海洋冒険小説の家

海洋冒険小説の家

  (2)

(2)
 船上では、三十人の、少年水夫(かこ)たちを、二班に分け、一班の少年たちに船の速度の計りかたや、位置の測定の仕方などを船頭が教えており、他の班の少年のグループでは、脇船頭が、付いて帆の張り方や、括(くくり)り方、舵取りなどを教えている。
 「もう一度説明するでぇ、これで最後や。よう聞いといてや」
 船頭は、少年たち一人一人の眼を見て、話に集中させた。このような光景が最近では毎日見られるようになった。六ヶ月の航海で、少年たちも船に慣れ、また、船頭たちにも時間的余裕が出来てきたので、色々な事を教えることにしたのだった。少年たちの真剣な表情を見るのは気持ちの良いものだ。助左衛門は、笑顔で少年たちを眺めた。自分にも、あの少年水夫の時代があったのだ。
 大柱の見張り台から大きな声が飛んできた。
 「前方左に船はっけーん」
 け、をのばして発音した。
 助左衛門は、日頃の習慣からなにげなく遠眼鏡を右眼にあてがって左舷の方、北の方角を見た。船頭たちも、教えるのを止めて左舷前方を、見た。南海丸は北東に進路をとっている。助左衛門の遠眼鏡をとおして、うっすらと帆が見えた。ジャンクだ。このまま真っ直ぐ走っておればいずれはっきりするだろう。この南海丸は帆柱は三本、大柱(メインマスト)の長さは十四丈(約42m)あり、その先端には船旗がひるがえっている。そしてポルトガル船のように三段の横帆で、帆は綿布で出来ており、縦帆をいくつも張り増せるようにしてある。いまは十八片の帆を張って快速で飛ばしているのだ。
 また見張り台から新しい報せが届いた。
 「旗印(はたじるし)は黒旗でぇーす」
 なんだと、黒旗だって?。 船内に一瞬、どよめきと緊張が交差してはしった。
 助左衛門は間髪をいれず、
 「戦闘準備に入れ」
 「赤の長旗をあげろ」
 次々と命令を下した。赤い旗は戦う意志を表したしるしである。横に長い三角形の長旗で、戦うときはいつもこの旗を掲げる。侍大将、組頭から船足軽たちに次々と下知がとんだ。船頭からも水夫(かこ)たちに、指示が下された。船の上は一時大変な騒動になったが、それぞれが持ち場に付き、小半時(約30分)ですっかり戦闘準備が整った。足軽たちと船頭、助左衛門は甲(よろい)は胴具足だけで冑(かぶと)はしていない。揺れる船の上では、重装備していては動けないのだ。船の戦では敏捷さが要求される。あとは、刀を一本腰に差し、大砲に取り付くか、鉄砲を持つか、弓か槍を持つかだ。水夫たちは船を動かすことが仕事だから脇差か手鉤(てかぎ)を腰に差す位で甲冑は身につけない。
 甲板に海水と砂がまかれ、火矢に対する備えとして、海草で編んだむしろの束に海水をかけ(火矢に対して楯にしたり、火にかぶせて消すためのもの)、種子島銃と大砲の火縄に火がつけられ、火薬と弾が込められた。大砲一挺に四名がつき、小頭がおり、両舷に一名づつ大砲組頭、また同じように二十名づつ鉄砲隊や弓隊、槍隊も組織されてトップに組頭がいた。全体の足軽の上に侍大将がいる。陸(おか)の上では、鉄砲隊といっても数百名もいるので、そのトップは鉄砲足軽大将なのだが、船の上では小人数なので、組頭がトップになる。そして、一軍の指揮官が侍大将である。水夫の上にも各帆柱ごとに組頭がいて、水夫頭、舵取り、脇船頭、船頭といて、船全体の全軍の司令官、即ち陸で言う総大将が船主・船長(ふなおさ)である甲比丹(カピタン)助左衛門なのだ。瀬戸内の沿岸航行の船では、船主で船頭を直乗船頭(じきのりせんどう)などと言うが、外洋航行の船では船長(ふなおさ)と呼んで、格の違いを誇っていた。助左衛門の操船、海戦指揮には、南海丸の船乗りは全幅の信頼をよせている。
 「カピタンにしたがっておれば、船戦(ふないくさ)に負けることはない」
 二層目の大砲甲板では、すでに大砲は砲門が開けられて突き出されていた。右舷大砲組頭の吉野東風斎、左舷大砲組頭の比叡山の生き残りの荒法師・六角坊玄海は静かに、しかし闘志を秘めて、前方を見ている。船戦では、大砲は別にして、鉄砲は弓に助けられ、弓は槍に救われるとして、この三者ががっちり組んでこそ力を発揮するとされてきた通り、それぞれの位置についている。
 若い船長付きの足軽、百済(くだら)の三郎に鎧を着けてもらっている間も、助左衛門の頭脳は凄い速さで回転していた。大湾の東側、琉球諸島の西にあたるこの海域は、以前、海戦のあったところだ。十七年前、永禄五年(南蛮歴1562年)に福建州の府城・興化城を、倭寇の大頭目・王直の一党が、一か月に及ぶ攻囲戦で陥れた。その後、危機感をつのらせた明国は将・戚継光らの大軍船団を遣わし、平海の大海戦で王直の党を打ち破った。そのときの斬首二千二百余級(しるし)と聞く。この敗北以来、この海域に海賊が出たことはない。平海とは、いま南海丸のいる海域ではないかと助左衛門は考えている。大湾、琉球の東に広がる途方も無く広い海域で、小さい島以外、ただ、大海原が広がっている。
                         (続く)


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