能登の手染め日記

能登の手染め日記

Aug 4, 2007
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能登線。その苦い記憶

久しぶりに能登線の写真のページを開いた。
能登線の記憶

毎日新聞の特集、3回目は能登線の廃止によって減った旅行客。

能登・過疎に生きる:第2部・交通/1 バス路線、提案も白紙 /石川

能登・過疎に生きる:第2部・交通/2 鉄道廃止で変わる通学環境 /石川

能登・過疎に生きる:第2部・交通/3 能登線廃止で旅行者二の足 /石川
↑こちら3が今日のネット配信分。


廃線になる少し前。「存続運動」に参加しないか、と2ヶ所から呼びかけられた。

私は参加できなかった。気持ちが動かなかった。

能登線の列車の写真を撮り始めたのは赤字廃線の声が聞こえ始めた頃だった。列車内に動くギャラリーを提案したのは国鉄能登線の時代、1986年の頃。そういった提案には反応も無く実現しなかった。

のと鉄道時代。真冬の寒い朝、病院へ通う母は、降りしきる雪の中、6時の上り一番列車に乗るために前波駅に行っていた。8時近くになり、その母が家に帰ってきた。どうしたのか?と尋ねたら汽車が来ないから帰ってきたという。雪の重さで倒れた木々によって列車は不通になった。暖房の無い無人駅に1時間以上も老人子供たちは列車の来るのを待っていた。
その間、何の連絡も無かったのだ。


それだけだった。次に台風が来て不通になったときも、同じく雪で不通になっても迅速な放送や連絡が出来ていたとは思えなかった。

2004年4月28日。我が家に染めの講習に来たお客さんが門前の総持寺に行きたいと言った。我が家の近くの駅で列車に乗り穴水町へ行き門前行きのバスに乗り換えなければならない。時刻表を見たら穴水駅に列車の到着の時間が11時50分。バスの発車時間が11時50分だった。
・・・愕然とした。私はお客さんを穴水駅まで車で送りバスに乗ってもらった。その足でのと鉄道の事務所の駅員に時刻表の矛盾を話した。「バスは別会社です」と応えた。ムッときた。当時、私は「穴水門前合併協議会」の委員だった。言いたくはなかったけれど、その旨を伝えると駅長室に通されて丁寧な扱いを受けたが、バスのダイヤ改正には時間がかかるといわれた。

輪島まで列車が走っていた頃。この地から輪島高校へ通う生徒も居た。だが、あるときのダイヤ改正で生徒の乗った列車が穴水駅に着いた時間には輪島行きが既に出発して次の列車を待たなければならない時刻割りになった。さすがに苦情続出で直ぐに再改正になったが。

ほどなく輪島行きのレールは廃止になり、2005年3月末、のと鉄道・穴水蛸島間は廃止された。

能登線にまつわる記憶が甦る。結局、私の中に「存続」のために動こうという気持ちは湧いてこなかった。正直、このやる気のなさで存続しても無駄だとさえ思えた。

日本全国には赤字のレールを復興させた例も聞いていた。民間から社長を募って経営改善を実現した話も聞いていた。存続させる方法はあったのかもしれない。しかし能登の自治体はすんなりと廃止を受け入れ存続の動きは大きな広がりにはならなかった。

「失くしてからしか、その大切さは分からないもの」だと言えるけれど、能登の多くの人々は「あたわり」として受け入れ「絶対になくしてはイケナイ」という強い気持ちがなかったのだと思う。もちろん私も含めてだ。

誰の言葉だったか忘れたが「気持ちまで過疎にしないで」という言葉が、私の中で空しく響いていた。

能登線の写真は懐かしいけれど、こうした苦々しい記憶も沢山思い出されてしまうのだった。





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Last updated  Aug 4, 2007 07:34:53 PM
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