Nonsense Story

Nonsense Story


 プロローグ


 夏の記憶は、白いワンピースの女だ。
 白い手を篤史の頬に当て、彼女は言う。

 ねぇ、あなたのパパを、私にくれない?


 そのアパートは、篤史の家から鈍行電車で約二時間の街にあった。一昔前のサスペンスドラマではないのだから、日本海の荒波をのぞむ寂れた漁師町に行ってくれとは言わないが、まがりなりにも駆け落ちしたのだから、もう少し遠くに住んでいるものと思っていた。まさか県内の、しかも県庁所在地で都会暮らしを営んでいようとは。
「もう来てくれないだろうと思ってた。あの人も、きっと喜んでると思うわ」
 小さなアパートの一室。畳に膝をつき、冷えた麦茶を氷の入ったグラスに注ぎながら、女が微笑む。
 この女は歳を取っていないのだろうか。
 片岡篤史は、白石久美子と名乗る女を横目で見ながら考える。
 最後に会ってから十年以上は経っている。もう四十は軽く超えているはずだ。それでも彼女は昔のまま、若々しい風貌を保っている。
 彼女は黒いワンピースを身に纏い、ゆるくウェーブのかかった髪をこれまた黒いバレッタで一つに束ねていた。薄っすらと化粧を施した白い肌は、夜店の水風船のようにピンとした張りがある。同じ白い肌でも、病床に臥していた母の肌とは明らかに違う。しかし、同じように生を希薄に感じる程の白。
 一体何を食べて生きているのだろう。霞を食べて生きているのだと言われても、篤史はさして驚かないような気がした。現在は勤めも辞めているというが、勤めに出ていたこと自体が不思議に思える。どこか生活感に欠けるのだ、この女は。
「妹さんは・・・・・・?」
 黙ったまま正座をしている篤史に、遠慮がちに女が訊いた。
「来ません。父が家を出た時、妹はまだ二歳でした。父の顔も覚えていないと思います」
「そう」
 女はわずかに残念そうにそう呟くと、篤史の向かいに置かれている箪笥の上へ目を向けた。そこには、篤史の記憶よりも明らかに老けた父の顔があった。
 扇風機が大儀そうに首を振っている。篤史は差し出された麦茶を、一口だけ口に含んだ。
 祖母から父の訃報を知らせる葉書を見せられたのは、もう何ヶ月も前のことだ。その時、篤史も妹の明代も、父に手を合わせになど行かないと言った。事実、そのつもりだった。
 しかし篤史は、後日その葉書が屑籠に捨てられているのが目に入るといつの間にか手に取り、誰にも見付からないように自室へ持ち帰っていた。それから何度も捨てようとしたが、その試みが成功したことはなく、彼の心の中には、いつも葉書の存在があった。その存在感は篤史の中でどんどん大きくなり、生活を脅かすのではないかと思うほど、彼の心を侵食していった。
 そして今、父を奪っていった女とこうして向かい合って座っている。
「あなた、お父さんに似てきたわね。目の辺りなんて、本当にそっくり。眼鏡取ればいいのに」
 女が篤史の顔に手を伸ばし、縁なし眼鏡に触れようとした。篤史は少しだけ身を引いて、彼女の手から逃れた。
「父は、幸せだったんでしょうか」
 愛しそうに自分を見つめる女の顔を見て、篤史は何故かそんなことを口にしていた。
「もちろん。私も彼もとても幸せだったわ」
 女は遺影に視線を移し、恍惚とした表情を浮かべている。父との蜜月でも思い出しているのだろうか。
「ねぇ、もう一度、私に会ってくれない?」
 また篤史に視線を戻すと、彼女は楽しげに身を乗り出してきた。
 篤史は眉間に皺を寄せた。女はそれを見ると、身を引いて頭をたれた。
「・・・・・・そうよね。死んだ父親の愛人とデートなんて、したくないわよね」
「父は死ぬ時、何を考えていたんでしょう」
「・・・・・・私のことよ。だって彼、最期に言ったもの。『お前に会えて良かった』って」
 篤史は、今の言葉で自分がショックを受けているかどうか考えてみたが、よく分からなかった。
 父が家を出てから今まで、自分にはもとから父親などいなかったと思って生きてきたし、それで特別不都合を感じたこともなかった。ただ、あれから自分がこの女ほど幸せに暮らしてきたとは到底思えない。
 父は自分達に対してどんな感情を抱いていたのだろう。きれいさっぱり清算したつもりだったのだろうか。
「部屋を見せてもらってもいいですか?」
 篤史はそう言うと、相手の返事を待たずに立ち上がった。久美子は篤史の好きにさせようと思っていたのか、何も言わなかった。
 狭いアパートには、まだ父の存在が色濃く残っていた。玄関には男物の革靴があり、洗面所には歯ブラシが二本立てられている。寝室の壁にはくたびれた作業着がハンガーに掛けて吊るされていたし、食器乾燥機には男物の茶碗と箸が入れられたままだった。彼女は父が死んでからも、彼が居た頃と何一つ変化させずに暮らしているようだった。変わったのは、和室の箪笥の上に父の遺影と位牌が置かれたことくらいか。
 キッチンのテーブルには、父の名前の書かれた薬袋が無造作に置かれていた。その横には、彼女の名前の入った薬袋もある。二人の苗字は違っていた。
「父は糖尿だったんですか」
 『経口糖尿病薬』と書かれた袋を手に取り、訊くともなく篤史は呟いた。死因は病気ではなく、仕事中の事故ということだった。
「そうよ」
 久美子は答えると、咳込みながらこちらへやって来た。
「大丈夫ですか?」
 思わず言ってしまってから、篤史は激しく後悔した。何故自分がこの女を心配するような発言をしなければならないのか。
「ありがとう。大丈夫よ。ただの副作用だから」
「副作用?」
「ええ。たぶん常用してる薬のせいだと思うわ。こういう症状が出る人がいるのよ。変えてもらったほうが良さそうね」
 よほど篤史が怪訝な表情をしていたのか、久美子は、ただの生活習慣病よ、と弁解するように笑った。それから、ゆっくりしててと言い残し、トイレの中へ消えていった。
 彼女の薬袋には、睡眠薬が入っているものもあった。溜めているのか使う必要がないのに貰っているだけなのか、不眠時と書かれた頓服の袋は大量に転がっていた。
 これを全部飲めば、直接父に訊くことができるだろうか。どういうつもりで、何を考えながら生きていたのかと。
 知らず知らずのうちに、彼は薬袋を握り締めていた。
 しばらくして篤史は和室へ戻った。生温い空気を扇風機がかき回すだけの部屋では、麦茶の入ったグラスが汗を掻いており、テーブルに小さな水溜りを作っていた。
「いいですよ、もう一度会っても。観たい映画があるんです。俺の住んでる近辺では公開されないようなマイナーな映画。この街なら公開されているはずです。二週間後くらいにどうですか」
 彼らの愛の巣を出る時、篤史はそう提案していた。


つづく



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