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Nonsense Story
14
ポケットの秘密 14
職員室を出ると、激しい音を響かせていた雨は、いつしか静かな霧雨に変わっていた。
私と幼馴染は、担任教師に全ての真相を話してきたのだ。川野という名前の若い女教師は、当たり前の説教をした後こう言った。
「杉本さんも辛かったのよね。担任なのに気付いてあげられなくてごめんなさい。今度何かあったら、物を壊す前に相談して。私も田口さんと一緒に力になるわ」
先生の震える肩が、立場上の社交辞令ではないことを物語っていた。
誰も判ってくれないと思っていた。私の辛さを。本当の自分を。でも、理解されることを拒絶していたのは、私の方だったのかもしれない。理解しようと努めてくれる人は、こんなところにもいたのに。
昇降口まで歩いてきた時、俯いていた加奈子が何かを振り切るように顔を上げた。
「私ね、振られちゃったの、彼に。ハッキリ告白したわけじゃないし、それに対する答えを聞いたわけでもないんだけど・・・・・・。私、瑞葉と一緒に事故に遭った中学三年の時、彼と同じクラスだったの」
私は頷いた。
「私、春の駅伝大会の選手になってたのに、あの事故で走れなくなっちゃったじゃない? それで、補欠の人も怪我してたもんだから、全く予定されてなかった人達の中から選手として出てもらわないといけなくなったの。みんな嫌がったわ。当たり前よね。私だってジャンケンで負けたから選手になってたんであって、足が速かったわけじゃないんだもの。みんな自分が走らなくていいなら、誰でも良かったのよ」
毎年クラス替え直後に行われていた中学の駅伝大会は、これで新クラスの結束を固めさせようという学校側の思惑とは裏腹に、まだ馴染んでいない生徒達にとって団結できるような行事ではなかった。結果、悪目立ちしたくなければ走らないに越したことはない、という考えが生徒達の定説となっていた。
私は彼女の損失は、たかだか駅伝大会で走れなかっただけのことだと思っていた。でも、その為に発生するクラスメート達の反感をも、彼女は背負わなければならなかったらしい。
新たに走者を決める学活では、あからさまに厭味を言う子もいたという。加奈子が走りたくないから、わざと事故に遭うようなマネをしたんじゃないかとまで言われたそうだ。その時、彼女に助け舟を出したのが彼だった。
彼は無関心そうにしていたのに、ボソリとこう言ったのだ。
病気や怪我をしたい人間なんて、そうそういるもんじゃないと思うけど。
その言葉に正義感ぶった女子達が反応し、厭味を言った子を注意してさっさと新しい選手を決める運びになったそうだ。
「あの時、彼の言葉に救われたの。あの言葉がなかったら、怪我人を労わって新しい走者を選ぼうなんて雰囲気にはならなかったと思う。でもね、彼はそのこと、全然覚えてないって言ったの。私には、あの言葉が支えだったのに」
「うん・・・・・・」
今にも泣きそうな幼馴染の肩に手を置いて、私は頷いた。私達は、同じように年を重ね、同じ人を支えにしてきたのだった。支えにしてきた人は、幻想でしかなかったけれど。
実際は、彼はそのことを覚えているだろうと思ったけれど、口にはしなかった。加奈子になら話してあげてもいいかなと思うけど、きっと彼は嫌がるだろうから。
彼がいじめに遭った原因も駅伝大会を欠場したことだったのだ。小学校で学年一足が速かったという彼は、中学一年の駅伝大会でアンカーに決まっていた。だけど、それが決定してすぐにおたふく風邪で学校に来られなくなり、駅伝大会の日も欠席。アンカーは補欠になっていた子が走って、うちのクラスは惨敗した。おたふくが完治して登校して来た時、教室に彼の居場所はなかった。
新しいクラスになったばかりの時に病気や怪我で休み、冷たい言葉でしか迎えてもらえない人間の痛みを、不安を、彼は身を持って知っていたのだ。代走者がなかなか決まらず、厭味を言われていた加奈子が、あの頃の自分と重なって見えたのかもしれない。
家に帰ると、雨が降っているというのに、母が大掃除をしていた。
台所に放置されたままだった空き缶の詰まったビニール袋は、玄関の上がりかまちに全てまとめられ、奥の方からガーガーと掃除機の音がする。久しぶりに使用されたらしいダスキンモップが、階段の踊り場に立てかけられていた。
「あら、おかえり」
私に気付いた母が、掃除機のスイッチを切って居間から出てきた。
「ただいま。どうしたの? 急に掃除なんて」
「ちょっとね、気分転換」
一瞬、鬱気味だったのが、躁転しておかしくなったのかと疑ったけれど、母の顔は雨雲をも吹き飛ばせるのではないかと思えるくらい清々しく、さっぱりしていた。
「お母さんね、九州へ行ったら、何か仕事を始めるわ」
「仕事?」
「うん。パートでも何でもして、少しでも外に出て行くようにする」
驚きだった。結婚以来ずっと専業主婦をしていた母が、私や兄の授業参観に出てくることさえ不安そうにしていた母が、外の世界へ向かおうとしている。
「家の中にばかりいるから、一つのことに執着しちゃうのよね。だから家の外にも目を向けるようにするわ。そして、もっとあなた達に頼られるような母親になる」
「どういう風の吹き回し?」
母は嬉しそうに、ふふっと笑った。
「一昨日ね、加奈子ちゃんに言われたの」
一昨日、私が帰宅する前にうちに乗り込んできた幼馴染は、母にこうも言ったらしい。
瑞葉はしっかりしてるけど、とっても頑張ってるけど、たしかに頼りがいもあるけど、まだまだ子供なんです。瑞葉だって、誰かに甘えたり頼ったりしたいんです。おばさんばかり頼ってないで、瑞葉に頼らせてあげてよ。瑞葉のことも考えてあげてよ。
「いい友達を持ったわね」
母は自分のことのように嬉しそうに言った。嬉しいのだ、と思った。彼女は、私を心配してくれる友達がいるということが、とても嬉しいのだ。
久しぶりに母親の顔を見せる彼女は、とても頼もしく見えた。小さな子供に戻って、抱きつきたくなるほどに。
「瑞葉、ここに残ってもいいわよ」
「え?」
「お兄ちゃんはここに残るんだし、加奈子ちゃんとも離れたくないでしょう? お母さんも元気になったら戻ってくるわ」
それはとても魅力的な申し出に思えた。でも。
「ううん。私、お母さんと一緒に行く。そしていっぱい甘えるの。加奈子は離れてもずっと親友でいてくれるわ」
幼馴染の言うとおりだったのだ。私はずっと頼られるような人間でいようと演技をしていたけれど、きっと本当は誰かにもたれかかりたかった。だから彼に幻想を抱いた。もっと近くに、私を見てくれている人がいたのに。
これからは、きちんと素直な瞳で周りを見ていこう。そのためにも、今は母と一緒にいたいと思った。
夏休みも近づいたある昼休み。多目的教室に行くと、赤松がいつもの席に座って机に突っ伏していた。隣の机に置かれた地球儀が、所在なさげに彼女を見下ろしている。
「どうした? 期末テストの結果が悪かったとか?」
ため息を吐く赤松に、少し弾んだ声をかける。
テストの時でも、赤松はいつもぼーっとしていて焦らない。そのくせ点数はすこぶるいい。地道に勉強しているということは分かっているのだが、たまにはテストでへこんでいるところを見てみたいという気持ちがぼくにはあった。
彼女は顔を机に伏せたまま、違う、と言った。
「本当の自分かぁ、と思って」
「なんじゃそりゃ。杉本の件なら随分前に解決したじゃん」
「そうなんだけど・・・・・・」
赤松はまたため息を吐いた。
赤松はあの翌日から、またこの多目的教室で昼休みを過ごしている。
あの日、杉本と田口は担任教師に正直に話して、藤田に謝罪に行ったそうだ。担任も藤田も真犯人を公表することはせず、穏便に済ませることに話は決まった。
翌日のホームルームで赤松は犯人ではなかったという説明はあったらしいが、やはり真犯人不在では気が済まない連中がいるようだ。よって、生徒達の赤松への不信感がすぐに消え去るということはなく、彼女は昼休みの居場所をここに戻したのだった。
タカヨシは、あの日の昼の時点で、既に赤松達の担任である川野先生に保護されていた。靴を咥えて歩いているところに、先生が鉢合わせしたらしい。他の教師に見付かると処分されかねないと思った先生は、昼休憩に自宅に連れ帰ったそうだ。
先生の自宅はペット禁止のマンションなので、今は彼女の実家で暮らしている。先生は子供を亡くしているため、タカヨシは孫の代わりとして先生のご両親に可愛がられているらしい。
だからあの日の昼からタカヨシの姿を見なかったのか、とぼくは納得した。赤松は少し寂しそうだったが、処分の可能性がなくなり、ほっとしているのも確かだった。
「昨日ね、出版社に届いてたファンレターを貰ったんだ」
赤松は突っ伏したまま言った。
「ふーん。良かったじゃん」
それの何処に落ち込む要素があるのだろう。そう思いつつ、購買で買ったやきそばパンを取り出して、口に入れる。
「そのこと自体はね」
「何か悪いことでも書いてあったの? 面白くないとか下手くそとか」
「そういうことは書かれてなかったんだけど・・・・・・」
ファンレターの内容は、むしろ反対に良いことが多かったようだ。ストーカーじみたものや脅迫めいたものも、特になかったらしい。
「わたしの作品が好きだから、わたしのことも大好きですって。きっと素敵な人なんでしょうね、みたいなことを書いてくれてる人がいて」
「良かったじゃん」
やきそばが落ちないように苦心しながらパンを頬張る。
社交性に欠けているとしても、得意なことを見つけて今からその道で活動を始め、そこまで書いてくれるファンがいて、なんでこいつは自分に自信が持てないのだろう。
「うん、最初はすごく嬉しかった。でも、その人が実際のわたしを見たらって思うと憂鬱になってきて。こんな人間が書いてるって知ったら、きっと幻滅するよ。それに、あんなもの書いてることが学校の人達に知れたら、今以上に気持ち悪がられるよ」
赤松は、杉本や田口にも小説で稼いでいることは言っていないようだった。たしかに小説などに没頭している人間より、お洒落やゲーム、スポーツなどに熱中している方が普通に見える年代だ。どうやら赤松は、自分の副業が余計に自分を暗く見せるのではないかと懸念しているらしい。
それが言えてこその友達ではないかとも思うが、ぼくには人のことは言えない。ぼくだって、中学時代のことを彼女に話す気はないのだから。ただ、ぼくのは過去だが彼女のは現在進行形なのだ。深く付き合おうとするなら、隠し通すことは無理だろう。
しかしあの日、赤松が杉本に対して言った言葉には、彼女の成長を見た気がした。
本当の杉本さんも演技の杉本さんも、わたしは好きだよ。
ぼくが相手でも、彼女は同じように言ってくれるだろうか。
「俺は嫌いじゃないけど。そうやってうじうじ悩んでる赤松も、変な話考えて本なんか出してる赤松も」
ぼくは彼女の方を見ないように、窓辺に立って言った。梅雨は明けたというのに、空は今日も曇天だ。
「・・・・・・ありがとう」
赤松がぽつんと言う。雲が流れて、晴れ間が広がっていくような声だった。
ぼくはそっぽを向いていたが、彼女の顔がほころぶのを、目の端に見た。その疑いを一片も含まない、子供のように邪気のない笑顔に、ぼくは思う。
今までぼくは、赤松の見かけによらない強さや、将来を見据えた行動力に惹かれているのだと思っていた。
しかし、本当にぼくを惹き付けて止まないのは、彼女のこういうところかもしれない。
あんな表情はぼくにはできない。
まだ彼女に何の感情も持っていなかった頃、好きな奴はいないのかと訊いてみたことがある。彼女の答えはこうだった。
みんなから疎まれてるのが分かるのに、自分を嫌ってる人間を好きになれると思う? 少なくとも私には無理だよ。
少し自意識過剰だと思ったが、ぼくも同じような理由から他人にほとんど興味を持たなくなっていたので、なんとなく納得した。
それでも、赤松は人間を嫌うことをしない。人にどんな陰口をたたかれようと、どんな仕打ちを受けようと、人間に希望を持ち続けている。
赤松だって無条件に人を信じているわけではない。さすがにそんなことはできなくなっている。でも、人を信じようとすることをやめないのだ。
ぼくがいじめから立ち直るために切り捨てた全ての感情を、彼女は後生大事に抱えている。そのせいで苦しむことが分かっていても、絶対に手放そうとはしない。まるでそれが宝物ででもあるかのように。
ぼくにとってもそうだったのかもしれない。捨てたモノに未練はないし、後悔もしていない。他人はそんなぼくを冷たいとか可哀相と言うかもしれないが、それで随分楽になったのは事実なのだ。しかし、ぼくも本当は、それらの感情を捨てたくはなかったのかもしれない。
そして、彼女の中で暖かい光を放つ自分にはなくなってしまった何かに、ぼくは惹かれているのかもしれない。
赤松を見ていると、猜疑心や疑心暗鬼が薄らいでいくような気がする。そして、自分の中にも優しい感情が戻ってくるような気がするのだ。人が美しいと形容する、やっかいだけれど暖かい気持ちが。
「それにしても、変な話を考えてるってよく分かったね。わたしの話読んだことないのに」
赤松が感心したようにぼくを見た。
「読んだよ」
最初の三ページだけだけど。
「そういえば、あの宝物がテーマとかって話はどうなったの?」
突っ込まれないように、ぼくは話題を逸らせた。
「あれ。うん。だいぶ固まったよ。編集者の人がいいって言ってくれるかどうかは分からないけど」
赤松は複雑な表情を浮かべた。ぼくは窓の桟に腰掛け、今度はカレーパンを取り出した。
「どんな話?」
「今は言わない方がいいと思う」
「どうして? いいじゃん。俺、昔の宝物まで話したんだからさ。テーマの宝物が何かだけでも教えてよ」
あんな言い方をされると、本当に聞きたくなる。ぼくは食い下がった。
「後にした方がいいよ」
「今聞きたい」
「後悔するよ」
「しない」
「本当に?」
ぼくは頷いた。
「じゃあ言うけど・・・・・・。飼い犬をすごく可愛がってた男の子の話なんだけど、ある日、散歩の途中で犬が事故で死んじゃうんだ」
「うんうん」
ぼくはカレーパンを一口かじった。中から茶色いカレーがおいしそうな匂いとともに現れる。
「それで男の子は、その犬の最後の糞を宝物にして持ち歩くことにする。つまり、宝物は犬の・・・・・・」
「げぇーっ。カレーパン食ってる時に言うなよ」
たちまち今口に入れたドロっとした物体が、犬のそれに思えてきた。かりんとうよりは似ていない気もするが、そういう問題ではない。
「だから後でって言ったのに・・・・・・」
「犬の糞持ち歩くなんて変人じゃねーか」
「あ、よく分かったね。本当のテーマは『変人の宝物』なんだ。良かった。ちゃんと変人に思えるんだ」
全然良くない。ぼくはカレーパンの残りを食べるのが嫌になってきた。意外と繊細なのだ。
「ちょっと待て。何で『変人の』は黙ってたんだ?」
「だって、そう言ったら、宝物教えてくれないと思ったから」
「当たり前だ。それじゃあまるで、俺が変人みたいじゃん」
赤松はすまなそうに首をすくめた。
「・・・・・・だって、他に聞く人いなかったんだもん」
それより、やっぱり糞をコルクの蓋の小瓶に入れてたんじゃ臭うかなぁ。あの星の砂が入ってるような瓶なんだけど。ジップロックとどっちがいいと思う?
気を取り直したようにそんなことを言う赤松を見て、こんなことを考えている奴に惚れている自分は、やっぱり変人なのかもしれないと思う、今日この頃である。
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つづく
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