強く打った。ワーイと、歓声をあげながら。イケは、ぼくの勢いで少しよろけた。「イケ、大丈夫なの?待っててくれればよかったのにィ。(無限)岬まで行こうとしてたんだよ、遅くなっちゃったけどさ。歩けるの?」「見れば分かるだろ?オレさ、弾けそうでよ。じっとなんかしてられなくてよ。エフワン、待ってられなかったんだ。わーッ、オレ、抜けられたぜーってな。ラッキーだぜーってな。クルー(ダンス)でも、サンバでも、盆踊り(!?)でも、踊りまくってやるー。そんな気持ちなんだよな、オレ、今よ。すげー、楽しくて、よ。すっきりしてよ。ルイ、サンキューだぜ。お前がいたから、抜けられたからよッ」 イケのこの言葉は鮮烈に、ぼくを打った。イケは、こんな風に思っていたんだ。ぼくは、役になんか立っていなかったのに。ぼくは、思わず胸が詰まり、何も言えなくなってしまった。「ルイ、何とか言えよ」「う、うん」「お前、それだけかよ。オレのために喜べよ、親友だろッ?お前に感謝してるしよ」「う、う、うん。うん」「お前、何踏ん張ってるんだよ?催してきたのか?」「?。ぶッ。ぶははッ。何だよ、イケったら」 ぼくは、可笑しくて転げてしまいそうだった。「イケったら、あははは」 ぼくは、お腹を抱えてしまった。「そんなに、受けた?えッ、そんなに受けてしまったのかよ。あはッ、あはは、あはは」 とても愉快な面白い、ぼくたちの勝利の笑いだった。 エフワンが、ゆっくりと近づいて来た。おじいちゃんが、窓から顔を出した。目も鼻の頭も、赤かった。「楽しそうに笑ってて、オレまで楽しくなるよ。ご苦労さん。さあ、乗った乗った。あはは」 つづく
Apr 12, 2010
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もっと早く、イケのところに行くべきだった!でも、今、おじいちゃんがついていてくれるんだ。奴らだって、手出しはできないはずだ。もう、作戦を練っている時間なんて、ない。「ルイ!苦しいのかッ?どこか、痛むのかッ?」 おじいちゃんは、ぼくの顔を覘き込んだ。「そうじゃないんだッ。前方(まえ)を、走ってる自転車、見えるッ?あの、乗ってる奴らがイケを、無限岬に呼び出してッ、殴ったり蹴ったりしたんだ!それで、イケが怪我したんだよッ。あいつらなんだ」「ルイ!お前がこそこそしてたのは、そう言うことだったのか。何で、池上くんだけがやられて、お前はやられなかったんだ。まあ、詳しい話は後だ。池上くんは重傷じゃないんだよな?無限岬に一人でいるんだろ?無限岬でやられたんだな?あの子らは、一旦引きあげてから、また、(無限岬に)戻ろうとしてるってことか。それなら何で、一度、引きあげたんだ!何かあったのか」「マサルが来たからだよ。おじいちゃんの友だちの」 おじいちゃんは、一瞬笑い出した。こんな重大な時に。「お前、じいちゃんの友だちを、呼び捨てにするな。あいつかぁ。自転車で、あちこち見回ってくれてるからな。マサルは、ケンカを止めてくれたのか。何で、マサルが池上くんを助けてやらなかったんだろう、あいつらしくもないッ」「マサルは、イケがやられてるのを見てないからだよ。奴ら、イケを草の中に隠したんだ。卑怯なんだよ。マサルは、奴らを学校まで送っていったんだ」「お前と池上くんも、今日は学校に行ってないのか。まあ、それも後で話してくれよな、ルイ?牧野先生にも、説明しなければならないぞ」「おじいちゃん。ぼく後で、ちゃんと話すから。ごめんなさい。イケはね、ぼくに奴らと関わるなって言ってね。一人で無限岬に行ったんだよ。ぼくは、学校を抜け出してイケを追ったんだ。イケは、一人で戦わないと奴らから抜けられないって。ぼくが加勢しちゃ絶対ダメだって。だから、ぼくは、奴らの前には出てってないんだ。隠れたまま、イケがやられるのを見てたんだ。悔しかったよ、ぼく。ほんとは、奴らに仕返ししてやりたい。でもイケはね、警察に言ったり、仕返ししたら、エスカレートするだけだって。イケは奴らからもっと抜けられなく、なっちゃうんだって、言うんだよ」 腕組みし、目を吊り上げて聞いていたおじいちゃんは、ゆっくりとこう言った。「マサルの息子もな、そうだったよ。・・・・・。オレは、あいつの気持ち、分かってやれてなかったと、今になって思う」 ぼくが、マサルの息子のことを詳しく知るのは、ずっと後になってからだった。ぼくは、会ったこともないマサルの息子の話より、イケを早く助けたかった。「ルイ、これは簡単なことじゃないぞ。よく考えて行動しないと大変なことになる。マサルの息子もそうだった。あの子らは、集団だ。集団の力は半端じゃないんだ。特にな、悪い方に流れるエネルギーを、抑えるるのは難しいんだ。悪さをしても、集団だと、その意識が薄れてしまうんだよな。一人ひとりは、話してみるとそんなに悪くないんだが。オレは今、マサルに教えてもらってる。まさか、こんなところでな」 おじいちゃんの言っていることが、理解できなかった。何を言いたいのだろう。マサルのことより、一刻も早く、イケのことを考えてほしかった。「自動車、ちょっと先で止めよう。ルイは、乗ってろ。オレが歩いて行ってみてくるからな。池上くんの言ってることは、正しいよ。でもな、下手したら、ほんとにやられる、ぞ。あの子らの(集団の悪の)力を、穴を開けて外に逃がしてやれれば成功だ。押し戻したり、説教したりすると、力は強くなってしまうしな。反抗して、益々、悪い方へいくし。これは、難しいぞ。ルイ、じいちゃんを信じて待ってろ。お前は、絶対来るんじゃないぞ、いいなッ」 おじいちゃんは、ゆっくりとエフワンを進めた。「おい!こっちに向かって歩いて来るの、池上くんじゃないのかッ」「あッ、イケだ!イケだよ、おじいちゃん!」 おじいちゃんは、エフワンを止めた。イケは、ゆっくりと歩いて来る!怪我は、もう大丈夫なのだろうか。 ぼくは急いでシートベルトをはずした。自動車から降りて走り出そうとした。おじいちゃんが、ぐぐっとぼくを、押さえつけた。「ルイ、止めろ!少し様子をみるんだ!」 おじいちゃんは、重く命令するように言った。こっちから行く奴らの二人は、自転車を降りた!イケは、立ち止まったまま、頭を下げたみたいだった。奴らは石を、イケとは反対の方へ蹴りつけた!バシッ、ビシッと!そして、そのまま、自転車に乗って行ってしまった。 イケに危害を加えることはなかった!後から行く奴らの仲間の三人も、同じように自転車を降りた。石を、イケとは反対の方へ、蹴り飛ばした。一人だけ、石を手に持ち、イケの足元に叩きつけた!石は、イケには当たらずに、『解決』の方向に飛んでいった。 奴らは同じように、また自転車に飛び乗って行ってしまった。 ぼくとおじいちゃんは、ゆっくり歩いてくるイケに、心から拍手を送った。 ぼくは、イケがたった一人で賢明な勝利を手にしたことを、胸に溢れる感動で見つめていた。 つづく
Apr 1, 2010
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ぼくは、とても豊かな気持ちだった。ふっと、こんなことを夢想してしまった。イケも一緒に、ぼくの家でずーっと暮らせないものかな、なんて。そしたら、何て楽しいだろう。三人で、笑ったりけんかしたり、怒られたり泣いたりして。そうして、成長(おおきく)なっていくんだ。イケにはちゃんと、父さんがいるんだから、そんなこと、できる訳ないけど。 ばかげたことって分かってるし、イケに笑い飛ばされてしまう。イケだけじゃなく、おじいちゃんにだって。だから、こんなことは、誰にも言えない。ぼくは、思わず、苦笑してしまった。でも、気持ちは、爽快だった。「何だ?塁」「ぼく、時々、無理って思うようなこと考えちゃうんだよ」「そうか、無理なことか。無理なこと、な。それは誰だってあるさ。オレだって、しょっちゅうあるしな。いいんだよ、(無理なこと)考えたって。塁も、段々、大きくなってるんだ。様々なこと、考えて、な。じいちゃんも、体を鍛えて長生きしないと、さ。塁のリクエストだから、よ」「そう。そうだよ、おじいちゃん。へこんでなんかいられないよ。父さんに笑われてしまうよ」 ぼくは、じぶんの言葉にびっくりした。父さんに笑われる、なんて、自分で言いだしたからだ。ぼくはもう、父さんを悲しく思い出してはいなかった。むしろ、懐かしく、誇らしく思うようになっていたのだ。 さっき、おじいちゃんが、父さんの分も生きなくちゃと、言ったけど、ぼくもほんとに、そう思った。父さんに、誇りにしてもらえる息子になる、きっと。 おじいちゃんは、ちらっとぼくを見て、力強く言った。「そうだな!そうだよ!お前の言う通りだ。お前は、ほんとに、昶に似てきたよ。昶も、頑固だったけどな。でも、真っ直ぐな奴だったよ。オレは、いい息子を持って幸せだった」「ぼくだって、いい孫でしょ?だから、おじいちゃん幸せ?えへッ」「こらッ。調子に乗るな」 おじいちゃんとこんなに楽しく話したのは、耕ちゃんがまだ、ここにいた時だった。 生意気な耕ちゃんは、何してるんだろう。ぼくの、可愛い弟。ぼくは、耕ちゃんと、遊んであげなかったな。「耕ちゃん、どうしてるかな?」「ああ、耕ちゃんかぁ。どうしてるかな?耕ちゃんは、心配ないよ。人懐っこいからなぁ。みんなに愛されてるし、な。山中さんのことも、すぐに☆父さん☆と言ってじゃれたりしていただろ?あはは、耕ちゃんなぁ。可愛いなぁ」 おじいちゃんは、目の前に耕ちゃんがいるかのように、あははと、何度も笑いかけているようだった。「耕ちゃん、夏には遊びに来るだろう。湖子(うみこ)さんも山中さんも、な」 ぼくは、もうその時、おじいちゃんの言葉を聞いていなかった! 前方に、奴らの姿があったからだ!確かだ。奴らの仲間二人が、向こうに向かって自転車をこいでいる! この道のずっと先は、左にカーブした後、無限岬へ行く道と、海の草原へ行く道とに分かれている。その、かなり先の方にも、奴らの仲間が三人、自転車で行くのが見えた。そして、カーブで見えなくなりそうな先にも、奴らの仲間に違いない人影が二人、小さく消えていくところだった。奴らは、イケの待っている無限岬に向かうつもりなのだろうか!イケをまた、殴ったりする気なのだろうか!集団ではなく、二・三人に分かれて行動していることが、ぼくを、不気味にさせた。「おじいちゃん!停めて!」 ぼくは胸が苦しくなって叫んだ。「どうしたッ?ルイッ」 おじいちゃんは、グイッとエフワンを止めた。 つづく
Mar 27, 2010
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ぼくは、おじちゃんが言った意味が、一瞬、理解できなかった。おじいちゃんが、とても強い人だと思っていたからだ。父さんの死に、一番先に打ち勝ち、立ちあがったのは、おじいちゃんだった。それに、母さんが立ち上がれたのも、おじいちゃんの励ましがあったからだった、はずだ。ぼくが、父さんの次に尊敬してるのは、おじいちゃんだ。だから、そんな(!)ことをするおじいちゃんはとても、嫌だった!弱いおじいちゃんなんて、見たくもなかった。ぼくは、どんなに怒られたっていいから、強いおじいちゃんでいてほしかった。おじいちゃんの弱音を吐く姿なんか、見たくなかった。 ぼくは・・・。(自分だって死のうとしたのに)死のうとしたおじいちゃんが許せなかった。それを、認めたくなかったのだ。 おじいちゃんのその告白は、あまりにも、衝撃的だった。「おじいちゃん!死のうとしたのッ?ねぇ、おじいちゃん!ぼくを置いて、死のうとしたのッ?」 ぼくの声は震え、尖がっている。「オレは、全くバカだったよ。こんなにかわいい孫を、置いてなんて、な!」 おじいちゃんは、微かに笑った。涙の中で、仄明るく。きっと、ずっと自分を責めてきたのだろうと思った。おじいちゃんは、今度こそ、本当に乗り越えたのかもしれない。 でも、ぼくは、何故だかどうしても、おじいちゃんを許せなかったのだ。例え、一瞬だったとしても、おじいちゃんが、ぼくを残して逝ってしまおうとしたことが。ぼくを、思い出すこともなく、無限岬に向かったことが。ぼくのことを、忘れ、考えてくれなかったことが。「もう、あんなことは、二度としない!オレには、昶が遺していったお前がいる!まだまだ、死ねるものか!塁。じいちゃんは、もう、あんな真似はしない!お前が二十歳(はたち)になるまでは、どんなことをしてでも生きる。塁、じいちゃんと一緒に頑張ろうな!昶の分も生きてやらねばな!昶の無念を、オレたち二人で、立派に生きて、はらしてやろうな、塁」 絞り出すような、声だった。おじいちゃんの胸の奥からの、決意が、ぼくを揺さぶった。これが、本当のおじいちゃんなのだ。ぼくの尊敬する人だ。おじいちゃんも、どんな思いを抱えてきたのか、ぼくは、少し分かったのだ。ぼくは、もうおじいちゃんを責めたりなんかしない。おじいちゃんも、ぼくも、本当にもがき苦しんだ。それは、同じだったのだ。 ぼくは、おじいちゃんに、ぼくも死のうとしたんだとは、きっと一生言えないかもしれない。ぼくには、死のうとしたおじいちゃんを、責める資格なんてない。ぼくは、おじいちゃんを心配させるようなことは、もうしないと、決心した。まだ話していないけど、一つだけ、おじいちゃんを心配させてしまうことがある。奴らとのことだ。でも、きっと、イケと奴らの関係も、もう、終止符が打てるような気がしてきた。 あ、そうだ、イケ!イケのことを、忘れてしまっていた!行かなくちゃ!「おじいちゃん!無限岬、行ける?行くのは、嫌?イケが待ってるんだ」「嫌じゃないさ。もう、無限岬、鬼門になんかしないさ。堂々と、行ってやる。大事な孫の親友が、怪我してるんだから、な!」 おじいちゃんは、晴れ晴れとした顔だった。隠していた真実の荷物を、背中からおろしたような、安堵した顔だった。鼻の頭が赤くて、目が腫れぼったかったけど。 無限岬に、急いで向かった。エフワンの中で、おじいちゃんもぼくも、何も話さなかった。 おじいちゃんは、何故、無限岬になんか、イケと二人で行っていたのかと、訊かなかった。ぼくが後で話すといったことを、信じていてくれるからだ。 ぼくは、おじいちゃんの隣で、何だか弾んでいた。このエフワンの中で起きたことを、もう一度かみ締めながら、充足感でいっぱいだったのだ。「塁?」 おじいちゃんは、前方を見たまま、ぼくを呼んだ。「なーに?おじいちゃん」「いや、何でもないけどな。お前が、愛しくて、な。つい、呼んでしまったよ。あッはは」「えー?おじいちゃんたらぁ」 ぼくの気持ちが、ふわっと膨らんで、ちょっと、くすぐったくなった。 ぼくは、さっき言えなかったことを、囁いた。「おじいちゃん。ぼくが二十歳になるまでじゃなくてね。ぼくが、おじいちゃんになるまで、長生きしてねッ?」 おじいちゃんは、愉快そうに笑って、言った。「よしよし、よしよし」 つづく
Mar 23, 2010
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おじいちゃんの目が、驚きで釣りあがった。「塁、どうしたんだツ?」 おじいちゃんは、怒鳴るように訊いた。「塁!いったいどうした?池上くんも、どうしたんだッ?何があったんだ?」「おじいちゃん、イケが怪我してるんだ!エフワンに乗せて。ぼくと一緒に迎えに行って、おじいちゃん!」 ぼくの舌がもつれている。「何処にいるんだ、池上君?学校か、そうじゃないんだな?どんな怪我だ?救急車、よばなくていいのか?」「エフワンでいいんだ。救急車は、だめなんだ、だめなんだよ」「駄目?何でだ?」 「エフワンがいいんだよ!おじいちゃんに来てもらいたいんだ!今、すぐだよ。おじいちゃん、ぼくね。帰って来てから、詳しく話すから。だから、ねッ、お願いだよ」「池上くん、大丈夫なのかッ?親に連絡しなくていいのか?」「イケが大丈夫って、言ってる」 ぼくは、焦って言った。すぐにでも、無限岬に行かなければ。おじいちゃんと話してる暇、ないんだ。奴らが戻ってきているのではないかと思って、心臓がバクッとした。イケが、またやられているのではないかと、心配だった。イケを一人には、しておけない。「親には連絡したのか?」「してないけど、イケの父さん、来ないと思うし」「何で来ないと思うんだ。自分の子が怪我して、来ない親がいるかッ。怪我は軽いんだな?それなら、まあ、よしとしよう。塁。クラブ(囲碁)に、休むって連絡するから、待ってくれ。ずっと、休んでたからな。今日は、行くって言ってあったんだ」「おじいちゃん、ごめんなさい」「かわいい孫のためだし、な」 おじいちゃんは電話をかけている。何て話が長いんだろう。ぼくは、待っていられなくて、鍵を持ってエフワンに乗り込んだ ――イケ、今行くから。イケ、頑張れ!おじいちゃんと一緒に行くから。頑張れ―― ぼくは、無限岬のイケの心に、懸命にエールを送っていた。「塁、すまんすまん。遅くなってしまったな。池上君は、何処にいるんだ?誰かと一緒なのか?学校ではないんだな?」「一人だよ。無限岬だよ」「何だってッ?無限岬かッ?」 おじいちゃんはそう大声で言って、それっきり黙ってしまった。自分の部屋に入って、鍵をかけてしまったみたいだった。側にいるぼくのことさえ、見えていないようだった。黙ったまま、ただ、空中を見据えている。これから、イケを迎えにいくことを、忘れてしまったかのように!ぼくは、成り行きに声も出ない。おじいちゃんは、どうしてしまったのだろう。何が起きたのだろう。おじいちゃんは、無限岬に反応したのだ。何故だろう!「おじいちゃん?」 ぼくは、小声で呼んでみた。返事がなかった。不安になった。おじいちゃんは、肩で息をしている。具合が悪くなってしまったのだろうか。ぼくは、今度は、おじいちゃんのことが心配になってしまった。「おじいちゃん、大丈夫?運転できない?」 ぼくは、おじいちゃんの顔を覗き込んだ。ここにいるような目をしていなかった。「う~ん?」 おじいちゃんが、ずっと遠くから返事をしたような気がした。こんなおじいちゃん、ぼくははじめて見た。「おじいちゃん、大丈夫?どうしたの?」「おお、塁か?大丈夫だ、心配するな。じいちゃんな。あのな。あそこで、しでかそうとしたことがあったんだ。それを、まざまざと思い出してしまって、な」 おじいちゃんは、両手で顔をなでた。そして、そのまま顔を覆ってしまった。ぐっ、ぐっ。おじいちゃんは、呻いた。ぼくは、不安になって声が出せない。そのまま、時間が過ぎていく。ぼくは、どうすればいいのか、分からない。ようやく、 おじいちゃんは、顔をあげて、ぼくを見た。涙で顔を、ぐしゃぐしゃにして。それから、はあ~と深くため息をついた。「おじいちゃん?どうしたの?」 ぼくも、悲しくなってしまってそれしか訊けなかった。 おじいちゃんは、咳き込みながら、話し始めた。「無限岬は、な。鬼門なんだ。オレは、あそこでマサルに助けられてるんだ。マサルは、オレの親友だ。何にも代えられない、親友だ。オレは、昶が死んだ時、絶望した。絶望したんだ。生きてけないと思ったよ。オレは、不様だった。マサルに、かわいい孫がいるだろと、殴らて、諌められて、な。全く、情けない話だよ。こんなに、かわいい孫がいるのにな!」 つづく
Mar 15, 2010
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イケは、本当にびっくりしたのだろう。目を大きく見開いて、じっとぼくを見ている。こんなイケを、ぼくは見たことがない。完全に、イケは自分のことを忘れている。突っ張ってはいない。これがきっと素のままの、イケなのだ。突っ張るのは、自分を守るためなのだ、きっと。「ぼく、ほんとに、どうかしてたんだ。イケ、ありがとう!イケが引っ張ってくれなかったら、ぼく、確実に死んでた!」 ぼくは、がたがたと震えた。歯の根が合わなかった。今頃になって、ぼくは、ぞっとした。恐ろしくなったのだ。――もう、どんなことがあっても、二度とあんなことはしない!―― ぼくは、そう心に叩き込んだ。ぼくは、生きていることに、深々と感謝した。 イケは、何も言わなかった。イケは何を考えているのだろう。「イケ、何か言ってくれよッ」 イケはまだ、じっとぼくを見ている。何も言ってもらえないことって、取り残された気がする。「もう、絶対死なないって、お前決めたんだろッ?だったら、それで、いいじゃん。」 イケは、あっさりと言った。ぼくは、勢い込んでいたから、ちょっと拍子抜けした。イケは、それっきり、また何も言わなくなった。 草原を吹きわたる風の中で、ぼくは再び生きていくことになったことを、思った。希望と畏怖が交じり合って、青い空に吸い込まれていった。ぼくも、イケも無言だった。ぼくは、未来のことを考えていた。――やっぱり、ぼくは、画家になりたい。父さんを描き残したい。母さんのことも描きたい。イケのことも、おじいちゃんのことも。そして。由布子さんのことも―― あッ、ぼくは、自分の気持ちにびっくりした。何故、由布子さんなのだろう。 ぼくは、慌てた。何故、由布子さんのことを想ったりしたのだろう!「イケッ、イケ!奴らまた戻ってきたりしないッ?」 ぼくは、自分の気持ちが分からなくて混乱し、そんなことを言ってしまった。「もう、来ないよ。ルイ、びくびくすんな」「うん。分かったよ、イケ」 ぼくは、そう言った。何だかとても、一人になりたかった。どうしてだろう。今までこんなことなんか、なかったのに。一度だって。「イケ、ぼくさ。おじいちゃんのエフワン(おじいちゃんのオンボロ自動車。弟の耕ちゃんが名前をつけた)でさ。おじいちゃんに来てもらうよ。呼びに行ってくる。待ってて。それなら、いいじゃん?」「ああ、頼むよ。悪い、な」 イケはやっぱり、どこか怪我してるのかもしれない。イケらしくない。素直すぎる。「じゃあな。頼む。オンボロ、エフワン、な」 イケは、右手をあげて振った。左手が、不自然な形で、横たわった胸に当てられていた。でも、ぼくは、それがこの先どうなっていくのか、気づきもしなかった。 ぼくは、走った。何か訳の分からないものを、振り切ってしまいたくて。おじいちゃんに、来てもらうんだ。おじいちゃんは、果たして一緒に、来てくれるだろうか。ちょっと不安になった。イケが、大変なのだから、来てもらわなければいけない。絶対に。 家に帰って、おじいちゃんの顔を見たとき、ぼくは、へなへなと、力が抜けてしまった。「おう、今日は(帰りが)はやいんだな、塁。どうした?具合でも悪いのか」 ぼくは、首を(横に)振った。「おじいちゃん!ぼく、もう、おじいちゃんに心配かけるようなことしないから!」 突然、そう言ったぼくに、おじいちゃんは、びくりとしたみたいだった。「そうか。・・・」 目を空中に泳がせて、おじいちゃんは、ぼくの言葉を反芻しているみたいだった。「そうか、そうか。それは、良かった。塁、そうだよな?」 おじいちゃんは、短くそう言った。頭の後ろに手をやって、考えるときのいつもの癖で。「塁。苦しいことが、まだ、あるのか?」 おじいちゃんの目に、温かく光る、やさしさがあった。「おじいちゃん!ぼくとイケを助けて!」 つづく
Mar 12, 2010
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茶化すことの多いイケが、何だか真剣な目つきだった。 イケは、自分の父さんのことを、こんなふうに言うけど、本当は心配してる。父さんのことが心配で、この間も、帰ってしまったし。心の中は、複雑なんだ。ぼくだって、複雑だった。ずーっと、苦しかった。 父さんが死んだ時。世界は終わってしまったと思った。 その後で、母さんとぼくには血のつながりがないことを、立ち聞きで知った時。そして、母さんが再婚することが決まった時。ぼくは、もう生きていけないと思った。ぼくの中には、絶望しかなかった。どんなに母さんが、ぼくを心配しても、ぼくは、それを拒否した。「塁は、私の子!私の子!」と、母さんが滂沱しながら叫んでも、ぼくは、撥ねつけた。母さんを許せないと思っていた。ぼくと血のつながりがないことを隠していたからだ!あんなに愛してた父さんを裏切って(父さんは、もう、この世にいなくなって三年経っていたけど)、山中さんと結婚しようとしたことも許せなかった!でも、母さんは、ぼくの気持ちを一番大事にしてくれたことが、今なら分かる。山中さんとの結婚を、ぼくの気持ちを考えて、本気でやめようとしたからだ。でも、おじいちゃんは、母さんの結婚を切望(のぞ)んだ。自分の息子(ぼくの父さん)のお嫁さんだった人(ぼくの母さん)の結婚を、何故、切望むのか、ぼくには理解できなかった。 母さん、山中さん、ぼく、耕ちゃん(弟)と四人でくらすことを、おじいちゃんは、願っていた。でも、ぼくは、母さんたちを選ばずに、おじいちゃんを選ぼうとした。おじいちゃんは、ぼくに出て行け!と怒鳴った。母さんのところへ行け!と命令した。母さんとぼくは血がつながっていないのに、だ。 ぼくに、残されたのは、一直線に死へ向かう道だった。絶望しかなかった。ぼくの住める場所は、父さんの側しかなくなっていた。そして・・・。ぼくは、イケに助けられたのだ。きっと、父さんにも、かもしれない。 何だか、いろんなことが、何年も前のような気がする。浦島太郎が出てきそうな、そんな昔話のような感じがするほど、遠い。でも、そんなに遠い話ではないのだ。 イケもぼくも、草の中で考えていた。いつの間にか寝転んで。ぼくは、空を見た。真っ青な空だった。大きな空だった。ぼくたちの、希望、悲しみや苦しみも溶かし込んで、それを深い深い青にしているような気がした。雨の日も、雲の日も、その奥には絶対変わることのない青い空が輝いているのだ。人は、全ての人を受け止めてくれるその空を見て、元気を出し、生きようとするのかもしれない。でも、あの空に希望だけしかなかったら、どうだろう。きっと、つまんないかもしれない。希望がどんなものか、分からなくなってしまいそう。やっぱり、悲しみや苦しみがあることで、希望の尊さが計れるのかもしれない。だからこそ、この青は深くて美しいんだ。 無限岬の風がいつの間にか変わっていた。人を拒むように、寄せつけないように吹いていた風は、穏やかになっていた。無限岬の別の顔だった。無限岬は、こんな顔も持っていたのだ。ちょっと、信じられないぐらいだ。ぼくは、いつも荒れ狂っている無限岬しか知らなかった。 海に咲く花を、呼び寄せたのは無限岬だったのかもしれない。伝説の花は、後の世界へと、無限に咲き続けていくのだろう。 突然、ぼくの中で、巨大な地震が起きた! イケは、【例え、奴らに殺されても生きてやる】と、言っていたことがあった!この世界で何よりも大切なもの。偉大なもの。それは、一人一人の命だったのだ!!!花が継いでいく命。イケの命。ぼくの命。人の命。地球に住む生きものの命。 ぼくは、あの時、無限岬のてっぺんから、荒れ狂う海に身を投げようとした。父さんは、ぼくにそれを、教えようとしたんだ!父さんは、【来るなーッ】と叫んでぼくを押し上げたんだ!この世にいない父さんだけど、きっとそうだったんだと、思う。イケは、ぼくの心に、それを、叩き込んだんだ!イケは、【逝くなーッ】と怒鳴って、ぼくを引っ張りあげたんだ! ぼくは、何て、浅はかだったんだろう!自分の命を絶とうとするなんて! あんなことをしようとした自分が、悔やしくてて仕方ない。ぼくは、イケに助けられたのだ!ぼくが生きている限り、これは、忘れてはいけないことだ!なのに、ぼくは気づかずに、あっさりしすぎていた。ぼくは、やっと、そのことが分かったのだ。「イケ!ごめん!ありがとう!ありがとう!」 ぼくは、叫んでいた。イケは、びっくりして何事かと、ぼくを見た。絶句したまま。 つづく
Mar 7, 2010
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何故、イケが一人で戦ったことが、奴らから、もう狙われないと保証されるのだろう。奴らは、そんなに簡単にイケを解放してくれるのだろうか。ぼくは、今までよりもっと、イケが心配になった。奴らの暴力が、あまりにも酷かったからだ。その暴力を、目の当たりにしたからだ。 今日は、運良くマサルが現われてくれたけど、今日みたいにこれからも、うまくいくとは、限らない。イケは、こんなに弱ってしまっている。家に帰れるのだろうか。「兎に角さ、イケ。ぼくん家(ち)に行こうよ。歩けるまで、待つから。おじいちゃんに、頼むから」「うん。頼んでくれよ」 イケは、あっさりとそう言った。「あーッ、良かったァ。イケは、ぼくの言うこと全部に反対するからさ。病院も警察も却下だもんね、まったく。どうしようもないんだから」「どうしようも、あるだろッ。こんなに素直な、イケちゃん捕まえてよ」 イケは、にやっと笑った。ぼくは、それを見て少し安心した。久しぶりに見るイケの笑い顔だった。「ルイッ。オレの顔、血だらけか?やばいか?」「うん、やばい」「どっかで、(タオル濡らして)拭かなきゃな。目立つの、今日はやばいからよ。お前のじいちゃんに腰ぬかされちゃうだろ?お前、(拭く物)持ってるか」「ハンカチなら、持ってるよ」「持ってんのかよ?すげー」「すげくないよ。だって牧野先生、いつも、持って来なさいって言ってるじゃん。ポケットに入れてあるよ、ほら。あ、でも先生、持ち物検査しないね、何でだろう?」「面倒くせーんだろ?マキちゃん(牧野先生)、忙しいからよ」「そうかなぁ?いや、そうじゃないよ。先生、ぼくたちを信じてるんだよ」「お前、真面目だな。親父に似て秀才だよ。あはは」 イケの笑いが、スカッとしていた。少し、皮肉めいてはいたけど。イケの前に引かれていた線を、イケは、今まで越えようとしなかった。そのうちに、線は、複雑に絡まって、越えようとした時には、がんじがらめにされて超えられなくなっていた。それをやっと、今日、越えたのだ!そんな晴れやかな明るさが、あった!ぼくは、この明るさを信じたい!イケが戦って手に入れた大事なものだから。もう絶対に、奴らは、イケを狙いませんように!「イケの父さんさ。イケが、前、ぼくん家に泊まった時、怒らなかった?」 ぼくは、それが気になっていた。「怒らねーよ。オレにとっちゃ、他人だよッ。あんな親父、いない方がいいんだ。そしたらよ、オレ自由になって、堂々とお袋の所へ行けるぜ」「母さんの側でくらしたいんだ、イケ?」「親父とくらすのが、嫌なだけだよ。うぜー、んだよ」「でも、イケのほんとの父さんじゃん?羨ましいよ」「あんなの、他人だね。だから、お袋だって出てってしまったんだよ。オレの方がよ、親父よりよっぽどしっかりしてるぜ。何の役にもたたねー。親父なんかッ」 イケは、はき捨てるように言った。「そんなこと、ないよ。イケッ」「お前に、何が分かるんだよ。いい加減なこと、言うなッ」 イケは、ムスッとして言った。「いい加減なことなんか、言ってないよ。ぼくは、イケが羨ましいんだよ。父さんが生きてて。どんなに酷い父さんだって、生きててくれたら、いつかきっと、好きになれると思う。だって話ができるじゃん。どんなに、そっぽを向いてたって、側にいてくれるじゃん。 ぼくはね、父さんを尊敬してる。父さんは、ね。線路に落ちた他所の子を助けるために、飛び込んでいったんだ。他所の子は助かったけど・・・。父さんは死んだ。イケに話したことあるよね?」「聞いてるよ。お前、めそめそしながら話してたじゃん。オレの親父も、お前の父ちゃんみたいに格好良かったら、な。そしたら、オレだって尊敬してやるよ。自分がだらしねーくせに、オレにがみがみ言いやがって、よォ。お前父ちゃんの話をしても、めそめそしなくなったな?」「そうだよ。ぼくは、前だけを見て生きることにしたから。過去はもうどんなにしたって、変えられないだろ?ぼくは以前(まえ)ね。うじうじしてたら、何か宇宙大の力が働いて、ぼくに同情してくれて(過去を)、変えてもらえると思ってた気がするんだよ。でも、変えてもらえるなんて、どんな力が働いたって、できっこないんだ。そんなことを考えていたぼくは、頭が変だったんだよ。ほんとに、バカだったんだよ。でも、イケには、変えられる未来(これから)があるよ。だって、父さんが生きているからだよ!」「お前は、頭が変でも、バカでもねーよ」 イケは、短くそう言うと黙ってしまった。 つづく
Mar 3, 2010
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「あのじいさんが、登場しなかったらさ。オレ、海に突き落とされてたぜ」 イケは目を開けて、ぽつっと、そう言った。あまりにも簡単に、【突き落とされてた】、なんて言ってる。ぼくは、ハッとしてイケを見た。弾かれたように叫んでいた。「今度は、ぼくがイケを助ける番だよ!落とされたって、絶対、ぼくが飛び込んで助けたよ!」「無理、無理」 イケは、ふうーと笑った。無理なんて言われて、ちょっとむかついたけど、イケが笑ったので、ぼくは少し安心した。「イケ、大丈夫?病院へ行こう。救急車呼びに行って来るからさ。ここで待ってて」「余計なこと、すんなよ」 イケは、ぶっきらぼうに言って、また、目を閉じてしまった。何だか怒ってる。ぼくは、何も悪いことなんか言ってないのに、何故、怒るのだろう。イケの体は、病院に行かなくても、本当に大丈夫なのだろうか。痛くないのだろうか。血は止まっては、いたけど。 イケは、やっぱりまた、静かな顔になっていた。ぼくは、それを黙って注視していた。分からないことばかりだ。――イケが言ってたように、あの時、マサルが来たのは本当に良かったのだ。あの、何だか人をクッテルような、マサル。いつ、どこから出てくるか分からない不思議な、おじいさん――と、ぼくは考えていた。 奴らは、何故、あんな風にマサルと親しげに(!)、笑いあって(!)、あっさりと帰って行ったのだろう。何の抵抗もしない、血だらけのイケを海に突き落とすなどと、狂ったことを言っておきながら!血だらけのイケを、(マサルに)見つけられないようにするためだけに、だったのだろうか。それにしても、あまりにも、落差がありすぎる。奴らもマサルも。 奴らは、捕獲して傷ついた獲物を、あっさり諦める、ライオンのように不気味だ。弱らせておいて、また、いつか、襲ってくるのかもしれない。何かを企んでいる気がする。イケは、何故、こんなに奴らに恨まれてしまったのだろう。イケは、こんなことをされる覚えなんてない!ただ、奴らの仲間から出たいと、言っただけだ。報復される覚えなんてない!疑問だけが大きく膨らんでいく。奴らは、きっとまた、イケにこんなことをしてくるに違いない!ぼくは、やっぱり警察に行くべきだと思った。イケを、守ってもらわなければ!イケが目を開けたら、そう言おうと思った。「ルイ、もうちょっと待ってくれよな。帰れるからよ」「うん!いいよッ。でも、大丈夫、イケ?ほんとに、(歩いて)帰れる?無理じゃん?」「こんなことで、どうかなるほど、オレはヤワじゃねー」「分かった」「ルイ、お前素直じゃん、よォ」「そりゃそーだよ。ところで、なんだけど、さ。イケ。奴らまた、イケを襲うと思うんだ。警察に相談に行こうよ」「ルイ、お前、何にも分かってねーよな。オレはそんなことしねー。奴らは、もう、オレのこと屑だと思ってるぜ。オレのことなんか、もう相手にしてねーよ。だからもう、こんなことには、ならねーよ。もう、終わったんだ」「ほんとッ?!ほんとにッ?何で分かるッ?奴ら、イケにそう言った?」「言ってねーけど、分かるんだよ、オレには」 イケはめんどくさそうに、言った。でも、ぼくはまだ、不安だった。「お前があの時、よォ。飛び出して来て、オレに助太刀なんかしてみろッ。おれは、これからも、ずっと(執拗に)狙われて、やられてたぜ。お前は、アホだから、飛び出そうとしてよォ。オレ、ハラハラしたぜ。まあ、ハラハラしたお陰でよォ。(神経がそっちに行って)やられても、痛くなかったけどな。オレ一人で立ち向かったからよォ、奴らはもうオレを狙ってこねーんだよ。分かったかッ?ふうー」 イケは、安堵の息をした。 ぼくには、イケの言っていることが理解できなかった。本当にそうなのだろうか。 つづく
Feb 22, 2010
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ぼくは、草に紛れて考えていた。 イケは、ぼくを巻き添えにしたくなかったのだ。だからぼくに、今日の奴らからの呼び出しのことも、話してくれなかったのだ。とぼけたり、茶化したりして。 でもぼくは、奴らの前に出て行って、イケと一緒に殴られる方が、ずっといい!イケが殴られるのを黙って見ていて、出ていけない方が、もっともっと、苦しい!ぼくは、思わず呻いた。歯軋りした。恐怖などなかった。あったのは、出て行けない悔しさだった。今まで感じたことのない、ぎりぎりとした悔しさだった。「しぶとい奴だぜ。頼む、だとさ。おいッ、コウヘイよォ。海に蹴落としてもいいんだぜ。誰も見てねーし、よ。蹴落としてくれって、頼んでたのかよー」 奴らは、がひひひと、笑いながら話している。とても信じられない光景だ!人間は、こんなにも悪くなれるものなのだろうか?!こんなにも狂った方に、突き進んで行ってしまうものなのだろうか?何故、制止できないのだろう。何故、もうやめようと、言う人がいないのだろう。あの狂気の中では、お互いの狂気が掛け算になって、勢いが増していってしまうんだ。 無限岬には、魔物がいる! ぼくは瞬間、すっくと立ち上がった!――イケを、助けなくッちゃッ。イケが、どんなにぼくに向かって、来るなと叫んだって!―― その時だ!「そこで、何してるんだーッ。お前らーッ」 ぼくはぎょっとして、声のする方を見た!おじいちゃんの友だちのマサルだった!今朝、イケの家の側で自転車に乗って徘徊していた、マサルだ。何で?何で、こんな所まで、来るのッ?何故?何をしにッ?自転車を引っ張りながら、遠くから奴らに向かって近づいて行く。「やべー。コウヘイを隠せッ。うるせーじじいに、見つからねーようにしろッ。あのじじい、こんな所まで見回りに来やがってよォ。海に落とすのは止め、だ。オレたち、顔を見られてしまったからよォ。とぼけていりゃ、いいんだ!」 ぼくは、とっさに草に隠れた。 奴らは、焦っている。また、マサルが大きな声を張り上げた。「そこで、何してんだァ!学校へちゃんと行け!母ちゃんや父ちゃんに心配かけんな。ここは、お前たちが来るところじゃ、ねーんだ。海に引っ張り込まれるぞ。ここには、魔物がいるんだァ」「がひひ。魔物だとよ。笑わせらー。じじいが、来たぞ来たぞ。(コウヘイを)隠したかッ?」 奴らは、笑いながら、隠したイケが見つからないように、さりげなく並んだ。「今から、(学校に)行くっすよ。行こうと思っていたっす」「そうか。こんな所にいつまでもいるな。何の相談してたんだ?相談なら学校でしろ。悪いことでも、企んでたか?」「企んでなんか、いねっす。今から、学校行くっす」「ほんと、だな?」「なら、おじさん。オレたちについて来なよ。信用しねーならよォ」 奴らは、マサルがここに残ることが不安なのだ。痛めつけたイケが、発見されることを恐れてるのだ。だから、マサルを誘導して、ここを離れようとしている。「信用してるけどな、学校行くか、見届けてやるよ。ちゃんと、勉強しろよ。お前たちは、これからの時代を背負って立つ、宝物だからよォ」「おい、オレたち、宝物だとよ。満更でもねーな。あはは、あはは」 イケを残して、奴らも、マサルも無限岬を去って行った。信じられないことだけど、笑いながら仲良く。 あっという間のことだった。 ぼくは、イケの所へ駆け寄った。「イケッ!イケッ!」 イケは、目を閉じたまま、「これで・・・終わり・・・だよ」「イケッ、何が終わりなのッ?しっかり、しろよッ」「・・・・・。終わった・・・んだよ。ルイ・・・」「イケッ、大丈夫?立てる?」「ちょっと・・・待てよ・・・ルイよォ」 ぼくは、黙った。分かったのだ。イケを、しばらく、そっとしておかなければいけないことを。イケは、目を閉じたままだ。ぼくは、イケの顔をまじまじと見ていた。今まで、見たことのないような、静かな顔だった。突っ張っていたイケではなかった。安堵した顔だった。顔には、血がこびりついている。髪も、べったりと血で固まって、いる。どんなにひどい暴力を受けたのか?!ぼくは、絶対に許さない! でもイケは、どうして、こんなに穏やかな顔をしていられるのだろう。 つづく
Feb 19, 2010
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ぼくは、無限岬を目指して走りだした。そこしか、ぼくには思い浮かばなかったからだ。岬に対するいろんな思いも、全て振り切ってそこを目指して走った。 勇気と臆病の間を、振り子のように行ったり来たりするぼく。決心しても、ぐらつくぼく。そんな情けないぼくは、イヤだ!ぼくは、そんなぼくには、なりたくない!恐れて臆病になって、友だちを見捨てることは、本当は、ぼくが見捨てられることなんだ。ぼくが負けてしまうことなんだ。 イケは、とても大事な友だちだ。イケ以外に友だちは、いない。――イケ、ぼくは今、必ず行く!もう、絶対迷ったりしない!だから、無限岬に必ずいろよッ。いろよ!―― ぼくは、自分にではなく、イケに向かって断言していた。心の中を友情でいっぱいにして。 勇気をボンドで固定しなくても、もう勇気を、ぼくは離さない。ボンドなんか必要ないんだ。ぼくは、自分の力で、勇気を守っていく!ぼくの胸には、海に咲く白い花が、生きている。 ぼくは、走りに走った!無限岬。 ずっと向こうに、イケだ!イケがいた!イケがぼくを確かめるように、一瞬、正視した気がする。イケは、六・七人に取り囲まれて、海を背にしてふらついている。 ぼくは、岩と草に隠れて進んでいく。「来るなーッ。来たら、ぶっ飛ばすーッ」 イケは叫んだ。「おー、コウヘイちゃんよォ。大きな声出しやがって、よォ。ぶっ飛ばすだと?いい度胸してんじゃん。生意気だぜ。もっと、やってしまえ!」 奴らは、イケを蹴り飛ばした!イケは転がった。何の抵抗もしない。何故だ!「コウヘイ、立て!」 イケは、のろのろと立ち上がった。奴らは、立ち上がったイケの顔面を殴った。イケの顔から赤いものが、飛び散った!ぼくは、もう許せない!怒りで、体が爆発しそうだった!「来るなーッ!来るなーッ!来たら、もうお前とは、つきあわねーッ!オレは、これを最後にするー。だから、だから、来るなー」「何だとォ?つきあわねーだと?最後にするだとォ?お前、面白れえこと言うじゃんか。でもな、お前が決めることじゃ、ねーんだよォ。オレたちが決めることなんだよッ。生意気な奴だッ。こいつ、何にも分かってねーぜ。分からして、やれ!」 奴らは、一人ずつ、交代してイケを殴る。蹴る。何て卑怯なんだ!高笑いしてる!ぼくは、もう見ていられず、立ち上がった!でも、奴らは、何故か、ぼくに気がつかない。狂乱しているからだ。奴らの目に映っているのは、イケという獲物だけだ。どこまでやったら、イケを解放してくれるんだ!「来るなー。頼む、頼むから、来るなー。た・・の・・む」 悲痛な叫びだった。何故、来るなと言うのだろう。 イケは、膝を折って、倒れていく。イケは、イケでなくなっている。あの、強いイケでは、ない。弱い弱い、イケだ。あんなイケは見たことがない。「頼む、だとさ。がはは。頼まれたからって、やめるとでも思ってるのかァ?もっと、やってやれ!口が利けないようにしてやれ」 また、イケがやられる!イケが、(ぼくに向かって)叫ぶことが、奴らにますます火をつける。奴らは、イケの叫びが、自分たちに向けられていると思っているのだ。 ――イケ、叫ぶな!また、殴られるよ。何でぼくが出ていっちゃダメなんだ!ぼくは、イケと一緒に殴られてもいいよ。何故、来るなと言うんだ!イケ、何でだよ!――「頼む、来る・・・な・・・」 イケは立ち上がろうとしても、もうできない!ぼくは、その時、ハッとした。イケが懇願しているのは、ぼくにだ。奴らにではないことは分かっていたけど、今はっきりと悟った。ぼくは、その真意を分かっていなかったのだ。――イケが殴られているのは、ぼくがここにいるからだ!ぼくが、奴らの前に出ようとしているからだ。それをイケは阻止しようとしているのだ―― 奴らは、ぼくが出ていったら、イケに、加勢する者を連れてきたと言って、もっとイケを痛めつけるんだ。当然、ぼくのことも。イケは、ぼくを、巻き込まないようにしてたんだ。そして、イケは、もっと奴らから抜けられなくなっていくんだ。だから、だったんだ! 今やっと、ぼくは、イケが、一人で戦おうとした意味が分かった! つづく
Feb 18, 2010
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――イケ、そんなのないよッ。何だよッ。何で一人で行っちゃうんだよォ。ぼくを、バカにすんなよ、イケったら!―― ぼくは、海の草原を目指した。走った。走った。絶対に奴らは、無限岬には呼び出さないと思った。さすがに、奴らも、無限岬は恐ろしいはずだ。不毛の岬、無限岬。人を寄せつけない、荒涼とした岬。激しい風を呼びつけ、縦横に蹴散らすことを命じ、大王のように君臨している岬。でも、伝説の花に会えた場所!ぼくたちが、変わっていかなければならないこと。変わらずに守っていかなければならないこと。それを教えてくれた(伝説の花に会えた)大切な場所。誰にも行ってもらいたくない場所。厳しく神聖な場所。見えない扉をつけて、鍵をかけておきたい場所だ。 奴らは、そんな所には、呼び出さないはずだ。 ぼくは、目立たないように遠回りをした。イケの呼び出された(はずの)、海の草原へ。話し合いで、決着がつくのだろうか。それは、やっぱりない!殴り合いになってしまうのだろうか。奴らは、何人来るのだろうか。イケは取り囲まれて、殴られたりしてないだろうか。卑怯な奴らだ、からだ。何をするか分からないのだ!ぼくの体を、寒くて、黒々とした何かが駆け抜けていった。ぼくは恐怖の波を押しのけて、必死に走った。走らなければ、ぼくは自分に負けそうな気がした。――イケーッ、今、行くからぁ。負けるなよォ、イケーッ。加勢するからぁ!―― ぼくはイケにではなく、自分に言い聞かせながら走った。ぼくの弱い心は、時々、自分だけを守ろうとする道を選ぼうとするのだ。 ぼくは、下の方から草原に行った。声がしない。耳を澄ました。やっぱり、誰の声もしない。ぼくは少しずつ上に上っていき、草の間からそおっと覗いた。誰も、いない!どうして!何で!ぼくは、上がりきって見回した。「イケッ、いるのッ?殴られたッ?怪我してるッ?イケ、いたら返事して!イケ、イケ!」 返事はなかった。ぼくは、草の中を必死で探し回った。イケが倒れていないかと、思って。イケはいなかった!奴らもいなかった。ここじゃ、なかったのだろうか。ぼくは、はっとして海を覗いた。覗き回した。人の影はなかった。――そうだよ、そんなはずないんだ。崖下に呼び出されるなんてこと、あるもんか―― イケはどこに呼び出されたのだろう。イケはどこにいるのだろう。奴らは、イケをどこに呼び出したのだろう。イケは、どうなっただろう。大丈夫、だろうか。ぼくは、焦った。ぼくは、どこへ行けばいいのだろう。イケはどこにいるのだろう!ぼくの心臓が、どくッ、どくッと怒鳴っている。息苦しくなる。イケは、何故ここにいないんだ!きりきりと追い立てられるのにぼくは、座り込んでしまった。奴らは、人の来ない所に、イケを呼び出しているはずだ。それは、どこ?分からない。ぼくは、ここしか知らないのだ。まさか、無限岬?! その時。――もう、いいんじゃないの?ぼくは、懸命にイケを捜そうとした。やるだけのことは、やったんだから。イケは、どこにいるか分からないんだし。仕方ないんじゃないの。イケだって、ぼくの助けを断ったんだから。一人で戦うって言ったんだし。余計なことしない方がいいよ。イケを捜すの、諦めた方がいいよ―― ぼくは、愕然として自分自身の声をきいていた。思わず目を閉じてしまった。海に咲く花が、ゆらゆらと遠ざかっていくのが見えたような気がした。ぼくは、ハッとして立ち上がった。 つづく
Feb 16, 2010
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ふざけてるイケの顔の中に、青白い苦悩の色が沈んでいるように見えた。――どんなに誤魔化したって、ぼくには分かるんだよ、イケ。イケだって、ほんとは、怖いんだよね?強がっているだけだよね?ぼくは、もっと怖いけど―― 間もなく授業がはじまった。イケは、両腕を机にのせ、その中に顔を埋めている。寝ているのだろうか。それとも、怖さを、しまい込んで、蓋をしているのだろうか。 ぼくは、イケの隣の列で、イケより三人後ろの席だ。後ろからしか見えないから、はっきりとは分からない。 先生は、何か言ってくれるはず。黙って見逃してくれるはずなんかない。でも先生は、いつまで経っても何も言ってくれない。気がつかない訳なんかないのに。イケは、堂々と、突っ伏しているんだから。どうして注意しないのか、訳が分からない。どんな意味があるのだろう。 先生は、いつもなら、机の間を歩き回るのに、今日はそれをしない。先生は、もしかしてぼくたちのこと、知ってるのだろうか。いや、そんなことは、あり得ない!クラスの誰も、イケがそんな(状態)なのに、関心を示さない。「池永くん。では、今、説明したところを読んでください」 先生が、そう言った。ぼくは、ハッとした。まるで、不意打ちだ。「どッ、どこですかッ?」 とっさに訊きかえしてしまった。「ど、どこですか、だとよ!」 北くんの声が冷笑となって飛んできた。くすっと周りに、笑いの漣がたった。「それでは、北くんが読んでください」先生は、きっぱりと言った。 クラスは静まり返った。先生が、そう言うとは誰も思わなかったのだ。やっぱり、不意打ちだ。先生は、何だかいつもと違う。「池永って、指したくせにィ。何で、急にオレなんだよッ」 北くんのその言葉は、先生に向けられたものだ。でも、ぼくの方を乱暴に振り返り、睨みつけて消しゴムを投げつけてきた態度は、明らかにぼくに矛先を向けてきたのだ。向ける矛先が違う。先生に向けろとは言わないけど。少なくとも、ぼくにではないはずだ。――確かに、授業中に考えごとしてたぼくは、悪かったかもしれない。でも、ぼくを冷笑し、消しゴムを投げつけてきたのは北くんだ。北くんだって、もっと悪い。何故こんなに過激になってしまうんだろう―― イケがむくっと立ち上がった。「オレが読んでやるよォ。先生、どこから読めばいい?」 先生は、ふうっと笑った。どうして、先生は笑ったんだろう。今日は、みんな、どうなってるんだろう。どう考えても変だ。だいいち、イケは、何のために、机に突っ伏していたんだろう。 授業が終わっても、ぼくは、狐につままれたみたいだ。終わるとすぐに、先生は、「池永くん、悪いんだけど、職員室まで来てくれない?話したいことがあるの」 と、言った。ぼくは、イケのことが気になり行きたくなかった。「今、ですか?」「そう。いいかなぁ?」 ぼくは、仕方なく、先生の後をついていくしかなかった。「イケ、すぐ来るから」 ぼくは、小声で、歯止めをかけておいた。イケが一人で行かないようにするために。「いいってことよ。マキちゃん(牧野先生)は、オレには用がないって、さ」 イケはおどけて、腕を広げて肩を上下させた。 先生の話は、合唱コンクールのことだった。ぼくは、ダッシュで教室に戻った。 イケは、姿を消していた。図書室にも、トイレにもいなかった! ぼくはそのまま、イケを追って、学校を抜け出した! つづく
Feb 13, 2010
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ぼくは、その夜、夢を見た。呼んでも、呼んでもイケは振り向かなかった。「イケーッ、ぼくはやっぱり、絵描きになるよーッ。イケは、ナスカに行くんだよねーッ。ぼくも、一緒にいくよーッ。ナスカの大地の絵、海に咲く花の絵、母さんの絵、ぼく、描くよー。ぼくはねー、おじいちゃんにも母さんにも、安心してもらうんだー。ぼくさー、凄い絵描きになりたいんだー。ゴッホや、ピカソみたいにだよー。イケー、イケーッ。何で行っちゃうんだよーォ。ぼくの話、聞いてよォーッ」 ぼくは何故、あんなに説明しているんだろう。絵描きになりたいなんて言って。母さんとおじいちゃんを、安心させたいなんて言って。あっちにいるぼくを、ぼくは、こっちから観察(み)ているみたいだ。何だか、舞台で演じているぼくを、観客席でみているぼくが、いるみたいな感じ。そんな不思議なことって、あるだろうかこんなこと、はじめてだ。ぼくは、夢の中で、そんなことを考えていた。 イケは、振り向きもせず、いつもするように背中を見せたまま、片手を挙げた。ずんずん早足で、歩いて行ってしまう。「イケー、待ってったらー、イケーッ」 イケの姿は、だんだん、薄くなっていく。ぼくは、懸命に追いかけているのに追いつけない。足がからまりそうになる。ぼくは、もどかしくて、泣きそうになった。イケは、いつの間にか、消えてしまっていた。 ぼくは、泣いているぼくを、黙って観察(み)ていた。観察ている方のぼくは、悲しくはないのに。夢って、とても不思議で、とても面白い。 ぼくは、朝、いつもより早く家を出た。「ルイ、いつもより早いんだな。気をつけて行けよ」 ぼくは一瞬、緊張した。もっと、何か言われるのかと思ったからだ。でも、おじいちゃんは、それしか言わなかった。ぼくの気持ちは、少し緩んだ。じわんと、温かいものを、感じた。「うん。行ってくるね」 ぼくは、ちらっと、おじいちゃんの顔を見た。――この人を、苦しめてはいけないんだ―― そう思いながら、でも、ぼくは、イケと奴らの問題の中に、入っていこうと決心、していた。――最後だから。これが最後だから、おじいちゃん―― イケの家の方を回って、登校しようと思った。イケがカバンをしょって、学校へ行くところだった。ぼくは、とっさに生垣に隠れた。イケが黒いTシャツを着てる。いつもは、白いTシャツが茶色っぽくなっているのを愛用してるのに。いつものイケと、少し違う。――黒も、持ってたんだ―― ぼくは隠れたまま、しばらく、そこでやり過ごした。スニーカーの紐を結びなおしたりして。 ぼくは、いったん、家の方に戻ってから学校を目指そうとした。――マズイ。もう、隠れるひまなんか、ないッ―― こんな時に、何てことだろう!マサル(おじいちゃんの親友だ。おじいちゃんは、いつも、こう呼んでる)が、自転車に乗ってやってくるのに、出くわした。「おッ、じじいのとこの、ボウズじゃ、ねえか。こんな所で何してんだよ。学校、遅刻するぞ」「まだ、平気です!」「急げッ。ボウズ。お前の父ちゃんは、秀才だったんだぞ。遅刻なんかしなかったぞ」「遅刻なんかッ、しません!」「おッ、生きがいいねぇ。さすが、じじいの孫だ。それ、急げッ」 ぼくは、むかっときてる。命令されて急ぐのは、イヤだったけど、急いで走ってしまうのが、マサルから解放される一番の方法なのだ。 父さんのことを言われても、もうぼくは、めそめそなんかしない。父さんは、ぼくの誇り。父さんのことは大切に、ぼくの心にしまってあるから。 イケは、もう学校にいた。「イケ、奴らから連絡、あった?」 ぼくが訊くと、「奴らって、何だ?連絡ゥ?」 イケはとぼけている。茶化している。何だか、変だ。「朝の挨拶がないよ、ルイくーん。お早う、だろ?お早うが、ありませんよー」 ――あ、奴らから、イケに連絡があったんだ。きっと、今日だ!―― ぼくは、まじまじとイケの顔を見た。 つづく
Feb 8, 2010
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一週間以内には、奴らは、イケに連絡してくるはずだ。きっとそうに違いない。そうなって、全てぼくたちにとって、うまくいってほしい!イケが怪我をさせられたりすることがないように!悪いことは、はやく過ぎていってほしい。兎に角、イケに、いつ奴らからの呼び出しがかかったかを聞かなくてはいけない。けれど。イケは、ぼくには教えてくれないはずだ。自分一人で戦おうと決めているからだ。一人でやろうなんて、恐ろしくはないのだろうか。向こうは、何人もいる。無理だと思わないのだろうか。何故、ぼくも一緒にとは、言わないのだろう。二人なら、もっと戦う力はだせるのに。(ぼくは、確かに弱いけど。でも、少しは頼りになるはず)考えていても、次のような答えしか湧いてこない。明日から、イケを見張ろうという答え、だ。イケが学校に来なかったら、ぼくも学校をサボってイケの家の周りを気付かれないように探るんだ。そうすれば、イケが呼び出されても分かる。単純かもしれないけどそれしか、ない。ぼくは、やっと自分で納得した。――おじいちゃん、ぼくは、もうこれで、心配かけないようにするよ。これが最後だよ。学校もサボったりするけど、これも最後だよ。先生にも、もう迷惑かけたりしないからね、おじいちゃん。 母さん、母さん。ぼくを忘れないでね。ぼくは、母さんに、いつかきっと、喜こんでもらえるようになる。もう、悲しませたりしないよ。頑固なぼくだけど、母さん。ほんとなんだ。もう、こんな危険な戦いは二度としないからーー 目を瞑った。ぼくの目の奥に、海に咲く花が蘇えった。目の奥に見えたのは、今考えていた、おじいちゃんでもなく、母さんでもなかった。花は、変わらずに旅をするのだろう。変わらずに咲き続けるのだろう。(百年以上も?)花は、誰にも分からない、自分で決めた役目を果たしたいのだろうか。誰の目にも触れられずに、ゆっくりと変わることのない旅をしてゆくのだろう。これまで、誰にも、見られずに旅してきたように。ぼくと、イケにしか見ることができなかった、伝説の花!ぼくたちは、再び、花に会うことができるのだろうか。 ぼくは、唐突に、画家になりたいと思った。海に咲く花を、描きたい! 海に咲く花(五) 終わり
Feb 5, 2010
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ぼくは、そう言ってくれた先生にとても心が弾んだ。先生は、イケのことを良く知っていてくれる。理解もしていてくれる。家庭の事情も分かっている。しょっちゅう、イケの家庭訪問もしていたようだし。でも、イケが悪い奴らとつきあっていることは、きっと知らないはずだ。それとも、少しは、なんとなく、気付いていただろうか。気付いていてくれたら、相談できるのにと、ぼくは期待を込めてそう思う。でも、気付いていても、いなくても、イケの言うように、「これ以上迷惑はかけたくねーし。先生では、とても解決できるようなことじゃないじゃんか。先生を困らせるようなことは、もう、したくねーしよ。オレ、充分先生、困らしてるからよ。だから、相談なんかできるかよ」というのが、一番いいことなのかもしれない。 イケは、時々、「先生では解決できない」と言う言葉を、使う。こんな理由を挙げて、勝手に決め込んでいる。先生は、忙しすぎ。やる仕事が多すぎ。いじめの解決もしようとしてる。(できっこねぇーのによ)。オレみたいに、言うことを聞かないのもいるしな。合唱コンクールで金賞を取る目標もあるし。職員室で、遅くまで仕事をしてるし。だから、無理。ドイツにいる恋人にも会いに行かせたいだろ? イケは、ほんとに、いい奴だ。勝手に、いろんなことを決めてかかってるけど。 突然、おじいちゃんが、こう切り出してきた。「塁、お前は、何をしてたんだ?何をしようとしてる?先生の前で正直に言ってみろッ。じいちゃんは、お前と暮らそうと決めた。お前が、どうしてもそうしたいと、言ったからだぞ。だったら、隠し事はなしだッ。先生が、こんなにお前たちを心配して下さってるんだ、言ってみろ。こそこそしてないで、なっ」 ぼくは、そうくると覚悟はしてたけど、ぎくりとした。「おじいちゃん、今は話せないんだ。ごめんなさい。ぼくを、信じて!必ず、後で話すから。約束するから。だから、信じてッ、おじいちゃん!お願いだよ!悪いことなんか、してないよ、ぼく!だから、信じて!」 ぼくは、必死で言った。言っているうちに、悲しくなってしまった。おじいちゃんの顔が、滲んで見えなくなっていった。「後で話す?後っていつだ?明日か?明後日か?いつなんだ?じいちゃんは、お前を信じてる。信じてるぞッ。何日、待てば話してくれるんだ、塁?」 ぼくは、うろたえた。おじいちゃんに、信じていると言われたからだ。こんなに、すぐに。こんなに、あっさり。悲しみが一瞬で引いていき、嬉しさが、じわっと湧いた。でも、そんな場合じゃない。一秒でも速く答えなくちゃと、焦った。信じてくれた、おじいちゃんに、報いるためにも。「うっ。あー。あのォ。一週間!おじいちゃん、一週間だけ待って!そしたら、必ず話すから。きっと、話すから!」 おじいちゃんは、腕組みしたままだ。ぼくを、じっと見ている。「そうか、分かった。必ずだな?一週間後、だな?先生、こんな訳ですよ。すみませんなぁー。塁は、こんな孫で、学校でも迷惑かけてるんでしょう、なぁ。頑固で頑固で、石みたいな奴なもんで、まったく」 先生は、にこっと白い歯を見せて言った。「ほんとに、頑固ですね。でも、そこが塁くんの良いところですから。クラスを楽しくしていくためにも、是非、塁くんの力が必要なんです」 先生の声は、明るくて爽やかに聞こえた。 その夜、ぼくはなかなか眠れなかった。 一週間で、おじいちゃんに話せるように事態は、解決できるだろうか。信じてもらえた嬉しさの後には、応えていきたいというプレッシャーが重くのしかかってきた。 つづく
Jan 29, 2010
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おじいちゃんに、問い詰められても、本当のことは言えない。嘘をついて、おじいちゃんを一時的に納得させるのはできないことじゃないけど、とても嫌なことだ。「おじいちゃんに、嘘をつきたくないから、今はまだ言えない。言えるようになるまで、ぼくを信じて待って」と、言うしかない。今度だけは、手ごわい気がするけど、どんなに考えてもそれしかないんだ。そう決心しても、ぼくの気持ちは振り子のように揺れる。おじいちゃんの前に出た時のことを、どきどきしながら想像してしまうのだ。自分の気持ちを、しっかり言いきれるだろうかって。でも、もう、言いきるしかないんだ!それしか、方法はないんだ!どんなにじたばたしても、残されているのは、それだけだ。 逃げたくても逃げられない。逃げずに、当たっていくには、どうすればいいんだろう。あ、ぼくに欠けているもの、ある!今、ぼくに足らないもの。それは、勇気なんじゃない?当たっていく勇気なんだよ!勇気がなかったら、イケと一緒になんか戦えないに決まってる。意気地なしのぼくが、心の奥に眠っている(そう信じたい!)勇気を呼び覚ましていけばいいんだ!ぼくは、何だか、一瞬熱くなったような気がした。この熱さが冷めきらないうちに、ぼくは家に帰ろうと思った。おじいちゃんに、話そうと決めた。もう、正面から当たるしかない。勇気、ゆうき、ユウキ、ぼくは小声で言い続けた。そして、海に咲く花を、思った。 家に帰ると、牧野先生が来ていた。おじいちゃんと、話している。でも、もうぼくは、話の内容なんか聞かない。いつも、こういう状態で聞いてしまうことが、ぼくの苦しみを生んできたからだ。「ただいまぁ!」、ぼくは先ず、大きな声で言ってしまった。おじいちゃんと先生は、話しをぴたりと止めた。ただいまぁ、ぼくはもう一度そう言って、居間に入った。「ルイ。池上くんはどうしたんだい?先生も、待ってて下さったんだよ」 おじいちゃんの顔は穏やかだった。ぼくの気持ちは、少しだけ落ち着いた。「イケは、家に帰ったよ。親父が心配だからって。おじいちゃんによろしくって。ありがとうと、言ってくれって言ってた」「後から来るのか、池上くんは?」「来ないよ。きっと、来ないと思う」「何だ、来ないのか」 おじいちゃんは残念そうに、頭の後ろに手を当てて言った。そして、すまなそうに、先生を見た。「池上くんは、父一人子一人なんです。夕食も池上くんが作ったりしてて。だから、きっと来られないのかもしれないんです」 牧野先生は、自分の手元に視線を落としてそう言った。 つづく
Jan 23, 2010
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ぼくは、このまま家に帰れない。おじいちゃんにも牧野先生にも、何て言ったらいいのだろう。 今、あった奴らとのことなんか、やっぱり話せない。相談できない。まして、イケと一緒に戦おうとしてるなんてことは! ぼくが、一人で帰って行ったら、おじいちゃんは、きっと訊いてくる。イケはどうしたかって。イケと二人で何をコソコソしてるのかって。今度は、はっきりと訊いてくる。今まで、黙認していたことを、牧野先生の力を借りて。きっと、そうだ。 母さん、ぼく、どうしたらいいと思う?ふっと、母さんを想った。母さんに会いたい。どうしてるんだろう。耕ちゃんも、どうしてるんだろう。きっと、元気いっぱいだよね?大好きな、大好きな母さん。可愛くて生意気な、耕ちゃん。それに、親切な山中さん。どんな風に、暮らしてるんだろう。三人で。 風が、ぼくの髪を吹き上げていった。 母さん、ぼくの母さん。赤ちゃんだったぼくを、懸命に育ててくれていた、その頃の母さんに、ぼくは会ってみたい!ぼくは、母さんを悲しませたり、苦しめたりする赤ちゃんだった?今みたいに。ごめんね、母さん。ぼくは、ひねくれてて、素直じゃなくて。そして、心配ばかりかけちゃってて。 母さん。ぼく、イケと一緒に戦いたい。これは、おじいちゃんにも牧野先生にも言えないんだ。警察にもだよ。イケが一人で戦おうとしてるからだよ。ぼくの親友なんだ、イケは。 母さん、でも心配しないでね。ぼく、とても怖いけど、イケと一緒に戦いたいんだ。それに、ぼくはね。 ぼくは、海に咲く花を見たんだ!あの、伝説の花だよ!イケと二人でだよ。おじいちゃんだって、誰だって、見たことのない花だよ。母さん、信じられる?母さんだって、見たことないよね?ぼく、だから、段々、勇気を出せるような気がしてきたよ。 辛かった父さんのことも、ぼくは自分のこれからの力にできそうな気がする。海に咲く花に出遭えて、ぼくの命もとても大切なんだって思う。ぼくの命の、奥の奥からそう思う。大切な友だちの命。ぼくは、それを守るために、やっぱり戦おうと決めたよ、母さん! つづく
Dec 19, 2009
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ぼくは、イケの大抵のことは、知っているつもりだ。 イケは、父さんと二人で暮らしていること。母さんはいるけど、離婚して、お兄ちゃんを連れて家を出て行ってしまったこと。イケの生まれる前、イケの母さんは、お兄ちゃんを連れて、イケの父さんと再婚した。だから、お兄ちゃんは、父さんとだけは血がつながっていなかったこと。イケは、父さんの子だから、母さんに連れて行ってもらえなかったんだ。残されてしまったんだ。母さんと血がつながっているのに。 ぼくの母さんなら、そんなこと絶対しない!どんなに反対されても、連れて行ってくれる!血がつながっていなくたって、ぼくの母さんなら!でも、でも。大人は、子どもの心の、小さな『ど真ん中』のことを分かってはくれない。たとえ、ぼくの、やさしい母さんだって。 ぼくは、イケが母さんに置いていかれても、母さんのこと、大好きなのを知っている。ぼくはイケのこと、まだ、もっと知っている。 学校の勉強はできないけど、ナスカのことや、歴史のこと、そして、惑星や恒星のことをよく知っていること。特に衛星に興味を持っていて、月が大好きなこと。大人になったらナスカの番人になるって決めていることだって。 それに、野島さんのこと、今も、とっても好きだってこと、知ってる。 まるで、月にうさぎがいないぐらい、花立に野島さんがいないのに、何度も野島さんが住んでいた家を見にいってるらしいこと。イケは、月にうさぎがいてほしいのだ。ぼくだって、いてほしいと想う。 でも、ぼくは。イケの心の、『ど真ん中』のことは、知らないのかもしれない。きっとそうなんだ。イケの一番大切なことは、簡単には見えない。ぼくの一番大切なことが、母さんにもおじいちゃんにも見えなかったように。イケは、ぼくに、「お前に説明するのも、めんどくせー」と言った。それは、ぼくに分かるまで、ぼくが納得できるまで説明するのが、「めんどくせー」のだ。いや、もしかして、どんなに説明しても、ぼくが理解しないと思っているのかもしれない。ぼくが考えていることを、どんなに言っても、イケが理解しないみたいに。 やっぱり、一番大切なことは、一番分かりにくいことでもあるんだと、思う。でも、ぼくにはっきり分かっていることは、友だちは、イケしかいないということだ。 ぼくは、イケのために何ができるのだろう。ぼくは、イケと一緒に奴らと戦いたい。震え上がるほど怖いけど。 つづく
Sep 24, 2009
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イケは、物も言わずにすぱっすぱっと歩きだした。何かを切り捨てるように両腕を鋭く、振った。そして、自分にくっついてしまったものを、意を決して剥がそうとするような、強いものが目の中にあった。「イケ、警察へ行った方がいいよ。ねえ、イケ。ぼくたちじゃ、どうにもならないよ」「お前には、分からないんだよ。とにかく、はやく歩けよ。ぐたぐた喋ってんじゃ、ねーよ。此処から、さっさと離れるんだ」「離れるだけじゃ、何の解決にもならないよ。イケッ」「お前には関係ないことだよ。警察なんか行ってみろ、オレは、奴らから一生逃げまわることになるんだぜ。オレは、もうそんなことは、しねーよ。しねーって、決めたからよ」「でも、イケ。何にもしてないイケを奴らは蹴ったんだよ。ちゃんと警察に行った方がいいよ。これからだって、奴ら、何をするか分からないよッ。ねえ、イケ」 イケは返事をしなかった。奴らから、遠く離れた時、イケはぶっきらぼうに言った。「オレ、此処で帰る。お前と話しても、分かってもらえねーし、よ。お前のじいちゃんに、礼を言っといてくれよな?いいじいちゃんだぜ。オレも欲しいよ、あんなじいちゃん」「イケ、何でだよ。何でここで帰っちゃうだよ。先生だって、ぼくん家に来るんだよ。おじいちゃんだって、イケのこと心配してるんだから、一緒に行こうよ」「まあな。まあ、帰るってことよ。お前に説明するのも、めんどくせーからよ」「何で、めんどくせーんだよッ。ぼくたち、友だちだろッ?」「確かに、なッ。確かにそうだよな。お前の言う通りさ」「だったら、だったらさ。警察がだめって言うんなら、先生とおじいちゃんに、相談しようよ。それしかないよ。ぼくだって、ほんとは、イヤだよ、相談するの。でも、仕方ないじゃん、この際」「そんなこと、できるかッ?だからよ、お前に説明したくなくなるんだよ」「友だちだって、言ったよね?それなら、説明しろよッ。どうするつもりなんだよ、イケは!どうやって、解決するんだよッ!分かるように、説明しろよッ」 ぼくは、解決に向かって歩き出したかった。イケは、ふんと、笑った。「オレよ。親父、でっきれー(大嫌い)だけどよ。ちゃんと仕事行ったか心配なんだよ。だらしねー、親父だからよ。だから、帰るから、よ。じゃーな」 イケは、もう、ぼくを振り返りもしないで、いつものように片手を挙げて、行ってしまった。「ぼくはまだ、説明きいてないよー。どうすんだよォー、イケーッ」「やっかいな親父、だからよー。仕方ねーんだー」 ぼくは、追いかけて行こうとした。でも、止めてしまった。ぼくは、イケの何が分かっていないのだろう。 つづく
Jun 8, 2009
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ぼくは、凍りついた。ぼくたちは、こんな所まで来ていた。崖の下を夢中で歩いていて、此処が何処なのか、分からなかったのだ。 花にもう一度会いたくてやって来たのに、こんなことになってしまった。「ぼくたち、花に会わない方が良かったのかもしれない!」 ぼくは、わなわなと震えながら、小声で言った。「オレ、けじめをつける勇気なかったけどよ。花に会って、オレ、良かったよ。もう、逃げ回らないぜ、オレ。もう、決めた!今まで怖気づいていたけどよ。ルイ。奴らのことは、お前には関係ねえ。上に上がったら、さっさと帰れ!いいなッ?此処で、もたもたなんか、してんじゃねーぞ!いいなッ?」 イケは、ぼくの心にねじ込むように言った!恐ろしいほど真剣な声だった。その言葉は、ぼくにはとても痛いほど、響いた。ぼくは一人で逃げ出すのは嫌だ。怖いけれど、一人で逃げてしまうのは、嫌だ。逃げ回らないと決めたイケと一緒に、ぼくも奴らと話し合うんだ。話し合えば、きっと分かるはずだ。イケを、奴らから解放させるんだ。 ぼくは、考えているうちに少しづつ落ち着いていった。 イケは崖をのぼりはじめた。ぼくも、イケの後に続いた。イケは軽々とのぼっていく。逃げ回らないと堅く決心した強さが、イケを後から押し上げているようだった。でもぼくは、そうはいかなかった。奴らの、怒鳴るように話す声で、決心が揺らぎはじめてしまった。何人仲間がいるのだろう。しり込みする気持ちが、ぼくを重たくした。逃げ出したくなってしまった。イケと二人、ダッシュで!「イケッ!」 ぼくは、思わず叫んだ。「ルイ、黙って早くあがれッ!」 イケの押さえた声が、ぼくを益々不安にした。ぼくが、あがっていくと、「こいつはオレと関係ねっす。だから、ルイ、早く帰れッ!」 イケはそう言った。「コウヘイちゃんよォ。そうは、いかねーんだよ。お前が仕切って、どうすんだよ!」「こいつは、めんどクセー奴っす。使い物にならねー奴なんで、帰した方がいいっす」「だから、コウヘイちゃんよォ。お前が仕切るんじゃねーつーのォ!決めるのは、オレたちなんだよ!」 イケが、震えるのをはじめて、ぼくは見た。イケは、はたと跪いて頭を下げた。「こいつは、関係ねっす。勘弁してやって下さい。オレ一人でいいと思うっす」 奴らの一人が、何もしてないイケを蹴りつけた。イケは、草むらを転がった。「イケは、何にもしてないのに、どうして蹴るんだよ!話せば分かることじゃないかよ!」 ぼくは、思わず叫んだ。「何だとォー!小生意気な野郎だぜ!締め上げてやるかァ?」「勘弁してください!こいつは、関係ねっす。今までのことも、これからのことも、オレはちゃんと話しにくるっす。邪魔なこいつのいない時に、ちゃんと来るっす。だから、今日は勘弁してください。オレは、逃げも隠れもしねっす」 イケは蒼白な顔をして言った。「逃げも隠れもしねぇ?いい度胸してるぜ」 その時、仲間の一人が、袋を持って走って来た。「食い物、ゲットー。飲み物、パクリー」 仲間の声が、どっと沸いた。「仕方がねえ。お前の兄ちゃんに免じて今日のところは、これで勘弁してやるぜ。コウヘイ!逃げんじゃねーぞッ!」 イケは、また蹴られた!ぼくが、何か言おうとした瞬間、「ルイッ!」イケがぼくにタックルしてきた!ぼくは、ひっくり返ってしまった。一瞬、意味が分からなかった。イケはぼくの目を睨んでいた。「オイ、オイ。仲間割れかー。がはははッ。コウヘイ、さっきのこと、忘れんじゃねーぞッ」 奴らの声に、イケは「はいッ」と答えた。そして、ぼくの手を乱暴に素早く引っ張った。「速く歩け!」 イケは、小さな声で、ぼくに命令した! つづく
Mar 2, 2009
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山あり谷ありのでこぼこ道を、誰にも会うことなく、無限岬に行けるようにと、思った。ぼくもイケも、しゃべらずに急いで歩いた。二人とも、同じことを考えていたのだと思う。花は、まだ留まっていてくれるだろうかって。何処かから旅してきた花は、きっとまた、何処かへ往ってしまうのだろうと、思った。 イケの足は、だんだん速くなっていった。ぼくも、急いでついて行った。もう、花が往ってしまったのではないかと、焦っていたのだ。どうしても、もう一度会いたかった。きちんと、別れの挨拶をして、爽やかに見送りたかった。悲しくなる別れは、もういいと、思った。何度も、してきてるから。だから、バーイと明るく、見送りたかったのだ。たとえ、もう会うことがなくっても。ぼくたちにとって、特別な。大切な。息づまるような。花以上の花、だったから、もう一度絶対、会いたかった。何年かして、たくさんの思い出の中に、花も一緒に並んでいたとしても、ひと際光を放って、ぼくたちの胸の奥で色褪せずに咲いているはずだ。花は、誰にも見送られずに、旅立ってはいけないんだ。ぼくとイケが見送るのだ。最敬礼して、見えなくなるまで。 ぼくたちは、花を捜した。捜し回った。けれども花は、見当たらなかった。崖をおりて、岩場を歩いて捜すことにした。上からでは見えない、小さな入り江もあったからだ。入江の所は、海に入らなければ、向こうまで行けない所が多かった。浅そうな所は、靴のまま海に入り渡った。捲り上げたズボンが濡れてしまった。でも、上着だけは濡らす訳にはいかない。もしも、濡らして帰ったら今度こそ、おじいちゃんは黙っているはずがなかった。ちゃんと、はっきりと、訊いてくるに違いない。何をしているのかって。でも今は、何も話したくない。話せる時が、いつかは来ると、思うけれど。入り江が深くなっている所では、ぼくは、上着もズボンも脱いだ。それらを頭に縛りつけて、泳いで渡ろうと思ったからだ。イケも黙ってそうした。いつものイケなら、きっと、チャチャを入れたかもしれない。笑い転げたかもしれない。 ぼくもイケも、口を利く暇などなかった。懸命に捜した。海に咲く花は、どう捜しても、いなかった。もう出発してしまったのかもしれない。ぼくたちが、二日間、目が覚めなかった間にと思うと、じりじりと悔しさが込み上げてきた。 それでも、諦め切れなかった。ぼくとイケはひたすら、岩場を、歩き続けた。どうしても、諦められなかったのだ。 ぼくたちは、言葉を忘れてしまったかのように、無言だった。視線を下に落として、黙々と歩き続けた。周りの、何もかもが聞こえないほど、花のことばかり考えていた。どこまで、歩き続けてきたのか、分からなかった。ここは、どの辺りなのだろう。「ルイッ!あれを見ろッ!花じゃ、ねッ?」 イケが、怒鳴るような声を出した。ぼくは、イケの指差す方を見た。「イケッ!そうだよッ!ぼくたちの花だよッ!花ッ、花だよ!まだ、いてくれたんだ!」 二つの花は、引いていく波に誘われるように、向こうの入り江から去っていくところだった。ぼくは、瞬きもしないで見ていた。花は、沖の方へ沖の方へと、旅立っていく。もう、ぼくたちの方には戻って来なかった。「またなーッ!またなーッ!元気でいろよーッ!」 イケが、大きく叫んだ。「さよならーッ!さよならーッ!ありがとうーッ!」 ぼくも、でっかく叫んだ。旅立っていく花を、爽やかに見送りたかったけれど、できなかった。やっぱり、寂しかった。爽やかな別れなんて、ほんとは、ないんだ。「またなーッ!」と、叫んだイケは、花にいつかまた、再会できると、思っていたのかもしれない。「よォー。コウヘイちゃん、じゃんか。そんなところで、遊んでいたのかよ。近頃は、勝手な真似ばっか、しやがってよォ。舐めんじゃねーぞッ。コウヘイ!上がって来いッ!そこの、お前もだ!」 イケの仲間たちが、ぼくたちの頭上にいたのだ! つづく
Feb 16, 2009
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ぼくとイケは、それから二日間、まるで死んだように眠ったらしい。目が覚めたのは、空腹だったからだ。そして、隣にイケがいたのだ。一瞬、何が起きているのか分からなかった。何故、イケがこんなところにいるのだろうと、ぼんやり思った。 障子から射してくる柔らかな光を見ていたら、少しずつ、思い出していった。ああ、そうだ。ぼくたちは、『海に咲く花』に出会えたんだと、思った。嬉しさが込み上げてきた。その瞬間、はっと思った。ぼくたちは、濡鼠だったはずだ!ぼくもイケも、いつの間にか着替えていたのだ。イケは、ぼくのトレーナーを着ていた。ぼくは、ふっと可笑しくなってしまった。似合うじゃんと、思った。「何、笑ってんだよォ。ところで、何時だべぇ」 まだ眠っていると思ったイケが、伸びをしながら訊いた。「朝、かなぁ?」「昼でねッ?オレ、ルイん家、泊まらしてもらったのかよ、な?」 イケの声が、弾んでいた。「うん、そうゆうこと。イケ、学校。学校、どうする?」「どうするって、行く訳、ねェ。ところでよ、オレ、自分で着替えしたのか?憶えてねーぜ。やっぱりオレ、着替えてねーよ。ルイのじいちゃんが、か?オレ、大事なとこ、じいちゃんに見られてしまったのかよ、やべえ。でもあの時、マキちゃんいたよな?まさか。まさか、マキちゃんか。そんなことは、ぜってえ(絶対)、ねーよな? オレ、こんなことしてられねーぜ。帰る。親父に、がつんとやられるし、よ」 イケはさっと、立ち上がった。「オレ。腹、減ったなァ」 イケは、情けない声をだした。「ぼくも。ぼくん家で、食べて帰りなよ。どうせ、今帰っても、父さん会社だろッ?」 おじいちゃんの足音がした。「おッ。目、覚めたか。あんまり寝るから、心配したよ。腹、減ったろう?」 穏やかな声だった。おじいちゃんは、のそっと入ってきた。「減ったっす。食わして下さい」「あはは。減ったろう、減ったろう。丸二日、何も食ってないからな。目が覚めて良かったよ、本当にな。どっかで、眠り薬でも飲まされたのかと、心配したよ」「おじいちゃん。ぼくたち、二日間も寝てたの?」「そうさ。牧野先生も、心配して毎日来てくだすったよ。あんたの家にも連絡してくれているから、心配ないから、な。あんた、名前は池、池。何ていったっけ、かな」「池上っす」「ああ、そうだったな。(池)上だった、な。オレも、もうろく、してきたな」 おじいちゃんは、頭の後ろを撫でながら言った。「おじいちゃんはまだ、もうろくなんか、してないよ!」 ぼくは、思わず大きな声で言ってしまった。「そうだ、そうだな。ルイが、二十歳になるまでは、もうろくしてる場合じゃないな?さて、飯の時間、飯の時間。二人とも、うんと食えよ」 おじいちゃんは、以前と同じになっていた。ぼくに、出て行けと言った、おじいちゃんではなかった。 ぼくとイケは、何膳おかわりしたか、分からない。 学校は、明日から行くことになった。 ぼくもイケも、あの花のことが気になっていた。まだ、無限岬にいるだろうか。もう一度、どうしても見たかった! おじいちゃんが、出かけることに反対するのは、分かっていた。「おじいちゃん。イケと一緒に、スニーカー捜してくるね。あの、スニーカー、大事なんだよ。母さんと一緒に何軒も店、回って、買ってもらったやつなんだ。捜してもなかったら、スグ。スグ帰ってくるから、ねッ」 おじいちゃんは、ぼくの顔を、透かすようにじっと見た。そして、イケの顔も、まじまじと見た。おじいちゃんは、きっとぼくに、訊きたいことが沢山あったはずだ。でも、何も応えなかったし、何も訊かなかった。「イケ、一緒に捜してくれるよね?大事なスニーカーなんだよ」 イケは、黙ってうなずいた。「今日も、先生が来てくださる。それまでには、必ず帰って来い。ルイ、いいなッ?池上くん、済まないが、そうしてくれ。ルイ、信じてるからなッ」 おじいちゃんの言った、『信じてるからなッ』は、ぼくの心にずしんと重かった。ぼくたちは、あの花を見たら、本当にスグ帰るつもりだったのだ。 つづく
Feb 9, 2009
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葉は、本当に昆布のように長めで、ぬるっとしていて、縁はひらひらとフリルのようだ。全体が茶色で、波に沈むと深緑色になり、浮かんできた瞬間は、オリーブ色だった。花は、二枚の葉の上で守られるように、咲いている。二枚の葉はまるで父さんと母さんみたいで、花は大切な子どものようだった。ぼくはそれを見て、気持ちが、ふうっと緩んだ。何だかとても、嬉しくなっていた。花がとても、幸せそうに映ったからだ。 ぼくは、ふとイケの様子が気になった。さっきまで、あんなに大きな声ではしゃいでいたのに今は静か過ぎる。イケが、目を赤くしていた!ぼくは、はっとした。ぼくは、イケの気持ちが分かったような気がした。あのイケの目は、海水で赤くなったのではないって。「イケ、唇、紫になってるよ。(陸に)あがってから、見ようよ。風邪ひいちゃうよ」「やだよ。寒くなんか、ないって」「寒くなくたって、紫だよ。それなら、ぼくは?ぼくも、紫になってるハズだよ」「なってないって。お前は、先にあがりな。オレは、まだあがらない。オレさ。オレ、マジ、この花、ノジにも見せたかった!ノジさ、ずうーっと悔しかったと思うよ。でもな、転校してよかったんだ。もう、いじめられてないと、思うしよ。オレ。ノジの分までしっかり見ておくからよ。今度、いつかノジに会えたらよ。この、花の話、してやりたいからよ。あいつ、この話しても、信じてくれるかどうか、分からないけど、よ。オレだって、最初信じなかったし、な」 ぼくも、イケのその言葉で、野島さんに見せてあげたいと思った。野島さんは、どうしているのだろう。転校してからは、うまくいってるのだろうか。笑っていた頃の野島さんを思い出した。心の隅っこに、微かに揺れるような痛みを感じた。「きっと、野島さん、信じてくれるよ!」「お前、そう思うか。でもよ、オレが言ったって信じてくれないぜ。お前なら、別かもしれないけどよ」「別?そんなこと、ないよッ」「お前、ノジのこと、好きなんだろ?はっきりしろよ!」「はっきりしろったって、よく、分からないよ。何で、はっきりする必要があるんだよ!」「必要?必要があるから、訊いてんだよ。お前も分からねぇ奴だよな。でも、まいっか。オレは、ノジのこと、好きだ。誰が何て言ったって、ノジのこと好きだァ!」 イケはそう叫んだ。その声は、波にさらわれて消えて行った。その想いは、やがてイケの胸の奥に、大切にしまい込まれていったようだった。(イケはその後ずっと、野島さんの話をしなくなったのだ。)ぼくは、人の気持ちの深さと切なさを、思った。 海に咲く二つの花は、白く輝きながら、ぼくたちの側で波に揺られていた。また旅立って、もう会えなくなっても、生涯の友だちだよと言ってるみたいに。ぼくは、もう何も言えなかった。イケも無言だった。ぼくとイケは、これからずうーっと、生涯の友だちだとぼくは思った。たとえ、何があっても!ぼくは、そう決めて前へ進むことを、伝説の花に教えてもらったと思った。ぼくたちは、掛け替えのない友だちなのだ。「ぼくたち、マジ、凄いことに遭遇してるよね?誰も見てないことに、出会えてる。何だか、これから、どんなことがあっても負けないでいられそうな気がする。頑張れそうな気がするよ!」「うん、そうだな。お前、たまには、いいこと言うじゃんか」「たまにじゃ、ないよ。ぼく、いつだって言ってるじゃん。イケが気がつかないだけだよ」「あはは、あはは。ところでよ、寒いよー、母ちゃーん」「ぼくも、寒いよー。母ちゃーん」 ぼくもイケも、あがると、くしゃみの連続だった。むしろ、海の中の方があったかかった。「こんな濡鼠で、(二人で)歩いていたら、怪しい奴と思われるよ。ヤバイよね?ぼく、片っぽの靴もないしさ」「そんじゃ、近道するか?誰にも見られないぜ。ただしィー。山あり谷ありーィ」「いいよ。山あり谷ありだって。急いで、帰ろう!」「ルイ、行ッくぞォー!」「おッうー」 何処を通っているのか、分からなかった。イケの言ったように、本当に山あり谷ありだった。ぼくはもう、何も言う元気がなくなっていたから、ただ、ただ登ったり下りたりした。 時々、イケが何かを言ったけれど、聞き返す力が残っていなかった。うん、うん、ぼくはそれしか言えなかった。 どうやって家に辿り着いたのか、ぼくは覚えていない。 牧野先生が、ぼくの家に来ていて、何か叫んだみたいだった。 イケが、がっくりとヒザをついて、倒れこんだみたいだった。 ぼくは、それからどうしたのか、何も覚えていない。 つづく
Jan 26, 2009
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ぼくもイケも、お互いに、ここにいることさえ忘れてしまっていた。話すことも、考えることも。息をしていることさえも。そして、穏やかで、心地よい幸福感に満たされていることにも、気づかなかった。 どれぐらい、そうしていたのだろう。 ぼくは、徐々に自分を取り戻していた。充分な眠りから、覚めたような爽快感で。深い海を彷徨ってきた花のことを、ぼくは思った。伝説の花は、本物の花だった!何百年に一度しか咲かない、誰も見たことのない花。そんな神秘の花を、今、ぼくたちは見ている。でも何故、ぼくたちが見られたのだろう!誰が、ぼくたちに見せてくれているのだろう!ぼくは、花を見つめながら、考えていた。 見せてくれたのは、もしかして父さん?・・・・。・・・。違う。父さんでは、ないんだ!ぼくは、そう思い始めていた。父さんに、何かをしてもらおうなんて、間違ってるんだ。いつも、ぼくは何かを期待して待っていた気がする。父さんは、ぼくに、何かをしてくれることなんて、もうできないんだ。助けてくれることも、救ってくれることも。ただ、手の届かない所から見守ってくれることしか。でも、ぼくには父さんにできることが一つだけある。それは、父さんを安心させることだ。父さん、ぼくは、もう大丈夫だからね。だから、安心してね。父さん、さようなら。さようなら。 この不思議な花に巡りあえたのは、誰かがそうしてくれたからじゃないのかもしれない。ぼくが、ぼくだから、だ!イケが、イケだから、なんだ!だから、見られたんだ。宇宙を動かしている計り知れない大きな力の中に、小さいけれど、大切な一員として、ぼくたちは生きていたからかもしれない。生きているから、見られたんだ! 花は、かがやくように白かった。二つの花は、掛け替えのない友だちのようだった。大きさは、ぼくが一人乗れそうなぐらいあった!花全体が、角が丸くなった星の形をしていた。花の真ん中には、ぼくの手のひらより大きい、透明なボールのようなものがついていた。ボールの中には、たくさんのしべが、楽しそうにひしめいていた。一本一本が、茶色、灰色、緋色、紫色、朱色、墨色、深緑色、黄緑色などで、数え切れないほどだった。離れてみると全体が、クロユリのような色をしていた!波で、揺れるたびに、その色は濃くなったり、薄くなったりした。花の縁は、金の絹糸で丁寧に縫われてでもいるようだった。しべの中央からも、花の五つの先端に向かって、もっと細い金の絹糸が葉脈のように走っていた。花は、浮かんだり沈んだりするたびに色を、白から、薄い緑色にかえる。絹糸も、金の糸から銀の糸に、とかわったりする。花がもっとも美しいのは、波に引き込まれて、浮き上がってくる瞬間だった。白く、かがやくのだ。花が、ぬるりとしていたことには、びっくりした!花は、やっぱり、生きているのだ!花も、大切な宇宙の一員なのだと思った。ぼくはまだ、花の下に、褐色の葉があるのに、気づいていなかった。花しか、見ていなかったからだ。 海で生きる花は、大地で生きる花よりも、過酷な中を泳ぎ続けているのかもしれない。何故、この花は、海に咲かなければいけなかったのだろう。何て、不思議な花なのだろう。 どぼんッ。飛沫が、ぼくにかかった。イケが飛び込んだのだ。「ルイ、すげー。葉っぱ、昆布みたいだぞ。お前も、飛び込め!」 ぼくは、ちょっと怯んだ。また、溺れてしまう。「溺れたら、また助けてやるからさ。飛び込めよ!」「うん!」 ぼくは、勢いよく、飛び込んでいた! つづく
Nov 30, 2008
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ぼくの気持ちが、弾んでいた。もう、ぼくには、花が本物だと思えたからだ。ただ、イケがいないことが寂しかった。ケンカしてでも、一緒に探検したかった。 花を、まじかで見てから、イケを呼びに行こうと、思った。イケはプラスティックだと、言い張ったけど、本物だったんだよって言ってやる。人を信じないんだから、イケは。きっと、それまで花は、待っててくれるかもしれない。 そう思った瞬間!あッ、ぼくの足をかけた箇所が力を入れたとたん、崩れてしまった!ぼくは、バランスを失って、そのまま、真っ逆さまに岩場に落ちていく。今度は、ほんとに死ぬかもしれない!頭を打って!全身打撲で!「母さん、助けてッ!」、ぼくは、声にならない叫びをあげた。ギャーと言う叫びがぼくの体の中で、何かにしがみつくようにもがく。ぼくは、下から引っ張られるように落ちていく。母さん!耕ちゃん!おじいちゃん!おじいちゃんの言っていた、「犬死は、するな!」を、思った。「犬死は、嫌だ!」、ぼくは呻きながら、悔やんだ。ぼくは、何てバカだったんだろう!ごめんなさい! 落ちていく何秒かの間、たくさんのことが過ぎった。それは、ロケットよりも速く、駆け抜けていった。人が次々に、心に思っていくことは、光よりも速いのかもしれない。 どぼん、どぼんと波が、立ち上がっていた。ぼくを、待ち構えている。ぼくは、その中に落ちていった!助かった!と、思った。岩に、たたきつけられなかったからだ。よかった!波なら、脱出できる!ぼくは、泳げるから。そこは、深い生簀のようになっていた。海水を、がぶっと飲んでしまった!苦しかった。 気力を振り絞って、浮きあがろうとした。波が、「そうは、させるもんか」と、高笑いしてぼくの上に馬乗りになっくる。沈めようとしてくる。ぼくを、巻き取ってさらっていこうとしている。手も足も、自由にはならない。ぼくは、泳げるのに。泳げるはずのぼくが、泳げない。 さっきまで死のうとしていたぼくが、絶対、死にたくないと、今は思った。ぼくは、本当にバカだったんだ。息がつけなかった。ぼくは、もがいた。もがいても、もがいても浮き上がれなかった!恐怖で、ぼくの全身がいっぱいになった。 その時、誰かが上着を脱いで、ぼくに放り投げた。波の下から、人影が微かに見えた。ぼくは、夢中で、それにしがみつく。それでも、底に引き込まれていく。沈んでいく。ぼくは、しっかりと上着を握っている。浮き輪になってくれと、願いながら。どばどばと、ぼくは、もがく。苦しい。ウパッ、ぼくは波のすき間から、必死で顔をあげ呼吸する。 誰かが何か叫んでいる。ぼくは、波を押しのける。「だずげでーッ(助けてーッ)」 波が、更に攻め寄せてきて、邪魔をする。 その時、誰かが天から降ってきた!どぼんと、大きな音がして、波が、大きく暴れた。ぼくに向かって泳いできた誰かは、ぼくを助けず、上着の端を掴み、怒鳴った。「しっかり、そっちを掴んでろッ。離すなよッ」 イケがターンして、泳いでいく。イケ、だったんだ!ぼくの掴んだ上着を、引っ張って泳いでいく。何て、イケはしっかりしてるんだろう!イケ、ありがとう。ごめん。ぼくは、片手で上着を掴み、もう片方で、波を掻き分ける。落ち着いて、泳ぐ。もう、むやみに、もがいたりしない。イケと一緒だから。 ぼくは二度も、イケに命を救われたのだ! 岩場に辿り着いた時、イケは、肩で息をしていた。「何だよォ、お前。だらしねぇ奴だな。泳げないのか、よォ?やべッ、寒ッ!」 イケは、ぶるっと震えて、怒ったように言った。「前は、泳げたんだ。でも、泳げなくなってた。イケ。助けてくれてありがとう!」「お前、世話が焼け過ぎだぜ。頼むよォ。プラは、どうした?」「プラじゃないと、思う。花だよ、花だよ。きっと、そう」「仕方ねえ。行ってみるか。付き合ってやるよ。あっちの方か?おッ、足が痛てッ、(傷に)塩が沁みてるぜ。こんな塩水(しおみず)の中に、花が咲くって考えるなんてよ。お前も、変な奴だよな?海に花なんか咲かないんだって。咲くわけ、ないって」「いや、イケ。咲いてたんだよ」 がじがじの岩場を伝って、花の方に、よじるようにして、進んだ。 ぼくも、寒くなった。膝も、沁みて痛かった。花は、岩場を進んでいっても、まだ見えなかった。もう、行ってしまったのだろうか。もしかして、幻だったのだろうか。見たのは、ぼくだけだったのだからと、不安になってしまった。「お前、ほんとに見たのかよ、プラ?ないじゃん、よ」 イケは、海を覗くようにしてそう言った。突然、素っ頓狂な声をあげて、「あった!プラ、あったぜ、ルイ。あんな所に、隠れていやがった」「ほんとッ?あった?」 ぼくもイケも、すっかり寒さを忘れていた。心がはやった。イケは、さっさと進んでいく。足場が悪くて、ぼくは、もどかしいほど進まなかった。それもそのはず、ぼくは、片方のスニーカーしか履いていなかったのだ。ぼくは、片方の足、靴下だけだった。全然、気がつかなかった。どこで失くしてきたのだろう。「参ったぜ、本物だ!ルイ、早く来い!ルイ!」 イケの、うわずった声だった。 ぼくは、立ち止まってしまった。見ても、いいのだろうか。はじめて、ぼくは、花への畏敬の念を持った。命というものの不思議を、深く思った。海水の中に、花が咲いているなんて!イケが言ったように、塩水(しおみず)の中になんか花は、咲くわけないのだ。絶対花だと確信していたぼくが、今、しり込みしている。ぼくは、どうかしてる。 イケは、放心したように立ち尽くしていた。ぼくは、少しずつ近づいて行った。恐る恐る、震えながら。花の前に。その美しさに、思わずぼくは、息をのんだ。白くかがやく花! 周りのもの全てが静まり返り、自分のことも、イケのことも忘れて、ぼくは、ただただ魅了されていた。 つづく
Nov 27, 2008
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「イケーッ。先、帰っていーよー。ぼく、やっぱり、確かめてから、帰るからー。もう、バカなことは、しないからー。絶対、ぜーったい、もうしないよーッ。だから、もう心配しなくていィーよォーッ」 イケは、手を上げただけで、振り返りもせずに帰って行く。ぼくは、ちょっとがっかりした。イケが、もしかしたら戻って来て、一緒に確かめてくれるかな、なんて期待してしまったからだ。それに、あの崖から下におりていくのは、怖かった。崖から飛び降りようとしたぼくだったのに。 あれは、本物の花だと、ぼくは信じたかった。父さんが、ぼくに見せるために、引き寄せてきた、本物の花だと思いたかった。 おじちゃんは、いつか、伝説の花だと話してくれたけれど、ぼくは、どうしても、そうは思いたくなかった。もし、本物の花だったら、やっぱりイケと一緒に見たかった。一緒に驚きたかった。生きてて良かったと、気持ちの奥から思いたかった!だから、あの伝説と言われた花は、どうしても、本物の花でなければならないのだ。 ぼくは、一番低そうな崖の先端を、捜した。そして、そこから海を覗いて見た。まだまだ、高かった。 花が、流されていってしまったのではないかと、焦った。花は、ゆったりと、波に揺られてとどまっている。何だか遊んでいる感じがする。 波は、激しく岩にぶつかっていく。岩を削り取ろうとしているみたいに、果敢に。何故、花だけがゆったりとしていられるのだろう。何故、波に掬われて、岩に叩きつけられたりしないのだろう。岩の間を漂いながら、何故、ぼろぼろになったりしないのだろう。本物の花と思いたいけれど、やっぱり、不思議すぎる。ぼくは、夢をみてるのだろうか。 こんなに潮のにおいがする。懐かしさを秘めた潮の匂いがする。だから、夢なんかじゃ、ない。 ぼくは、もう一度、花を確かめるために見た。一つだと思っていた花が、二つあったのだ!離れたり、寄り添いあったり。ダンスをしているのだ、きっと。ぼくは、無言のまま、見つめていた。十二歳の、ぼくの魂が、美しいものに奪われていった。ぼくは、風の中で、どれぐらい立ち尽くして見ていたのだろうか。その時、何故だか、突然、野島さんはどうしているのだろうと、思った。ぼくの心の中に、野島さんがいたのだ!胸がどきどきした。びっくりした。ちょっと、苦しくなった。やがて、じわじわと、悲しみが滲んでいった。ぼくは、何だかうろたえてしまって、どうしていいのか、分からなくなった。どうして、野島さんを思い出したりしたんだろう。でも、答えは知らなくてもいいんだ。もう、野島さんは転校してしまったのだから。もう、会うこともないのだから。 そんな想いを振り切って、ぼくは下の波間までおりていこうと決心した。ぼくは、出っ張った所に足をかけた。とたんに、じゃりッ、じゃりッと音がした。ぼくの重みで岩が削られて、小石や砂となって落ちていく。気を抜いたら、ぼくも、あの小石のように転げ落ちていく。真っ逆さまに。下を見たら、くじけそうになる。でも、しっかりと足場となる所を見なければいけない。ぼくは、また足をかける。 いつの間にかぼくは、何も考えていなかった。ひたすら、おりていった。悲しみも苦しみも、懸命におりていくぼくから消えていた。かわりに、ぼくの中に喜びが生まれていった。あの花に、会える!もうすぐ、会える! つづく
Nov 22, 2008
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ぼくは、少し前からイケのことを友だちだとは思えなくなっていたのだ。イケの言動に振り回されていることが、ぼくの気持ちを暗くするようになっていったからだ。イケと一緒にいないことの方が、落ち着いていられた。ちょっとは、寂しかったけれど。相談したくても、どうせ、そこにイケはいつもいなかった。そして、ぼくに、東京に帰れとまで、言ったのだ。 今、イケが必死に護ろうとした野島さんは、もう、いない。イケはどんな気持ちでいるのだろう。どんな気持ちで見送ったのだろう。いてほしかった野島さんがいなくなり、帰ってほしかったぼくがしっかりここに、いる。 ぼくは、どんなに大変なことをしでかそうとしたかをまだ、本当には分かっていなかった。だから、ぼんやりとそんなことを考えていたのだ。人ごとみたいに。ぼくが自分のしたことに、慄然となるのは、この何週間か後のことだ。 今ぼくは、何だか、夢の中にいるような気がして仕方なかった。踏みしめている大地がぐにゃぐにゃと、揺れる。まるでゴムでできた、つり橋の上にいるようだった。「お前、いつまでそこにいる気なんだよ。こっちへ来いよ。そのまま、這って来い。落ちるから、立ち上がるんじゃないぜ。ヤベェ、立ち上がるなって言ったろ!這って来い!ルイ、這ってくるんだよッ。お前、使えねぇ奴だよな、まったく、よー」 ぼくは、這っているのに、ふらついている。だから思わず、立ち上がろうとしたのだ。「アホ!立ち上がるなって言ったろ!分からね―奴だな、お前。下を見るんじゃねーって。こっちを見ろ。こっちだよ、こっち」 イケは、必死に怒鳴っている。ぼくは、よろよろと座り込んだ。そして深く呼吸した。イケが見るなと言った遥か下を、ちらっと見てしまった。波間に、大きな花の形をした白い何かが揺れているのが、目の端に見えたような、気がした。 ぼくは息を止めて、必死で這いながら、イケのいる方に向かった。ぼくは、そのまま夢中で這った。ぼくは、やっとゴムのつり橋を渡りきったのだ。膝小僧が擦り剥けて、血が滲んでいた。ハーパンの裾も破れていた。 イケの灰色の長ズボンにも、血が滲んでいた。「イケ、どうしたの?血、出てるよッ」「ゲッ、お前のセイに決まってるだろッ。お前を力任せに引っ張りあげてよォ。弾み食らってよ。思いっきり、ここまで飛ばされたんだよ。もしかして、お前、柔道三段だったのかよ?でも、よ。オレの方が強いからよ、かすり傷で済んだんだけどな。でも、ちょっとは、痛てぇ。あはは。サッカーじゃ、ケンカ強くならねぇからよ。逃げ足は速くなるけど、な。二人で柔道でもやるかぁ?やられそうになったら、やり返せるし、な?マジで、よ。オレは、殺されたって死なねぇけどよ。それにしても、痛てぇ。やっぱり、よォ」 イケは、どうしてこんなに強いんだろう。それに、明るい。自分に負けないと言うのは、こう言うことなのだろうか。ぼくも、どうしたらイケのように、強くなれるのだろう。強くなりたい。そして、自分に負けたくない。 もう、ぼくは、こんなこと、二度としないんだ!イケのように、殺されたって死なないようになるんだ。 柔道。ぼくもイケも習ったことはない。「イケ、ケンカ強くなるための柔道じゃ、ぼく嫌だけど、さ。マジで柔道習う気ある?」「でもよ。金、ねえしな。親父に習いてぇなんて、言えねえし、よ。もう、オレ。自分の金も、全部使ってしまったしよ。オレのために使ったんじゃなくてよォ。仲間のために使ったんぜ、もったいねえ話だぜ。まったく、よ」「えッ?イケ、そんなことまでしてたんだ。ダメだよ」「まあな。まあ、そんなところだ」「イケ。もう、あんな奴らと付き合うの、止めろよッ」「まあな。考えてみるからよォ。もう、帰ろうぜ。無限岬にいると、死のうなんて思わなくたって、死にたくなってくるぜ。危ねえ、危ねえ。分かりたくもねえ、アホな、ルイの気持ちが分かってしまうからよ」 イケは、憎まれ口をきく。「ぼくだって、分かってもらいたくも、ないよッ」「オイ、オイ。命の恩人に向かって、それはないだろ。お前、今頃、海の底だぞ。二度とやろうとしたら、もう絶対、知らないからな!オレは、もう助けないぞッ。(もし、二度もやったら)後はもう、人魚と友だちになるんだなッ」「うん。分かったよ!分かった!あ、そうだ!イケ!さっきさ。海に白い大きな花みたいなのが浮かんでいた気がするんだ。何なのか、確かめてみようよ」「花?何だよ、ソレ。どっかの国から漂流して来たプラ(スティック)に決まってんじゃねーの?プラゴミだろ?プラゴミ。もう、行くべ。こんな所には、いられねー」「イケ、本物の花ってこと、ないかな?」「ねー、ねー。あり得ねー。ルイ、行くぞ」 イケは、足を引きずりながら、帰りはじめてしまった。 つづく
Nov 18, 2008
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雨が降ってきたみたいだと、思った。ぼくにとっての、最期の雨。急がなければ、びしょぬれになっちゃう!そう思って、ぼくは急いで、飛んだはずだった。死んでしまったら、もうそんなことは全て関係のないことだとは、考えられなかった。ぼくは。抱きとめてくれるはずの父さんに向かって、ダイブしたのだ。 遥か下では、確かに、波が、白くくねる手でぼくを誘っていた。ぼくはそれを、はっきりと見たのだ。海は巨大な口を、あんぐりと開けて、落ちていくぼく(獲物)を、待っていた。今か今かと。ぼくは、ぶるぶると震えた。 父さん、絶対会えるよね? 父さん、絶対来てくれるよね?どんなに決心しても、父さんの所に本当に行けるかどうか、不安で、恐れおののいた。父さんからの返事がほしかった。それは、ないのが当たり前だと分かっていても、ぼくは切望(のぞん)でいた。心の奥の、奥から! 落下していくぼくは、空中で、何か、大きく叫ぶ声とともに強い力で、押し上げられたと、思った。何だか、父さんの懐かしい匂いがしたような気がする。地上からは、むんずとTシャツの背中を乱暴に掴まれ、引き上げられたのだ。Tシャツは、ずり上がって、ぼくの首を強力に締め上げた。声も出せなかった。苦しかった。何が起きたのか分からなかった! ぼくは、岩にしゃがみ込んで泣いていた。そこには、胸をなでおろしているぼくがいたのだ。最期の雨も降ってはいなかった。ぼくは、何をしようとしていたのだろう。シャツの袖口も胸のあたりも涙で、ぐじゃぐじゃだった。ぼくは、ずーっと、泣いていたのかもしれない。風と荒波の吠える音を聞きながら、ぼくはまだ泣いていた。泣いて、泣きすぎて、頭が痛かった。鼻が詰まり、息をするのが苦しかった。耳の奥が、きいーんと響き微かに痛みがあった。そして、とても、寒かった。ぼくは、震えていた。ぼくは、まだ生きている。手も足も震えながら動いている。どうしてぼくは、まだ生きているんだろう。ぼんやりと、考えていた。父さんは、ぼくを迎えには来てくれなかったんだ。だから、ぼくはまだ、ここにいるんだ。「気がついたかッ?超アホッ!」 イケが仁王立ちして、そこにいた!心臓が、反転したと、思った。何でだろう。何故こんな所に、イケがいるのだろう。いつ、来たのだろう。いつから、そこにいたのだろう。いつから、ぼくは見られていたのだろう。どうして、気がつかなかったのだろう。ぼくは、混乱した。「イケも、ぼくと同じ?」 ぼくは、そう言った。そんなバカなことしか思い浮かばなかった。「ケッ!これだよッ」 イケは、ぼくを、蹴飛ばすように、はき捨てるように、短く怒鳴った!ぼくを、睨みおろしている。 ぼくは、はじめて気がついた。今はもう、親友でもなんでもないイケの前で、ぼくは全てをさらけ出していたのだ。見られてしまったのだ。一番見られたくないところを。 ぼくは、分かった。ぼくは、イケに止められたのだ。ぼくを、引っ張りあげたのはイケだ。でも、ぼくを押し上げたのは、何だったのだろう。「学校でよォ。お前が異常だと思ったから、な。黙っていなくなったし、後をつけたのさ。お前、信じられねーほど、アホだよな?こんなバカだとは思わなかったぜ。こんなバカ、助けたってしょうがねーけどよ。何があったか、知らね―けど、どアホな奴だぜ、お前」 ぼくは、イケの突き刺さるような目つきを見ないようにした。でも、乱暴な言葉には、ぼくを、安堵させるものがあった。黙っていなくなったぼくを追いかけて、こんな所まで来てくれた気持ちが、そこには溢れていたのだ。 つづく
Oct 19, 2008
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ぼくは、おじいちゃんの顔を見た。信じられなかった!聞き間違えたのかと思った!そんなはずなんて、あるわけない!おじいちゃんは、心の底では、ぼくのことを分かってくれていると信じていた。ぼくは疑ったことなんて、一度もなかった!ぼくの立っていた堅固で安全な場所が、ぐらぐらと揺れ、がらがらと崩れていくような気がした。おじいちゃんは、いつもとは、あまりにも違っていた。無表情で、近寄れない!意地の悪さが、土色をした顔の、皮膚の下に張り付けられている。おじいちゃんは、こんなに意地の悪い人じゃなかったはずだ。「おじいちゃん、冗談だよね?」 ぼくは、悲しいのに、何故だか笑顔を作って訊いた。「冗談?冗談でこんなこと言えるかッ!甘えるのも、いい加減にしろッ。塁、今週中に出てってくれよ。母さんには、自分で電話しろッ、迎えに来てくれって、な」 何て、冷たい人なんだろう!おじいちゃんは、狂っている!ぼくは、こんな家、出てってやる!居てなんか、やるもんか。こんな、じじいィ、なんかとは暮らしたくもない! でも、ぼくは行く所なんかない。父さん、父さん。ぼくは、父さんの側に行きたい。行ったら、必ず、ぼくのこと迎えに来てくれる?ぼく、怖いよ。怖くて仕方ないんだ。行ったら、すぐに迎えに来てくれる?すぐ、来てくれるなら・・・ぼく、逝く・・・よ。父さんと一緒なら、平気かもしれないから。 ぼくは、もう何も考えないようにした。決心が揺らがないように、誰とも話さなかった。 登校しても、何も見えなかった。何も聞こえなかった。イケが登校していたのさえ、ぼくは気がつかなかった。 ぼくは、午前中の授業が終わってから、誰にも何も告げずに勝手に下校した。 イケの仲間だって、絶対に行かない、無限岬に、ぼくは向かっていた。怖くて震えながら。もう、ぼくは向かうしかないのだ。震えながら、父さんのことだけを考えた。父さん、約束だよ。父さん、迎えに来てくれるよね?ぼくは、一人ぼっちじゃ、ないよね?父さんに、会えるんだよね?ぼくを、待っててくれるよね?ぼくの、父さん。大好きな父さん。どうして、ぼくを置いて先に逝ってしまったの?どこの子か知らないけど、どうして助けたりしたの?あの時助けなかったら、ぼくは父さんと幸せに暮らしていたはずなのに。こんなに、悲しいことなんかにならなかったのに。 でも、ぼくが、父さんの側に逝くからね。懐かしい、父さん。 無限岬は、ぼうぼうと風が暴れていた。ここだけは、どんな正しいことも、通らないような、無法の荒れ地のようだった。ごつりとした岩は、人を拒んで、壁のようだ。転んでしまったら立ち上がれなくしてしまいそうだった。二度と来るなと言うように。 風は、肩を怒らして海に爆走して行き、勢力を何倍にもして驀進して来る。どんな敵も、木っ端微塵にしてやるというように。 花立のやさしい風土は、こんな一面を隠していたのだ。やさしかったおじいちゃんが、鬼だったように。ぼくは倒れて、しまいそうだった。足を踏ん張りながら、一歩一歩、高い崖に向かう。逆巻く海に、身を躍らせるために。下を覗きこんだら、その高さに、決心がにぶりそうだった。ふと、母さんのことを思った。――母さん、ごめんね。最後まで、ぼくは母さんを苦しませてしまったね。ぼくのことは、忘れてしまってね。母さん、ありがとう!もう今度は、大切な人を失わないようにしてね!ずっと、幸せでいてね―― 母さんは、あの時、白いワンピースを着ていた。綺麗だった。ぼくの転校の手続きのために、初めて花立の学校に一緒に行った時だ。ああ、ぼくは、画家になりたかったかもしれない。大切な母さんを描いてみたかった。一瞬、ぼくは、ひき戻りそうになった。でも、もう、どうにもならないのに。もう、何も考えるのを止そう。ぼくは、父さんの所へ行くんだから。 凪いだようにみえた風は、突然、怒気を含んで疾走してくる。~来るなーッ、来るなーッ~何かの声が、空を飛びまわり、掻き消されていく。~行くなーッ、行くなーッ~声が地上を走りまわり、かすれていく。 ぼくは、目をつむった。背中に受けた風に乗り、飛んだ。 つづく
Oct 15, 2008
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おじいちゃんは、その後も本当に粘り強くぼくに話しかけてきた。ぼくは、思わず言ってしまった。「ぼくは、もう楽しくなんか暮らせないから。こんなに不幸だし。もうどうだって、いいんだ」「そうだな。お前が、今の気持ちを変えない限り、な。心を閉ざして幸せを望んだって、叶うはずもないしなッ。幸せは、万能じゃないんだゾ。求めて努力した人にしか、笑ってくれない。背を向けてばかりいて、人の気持ちを考えたこともないお前に、幸せが笑いかけてくれることなんか、あるはずもないな」 おじいちゃんは、深く息を吐きながら言った。ぼくは、半分も聞いていなかった。同じことが、いつまで繰り返されるのだろう。「塁。昶だって、お前が湖子さんと暮らしてくれることをどんなに望んでいるか・・・。じいちゃんには、あいつのことが、よく分かるんだ。耕ちゃんとだって離れて暮らしてはならないんだ。兄弟なんだからな。何でお前は、そんなに頑ななんだ?なあ、塁?素直になって、みんなと楽しく暮らすんだ。なあ、塁よォ?」「みんなと暮らすことの方が、苦しいってことだってあるでしょ、ねえ、おじいちゃん?」「そりゃ、あるさ。どこの家だって、いつも楽しいことばかりじゃないさ。苦しいことばかりでもないし、な」 人は、話しても話しても、分かり合えないこともあるのかもしれない。もつれてしまった糸は、切ってしまうしかないのだろうか。 三学期が過ぎた頃、母さんが一人で突然、花立に来た。ぼくを迎えに。四月からの区切りの良い時期だからと言って。 耕ちゃんと山中さんは、留守番をしているという。耕ちゃんは、山中さんと二人きりでの留守番も、もう、平気になっているんだ。ぼくは、何だか複雑な気持ちになった。 おじいちゃんは、幼馴染のマサルのところへ、さあっと、行ってしまった。おじいちゃんは、この問題から引いてしまったのかもしれない。ぼくはおじいちゃんに、見捨てられてしまったのだろうか。 母さんとぼくの、戦いのような気がして、ぼくは固まってしまった。「塁、母さんと一緒に帰ろう!母さんたちと一緒に暮らそう!」 母さんは、ぼくの硬い表情をじっと見て言った。ぼくの気持ちをひっくり返そうとするような、真剣な目だった。「もし、塁がおじいちゃんと一緒がいいのなら、おじいちゃんと一緒に、だっていいのよ。あの人も、そう言ってくれてるの!あの人がそう言いだしたのよ!塁、どお?おじいちゃんには、まだ話してないけど、ね。順序が逆になってしまってるんだけど。塁、よく考えて!おじいちゃんには、これから、そうお願いするんだけど。おじいちゃんには、ほんとに申し訳ないと思ってるの・・・」 母さんは、明るい方向へ行けると信じているのが分かった。――母さん、ごめん。おじいちゃんが花立から絶対離れないぐらい、ぼくももう、帰らないんだよ。ぼくのことは、もう諦めて、母さん。こんな、ぼくのことなんか―― ぼくは、心の中でつぶやいていた。 母さんは、山中さんを、『あの人』と言った。さっきから、ずっと、『あの人』としか呼ばなかった。母さんと耕ちゃんと、山中さんを乗せた汽車。ぼくの乗らなかったその汽車は、もうずっと前方(さき)を走っている! 母さんが必死に言えば言うほど、ぼくは寂しくなっていった。ぼくから母さんが遠のいていった。――母さん、ぼくは父さんが大好きなんだ。父さんが可哀想だよ・・・。ねえ、母さん。やっぱり、山中さんと結婚しちゃうんだよね?―― ぼくは、どうにもならない言葉を、無理やり呑み込んでいた。 母さんは、うなだれて一人で帰っていった。――母さん、ごめん。ごめん。ごめんね!ぼくは、母さんを苦しめているんだよね?だから、こんなぼくのことなんか、忘れて、母さん―― ◇ ◇ ◇ ぼくは、六年になった。クラス替えはなかったから、いつもと同じで、何の緊張感もなかった。クラスを結んでいたものも、いつの間にか、ほどけてしまっていた。去年の、合唱コンクールも、銅賞さえ取れなかった。牧野先生は、今年こそ金賞をと、目標を掲げた。最終学年として、輝かしい思い出を残そうと、爽やかに語った。でも、クラスは、重くて、沈んでいた。 野島さんの席は、空いていた。もう座る人のいない席は、しょんぼりとしていた。座る人がいるというのに、空いている席もあった。イケは、ずっと学校に来ていなかった。図書室にも。 ぼくの心にも、日が射すことはなかった。 そして、ある日。 おじいちゃんは、ぼくに言い渡した。「塁。この家を、出てってくれないか?」 つづく
Oct 13, 2008
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ぼくは頭を押さえて、目をつむり、集中して思い出そうとしている。何度試しても、何も思い出せない。 ぼくは、生まれてまだ、六ヶ月ぐらいだったのだ。その頃の記憶なんてない。ぼくを、生んでくれた母さんという人は、ぼくを残して亡くなった。ぼくは、その人のことが知りたかったのだ。思い出せるなら、思い出したかった。少しでも、ぼんやりとでも、感じることができないかなと思って。 その人は、どんな人だったのだろう。やさしかったのだろうか。きれいな人だったのだろうか。賢い人だったのだろうか。 その人は、ぼくに何て話しかけていたのだろう。ぼくは、その時どんな反応をしたのだろう。ころころっと、笑ったりしたのだろうか。 その人は、病気で亡くなることが分かって、「この子を、塁を、どうぞお願いします!」と悲痛に叫んだのだと言う。ぼくは、それからずーっと泣き続けていたみたいだ。 そして、今の母さんが、ぼくの母さんになってくれたのだ。ぼくが知っているのは、そこまでだ。ぼくはあまりにも小さすぎて、何も記憶にない。 その人が何の病気だったのか、そして、ぼくに、手紙か何か遺してはいなかったのか。ぼくは、今も、訊けないでいる。おじいちゃんに訊いてみたいと思ったこともあった。でも、おじいちゃんは、ぼくを育ててくれた母さんに絶対的な恩を感じていたから、そんなことを訊いたら、怒るだろうと思っていた。母さんが、悲しむようなことは、おじいちゃんがいつも阻止したからだ。 耕ちゃんが、東京に行ってしまってから、ぼくは急に、その人のことが知りたくなったのだ。耕ちゃんみたいに、ぼくにだって、ぼくを生んでくれた人がいたんだよって、耕ちゃんに言いたかった。ぼくにだって、抱きついていける人がいたんだよって。 耕ちゃんは、母さんたちと楽しく暮らしていけばいいのだと思った。ぼくには、もう関係ないことだと認めなくてはいけない。何故なら、それを決めたのは、ぼくなのだから。 おじいちゃんは、何度もなんども、ぼくを諭した。さとして、後へ引かなかった。「後になってから分かるんだぞ。やっぱり母さんたちと暮らして良かったって、な。塁、じいちゃんは、間違っていないんだぞッ」 ぼくは、段々追い詰められていった。ぼくの居場所は、何処にあるのだろう。ぼくは、何処へ行けばいいのだろう。話したくても、イケは学校に来なくなっていた。 学校では、野島さんが引っ越すらしいという噂がたっていた。そして、由布子さんの家族も、転勤でこの三月に、関西に行ってしまうのだという。もう、隣家の実家には、あまり来られなくなってしまうだろう・・・。耕ちゃんは、たあちゃんがいなくなってしまうのを知っていたのかもしれない。だから、あの時、電車に飛び乗ってしまったのかもしれないのだ。 ぼくは、耕ちゃんのこと、分かってあげていなかった。耕ちゃんは耕ちゃんで、寂しかったのかもしれない。でも、耕ちゃんには、母さんがいる。ぼくが、心配することじゃないんだ。 ぼくの周りから、剥がれ落ちるように、みんながいなくなる。ぼくを生んでくれた人、それから父さんも。そして、イケ、野島さん、由布子さんまでも。 今度は、ぼくがいなくなってしまえばいいんだ。父さんのように、消えてしまえばいいんだ。ぼくは段々、そう思い始めていた。 つづく
Sep 12, 2008
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家に帰ってからも、おじいちゃんは何度も、一人でぼやいていた。「耕ちゃんは、何をするか分かったもんじゃ、ないなァ。東京に行く時は、塁と一緒じゃなくちゃなァ。耕ちゃんと一緒じゃなくちゃ、塁はもっとみんなの中に入れなくなってしまうからな。みんなが、今、一緒にスタートすることが、大事なんだ。塁は、スタート遅れてはいかんのだ。今なら、みんなで作り上げていけるんだから、な」 おじいちゃんは、ぼくに言ってるのか、自分に言っているのか分からない。突然、大きな声で、ぼくを呼んだ。「塁ッ。塁、ちょっとここに来い!やっぱりお前、すぐにでも、東京に行けッ。遅れれば遅れるほど、もっと、みんなに、溶け込めなくなってしまうからな。耕ちゃんなら、すぐに溶け込めるから心配ないんだ。行くか?塁。『時』、が大事なんだぞ。この時を逃したら、お前はもう、もっと母さんたちの中に入りにくくなってしまうからさ。もう、決心して、行けッ。なッ?塁!母さんとは他人な訳じゃないんだ。お前のその考え、間違ってるぞ!」 ぼくは、黙っていた。黙っているしかなかった。「行きたくない」と千回言っても、おじいちゃんは、千回「行け」としか言わないだろう。「何で、黙ってるんだ?塁、行けッ。なッ?頼むから、行けッ」 おじいちゃんは、ぼくの気持ちを揺さぶるように、真剣だった。目の淵に、じんわりと涙が引っ張り出されていた。でも、もうぼくの気持ちは動かない。「おじいちゃん。ぼくは、百回も千回も言ってるよ。行きたくないって。行きたくない、行きたくない、行きたくない!」「また、お前はそんなことを言ってる。何で行きたくないんだ。山中さんは、あんなに良い人なんだぞ。あんなに良い人は、滅多にいるもんじゃないんだ。じいちゃんは、感謝してるよ。耕ちゃんだけでなく、お前のことも、気持ちよく引き受けてくれてな」 耕ちゃんだけでなく、ぼくもと、おじいちゃんは言った!ぼくは、少なからずショックを受けた。ぼくは、付け足しなんだ。やっぱり、だ。おじいちゃんだって、ぼくが母さんと血がつながっていないことを気にしているから、そんな言葉が出るんだ。「ぼくは、母さんの本当の子じゃないから、行けない。ぼくは、誰とも、血がつながっていないから」「お前は、耕ちゃんとつながっているだろ?何を言ってるんだッ」「でも、耕ちゃんは母さんとつながってる。ぼくは、それが悔しい。ねぇ、おじいちゃん。ぼくは、どうして、母さんと血がつながっていないのッ?どうしてッ?どうして、こんなことになったのッ?父さんが、消えなかったら、ぼくは、こんなことにならなかったんだ!例え、母さんと血がつながっていなくたって!そうでしょ、おじいちゃんッ?行きたくない、ぼくが悪い訳じゃないよねッ?ぼくは、大好きな父さんが消えてしまうなんて、一生、一生思ってなんかいなかったんだ!父さんが消えて、母さんが本当の母さんじゃないことが、分かった時、ぼくがどんな気持ちだったか、おじいちゃん分かるッ?みんな、ぼくに隠してたくせに!」 おじいちゃんは、深く息をした。そして、涙で滲む目を、しばらく閉じていた。「塁。お前は、これから大人になっていく。相談する人が必要になることもあるし、教育だって受けさせてやりたい。お前の将来には、山中さんは、どうしても必要な人なんだ。じいちゃんは、お前の面倒、見てやるだけの力はないんだ。悔しいけど、なッ。許してくれよ、なッ?昶は、人を助けて死んだ。仕方のないことなんだ。今更、何を言っても、あの頃には戻れないんだ!塁、前に進んでいくしか、道はないんだよ。人間、みんな、前に、前に進むことが大事なんだ。今は苦しくても、必ず、良かったと思える時が来るから、なッ。負けては、いけないんだ。人間と言うのは、な。苦労して掴んだことが、基礎となり、土台となるんだ。そうして、力をつけて器を大きくしていくものなんだ。そしてな、他人の気持ちが、分かるようになる。今の時代は、他人の痛みの分からない人が多くなってきている。住みづらい世の中だ、まったく。だから、塁には、器の大きな人になってもらいたいんだよ、じいちゃんは、な。お前の将来のことが、心配で心配でならないんだ」 おじいちゃんは、ため息をついてそう言った。そして、仕方なさそうに、笑いながら、ぼくの背中を撫でた。「塁ッ。じいちゃんは、死ぬに死ねないぞ、お前が心配で、な」 ぼくは、ずっと、みんなに苦しめられてると思ってきた。でも、おじいちゃんの話しを聞きながら、ふっと、みんなを苦しめているのは、ぼくなんじゃないかと、思った。 父さんと、ぼくを生んで間もなく亡くなってしまった人(もう一人の母さん)は、宇宙の何処にいるのだろう。一緒に空の彼方にいるのだろうか。海の底に安住しているのだろうか。そこに行くには、どうすれば辿りつけるのだろう。父さんと、見たことのないもう一人の母さんに会いに行くには? 第四章 終わり
Aug 19, 2008
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いつものような、耕ちゃんではなかった。あどけなくて、図々しくて、微笑ましい、そんな耕ちゃんではなかった。耕ちゃんは、ぼくが言い張っていることを理解しているのだろうか。たとえ、理解していたとしても、耕ちゃんには、新しいお父さんと言う人ができ、まして大好きな母さんと一緒に暮らせるのだから、ぼくと一緒でなくたって寂しくも何ともないはずだと、ぼくは思っていた。「お兄ちゃんは、一緒に行かないのッ?ぼくと一緒に行かないの?ヤだッ。そんなの、ヤだ!お兄ちゃんも一緒に行こーよーッ。何で行かないんだよォ!一緒に暮らすんだよォー」 意外な耕ちゃんの言葉だった。「ほら見ろ!こんなに小っちゃい耕ちゃんだってそう思ってるんだぞッ。よぉーく分かってるんだ」 おじいちゃんが、即座に言った。まだ、怒っている声だった。 ぼくは、このまま誰にも、理解されずに帰っていかなくてはならないのだろうか、無理やりに。そんな方向に行ってしまうのだろうか。 母さんは、日の当たっている雪だるまのように消えてなくなりそうだった。暖かさの中にいる雪だるまは、長くは幸せではいられない。「母さん、ごめんね。ぼくは、母さんを苦しめようなんて思っていないんだよ。母さんは、山中さんと幸せになってほしいんだよ。ぼくね、友だちと別れたくないんだ。もう、転校するの、嫌なだけだよ。だから、耕ちゃん。耕ちゃんも分かってよね。母さん、ごめんね。(ぼくはね、心の中で生きている父さんと一緒に、父さんの育った花立で暮らしていきたいんだよ)」 ぼくは、最後の言葉を呑み込んだ。心の中で、生きている父さん。これは、母さんに絶対言ってはいけない言葉だ。明るい方向を目指す母さんが、悲しげな顔をして戻って来てしまうかもしれないから。ぼくが、引き戻してしまうことになるかもしれないから。ぼくは、下を向いて、母さんを見なかった。大好きな母さん。ぼくを、懸命に育ててくれた母さん。やさしかった母さん。あんなに、いつも笑っていた母さん。さようなら、母さん。ぼくの、母さん。ありがとう、母さん。ぼくは、母さんへのいっぱいの想いを込めて、心の中で叫んでいた。 ぼくを、どうすればいいかと言う結論は、出なかった。ぼくが、六年に進級するまで、話し合いを進めていこうということになった。 次の日は、母さんと山中さんの帰る日だった。ぼくのことで、みんなの気持ちは沈んでいた。でも、ぼくには、どうしようもないことだった。耕ちゃんのように、みんなを和やかにしてはあげられない。「塁くん。ぼくはね。君が来てくれる気持ちに、なってくれるのを、いつまでも待ってるよ」 山中さんは、ニッコリと笑って、ぼくにぐっと手を出して握手をしてきた。ぼくは、力を込めなかったけれど、山中さんは、思いを込めて力強く握ってきた。ぼくにとって、とても苦しい山中さんの言葉だったし、避けたい手だった。ぼくは、母さんのことは、見ないようにした。母さんが、おじいちゃんと話したり、耕ちゃんと笑っていたりする声だけは、しっかりと、全身で聞いていた。 帰る日。 おじいちゃんのエフワンに乗り込んで、母さんたちを送っていった。ぼくは、助手席に座った。耕ちゃんは、後ろで、母さんと山中さんに挟まれて、おしゃべりをしていた。耕ちゃんは、母さんたちと一緒に帰るとも言わなかった。かわいいことを言っては、みんなを笑わせていた。 ぼくは、前を向いたまま、その楽しそうな雰囲気の外にいた。おじいちゃんも、山中さんも楽しそうだった。母さんは、どんな感じだろうと、ぼくは、サイドミラーを見た。でも、ぼくの後ろの席にいる母さんのことは、よく見えなかったし、分からなかった。 エフワンを、降りると、ぼくは母さんたちへのお土産を持って、先に駅に向かって歩き出していた。おじいちゃんが、何か言ったけれど、ぼくは、振り向かなかった。早く時間が来て、電車が発車していってほしいと思った。ぼくは、どんよりと疲れていた。ホームが賑やかになって、電車が入ってきた。おじいちゃんは、丁寧に山中さんにお礼を言っている。何かを話して、二人で笑った。おじいちゃんと山中さんの間には、もうしっかりと通い合うものが生まれていた。山中さんは、母さんをガードするようにして、電車に乗り込んだ。母さんが、ぼくに、叫んだ。「塁。塁ッ。母さん、待ってる!塁が来てくれるの、待ってるから」 電車のドアが閉まりかけたその時、耕ちゃんがおじいちゃんの手を振り解いて、電車に飛び乗っていった。 ドアは、閉まり、耕ちゃんが母さんに抱きついていくのが見えた。 ぼくは、静かにこの光景を見ていた。――母さん、さようなら。ぼくの母さんーー つづく
Aug 2, 2008
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おじいちゃんが、安堵したように大きく、ふぅーと息をした。「山中さん、湖子さん!おめでとう!良かったなぁ。・・・」 おじいちゃんは、目に涙をためてそう言った。「ありがとうございます!」 頭を下げた山中さんも、うっすらと目が滲んでいた。そして、力強く、母さんに向かって「湖子さん。再度、結婚を申し込みます。受けて頂けますか?」 母さんは、びっくりしたように、山中さんを見た。そして、うなずきながら、はっきりと、「はい」 と、返事をしたのだった。「ありがとう!嬉しいよ!」 山中さんは、母さんにそう言ってから、おじいちゃんに向かって、「本当に、ありがとうございます。湖子さんのことも、塁くんも耕ちゃんのこともお任せ下さい。全力で、守ります!」 背筋をぴんと伸ばし、決意に満ちた顔だった。父さんと母さんの間には、この瞬間から、きっちりと線が引かれてしまったのだ。父さんの時計は止まったままで。母さんの時計は、未来に向かって大きく動き出していった。 ぼくは、今でも、何かの拍子にこのシーンを思い出したりする。線を引いたのは、山中さんだと、ぼくは思っている。でも、おじいちゃんは、それぞれが、自分の意思で線を引いたのだと、言った。 あの時、ぼくだって、(山中さんに対抗した訳ではなかったけれど)母さんに、思い出に残る言葉を、プレゼントしたかった。はなむけの、言葉として。「母さん、うんと幸せになってね。前みたいに、笑って暮らしていってね、きっとだよ」 母さんは、ありがとうとは、言わずに怪訝な顔をした。ぼくは、そのまま続けた。はなむけの言葉が、そうじゃなくなっていった。「母さん、ぼくはね。この花立で暮らしたいんだ。いいよね?認めてくれるよね?」 母さんの顔が、歪んだまま凍りついた。「おじいちゃん、いいでしょ?ぼく、ここで暮らしてもいいよね?ぼく、友だちもできたし、もう転校するの、嫌なんだ」「塁!お前、何を言ってるんだ!何で、自分のことしか考えないんだ。少しは、山中さんや、母さんの気持ちを考えろッ」 おじいちゃんは、膝に乗せた手を、震わせている。「山中さん、済みません。塁は、こんな扱い難い子ですが、よろしくお願いします。世話の焼ける子ですが、頼みます!」 山中さんは、力強く言った「はい!何でも話せるような家庭を、しっかり作っていきますから、大丈夫です。心配なさらないで下さい。塁くん、そうしていこうよ、ね?」 おじいちゃんも、山中さんも、ぼくの気持ちを聞くと言ったのに、話し合うと言ったのに、聞きもしないし、話し合いだってしていない。ぼくは、母さんの結婚に、やっとではあったけれど、賛成した。こんどは、ぼくが賛成してもらってもいいのだと、ぼくは思った。 山中さんは、こう言った。「塁くん、何かしてほしいこと、あるかい?君が今言ったこと、ぼくも、この人(母さん)も、真剣に考えるよ。でもね、どうして花立で暮らしたいのか、本当の訳を教えてくれないかな?正直に話してほしいんだけどな。おじい様も、こんなに心配して下さってるんだよ。何が、君にブレーキをかけさせているのかな?」 ぼくは、正直になんか話せない。石のように、頑なに黙ってしまうしかなかった。「塁。お前は、めでたい席を台無しにしてるんだぞ。少しは、みんなのことも、考えろッ」 おじいちゃんは、はき捨てるように言った。ぼくのどこが、間違っているのだろう?耕ちゃんが、固唾を呑んでぼくを見つめていた。 つづく
Jul 30, 2008
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耕ちゃんは、『この人』にじゃれついて、きゃっきゃと笑っている。つられて笑うその声に、ぼくは何度もどきっとした。似ている。ずっと前には、笑い声の中心に、父さんがいつもいた。今、笑い声は、父さんから『この人』に換わるところだ。 おじいちゃんは、嬉しそうにしながら、何度も耕ちゃんをたしなめ、母さんも、声が弾んでいる。 耕ちゃんは、本当に楽しそうだ。ぼくは、何度も、耕ちゃんに、母さんが結婚しないように、反対するように、仕向けながら話してきた。耕ちゃんも、ぼくの話しに乗ってくれたけど、もう無理だ。耕ちゃんは、そんなには父さんのこと覚えていなかったんだから。それに、もう耕ちゃんには、新しい父さんと言う希望が芽生え始めていたから。ぼくも、父さんへの想いに、鍵をかけて、このまま東京に帰ったら、楽しい日々が送れるのだろうか。みんなは、そう望んでいる。ぼくが一歩譲ればと、思っているかもしれないけれど、ぼくには千歩譲るほど難しいことだ。 この楽しそうな空気を、ぼく一人が、これから、乱そうとしているのかもしれない。ぼくが全てに目を瞑って、大人の言う通りにすれば、みんなは本当に幸せになるのだろうか。ぼくが、決心さえすれば、いいのだろうか。考えは、暗いトンネルに這入って行く。ぼくは、みんなの輪の中に入って、一緒には、笑えなかったのだ。 イケに会いたいと思った。会って話したかった。とにかく、ここからすぐにでも離れてしまいたかった。誰かに分かってほしかった。やっぱり、イケしかいなかった。イケは、今どうしているのだろう。 おじいちゃんは、笑いながらも、ぼくを注視しているのが分かった。耕ちゃんの機嫌をとっているのに、ぼくには、何も話しかけてはこなかった。それは、母さんも、『この人』も同じだ。ぼくは、きっと扱いにくい子どもなのかもしれない。 おじいちゃんが、最初に切り出してきた。「塁。山中さんに花立まで来て頂いたのは、母さんの結婚のことでだよ。お前も分かっているだろうけど、な。山中さんは、お前と耕ちゃんを息子と思って一緒に暮らしたいと、言って下さってるんだ。お前もずっと考えていたろう?その考えを話してほしいんだよ、な」 ぼくは、母さんを見ていた。さっきまで弾んでいた母さんは、何だか背を丸めて、目も手も膝に落としていた。何も言わなかった。母さんのこの姿、父さんの消えた日と同じだ!と、思った。父さんの次に今度はぼくが、母さんを苦しめているんだ!と、突然感じた。きっと母さんは、自分の気持ちを曲げて、ぼくの気持ちに沿うような結論を出すかもしれない。「母さん。母さんのほんとの気持ち、ぼくは知りたいんだよッ」 母さんは、青い顔を上げてぼくを見た。結婚しようとする人の喜びの顔ではなかった。「母さん、母さん!ごめんね!」 ぼくは、倒れてしまいそうだった。母さんを、苦しめているのは、このぼくなんだ!「塁、塁。ごめんね。山中さん、済みません。この結婚、もう少し考えさせて下さい」 母さんは、『この人』の方を向いて、深々と頭を下げた。一瞬、ぎょっとした空気が、家じゅうに溢れた。「母さん、そんなのダメだよ!ぼくは、そんなこと言ってるんじゃないんだよ。母さんの、ほんとの気持ちが知りたいんだ!ほんとの、ほんとの気持ちだよ。母さんは『山中さん』が好きなんでしょ?結婚したいと思ってるんだよね?ねえ、母さん?」 母さんは、また黙ってしまった。「どうして、正直に話してくれないの?ぼくは、ぼくは、母さんに笑って暮らしてほしいんだよ。前みたいにだよ、母さん」「塁。ありがとう、ありがとう!・・・。母さんは、ね。山中さんを信頼してるし、尊敬もしてるの。母さんの前には、こんな素晴らしい人・・・。もう、二度と現れない人だと思ってる・・・」 ぼくは、母さんのもっと深い気持ちが知りたかった。母さんに、明るい顔で暮らしてほしかった。「母さん、『山中さん』を、好きなんだよね?愛してるんだよね?」 母さんは、深くうなずいて「愛してます」 と、短くきっぱりと言った。母さんの、本当の気持ちを、長い間温めてきた気持ちを、そして、底に沈めてきた気持ちを、初めて聞いた。母さんの口から、直接聞いた。母さんは、もう大丈夫なのだと、思った。嬉しかった!寂しかった!ぽんと、背中を押して応援もしたかった!母さんの晴れ晴れとした顔を見たかった!父さんから、解き放ってあげなければと、思った! これは、ぼくと母さんの別れだと、ぼくは自分に何度も言い聞かせていた つづく
Jul 27, 2008
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「こんな綺麗な空の下で、塁くんのお父さんは育ったんだね?真っ直ぐすぎたんだって、君のおじいさんが仰っていた・・・。ぼくは、君のお父さんに似るようにすることはできない。君のお父さんの代わりも、できないかもしれない。でも、君が育っていく時間を、大切に見守ることはできる、よ。四人で、一緒に暮らせないものかな?ぼくは、暮らしたいと、心から思ってる。塁くんは、嫌かい?」「はい」 ぼくは迷わず、すぐに返事をした。これしか、言いようがなかった。嘘はつけなかった。『この人』は、苦笑いして「ああ、そうだね。塁くんは、お父さんに似てるんだね?真っ直ぐなんだなぁ。それでも、それでもね。考えてもらえないかな?嫌かもしれないけど、もう一度考えてほしいんだ。塁くんがどうしてほしいのかを、教えてほしいんだ、よ。塁くんのそういう気持ちも、大切にしたいと、思ってるからね」 遠い朝日に目をやり、『この人』はそう言った。でも、ぼくの希望は、あの朝日ぐらい遠い。『この人は』どうやって、その希望を引っ張って来るのだろう。ぼくは、苦しくなった。ぼくの気持ちを、今、きちんと話そうと思った。『この人』は、もしかして理解してくれるかもしれないと思ったからだ。「ぼくのセイで、母さんが結婚できなくなるのは、ぼくは嫌です。母さんは、ぼくの気持ちだけ考えて、(結婚を)無理に止めようとしたりするから、ぼくは、そうゆうの、嫌なんです。ぼくは、母さんの本当の気持ちが知りたいんです!母さんからちゃんと話してもらいたいんです!・・・。母さんは、きっと結婚した方がいいんだと・・・思います。だから、母さんと耕ちゃんと三人で暮らして下さい。ぼくは、どうしても父さんが忘れられない!だから、ぼくは、この花立で、おじいちゃんと二人で暮らしたいんです」 『この人』は、まじまじと、ぼくを見詰めた。「それは、とても難しいことだよ。君のお母さんが、悲しむことだしね。ぼくにとっても、それはとても辛いことだよ。君のおじいさんだって、承知しないことかもしれないし、耕ちゃんだって寂しがると思うよ」 この言葉で、ぼくは行く手を阻まれた気がした。「そんなこと言うんなら、ぼくの話なんか聞いてもらわなくたっていいです!ぼくが、どうしたいか教えてって言ったから、話したのに。ぼくはどうしたらいいんですかッ?ぼくは、前に進んでいけなくなっちゃう!生きてても、しょうがなくなっちゃう!」 『この人』は、顔色をかえた。「塁くん!そんなこと言っちゃ駄目だ!ぼくが、君を追い詰めてしまったようだ。済まなかったね。許してくれるかい?君のその気持ちは、分かったから、みんなで相談してからにしよう」 ぼくは、下を見たまま、返事をしなかった。ぼくの気持ちは、『この人』にも、分かってはもらえなかった。ぼくは、自分の道をどうして、選んで決めてはいけないのだろう。子どもは、いつだって大人の言いなりにならなければ、生きてはいけないのかもしれない。ぼくのトンネルには、いつの間にか出口がなくなっていた。「もう戻ろうか、塁くん。みんなが、少しずつ譲り合えば必ずいい結果になるはずだから。みんなで相談しようね」 ぼくは、『この人』が信用できなくなっていた。母さんは、『この人』と結婚して、幸せになれるのだろうか。父さんと暮らしていた頃みたいに。 つづく
Jul 16, 2008
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