能登の手染め日記

能登の手染め日記

Jul 15, 2007
XML
カテゴリ: 日々
今日は父親の命日。
台風4号のために姉夫婦たちが墓参りに来るのは明日になった。朝、仏壇に手を合わせて午後に雨の合間をぬって墓前で手を合わせた。1982年7月15日の朝4時ころに心筋梗塞で逝ってしまってから25年が過ぎた。

父は大正2年生まれだから今生きていれば94歳か。陸軍へ初年兵から入隊し敗戦で戻ってきたときは陸軍中尉になっていた。金鵄勲章があるから相当の頑張りがあったんだろうが、幼い頃私が聞いても不思議なことに軍隊のときの話をしなかった。

070715.jpg

どちらかと言えば寡黙なタイプだったし、私が悪さをしたときは怒鳴られたが、勝手なわがままをした時には「まだ、ものが分からんのだ」という内容の一言だけだった。・・・饒舌な私とは少しタイプが違っていた(笑
いや、私も何も言わないで良いならば絵を描いたり黙々と仕事をしているだけのほうが良いのだ、などと言ってみる(^^;

いくつもの記憶が甦るが、私の20歳ころ勤めていた会社に父が訪ねて来て社長に挨拶をしたときのことを思い出した。今は亡き社長も同年代で、戦時中の話、軍隊の話、シベリア抑留の苦労話を父に語った。社長は軍曹で父は中尉ということを知っていた私は、父がどんなことを話すのかと思っていたが頷くばかりで、一言だけ「あの時は、そんな時代でした」とだけ言った。共通の話題がある筈だから、もう少し話したら良いのにと思ったが、会社の社長と従業員の父親の図式とは、こうしたものだと思った。父は深々と頭を下げて「息子をお願いします」と言った。

そんな父親の姿を、少しだけカッコイイと、あの時、若いなりに胸にこたえた。

父を送りに出て、会社近くの食堂で親子で御飯を食べビールを一本だけ飲んだ。「やれるだけやって、ダメなら帰って来い」父の話はそれだけだった。私も「あぁ」とだけ言って、後は無言だった。外で父と酒を飲んだのは、この一回だけだった。24歳で車の免許を取って帰省した折に父を乗せて隣町へ行った。家の前の凄く狭い道を運転する私に「おぉ、おぉ」と嬉しそうに言っていたのを覚えているが、父を車に乗せたのも、この一回だけだった。・・・親不孝者だな(--;)

しかし、私が30歳になろうとする年、いっこうに田舎に帰る気持ちのない息子を、その死によって引き戻したことになった。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Jul 15, 2007 06:57:52 PM
コメント(4) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: